鮭汗
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
人はなぜ汗を流すのだろう?
哺乳類には汗腺があり、種によって汗をかく量に差があるようだ。馬やサルはよく汗をかくけれども、人間はその中でも指折りの発汗量だという。
果たす役割は様々で、体温調節のほか、むくみを予防したり、体内の排泄物を出す一助になったりと、生きるうえで続けなくてはいけないシステムに組み込まれている。
そして、身体の外に出るものというのは、健康状態をはかるバロメーターにもなっているな。
汗もたいていしょっぱいものだが、その味、その臭いにも、個体ごとの状態が反映されるそうなんだ。
先生自身、汗をめぐって少し妙な体験をすることがあってね。そのときのこと、聞いてみないか?
あれはまだ、先生が実家暮らしをしていたときのこと。
ある朝に目覚めてみると、まず先生の鼻をついたのは塩鮭に似た香りだった。
塩そのものは、臭いのうつりやすいもの。ひょっとしたら、母が朝ご飯の用意をもうしてくれているのかとも思ったが、時刻はまだ午前4時半。
先生の家では、本格的な活動開始までもう一時間程度は余裕のある時間帯だ。事実、階下の台所からは、まだ炊事の気配はしてこない。
あり得るとしたら、誰かがトイレに起き出す気配くらいで、塩鮭が臭うべき環境ではないはずなんだ。
もう少し眠れるな、と思って目こそ閉じ直したものの、臭いの源も気になる。すんすん、と嗅ぐことは続けていたよ。
布団から出ても、もぐっても臭いはさして弱まりはしない。外部から入り込んでくるスメルだったら、よっぽどのことがない限り、これほどにはならないだろう。
ならば、内側からだ。ちょうど、先生の身体から臭ってきていると考えれば……。
汗。
目を閉じたまま、先生は自分のパジャマの袖を引き寄せてみる。
臭い。思わず、顔に力が入ってしまった。
生臭さを覚悟していたのが、すっかり焼きの入ったときのあの香りだったから、不快感より違和感が勝る気持ち悪さだったねえ。
パジャマを半脱ぎし、じかに肌へ触れてみると、じんわりと指先へ水気が。その爪の間へたっぷりと焼鮭の臭いがまとわりついてきた。
これまでにない汗のかき方に、正直、先生はビビりまくりだったよ。
朝っぱらからシャワーを浴びるというレアケースも、おそらくこの時にはじめて経験した。
ひとまず朝をやり過ごしたものの、学校へ行き、自由なタイミングで身体を洗えなくなる場所は問題になる。
やはり、塩鮭の臭いはぷんぷんと鼻をついてきた。体育の着替えのときは特に目立ち、周囲の男子がじろじろ見てくるばかりか、臭い消しや制汗スプレーなどを四方から砲撃してくる始末。
むしろスプレーのかもす香りのほうに、頭が痛くなってくるほどの集中砲火だったが、それもいっときの夢。
体育が終わるころには、新たに生成された汗たちが、自分たちをおさえつけ、ごまかしにかかっていた連中に打ち勝ち、またも魚の臭いを漂わせ始める。
服を着てしまえばさほどの広がりは見せないものの、やはり近くの席の人には悟られてしまう。
これはどうしたものかと、先生もみんなに知恵を借りようと思ったさ。
意見はいろいろ出たんだが、最終的には出すもの、全部出したほうがよくね? という判断になる。
排泄物は過度に出さないでいると、身体によくない。そのことは便秘を代表として、多くが物語ってくれている。
ならば押さえつけず、かえってすべてを出し切ってしまい、身体の状態をリセットしたほうがいいのでは……と。
素人判断で、他に有効そうな手が思いつくわけでもなし。そうと決まると、先生は帰り際にまっすぐ家へ帰らず、遠回りに遠回りを重ねたランニングを敢行する。
走ることは苦手じゃない先生だが、この日はやたらと日差しが強い。10分と走らないうちに、早くも頬を汗が伝うのを感じた。
背中も流れた汗のせいか、ときどきゾワゾワと毛が逆立つんじゃないか、と思うほどの冷えが、たびたび襲ってきた。胸もじっとり濡れている。
少なくとも10キロ以上は走ったはずだ。頭もくらくらしてくるし、塩鮭の臭いはなお増してくる。
身体にいい汗は無臭だと聞くものの、今日この時に限っては、先生はとんでもない不調の様子だ。
ふらふらと歩みを緩めたところで、ちょうど左手に公園。敷地内のほど近いところにベンチ。ふああ、とつい漏らしてしまうあくび。
ちょっと横になるかなあ、といざなわれるまま、先生はベンチにごろりと横になるや、疲れもあって、ほどなくうとうとし始めてしまったんだ……。
突然、胸をぐっと強く押さえられて、先生は意識を取り戻す。
重い。単純な痛みを通り越し、身体の内側の臓器ごと丸潰しにかかっているかのようだった。
鼻に痛みが集まってくるくらい息が詰まって、声が出せない。手足も突っ張ってしまって、まともに動かせない。
重圧をかけているとおぼしいのは、先生の身体へ覆いかぶさっている黒い影。
ドーベルマンを思わせる体躯だが、その姿にはあまりにぼうぼうとした長い毛が生えすぎている。はために、超巨大なたわしか何かに見えなくもないかもしれない。
でも、たわしでないのはすぐ分かった。
影はぐっと先生の胸元へ鼻先を押し付けるや、一息にビリリと服をちぎり取ったんだ。
さらけ出された先生の胸には目もくれず。まるでそっぽを向くように顔を横に向け、いかにも旨そうに、ちぎり取った服の生地をそしゃくしている。
ヤツの口が動くたび、あの塩鮭の臭いもまた、たっぷりと先生の鼻へ注ぎ込まれてきた。
一度、ヤツを跳ねのけようと力を入れかけてみたが、すぐにぐっと重さをかけ返される。
あわや、腹の中身を戻してしまうかと思うほどの強烈さ。その気になれば、先生の腹をぶち抜くなど、こいつにとっては造作もない……そう感じるに、十分な気配だったよ。
生殺与奪を握られ、先生はヤツのされるがままになるよりない。
黒いヤツは、生地を食べ終わるや、また先生の身体へ鼻を押し付け、服の生地を片っ端からちぎれとっていく。
いずれも、先生のかいた汗が大量ににじんだところばかりだ。そしてヤツがかじるたび、あまさず漏れる塩鮭の臭い。
――こいつにとって、臭いこそが塩鮭の代わりなのか!
人の食う飯のそれであるように、ヤツは臭いを放つ源ごと食していくのだと思った。
この奇妙な時間、すっぽんぽんで済むなら安いものだ……とわずかに安堵する先生だったけど、問題は両腕。
ヤツが鼻を寄せるまでは、これまでの服たちと変わらない。だが、わずかにくっつけられたのち、そいつは音を立てて一気にはがしたんだ。
先生の両腕の皮膚をね。
日焼けの皮をむくより、もう少し深く。かといって、血まみれになるよりは浅く。
真皮か、皮下組織か、細かいことは分からない。
ただ普段は深く眠っているそれが、突然さらされる外気に驚き、つい顔をしかめて身をよじりたくなるような、強い痛みを発し始めたんだ。
暴れかける僕へまたも強く、ヤツの重さがのしかかる。はっきりと、骨のきしみが聞こえた。
ヤツは先生からきれいにはがした皮もまた、うまそうにむしゃむしゃとそしゃくしきると、ぴょんと身体の上から退き、たちまち公園の外へ駆け去って行ってしまったんだ。
自由のきくようになった先生だが、あられもない格好とたっぷり皮をはがされた両腕の痛みを伴っては、とても追いかける気力はない。
新たに皮が張るまで、涙目になりがちな日々を送ることになった。奇妙な体験は、クラスメートの知るところとなるも、汗をかいといて良かったんじゃないか、とも指摘されたな。
もし、汗をろくにかかず身体の内側にしまい込んだままなら、ヤツは汗のしみこむ皮をたやすくはがしたときのように、先生の身体の内側もたやすく食い破り、むさぼっていたのではないか、とね。