第八話 この私が書いたのよ
(本当、もう、何? 私は死んだあの時とは違う世界の過去に戻ったとでもいうのかしら?)
午後の授業の最中。エリザベスは何事もないかのように表情を整えて背筋を伸ばして教師の話を聞く。
もっとも彼女にとってはそんな教師の話など聞く意味もなく、そして事実聞いてもいない。
「この世界における属性は八つと考えられています。では……三列目、右から三番目の貴方、その内訳は」
教師が一人の生徒を指名する。列を挟んでエリザベスの斜め前、いかにも真面目さを醸し出した男子が、立ち上がり答える。
「赤の炎、青の水、緑の風、空の氷、黄の土、紫の木、白の光、黒の闇、です」
「よろしい」
黒板に向き直り、教師はかつかつと白墨を鳴らす。
円が重なるように描かれた図形は、この世界の魔力を考察する際に必ず使われる系統図だ。
「炎、水、風は基礎属性と呼ばれ、大抵の人間はここに分類されます。そこから更に繋がるのが、氷土木の発展属性。そして残りが光と闇、特異属性です。皆さんはもう自身の持つ属性は把握しているでしょう。入学前に試験も兼ねて受けていますね、そう、あの水晶玉による判別です」
授業は基礎魔術概論。当然、三年間の学業を終えたエリザベスにとってはその初歩の初歩でもあり、あくびが出るほど簡単で退屈なものだ。
「アリス・ハートさん」
「…………」
「アリス、ハート、さん」
「はい!?」
そして、聞いていなかったのもあり、そしてアリスと自身が呼ばれていることを忘れていたこともあり、返事が遅れる。
教員に向けて返した返事が、エリザベスがいつもは上げない声に変わった。
「ぼーっとしててはいけません。それとも何ですか? 私の授業はそんなに退屈ですか?」
「い、いえ」
「聞いていたなら答えなさい。光属性と闇属性が特異と呼ばれる理由は?」
「…………その属性を持っている人間が、極端に少ないからです」
「……よろしい」
嫌みを重ねようとし、しかしやめて教師はまた黒板を向く。
「光属性、もしくは闇属性を持って生まれてくる人間はほとんどいません。また、持っている人間にも扱いが難しい魔力といわれています。それは本来特異属性自体が、聖獣や妖魔と呼ばれる存在が使う属性だからという説もありますね」
教師が白墨で黒板を叩き、説明を加える。
その度に、いくつかの視線がエリザベスをちらちらと向く。その理由は明白だった。
「しかし、扱うことさえ出来れば、その効果は人の範疇を大きく逸脱するといわれています。光属性はあらゆる魔を寄せ付けぬ結界を張り、人の心を清浄に保ち、死すらもはね除ける癒やしの術となる。そういうものを持っているからといって、増長し、教師の話を聞かない者も出てくるようですが」
その数少ない光の魔力を持っている一人が、ここにいる『アリス・ハート』だからだ。
「闇属性も同様でしょうか。あらゆるものごとを抱き取り、人の心を蝕み、存在そのものに死を与えることすらもある強大なもの。二十数年前、北にある大陸一つが、闇属性の魔術師が関わる決闘事件の影響で未だに人の住めない土地に変貌したのがいい例ですね」
光と闇の魔力は、共に人の精神に働きかけることが出来る希有な属性。
もっとも、それが他の属性でも出来ないわけではない。ただ、効率が段違いなだけだ。
しかしともかくとして、そんな希有な光の属性を纏っていたからこそ、学力もそこそこ、運動も得意ではなく、家柄も悪いアリス・ハートはこの学園に入学できた。
それも、授業料を全て免除されるという奨学生という身分で。
「最初の授業ではありますし、今日のところは属性の転換と変換までをご説明しましょう。まずは身体内部の魔力の巡る経絡について……」
その奨学生という身分を妬まれ、一年の最初期は『アリス・ハート』も三組以下の面々からの軽い嫌がらせがあったはずだ、とエリザベスは思い出す。
『アリス・ハート』を嫌っていたエリザベスからすれば意外なことに、一組や二組の者たちが彼女に直接手を出すことは少なかった。
理由は簡単。その嫌がらせの理由が、授業料免除と成績度外視への妬みからだからだ。
一組二組の面々は、多くが実家が貴族の者だ。彼らは生まれつき持つ者であり、授業料の免除程度ならば羨むことはない。家が出すか学園が出すか、その違いでしかない。更に子供の頃から優秀だった彼らにとっては、入学のための勉学は子供の頃からの続きというだけだ。
しかし三組以下はそうではない。
親から強いられて勉学に励み、この学園の高額な学費をどこかで工面して貰っている。
入学のための勉強が不必要だった。学業維持のための学費の工面の苦労がない。それも、貧民街の貧乏人の小娘が。
要は、羨ましいのだ。
自分がしてきた苦労を、この『アリス・ハート』はしていないと思い込んでいる。
(馬鹿げていますわね。魔力が光というだけでこの学園でやっていけるわけがありませんわ)
エリザベスはペンを持った手で頬杖をつく。その視線の先には、手元のノート。
彼女にとって、基礎魔術概論などノートを取るまでもないごく簡単なもの。一年次程度のものであれば、勉強も無しに定期テストで満点を取ることも可能だろう。
故にこの授業も真面目に受ける気はなく、そこに記されている文章は、彼女が即興で考えたいくつもの文例だ。
(『おはようございます、よく眠れました?』……少し馴れ馴れしいわね。もう少し真面目な方が……)
最初は時候の挨拶から、と思ったが、そんなもの『日記』にはそぐわないし、そんな格式張った物言いも事態を複雑にするだけだろう。
そう感じ、ありえないものからパンで擦って消していく。
彼女が考えているのは、『アリス・ハート』への挨拶文だ。
(『これを読んだら、貴方はすぐに学校へ行く準備を始めなさい』。これでは命令よ。あのアリス・ハートが聞くわけがないわ)
彼女の目下の問題。それは、明日の朝にはまた『アリス・ハート』との意識の交代が起きるであろうということだ。
そこで叫ばれ、暴れられても困る。今のこの身体はエリザベスのものでもあり、彼女の行動で自分の待遇が悪くなることも避けたい。
誰かに協力を頼み、彼女への説明をして貰う、などは論外だった。このようなこと、誰にも話せるものではない。
彼女がこの身体を使っているとき、エリザベスにはその間の自由はない。ならば、自分で何かをするわけにはいかない。
ならば、手っ取り早い方法は、エリザベスから『アリス・ハート』へと伝言を作ること。
それも外部には伝わらず、彼女も他に見せることを憚られる方法で。
(身体に刻むのはさすがにやり過ぎですからね)
最初は、胸や腹など、人に見せられない場所に魔法で刻み込んでおくことも考えた。
しかし、アリス・ハートに胸や腹などを自身で見る習慣がなければ伝言の発見は遅れる。その上、その魔法痕を精査されてしまえば、第三者にエリザベスの関与が疑われてしまう。
そこで思い出したのが彼女の日記だ。人に見せることは憚られるプライベート。彼女も混乱しながらも、習慣のように懸命に記そうとしてたもの。
(しかしまあ面倒くさいこと! レオへの恋文ならいくらでも書けるってのに!!)
日記を伝言の手段として使う。彼女にとりあえずの説明をし、取り繕わせる。それしかない、とエリザベスには他の方法が浮かばなかった。
それでもエリザベスは内心嘆く。
婚約者であるレオナルド以外と、文通などを彼女はしたことがない。
しかし今回アリス・ハートが見るのは、顔を合わせたこともない……はずの者からの手紙。もちろんそこにエリザベスは自分の名前を記すことは出来ない。それが更にその手紙の不審さを際立たせ、文面にも悩む。
更に言えば、贈る相手は大嫌いな女。文章の一つを考えるのも面倒で、吐き気がする。
(ええと、まずしてほしいのは、髪と肌の手入れと……じゃなくて、そう、クラスメイトとの付き合いね。彼女がいなかった日、私が出ていた日に会った人とその会話を……)
箇条書きのように、エリザベスは自身が身体を使っていた際にしたこと、話したことを書き連ねていく。それを更にアリス・ハートが読みやすいように直し……。
(ああもう面倒くさい!! ジェイクのこともあるってのに!!)
目下の問題は交代の問題。しかし、考えるべきことはそれだけではない。
ジェイク・ウィルソンの裏の顔……とエリザベスは断定してしまっているが、その彼との付き合いに関しての話だ。
エリザベスをどこかの勢力の密偵、または工作員と勘違いをしていった彼。
その間違いを解くには秘密を明かさなければならないし、そもそも明かせるものでもない。
昼休みが終わった後には授業もあり彼と顔を合わせることもないが、それでも次に顔を合わせたときには。
特に、レオナルドと顔を合わせたときには大抵の場合彼は近くにいる。そうなれば、彼はレオナルドと付き合う上での障害になる。
(好都合っていったら好都合……でもないのよね。最悪私がこのまま消されてしまいますわ)
彼がいれば、『アリス・ハート』がレオナルドと仲を深めることもないのかもしれない。しかし、そのアリス・ハートの身体を使っているのは本人だけではなくエリザベスも、なのだ。
あの昼休みの態度では、もしも『アリス・ハート』の行動がまずかった場合、最悪の場合ではエリザベスもろとも殺されてしまう恐れがある。
それを防ぐためにも……。
(……まずは! 『アリス・ハート』の行動を何とかしなければ! ああ忌々しい、けどまずは私の命の問題ですわ!!)
そのために、『アリス・ハート』への伝言の内容は気をつけなければならない。
(ちゃんと読んでちょうだい! この私が書いたのよ、読まないで騒ぐなんて許しませんわ!!)
使用人に対して顎で指示するように、いつものように出来たらどんなに楽だろう。
そう思いつつ、『アリス・ハート』が少しでも読んで、少しでも賢い判断をしてくれることをエリザベスは祈る。
レオナルドへ宛てた手紙のように、読んでもらえて当然、とも思わない。
その自身の心根の変化に、気付かないまま。