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第二話 貧民は大変ね




 は、とエリザベスは目を覚ました。

 最初に感じたのは、冷ややかな空気。そして、肌触りの悪い布。

 見上げた天井は知らないもので、見回した部屋も知らない部屋だ。


 ここはどこだ、と身を起こしてエリザベスは考える。

 窓から差し込んでくる日差しからして、今は朝か夕方らしい。それも日がまだ昇っていないか沈んでいるかの薄暗い中で、目を凝らさなければ辺りが見えないほどの。

 

 ここは病院だろうか。それとも監獄だろうか。

 そう思ったが、どちらもそれらしき雰囲気はない。


 粗末なベッドから足を下ろす。素足にひんやりとした板間が触れて、さらにその板間が痛んだように毛羽立っているのが気に触った。

 妙な臭いもする。煙のような、生臭いような悪臭が、どこからか漂っている気がする。 

 もしや、自分の臭いだろうか。そう思って袖口を嗅いでみたがそうではないらしい。代わりに、嗅ぎ慣れない汗の臭いが鼻についた。


「誰か、誰かいないの?」


 そう問いかけるが、誰も応えない。外から人の気配はするが、それだけだ。

 不審に思い、外の音に耳を澄ませる。

 どうやら使用人たちが仕事の最中らしい。炊事の音と、それから掃除の音。

 

 その誰かに聞けば、ここがどこだかわかるだろうか。

 戸惑いつつもドアの取っ手に手を伸ばす。


 だがそのドアは、彼女が開ける前に向こうから開いた。


「ちょっと! 今日のゴミ捨て当番……ああ、起きてんじゃないか!!」


 出てきたのは、恰幅のいい中年の女性。エプロンに三角巾が似合う。

「ゴミ?」

「そうだよ。あんたねえ、二日目だからって弛んでるんじゃないよ? ええと、アリス・ハートだっけ?」

「……いいえ、私は、エリザベ……」

「早いところ着替えて、ゴミ出し頼んだよ」

 言いかけた言葉を無視され、パタンと扉が閉められる。

 その無礼さにエリザベスは喚きたくなったが、それよりも大事な言葉が聞こえた気がして思いとどまった。


 そっと指先に火を灯す。薄暗い中でも作れる光源だが、何故だか作りづらいと感じた。

 そして先ほど見つけていた姿見を見る。小さく、端に罅が入った粗末なもの。だが全身を写すには充分だ。


「……え……!?」


 そこに写っていた姿に、エリザベスは驚愕する。

 明かりに照らされてそこにいたのは、見知った自分の姿ではない。

 自慢だった金の髪ではない、茶色の髪。短く切られた髪は垢がない程度には綺麗にされているが痛んでいる。

 青い目ではない、緑の目。怜悧さを見せていた目が、大きな丸い目になっていた。

 細くあってほしいところは細く、出ていてほしいところは出ていた自慢の美しい体型も、そこにはない。あるのは小柄で薄い胸、少し膨らんだお腹。


 まさしくそこにいたのは、エリザベスの仇敵。この三年間を嫌がらせに費やした憎い相手。

 アリス・ハートの姿だった。







 目覚めたのは朝だった、というのは同じようにゴミ出しをする当番の女生徒と話している最中に気がついたことだ。

「アリス、大丈夫?」

「ええ」

 アリス、と呼ばれていることにはもう納得がいっていた。理解は出来ないがそうらしい。

 今まさに自分はアリス・ハートで、今はここクロウリー学園の貧民用の寮にいる。

 そこまでは納得がいくが、やはり理解は出来ない。

 何故、ここで私はこうしているのか。自分はエリザベス・ヴァレンタインのはずだ。三年間をクロウリー学園で過ごし、生徒会長まで務め、……そして婚約者に振られて死んだ。


 無意識に腹を擦る。そこに時計の針が食い込んだのを覚えている。

 肉を裂き、背骨を割り、腹から背にかけて貫いたあの大きな傷を。


「ひょっとして……重い?」

「え、いや、そういうわけではなくて……」

 

 腹に手を当てたことを女生徒は心配する。昨日会ったばかりらしい彼女は貧民で、名前をエイダといった。たしかアリスと共にいた姿を何度か見ている気がする。

 そうではない、と一度は否定し、その上でエリザベスは認めた方が良いと気付く。

「そう、そうなの。気分が悪いから、休んでて構いませんこと?」

「何その口調ー。まあ、今日はあたしがやっとくよ。今度代わりにやってね」


 あははー、と笑い女生徒が引き受けるのをこれ幸いとエリザベスは立ち去る。

 その隙にと周囲を見て回るのを忘れず。


 粗末な建物は二階建てで、寮母がいてその世話になれるが、大まかな家事は生徒たちの持ち回りらしい。

 その彼らに挨拶をされるも、返せずにエリザベスはアリスの部屋に戻る。

 それから寝床に潜り込んで現状を把握しようと努めた。



 これは夢。それが一番最初に浮かんだ。こんな状況は荒唐無稽だ。ならば一番それがありそうで、それが一番理に適っている。

 これは夢で、自分はアリス・ハートであるという気がしているだけ。もしかしたら今際の際に見ている夢なのかもしれない。死に至る最中、そんなことを見ているだけかも。

 そう思ったが、それはすぐに否定した。あまりにもリアルすぎる。五感はどれも正常に働いている気がするし、匂いも質感も全てが夢の中のようではない。

 肌に爪を立てれば痛みが走る。がさがさの爪。手入れもされていないような。


 ならば、別の何か。

 もちろん、人が入れ替わるなどあり得ない。エリザベスはそう信じているし、一般的にはそう思われている。

 もしかしたら、自分は本当はアリス・ハートで、エリザベス・ヴァレンタインであるという気がしているだけかもしれない。思い込んでいるだけで。そういう病があるとはエリザベスも聞いたことがあった。自身が偉大な歴史上の人物であると思い込む病があるという。

 だが現実として、自分にはエリザベスとしての記憶がある。エリザベス・ヴァレンタインとして生きてきた十八年間の記憶が確かな実感と共に頭の中にはある。


 そして代わりに、アリス・ハートとしての記憶はない。

 何故自分がここにいるのか、そんな記憶は一切なかった。混乱していて思い出せないというわけでもないだろう。今もなお混乱しているということは否定できないが、それでもなお思い出せないのは事実だった。



 自分についての疑問はつきない。何故自分はここにいて、何故エリザベス・ヴァレンタインとして死んでいないのか。そう考えても答えは出ない。

 もう一つ驚きのことがある。


「……今が、三年前……」

 先ほどエイダに聞いたこと。彼女はアリスが惚けているのかと笑っていたが、姉御ぶった調子で教えてくれた。

 今はエリザベスが入学する二日前。つまり、あの婚約破棄から約三年前の日付なのだ。

 言われてみれば、と姿見を見直しても、確かにそこにいたアリス・ハートの姿は少しだけ幼い気がした。部屋に転がっていた中古の端が破れた教科書は一年用で、三年生のものからすると基礎もいいところだ。


 つまり、事実としての現状を見直せば、簡単なことだ。

 自分は三年前に戻り、アリス・ハートの姿になっている、ということ。


(荒唐無稽だわ。あり得なさすぎる……)

 額に手を当てて、じ、と考えても何故だかはわからない。

 だが、じっとしてるわけにもいかない。時間は何もしないでも過ぎていく。ならば、何かをしなければ。そう思うのが、エリザベスの考えだった。


「でも、今が三年前ならば朗報ね。まだアリス・ハートとレオナルドは出会っていない。このままどうにかして彼との仲を進展させなければ、つまり私は……」


 私は?

 そう呟いて、エリザベスの思考が止まる。

 私。その短い言葉に、二つの意味が宿った気がする。


 つまり私は、これからアリス・ハートとして生きていかなければいけないのだろうか。

 見回しても兎小屋のような狭い部屋。ベッドも調度品も全てが粗末で、何の面白みもないこのような人生を。

 もしかして、戻れないのだろうか。私は私として、またアリス・ハートはアリス・ハートとして。


 そんな不安をかき消すように、もう一つ。


 私はここにいる。なら、もう一人の私。三年前の私はどこに?


 どこにいる、というのは愚問だとエリザベスは思った。当然侯爵家の自宅にいるだろう。入学二日前に何をしていたのかということまでは覚えていないが、ほぼ確実に。

 だが、その『私』が不安なのだ。

 私はここにいる。『アリス・ハート』として今ここにいる。

 ならば、今侯爵家にいるはずの『エリザベス・ヴァレンタイン』、その意識は?


「……会えない、わよね」


 確認しなければいけない。そのために確実なのは、会うことだ。

 しかし会うことは出来ないかもしれない。自分は侯爵家の令嬢。そしてアリス・ハートは単なる貧民の小汚い娘。

 屋敷内に立ち入るどころか、近づくだけで衛士たちが阻むだろう。前もよくあったと思う、自分を売り込みに侯爵家に来る某かが、追い払われていくのを。


 だが会えばわかる。

 細かな記憶だけではない。その仕草や癖は、演技をしようとしてもどうしてもにじみ出てしまう。

 この三年間、目の敵にしてきた相手。悔しいながらも、その仕草は遠目に見てもわかる。


(確実に会えるとしたら、学園に入ってから、かしら)


 クロウリー学園の校則として、身分差をないものとして扱うというものがある。

 王族でも貴族でも、その子弟でも貧民でも、学園内であれば皆が同列というものだ。

 もちろんそれは建前で、忖度も差別も中には存在するが、表だっては出来ない。

 アリス・ハートが、侯爵家の男子と近づいたように。


(私、出歩かなかったかしら、どこかに……)

 そして、それ以外の考えもエリザベスには浮かばない。

 入学直前だ。遠出はしないだろうと思う。おそらく自宅にいるか、もしくはレオナルドのいるアシュフォード家の邸宅にいるか、だろうが。


 あとはそれから、どうするか、という行動に焦点を当てる。


「このままアリス・ハートの形で生きていくとしても、こんな生活はごめんね」


 改めて見回しても、粗末な部屋だ。兎小屋、または鶏小屋、と呼びたいほどの小さな部屋。自宅のトイレでもこれ以上は大きかっただろう。

 思い返す自室は、良い匂いのする香がいつも焚かれ、板の間はワックスが掛かりぴかぴかに磨かれていた。姿見も大きく、絢爛豪華な飾りがつく。


「……しばらくは、アリス・ハートのフリをしていきましょうか」

 

 それが一番賢明だ、とエリザベスは思う。

 このままこの身体で生きていかなければいけないのか、それとも元に戻ることが出来る手段があるのかもわからないが、少なくともこの数日はそうするべきだ。

 何より、仮に『エリザベス・ヴァレンタイン』の身体にアリス・ハートが入っていた時のことが怖い。


 彼女には恨まれている。それこそ、殺されるほど。


 この貧民の身では、彼女に対抗することは出来ない。殺されても文句を言えないほどの権力差がある。

 ならば、アリスのフリをして、少しでも彼女の警戒心を解かなければいけない。彼女の心情を考えても、仮に三年前に戻ってきたのが彼女だけで、彼女の身体には三年前の彼女がいる、ともなればその手も緩むだろう。


 そのための手段はもう考えてあった。

 幸いにも、学園には彼女の知己はほとんどいなかった。数人の入学前からの知り合いの貧民に気をつければ、彼女自身以外に違和感を持たせないことは可能だ。

 その上で、先ほど見つけた一冊の本が力になる。


(日記帳、見つけて良かったわ)


 彼女の日記帳が、教科書と一緒に置いてあった。

 日付は約二年前からほとんど毎日書かれていた。この学園を目指すための、字の勉強も兼ねているのだと最初の日付に記されていた。


 ほとんどが一行か二行かの簡単な文章。けれど、エピソードに加えて彼女の文章があること自体が重要だった。それこそ、彼女の字を真似る必要もあるのだから。


 今日は体調不良で部屋に籠もりたいとエイダには伝えてある。

 これで、ゆっくり読める。


(しかし、貧民は大変ね。文字なんて基礎教養として書けて当然じゃないの)


 エリザベスはアリスの境遇を想像し、ほくそ笑むようにページをめくる。

 結局その日は日記の暗記に務め、暗くなると同時に彼女は眠りについた。




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