第十話 それとこれとは話が別
意外にも、『アリス』は状況の飲み込みは早かった。
『今日のお昼の塩パンは焦げてました』
「そんなことはどうでもいいのよ……!」
エリザベスは日記を見つめて拳を震わせる。
日記を読み返すのは、ここ数日の朝早く起きての習慣だ。
エリザベスはアリスに対し、自分を『今まで貴方の身体の中にいたもう一人の私』というような説明をした。
以前は心の奥底で行動を見守っていたけれども、何故だか今になって身体を使えるようになったのだ、と。
その説明自体に納得したかどうかはわからない。
けれども『アリス』は半ば好意的な文面で、それを受け入れたような素振りを見せていた。
何にせよ、実害がなければ問題はない。
そうエリザベスは思い、そして数日の後にあることに気がつく。
自分も、『アリス』の行動を把握すべきではないだろうか、と。
今までは周囲の人間への聞き取りや推測に頼って彼女の行動を把握してきた。
しかし、本人が何をやったか、どんなことを予定したか、などを知っておくのはエリザベスにとっても重要なことだろう。
『アリス』がエリザベスの一日を知らず混乱するように、こちらも『アリス』の一日を知らないのだから。
そう感じ、エリザベスは『アリス』の側からも情報提供するように頼んだわけなのだが……。
『午後の授業では二回指されたよ。左回りの属性変換が私は苦手で、ちょっとわからなかったから失敗しちゃったみたい』
「ま、まあ、右回りからいきなり法則性が変わりますから、初学者はそこで躓きますからね」
勉強についてなどはいい。前の授業でどこまで進んだのか、などは『アリス』が取ったノートを読めばいいとはいえ、情報としてはあって構わない。
だがエリザベスが我慢ならなかったのは。
『通学路にいる犬が人懐っこくて可愛かったよ。焦げ茶色でね、鼻が黒いの』
「……っっとぉーにどぉーでもいいですわ!!」
思わず大きな声を出しそうになり、エリザベスは堪える。
いや、確かにこれもアリスに成り代わるため、重要な情報なのだ。
だから覚えなければいけない、というのもわかるのだが、エリザベスには我慢ならなかった。
何故心底憎々しい女の日常を知らなければいけないのか。
それが自分の身を守るためと知っていても、それでも鳥肌が立つほどの嫌悪感が身体を襲う。
心底憎々しいと思う女の日常を読み、そして覚えなければいけない。
(んまあ、この程度私の頭脳からすれば余裕ですが、余裕ですがそれとこれとは話が別)
歯を食いしばるようにして、拳で自らの太股を叩きつつその一言一句を暗記していく。
『明日ジェイク君が職場を見てみたいって言うから、午後の仕事先に連れてってあげる約束したからね!!』
「よけいなことをぉ!!」
苛つきにトドメを刺す一言。
隣の部屋にまで響く大きな声。すぐに様子を見に飛んできたエイダに向け、「寝言ですわ」と誤魔化したエリザベス。自分でも、失敗したと思った。
◇
エリザベスにとって退屈な授業を終えて、放課後。
今日の仕事はいつかの喫茶店の掃除だ。その予定を把握しており、そして『アリス』からの情報も得ていたエリザベスは、幾分か落ち着いていた。
「じゃあ行こうか」
「見ても別に楽しくないと思うよ」
いつもはレオナルドの腰巾着をしてたはずのジェイクが、教室を出ると同時にエリザベスに声を掛ける。
もはや驚きはない。ちらりと視線を交わし合い、互いに『ここではない』と了解し合う。
これから行うのは腹の探り合い。
探り合い、というほどのことでもない。半ば一方的なものだ。ジェイクはエリザベスの正体を知りたく思い、そしてエリザベスには明かすほどの正体がない。
エリゼベスの側にはそう痛いこともない腹。ジェイクにとっては探っても面白くない腹だ。
「あ、ウィルソンさんの……」
合流したエイダが、僅かに怯えるように足を引く。
エリザベスはそれも当然かもしれない、と思う。五組の貧民エイダと、三組の資産家の息子ジェイク。力関係はそこでも明らかだ。
「そう、昨日話したでしょ?」
「何が面白いのか知らないけど、私たちは遊びに行くんじゃないんで」
「それは俺も一緒だよ」
硬い顔で返すエイダに、ジェイクは飄々とした顔で答える。気取って前髪を掻き上げるのは彼の癖、だとエリザベスは思っていたが、そうではないのかもしれないと今は思う。
「俺も将来はウィルソン商会の一員になるんだから、今のうちに社会勉強しておかないとね」
「そんなの他でしてほしいものですわ」
演技に堪らずエリザベスは呟く。
エイダは声もなくそれに同意したように頷き、誤魔化すようにジェイクは笑った。
入学初日に来た喫茶店は、この短い期間の間には何も変わらない。
「じゃあ、いつもと同じね」
「はい」
あの日と同じように、エリザベスは箒を手に取る。
行うのも変わらない掃除。箒はデッキと水平にかけ、溝にも砂埃が溜まらないように。
シャッ、シャッ、と固い箒の木が木を擦る音が風に紛れて周囲に響く。
一人、二人、と客が前を通るが、エリザベスの無愛想な「いらっしゃいませ」には誰も目を向けなかった。
デッキの端にある手すりに寄りかかり、興味深げにその姿を見つめるジェイク以外は。
「ほら、見てても楽しくないでしょう」
エリザベスはジェイクに目を向けずに言う。
だが、笑い飛ばすようにいつもの笑みを崩さず、ジェイクは目を細める。
「どうかな。たしかに今はただの仕事をしているように見えるけど、そうじゃないかもしれない。俺が目を離した隙に、誰かと秘密の連絡を取るのかも」
「貴方がいるんですから、そんなことやろうとしても出来ないでしょ」
「そうかもしれない。でもだから、こんな面倒なことしなくて済むように、お前の正体を教えろよ」
「正体も何も。今年クロウリー学園に入学した新入生、五組のアリス・ハートです」
エリザベスとしてはそう言い続けるしかない。
レオナルドに対する失言からどこかの密偵と疑われてしまい、そして実質エリザベスも認めるような行動をしてしまったが、実際にはそんな事実はない。
エリザベスが秘密にしているとすれば、時間を遡行したことと、アリス・ハートの身体を乗っ取っているということ。
だがそれを正直に話したところで信用はすまい。最初についた嘘はあまりにも大きい。
「……まあたしかに、こんなところでボロは出さないよな。気長にやるしかない、か」
手摺りから身体を引きはがし、ジェイクは歩き出す。
喫茶店の入り口に向け静かに。
「どこへいくんですか?」
「どこへって、今日俺がここに何をしに来たのか言っただろ?」
疑問符を浮かべながら、エリザベスは首を傾げる。
「社会勉強だって」
ドアベルを鳴らして、ジェイクが喫茶店へと入っていく。
しばらくして彼が中の手伝いを始めたのだ、としったエリザベスは、意味がわからない、と目を丸くした。
◇
『ジェイクが職場が見たかった理由は、』
(……これは知っていたかもしれませんわね)
夜、疲労に負けずにエリザベスは今日あったことを綴る。
アリス・ハートが前回書いた日記と整合性を取るように、情報の重複がないよう取捨選択をしながら。
(ジェイクに関しては、工作員などの話はしない方向でいきましょう。あの子に腹芸が出来るとは思えませんし、知らない方が身のためですわ)
エリザベスとは違い、『アリス・ハート』が身体を動かしているときはやはり全てがアリス・ハートだ。
一応はエリザベスにも存在する秘密もなく、隠すべきは精神の交代が起きているということのみ。
知らない方が怪しまれずに済む、という配慮。
配慮。それ自体を大嫌いな『アリス』に対して行っているということにエリザベスは納得がいかなかったが、それが自身の安全に繋がっているということを考えて溜飲を下げた。
(状況が安定してきたら、そろそろ私の身体を取り戻す算段をつけないと)
魂、もしくは精神は光か闇の属性の領分だ。
仮に何かしらの魔法でこのような状況が作られたとしたら、やはり頼るべきはそこ。
だが、魔法の属性は魂に紐ついていると伝えられており……。
(この身体だからって光属性が使えるわけじゃないのね)
エリザベスは指の先に火を点す。
彼女にとっても残念なことに、エリザベスが使えるのはやはり炎の魔力だけだ。
光の属性はアリスの魂に宿る。その上で、エリザベス特有の純粋な炎の魔力は、属性変換の影響も受けづらく、比較的簡単といわれる発展属性にすら変換するのは効率が悪い。
(上の学年に闇属性は一人いたかしら。でも人嫌いっていうし、話したこともありませんわ)
更に、頼れるとも言い切れない、とエリザベスは思う。
光と同じく闇属性も扱うことが難しく、彼女も魔術を使うことはほとんど出来なかった記憶がある。
(いっそのこと、『アリス・ハート』が元に戻してくれないかしら……なんてね、するわけないじゃない。あの女が、私に別の身体を乗っ取らせるなんて)
その性格上、アリス・ハートはやらない。
エリザベスの肉体を乗っ取らせる、など考えもつかないだろう。あの善良で優しく弱い女は。
それに。
(基礎で躓いているようじゃ、勉強の方もやっぱりお粗末ね)
エリザベスは日記を見返して溜め息をつく。
こんなことではそんな能力もない。
『午後の授業では二回指されたよ。左回りの属性変換が私は苦手で、ちょっとわからなかったから失敗しちゃったみたい』
『アリス・ハート』の述懐。
確かにそこは躓く者が多い。基礎属性から発展属性に魔力を変換する際の法則性が右回りの属性変換。そして発展属性から基礎属性に変換する際の法則性が左回りの属性変換。
通常炎の魔力で行えるのは火に関する事象だ。それ以外の事象を起こしたい場合、術者はそこから身体や魔道具に刻まれた魔術回路を使って木や土に発展させる。
たとえば炎の魔力を使い水の事象を起こしたい場合、発展させた木の属性を還元し、水の属性を形作る。
エリザベスにとって、言ってしまえばそんな簡単なこと。
だがそこで生じる法則性は、実際には膨大なものがある。木の属性から還元した場合に起こる魔力の損失、また生じてしまう粗雑な属性の魔力の行き先。考えることは山ほどある。
炎の要素がない氷の魔術を使うならば、木から水、水から氷、と何度も属性変換を行わなければいけないし、その際には右回りも左回りも扱うことになり、高度な扱いといえるものになる。
優秀な魔術師ならば、その他を計算し、精密に狙った事象だけを起こせるものだが。
(……ああ、もう、勉強時間が足りないからって勘弁してほしいですわ! 出来なくて笑われるのは貴方だけじゃなくってよ!!)
大きな溜め息をつき、エリザベスはペンを取る。
勉強が出来ない。馬鹿。そんな悪口をアリス・ハートが言われた場合、その言葉は全てエリザベスにも向くのだ。
そしてエリザベスは馬鹿にされるなど耐えられない。
いつでも完璧に美しく。そう心がけてきたのに。
書き殴るように線を引く。『アリス・ハート』の習熟度がわからない以上、基礎の基礎から。
『まずはこの簡略化した法則図を暗記なさい。炎から風は逆順でも……』
(大体あの教員は説明が雑すぎます。 一組の教員を呼んできなさい、まったく!)
エリザベスは夜が更けるまで日記に書き込みを続けた。
『貴族なかりせば』と王宮魔術師が悔しがった能力を元に。どんな参考書も敵わない、完璧な解説図が出来るまで。