ヒナ:雲と木陰と白いワンピース
風に流れる白い雲が綺麗で
その内にある激しい嵐とその影が
僕の心を捉えたまま、ただ、時間を滑って──
雲は自由だと誰かが言ったとして
僕は同意も肯定もできないまま
今の今まで生きてきた
青空のはるか向こうから差し込む陽射しに
緩やかな坂道はゆらゆら揺れゆき
僕の足取りを、陽炎のなかへと落としていく
全てが──少なくとも、その一部が
感情のない夢であればいいと思う
この坂を登りきる頃、夢の薄膜が破れ
僕は自分の言葉とともにこぼれ
彩り鮮やかな地上に生まれる──そう
そうであればいいのにと思い
この手が覚えているヒナの温もりを信じ
でも──やはり僕は、もう
この世界のなかへいくらも前に生まれ、そして
多彩な色合いの景色を何度も見て
自分ではどうすることもできない
ひとつの宿命のような錘に
泣きながら世界を灰色に塗り潰してきた
どうしようもなく、どうしようもなく──
僕の内にどんなに荒れた嵐が生じようとも
そのすべてが、闇色をした血に鎮められ
そして──僕の前には
何の面白味もない道が
退屈そうにそよ風に吹かれ
どこまでも細く長く伸びる景色に、いつしか
求めることの無意味を知った
坂道の先に、大きな屋敷が見えてきて
僕は、雲まで広がる大気のなかへ
そっと溶かしていくように、ひとつ溜め息
もう、この足を、早めるべきか、遅めるべきか
それすらも、考えるのが億劫だ──いや
ただ僕は、もう、言葉だけどこかへ逃げて
空っぽのこの体を、あともうちょっと
この地上に預けておければと、そんなことを
うつらうつらと考えている──
ヒナ──と
口のなかでその名の音を丸めて
出そうか、飲もうかと迷って──そして
けっきょくどちらもできず、消えていく
ゆっくりと、陽に向かい顔を上げる
するとそこに柔らかい影が伸び
僕の細い体を飲み込み
ほとんどかすれて消え入りそうな、優しい声がした
「お久しぶりなのに、ずいぶん暗いお顔なのね
私はあなたが来られると聞いて
もうずっと前から嬉しくて
本当に、今日のこの日が待ち遠しくて」
ヒナも、知らないわけじゃないはず
僕のもとに届いた色のない知らせは
きっと、彼女の耳にも入っている
じゃあどうして、こんなにもヒナは
それでも何も曇ることなく
そのワンピースのように白いままなのか
屈託なく、邪心なく、ただありのまま輝く
それが、どうして──彼女自身のためではなく
どこまでも僕のためにそうあれるのか
「ヒナ──」
続く言葉を、僕は迷う
いやそれは──彼女のためではなく
僕自身の保身のため──そして
少しでも痛みが軽くなるよう喉の奥で溜め
小声で、ぽつりと──僕は選ぶ
「結婚することに、なったよ
相手は父が選んだ人
まあ、家の都合、そう、僕らにはよくあること」
木陰のなかで、ヒナはゆっくりと
柔らかい笑みを滲ませていく
それは肯定でも否定でもなく
悲しみでも諦めでもなく、ただ
僕の言葉の奥へと染み込む
心地よい温かさだった──いや、だけど
「ヒナ、僕らが会えるのは、これで最後だ」
僕はそんなヒナの全てを、ここで否定しないといけない
そう、そのために、僕は今日、やってきた
雲が流れて、影が消え去り
強い陽射しが、彼女の姿をかすませた
声に出して呼びたい名前を
僕はうつむき我慢する──そう
我慢するしかなかった
「いつもあなたは
ご自分のお気持ちを押し殺すのね
本当は傷付くのが嫌で
逃げ出す道を考えていて
どうしようもなく、わがままなのに」
「怖いんだよ、本当は望まないのに
拒否することで生きていけなくなることが
そんなことがあったらって
そう、そうなんだ──
ヒナの言う通り、僕はわがままな命で
ずっとどうしようもないものにすがってる
それはきっと、ヒナからすると
とてもとても愚かなことなんだろう」
「そうですね、私はずっと
どんな縁談も断ってきましたから
だって、あなたと一緒じゃないのなら
私の命は何なのかしらと
本当に、そう思っているのですもの」
「僕はもう、ああ、ヒナ──
僕はもう、君のことを好きだとさえも
金輪際、言えなくなるんだ」
罪悪感──何が正しいことなのか
僕には決めることすらできやしない
できやしないのに、ただ
嘘をついて苦しむ自分に感じる、罪悪感
身勝手で、どうしようもなく馬鹿げた裏切り
いやそれでも、どんな不条理や理不尽も
耐えて忍んで飲み込んで、家を守っていくこと
それが正義なのだと教えられた──だから
だから僕は、ヒナの正しさを受け止められない
「ねえ、気持ちのままに好きということの
何がいけないことなのでしょう」
「それはきっと傷付けてしまう
ヒナも、僕も、きっと世界のいろんなものも」
「もしも、誰も何も傷付かず
あなたがあなたであれるとすればどうでしょう」
「ヒナ、僕はその可能性を信じられない
僕がいるのは、小さく暗い狭い世界
こんな弱虫に、恐ろしい誘惑はよしてくれ」
すっと、ヒナが木陰から出てきて
小さく首を横に振る
不思議だった──彼女が見せるのは
強がりでも必死さでもなく
僕らの上に広がる空の、その、広大さ
僕とは違う、大きな大きなわがままが
どこまでも万象の幸せを願っている、そんな
腹が立つくらいの気持ちよさ
「あなたは弱虫です
でもこれは誘惑でも誤魔化しでもなく
私はそんなあなたを、あなたの愛を
いつまでもどこまでも守ってあげますと
そうお伝えしたいのです」
体に、すっと流れる電撃──
真夏の雷みたいに
僕はそれに打ち付けられ、そして──
でも、僕を縛り付ける呪いに締め付けられ
転がるように背を向け逃げた
怖かった
ただただ怖かった──
解けた呪いの先に待つものが
僕をばらばらに解体していくんじゃないかと
だから、逃げるしかなった
でも、それでも──
ヒナ、僕は
君の言葉を、その全てを
心の底から信じている──だから
この坂道に転がる運命という石につまずき転んだ僕を
君はきっと追いかけてきて、そして
手を、差し出してくれる──そう、信じている
だから──
ヒナ、もう一度、いや、何度も何度も
君の愛と自由に満ちた言葉と声を
僕の明日のために、聞かせてほしい