レナ:笑顔と音と喫煙と
夢を見ているみたいだった
触るもの、見るもの聞くもの
全てがどこか透けてるみたいで
いつか幻みたいに消えて、忘れてしまう──
でもそれが現実という生活なのだと
大人たちに教えられた──そして
僕も今、そんな大人になってしまった──いや
納得はしていない
ぜんぜん、生きてる感じがしないから
「あ、今日も来てくれた」
「相変わらず、今日も素敵でしたよ」
ライブハウスの裏にある、小さな喫煙所
出番を終えて、レナさんは煙草を吸う
階段に座って、まだ衣装のまま
肩と足を出して煙を吐く
僕も煙草を取り出すと
火を差し出してくれた
「ありがとうございます」
「いい加減、敬語やめてよ
私のほうが年下だよ」
「いえ、先輩ですから
人生経験は僕のほうが長くても
本当に生きている年数は、たぶん
レナさんのほうが長い」
「よく分かんないけどさ、まあいいや
それより今日のはどうだった?」
煙の向こうで
レナさんがはにかむ
ああ、こういうことか──と、いつも思う
自分という実体を持って、中身を感じて
それでいて幻みたいな地上を生きる、ということ
どうすれば、こうなれるのかと問う
問いながら、その答えは簡単だと、いつも思う
でも、僕にはできない
いや、できないわけじゃない
わけじゃないけど、それでひとり生きていけると思えない
「いつも通りの熱量と、リアリティがありました
加えて今日は、レナさん──
なんか嬉しそうだった」
「へへ、分かった?
今日はね、嬉しかったんだ」
「何かあったんですか」
「前のライブ、あなた来てなかったじゃん
でも今日は来てくれた
ステージから見つけた時、すごく嬉しかった」
それはどういう──意味なのかと
言葉が、口のなかで丸まって詰まる
無意味な煙の動き、口に残る煙草の苦味
ああ、この感触──今、夢から覚めているという
レナさんという現実
「恥ずかしいなあ、何か言ってよ」
「前は、仕事の都合で行けませんでした
だから今日まで、本当に辛かった
僕にとって世界は
レナさんとレナさんの音以外、全部
遠い国の空想みたいで、何ていうか
実感がないんです」
「どうして、私と私の音は違うの?」
僕は何も答えない
答えずに、ただ、レナさんと
ふたりの間にある煙草の煙を見つめる
言わなくても、彼女は分かっている
そしてそんな笑みを浮かべて
へへ、と──屈託なくはにかむ
その裏に、闇がないわけじゃない
でもどんな暗闇も、彼女を曲げることはできない
歪めることも、染めることも、何も──
「今日もずっと
レナさんのベースと歌声を聴いていました」
「それは嬉しいけど、バンドなんだからさ
全部の音を聴いてよ」
「聴いてますよ、でも、レナさんは
特別だな、って、思うんです
僕の言葉の全てを揺らして
お前はちゃんと生きてるんだぞって
そう、言ってくれるんです」
口が、レナさんの口がわずかに動いて、でも
声は出なかった
吸いかけの煙草が指の間で静止して
少しずつ、少しずつ──灰になっていく
「ごめん、あなたはちゃんと
私たちの音を聴いてくれてる」
音もなく、灰が落ちる
そこにすら、レナさんの意志がある
そうして彼女は俯いて、また
口だけ動かし、声を出さない
でも、僕には聴こえる──聴こえている
同じ思いを共有する、ということ
僕の辛さと、彼女の悲しみが
立ちこめる煙を押しのけ、共鳴する
「次のライブで、解散ですよね
本当に残念ですけど、絶対に来ます」
「ごめんね、でも、あなたみたいな人がいるなら
私はやっぱり音楽を続けたい」
「レナさんはレナさんのために
音楽を続けてください
その時にはまた、聴きに来ます
それまではまた、僕は
少しだけ眠って夢を見るんです
ただ、それだけですから」
「それは辛いことだよ
それがね、今日は、すごく分かる
今になって、やっとあなたのことが分かる」
顔を上げるレナさんは、優しく煙草を消して
少しだけ目を閉じて、それから
まっすぐ、僕を見る──それは
夢という霧を晴らす光のようで
冷たい大地を温める熱のようで
そこには──確かに音があった
空虚ではない、空っぽではない
生きた血の流れる光の音──レナさんという
そのひとつの確かな意志が詰まった音
だから、僕は──泣いた
生まれた赤子のように泣いた
これが空気か、これが光か──その手触りに泣いた
泣いて、泣いて──そして
レナさんの指が、ベースを弾く彼女の指が
見えない音を押さえるように
僕の涙をすくい取る
「私の音は、あなたの音だよ」
それは、暗い喫煙所の黒い衣装の女性ではなく
ひたすら誰かを信じてやまない、そんな
美しく光る彼女の言葉、その、誰のものでもない
彼女だけの名前だった
だから、僕は彼女を見上げる──見上げて
「どうか僕にこれからも
あなたの音を聴かせてください
あなたが見せてくれたこの世界を──」
「大丈夫、大丈夫だよ」
レナさんは、目を閉じる
すくい取った僕の涙に祈りを込めるようにして
そして──
「守ってあげる」
そう、言ってくれた
「これからはさ
ふたりで音を作っていこうよ
もし──あなたがよければ、だけど」
「これ以上、素敵なことはありません
僕らの音が、互いの音となっていきますように」
いつの間にか煙が消えて
薄暗い喫煙所に、小さな光が生まれる
小さいけれど、でも
それは確かに、本当の世界だった