ユナ:沈む世界と昇る煙
影が、頼りなく伸びて
夕暮れの家路を埋め尽くしていく
地面に近いところで悪意が羽ばたき
僕を嘲笑う──いや、きっと
そんな気がするだけ
自分の惨めさを肯定しないと
僕は歩くことすらままならない
ああ、全てが終わって、全てが沈殿していった
それでもどこかから夕食のにおいがして
変わることのない世界もあるのだと
どこか遠い国を思うように溜め息
やめとけばいいのに、少しだけ顔を上げて見る夕焼け
あんなに綺麗だったのに、あんなに静かだったのに
過去が崩れる音とともに、僕を潰そうとしてくる
もう、この色を、彼女と見ることはない──絶対に
かん、かん──と鳴る、階段の安い音
安い廊下、安いドア、安いノブ──それから
返ってきた、安いスペアキー
滲むのは涙ではなくて、乾燥していく思い出
それらのどれも掴むことができず
開かないドアに、僕は泣く──このまま、ずっと入れなければいいのに
がちゃがちゃと鳴る、安い時間の音
どれだけ流れても、惜しいとは思わない
でも──それでも、救いなのか無情なのか
ドアは開いて、暗い暗い現実が立っている──その、向こうに
カーテンの隙間から漏れる夕陽の音
ばたんばたんと、崩していく
部屋中を荒らすように、ただ一直線──光への、一直線
残酷な濃い光を一秒でも早く覆い隠すために
飛ぶように駆ける狭い僕の部屋──手が届いたのは
情けない涙に湿った暗い部屋、その、くたびれたカーテン
ただ今は、全てを塗り潰してくれる真っ黒な闇が欲しい
闇、闇が──僕の輪郭まで消してくれるような、そんな
嗚咽の底のような闇が
「おい、大丈夫か──」
声が、した
ぶっきらぼうで粗々しい、だけどそれは
甘い水のように優しく僕に染みてくる
隣に住むお姉さんの、いつもの声
また、狭いベランダで煙草を吸っている
それを見たら、少しは落ち着くかもしれない
しれないけれど、もう僕には、二度と光なんて差してこない
「大丈夫か、生きてるか」
「僕はもう駄目です!
駄目なんです!
もう何のために生きていけばいいのかも分かりません
このまま暗闇に窒息して死んでやります!」
「待てよ、いいからちょっと出てこいよ
いつでも話し相手になるって言ってたろ
私が出てこいって言ってんだから出てこいよ」
「僕は今日、フラれたんです
もう僕は駄目です
その夕陽、彼女と一緒に見たのを思い出してしまって
もう全身が千切れてしまいそうなくらい辛いんです」
聞こえたのは、呼吸の音──いや
それは、溜め息だったかもしれない
ゆっくりと進んでいく、彼女の時間
そこに、煙を吐き出す音がして、それは
毎日毎日聞いてる音のはずなのに、なぜか
とても懐かしくて、安心する光景だった
「どうしてフラれたんだ?」
「僕があなたと浮気してるって疑われました」
「否定したんだろ」
「でも、毎日お話してるのは事実で
それは、言ったんです
彼女はひどく傷付いてしまいました──傷付いて、傷付いて
僕の知らない間に、別の彼氏を作っていました」
少しだけ、お姉さんの呼吸が変わる
少し強くて、滑らかさを失った、硬い呼吸
そしてまた、煙を吐く音──それは、僕の剣で、盾みたいだった
「私が原因になっちまったな
恨んでもいいぞ、なんだったら殴ってくれたって」
「そんなことしません
僕も、あなたとお話するのが好きだし、今も
ちょっとだけ、安心するというか、落ち着いてきました」
「なあ、やっぱりちょっと出てこいよ」
「すみません、今は行けません
その光、それが、駄目なんです
それはきっと、僕をずたずたにしてしまいます」
気配はあるのに、お姉さんは喋ってこない
煙草を吸う音だけが、静かに繰り返され
じゅっと火を消す音がして、そして
もう一本、煙草に火が点けられる
「なあ、知ってるか
夕焼けってさ、ひとつじゃないんだ──だから
出てきても大丈夫だよ
この夕焼けは、お前を傷付けたりしない」
──静寂
それは光でもなく、闇でもなく
ただお姉さんの息遣いで、不器用な、抱擁のようだった
僕は、手を伸ばす──本能に誘われる小さな虫のように
指先が、カーテンに触れ、その先の光に触れ
高鳴る鼓動に圧迫され、押し流されるように涙が溢れ
そして──
開いたカーテンの向こう
それは、見たことのない、でもいつも見ている──そんな、夕焼けだった
「出てこいよ」
「隣に行って、いいですか」
「いいよ、一緒に見よう」
「とても、綺麗です」
ベランダ越しに僕らは並んで
静かに静かに、揺れる夕陽を眺める
お姉さんは煙草を吸って、その小さな横顔が照らされ
そのなかに、僕は小さな、あたらしい世界を見つける
「綺麗です、とても、とても──まるで
ユナさんの静かな声みたいに」
ユナさんは煙草を吸って、ゆっくりと、煙を吐き出す
そこに光が反射して、時間が、遠くなっていく
延々と伸びていく、僕らの無言
物悲しい黄金色が僕らを飲み込み、でもそのなかに
僕はユナさんの触れられない輪郭を感じ
僕もまた、ユナさんの無言の指になぞられ──そして
「なあ、これからも
この景色を一緒に見てくれるか」
振り向くユナさんと、指の間で小さく燃える煙草
僕は視線を受け止めて、ユナさんの初めて見る瞳の色に
太陽を目指す植物のように真っ直ぐ、そう、本当に真っ直ぐ
何の疑念も持たずに向かっていった
僕は、ただ、「はい」と答える
ユナさんは煙草を吸って、また、ゆっくりと吐き出す
それから
もう一度振り向いてくれて
「だったら、この綺麗な光景を
私が守ってやるよ」
光が、柔らかく翳っていく
それでも
まだ時間は遠い遠い場所
延々と、延々と──引き伸ばされた僕らだった