パンとか止めるアレの名前がわからない。ついでにいつの間にか俺の部屋に居座っているJKの名前もわからない。
「……「あれ」、どこにやったかな」
朝食の最中、俺は食卓の上を見ながら呟く。
皿の下やコップの裏を確認してみるも、やはり「あれ」は見当たらない。予備をストックしているわけでもないから、失くすと多少なりとも困るのだが……。
俺は椅子を引くと、テーブルの下を探す。……「あれ」は落ちていない。
さっきから探している「あれ」とは何かって? 「あれ」といえば、「あれ」だ。パンとか止めるアレだ。
名前はわからない。前に教えて貰ったことがある気がするけど、小難しい名前だったし、ぶっちゃけパンとか止めるアレと言った方が通じるので、今更覚えるつもりもない。
パンとか止めるアレに限らず、その存在は知っているけど名前がわからないものって、意外と沢山あるものだ。
そう、例えばーー
「いや〜。やっぱり焼いた食パンには、塩を振りかけるのが一番ですね。程良いしょっぱさが、食欲を一層そそります」
いつの間にか我が家に居座っている、このJKの名前とか。
先週突然俺の家を訪ねて来たこのJKは、無防備にも男が一人で暮らしている部屋に押し入り、挙句の果てに生活し始めている。
迷子や家出というわけではないようなのだが、本人たっての希望とはいえ見知らぬJKを住まわせるのには抵抗があった。
まぁ帰れと言って帰るようなら、こんな生活が一週間も続いていないんだけど。
パンとか止めるアレを見つけるのを諦めて一息付いていると、JKが「あっ」と声を上げた。
「バッククロージャーでしたら、袖に付いてますよ」
「バック……何だって? 新しい戦隊ヒーローか何かか?」
「違いますよ。パンとか止めるアレのことです。……仕方ないので、取ってあげます」
JKは俺の袖に手を伸ばす。おぉ! そこにいたのか、パンとか止めるアレ。
俺はようやく、食パンの袋に封をすることが出来た。
「まったく。バッククロージャーも知らないなんて、常識がないですよ」
「いや。人の家に勝手に居座っているお前に常識を諭されたくねーよ」
しかも素性を一才明かさないなんて、常識がないのはどっちだよ。
こっちの気など知らずに、JKは二枚目の食パンに手を伸ばそうとしている。そんな彼女を見て、俺は溜息を吐いた。
日下部士郎、大学生。どういうわけか、ワンルームのアパートで見ず知らずのJKと暮らしています。
◇
このJKが俺の家に転がり込んできたのは、先週の水曜日のことだった。
夕食のカップ麺を食べながら、何気なくお笑い番組を視聴していると、ピーンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
実家の母親が、また何か送ってきたのだろうか? 食糧とかだとありがたい。
「はーい」と言いながら、玄関のドアを開けると……そこには、制服姿のJKがいた。
「ピッチピチの女子高生、おひとついかがですか?」
自身の魅力をアピールするように、JKはウインクする。
何つー訪問販売だよ。おひとつもおふたつも要らないわ。
「あっ、そういうの間に合ってるんで」
この世に生を受けて21年、彼女がいた経験なんて一度もない。だから何にも間に合っていないし、それどころか友人たちと比べると寧ろ出遅れているんだけど……JK相手とか、犯罪臭しかしないからな。俺は早々に、ドアを閉めようとした。
しかしドアが閉まる直前で、JKは自らの足を玄関の中にねじ込んでくる。
「まぁまぁ、そう言わずに。お話くらいしましょうよ」
「嫌だよ。指一本触れてなくても、部屋に入れた時点でとんでもない料金請求されそうじゃん」
「そんなぼったくりしませんよ。ていうか、お金を取るつもりなんてありません」
「金をふんだくる気がないんなら、何しに来たんだよ? JKがウチに来る理由なんて何もないぞ?」
「理由なら、さっき言ったじゃないですか。お話しましょうって」
話がしたいだけ、か。俄かに信じがたい話だな。
だって俺みたいに冴えない男と話したい奴なんて、いるわけがないだろう?
しかも相手は初対面のJKときた。間違っても、俺は一目惚れされるようなタイプじゃない。
だけどこの状況をご近所さんに目撃されたら、変な噂が立つのは間違いないし……さて、どうしたものか。
思考を巡らす俺だったが、それらは全て続くJKの一言で真っ白になる。
「難しいことは考えないで、中に入れて下さいよ、士郎さん!」
……え? 何でこのJKは、俺の名前を知っているんだ?
俺は名乗っていないし、表札には名字しか書かれていないから、士郎という俺の下の名前を彼女が知っている筈がない。
「あれ? 日下部士郎さんで、あってますよね?」
「あっているけど……何で俺の名前知ってんの?」
「さあ? どうしてでしょう? 中に入れてくれたら、教えるかもしれませんよ」
「じゃあ、教えて貰わなくて良いです」と門前払いにすることも出来たが、それはそれでなんとなく気持ち悪い。
お金は取らないって宣言しているし……仕方ない。
俺は渋々ドアを開けて、JKを家の中へ歓迎することにした。
「狭い部屋で悪いな。好きなところに座ってくれ」
社交辞令でそう言ったが、だからってベッドの上に座るか、普通?
一人暮らしの男の家に入り、速攻ベッドの上に座るとか、一体どういう教育を受けたらこんな痴女になるんだよ?
俺はJKの前に、マグカップを置く。
中身はティーパックの紅茶。改めてお湯を沸かすのは癪だったので、カップ麺を作る時に使ったお湯の残りを注いだ。だから結構ぬるかったりする。
「ご丁寧に、どうも」
お礼を言った後、JKはマグカップを手に取り、紅茶を啜る。
「結構なお手前で」
そんなわけあるか。量産型のティーパックだぞ。
第一そのセリフは、紅茶ではなく抹茶を飲んだ時に言うものだ。
自分の前にも紅茶入りのマグカップを置き、床に腰を下ろした俺は、早速本題に入ることにした。
「それで、結局のところお前は何者なんだ? どこから来たんだ?」
「私ですか? 私は異世界から転生してきた勇者です!」
「制服着た勇者がいるか。つくならもっとマシな嘘をつけ」
とはいえJKも、嘘だと見抜かれることは当然わかっている。その上でこんなふざけた回答をしたということは……俺の質問に、真面目に答えるつもりがないということだ。
「質問を変える。お前、名前は?」
「吾輩はJKである。名前はまだない」
「名前がなくてどうやって高校に入ったんだよ?」
「じゃあ、花子でお願いします」
百パーセント偽名じゃねーか。
しかも「じゃあ」って何だ、「じゃあ」って? せめて誤魔化そうとする努力くらい見せろよ。
その後も質問を続けるが、どの質問に対してもJKは真面目に答えようとしない。
とうとうこのJKの正体は、わからずじまいだった。
でも、この子はなぜか俺のことを知っている。本当に……一体何者なんだろうか?
◇
「「あれ」、買い替えなきゃな」
土曜の昼下がり。この日は大学の講義もバイトもなかったので、部屋で漫画を読みながらゴロゴロしていた。
本当はベッドに寝転がりたかったんだけど、現在ベッドはJKに占領されている。代替案として、俺はカーペットの上に寝転がっていた。
漫画を一冊読み終わったところでふと窓の方に目を向けると、そろそろ「あれ」の買い替えの時期だということを思い出す。
……え? 「あれ」とは何かって?
「あれ」っていうのは、カーテンレールのシャーのことだよ。
名前はわからない。前に教えて貰ったような気がするけど、カーテンレールのシャーで十分意味が通じるから覚えようとしなかった。
このように、その存在は知っているけど名前がわからないものって、意外と沢山ある。
そして名前の知らないJKは、依然俺の部屋に居座っている。
「士郎さん。この漫画の四巻って、そっちにありますか?」
「あるぞ。ていうか今、読んでる」
「わかりました。でしたら終わったら貸して下さい」
「了解〜」
あと10ページ足らずで読み終わりそうだったので、俺は少しペースを上げて読み進める。
2、3分で読み終わり、俺は四巻をJKに渡した。
「ほい」
「ありがとうございます」
…………。
なんか、このやり取りにも違和感がなくなってきたな。
JKが住み着き始めて、一週間とちょっと。最初の二日間は疎ましく思っていたけれど、一週間も経つと不思議とJKと一つ屋根の下の生活にも慣れてくる。人間の順応性とは、まったく恐ろしいものだ。
しかしJKが望み、俺が慣れたからといって、この現状を看過することは世間が許さない。
俺は漫画の続きに手を伸ばしながら、JKに尋ねる。
「お前さ、いつまでウチにいるつもりなんだよ?」
「特に期限を決めているわけではありませんが……迷惑でしたか?」
「今更迷惑もクソもあるかよ。……そうじゃなくて、一週間も家に帰っていないんじゃ、親御さんが心配するんじゃないのか?」
「あぁ、そういう。それなら心配無用です。両親には士郎さんの家で暫く過ごすと言ってありますから」
「え? 親御さんも、俺のこと知ってんの?」
「知ってますよ。「士郎くんは真面目な子だし、間違いも起こらないだろう。安心して娘を任せられる」って言ってました」
名前も知らないJKの両親に、どんだけ信頼されているんだよ? 嬉しさよりも、気味悪さの方が強かった。
そうなると、このJKは俺の中学か高校の頃の同級生の妹とかになるのか? だったら彼女が親御さんがこれのことを知っていても、なんら不思議はない。
俺は一週間ぶりに、改めてJKに名前を尋ねた。
「この家に来た時も一回聞いているけど、お前は何て名前なんだ?」
「だから花子ですって」
「どう考えても偽名としか思えないが、この際下の名前はどうでも良い。苗字は?」
「……佐藤です」
「成る程。佐藤花子、ね」
絶対嘘じゃねーか!
佐藤も花子も、よくいる苗字とよくいる名前だ。それらを組み合わせとなると、本名だとは到底思えない。
やはりJKは自身の名前を教える気がないようだ。
名前を聞き出すことは諦めて、漫画に集中し直そうと思っていると、突然スマホにメッセージが届いた。
「彼女さんですか?」
「彼女がいたら、JKを住まわせたりなんかしねーよ。……姉だよ、姉」
「あぁ、お姉さんですか」
納得したように、JKは頷く。
「お姉さんがいたんですか?」と聞いてこないことから察するに、多分姉のことも知ってるな。
このJKの謎が益々深まるばかりだった。
◇
日中姉から届いたメッセージ、その用件は「今夜久し振りに飲まないか?」というものだった。
JKを住まわせている手前、夜家を空けるのはどうかと思った俺だったが、彼女から「折角のお誘いなんだし、行って来なよ」と言われたものだから、お言葉に甘えることにした。
姉の仕事が終わる時間に合わせて、近所の居酒屋で合流する。
互いに最近実家に帰っていなかったので、こうして顔を合わせるのは久し振りだった。
一杯目は生ビールで乾杯し、その後近況報告に移る。
「最近どう? 特に変わったことはない?」
そんなわけがあるか。つい先週、大きな変化があった。
「なんか部屋に女子高生が住み着いた」
「……」
「おい、待て。無言でスマホを取り出すな。そして110しようとするな」
ジョッキを置いてスマホを操作し始める姉を、俺は慌てて制止した。
「だって、未成年の女性を部屋に連れ込んでいるとか言い出すから……」
「言い方! 俺が連れ込んだんじゃなくて、あいつが勝手に住み着いているだけだから! ……それにどういうわけか、俺のことを知ってるみたいだし」
「士郎のことを知ってる? だったら、前に会ったことあるんじゃないの? 写真とかある?」
「ツーショットでよければ」
俺はJKに無理矢理撮影&保存させられたツーショット写真を姉に見せる。
写真を見た姉はというと、
「これ、美奈ちゃんじゃない」
「美奈ちゃん?」
「えぇ。再従姉妹にあたるわよ。高校生の時に、曾祖父ちゃんの葬式で一回だけ会ったことがあるわ」
「あー、あの時の。随分大きくなったものだな」
姉に言われて、そんな親戚もいたなと思い出す。当時の彼女は影の薄い印象だったので、まるで記憶に残っていなかった。
それに成長した彼女は、信じられないくらい可愛くなっていて。だから気が付かないのにも、無理はないだろう。
「美奈ちゃんはすごく人見知りで、あんた以外と喋ろうとしなかったからね。ていうか、あんたにだけ妙に懐いてた」
「だったな。……でもどうして美奈は俺の家を訪ねて、その上住み着いてりしているんだ?」
「あら? 年頃の女の子が男の家に住み着く理由なんて、一つしかないと思うけど?」
好きだからーー。姉にそう言われて、俺の顔は赤くなる。
決して酒に酔ったからとか、そういうわけではなかった。
俺はパンとか止めるアレの名前を知らない。カーテンレールのシャーの名前を知らない。
だけどいつの間にか俺の家に居座っているJKが、美奈という名前なのは知っている。
そしてきっと、俺はその名前を一生呼び続けるのだろう。