51 蘇る赤い翼
そこは浦賀水道の南側。
相模湾の南東沖にも天使がいた。
「あっはっは! こいつは楽しーわ!」
海原に影を落とすほどの巨大な翼を広げる少女。
その周囲に白い人の形をした物体が十体同時に現れる。
白人形がその手に握った光の槍を投擲する。
放たれた光の槍は音速を超える速さで世界各地へ飛んでいく。
見えなくても関係ない。
地球の裏側だろうがまったく問題ない。
地図アプリの位置をクリックするように確実に狙う。
世界はこの手の中にある。
彼女の名は第四天使エリィ。
ヘルサードに『外側の力』を与えられた少女のひとりである。
その能力は破壊特化だ。
召喚した白人形が光の槍で対象を破壊する。
威力も数も調節自在で、ゲームのように世界を壊すことが出来る。
ヘルサードが彼女に与えた指令は世界各地の軍事基地及び政府中枢への攻撃だ。
光の槍は着弾後に大爆発を起こし、かつての核ミサイルに匹敵する破壊を撒き散らす。
「そらそら! 次はドコを潰してやるかぁ!?」
戯れに東京湾上に浮かぶ船に突き刺した槍が時間差で爆発する。
世界を壊す破壊者の力を手に入れた少女は、ただ己の思うままにその力を振るった。
※
湾上で大爆発が起こった。
押し寄せた津波が海岸線に被害をもたらす。
その破壊の様子を眺めながらもアオイの心は平穏を保っていた。
頭が冷えていく。
視界を覆っていた靄が消えていくようだ。
混乱していた記憶と意識がはっきりと輪郭をもって『自分』を取り戻す。
「……焦っていたとはいえ、情けない話ね」
「気にしちゃダメよ。誰にだってあり得ることなんだから」
自分の力量に合わないJOYを長時間使用することで発症する精神汚染。
狂っていたように見えたマナも少なからず影響はあったのだろう。
かつてのL.N.T.の魔天使も似た状況にあったと聞いた。
アオイには人並みに出世欲があったが、別に過去のトラウマで盲目になっていたわけではない。
紗雪やシンクは幼馴染ではないし二人に対する特別な執着も持ってはいなかった。
まさか自分が蝕まれていたなんて。
こういうのは当人は絶対に気づけないものだと思い知る。
しかし、JOYによる精神汚染は一度でも発症したら最後、人格の書き換えにも等しい状態から元に戻る術はないと聞いていたが……
「はい、おしまい。もう貴女は元通りのアオイよ」
「いちおう礼を言っておくわ、アテナ」
「アテナじゃなくて第五天使アーティナよ。これから改めてよろしくね」
世の中の理すら容易く変えてしまうというこの世界の外側の力。
その一片を垣間見たアオイは感謝の気持ちよりも強い恐ろしさを感じた。
レインプロジェクトの集大成である『天使』
ミイ=ヘルサードが手に入れた力を受容した者。
「聞いて良いかしら、なぜ貴女が天使に選ばれたの?」
「単純な理由よ。私がヘルサードさんに気に入ってもらえたから」
五体いる天使の人格を構成するのは皆すでに一度は死んだ者だという。
この世界ではないところからヘルサードが連れ戻してきた女たちだ。
「ところで紗雪ちゃんはどうする? 本人の肉体とジョイストーンが無事で、死んでから七十二時間以内なら私の力だけで生き返らせることができるけど」
「お願いしたいわ。彼女は巻き込まれただけなのだから」
先ほどまでのような狂気じみた執着はなくなったが、紗雪の事が嫌いになったわけではない。
友人のひとりとして可能なら生き返って今後は平穏に暮らして欲しい。
「わかったわ」
アテナは紗雪の横にしゃがみ込むと、掌から光を放った。
みるみるうちに紗雪の頬に赤みが差し始める。
誤ってアオイがつけた傷も塞がる。
呼吸も心臓も確かに止まっていたのに。
死んでいた人間が本当に蘇っていく。
「はい、終わり」
あっという間に治療を終えたアテナは紗雪の体を起こして近くの壁に寄りかからせた。
「あっちの外国人の子も傷だけ癒しておくわね。別に殺す必要はないでしょう?」
「それは……いえ、そうね」
マークの実家であるミューS&E社はすでにAEGISに潰されている。
今さら電気使いひとり放っておいた所で大きな問題もないだろう。
それにあの男は紗雪に好意を持って保護しようとしていた。
彼女の事は彼に任せておくのが良いかもしれない。
「さて、それじゃ行きましょうか」
「どこへ?」
「ラバース新社屋よ。これからすごっく忙しくなるから、ぜひ仕事を手伝って欲しいのよ。貴女も確か本社の特殊組織に所属してるんでしょう?」
「まだ正式なメンバーではないけどね。どんな仕事をさせるつもりかしら」
こうなったらこの女についていくのが良さそうだ。
別にラバースやAEGISを裏切るわけでもない。
「これから反転ガスが撒かれて世界が激変するから、そのための準備をね」
※
嘘だ。
こんなことは信じられない。
「なんで……」
星野空人は肩を借りていた速海から離れた。
速海もまた現実離れした出来事に声を失っている。
二人して目の前のあり得ない人物を驚愕の眼差しで見た。
「久しぶりね」
「なんでお前が、どうして……」
ラバースに精神制御を受けてから、こんな風に動揺を表に出すのは初めてのことだった。
常に沈着冷静で感情を出さずラバースの利益のみを考える戦士になった空人。
そんな自分にまだこんな風にざわつく心が残っていたなんて。
「蘇ったのよ、天使としてね」
長くて赤い髪。
黒に近い朱色の六枚翼。
冷たい印象だがとても美しい容貌。
忘れるわけがない。
忘れられるはずもない。
だけど、どうしても信じられない。
誰よりも大好きで、誰よりも心を傷つけられた人間。
赤坂綺
かつて目の前で確かに死んだはずの彼女が現れたなんて。
「天使……?」
「あー、ごめんなさいね。別に貴方と世間話や昔話をしに来たわけじゃないの。細かい話は後で誰か別の人に聞いてちょうだい」
綺の背中の翼が伸びる。
小さな島くらいなら覆ってしまいそうなほどの巨大な翼だ。
そこから零れ落ちる無数の羽、その一枚一枚が生き物のように空中で踊り始める。
「今度の『フェザーショット』はね、羽の中にいろんなものを入れることができるの。もちろん自由に中身を撒き散らすこともできるのよ。例えば特殊な気体とかもね」
「……まさか」
「念のためエリィちゃんが邪魔そうな奴らをやっつけてくれてるけど、ハッキリ言って必要はなかったと思うわ。だって私の邪魔をできる人間なんてこの世にいないもの」
綺の目は空人をしっかりと見据えている。
決して有無を言わせない、視線が合うだけで動けなくなるような瞳。
「今日はお願い……というか警告に来たの。これから私はラバースの利益に反することをするけれど、死にたくなかったら絶対に邪魔しないでね」
そして魔天使は断罪を始める。
この地球に生きる全人類に対して。
「さあ、世界を滅ぼしましょう!」
数千、数万、数億の反転ガスを積んだ羽が綺の翼から飛び立った。
それは誰からも邪魔をされることなく、地球中の至る所へ降り注いでいく。




