9 ラバースコンツェルンの真の目的
シンクは香織の言っていることの意味がよくわからなかった。
「EEBCの反転?」
「そう。EEBCがどういうものかは知ってる?」
「そりゃ……現代人なら誰だって知ってるぜ」
EEBC。
正式名称はエレクトリックエネルギーブーストコア。
わずかな電気エネルギーを大幅に増幅して運動エネルギーに変える変換装置のことである。
例えば電気自動車にこれを組み込めば、乾電池一本の電力で丸一ヶ月休みなしで走らせ続けることもできる。
供給源は世界中でラバースのみ。
傘下グループには無償に提供され、ライバル企業にさえ格安で販売している。
しかしライセンス契約は行っていないため、製作方法はラバース本社の人間以外誰も知らない。
非常に安価で応用性に優れているため今やこの装置は世界中に普及している。
電気機械はもちろん、コンピューター、兵器、地下インフラ、日用品に至るまで多くの物にEEBCは搭載されている。
先進国だけでなく発展途上国や後進国も同様だ。
今や宇宙から夜の地球を見て人工の明かりの点らない国はない。
旧世紀の火力発電所がひとつあれば、数億人の生活を支えることができるのだ。
EEBCが世界に与えた影響は計り知れず、破格のバラ撒きにも関わらず世界中の富がラバースに集まった。
特に日本国内は空前の好景気に沸き今さらEEBCのない世界など想像もできないくらいだ。
すでに不可逆に世界は進歩している。
「反転ガスに触れたEEBCは特殊なエネルギー力場を生む。周辺の空気を汚染して、その近くでは動力としての一切の電気エネルギーが使えなくなるんだ」
「……んなことになったら、世界中がエネルギー不足で滅茶苦茶になるぞ」
「そうね。その通りだよ」
自分で言って笑いそうになったが、香織はあっさりと頷き肯定した。
「マジかよ……」
明日からすべての電気エネルギーが使えなくなったらどうなる?
主要エネルギーを失った社会が持つはずがない。
何千万、何億もの死者が出るだろう。
世界を滅ぼせる兵器とは、そういうことなのか。
「その反転ガスってやつの存在は間違いないのか」
「すでに汚染された土地もあるよ。実験に使われて、島一つまるごと電気エネルギーが使えなくなった場所がね」
香織の真剣な態度に嘘をついている様子はない。
少なくともその反転ガスは実在するのだろう。
しばしの沈黙の後、運転席のヒイラギがぼそりと呟いた。
「ヤバいでしょ。これが私たちがラバースを見限ってALCOについた最大の理由よ」
「本当は能力者組織の人たちにも機を見て説明するつもりだったんだけど、私がタイミングを逃したせいで、真実を知らないまま殺されてしまった……」
「で、あんたらが逃げ隠れしながら続けた活動には成果があったのか?」
反省モードへ入られても仕方ない。
シンクは建設的な話をするよう促した。
「実を言うと反転ガスについてはほとんど調べてあるんだ。世界各地に三〇〇カ所以上ある製造拠点から成分、精製方法まで一通りね。その気になれば私たちでも作れるよ」
「な……」
ゾッとした。
もしこいつらがその気になれば簡単に世の中はひっくり返ると言うのだ。
それが彼女たちの目的ではないことはわかっているが、実行できるというのはそれだけで恐怖だ。
「驚くことじゃないよ。例えば反核分裂装置が発明されるまでは多くの国が核ミサイルっていう全人類を何百回も絶滅させられるだけの大量破壊兵器を所有していたんだよ。でも実際に使われた例は歴史上に三回しかない」
世界を滅亡できる兵器を世界中が持っている。
かつて、そんな時代があったことは知識として知っている。
だが実際に核兵器が使用されたのは歴史上でたった三回しかない。
第二次世界大戦末期に二回と、アジア大戦で一度だけだ。
「一つ聞きたい。その反転ガスの存在を知ってるのは、ラバース以外ではあんたたちなのか?」
「ある程度国際社会に影響力がある企業や、先進国の政府ならみんな知ってると思う。もちろんガスを開発する技術もそれぞれ持っているはずだよ」
小規模組織であるALCOでも精製できるのだから当然だろう。
となれば、逆にこういった仮説も成り立つ。
「それって逆に考えれば、ラバースに対する牽制になるんじゃないのか?」
かつての核の相互確証破壊による抑止と同じ理窟である。
一度でも使えばそれですべてが終わりの超兵器。
ならば誰もが他者にそれを使わせないように振る舞うはずだ。
戦略的に自分たちを優位にするため使えるような代物ではない。
シンクの希望的観測に、しかし香織は首を横に振った。
「忘れたの? ラバースには代替エネルギーがあるんだよ」
「……あ」
言われてシンクは思い出す。
SHINEのことか。
ラバースコンツェルンが開発したこれまでとは違う新しいエネルギー。
それはほとんど科学者の道楽レベルの無駄な発明で、世界中の誰からも見向きされなかった。
運用効率はEEBCを通さない電気エネルギーよりも悪く、様々な色に輝くというネオンライト代わり以外の使い道はほとんど無いと言われている。
現在は首都圏の一部地域だけに専用インフラが敷かれているが、もちろん通常の電力インフラと平行してだ。
「ってことは、つまり……」
「誰かが反転ガスを使って電気エネルギーが使えなくなったら、ラバースは世界で唯一、高効率のエネルギーを独占できるようになるんだよ」
ラバース支配地域以外は電力も使えない旧世代に逆戻り。
技術力の差は一〇〇年程度ではきかなくなるだろう。
銃弾一発と撃つこともなく世界支配の完了だ。
「使われた後に対処する方法は?」
「ない。一度散布された反転ガスは空気に混じってあっという間に広範囲に拡散する。一度でもガスがEEBCに触れたら即座に周囲数キロが汚染されて、そうなったらもう数百年は周囲一帯で電気エネルギーを使用することはできなくなるよ」
使われたらそれまで。
世界中が滅茶苦茶になる。
そしてラバースだけが生き延びる。
シンクは考える。
電気エネルギーの使えなくなった後の世界を。
通信技術は一夜にして近世以前に戻る。
既存の国家の形は崩れ、あらゆる地域で無秩序が生まれるだろう。
治安は乱れ、生産は滞り、物資は不足し、強い者だけが生き弱い者は淘汰される世界。
もちろんラバースの統治が及ぶ範囲はその限りではないだろうが、それ以外の地域ではもはや今まで通りの生活水準は望めないだろう。
……それに、何か問題があるか?
「そうか」
シンクは呟くと、腕を組んで背もたれに寄り掛かった。
「え、それだけ?」
「悪いが世界平和なんかに興味ねえよ。仮にそれが現実になったとしても、俺とレンが生きていく分には問題ない。どうなろうと知ったことか」
シンクにとって、もはや世界のほとんどのことはどうでもよかった。
大切な人を何人も失い、今さらラバースに復讐しようなんて気にもならない。
ただひとり残った最愛の少年と一緒に余生を暮らせればそれで十分だ。
「やっぱりあなたは私が見込んだ通りの人だよ」
説教の一つも食らうかと思っていたが、意外な言葉に思わず香織の顔を見る。
見た目だけなら未成年でも通じる反ラバース組織の長は、うっすら笑みを浮かべていた。
「あなたはショウくんとは違う。きっとあなたは私たちと本当に手を取り合える」
「なんでだよ。俺は世界なんてどうなってもいいって言ってんだろ」
「わかるでしょう? まだ時間はあるんだ。抵抗勢力は世界各地に存在するし、ラバースを世界中が危険だと理解すれば流れはきっと変わる」
香織は窓の外を見る。
断続的に車の窓を衝撃が襲っている。
東京湾上空ではまだ三馬鹿がケンカを続けているようだ。
「もう少し待って。きっと君はわかってくれるはずだから」
結局、香織はそれ以上を語らなかった。
話をはぐらかされたような不快感があるが、問い詰めるつもりはない。
この女の目に垣間見える狂気が、これ以上シンクに会話を続けさせることを躊躇わせた。




