『 今そこにある嬉々 』(天文十二年、夏)<改訂>
連歌、についての説明は大分大雑把です。
詳しくお知りになりたい御方は、wikipediaなどを参照下さいますように(平身低頭)。
昭和・平成生まれの人間が“れんが”と聞けば、“煉瓦”しか想像出来やしないだろう。
だが室町時代では“連歌”一択だ。他の選択肢など存在しない、当たり前だけど。
連歌、とは5・7・5と7・7で歌を延々と連ねていく文字通り多人数参加型の歌の連想ゲームだ。
例えば誰かが“松島や ああ松島や 松島や”と歌ったとする。これが上の句。
次の者が“それにつけても 金の欲しさよ”と繋げたとする。これが下の句。
そして下の句を受けた次の者が“春の海 ひねもすのたり のたりかな”と上の句をつけ、また次が“変な寝言を 言うのは誰だ”と繋げる。……みたいな?
下の句を付ける者は先の上の句に、上の句を付ける者は先の下の句に相応しい歌を詠い上げて初めて完成する芸術なのだ。
これは中々に難しい。教養と当意即妙が問われる高尚な遊びなのだ。
しかも御題が決まっている事があり、それから外れた歌は無粋極まりないと断じられるのである。
無理、俺には絶対に無理。教養など強要するんじゃねェ。
即妙など遠い遠い存在だよ、俺には。
どう考えても教養を武器にして当意即妙の技を繰り出し合う、言語によるバトルロワイヤル的なデスマッチだろうが、これは?
韻を踏む事に重きをおかない、ラップ対決みたいなものかね?
慈照寺で過ごすようになってから惟高妙安禅師が指南役をして下さったが……どうやら俺には風雅の感性が体格並みに乏しいらしい。
禅師は、人には得手不得手があるのが当然の事、と明るく笑い飛ばして下さったが俺は引き攣った笑いしか出来なかった。
三好長慶に対面したらどうすれば良いのだろう……彼は無類の連歌好きなのだ。
連歌が出来ないのは大きな失点になるじゃないか!
連歌の教科書もしくは正典と言える『菟玖波集』も『新撰菟玖波集』も手を尽くして取り寄せ、必死で勉強したのだけどなぁ。
勉強すればするほどに理解出来なくなる世界が、そこにあったのだからどうしようもない。もう、お手上げ。
関東の田舎武者であった足利尊氏でさえ、六十八句も詠っているというのに!
“松島や”“春の海”とか、俳句なら結構覚えているのだけどな。“痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり”とか。
……座を白けさせるだけだろうなぁ。
ガックリとドツボに嵌った俺を救ってくれたのは、若子様には“今様”がありましょうに、という禅師の御言葉であった。
“今様”。
チャらい兄ちゃんが“いまよう”と言えば、誰もが“今何があったのだ?”と聞き返すに違いない。
俺も最初、禅師が今様と言われた時に思わず“どうされました?”と聞き返してしまい、恥を掻いたっけ。
今様とは、現代流行歌って意味になるのだそうな。
後白河法皇が嵌り過ぎて喉を痛めたという逸話があるとか……カラオケ熱中時代の学生か!
後白河法皇は趣味が高じて『梁塵秘抄』って歌謡集を編纂してしまったそうな。恐るべし熱中時代のど真ん中。
平清盛が主人公になった国民的歴史ドラマでも要所で歌われていたのが、その今様だ。
“遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ”
一番有名な今様はこれだろうな。
基本は7・5・7・5・7・5・7・5で、歌詞は思いつくままの自由詩歌。
禅師から説明を受けた時、日本人には5と7の組み合わせで歌う遺伝子は万葉時代からの倣いなのかぁ、と改めて実感してしまったっけ。
そう言えば『スーダラ節』も出だしは怪しいが7・5調。宇宙戦艦の歌も7・7・7・5の歌い出しだものなぁ。
だから数百年後の現代歌謡が、室町時代の人にも受け入れられたのか!
などと気づいたのは……大分経ってからだったけどね。
室町の世と遥か未来の大きな相違は、リズムの強弱とテンポである。
『君が代』を歌うみたいにテンポを緩めるだけだったから、気にすべき点は肺活量だけである。
浦島太郎に続き桃太郎を詠い上げられた禅師達は、俺が教えた歌を思いつくまま順繰りに詠われていた。
六角堂様は御自坊でも教えておられるのか、専栄と専好も合唱を楽しんでいる。何度もこの歌会に参加している宗桂は言わずもがな。
フンフンと鼻歌で拍子を合わせながら茶を立てていた武野紹鴎師が、皆が口を噤んだ瞬間をすかさず捉えて言われた。
「然らば皆様、喉を潤されませ」
全員の手元に雑多な種類の茶碗が配られるや、禅師と大徳寺様と六角堂様は美味そうに一息で飲み干される。
専好と与兵衛は猫舌なのかチビチビと、所謂お作法通りに喫したのは専栄だけだった。
「何れも聞くは初めてながら、誠に楽しく心が沸き立ちまする。唐土にても斯様な音曲はございませなんだ」
周良法師が頻りに感心なされるが、全て昭和だと当たり前に昔から……って今からすれば未来だが、ああややこしい、少なくとも前世の俺が生まれた頃には存在していた歌なのですよ、全部。
他人の褌で相撲を取っている事を絶賛されるのが、こんなに恥ずかしいとは!
毎回毎回、穴があったら私は貝になりたい気分になる羞恥プレイは本当にキツイけれど、耐えないとなぁ。
俺のあざとい夢とささやかな野望を達成する為には、耐えないとね。欲しがりません勝つまでは、欲しいのですよ勝つ為に!
「面白うないのう」
一頻り俺提供の今様を堪能され御満悦であった禅師達と小坊主達と、俺と他二名の視線が不穏な言葉を発した一人の人物に集約する。
ポツリと呟かれたのは伯父殿であった。
手にした茶碗を口元へ運ばず床に置き、やおら立ち上がった伯父殿は衣の裾を捲くし上げるなり、俺へと詰め寄って来る。
「のう、菊幢丸よ。何ゆえ斯様に面白き事を、身内である私へ真っ先に教えぬのか!?」
いやそう言われても、貴方に会ったのは今日初めてだし。
「何か含む事あっての事かの?」
そんなに睨まれても俺は貴方の事など今の今まで知らなかったし。
「まぁまぁ義俊殿、少しは落ち着きなされ。如何に親族であったとて大人が童に凄む有様は、余り宜しいお姿ではありませぬぞ」
有難うございます禅師、最高の助け舟です。
「左様左様、御身は大寺の住持でありましょうに」
大徳寺様にも感謝を!
「仲間外れにされたが悔しいのは至極納得」
六角堂様、テンプラ火災に水をぶちまけるような物言いは止めて下さい。
「伯父殿、どうか余の話をお聞き下さいませ」
両手を就いて神妙な姿勢で謝罪をし、座が落ち着くまでに要した時間は、新たに立てられた茶を作法通りに一服するくらいであった。
本日四杯目の茶を一口飲んでから、俺は勿体をつけながら口を開く。
「さて、本日は新たな趣向を用意させて戴きました」
不満を隠そうともせずそっぽを向いていた伯父殿も含め、満座の視線が俺に集まるのを確認しつつ背後の廊下へ手を伸ばす。
「主税助、例の物を」
「地下の身でにじり入る事、何卒平に御容赦を」
朝廷においてもそれなりの格式で以って昇殿なされる方々相手には、流石の主税助も恐縮の体のようだ。
「良い良い、此処は若子様が常々申されておるように“四姓平等”の道場。他所ならばいざ知らず、当山山門以内で遠慮など無用とせよ」
「誠に忝く存じます……世子様、これに」
「済まぬ」
「滅相もございませぬ」
俺にひと束の紙を差し出した主税助は、素早く廊下まで下がった。やはり伯父殿のしかめっ面に恐れをなしているのかな?
「皆様、こちらを御覧下さいませ」
受け取った紙束の一枚目を満座の中央へ滑らせると、伯父殿が鼻を鳴らされた。
「何かと思えば、仮名の手習いではないかの」
紙には“いろはにほへと”から始まる、誰もが知る有名な『いろは歌』が記してある。俺が書いたものだけど。
この時代に来てから練習に練習を重ねたので、かなりの達筆だと自画自賛出来るくらいには……。
「誰が書いたか知らぬが、もうちと修練が必要よな」
伯父殿の一言が俺の肺腑を貫き涙が出そうになるが、今は我慢だ。
「ではこちらは如何でしょう」
『いろは歌』の上に、俺は別の『いろは歌』を重ねた。
“とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんかしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち”
「これも……手習いかの?」
よし、食いついた!
「“鳥啼く声す 夢覚ませ 見よ明け渡る 東を 空色映えて 沖つ辺に 帆船群れゐぬ 靄の中”。
言の葉とは誠に不可思議にして妙なるものにて。まるで丸い器に入れれば丸く、四角い盆に入れれば四角くなる水によく似ておりまする」
高校時代の授業は大学進学の為だけに行うもので楽しさの欠片もなかったが、受験に関係ない古文の授業だけは違った。
三年生時の担当の先生が物知りで、教科書に書かれていない雑談を面白可笑しくしてくれる人だったのだ。
“鳥啼く声す”から始まる『いろは歌』は、明治時代の新聞に一般公募で寄せられたモノで、“ん”が含まれる四十八文字で出来ている完璧な歌だと教えてくれた。
それが妙に気に入った俺は思い出す度に口遊み、高校を卒業してから二十数年経つ今でもスラスラと言える。
但し、書くとなれば妙に緊張して何枚も反故を出してしまったのは内緒だ。
「専好殿にお尋ね致しますが、御仏の教えを学ぶは容易き事でありましょうか?」
前振りなしでの質問に、専好は目を白黒させている。
「いえ、その、決して容易きものでは……」
「御仏の教えは奥深いものゆえの」
「伯父殿、その奥深き教えは平易に出来ぬものなのでしょうか?」
「出来ると言えば出来るがの、出来ぬと言えば出来ぬの」
この時代の人間にとっては初見となる『いろは歌』から目を離そうともせずに伯父殿が呟けば、他の坊様達も目を奪われたままで肯かれた。
「茶の道を御仏の教えと同然とするは僭越ながら、茶の道も御仏の教えと同じく易き道にして難しき道にございます。
茶の道は遊びであり美の探究であり……人生訓でもあるかと」
「人生訓、実に素晴らしいお言葉ですね、紹鴎殿」
「一閑斎でございます」
「皆様、余には御仏の教えとはじょ……一閑斎殿が申された人生訓と同じではないかと思えます」
「ほほう」
顔を上げた禅師が俺を真っ直ぐに見られた。大徳寺様も六角堂様も同じ目で俺に視線を注がれる。
「まるで私が明へと旅立つ際の気持ちを顕わしたかのような」
「なるほどの」
「それはそれは」
「是非お聞かせ戴きたく」
「私も是非」
伯父殿、周良法師、専栄、専好、与兵衛。そろそろ俺の方にも興味を向けてくれないかな?
「生きるも、老いるも、病みつくも、死するも、この世にて人が得る苦しみであります。その苦しみから解脱し成仏するのは生半な事ではありませぬ。
如何にすれば万里の彼方にあるかとも思える御仏の尊き教えを、会得出来るのでありましょうか?
殺すな、盗むな、淫するな、嘘をつくな、酒を控えよ。五戒を守る事が会得する一里目となるのでしょう。
私は武家の棟梁である家に生まれましたが故に、一里目に到達する事すら難しいかもしれませぬ」
ゆっくりと語れば、いつしか全員が俺の方を見て静かに耳を傾けられていた。
「されど、余は己の立場を知るが如く御仏の教えも多少は存じておりまする。踏み出す事の、一里目へと到達する難しさも。
皆様方は当然御存知として、廊下にて控える主税助も素養がある者ですので存じている事でしょう。
では、他の者共は如何でしょうか?
供侍や地下人として働く者達、洛中に住まう町衆、洛外にて狼藉を働く者達、地を耕し暮らす者達、船を漕ぎ漁りする者達は如何でしょうか?
会所にて学び始めた近習達の如く時宜を得られた者達は幸いでありまするが、時宜を得られぬ者達は如何すればよいのでしょうか?
山科御坊を焼かれても居を大坂に移した本願寺が以前よりも隆盛しているのは、南無阿弥陀仏と称名しさえすれば救われる、と御仏の教えを極限までに平易にしたからではないでしょうか?
公儀が京の五山に重きを置くのは、時宜を得られぬ武家達が瞑想する事で己の心を無にする事が出来る、そう思ったからではないでしょうか?
御仏の教えを学ぶ時宜を得ずに一生を終える者の何と多い事か」
一つ息をついた俺は手にしていた紙束を置いて立ち上がり、代わりに明治時代版の『いろは歌』を取り上げ、胸元で掲げる。
「いろは、は誰もが知る大和の言の葉。その一文字一文字に御仏の教えを載せる事は出来ませぬでしょうか?
平易な人生訓として御仏の智慧と慈悲を、日ノ本六十余州の隅々にまで広げる事は出来ませぬでしょうか?」
俺が口を噤めば、屋内には茶釜が湯を沸かす音だけとなる。
やがて、シンと静まり返った中で咳払いが一つ発せられた。
「……菊幢丸よ、それを考えよというのが本日の公案(=課題)かの?」
「左様です。釈尊は“私は心の田を耕している”と申されたと『雑阿含経』にございます。今の世の巷に行き渡る平易な教訓を皆様の御知恵にて作り出して戴ければ、と」
「何ともはや、途方もない公案を申す童よの」
「然りながら実に面白き試み」
「私でも出来ましょうか?」
「そうさの、専好に判らねば誰にも判らぬし、出来ねば誰にも出来ぬであろうのう」
「若子様」
急に活気づきワイワイと喋り出す中、再び俺をひたと見詰められる禅師。
「一つ、例を出してもらえませぬかの?」
そうだよな、幾ら教養人の集団であっても初めての事をするのに、指標となる手本がなければな。
「然れば」
俺は掲げていた紙を細く巻き、床に広げたままの『いろは歌』の最初の文字をそれで差した。
「“一寸先は闇夜なりけり”では如何でしょう」
「ほう、その心は如何に?」
「“諸行無常諸法無我”がこの世の理。
こうではないかと推察したり、こうであれと願いはすれど、本当に何が先々で起こる事など誰も知り得ぬ事でありましょう」
上方版のいろは歌留多から無断拝借した上に改変した俺って、大分厚顔無恥になってきたのかも?
「晴れる哉!」
不意に禅師が叫ばれる。それを聞いて周良法師が首を傾げられた。
「それは一体?」
「若子様が御教え下さったのよ。
当たり前が当たり前でないと気づいた心の有様は、足下の影ばかり見て暮らしておったのが、実はお天道様がこの身を照らして下さっているのである事に気づくようなものである、とな。
天よりの光は御仏の光も同然、我が蒙を払って下さる智慧の御光、晴れやかな世界を見せて下さる尊き慈悲の御光であると。ゆえに“晴れる哉”と」
「なるほど得心致しました。良き御言葉です、晴れる哉!」
「「「「「晴れる哉!!!!!」」」」」
……何だか申し訳ない気分になってきた。
以前つい口を滑らし、禅師に聞き止められて適当に言った出鱈目の出任せなのに。
日本を代表する大きなお寺のお坊さん達や当代のみならず後世でも超一流の文化人達が、よりにもよって“ハレルヤ!”を唱和されるとは。
キリスト教伝来までまだ六年もあるのに何てこったい。キリシタンもどきを発生させてしまったよ、どうしよう?
責任者出て来い、って俺だよ責任者は!
もう本当に御免なさい。
俺が明後日の方を向いて何処かの誰かに謝罪している間に、気づけば皆の合意の下で簡略にして過不足無しの規約が制定されていた。
5・7、7・5もしくは7・7の言葉の連なりで、出来るだけ判り易いものである事。
仕事が早過ぎないかな、皆様方?
そして武野紹鴎……もとい一閑斎師の立てた茶を飲み飲み楽しく自由討論……という名の即興発表会の始まりだ。
「当たり前の事に気づかぬという意味で“炉に尻向けて火を探す”は如何かな?」
「は、は、は……“腹空けば有徳も餓鬼道”。うむ良い出来と思うがの」
「ならば儂も一つ、“憎しみで華は咲かせぬ”となど。華とは勿論、蓮華の事じゃ」
「私も一つ浮かびました“鳳凰も雛で生まれる”」
教養人の必須用品である携帯用筆箱である矢立を取り出したお坊さん達は、床の紙束から一枚取っては自作を書き、得意満面となる。
言い出しっぺの俺も負けじと……と思ったが、お坊さん達の燃え盛る熱意の前に敢え無く敗退。微妙な疎外感を感じながら判じ役に徹する事とした。
宜しかろうと存じまする禅師、流石は伯父殿です、今少し平易になりませぬか六角堂様、それは自分の事か与兵衛よ、などと言っている内に陽が大きく傾いて行く。
雨が止み夕陽が照らす青葉も眩しく輝く慈照寺の境内。
「本日はこれまでと致しとう存じます」
俺が散会を告げれば名残惜しそうに矢立を仕舞う参加者達。
「然ればまた七日の後に」
それを合言葉にお供を連れて去って行く皆さんを山門から見送ると、何だかどっと疲れが押し寄せて来た。
ほぼ全部、自業自得なのが判っているだけに尚更堪える。
「若子様は実に面白き童にござりまするな」
見た目は子供でも中身は結構な年齢のオッサンですよ、禅師。色々な意味で皮を被っているのだから面白い処ではないと思いますけど。
「全く以って」
ああ精々面白がってくれよ、主税助。面白いから殺すの止めようって思っておくれ。
翌日。
寝て起きれば体力も精神力もすっかり回復しているのが、子供の肉体の素晴らしさ。前世では何日も引き摺ったものだったなぁ。
蓄積した疲れの所為で朝などゼリー飲料を半分も飲めば充分だったが、今じゃ空腹で目覚めるのだから現金なものだ。
現金、と言えば。
返り際に周良法師と武野一閑斎師とが是非とも弟子にさせて下さいと申し出ていかれた。六角堂様も弟子二人をよしなにと言われ、たんと弾ませてもらおうぞと叔父殿も確約をされる。
恐らく近日中に束脩、つまり入門の時の礼物や金銭がドカンと届く事だろう。
何せこの時代の大寺院は兎に角、莫大な財貨を持っているのだから。
境内地以外に所有する広大な不動産から上がる家賃収入、職人や商人達が所属する座にもたらされる会費収入、その他様々な方法で得られた銭を元手に行う消費者金融業。
大本山ともなればグループに属する末寺から届けられる上納金なども莫大であった。
大林宗套禅師こと大徳寺様、叔父殿こと義俊大僧正の大覚寺様、池坊専応法師の六角堂様、策彦周良法師も天竜寺の塔頭寺院の住持だし、武野一閑斎師も文化人の裏側は武具商人である。
与兵衛だとて洛中で三本の指に入る土倉業の跡継ぎだしなぁ。
そして惟高妙安禅師もまた大身であった。それも先月からだ。
慈照寺住持を兼任されたまま、相国寺の塔頭寺院である鹿苑院の院主に就任されたからである。
この時代、鹿苑院院主に就任する事は“僧録”の身分となる事だ。僧録とは国内にある全臨済宗寺院の頂点に立つ役職であった。
天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の京都五山も、別格扱いの南禅寺も、建仁寺を筆頭とする鎌倉五山も、全て“鹿苑僧録”とも称される立場の禅師の支配下にあるのだ。
臨済宗の最高位としての権勢は、各寺院にとっては大切な寺格の決定権に住持の任免権、寺領の管理や訴訟事などの事務処理の統括に及ぶ。
平安時代以降、日本で財閥と言えば寺院でありその最大はと言えば比叡山。流石に比叡山には比肩出来ぬとは言え、禅師も臨済宗という巨大財閥の総帥なのだ。
彼ら大寺院の代表者を弟子に持てば当然、入会金も月謝も大金になる訳で。
今でも大概凄いけど、これからの俺の収入を考えればゼロが幾つつくのやら……わはははは、笑いが止まらない!
因みに日日で必要な分以外は相国寺に預け、禅師の配下にきっちり運用してもらっている。利息も凄いぜ!
年利は当世では格安でも、四割だからな!
だが、笑ってばかりはいられない。
大寺院の住持とはつまり、現時点で最高の知識人でもある。古典を総覧しているのは当たり前。前世で言えばメンサとか言う高IQ集団みたいなもの。
基礎的な知識も応用である教養も、俺みたいな凡人が敵う筈もない。
俺が禅師達に勝てるとすれば、中世ではなく現代の常識と一般教養と趣味が高じて得た知識を持っている事。
衛生観念もこの時代よりはあるし、世の中の仕組みの合理と不備もそれなりに理解出来ている事だ。
禅師達が楽しまれている、現代歌謡を元にした今様などもその一つ。
しかし、今様だけではいつまでも持たない事は早々に理解出来た。
この時代の教養人は新しい物好きで、一度好きになったらそれを極めねば気が済まない人々なのだ。
俺みたいな底の浅い人間の披露する事など然程遠くない内に見透かされ、見捨てられるに違いない。だから次々に新しい何かを提供せねばならぬのだ。
昨日の『いろは教訓』、命名は池坊専好、もその一つである。
新しい何かを提供する為には、この時代では何が新しくないのかを知らねばならぬ。東求堂での自習も助五郎達との交遊も、全て情報収集の一環である。
……読書したり駄弁ったりするのが、ただ楽しいからってのもあるけどね。
何せこの時代、娯楽が少ないのだもの。まぁ娯楽に時間を費やすには少々厳しく、相当不穏だけど。
さて今日も情報収集へと向かうとするか!
近習達と供に湯漬けで朝餉を済ませた俺は、禅師の講義を受ける近習達の大半を残し慈照寺を後にした。
今日の供回りは、毎度御馴染みの三淵伊賀守晴員にトンチキ親父の側近である大舘伊予守晴忠、近習筆頭の進士美作守晴舎とこれまたレギュラーである弥四郎と与一郎の兄弟。
そして、供侍が五名。全員が新規採用だった。
ボディガード要員は何れも働き盛りであるし、将軍家の直臣に取り立てられたばかりで気合充分、気力も漲っているので頼もしいばかりだ。
新メンバーの一人目は、藤堂源助という男。
近江国の土豪に生まれながら甲斐国の武田に仕え、当主である信虎の寵愛を受け“虎”の偏諱を受け虎高を名乗りとしたものの、事情があって退転。故郷へ最近戻って来たばかりなのだとか。
虎高の知友で近江国の地侍……いや困窮の果てに半ば帰農していた田中久太郎。
同じく土豪出身である脇坂外介と中村孫作はどちらも、伊賀国守護の仁木義政が送り出してくれた人員である。
そしてもう一人。
「若子様はほんにお忙しい御身であられまする事で」
「全く以ってその通りよ」
当たり前のように俺につき従う主税助と気安い仲になった男、その名は滝川彦右衛門!
誰もが御存知、滝川左近一益だよ、お立会い!
未だ二十に満たぬ年齢ながら虎高同様に生家を離れブラブラしていた処、親族である孫作が将軍家直臣になると聞きつけて慈照寺の山門を叩いた、図々しい若造だ。
村井貞勝がやって来た翌日に滝川一益が仕官を求めて来るのだもの、あれあれ俺って信長に転生したのだったっけ、と首を捻ったものだった。勿論違うけど。
名前を聞いて即採用したが、三淵は小汚い胡乱な若者に厳しい面を極限まで険しくした。しかし孫作が身元の確かさを保証したので事なきを得る。
ここで捕まえ損ねたら二度とは出会えぬ未来の大物だもの、初出勤早々グッジョブだぜ孫作!
その内、武野一閑斎師の弟子にして茶器狂いにしてやろう。
八代義政が残した東山御物には名品の器がゴロゴロあるぞ、どうだ参ったか。
まだ相続してないけどな!
因みに今日の供侍は未来の大物の親ばかりだ。まぁそれを見越して採用したのだけど。
虎高以外だと、久太郎は田中吉政の、外介は脇坂安治の、孫作は中村一氏の、父親達。誰も彼もが太閤秀吉の創業を助けた綺羅星の如き功臣達だ。
しかも一氏以外は全員、徳川時代も生き残った兵ばかりだぜ、イヤッハー!
……とは言え、未だ誰一人してこの世に生まれてないけどな!
虎高と孫作は妻帯者だが、外介と久太郎は独身なのだし。獲らぬ狸の皮算用ばかりで破産しないように気をつけねば。
まぁ稼いだ銭は唸るほどあるし、彼ら新規採用組の給金を高目に設定してもまだ百人やそこらは雇っても、強固な物置の屋根みたいに大丈夫!
「無駄口を叩かず神妙にお役目を務めよ」
三淵がヒソヒソ話に勤しむ石成主税助と彦右衛門の二人に雷を落とせば、俺が跨る馬の口を取っている大館伊予守がクスクスと笑う。
俺もつい忍び笑いをすれば、三淵はギロリと俺を睨みつけた。
「若子様も身を謹みなされい」
おっとこっちにも雷様のお怒りが、桑原桑原。
さてさて今日も今日とて、やって来ました政所。
日本のあらゆる場所から発信される公式情報が、それなりに集まる場所である。
各地の守護や土豪やその他の者達が己の権利を主張する書状が、毎日のように届けられるからである。土地を獲得したから認めろ、土地を奪われたから何とかしてくれ、官位をくれ、権利を侵害されたから調停してくれ、などなど。
六代義教の頃までなら、幕府にも力はあったからまぁ何とか出来た事もあったけど。義教が暗殺された嘉吉の乱以降は……更に応仁の大乱発生後は……。
絶賛死にかけ中の将軍家に、伊勢を長とする官吏達の御蔭でどうにか機能している公儀に、百年前みたいな調停能力などありやしない。官位の授与が精々だろう。
上皇が“治天の君”として君臨し中級ながら実務に長けた貴族達と行っていた側近政治の時代。
その仕組みの乗っ取りを図った清盛の平家政権。
京都とは別の場所で武家による政権を樹立し日本を東西に別けて運営しようとした頼朝の鎌倉政権。
承久の乱で上皇の権限を否定し、武家による統合支配を目論んだ北条家の執権政治。
北条家の政治は一つの完成形であったが、全ての富を分捕りし出し平家化した事に西日本の土豪達……所謂“悪党”達は不満を持ち、後醍醐帝を御輿として担ぐ。
しかし悪党達は所詮が地方の中小零細である。彼らだけでは政権の転覆は成し得なかった。東国武士の名門である足利家が立つまでは。
尊氏こと高氏が倒幕の旗を翻した結果、北条政権は終焉する。
ところが後醍醐帝が実情に合わぬ“治天の君”による側近政治を始めた事で、武家達は再び立ち上がるのだな。
南北朝の争いとは、現状を排して旧態に戻る政治と現状を維持しつつ新規を望む政治の激突であったと、俺は理解している。
そして旧態は敗退し、三代義満の下で新しい政治が始まる。
京都と鎌倉が並び立つ両頭政治ではなく、西が東を従える形の武家による単独政権の誕生だ。
東は土地に価値を見出し、西は貨幣経済を主とする。つまり重商主義が重農主義を上回ったって事だよな。
土地に限りはあるけれど、銭には限りがありゃしない。
限りが無いって事は、銭を持つ者が権力を掌握するって事である。
銭の無い朝廷や武家は風下で逼塞し、銭のある武家や寺院が風上で左団扇を使う時代の到来。
銭のある武家とは、応仁の大乱で斯波氏と畠山氏を蹴落とし三管領の中で独り勝ちした細川氏だ。決して足利将軍家ではない。
だが誰にも必ず訪れるのが栄枯盛衰。
独り勝ちした細川氏も斯波氏や畠山氏と同じ道を辿って今は分裂し、身内の争いを数十年来今に至るまでずっと続けている。
強者が弱体化し始めれば、強者の下で実力を蓄えていた者達が勃興するのは世の理。
銭と土地を掌握して伸し上がったのが関東の伊勢氏こと後北条氏であり、中国地方の大内氏や尼子氏であり、筑紫の大友氏などである。
やがて三好氏、織田氏、長尾氏改め上杉氏、毛利氏、島津氏が新たな強者として君臨するのだけど、今はまだその片鱗を見せ始めた処だろうか?
室町時代中期までは曲がりなりにも存在し機能していた中央政府が、後期となった現在は機能不全となっていた。
機能不全中の中央政府を実効支配している細川氏は、内ゲバに終始するポンコツ一族でも威勢に未だ翳りはない。
義満の魂も、戦乱で焼かれ多くの堂宇を失い金閣くらいしか残らぬ鹿苑寺で、さぞや盛大に溜息ついている事だろう。
……細川氏に過大な実権を握らせたのは義満本人なのだから、さ。もしかしたら苦笑いかも。
足利将軍家の子孫として生きている当世の俺は、溜息はつけども苦笑いで済ませる余裕など何処にもない。
元服前の童子の身で生き残り戦略を立てねば、どうしようもないのが実情だよ、トホホのホ。
トンチキ親父みたいに逃げ回った挙句、流浪先で惨めに生涯を終えるのは嫌だしなぁ。まだ死んではいないけど、
史実通りに時間が進めば六年後にトンズラ先で病死するのだ。享年四十歳。迷走し捲った不惑の男、近江に死す。
まぁ俺も史実に従えば……二十二年後に古くて邪魔だからと、ぶっ殺される運命だ。
ちょっとした行き違いから始まったイザコザが拡大して、永禄の変になったという説もあるけど、実証実験して検証するなど絶対嫌だ、御免蒙る金輪際!
その為にも生存の道を今から舗装しなければ。明日の為のその一は、地道な情報収集からだ!
一昨日振りだな、伊勢伊勢守! 今日も来てやったのだから、そんなに面倒臭そうな顔を見せるなよ。仕事の邪魔は……そんなにしないからさ。
ズカズカと執務部屋に上がり込んだ俺は、伊勢の前に積み上げられた未決裁の書類に早速手を伸ばす。
「政務に意を向けられる御志は誠に素晴らしき事ではございまするが……」
そうだろう、そうだろう。
「されど世子様の御身分は、世子様の御身分でしかござりませぬのですぞ」
そうだよねぇ、全く残念だよなぁ……おや?
「世子様」
ちょっと待て、伊勢。小言は後で幾らでも拝聴するから。馬耳東風的にだけど。
「若子様」
三淵も五月蝿いな、ちょっと黙っていてくれないか。
「誰かある、薬師を呼べい!!」
「世子様、御乱心召さるな!!」
何だよ皆、静かにしろよ!
予想外にも御宝を手にしてしまった感動を抑えきれず、宴会芸として覚えたパラパラをつい踊り出してしまっただけだろうが?
「医師はおらぬか!?」
「世子様、何卒御大事に御大事に!!」
前回に引き続き、今回も新規採用組の紹介を。
村井貞勝公も滝川一益公も他の人物も織田家や羽柴家に仕える前の若者時代があやふやですので、wikipediaなどを参照しつつ設定をでっち上げました。どうか宜しく御寛恕下さいますように。
高校時代、古文や漢文の授業が好きでしたので、私は約三十年経った今でもその時にならった和歌や漢詩を幾つも諳んじる事が出来たりします。