『 ワン・カップ・オブ・抹茶 』(天文十二年、夏)
サブタイトルを変更しました。本文は微調整のみにて。(2021.03.31)
誤字誤表記の御報告に感謝を!(2021.04.05)
先ほどまでザーザーと五月蝿かった雨音も、いつしか耳をそばだてねば聞こえぬほどにはおさまっている。
四月の終わりだというのに、今年は走り梅雨なのかも知れないなぁ。
「若様、そないにけったいなもんばかり買い集めなはって、どないしますのん?」
「そうですわ、もっとええもんが世の中にはたんとありますのに」
「まぁ私ら商いするもんからしたら、きっちりとお足払うてくれはるんやから差し出口する筋合いやあらしまへんけど」
判ってないなぁ、お前ら。国宝級のお宝を手に取って撫で回す事が、どれだけ至福な事なのか。
数百年もしたら、お前らが団子食って茶をしばいているこの部屋だって一般人立ち入り禁止になるのだぞ?
国宝どころか世界遺産の一部だからな、この東求堂は。
そんな場所を書庫兼勉強部屋兼寝床にしている俺が言えた義理じゃないけれど、さ!
「この素晴らしさが判らぬとは、その方らもまだまだ青いな」
「葵、ですか?」
「ウチらは野っ原の草と同じって事ですかいな?」
「若様が申されたのは葵ではなく、青い。つまり熟す前の青柿のようだとあんさんらを例えられたのでしょう」
「ははぁ、なるほど! それは何とも判り易い例えでおますな」
「先の“ぐうぱん”や“能古面”のように我らの知らぬ例えをなされまするが、その御言葉には全て真意が込められているのだと気づきましたので」
「それで若様の御言葉を帳面に逐一書き留めとるんか与兵衛は?」
「左様です」
「唐人の如く難解な若様の通詞役は、これからも与兵衛にお任せやなぁ」
何やってんだか、全く。もっと他に学ぶべき事があるだろうに。
「宜しいでしょうか?」
いつものように皆でワイワイと駄弁っていたら、廊下から小者の声がした。
「皆様、御揃いの由。若子様には書院へとお渡り戴きたく存じまする」
「あ、もうそんな刻限か」
「ほな、ワテらはお暇させて戴きますわ」
「せやな、ワシもボチボチと」
「ウチも用事を思い出しましたので」
「偶には一緒にどうだ?」
「堪忍堪忍、お師匠様と膝を並べて座るやなんて御居処がむず痒うなるさかいに」
「ワシも勘弁勘弁ですわ」
「ほな若様、またお伺いさせてもらいます~」
天王寺屋の助五郎は、御居処……もとい尻に帆を掛け、後藤小一郎と中島四郎左衛門と連れ立ち、挨拶もそこそこに東求堂を去って行った。
いつもながら全く仕方ない奴らだ。学を高める絶好の機会だと言うのに。
「ほな、参りましょうか」
一人残った吉田与兵衛が如何にも待ちきれないといった笑顔で俺を促す。こいつはこいつで物好きだなと思う。
やれ、ドッコイショと。
俺は尖った縁の内側に様々な架空生物をあしらった銅鏡をもうひと撫でし、文机の上に置いた。既に何枚も持っている銅鏡なのだが、助五郎達が新たな物を持ち込む度にそれなりの銭を払って購入している。勿論、土器も。
……まさか墓荒らしをしているのじゃなかろうな?
次に来た時は問い質さないといけないかもな。文化保護が目的なのに文化財破壊を促進させたら本末転倒だし。
積み上がった典籍やら収集した古代の遺物やらで雑然とした東求堂を出ると、小者を先頭に与兵衛を従え渡り廊下を歩く。
いつもなら近習達の鍛錬の場である中庭も、今日は静かなものだ。
流石に雨天時に外で刀を振る者はいない。もしいたら、体を壊すだけだから止めろと言う処だけれど。
雨中に飛び出して行った助五郎達も風邪を引かなきゃいいがと思いつつ、くの字に曲がった渡り廊下から泉殿へ。
泉殿の前を通過して次の渡り廊下を進めば、会所へと到る。
一般家庭で言えば客間に相当する会所、そのぐるりに廻らされた廊下から屋内を覗けば、約二十名が一人一つの文机を前にしてああだこうだと頭を悩ましていた。
三ヶ月前まではこの慈照寺で寝起きする供回りの者達は指折り数えられるほどであったが、今は随分と増えている。
全て政所執事である伊勢と、何気に顔の広い惟高妙安禅師の御蔭と……ポンコツ管領の差し金だ。
先ずは新たな近習達の名を並べてみよう。
蜷川大和守の嫡子、新右衛門。
荒川治部少輔の嫡子、勝兵衛。
高和泉守の嫡子、五郎右衛門。
彼ら三人は宗武入道の受講生として既に顔馴染みの面子である。
蜷川家の縁故関係から、石谷三郎左衛門。
先々代の頃まで足利将軍家に武家故実の伝授者であった京都小笠原家の次世代を担う、又六。
トンチキ親父の側近である大館常興の孫、十郎。
先日まで流浪の身であった和田弾正忠の子、伝右衛門と新助の兄弟。
以上の五名は代々の公儀に出仕する武家の子息達である。和田弾正忠は新参者のペーペーだけどね。
公儀関係者以外を出自に持つ者ならば、宇治の国人領主の次世代で遡れば一色氏の系譜に連なる眞木嶋孫六郎。
近江国人領主、多羅尾四郎左衛門尉の長子ながら庶子である助四郎。
同じく国人の山中家の庶流である甚太郎。
国人よりも勢力の小さい近江国の土豪からは、速水家の兵右衛門。
同じく土豪の木村家の半兵衛。
土豪よりも更に弱小の立場である近江国の地侍の子、九郎太郎と九郎次郎の河田家兄弟。
宇治から来た孫六郎は、公儀の軍事部門であった侍所を交代で担当する四職の一家である一色家が送り込んだ体を取っているが、実は俺の指示で召集した者である。
京と堺を繋ぐ道筋の中間にある要衝、宇治一帯を領する眞木嶋家を是非とも取り込んでおきたかったからだ。
他の近江国出身者達は全て、禅師が推薦してくれたのだ。素晴らしき仲介者に万歳三唱!
より正確に言えば、伊賀や伊勢などの守護家として昔は名門氏族であった仁木氏を相続した、左馬頭義政が送り出した者達である。
近江守護の六角定頼の兄の子であり、将軍家御相伴衆にも名を連ねる仁木義政は昨年、ちょっとしたしくじりを犯した。
戦国時代初頭を代表する暴れん坊のひとり、木沢長政が大暴れをしていた最中に彼の居城たる笠置山城に奇襲攻撃を仕掛けたのである。
攻撃命令の発信元は、何を隠そう足利将軍様であるトンチキ親父だったり。
洛中から発せられた無茶振りに、仁木義政は戦史上初の試みを行う。
それは忍者のみで構成された特殊部隊による攻撃であった!
しかし城郭の一部を焼いただけで撃退されてしまい、画期的な試みは敢え無く失敗。成功していれば歴史に燦然と輝く偉業となったかもしれないが、失敗だったので実に微妙な日本初となってしまったのだけれども。
死傷者多数の結果に頭を抱えた義政は、別の形で失敗を補填しなければならなくなったのだ。
そこに助け舟を出したのが誰あろう禅師である。
先に採用した和田一家もその流れで公儀の一員となり、その他の者達も全員は無理であったが出来る限り俺が救済……と言う名目で配下としたのだ。
笠置山城攻めの命を発した将軍家は仁木家の失態を咎めずとの姿勢を打ち出す事になり、引いては間接的に六角家へも大儀であったと伝える事になる。
仁木家は配下の者達が出した損害への補填をほぼ無償でする事が出来た。
次期将軍の直臣に取り立てだもの、これ以上の恩賞はなかろう。
禅師は頼もしき人物であると評価を更に上げ、俺は人材登用を労せずに成功し三方四方が万々歳なり!
処が、だ。
全てが俺の思惑通りになりはしなかった。
ポンコツ管領が首を突っ込んできやがったのだ。細川家の被官筆頭である茨木伊賀守が連れて来たのは、細川家が掌握している丹波国や摂津国の国人達の子弟達。
是非とも御傍に、とお為ごかしに頭を下げる茨木伊賀守は苗字の通り摂津国茨木城の城主で、元は細川家に敵対する国人領主の一人であった。
それが細川家家臣の三好元長の推挙を受け帰順するや、あっという間に立身出世。遂には三好元長を死に追いやって、細川家内での地位を磐石とする。
つまり元長の子である三好長慶の、憎き仇の一人なのだ。
そんな胡散臭い野郎めが連れて来た者達だ、どんな奴らかと思ったら……それはまぁとんでもない奴が混じっていやがった。
丹波国人、赤井越前守時家の次男である、五郎次郎。
矢鱈と体のデカイ、利かん気の強そうな奴だ。もしかしてこいつ、悪右衛門直正なのかも……だとしたら“マジか!?”の一言しかない。
長慶の忠臣松永兄弟の弟である長頼を殺し、明智光秀の丹波攻めを一遍は頓挫させ、最後は戦場ではなく布団の上で病死した荒くれ者だよ、直正は!
まぁその鼻っ柱は早速、三淵弥四郎に圧し折らせたけどね。
ひとつ違いとはいえ、年下に力比べで負ければ田舎者の矜持などケチョンケチョンのパーだ。……コブラツイストを教えておいて本当に良かった!
他には摂津国人、池田筑後守の嫡子である弥太郎。
こいつは大人しくて地味だから良いとして。
一番の問題児は、神介ってふくよかな少年だった。
何とも恐ろしい事に政勝の年の離れた弟である。……よりにもよって長慶の宿敵である、政長の次男坊だ!
元服後の名前は確か、為三。真田十勇士の三好伊佐入道のモデルとなった人物だった……とか何とか。
ああ、何てこったい、これは先が思いやられるぞ!
と思ったのは最初だけで。
彼らが此処に居ついて一ヶ月も経てば、心配し過ぎる必要はない事を実感出来た。今はのんびりと構えている。
理由は簡単、所詮彼らは元服前の子供だからだ。
下は同世代から上は十代半ばまで。前世の人生と合わせれば既に五十年以上も生きている俺に、そんな子供達が敵う筈がない。
小賢しい子供の振り回すちゃんちゃら可笑しい小理屈など、ひねた大人が振り翳す捻じ曲がった屁理屈の前では文字通りに児戯に等しい。
なぜなぜ期の幼児ならば梃子摺るかもしれないが、分別がつくまで其々の御家庭でそれなりの教育と礼儀作法を学んだ者ばかり。
つまり口では俺の方が勝り、体力では俺の方が劣るものの、身分を越えて逆らうほどの馬鹿ではないって事だ。
これからじっくりと時間をかけて洗脳すれば良いだけの話。
脳髄の奥の奥に忠誠心を焼き鏝で刻印しさえすれば、菊幢丸様万歳、若子様に栄光あれ……となるに違いない。
会所内で今も行われているのが、その忠誠心育成の一環だ。教師役と担当教科は次の通り。
武芸は今までと同じく吉岡道場に依頼していた。
吉岡道場初代の直元は、トンチキ親父が若かりし頃に何れかの戦いで危難を救ったとかでお気に入りとなり、将軍家兵法指南役となっている。
今は直元を改め、憲法を号する渋いオッサンだ。苗字が十七条じゃなくて良かったな。
憲法の弟である清八郎直光が俺の指南役を務めており、最近は道場ではなく慈照寺まで訪問講習をしてくれている御蔭で……俺も仕方なく木刀を振るったりしていた。ああ肩が痛い。
武家の心得や礼儀作法指南は、武だけではなく文も弁えた三淵晴員が強面を更に厳しくして、熱血教師となっていた。暑苦しいが仕方がない。
四書五経の素読と習字と精神鍛錬の教官は、これからお会いする惟高妙安禅師。序でに禅師の連歌仲間にもお暇な時に指導を御願いしていた。
何て最強の講師陣であろうか!
銭を山と積まなきゃ受けられない、世界で一番の授業内容である、多分。
そして和算の基礎と応用を担当させているのが極めつきの人物!
名を、村井吉兵衛と言い、相国寺の“侍法師”筆頭の縁者である青年だ。
侍法師とは、格式のある寺院に勤める僧侶でありながら半ば還俗状態で警護や雑務処理を担当した者を指し、決して低い身分ではないそうな。
吉兵衛と出会えたのは全く以て僥倖であった。
何せ史実では、織田政権で京都所司代を恙なく勤めた能吏、村井春長軒貞勝となる人物なのだもの。彼もまた近江国出身。
引き合わせてくれたのは、やはり禅師だ。
偶さか用があり、相国寺を訪れた際に禅師と親しげに会話している場で遭遇したのである。何者かと訊ねれば、相国寺にて主計方つまり会計を担当しているとの事。
仕事は面白いのか、と続けて訊ねればゴニョゴニョと口を濁す。
もしや、ハンターチャンス?
そう思った俺はその場で誘いをかけたのだ、傍仕えにならないかと。
即答は避けられたが、三日後には慈照寺の門を叩く姿があった。
両手を上げて歓迎した俺は文を書き、身辺に置く者達の一覧とその身分保障の確定を望む事と、併せて吉兵衛を士分に取り立てたい旨を早速トンチキ親父へと申し送る。
返事は一言、自侭にせよ、であった。
伊勢の添え状には俺の台所料を若干増額するとあり、くれぐれも自重あるべしとの諫言も記してあったので、伊勢が上手い事取り計らってくれたのかな?
数日後、新規採用組全員を率いて“花の御所”へと行き御礼方々御目見えの儀をしたら、珍しく穏やかな顔で“励め”とだけ言った事にも吃驚だ!
新規採用組は感激頻りで嗚咽を洩らす者もいたが、俺は冷めた思いで頭を下げながら首を傾げていた。何でこんなに聞き分けが良いのだ?
まぁ同席していた茨木が口を挟みウダウダと言い出した途端、いつも通りの癇癪を爆発させたから俺の気のせいかも。
這う這うの体で“花の御所”を逃げ出した俺達はそのまま政所へとレッツラゴー。
政所の者達へ面通しをし、今後は俺のお使い役として近習達は走り回らせる予定だ、顔と名前を覚えて貰わなければ。
序でに伊勢の小言に頭を垂れる。
稲穂みたいにいつかは俺の願いも実りますように。新しき供回りの者達も史実通り一角の武将となりますように。
かと言って、史実通りになったら俺に殉じて落命したり敵味方に分かれて相争ったり、秀吉や家康の時代まで生き残り幕末明治を迎える子孫を残したりするのだが。
殉死や対立とならぬよう、俺自身がこれからの事を上手くやらなきゃなー。
屋内で教鞭を取る村井吉兵衛が威儀を正して俺へと一礼すれば、会所を学び舎とする少年達も一斉に姿勢を調えて礼を尽くしてくれた。
結構結構コケコッコー。
励めよ学べよ少年達、大志を抱いて羽ばたき給え。期待してるぞ頼んだぞ。大切な勉強中に涎垂らして居眠りしてるんじゃねーぞ、赤井五郎次郎!
会所の外周を過ぎた所で、一旦屋根とはおさらばだ。
用意された浅沓を履き、小者が差し掛ける傘で小振りの雨を避けつつ石畳の小道を、足を滑らさぬように慎重に歩く。便利だけど不便なんだよなぁ、浅沓って。
本来ならば慈照寺の主が生活空間として使用する常御所の横を通り、その裏に設けられた書院へと。
書院は公に開かれた会所と違い、身内や身内に準ずる者を応接する私的な空間である。今は禅師の寝起きする私室となっていた。
縁に上ると、小者がいそいそと手拭で軽く衣を払ってくれる。
その姿は昔から俺の世話をしてくれている従者のようにも見えるが、こいつも実は新参者だ。しかもその上、曲者中の曲者。
何せ、石成主税助だからだ!
先日の洛中ブラリ歩きの直ぐ後、気がついたら慈照寺の一員に潜り込んでいやがったのだ。
“何故ここにいる”と質せば、“是非とも御傍にてお仕えさせて下さいませ”と言いやがる。
丁重にお断りをいれようかと思ったが、はたと考えた。
もしこいつを篭絡出来れば……と。成功すれば三好三人衆は結成前に解散するかも?
顔を合わせれば言葉を交わすくらいには仲良くなれた政勝さえも、近習として出仕している弟の神介を経由すれば調略出来るかも!
これで三人衆など史実から存在しなくなるのではなかろうか!?
残る一人は三好長慶側の重鎮だけど、今後の行動次第で三好三人衆の全員が俺の味方になってくれたりして?
やったぜ、寿命を延ばせる可能性が出来てきたぜ!!
であれば断る必要などありやしない。
二つ返事で許可をして、トンチキ親父に提出した一覧表にも確り名前を載せましたともさ。
政所では伊勢が何とも微妙な表情をしていたが、主税助を俺に引見させたのは伊勢の方だからな。
そちの人物眼は確かであったと褒め称えれば、口を噤むしかないのが宮仕えの辛い処だよなぁ。
判るよ判る、俺も前世でそうだったもの。雇われの身は決して気楽じゃ務まらないよな!
「待ちかねましたぞ、世子殿」
お待たせ致しましたと襖の外から声をかければ、中からは禅師とは違う枯れた声が発せられた。
然らば御免と襖を開け、膝就いたままで中へと躙り入ると、常の如く朗らかな笑顔の禅師と他六人の大人と二人の少年がいる。
いつもなら禅師を含め同世代の爺様の三人だけで、何となく病院の待合室っぽい雰囲気なのだが……今日は何だか将棋教室か碁会所っぽい感じだな。
「さぁさぁ師匠、こちらへこちらへ」
「大徳寺様、その“師匠”は止めて戴けませんか?」
「何を言われる、還暦を越え先々は灯火の尽きるを待つばかりと思うておったに、孫ほどの幼き年頃の御子に新たな楽しみを授けられようとは、夢にも思わなんだ。
拙僧の知らぬ事を御教え下さるのじゃ、師匠を“師匠”と呼んで何の不都合があろうか?」
「左様左様、六角堂殿の申される通りよ」
がっくりと肩を落としつつ改めて初見の人達を眺め回せば、子供達の一人は俺と同じくらいの可愛らしいクリクリ坊主で、年長の方は落ち着いた風情のツルツル坊主だ。
四人いる中年の内、一人は茶を立てていて、一人は親しげな笑みを浮かべておられ、後の一人は興味深げに俺を伺っている。
顔馴染みの爺様三人衆である禅師、大徳寺様、六角堂様は七日前と何ら変わりなく皆がニコニコとなされていた。
大徳寺様とは助五郎の禅の師匠である大徳寺第九十世の現職、大林宗套禅師。
六角堂様とは下京にある頂法寺の御住職、池坊専応法師。
大徳寺といえば一休さんや沢庵和尚が修行した古刹で、時代劇のロケ地や納豆や紅葉で観光客にも御馴染みの巨大寺院。
南北朝時代に後醍醐天皇との関係が深過ぎた為に建武親政崩壊後に冷遇され、京都五山よりも上位の立場から転落させられる。
処が時代の変移は面白いもので、将軍家と疎遠になったが故に世俗的な政治と無縁になり反って禅道場として隆盛したのだ。
室町時代の後期……現時点だけど、文化の一大発信基地となっている。
頂法寺は本堂が六角形なので通称が“六角堂”、創建には聖徳太子が関わっている古刹だ。聖徳太子と言えば法隆寺の八角形のお堂“夢殿”が有名だけど、飛鳥時代は方形よりも多角形が尊ばれたのかね?
八代義政の頃に発生した山城大飢饉、その際に救済小屋を建て、粥施行を行って以降、下京の住人達の心の拠り所となり危急時には此処の鐘が乱打される防災センターとしての役割を果たしている。
後世では、華道・池坊家発祥の地として有名だ。
宗套禅師と談笑しておられる専応法師は、池坊家を華道最大派閥の家元となされた日本文化史に名を刻まれた偉人さんなのである……闊達なお爺ちゃんなのだけどね。
「お初に御目にかかる御方々を紹介して戴けませんでしょうか?」
「おお、これはしたり!」
見知った人よりも見知らぬ人の方が多い状況に俺が困り声を出すと禅師が、……大徳寺様も禅師だが俺にとっての禅師は惟高妙安禅師のみ、ピシャリと額を叩かれた。
「然らば拙僧が紹介致そう。そちらにいるのが鹿苑寺を焼け出されてから所定まらずフラフラと徘徊し大内の催した遣明船で大海を渡り、唐国でもフラフラした挙句に一昨年漸く戻って来た風来坊じゃ」
「策彦周良と申します……もう少しまともに紹介して下さいませんか、六角堂様」
「何か間違っておったかの?」
「いえ、些かも間違いはございませんが」
「ならば良かろう。こちらの小坊主共は拙僧の孫弟子の、専栄と専好じゃ」
「専栄にございます、世子様にはお初に御目にかかります」
「専好にございます、以後宜しく御願い申し上げます」
策彦周良上人がゆっくりとお辞儀をすれば、少年の専栄が静かに子供の専好が元気良く頭を下げる。
「周良法師、専栄殿、専好殿、こちらこそ何卒よしなに」
「私は別に自己紹介などせずとも良かろうの?」
最初からずっと俺の事を親しげに見ていた方が身を乗り出されるが……はて、誰だったのだろうか?
「何じゃ、私の事を忘れたのかの?」
俺が見えない疑問符を浮かべながら曖昧に微笑むと、身を引き何とも残念な事よと首を左右に振りながら嘆息されるお坊さん。
はてさて一体、どなたさんだろう?
「大覚寺殿、世子様といつお会いになられましたので?」
「……周良殿が明より戻る前であったかの」
と言う事は俺が菊幢丸として爆誕する前の事?
すまんね、ソーリー、御免なさい、流石にそれでは知らないわ。取り敢えず平謝りしておこう。
「面目次第もございませぬ」
平伏すれば頭上を快活な笑い声が通り過ぎる。
「よいよい、菊幢丸殿も大樹公や京兆殿(=細川晴元)の都合に左右され居所定まらぬ日々であったのだからの。
……然れど伯父の顔くらいは覚えておいて欲しかったがの?」
え!? 伯父さんだったの!?
「私はそなたの母御、御台所様の兄。前の関白殿下の弟である義俊よの。近頃は禅意を号しておるがの」
「大覚寺の御門跡様でもあらせられる御方じゃ。若子様には実に頼りになる伯父御殿ゆえ、改めて親しくさせて貰うが宜しかろう」
はい、禅師。御忠言誠に忝く存じます。
「御無礼を致しました大覚寺様。向後宜しく御指導御鞭撻下さいますよう切にお願い申し上げます」
「私の事は“伯父殿”で良いぞ。菊幢丸に大覚寺様などと呼ばれては、近衛館で何を言われるやら判ったものではないゆえの」
「御配慮に御礼申し上げます、伯父殿」
赤くなり青くなりしながら何度も頭を上げ下げしていると、目の前に茶碗が一つ差し出された。
「先ほどから拝見致しておりますれば、世子様も汗をたんと掻かれてさぞや喉が渇いてお出ででしょう。拙きながら茶を立てさせて戴きましたので、どうぞ喉なと潤されますように」
あ、これは有難い!
「忝し、頂戴致しまする」
……美味い、何て美味いのだ!
「一閑斎の立てた茶は美味かろう?」
「はい、素晴らしく」
「一閑斎とな? 紹鴎はいつから左様な名乗りをしておるのだ?」
「周良様が明へお渡りになっている間にですよ」
え、じょうおう?
「まるで浜に戻った浦島太郎のような気分であろう、周良よ?」
「浦島太郎? はて、それは一体?」
「“師匠”が教えて下さったのよ、新しき今様での」
“むかし~むかし~浦島が~”と六角堂様が歌い出されると大徳寺様も御唱和され、禅師も一緒に声を合わされた。
「『万葉集』にて高橋虫麻呂卿が物語っておるであろう。
“水江の、浦の島子が、鰹釣り鯛釣りほこり、七日まで家にも来ずて、海境を過ぎて漕ぎ行くに、海神の神の女にたまさかに、い漕ぎ向かひ、相とぶらひ言成りしかば、かき結び、常世に至り、海神の神の宮の内のへの妙なる殿にたづさはり、ふたり入り居て老いもせず、死にもせずに長き世にありけるものを”とな。
世子様はそれを今様に仕立て直しなされたのじゃ」
「何と!」
「実に面白き歌にございまする」
「ほんに童にも判り易く」
専栄と専好が口々に褒めてくれるが、すまんそれは戦前からある童謡なのだ。戦前と言っても応仁の大乱じゃないけどな、って京都ジョークを言いそうになったぜ、HAHAHAHA!
「歌うたら喉が渇いたの」
「はいはい、お師匠様。然れば皆様方にも一服進ぜましょう」
「雑器しかないが」
「器など何であれ宜しいのですよ妙安様。座を同じくする者が親しく喫せるのであれば、器の良し悪しなどどうとでも」
「流石は珠光殿の一番弟子よの」
「一閑斎を号するからには拙僧の弟子じゃ」
え? じゅこう? え? え? ちょっと待って皆さん?
「初めて御意を得ます、私は堺にて武具や皮などを商っておりまする武野一閑斎と申します。以前は紹鴎などと名乗っておりました」
そうにこやかに挨拶されたが、俺の方はそれ処じゃない!
何でそんな有名人が此処にいるのだよ!
「お師匠様の“師匠”にも、もう一服差し上げましょうほどに」
そんなこんなで本日のティーブレイクは、お腹チャプチャプ思考アップアップの溺死状態で始まったのであった。
「本日は賑やかでようございますね」
悪いが与兵衛、そんな鷹揚に構えられるほど俺は大人物じゃないよ……。
登場人物の説明補足は、2018.02.01の活動報告「新規採用組の補足説明。」を御参照あれかし。