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『 土岐よさらば 』(天文十六年、秋)

 皆様、ひと月ぶりで御免なさい。

 サブタイトルが出オチなのも御勘弁を。

 細川与一郎の設定改訂も先送りにさせて戴きたく、御了承あれかし。

 早速の誤字の御指摘に感謝を!(2020.10.28)

 帰洛して最初にしたのは、トンチキ親父殿への報告だった。

 もう微に入り細に入り、表沙汰にして良いことだけは余さずキッチリと伝えさせてもらったぜ。多分、黙っていたことも、三淵から包み隠さず報告されるだろうけどさ!

 次に威儀を整えたら御伺いを立ててからの宮中参内だぜ。

 付き添いは勧修寺卿に飛鳥井卿に山科卿という、朝廷に不義理ばっかりして来た足利将軍家とすれば蔭に日向に手を貸して下さる実に有難い御三方である。俺がダルタニャンなら三銃士みたいなものか。決して犬・猿・雉や、猿・豚・河童じゃないから、そこんところヨロシク!

 心の中で揉み手をしながら御簾の下ろされた上座に向かって平身低頭。直答を許すとの御言葉に恐懼しながら、当たり障りのないよう結果だけを言上するのが尊王篤き忠臣の務めってヤツだ。全ては御上の御威光の賜物であると、液状になるまで胡麻を擦り捲るのもな!

 両細川の休戦協定成立には洛中において、近衛家には色々と政治工作をしてもらった。だがそれは朝廷における近衛家の地位向上に寄与した筈。金銭面でも余禄が産まれたに違いないよね、そうだよね?

 なので御簾の近くにしれっと坐している内大臣の龍丸には“何か奢れ”とアイコンタクトしたが、ふいっと目を逸らされてしまう。畜生、絶対にたかってやるから覚えてやがれ。尻の毛まで毟り取ってやるからな!

 ああ勿論、左大臣の二条公は徹頭徹尾完全無欠に無視してやった。


「典厩(=左馬頭の唐名)、誠に大儀なり」


 有難き御言葉を直に頂戴し内裏を出た俺は、ビー・フリーだぜ!!

 馬上の人となった途端に思わずガッツポーズを取ってしまい、三淵や与一郎のみならず馬の口取りをする石成主税助にまで怒られてしまったのも、今となっては良い思い出である。昨日の話だけどな。



 そして瞬く間に日が過ぎる。大体、二週間くらいかな。

 堺で重ねた落着かない日々から、地に足着いた地元での食っちゃ寝生活。なーんて、嘘だよ、オーマイガ!

 朝飯食ってから夕餉の膳が運ばれてくるまでの間、政所からピストン輸送されてくる暴力的な書類の山を決裁する。中食(ちゅうじき)の前後は、吉岡憲法の指導の下に近習達と鍛錬三昧。

 お休みなんぞありゃしねぇ、どこなら有給休暇を売っているのだろうか?

 もう何度愚痴ったか知らないけれど飽きることなく愚痴らせてもらうとしよう。児童虐待で訴えるぞ、こん畜生め!

 ……って直訴を受け取ってくれそうな役所など洛中にも洛外にも、どこにもないけどな、ド畜生!

 御蔭で俺のリフレッシュタイムは就寝前の僅かな時間、御土産の土偶や埴輪や土器でお気に入りの逸品、例えば遮光器土偶などを棚に飾ってひとり悦に入る時のみ。おいおい、どこの隠居爺だよ。齢数え十三歳にしては趣味が枯れ過ぎかな?

 因みに計測するのが嫌になるくらい集まった能面は箱詰めしたままで開封もしちゃいない。当たり前だ、だって収集対象じゃないのだから。

 もう随分前から“能古面”こと“ノーコメント”は封印しているのだけどなぁ……。

 次に能面を献上する周回遅れの情報を信じ込んだ馬鹿野郎が現れたら、不良債権に匹敵する量の能面で四方をみっちりと飾り立てた部屋に放り込んでやるとしよう。ゲシュタルト崩壊するまで閉じ込めてやるからな、覚えてろ!

 などと愚痴と恨み節には事欠かない毎日ではあるが、息抜きが全くない訳ではない。

 各地から届く音信は、洛中では得られ難い情報が詰まっているので、中々に楽しめる読み物だったりする。

 北条氏の元に出向中の多羅尾助四郎の文を読めば、山口甚助や速水兵右衛門と共に戦場に出た興奮がビシバシと伝わって来た。(いくさ)場の空気を吸うのが楽しくて仕方がないとは、武士の子は武士ってことかね。命大事に励んでおくれ。

 長野氏の元に派遣した河田兄弟からは、なまじ筆が達者なので上野一国を差配する身となった業正によって良いように扱き使われていると泣き言が記されてあった。洛中では文官未満でも関東の僻地では立派な能吏扱いされるのか。まぁ死なないように必死で頑張っておくれ。

 内容に驚いたのは、太原雪斎師からの文であった。駿河国への帰国の途上、松平広忠の居城に立ち寄り嫡子を拉致ったとのことで……ってことは、史実通りにはならないのだろうな。

 今川義元への人質として護送される際に身内の裏切りで織田氏の元へ輸出される、なーんて間抜けな仕儀は雪斎師の目が白内障になっても絶対に起こらないだろう。そんな間抜けなしくじりをする人じゃないよ、あの御方はさ。キッチリと自宅まで持ち帰るに相違なし。

 行間から滲み出る雪斎師の思惑を透かしてみれば、見どころがあるので将来の忠臣とすべく徹底的に(しご)いて(しご)いて、洗脳まで施すようだ。まさか、ロボトミー手術はしないよね?

 やれこれで、戦国の歴史がまた何ページか書き変わった……のかもしれなけれど、まぁ良しとしよう。俺が直接関与したことじゃあないし、所詮は遠い僻地の出来事さ。

 知ったこっちゃないよねぇ?


 そんな悲喜交々の御手紙以外にも楽しみごとがあるのだから、人生って油断出来るよねぇ?

 いわずと知れた文化サークルがソレである。

 尤も、俺の大事な資金源、錬金術の元でもあるから半ば公務みたいなものだったりするって欠点もあるけれど、気にしなければどうってことないさ、シンパイナイサー♪

 ともあれ、童心にかえって童謡や唱歌を大声で歌うのは最高のストレス発散だし、四方山話にかこつけて交わされる生臭い話は新たな金儲けのネタである。実利を伴う趣味って文句なしにサイコーだよな!



 ♪遠き山に 陽は落ちて

  星は空を (ちりばめ)

  今日の(わざ)を 為し終えて

  心軽く 安らえば

  風は涼し この夕べ

  いざや 楽しき 円居(まどい)せん 円居(まどい)せん


  闇に燃えし 篝火は

  炎今は 鎮まりぬ

  眠れ安く 憩えよと

  誘う如く 消え行けば

  安き御手(みて)に 守られて

  いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん


 どうやら惟高妙安禅師のお気に入りの一曲となったようだ。何度も何度も繰り返し吟じておられる。

 近代ロシアの音楽家による名曲に、室町時代の高僧が目を細めてうっとりと身を委ねておられるのは、何ともシュールであることよ。自重しなければ、次は讃美歌でも教示しようかと悪戯心が蠢いてしまうぜ。

 『アメイジング・グレイス』は微妙でも、和訳された『星の世界』なら多分オッケーじゃないかなぁ……。よし、次回に試してみよう、ケ・セラ・セラ♪

 などと頭の片隅で些細な悪巧みをしている間に合唱会は、和気藹々の雰囲気で無事終了。次のターンは、武野一閑斎師の弟子である田中与四郎の点てた抹茶オレを喫しながらの、生臭い茶飲み話タイムだ。

 引き続き参加しているのは禅師に、大徳寺様こと大林宗套禅師、相国寺様こと仁如集尭師、大徳寺様の弟子の笑嶺宗訢師、何れは六角堂様と呼ばれる予定の池坊専栄に専好という初期メンバー。

 更に笑嶺師の弟子の春屋宗園君に、朝倉宗滴の末っ子である蒲庵古渓君。仁如師の弟子の梅丸はいつの間にか、大村由己と名を改めてやがった。おいおい……梅丸、お前って秀吉の側近だったのか!

 俺と同い年のクセして生意気な奴め、後でイジメてやるとしよう……ってしないけどね、多分。

 今回は義俊、覚譽、道増の伯父さんズは全員欠席していた。それぞれ自坊の法務で忙しいらしい。そうだそうだ、働け働け、ざまぁ見やがれ!

 序でながら、策彦周良師も不参加である。理由は大内氏が主催する遣明使節団の正使、つまりはリーダーとなったからだそうで。“今頃は唐土に到っているだろう”ですって、ちょいと奥さん聞かれました?

 ありゃまぁ、何てこった……知らなかったよ、聞いてないよ、いや聞いていたかもしらないけれど。策彦師が洛中を後にしたのは、俺が“馬揃え”の準備でドッタンバッタン七転八倒な大騒ぎの最中だとか。

 ならば聞き流し……聞き逃していたに相違なし。それなら仕方ないよね、アイム・ノット・ギルティだ。陪審員の皆様も、そう思うでしょう、そうでしょう?

 それは兎も角、既に出発していたとは……今となってはどうしようもない。

 俺の懐具合に直結する堺の隆盛を勘案すれば、一刻も早く陶隆房に決起してもらい大内氏退場を願うしかないよな。そして策彦師が帰国し次第、勘合符と貿易船旗をちょろまかさねば。そうしたら即座に会合衆へと売りつけるのだ。さぞや高値で購入してくれるだろうし!


「いやはや、“東山流”とは何とも面白きものにござりまするな」

「浅学菲才の身には過ぎたる僥倖にござりまする」


 おっと、そうだった。今日は新たな参加者がいるのだった。もう何人目の会員になるのか見当もつかないけれど。そろそろ名簿を作った方が良いかもな。

 車座の対面側にて小振りな縄文土器を高々と掲げて鑑賞されているのは、美濃国から上洛したばかりの二名である。

 正面に坐す細身の中年が快川紹喜師、その左隣の細マッチョの青年が虎哉宗乙君。何れもが妙心寺の関係者で、紹介者は大徳寺様であった。


 神宮や大社といった格式が神社にあるように、寺院にも格式があった。奈良時代に国家が建立した国分寺や、平安時代から皇族や貴族の子女が住職を務めた門跡寺院がそれだ。

 鎌倉時代になり禅宗が盛んとなると鎌倉府の執権北条氏が中国に倣って“五山”なる寺格を制定し、室町初代将軍に就任した尊氏が天竜寺を建立すると共に新たに“五山”を認定、そして三代義満の時に“五山”の制度を改革し現在に至る。

 南禅寺を“五山の上”と別格扱いとし、その下に五つの大寺院を京都と鎌倉にそれぞれ認定されたのだった。

 京都五山は、一位が天竜寺、二位が相国寺、三位が建仁寺、四位が東福寺、五位が万寿寺。鎌倉五山は、一位が建長寺、二位が円覚寺、三位が寿福寺、四位が浄智寺、五位が浄妙寺。何れの大寺院も臨済宗である。

 然様な“五山”の下に“十刹”が選ばれ、更にその下に“諸山”が定められた。“十刹”は文字通り十ヶ寺だが、“諸山”に至っては全国二百ヶ寺を超えるとか。当然ながら全てが臨済宗。俗に“禅林”もしくは“叢林”という。

 臨済宗と足利将軍家の蜜月、ここに極まれりだろう。

 処が、だ。妙心寺や大徳寺などの“林下”と称される寺院は“禅林”とは異なり、足利将軍家及び公儀とはあまり親和的ではなかった。親和的とは言い換えれば統制となり、統制とは世俗的とも意訳出来たからだ。

 世俗を離れ修行重視の気風で知られる大徳寺ではあるが、元々は後醍醐天皇によって“五山”の一つに選ばれた歴史がある。南北朝時代、南朝側スタンスの大徳寺は尊氏に嫌われ、“五山”の寺格を剥奪された。

 それ以降、大徳寺は子分とする妙心寺と共に“五山”グループとは袂を分かつのだが、別の形で世俗的に特化したのは歴史の皮肉だろうか。

 “禅林”の世俗化が権力への付随であるのに比して、“林下”の世俗化とは文化爛熟への寄与である。もうちょい詳らかにすれば、権力者による支援ではなく商人や文化人などの在野の有力者の後援を享受したのだ。

 幅広い層からの後援は“林下”の性質を劇的に変化させた。茶道などの最新文化の発信基地となったのである。結果として、“檀林”と“林下”のスタンスの差異は官か民かだけになった。

 まぁ実際、大徳寺様も惟高妙安禅師も新しモノ好きって点に変わりはないし、多宗派の方々も以下同文である。“東山流”にキャッキャされている姿を見るにつけ、時代を代表する高僧とは思えねぇよなぁ……とは禁句だけどね。


 しかし、快川紹喜師とは!

 よくもまぁ吃驚仰天のビッグネームがひょこっと現れたものだよ。後年、甲斐国で最強の僧侶となり“心頭を滅却すれば火も亦た涼し”とか何とかいい残したとか何とか?

 その弟子である虎哉宗乙君は……大河なドラマで見聞きした気がするのだが、俺の記憶で不明瞭ってことは大した人物ではないのかもしれないから気にするのは止めておこう。もう十分にお腹いっぱい気分だし。

 さて二人がわざわざ美濃国から来た理由はといえば、慈照寺に滞在中の土岐頼芸の御見舞いだとか。

 俺もつい先日に知ったばかりなのだけど、頼芸は病に伏しているのだそうな。しかもかなり重篤であるらしい。

 診察をしたのは洛中の誇る名医のひとり、祐乗法印。俺からも御見舞いとして将軍家の主治医である吉田宗桂師を派遣しておいたが、診断結果は同じだった。寝床から起き上がれぬほどの衰弱に、黄疸と浮腫。……肝臓でもやられたのかな。

 望まぬ上洛を果たしたのが去年の終わり。それから一年も経たぬ内に病に伏すとは。特にこの三ヶ月くらいは朝酒昼酒夜酒寝酒の毎日だったと聞くし。

 幾らアルコール度数が低い当世の濁り酒とはいっても酒浸りであれば、そりゃあ体に悪いだろうさ。美濃国主の座から追放されたのが余程堪えたのだろうなぁ。

 そういえば、斎藤利政こと後の道三の後押しによって美濃国主に就任出来た土岐頼純、頼芸の兄の子だが、も病みついているのだそうな。

 ……偶然だとすれば、この世の有り様は全て偶然の為せる業って事かもね?



「彼の者らの話し、三淵は如何に思うたか?」

 秋の日は釣瓶落としに例えられるが、まるで今にも夕陽が俺の頭上に落下して来そうに感じるのは、前世よりも現在が自然との距離が近い所為だろうか。杞憂、ってのは高層ビル群が存在しない昔ならではの感性なのかもな。

 などと益体もないことを馬上で考えている間も、隣からは呻吟中の唸り声が発せられている。それが漸く止まったのは仮御所の正門を潜ってからであった。

「難しきことにございまするな」

 うん、そりゃそうだ。

 俺ひとりの思案ではどうにも難し過ぎるから、彼らの話しを部屋の片隅で聞く立場の三淵に尋ねたのだ。経験豊富な三淵であれば、何かアドバイスがもらえるかと思ったけれど……訊くだけ無駄だったか。

 今更ながらではあるけれど、三淵って政治向きの人間じゃないよなぁ。権力闘争激しき戦国末期、本能寺の変も関ケ原も無事に凌ぎ切った息子の与一郎の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ?

 やれ、仕方がない。明日にでも“花の御所”へと赴き公儀の重鎮らに諮問してみるとしよう。



 翌日。

 評定は“花の御所”の会所を議場にして、出来る限り人払い(オフレコ)しながらで開いた。とはいえ、必要最低限に絞っても評定参加者が十名を超えるのだから機密保持など望むべくもない。

程なく畿内はおろか遠国にも、話し合われた一言一句迄狂いなく流出するに違いない。むしろどのくらいのスピードで情報が拡散するのか知りたいくらいだぜ。

 そんな秘密会議の参加者は次の通り。

 先ずはトンチキ親父殿とその側近衆。公儀の最高幹部達にして意思決定機関といっても差し支えのない者達だってのは今更説明するまでもないか。

メンバーは大館常興、大館左衛門佐晴光、細川刑部少輔晴広、本郷大蔵少輔光泰、摂津摂津守元造、海老名主殿頭高助、荒川越中守氏隆、曾我上野介助乗の八名なり。

 最高齢は常興の御年八十九歳、最年少は曾我上野介の三十三歳。平均年齢はトンチキ親父殿の三十七歳よりも一回り以上上のベテラン官僚にして、政治的生物としては古強者達だ。

 政治的生物といえば、下座で無表情を保っている伊勢伊勢守貞孝もその類の典型例だ。政所執事とは最良の官僚にして最大の政治家でなければ務まらぬ職務である。それを二百年近くに亘り務めて来た家系の現当主で、現任だ。

 俺の側近からは進士美作守晴舎に三淵伊賀守晴員の二人。進士はデスクワーク向きで三淵は現場主義、どちらも政治に適性がないのは……今更だろう。

 だがこれからここで始まるのは、紛れもなく政治である。

 部屋の隅で控えている与一郎には良い勉強の場となるだろう。早く成長しておくれ、頼んだぞ。弥四郎も七郎も十郎も与一郎の隣でボヤッとしてるなよ。目ん玉見開いて、耳の穴かっぽじっておけよ。


 では、評定を始めよう。

 議題は、“徹底討論! どうする? どうなる? 美濃国守護!?”。


 ……などと上座にて格好つけてはみたけれど、一刻が過ぎても評定は盛り上がりに欠けた。実に低調、超ダウナー。煮詰まるどころか生煮えもいいトコ。これは予想外であった。もっと紛糾するかと思ったのだが。

 口髭を捻る者、顎髭を摩る者、天井を見上げる者、頻りに膝頭を扇子で叩く者、腕組みしたまま瞑目する者。誰も彼もが口を噤んでいる。聞こえるのは三淵の口から洩れる低い唸りのみ。

 いや、それは既に聞いたし。誰か何かいえよ。仕方がない、もう少し待つとするか。……うん、体感で五分経ったよな。誰か何かいえよ。大事なことだからリピートしたぞ。聞こえているのか、皆の衆?

 どうやら聞こえてないようだ。心の声だから当然か。ならば今日は一旦閉会、後日また開催するとしようか。それまでに各自考えを纏めておくように。それじゃあ、解散!



 それから凡そ四十八時間後。

 俺は仮御所で快川師を引見していた。取り調べではないが、事情聴取ではある。美濃国随一の高僧は頼芸の御見舞いを称していたが、結局のところ斎藤利政の依頼を受けた外交官であり、スパイであった。

 どのような意図あって洛中に来たのかは概ね知っている。一昨日の文化サークルにてざっくりと聞いたからだ。だからこそ昨日、評定を開いたのだから。だが詳細までは聞いちゃいない。

 俺は前世で道三を主人公にした小説を読んでいたので、彼の人物がどのようなキャラであるかは知っている。だけどそれはあくまでもフィクションのキャラのこと。ノンフィクションの研究書で語られている人物像もどれだけ真実に近かろうとも、類推の域を出ないのは当然のことなり。

 つまり俺は、色眼鏡越しでしか判っちゃいないのだ。

 故に彼の人物を良く知る者をもう一人、この場に呼びつけていた。田中与四郎を脇に茶を立てている初老の男、不住庵梅雪師。村田珠光師の直弟子で、“花の御所”にも出入りする有名人。然も、道三にとっては茶の湯の師匠である。

 立場は違えど同じく美濃国守護代に伺候する者同士、気易い気分になってくれれば多少は口も軽くなってくれるであろう……なってくれよ。でなきゃ困るのは俺じゃなくて、そっちの方だぞ。

 では、事情聴取のスタート。…………はい、本日はここまで。情報量が多過ぎてパンクしてしまいそうだ。口が軽くなるのは望むところだけど、幾ら何でも軽過ぎやしないか。聴取しといて何だが、ペラペラと喋り捲るのはどうかと思うぞ、俺は。



 その後も事情聴取やら評定やらを何度も繰り返し行った。正確にいえば、事情聴取は二回、評定は三回だ。事情聴取の御蔭で美濃国の抱える問題は完全に浮き彫りとなったが、それで評定が円滑に進んだかといったら“NO”の二文字である。

 まるでカニ鍋を囲みながらの座談会、もしくは伴奏も弁士もいないサイレントムービーの試写会のよう。別に参加者の全員が議題を理解していない訳ではない。決議が二択しかない事を理解しているからこそ、誰もが発言しようとしないのだ。

 選択肢Aは、引き続き土岐氏に美濃国を任せる。選択肢Bは、土岐氏に替えて斎藤氏に美濃国を任せる。どちらの案でも解決策となるが、“めでたしめでたし”とはならない。

 理由は単純明快、土岐氏には権威はあれど統治能力はなく、斎藤氏には統治能力はあれど権威がないからだ。


 A案を選べば、ほぼ史実通りとなる。

 史実との大きな違いは、頼芸の追放が速かったのと、死期が随分と前倒しになったことくらいか。俺の記憶では確か道三よりも長生きだった筈だ。少なくとも寿命が尽きるのは天文年間ではなかった……ような?

 もしも史実通りに頼純が死んで史実よりも早過ぎる末期を頼芸が迎えるとしたら、土岐氏の名跡を継ぐのは誰になるのか?

 快川師から聞き出した情報によれば候補者は、二人いるという。

 ひとりは、頼芸の弟で名は土岐治頼。当年四十六歳。現住所は常陸国信太郡江戸崎城。土岐氏一門の蜂屋氏の庶流である原氏の養子となった男。

 経緯からすれば早々に候補から外されても可笑しくない人物である。だが数年前のこと、頼芸が最初に美濃国から追い出された時に匿い、頼芸の国主復帰に尽力したのだとか。

 その御礼かどうかは知らないが、頼芸は頼もしい弟に土岐氏伝来の脇差と共に系図をプレゼントしたらしい。……軽率過ぎないか、頼芸。だから折角復帰出来た国主の座を、まんまと掠め取られてしまうのだよ。

 頼りない兄に褒められた治頼は、これを機に苗字を原氏から土岐氏に戻す。こうして後継候補として最も遠かった男が最有力者となったのである。

 但し、治頼は関東管領派であり、現在は北条氏と敵対しているらしい。

 ……しかし、関東の辺境に土岐氏一門が残存しているとは、なぁ。美濃国及び近郊に根を張った家系だと思い込んでいたよ。

 さてさてもうひとりの名は、土岐太郎法師丸。一昨年に頼芸の次男として生まれた幼子だ。長男の小次郎頼栄は既に廃嫡されているので、頼芸直系の男子は太郎法師丸のみだったりする。

 現在十八歳で立派な若武者である頼栄が廃嫡された理由は、御多分に漏れず御家騒動が原因だった。父と不仲になり頼芸の弟の揖斐光親と組んで反旗を翻したのである。

 光親は美濃国の小規模国衆でありながらかなりの富貴者で、資金難により十年間も即位式が出来なかった今上帝に多額の献金をしたのだそうな。因みに頼芸は国主の座の再奪取にチャレンジ中だったので、ビタ一文出していないそうな。

 結構な金持ちだった光親だが(いくさ)は下手くそだったようで、謀反は失敗、同じく(いくさ)が不得手の頼栄共々、国外追放処分となった。二人共今は織田信秀に匿われているのだそうな。

 兄の不始末で一躍候補となった太郎法師丸だが現住所は近江国、母親と一緒に観音寺城下で健やかに暮らしている。母親は、六角定頼の娘であるから、当然といえば当然の状況だった。

 頼芸が洛中での隠居生活を余儀なくされた時に、離縁ではなく別居となったのだ。そう仕向けたのは勿論、定頼の意思である。娘可愛さもあろうが、美濃国への影響力確保って意図もありありだよな。

 それよりもA案の難点は、史実を知る者として問題の先送りにしかならないってことが判っているってことだ。道三は当世では稀有な先進的思考の持ち主。決して、旧態依然で統治能力が欠如した土岐氏の下で収まり続けられる人物ではない。

 頼芸が頼純になり、例えそれが治頼やら幼子に変わろうとも、土岐氏にあるのは数百年に亘り美濃国に居続けたという歴史の上に成り立つ権威のみ。然れど道三は、権威になど屈せぬ野心の持ち主なのだ。

 ところがギッチョン、それは道三の弱点であり、命取りの主因となるのだけどね。


 実は斎藤氏には、土岐氏に負けぬほどの権威がある。美濃国において守護代を務められる家系は、数多いる国人達の中では斎藤氏だけなのだ。

 朝廷が南北に分かれてワーワーやっていた頃に“後中園左大臣”と号した公家、洞院公定卿を編集長として出来た『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』。所謂『尊卑分脈』を紐解けば、斎藤氏のルーツは藤原氏本流の北家(ほっけ)に行き着くそうな。

 最初は北陸にいた斎藤氏だったが、色々あって平安時代に越前から美濃国に“目代”として移住する。“目代”とは“国司”の代理人のことだ。

 時代は鎌倉から室町に移り変わった頃、国司が守護となり目代が守護代となった時分だが、美濃国守護に土岐氏が任ぜられたタイミングで、斎藤氏は守護代となった。

 そして応仁の大乱が激化するや、斎藤氏から妙椿なる英傑が登場する。建立した小さな御寺の名を冠して、持是院妙椿とも称される人物だ。

 生まれる時代と場所が違えば、日本史の重要人物として高校の教科書に太文字注釈付きで記載されても可笑しくないキャラなのだよなぁ、これが。少なくとも斎藤氏宗家の当主であったれば、史実でもドカンと大活躍出来たに違いない。

 然れど残念ながら兄の子の補佐をせねばならぬ分家の身。

 それでも能力を数値化すれば、武力・知力・政治力の全てが限界値に達するほどの武将であった。主君として仕える土岐成頼の従五位下を飛び越え、従三位権大僧都に任官し将軍家直臣の奉公衆にも選ばれるくらいは朝飯前だったのだろう。いやはや、大した魂消た御人だよ。

 まぁそんな訳で。

 斎藤氏も、土岐氏に負けず劣らずの権威ある名家であった。

 ……ってことは、権威を持ち合わせていないのは、道三個人ってことになる。


 今は昔、応仁の大乱の少し後くらいであろうか。

 洛中は日蓮宗の大寺院の妙覚寺に一人の青年僧がいた。青年僧は大望を抱いて洛中を飛び出し、新左衛門尉を名乗って美濃国へと到るや、斎藤氏の重臣だった長井藤左衛門尉の家臣となり、西村の苗字を拝領する。

 西村新左衛門尉となった青年僧はその有能さを買われ長井氏の一員となった。長井新左衛門尉の誕生である。この氏素性定かでない立身出世者が、道三の父であった。

 父の跡を継いだ道三は、妙椿を祖とする持是院斎藤氏一門に入り込んでその系譜を簒奪し、序でに斎藤氏宗家の弱体化を図る。こうして斎藤氏を喰らって誕生したのが、斎藤道三だ。

 然様な親子二代に亘る下克上劇場の一部始終を(つぶさ)に見ていた者達が、土岐氏であり、美濃国の他の国人達である。舞台裏の端々まで目撃されているのだ、権威もへったくれもないだろう。

 道三の現在の境遇を最も理解出来る人物がいるとすれば、それは豊臣秀吉だけに違いない。道三も秀吉のように元同僚達を片っ端から平らげ、屈服させることが出来ていたならば、権威とやらも背負う事に成功したやもしれない。

 けれども下克上が常識となる前の戦国時代前期では、環境も状況もそれを許さなかった。故に道三は後で放り出すことを理解していながら、美濃国における絶対権威の土岐氏を担がざるを得なかったのだ。

 悔しいよなぁ、何とも虚しく腹立たしいことだよなぁ。まぁ同情はしないけどさ。



 快川師の供述と伊勢から提供された各種文書によって、既に美濃国の状況は丸裸となっている。恥部から暗部まで余す所なく。であるが故に、評定の出席者の誰しもが口を閉ざしているのだよ。

 以前と変わりなく土岐氏の支配を認めれば、美濃国は混迷するだろう。

 土岐氏の正統を継承しているとは申せ、関東在住の治頼を召し出せば道三の反発は必至だし、一旦は他所者となってしまった治頼の扱いに、国人達も良い顔はしないに違いない。

 治頼を捨てて幼子の太郎法師丸の相続を認めれば、それはそれで大問題が発生する。近江国から定頼が口だけでなく首も突っ込んでくるのは絶対だからね。

 美濃国は日ノ本の東西を繋ぐ陸の一大交差点であり、実は物資の生産地としても有力な土地なのだ。それがために以前は朝倉氏が、最近は織田氏が富を強奪しようと頻繁に侵攻を企むのである。絶好のチャンスを手にした定頼が手出ししない筈がない。いや、きっとする。

 ならば、土岐氏を取り除いて史実の通りに道三に任せるのがベターか?

 それはベターではなくグッドレベル。下策のバッドでないだけマシってヤツだ。

 恐らくは史実の通り、美濃国は信長によって攻略されてしまうだろう。それはそれで別に構わないけれど……何だか史実様に屈したようで癪だよねぇ?

 今回のことは、土岐氏がどうこうといった話ではなく、将軍家と公儀が美濃国にコミットする最大のチャンスなのだ。道三もそれは重々理解しているだろう、と思う。

 頼芸の見舞いにかこつけて上洛して来た快川師が暗に提示した道三の申し出の真意は多分、将軍家と公儀が道三に対しどれだけのメリットを提案出来るのか、だろう。俺もトンチキ親父殿も公儀の重役達も、そう理解していた。

 結論は二択のどちらかであっても、付帯条件次第で回答は無限となる。いや、無限はいい過ぎか。だとしても両手両足の指の数よりは多いだろう。何てこったい、困ったなぁ。いや、マジで!

 どうすれば、道三が笑顔で“承知仕りました”という条件を出せるのか、それが見出せないので思案中っていうのが、何ともお粗末な現状なのである。公儀の重役達も大したことないよね。だからこそ、金欠で弱体なんだけどさ。

 折角に提示しても道三が“NO!”といったら御破算。こちらは恥を掻くだけではなく、今後一切美濃国は手出し無用の土地となるだろう。

 “小癪な小童め!”とは、道三よりも四十歳年長の常興だからこそいえた愚痴だよな。

 頼芸も常興を見習って不摂生しなければ健康体でいられただろうに。道三の息子の義龍も史実の如く早死にしなきゃ、美濃国のことは丸投げしてもいいのだがなぁ。権威を尊重する有能な人物だったようであるし。

 はてさて、どうしたものやら……。



 何度もグダグダになりながら、漸くにして快川師に回答を託せたのは秋の終わり、冬の兆しが空から降り出した頃だった。もしかしたら無言の小田原評定のままで越年するかと思ったよ、全く。

 あーあ、それにしても本当に草臥れた。

 やり慣れないことは積極的にしちゃあダメだな。危うく知恵熱で倒れるトコであった。尤も、病欠も有給も存在しないのが征夷大将軍って地位だけどね、畜生め!

 評定の結果を記した文書は二通作成した。

 一通は私信を書き込んで快川師に託す。勿論、道三宛ての“ユア・アイズ・オンリー”だ。

 もう一通は土岐頼純を受取人とした純然たる公文書である。配達するのは申次衆の本郷治部少輔泰茂。付き添いは奉公衆から二人、柳原新右衛門元景と牧雲斎常真だ。

 元景は、藤原北家日野流庶流の柳原家の一門で、武家に転じた家系の当主。牧雲斎は伊勢の親族で事情があって出家した者、元の名は伊勢貞堯(さだたか)という。どちらも武と文を相応に備えた将軍家直臣なり。

 三人は向こう三年の間、美濃国に滞在し続ける予定だ。期間の延長はないが短縮はあり得る。但し短縮の条件は、頼純が回復した場合のみだけどね。

 道中の安全は、夏から洛中に居続けてくれていた定頼の嫡子、左京大夫義賢が請け負ってくれた。駐留する六角氏の軍勢三千の内、二千を率いてである。残りの一千は引き続き滞在で、指揮するのは次男の修理亮義頼だった。

 何でも稲葉山城は一ヶ月ほど前に織田信秀に攻め込まれ、てんやわんやであったらしい。合戦は道三の勝利に終わったが、合戦は開戦前と終戦後の方がより大変なものなのだ。どんなことでも準備と後始末は苦労するよね、ホントにね。

 大規模な戦いは閉幕しても、あちらこちらで小規模なアンコールが起きているので、六角氏の仰々しいボディガードは正直いって有難かった。今の将軍家には四桁もの軍勢を発する余裕はないのでね。

 これで正式な使節としての恰好がついたよ、定頼様々だ。年明けに来るであろう年賀の使者に何を渡せば良いのやら、今から頭が痛いけどね。まぁ先のことだ、今は忘れておこう。


 そして、彼らの出立を見送ってから十日が過ぎた頃。

 雪化粧が施された慈照寺において、床に伏していた頼芸が臨終を迎えた。合掌。

 程なくして、雪に閉ざされそうな山道を伝い、美濃国から頼純の訃報が届く。合掌。

 時の流れはどうやら土岐氏に味方をしなかったようだ……なーんちゃって、あっはっはっは、とは笑えねぇなぁ。などと名家の終焉を浅く悲しんだ罰なのだろうか?

 或いは誰かに呪詛されているのかもなぁ、と思いたくなる事態が寝耳に水で訪れた。冷水を浴びせられた気分とは当にこのことだ。

 “冬来たりなば春遠からじ”って昔の誰かがどこかでほざいたらしいけど、この世には望まぬ“ハル”もあるのだよ、この野郎!


 天文十六年霜月半ば、管領細川晴元上洛す。


 招待状は送ってねぇぞ、一昨日来やがれッ、いや、来るなッ!!

 門司柿家様の『冒険者になりたいと都に出て行った娘がSランクになってた』、面白いですね。

 二日市とふろう様の『現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変』、面白いですね。

 どちらも単行本からハマりました。目下、一気読みの真っ最中です。

 ひさなぽぴー/天野緋真様の短編『天台座主になったんだけどお先真っ暗すぎて泣きたい』に感心頻りです。

 嗚呼、こういう切り口もあったのか、と。

 皆様も是非、御拝読あれかし。全て「なろう」の作品です♪

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― 新着の感想 ―
[一言] 松平家が・・・w 雪斎師、お手柔らかに(^ω^;) 江戸幕府どうなるんだw 土岐氏に関しては、史実が手招きしてる感じでしょうか
[一言] 拝読させていただきました。 雪斎師、あの、まさかとは思いますが、捕獲したのは後の古狸、いや子狸でしょうか……。 洗脳された後が恐ろしいです。 一時期伊達ファンをしていた身としては、虎哉禅師登…
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