『 シェルタリング堺 』(天文十六年、夏)
恐らく次回で、堺篇は終了です。御盆参り迄に投稿出来るよう、頑張るですよ。
頑張れなかったら、御免なさいです(平身低頭)。
誤字脱字を訂正致しました。御指摘に感謝を!(2020.10.28)
半刻と経たず寝床で目覚めた俺は起き上がるや即座に、青い顔して取り囲んでいた側近衆達を怒鳴りつけてやった。
「その方ら、いい加減に余の奇行に慣れたらどうだっ!!」
すると即座に、三淵に言い返されてしまう。
「大樹こそ、いい加減に奇行を御慎みなされませ!!」
いや確かに御尤も。
散々に叱られ、気づけば朝となっていた。あれあれ、いつの間に寝入っていたのだろうか。まぁいいか、済んだことだし、クヨクヨしなくちゃいけないことでもなし。朝餉の時の三淵親子、伊賀守に弥四郎に与一郎の目が妙に寒々としていたが気にすることでもあるまい。
いやいや、気にしないと!
やいコラ与一郎、手前ェには問い詰めなきゃならぬことがあるぞ、この野郎が。さぁさぁ、一体全体どういうことかキリキリ白状しやがれ、と自白を迫ったらあっさりとゲロりやがった。
自供によると“東山流”とは、与一郎と助五郎の間で“折り紙”の新作を教え合ったりする際の隠語だったのだそうな。何だそりゃ、子供の文通かよ……って感想を抱いてしまうのは現代人の感覚なのだろう。
一枚の紙を幾重にも折り曲げ、畳み、広げることによって森羅万象を表現出来るという技を現代に置き換えれば、プログラミングに相当するのかもしれない。“折り紙”の素晴らしさについて熱く語る与一郎を見て、何となくそう思った。
尚、俺自身は早々に“折り紙”指南からは手を引いている。理由はネタが尽きたからだ。正確にいえば折れる物はまだまだ幾らでもある。あるけれど、折る訳にはいかないからだ。
例えばチューリップやカーネーション、ライオンにキリン、キンギョやクジラやティラノサウルスなどなど……どう考えても折るのは不味かろう。だから与一郎や伊勢伊勢守などの熱心過ぎる子弟たちに“免許皆伝”を申し渡したのだ。
但しそれだけでは味も素っ気もないので、顔料を使えば色付や絵付が出来て更に世界が広がる旨をアドバイスしてやった。これよりの創意工夫は各自で極めるに如かず、とか何とか尤もらしいこともつけ加えたけどね。
まぁ然様な訳で俺が指南役をおっぽり出したので然しも賑やかであった“折り紙”教室は閉店ガラガラとなったのだが、受講生たちに宿った熱意はいっかな冷めなかったのである。
先頭を突っ走るのは伊勢伊勢守を中心とする大人グループ。政所の倉に納められている越前国産の檀紙や播磨国産の椙原紙などの高級紙をふんだんに使用し、花鳥を折っては愛でているのだそうな。
そんな大人気ないグループに孤軍奮闘立ち向かおうとしているのは、与一郎を指導者と仰ぐ青年少年子供グループ。大半が比較的安価な美濃紙で作る“紙飛行騎”遊びが目的だったが、与一郎ほか数名は高級紙でなくとも秩序と優美を兼備する造形の世界に心底からのめり込んだ、のだとか。
“折り紙”の魅力に憑りつかれたのは助五郎もだそうで、与一郎とは良きライバルとして切磋琢磨しているらしい。
恐らく助五郎にとっては趣味だけではないだろう。商いを行う上での付加価値にしているに違いないよな。きっとそうだろう。そして少しばかり目立ち過ぎた。商売仲間に目をつけられてしまったのだ。おやおや、父親は助けなかったのか?
天王寺屋の当主は何事も経験であると、息子のやることを放置に近いレベルで放任していたのだとか。
年の近い若衆達から詰め寄られ、惣中の者達には言外に脅迫された助五郎は、茶の湯の師匠である武野一閑斎師に相談をしたのだそうな。武野一閑斎師のアドバイスを抄訳すれば、情報公開である。
独り占めしているから妬まれるのだから積極的に情報を開示し、あわよくば情報源である俺と情報を希求する堺の町衆とのパイプ役になるべしと。堺繁栄は望むところであるから武野一閑斎師も積極的に協力する、と示唆なされたのだそうな。
助五郎は与一郎と相談を重ね、俺がやらかしたアレコレを編集し直して“東山流”と命名し、堺の町衆達にあることあることを開示したのだとさ、めでたしめでたし。
……いや、全然めでたくないけどな!
やらかしといて尻拭いを丸投げしやがるとは何と無責任な話だろう……などと叱責したいのは山々だけど、どの面下げて何をほざくとしっぺ返しが来そうなのが何ともはや。所謂一つの自業自得ってヤツか。とんだブーメラン効果だぜ、畜生め。
まぁいいや。
結局のトコ総括すれば、与一郎と助五郎の勇み足だか前振りだかの御蔭で堺の町衆達に対して期待値以上に優位な立場で提携出来そうだからな。
因みに。若衆達を煽ったのは会合衆達で、そのメンバーの中には助五郎の父親こと天王寺屋宗達もちゃっかりと入っていたのだとか。あっはっはっは、と笑えねぇよな助五郎よ。だけど俺からすれば笑うしかないのだよ。
こりゃ参ったね、とは思うけれど今この時であればこそ、高笑い出来るって塩梅だぜ。
これが再来年の江口合戦の後だったら?
トンチキ管領と決別した三好長慶は堺の守護者となっている。それ以降の堺は常に強大な武将によって守られ、管理されるのだ。
これが数年後であったれば?
大内義隆が陶隆房によって討たれ、堺のライバルである博多は庇護者を失い戦火に見舞われ灰燼に帰す。そして豊臣秀吉が九州を治めるまで、大友氏と毛利氏の間で股裂き状態となり、堺の独り勝ちとなるのだ。
なればこそ今だから、堺は弱り切った姿を隠そうともせずに俺へと額づいているのである。
然様に考えれば与一郎と助五郎のファインプレイなのかもしれないけれど、御手柄だったと褒めてやる気はない。そもそもが、助五郎の迂闊が招いた事態なのだからさ。
迂闊といえば……最後の朝貢貿易っていつなのだろう?
陶隆房がクーデターを起こす前に最後っ屁の一回ぐらいあったと思うのだけど、迂闊なことに知らないや。機会をみて策彦周良師に尋ねてみるとするか。前回の遣明使節で副使を務められたのだから、何か御存知であろうし。
まぁそれも、洛中に戻ったらの話だけどな。
出来れば祇園祭までには戻りたいものだが、交渉の進展がダラダラしているし無理っぽいなぁ。半月以内に解決してくれないかなぁ。さっさと妥結しやがれってんだ、畜生めが!
怒りの矛先を目の前にいないアホンダラ共に向けた午前が過ぎ、何処からか届けられた何枚もの書状に目を通しながらの忙しない昼食を済ませたら、これまたアホンダラ共の口合戦を如何に落着させるべきか思案に耽る。
壁際に並べて火縄銃の的に出来たら一気に解決するのになぁ!
などと空想してみて朗らかな気分に浸っていたら、やや忙しない足音が障子戸越しに廊下から聞こえて来やがった。
御注進にて候、と申して廊下に膝を就く一色七郎のシルエットが障子に浮かぶ。おちおち空想もしていられないのかと肩を落とした俺は、障子戸際に控えていた与一郎に眼差しだけで合図を送った。
カラリと障子戸が開けられるなり七郎が膝をにじって軽く頭を下げる。
「何事か?」
「面談を願う者これあり候」
「何者であるか?」
「それが……」
言い澱む七郎に俺と与一郎は目を見合わせて首を傾げた。……何だろう、嫌な臭いがプンプンするなぁ。また厄介ごとか?
はい、厄介ごとでした、拍手! ……って拍手じゃねぇよ、馬鹿野郎!
七郎の先導で会所へと足を運べばその馬鹿野郎が一人、平伏していやがった。おうおうおう、よくも至福の時間を邪魔してくれやがったなこの野郎!
手前ェ、一体何者だ!?
「お初に御意を得ます。某は前越前大野郡司、朝倉右衛門大夫と申す者にて候」
……誰だ、お前は?
暫し待て、といい置いた俺は同席していた三淵伊賀守と連れ立って隣室に移動した。レクチャー・タイム、スタート。あいつが何者か知っていたら教えてプリーズ。
口を真一文字に結び、矢鱈と険しい顔をしている三淵が訥々と話し始める。一通り朝倉なんちゃらについての説明を聞き終えた俺の感想は、想像以上の厄介者キター!!、であった。
朝倉なんちゃら……訂正、朝倉右衛門大夫景高は朝倉氏十代目であり現任の越前国主である弾正左衛門尉孝景の実弟だった人物だそうな。年齢はアラフィフとのこと。“実弟だった”と表現したのは、御家騒動を起こした主犯ゆえに放逐されたからである。
幸いにクーデターは未遂で終わったがゴタゴタは越前国内だけでは収まらず、洛中にまで波及したのだそうな。って、おいおいおいおい、厄介者レベルじゃねぇぞ、やべぇレベルのトラブルメーカーじゃねぇか!
おいこら、判っていたのならどうして門前払いしなかったのだよ!?
三淵の釈明は、七年前に発生したクーデター未遂事件を知らぬ者が応対してしまったこと、応対した者が身分を明かす文書を鵜呑みにしてしまったこと、そのどちらも三淵が気づく前に行われてしまったこと、の三点であった。
……対応を間違ったって“永禄の変”の予行演習かよ、とツッコミかけたが、まるで死亡フラグの立て方見本になりそうだったので慌てて口を噤み、替わりに目で問いかける
俺の視線を受け止めた三淵は軽く俯いてからゆっくりと、クーデター未遂事件に端を発した洛中の政変について語り出した。
時は遡り天文九年の夏のこと。
前線指揮官として連戦連勝であった朝倉景高が増上慢となり、兄である朝倉孝景から当主の座を奪い取らんと画策し、公儀の要職へと積極的に働きかけたのである。
働きかけられたのは政所執事の伊勢伊勢守と、内談衆のひとりであった本郷大蔵少輔光泰。何故にこの二人だったのかといえば、それは伊勢伊勢守が若狭武田氏の取次役であり、本郷光泰は領地が若狭国内にあったからだったからだ。
取次役とは、公儀並びに将軍と様々な勢力とを結びつけるパイプ役。より具体的にいえば、将軍に橋渡しする勢力の価値が増せば増すほどに中央政界での存在感が増す役職なのだった。
頻発する御家騒動で力を失い、配下の国人領主たちの騒擾を抑えきれず、いつ国主の座から転落しても可笑しくない状態の若狭武田氏。地方大名としての価値は手の施しようもないほどに暴落中である。
取次役として伊勢伊勢守は若狭武田氏の不甲斐なさに頭を痛めていたのだろう。何とかならねば、何とかせねば、伊勢伊勢守の政治的地位まで低下しかねないのだから。
何とかするに当たり最も手っ取り早い手段は、争いの絶えぬ隣国との拗れた関係を改善すること。外患さえなせば、内憂排除にのみ集中出来るのだからさ。然れど朝倉孝景は若狭武田氏憎しに凝り固まっており、現当主のままでは協力を得るのは絶対に無理な話。
そんな折に、朝倉景高が野心を露わにして接近してきたのだ。
常に沈着冷静な伊勢伊勢守であろうとも欲に目が眩めば、ついうっかりを犯してしまうらしい。伊勢伊勢守が抱いた欲とは恐らく、己の政治力を存分に揮いたい、だったに違いないだろう。
だが伊勢伊勢守が抱いた欲と朝倉景高がひけらかした野心を許さぬ者が登場する。誰あろう、トンチキ親父殿こと足利義晴将軍様だった。
穏やかならざる夏が過ぎ、尋常ならざる秋のある日、伊勢伊勢守の邸宅で本郷光泰と朝倉景高を客人として催された“楊弓会”。その集まり自体が事件とされたのである。
因みに、枝垂れ柳で作った長さ二尺八寸の弓と七寸から九寸二分の矢を“楊弓”といい、楊弓を用いて的当てを楽しむ御座敷遊びを“楊弓会”という。中国の唐の時代に始まり、日本の公家社会では“楊弓遊戯”というそうだ。
二十一世紀風に変換すれば、本社の秘書室長が役員と越前支社の乗っ取りを企んだ者とダーツバーで密会をして、それが本社社長の逆鱗に触れたって感じかな?
約五百年後ならば減給や謹慎で済んだかもしれないけれど、室町時代の処罰は然様に甘いものではない。トンチキ親父殿が下したのは伊勢伊勢守が“義絶”で本郷光泰が“生害”、つまり追放と切腹であった。
とはいえ、刑の執行には一年の猶予があり、結局は翌年早々に赦免されたのだけどね。
能吏であったのが幸いしたか伊勢伊勢守は政所執事に復帰出来たが、本郷光泰は無事とはいかなかった。内談衆から降格されて申次衆と相成り、それを恥じて隠居する。今は弟の泰茂が本郷氏の跡を継ぎ、申次衆として励んでいた。
尚、ことの顛末のオチはといえば、朝倉孝景が禁裏修理料の百貫文を拠出したのみならず、御礼として将軍家に五十貫文を献上。事態収拾に奔走した大館左衛門佐晴光にも十貫文の進呈があったそうな。
……総額千数百万円でクーデターを未遂で終わらせられるなら、朝倉氏にとっては安いものだったろうなぁ。
そしてもう一人の当事者である朝倉景高だが……身柄を押さえられれば処刑されるかもしれないと思ったか、事件発覚の当日に若狭国へと逃亡を図る。更に若狭武田氏の助けを受けて何処へかと身をくらませたのであった。めでたしめでたし。
いやだから、繰り返すけれど、全然めでたくねぇって!
物語ならばどんな事件も“めでたしめでたし”で終了するが、現実は然様に簡単には終わっちゃくれない。一つの事件の終わりは常に、次の事件の“始まり始まり”なのだから。
てっきり遁走した先のどこかで野垂れ死にしたと思われていた朝倉景高が、平気の平左でのうのうと現れやがるのだからさ。
まさか堺に潜んでいたとは……流石は治外法権を謳歌する土地であることよ。信長が焼きたくなる気持ちが理解出来てしまうぜ、全くよ!
それにしてもイラッとするのは朝倉景高の野郎だ。どうして今頃になって現れたのだろう?
つらつらと考えてみればクーデター未遂から七年が経つ。ほとぼりが冷めたと判断したのだろう。判断材料としたのは、堺との間に何らわだかまりなしと俺が公表したことか。或いは……俺が子供であるので組し易しと思ったか。
伊勢伊勢守が失脚したことがあるのを知らなかったし、当人も含め誰も教えてはくれなかったのだから、俺と朝倉景高との間に遺恨はない。それすらももしかしたら察知しているのかもしれない。
もしも知っていれば、朝倉景高が名乗りを上げた瞬間に“出て行け!”と追い散らしただろうから。
何れにしても舐めた野郎であるのは確かだな。
このまま会所に戻れば相手は何がしかのお願いを言上するに違いない。言上を聞いてしまえば俺としては対処するしかないだろう。幾ら身形を整えていようとも、全てを失い尾羽打ち枯らした者なのだから。
救済出来る者を救済しないとすれば、俺の評価は低下するに違いない。これが洛中であるならば然様なことは些事で済ませられる。俺の評価は確定しているからだ。だが堺では異なる。ここでの俺の評価は未だ確定していないのだ。
恐らくは、朝倉景高を送り出したのは俺を試したい奴なのだろうな、きっと。それが誰かと推理すれば会合衆の誰かかもしくは総意であるに違いない。助五郎の親父、天王寺屋の意も大いに反映されているだろうなぁ。
豊富な人脈を持つ武野一閑斎師も御存知なのだろうなぁ。堺の隅々にまで情報網を張り巡らせているような御方が今回のことを知らぬ筈がない。そして俺と武野一閑斎師との関係は損得尽くめで一味同心といっても良い。
然様な間柄の武野一閑斎師が何一つ警告を発せられなかった、ということはどういうことだろうか?
すげなく追い出したとて問題ないってことか。適当にあしらっても良いってことか。それとも?
うーむ即座に答えが出ねぇや。少なくともコレが正解、って回答が思い浮かばないや。
やれ参ったな。こいつは仕方がない。宿題とさせてもらうとしよう。何かいいたげな三淵を掌で抑え、与一郎ら側役用人の顔を見渡す。
「七郎よ」
「は!」
「その方に取次を命ずる。右衛門大夫には近日中に沙汰する故に本日は下がれと申し伝えよ」
「は、はは!」
妙に鯱張った姿勢で歩み去る七郎を見送った三淵が、我慢しきれずといった表情になる。
「宜しゅうございましたのか?」
「致し方あるまい。彼奴の企みが判らぬのに無碍なことは出来まい。そもそもは北陸道のいざこざが発端である由。なれば元若狭国主であった一色左京大夫家に連なる者を間に挟むが吉であろう。
七郎の式部少輔家は左京太夫家と些か縁遠くなっておるようだが、然様なことも彼奴にはどうでも良かろうて。
一先ずは、余が右衛門大夫の扱いを蔑ろにはせなんだ、ということが大事である。如何するかは、大御所様と政所執事に尋ねれば良いだけよ。
“上意に刃向かいし者め”と成敗するも、“下郎推参”と改めて放逐するも、今ここで慌て急ぐ必要もあるまい。全て些事なり」
それよりも、と俺が問いかければ、与一郎が“万事遺漏なく”と返答する。然様か、と溜息混じりにいえば三淵が“然様でございましたな”と首を縦に振った。
昨日の宴席も難儀であったが、今宵の宴席もまた難儀であるからだ。
昼飯時に目を通した書状のほとんどが、堺の町衆達から五月雨式に送って寄越したものであった。三日後に再会しましょう、といったにも関わらずにだ。
どうやら彼らの認識では、会合衆や惣中といったグループ単位で会うのは明後日であるけれど、天王寺屋に紅屋に油屋といった単体で会うのには何ら不都合がないらしい。団体交渉と個人交渉は全くの別物なのか。
流石は生き馬の目を抜く世界で鎬を削りまくっている商売人達だこと。天晴れというか呆れたというか、何ともはや。
そんな訳で夕方というには日の高い頃、寺院の鐘が申の刻を告げるのと同時に宿舎を出た俺は十数名の共連れに囲まれて北上する。馬の背に揺られて間もなく到着したのは天神社の境内。神宮寺である威徳山天神常楽寺、天台宗の支院だった。
大切に祭られている御神体は、大宰府への流刑に処された菅原道真公が彼地で自ら作られて海へ放された七天神像の内のひとつとされる、小さな木像であるとか何とか。
「この井戸底には椿を焼いて作りし炭を敷き詰めておりましてな、大変重宝させて戴いておりまする。そう申さば、炭を使えば水が良くなるとお教え下さいましたのは大樹公が若子様の砌でございましたかな」
誠に忝きことにて、と頭を下げるのは門前で今日も今日とて出迎えて下さった武野一閑斎師である。
「見苦しくなきよう朽ち屋は全て片付けましたが、かえって寂しき風情と相成りまして候」
これまた初耳であったが、今から十五年前の天文元年の師走半ば、夜中に出火があり燃え盛る炎は堺の北側を嘗め尽くしてしまったのだそうな。焼失凡そ四千軒。常楽寺及び天神社の境内も多大な被害を受けたのだとか。
この時代、町が大火に包まれるのは戦火のみならず失火もそうなのだよなぁ。生前に観たとある番組で、何故に本能寺から信長の遺体が出てこなかったのか、の答えとして本能寺の堂宇が完全に焼け落ちたから、ってのがあった。
寺社の堂宇の多くは漆塗りが為されている。漆とは樹液であり、油分が結構キツイのだそうな。故に火に弱く、着火すれば余程太い柱でない限り燃やし尽くしてしまうのだとか。
往時はだだっ広い境内に七堂伽藍が立ち並ぶ荘厳な寺社であったらしいが、今は焼け残った堂宇社殿がひっそり肩寄せ合っている感じ。真新しい建物は一つ二つか。
「とは申せ、何れは町衆の力を合わせまして以前よりも華やかで素晴らしきものにしてみせましょうぞ」
茶の湯に心身を捧げた趣味人ではなく、銭の力を信奉する革屋主人の顔をした武野一閑斎師が力強く申されるのを聞き、俺は昨夜に思いついた当て推量が正しかったことに思い至る。
やはり今現在の堺は、藁にも縋りたいほどに、猫の手だろうが借りたいほどに、苦しいのだ。何も知らずのこのことやって来た俺は全く以て体のいい、藁であり猫の手なのだろうな。
であるならば、縋らせてやろうじゃないか、喜んで貸してやろう。勿論、タダじゃないけどな。当然ながら、値引きもしねぇぞ。例え出世払いになろうとも、払うモノはキッチリと払ってもらうし。
何せこちらも日々、命がけなのでな。精々高めの評価をしてもらおうじゃないか。
柱も床板も磨き抜かれた新築の会所へと案内された俺は、天王寺屋と紅屋の会合衆二人と茜屋に日比屋に平野屋といった惣中の三名に、“ようお越し下さいました”と頭を下げられた。
ベテランと新進気鋭の五人組の背後には、昨日は見かけなかった者共が居並んでいる。前世よりも人との繋がりの大切なこの時代、流石に人の顔を覚えるのに慣れてしまった。視線を左右に動かしただけで、見たことのあるなしが一発で判明するのだよ。
もしも判明しなければ、そいつは紛れ込んだ暗殺者かもしれないからね。ホントにホントに日々、命がけなのさ。
見知らぬ者達の醸す雰囲気は、昨日の町衆達よりも緊張感が欠けている。ピリピリしたものが感じられないのは何故だろう。それに着ている衣装が堺の町衆達の物と比べると、どこか野暮ったいような。
するとつまり彼らは、堺の者ではない。況してや洛中や大和国中心の南都など畿内の者でもないってことだ。恐らくは博多の者でもないだろう。最新文化が溢れた大都市圏の者ではなく、どこか田舎の者達に違いない。
それなら一体、どこのどなた達?
「大樹公に皆々様を御紹介申し上げまする。こちらは安濃津よりも東より遥々とお越し為されました方々にござりまする!」
「大樹公におかれましては何卒御引見賜りたく存じ上げ奉りまする!」
天王寺屋が一際声を張り上げれば、紅屋も負けじと声を高くした。堂内に韻々と響き渡る大声に思わず“五月蠅いわ!”と叫びかけたが、どうにか口を真一文字に結ぶことに成功する。
安濃津って確か、伊勢国最大の港町だったよな。それよりも東って……とわずかに首を傾げながら傍に控える俺専属のSP隊リーダー、御番衆頭取へと眼差しで合図する。
「然れば、後ろの方々は何者共であるか。疾く答えられませい!」
三淵弥四郎の吠えるような問いかけに即座に反応したのは、天王寺屋の背後にいた初老の男と、紅屋の背後にいた青年であった。
「小田原にて商人共を束ねておりまする宮前屋の賀藤と申す者にてござりまする」
「駿府にて御用商人を拝命致しておりまする友野屋次郎兵衛が一子、次郎右兵衛尉にござりまする」
……え? 北条氏と今川氏の出入り商人? 何で?
助五郎の淹れてくれた抹茶オレを喫しながら、俺はほっと息をつく。それにしても昨日は本当に吃驚したよ、いやはや魂消た魂消た。
北条氏からは宮前屋以外にも南都出身の紙屋甚六やら洛中の藍染めを商う京紺屋の津田藤兵衛など五名。
今川氏からは友野屋の他、松木与三郎と大井新左衛門といった御用商人の次世代と、楠見善左衛門尉に駿河屋藤次郎に芹沢玄蕃尉なる駿河国の廻船問屋や馬喰司が複数名。更に遠江国の奈良屋次郎左衛門尉や三河国の林次郎兵衛尉などもいたっけ。
相模に始まり三河で終わる東海四ヶ国では普く豪商と称されている者達がズラリと集まったのだから、それはもう壮観であったよ昨夜の宴席は。
賑やかしとして呼ばれていた松山新太郎なる男が芸達者で、座を盛り上げること盛り上げること。久々に腹を抱えて笑ってしまった。冷静沈着仏頂面が代名詞の与一郎ですら楽し気であったのだから。
東海地域の豪商達がどうして雁首揃えたのかという疑問が直ぐに解消されたから、気も緩んだってのもあるけれど。
それぞれが北条氏康や今川義元の意を受けてやって来たには違いないけれど、それだけではないとのことで。ドン引きするほどに厚く御礼をいわれてしまった。河東郡を巡っての北条氏と今川氏の争いを治めたことへの御礼だ。
様々な軍需物資を扱う御用商人も、海運業である廻船問屋も、荷を背負って陸路を行き来する馬喰も、何れもが死の商人と紙一重の存在である。武具を商う武野一閑斎師は武器商人だから紙一重どころじゃないけれど。
そんな彼らだが、商いをするならば戦時下は願い下げなのだそうな。例え一触即発状態でも開戦していない方が商売はし易いのだと。そりゃそうか。下手に合戦となれば、勝つには勝っても恩賞を出す者は手元不如意となる。
もしも負ければ全てがパー。前払いよりも後払いが多い当世では、貸し倒れで敗者の道連れにされかねない。何よりも合戦が盛んとなれば街道は荷止めとなり、他国間だけではなく一国の中でも通商路が途絶されるのだ。
戦争で大儲け出来るのは小商いだけで、大店は黒字に匹敵するくらいに赤字を抱え込むこともあるそうだ。売り上げが一億を超えても必要経費が数千万以上となれば、気分は骨折り損のくたびれ儲けとなる。
だからこそ、相駿二ヶ国間に和議が結ばれたことは諸手を挙げての大歓迎。是非とも御礼をせねばと思ったらしい。序でに安濃津から先、紀伊水道を通じて堺への通商路をより確かなものとしたい。然すれば商いは大いに広がるのだ。
どっちが序でだよと思いながらも、山ほどの献上品を頂戴するのは吝かではない。むしろ手元不如意が当たり前の将軍家としてはサンキューベリーマッチだよ、有難う!
献上品の中には、北条氏康と今川義元らから託された物も数々混ざっていた。
目録で確かめないと判らないが、恐らくは北条氏康からの御届け物の方が多いのだろうなぁ。
どんちゃん騒ぎに終始した一夜が明けた今日の昼は、やや大人しめの宴席だったりする。それにしても宴会盛り上げ人だった松山新太郎なる男、どこかで聞いたことがあるのだが、はてさて誰だったっけ?
あまり首ばかり傾げていては頚椎捻挫を起こしそうだからしないけれど、気になる野郎だった。以前は大坂本願寺の番士をしていたそうだけど。
堺って場所は色々な背景を背負った輩が隠れ潜んでいる場所だよ、全くさ。まるでビックリ箱みたいだよ、油断出来ないったらありゃしねぇ。
「如何なされましたか?」
松山なんちゃらに負けず劣らずの賑やかしである滝川彦右衛門が、ひょうげた仕草で下座からこちらを窺い見やがる。気にするなと手を振れば、大袈裟に肩を竦めやがった。こちらよりも客人相手に愛想を振舞っておけ。
連日の宴席は招待を受けての主賓であったが、今日は珍しく招待する側である。酒も酒肴も豊富に用意したので、十分に楽しんでくれるだろう。まぁ酒も酒肴も会合衆からの差し入れだから、こちらの懐も痛んでないし。
さぁさぁ皆の衆、大いに飲んで食べてくれ給え!
……とはいっても無理だろうなぁ。
俺の間近に坐す種子島の若隠居である加賀守恵時はまだしも、他は皆が皆、地下人に近しい者達ばかりだからなぁ。
雑賀衆と根来衆の中では顔役であるとしても、現役の足利将軍の前では十把一絡げの国人衆でしかない。しかも上位ではなく下位の。
下剋上盛んな戦国時代とは、言い換えれば身分制度が徹底された社会ってことだ。幾ら侍社会の頂点が気楽にせよといったとて、底辺間近の者共がはいそうですねとはいえないよな。どうしたって遠慮が出る。
末席に坐す鉄砲鍛冶の大中小、芝辻清右衛門と橘屋又三郎と国友与左衛門の三人もガッチガチに固まっていて、碌に箸が進んでいねぇな。
うーむ、宿舎に呼びつけたのは間違いだったか。二十年後くらいには戦場で大暴れする鉄砲名人達もここでは借りて来た猫みたいだな。どこか別に場所を借りれば良かったかな。
……ふむ。別の場所か。閃いたぞ。
「のう、その方ら」
助五郎に空の茶碗を返すや、俺は膳を除けて膝を進めた。何事かと下座で畏まった雑賀衆と根来衆の者達に、聞きようによっては猫なで声みたいな発音でゆっくりと話しかける。
「鍛え抜いたその方らの腕前、存分に揮うてみたくはないか?」
へえぇ、と奇声を上げたのは彦右衛門だった。いや、お前じゃねぇから安心しろ。
ほわ、と変な声を発したのは杉谷善住坊か。いや、お前でもないから気にせず飯でも食うていろよ。
お願いだからひとり静かに杯を干している田中久太郎を見習って黙っていてくれ、二人共!
「折角の鍛錬したのだ。いつまでも燻らせておくのは勿体なかろうて。
どうだ、津田監物よ、津田妙算よ、鈴木佐大夫よ、土橋平次よ、土橋平之丞よ。
思う存分に鉄砲を放ってみたくはないか……試しの場などではなく、本物の合戦の場で?」
さてさて暑くなって参りました。マスクにアルコール消毒が必須の難儀な夏ですね。
どうか皆様方、御身御大事にお過ごしあれかし。




