『 スティング・バイ・ビー 』(天文十六年、夏)
本当は私の誕生日である昨日の内に投稿しようと思っていたのですが、あーだこーだとこねくり回していたら間に合いませんでした。
やっぱり、御利用と更新は計画的にしないとね?
誤字誤表記を訂正し、少し加筆致しました(2020.05.21)。御指摘に感謝を!
「御帰還なり! 御帰還なり!」
本満寺を後にした俺と従者達の隊列の先頭から駆け出た御番衆頭取の三淵弥四郎藤之が、仮御所の門前で大声を張り上げた。
御大層な槍を携えた左右の門番が槍の穂先を後ろに回して、膝を折る。“花の御所”では従来通り奉公衆が務めているが、仮御所では御番衆が務めていた。
御番衆の大半は近習を卒業したばかりの若手なので経験値が足りなさ過ぎる。頼りない門番など無用の長物でしかないから、供侍から昇格させたベテラン勢と組ませていた。ルーチン・ワークは、開門から閉門までは外側に立ち、閉門後は内側に併設した番所小屋で待機である。
だが終日ではない。早朝から午後のお八つ時まで、お八つ時から夜半まで、夜半から早朝まで、の三交代制だ。常に万全の態勢でいさせなければガードマンは務まらないからね。冬場は火鉢と防寒具を常備させたし、これからの時期は日陰に立つよう厳命していた。
給金を厚く出来ぬは今更ながら、せめて待遇だけはと最善を心掛けている。人権軽視の時代だからこそ、出来る限りのことはしてやらねば。
今日の早番担当である池田弥太郎輝正と中村孫作一政の両名を労いながら門を潜れば、仮御所内の表側にいた数十名の老若男女全員が、その場で腰を折り、片膝をついて頭を下げていた。
“何と大袈裟な”といつも思えど、これが将軍なる権威に対する当然の姿勢なのだ。今日も今日とて仕方がないと思いつつ溜息を漏らしそうになったその時、仁王立ちの弥四郎が再び大声を張り上げた。
「気を付けぇーッ!! 一同ッ!! 敬礼ッ!! 其の参ッ!!」
途端に当世の常識に準じた礼を尽くしていた者達が一斉に立ち上がり、固く握り締めた右手の拳を、肘を折り曲げて左胸へと押し当てる。勿論、当世の常識には存在しない筈のポーズなり。
すると不可思議にして不自然な所作をする者達の間で、挙動不審な者が何人も浮かび上がった。立ちそびれた者、立っただけで呆然としている者、隣の真似はしたけれど挙げる手を間違えた者などなど。
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ……ふむ、今日は昨日より少ないな。そう思いつつ目配せすれば、心得たりとばかりに頷く弥四郎。
「然ればこれより身元改めを行う。……者共、抜かるべからず!」
其処彼処で男達が“応”と言い、女達が“畏まりまして”と申すや、敷地内の止まっていた時間が一気に動き出した。皆と同じ動作が出来なかった者達が周りに取り囲まれ、有無を言わさず番所小屋へと連行されて行く。
ことある毎にいちいち跪かれるのが鬱陶しいので、立礼でいいよと言ったら“然様なことでは示しがつき申さず、乱れを招く元にて”と進士美作守らにダメ出しされたのは三日前のこと。
ならば格好が整うようにすれば良いのだろうと、敬礼をさせることを思いつき、仮御所内限定で実施させたのはつい先日のこと。太原雪斎や北条宗哲らを送り出した直後である。
因みに“其の壱”はピンと伸ばした右手の指先を額へ斜に当てる軍隊式の敬礼で、“其の弐”はナチス式のアレである。“其の参”は、放射能汚染で絶滅寸前の地球を救うべく銀河の彼方へと旅立った宇宙戦艦のクルーがしていた敬礼だったりするが、それが判るのは俺だけだから問題ないだろう。
問題があるとすれば着物姿にはどの敬礼ポーズも似合わないので、五月晴れには程遠い曇天の空の下でひとり失笑してしまいそうになることか。
何てヘンテコリンな、とは俺だけじゃなく恐らく全員が思っていることだろうけど、三種類の敬礼を取り入れたことで胡乱な者を白日の下に晒し易くなったのは僥倖であった。
敷地内は忍者達の警戒網が常時作動中なので必要ないかもしれないが、警戒しているよってのを内外に知らしめるのは悪いことじゃないだろう。内部には安心を、外部には通告を、ってね。
昼食を取りながら弥四郎が報告する不審者情報に耳を傾ける。飯食いながら聞くことじゃないよなぁとは思うけど、スケジュールを勘案すればこのタイミングしかないし。これも最高責任者の務めと諦めねば。
今日の身元改め対象は八人。内、五人が宗教関係であった。臨済宗と浄土宗と法華宗から各一人。残る二人は一向宗からであった。質せば大坂の本願寺から来た者であるとのこと。
先の三人には、今日以降門を潜る度に必ず番所小屋へと顔を出すよう伝えたのみで直ぐに開放。後の二人はスパイであると判断し丁重に放逐したそうだ。つまり平和的に恫喝したとのことである。
宗教関係以外の三人は、トンチキ管領の息がかかった者だったそうな。こちらは比較的穏便に追い出したとのこと。翻訳すれば死なない程度にボコったってことだ。まぁ仕方ないよね、殺伐が売りの室町時代だもの。殺されないだけ御の字だよね。
然して楽しくもない報告を聞かされながら一汁二菜の昼食を済ませた俺は、与一郎と弥四郎らに追い立てられるようにして奥の間へと移動させられた。御蔭で歩きながら“近江国守護様よりの書状にございまする”と巻紙を渡され、歩きながら読む羽目に。ワーカーホリックにする気かよ、全くもう。
しれっとした澄まし顔の側近らに文句の一つでもと思ったが、手紙を読み終えて気が変わった。ふむ、五日後か。ならば早速にも手配せねば。進士美作守を呼び寄せ耳打ちすれば、“急ぎ伊勢守様と打ち合わせをば”と走り出して行ったよ。
仕事が早いのはいいけれど、うっかりの早合点をするなよ。
俺が企画実行したいのは“御所巻き”じゃないからな。頼んだよ、ホントに。
近習頭取の大館十郎藤光を引き連れて、泡食ったように駆けて行く御所大番頭を見送る間に到着しました、奥の間に。
通常より一回りほど大きい藁蓋に腰を下ろせば、小生意気そうな顔つきの少年が抹茶オレを運んで来る。少年の名は別貫といい草履を商う坂本屋の跡取り息子であるとか。
お茶といえばこれまでは、武野一閑斎師だった。
事実上の将軍家筆頭御茶頭役である。しかし、然様な役職は実際には存在しない。茶頭や茶道方などの職掌が誕生するのは織田政権以降の話だから当然だ。
存在しないってことは公儀に認められた立場ではなく、正式に雇われた職員でもないってことになる。であるからして常駐されてはいない。今まで当たり前のようにおられたがそれはこちらが要請した時か、向こうの都合によるものであった。
そもそも茶人としては当代最高の人物、あちこちの茶会に引っ張り凧の大変お忙しい人だ。その上、本業は堺に大店を構える皮屋の主人である。その皮屋が最近、商売繁盛でてんてこ舞いなのだとか。
皮屋が扱う品は革製品、そしてこの時代の革製品の大半が軍事物資だったりする。畿内各所を戦場とするトンチキ管領らの内ゲバは、皮屋にプチバブルをもたらしているのだってさ。
風が吹いたら桶屋が儲かるように、戦が盛んとなれば皮革業者は笑いが止まらなくなるらしい。武野一閑斎師は大笑いではなく苦笑いを浮かべながら“暫くは数寄に身をやつす暇がございませぬゆえ”と申して本業へと戻られ、弟子のひとりを代理として残された。
それが、別貫なる少年であった。
もっとも茶道の技量は確かであっても少年独りに将軍家の茶事が務まる筈もないので、他にも田中与四郎なる体のゴツイ青年と園部一黙子というヒョロイ青年僧と合わせて三人で一閑斎師の代わりを務めている。
三十路に近い与四郎は堺で問屋とかいう貸倉庫業を営んでいるらしい。天王寺屋の助五郎に問い合わせたら会合衆の一員だそうな。もう直ぐ二十歳の一黙子は笑嶺宗訢師の弟子だった。僧侶としての名は春屋だそうな。
茶事三人組の全員に出入り自由の許可など正式にした覚えはないのだが、身元が確かなので黙認状態である。それで良いのかセキュリティー? 俺が喫する茶は毒見なしで給されているのだぞ。何をさて置いても安全対策を施さねばならないのじゃないか?
とはいえ、ここでも一閑斎師のネームバリューがものを言う。絶対に信のおける御方の推薦だから疑う必要性がないのだとか。そう説明されたら、なるほどなと頷かざるを得ない。
俺自身が、側近連中と同等に一閑斎師を信用しているのだから。
茶人といえば他にも、最近は北向道陳というおっさんも度々仮御所に顔を出していた。これまた堺の趣味人で、それなりに腕のあるお医者さんだとか。だが医者のくせにやや病的な唐物狂いなので、仮御所よりも慈照寺の方が出没頻度が高い変人だった。
観音堂に収められた八代義政の唐物コレクション、所謂“東山御物”鑑賞ばかりに精を出し、慈照寺に寄宿中の土岐左京太夫の接待は大分おざなりであるらしい。左京太夫も趣味の絵描きに没頭する毎日なので特に問題はないってのが、良いのやら悪いのやら。
そんな裏事情はさておいて。
敬礼励行を実施して僅か三日ながらスパイと不審者には一定の効果を挙げているのは我ながら予想外であった。昔ながらの合言葉“山”“川”でも良かったのだが、それじゃあオリジナリティがないしね。
オリジナリティ、言い換えれば他所がやっていないからこそ通用するってことである。信用性の高いセキュリティーならば二番煎じでも二匹目のドジョウでも有難く頂戴するけれど、今の時代にそんな高等な技法は存在しないのだ。
なればこそ独自性を発揮しなきゃ!
ところがだ、そんな時代を先取りし過ぎた超技術レベル……かもしれないセキュリティーが通用しない相手がいたりする。それは誰だと問うならば、セキュリティー実施前に潜り込んだ者達である。
……そりゃそうだ。取り締まれたら吃驚だよ。
いや、本当に驚きであった。何を驚いたのかと言えば、潜り込んだ者達の名前にである。
一閑斎師の御点前の域にはまだまだ達しそうもない茶をチビチビと喫しつつ先日受けた驚きを反芻していたら、廊下の方から不特定多数の足音が聞こえてきたぜ。
本人らは静々と歩いているつもりだろうが、床板を踏む度に余計な音が矢鱈と粗雑である。
きっと緊張しているのだろうな。
それくらいのことなら判るほどに俺もここの生活に馴染んでいるようだ。言葉にならぬ意思を感じ取れなきゃ、将軍様などやってられないもの。
もしかしたら感じ取れない鈍感さの方が、必要な能力なのかもしれないけどね。だが前世と合わせりゃ二度目の思春期だ。敏感にはなれても、鈍感にはなれないのが寂しいねぇ。
「御無礼仕りまする」
どっかと廊下に腰を下ろし正面にいる俺へと頭を下げたのは、黒田下野である。長きに亘る九州旅行、しかも二度目の旅路を終えて帰洛してから数日。既に塗れた旅塵は体臭ごと綺麗に払われてはいるが、こけた頬を見やれば旅の疲れはまだ取れてはいないのだろう。本当に本当に本当に、お疲れさん。
然様な旅路を命じたのはこの俺だ。幾らでも文句を言ってくれ。聞く耳は持たないけどな、はっはっはっ!
「連れて参りましたので、改めての御検分を願い上げ奉りまする」
座したまま軽く腰を折った黒田下野が身を横へとずらせば、十名ばかりのティーンエイジャー達が這い蹲っていた。中央にいるのが最も年上で、端にいる女児が一番年少である。
「顔が見えずば話しも出来ぬ、構わぬゆえ面を上げよ」
しかしティーンエイジャー達はか細い声で“恐れ多いことにて”と言ったきり、ピクリとも動きやしない。さて、どうしたものか。
「宇喜多右衛門尉……であったな」
「は……ははッ!」
「その方の望み叶えること能わず」
「……は」
「などと申したら如何にする?」
「……は?」
漸く頭を上げやがった。結構な男前だな、この野郎。体型もスラッとしていやがるし。ちょっとムカついたから右衛門尉などと偉そうな名乗りでは呼んでやらねぇ。お前など宇喜多っちで十分だ。判ったか、宇喜多っち!
おうおう、宇喜多っちよ。青年期を過ぎたら世に聞こえた西国一の毒殺魔になるとは思えないくらいの爽やかさんじゃないかよ、手前ぇ。どういうことだ、ああん? とことん問い詰めてやりたい気分だが今の話題はそこじゃないので、棚上げしてやろうじゃないか。命拾いしたな!
「その方らは守護でも守護代でもなく、況してや忠実なる御家人ですらない。そもそもその方らが仕える主は浦上掃部助であろうが?
縋るならば洛中にて逼塞しておる余ではなく、在地で幅を利かせておる僭上者に頼むべきと思うがな?」
帰洛前に黒田下野より届けられた長い長い書状によれば、宇喜多氏の出自は定かではなく、二代前に急速に力を得た土豪であるそうな。生まれも育ちも生粋の備前国っ子である宇喜多氏の次世代が何ゆえに故郷を離れてこの場にいるのか?
それは赤松氏が、備前・播磨二ヵ国の支配者からみっともないくらいに転げ落ちたからである。
もしも赤松左京大夫晴政がそれなりの武将であれば、黒田下野は俺の配下となることもなく直臣として安泰であったであろうし、宇喜多氏も陪臣としてそこそこはやっていけたに違いない。
しかし残念ながら、赤松氏当代の主に二ヵ国を治める器量も度量もなかった。おまけに運もなかったようだ。浦上氏の反逆とその他大勢の離反による内憂と、無敵の尼子氏軍勢の襲来という外患に痛めつけられ、堺に逃亡した晴政。
正確に言えばその時点では政祐って名前なのだが。どう頼み込んだのか堺にトンズラこいてからトンチキ親父殿から偏諱を受けて改名したのである。改名直後に頓死したのだそうな。
九州へと赴く準備で堺に滞在していた黒田下野自身が確認したので間違いないとか。ありゃまぁ何と、運がないにもほどがある男だこと。寿命があればリターンマッチが出来たかもしれないのに、御愁傷様だよ全くね。
そんな訳で当主を失った赤松氏の領国は現在、晴政の遺児である道祖松丸を神輿の飾りとして担ぐ浦上掃部助政宗のグループと、養子に出された佐用氏から出戻った晴政の異母兄弟である赤松右京大夫政元のグループとに分裂していたりする。
黒田下野や京都守護代に採用した面々は、どっちのグループにもどちらにも先はないと見限ったということだ。せめて晴政が生きていれば夢よもう一度だったかもしれないが。
ならば宇喜多氏も同様なのかといえば然に非ず。直臣と陪臣では世界が違うのだった。……とは言っても違いは、御家騒動の規模だけだったりするのだけどね。内容は異母弟による謀反である。
主犯は浮田大和守国定。共犯は浦上氏宿老のひとり、島村弾正左衛門尉盛実。被害者は宇喜多平左衛門尉能家。現場は備前国豊原の砥石城。今から十三年前の夏の盛りのことだったそうな。
砥石城攻めをした島村勢は“上意”を合言葉にしていたとかで、浦上氏の意向があったのやもしれないとのこと。能家は浦上氏配下では跳びぬけた実力者だったので嫌われた可能性が無きにしも非ず、とは黒田下野の証言だ。
もしや三好長慶の父や祖父の時と一緒の構図か……って、何だか多いねぇ、そんな話。鎌倉以来の武家あるあるなのか?
父を殺された宇喜多興家は家族と郎党の一部を連れて脱出に成功するも、前途を悲観したのか数年後に自害。祖父に続き父をも失った宇喜多っちは、浦上掃部助の弟である帯刀左衛門尉から僅かな捨扶持を与えられることで、これまで生き延びてきたのだそうな。
しかしジリ貧であるのに変わりはない。先の見えぬ焦燥感にかられながら日々を過ごしていた宇喜多っちはある日、所用にて倉敷への玄関口である下津井湊を訪れたのだが、それが運命の分かれ道だったようだ。
九州からの帰途、風待ちの為に町卿一行が乗っていた船が丁度そのタイミングで停泊したのだと。偶然にも出会ってしまった、赤松牢人同士。それは当に運命だったのだろう。
“浮世、人の世とは、有為転変が常であるとか。某の来し方も有為転変でござりました。
大樹が種子島へ使者を発しようとされなければ、堺にて滝川殿の誘いに耳を貸さねば……某は今頃、小寺か三木を主と仰ぐ有象無象の土豪であったやのやもしれませぬ。
もしくは武士を辞めて目薬を商う旅商人になっていたやもしれませぬ。
主家が倒れた武士とは、領する土地を持たぬ国人とは、誠に惨めなものでござりまするゆえに。
……まさかそれが、いまではこうして大樹の禄を食む一端の直臣になろうとは、誠にこの世は人知の及ばぬことにて候”
帰国を報じた際、黒田下野は苦笑いを浮かべていた。
“天運も天啓とやらも、いつどこで、どのように降りかかって来るのか判らぬものにて”
そう述べたので、“宇喜多の若党に逢うたのも天運か天啓であったのか?”と聞いたら、黒田下野は実に神妙な面持ちで一言だけ口にしやがった。
“然ん候”
「……とは申せ、その方らを“知ったことか”の一言で見過しにするほど余は鬼ではない。
『顔氏家訓』に曰く“窮鳥入懐、仁人所憫、況死士帰我、常棄之乎”……であるとか。
さて、宇喜多っ……右衛門尉、その方に問う。篤と考え、答えよ。
その方らは余が与える扶持を当てにして漫然と過ごしたいのか、それとも余の為に身を粉にして働き御家を再興致したいのか、何れであるか?」
「御家再興にござりまする! その為ならば身命を賭して御身に仕える所存にござりまする!」
宇喜多っちが声高に返答して頭を下げれば、その身内の者達も一斉に平伏した。二人の童女も両手を合わせて懇願のポーズだ。
……うん、どうも居心地が悪いな。とても危険なプレイをしている気分がしてきたぞ。こうなったら厄介ごとっぽい彼らを一纏めにして、他所へと丸投げしてやろう。精神的にもその方が良い気がするし!
「然ればである。御家の再興を果たすも、一角の武人となって世に名を知らしめるも、己の支えとなるものがなくば……何者にもなれまいと余は思う。
右衛門尉よ、その方は“何者”として余に仕える気であるのか申し述べよ。余が頼みとするほどの“何者”であるのか?」
……ちょっと追い込み過ぎたかな? 宇喜多っちは顔を真っ赤にしているし、その仲間達の顔色は真っ青だ。童女ふたりも雰囲気を察してか涙目になっちゃってるよ。……居心地の悪さが二倍増しだぜ、全くもう。
肩を竦め、左右に視線を走らせたけれど……おや、与一郎も弥四郎も他の者達も平然としているじゃないか。ただ独りだけは口を窄め、上目遣いで俺を見ているが。
苛めている訳じゃないぞと目配せすれば、判っているとばかりに軽く頷く黒田下野。然様か。それじゃあ、そろそろ救いの手でも差し伸べてやるとするか。
「どうやらその方らは、まだ“何者”でもないようであるな。然れば好都合である」
口調を変えてやったら、宇喜多っち達の顔色も変わった。揃いも揃って狐に摘ままれた表情、って感じで。
「大和国へ行け。
余が差配しておる笠置寺へ赴き、そこで学を身につけよ。
兵法も大いに学べ。
彼の地では、真田という曲者がその方らを導いてくれるであろう。
そこには、柳生という一徹者がその方らを支えてくれるであろう。
そこで過ごさば己が“何者”であるかが判るであろう。
一年……いや二年後、再び余はその方らに問う。
その時こそ、良き答えをしてくれると期待致す。
……黒田下野」
「は!」
「その方に万事任せる。その方が連れて来たのだ、一切の面倒をみるべし」
「心得まして」
「今はまだ幽とも感じぬやもしれぬが、ほどなく洛中は騒がしくなるであろう。その方も家族郎党を連れて笠置寺へ行け。柳生の村に力を貸してやれ。
いざという時に余の背を任せる為にも、そこで力を養い蓄えるべし」
「畏まりまして候。……方々、大樹に御礼を申し上げよ。その方らの願い、大樹はきっと叶えて下されようほどに」
黒田下野に促された宇喜多っちとその仲間達は、呪縛が解けたように一斉に平伏した。おんおんと泣き出す者もいるが……そんなに感激するなよ。結局は我が足利家のやらかした不始末、その尻拭いなのだからさ。
六代義教がやり過ぎなきゃ嘉吉の変は勃発しなかったのだし、赤松氏没落もなかったのかもしれないのだから。
全く歴代将軍も、百年の計は無理でも目先の少し先のことを考えて行動してくれよ、あんたらの負債を背負わされる身にもなってみろってんだ、畜生め!
「誠に有難きことにて! 御礼申し上げまする!!」
感謝してくれる宇喜多君には悪いけど、俺がしていることは俺自身の保身の為で君達の為でもない。況してや足利将軍家や世の為でもない。偶々の結果オーライでしかないのだ。
……戦国時代の有名人に次々と会えるのはラッキーだとは思うけどね。中には遭いたくなかった奴もいるし、会わなければ良かったのもいるが。
宇喜多っちもその一環でしかない。今後どうなるかは判らないけれど、何とか独り立ちする手伝いが出来れば一石二鳥だよな、くらいなもので。そして先々に俺を助けてくれるなら万々歳、ってヤツだ。
泣き崩れた若者達の姿に、俺以外の者達も涙を誘われてか袖で目尻を拭ったりしている。さて、どうしたものやら何とも微妙な愁嘆場を。……あ、そうだ!
「大和国へ行く前に、余の為にひと働きせぬか?」
泣き濡れた顔を上げた宇喜多っちは“何なりと御申しつけ下されたし”と即答してくれた。言質を取ったぜ、この野郎。これ幸いと俺は、室内の隅で待機していた一色七郎藤長を呼び寄せ、例の物を持って来るよう命じる。ほどなくして漆塗りの籠を抱え戻って来るや、俺の前にそっと差し出す。
籠の中に入っていたのは、例によっていつもの思い付きで事前に拵えさせていた物だった。それを両手で一つずつ掴み上げるや、全員の衆目を集めるべくこれ見よがしに両手を高々と掲げてやる。
「数日の内にこれを習得すべし。珍奇な物かと思うだろうが然して難しい物ではない。安心して励め」
「それは一体……何でござりましょうや?」
「これは“丹波鈴”と“嘉壽胤”と申す外つ国の鳴り物である。現物は余が新たに拵えさせた物である。……与一郎、弥四郎、模範に一指し舞うべし」
“承りまして”とユニゾンで返事をし、すっくと立ち上がる弥四郎と与一郎の兄弟。弟が片手で持てる太鼓に神楽鈴の機能を持たせた“丹波鈴”をタンタンシャラシャラと派手に鳴らせば、兄は貝殻形の木片を紐で綴じ合わせた“嘉壽胤”をカチンカチンと高らかに打つ。
俺が適当に教えたリズムを奏でながら観世流の舞を披露する眉目秀麗な二人組。流石は風流を解する兄弟だなぁ、原曲はソーラン節なのに何と雅であることよ。
一通り舞い終えた二人が座すのを待ってから、俺は宇喜多っちに“出来るか?”と問いかけた。すると“出来まする!”とハキハキ答えたのは円らな瞳をキラキラさせた童女二人であった。
「然様か……ならば励め」
直答するとは無礼なり、とは少しも思わなかったので俺は笑って許してやる。
「近日中に、内裏の前にて“馬揃え”を行う。御上に御上覧戴いてな。武張った行列だけでは面白みに欠ける故、賑やかな御囃子が欲しいと思っておったのだ。
その方らが御囃子方として参じてくれるなら、余としては願ったり叶ったりである。
期待しておるぞ」
どっこいせ、と腰を上げれば再び顔色を青くした宇喜多っち達がギクシャクと頭を下げた。彼らの保護者役はといえば、やっと肩の荷を下ろせたような風情で安堵の表情をしていやがる。おいおい他人事だと思っているのか? 安心しろよ、お前も一蓮托生だからさ。
「黒田下野よ」
「はッ!」
「その方らも確りと励めよ」
「は? は…………ははぁ!」
十日後。俺は馬上の人となって軍勢の中央にいた。先頭で行列奉行を務めているのは、任せて安心の伊勢伊勢守。その後を色取り取りの直垂姿で進むのは、大館常興を筆頭とする内談衆・申次衆・奉行衆・奉公衆の面々。
そして本日の主役は、新しく発足したばかりの京師所司代メンバーである。別当の大館左衛門佐晴光も、監察の一色式部少輔晴具と摂津摂津守元造も、大館兵部少輔藤安ら組頭も、実に晴れがましい顔をしていた。
物頭に任じた上月采女親子や神吉兄弟らも皺ひとつない常盤色の袖なし陣羽織姿で、堂々と胸を張っている。軽装の騎馬武者の後には、洛中の工事現場から徴発した百人ほどの人足達に公儀の倉にあった陣笠と胴丸を着せ、短槍を持たせて歩かせた。
軍事パレードなどしたこともない素人達にまともな行列が短期間の練習で作れる筈もない。そこで太鼓や笛、鳴り物で賑やかに囃し立てさせ、一定のリズムを叩き込むことでどうにかこうにか恰好をつけさせる。
鳴り物の協力は観世流の囃子方だ。舞台にて舞う宗節師の伴奏とは異なるBGMを奏でるのに、千野与一左衛門師や牛尾彦左衛門師には苦労多きことだったとは思うが、どうにかこうにか整えてくれた。もう本当に感謝の二文字だ。
宇喜多っちも仲間達と一緒に囃子方の一員として、“丹波鈴”を賑やかに打ち鳴らしている。童女二人は近衛家提供の煌びやかな衣装に身を包み、黒田一党が担ぐ輿の上で楽しそうに“嘉壽胤”を叩いていた。多少ヤケクソ気味に聞こえるのは気のせいってことにしておいてやろう。
進士美作守をリーダーとする御番衆や近習達の側近集団に囲まれた俺の後ろにはまた、物々しく軍備を整えた軍勢が付き従っている。凡そ三千にも及ぶ兵を率いているのは六角弾正少弼定頼と二人の息子、嫡子の左京大夫義賢に次男の修理亮義頼。
定頼の甥である伊賀守護の仁木左馬頭義政や、佐々木近江守義秀もいる。
彼ら近江と伊賀の二ヵ国の軍勢が上洛するのが決まっていたから、俺は今日の“馬揃え”を挙行したのである。泥縄式だよ人生は。
内裏への通達は、年間スケジュールがギチギチの朝廷的にはダメだし食らっても文句が言えない時分であったのだが、娯楽に飢えていた御上や公家衆は好意的に許容してくれた。
近衛の伯父さんや山科卿、それに惟高妙安禅師ら大寺院方々の根回しや尽力の御蔭でもあったのだけど、ね。そのかわり、伊勢には滅茶苦茶怒られた。俺が本当に子供だったなら、小便漏らして痙攣発作を起こしてもおかしくないくらいに。
肉体はさておき精神は大人だから、痙攣発作は起こさなかったけどな!
それにしても、京師所司代の百人そこそこではやらない方がマシのみすぼらしいものだったに違いない。五月初旬には上洛するとの約束を定頼が守ってくれなければ、果たしていつ挙行出来たのやら。もしかしたら出来ぬままであったのやも。
“近江一国の完全平定。思いの外、時がかかり申した。端午の節句に間に合いませなんだこと、謹んで御詫び致しまする”と謝罪する定頼に俺は、“馬揃え”の費用を全て持ってもらうことで“これで帳消しぞ”と伝えた。
“これは高くつきましたな”と苦笑いするのに、“これでは詫びるのは余の方であるな”とこちらも苦笑いで返したっけ。
多くの助力を得て、少なくとも洛中においては武家の棟梁としての面目が立った俺である。これからも助けてもらえるように、俺なりに頑張らないとな。
御上が御上覧なされている辺りには、トンチキ親父殿やサー・グランパもいるだろう。サー・マザーにサー・グランマ、儀俊伯父さんら近衛家一門も特別席にて観ていてくれている。
“武家の誉れだ、俺も混ぜろ”などと散々駄々を捏ねた粟田口左衛門佐の従兄は弟の龍丸、正二位内大臣に昇進したばかりの晴嗣に抑え込んで貰っていた。篤子姫のことも丸投げしたから、さぞやカンカンだろうな。後で美味い物でも差し入れして御機嫌取りをしてやらねば。
“兄上いかすー!”って黄色い声がした方を見やれば、大祝鶴姫に抱きかかえられた妹の初子が手を振っていた。おいおいそこはどなたの御屋敷の屋根だ? 頼むから怪我するなよ。屋根下には石成主税助や滝川彦右衛門らがいるから大丈夫だとは思うけど。兄ちゃんは心配だよ……お転婆度合いも、言葉遣いもね?
天文十六年皐月半ばの、燦燦と陽光が降り注ぐその日。
相国寺を発し、高倉通りを下った“馬揃え”は土御門通りを西へと進み、御上の御上覧と褒賞を受けてから室町通りを北へと上がった。多くの都人の声援を浴びながら堂々とした行進をする武者行列。それはそれは艶やかで、華やかで、実に楽し気な行進であった。
因みに奏でられた音曲は、『三百六十五歩のマーチ』室町時代調なり。
明後日の方向へと三歩進んでは二歩後退してばかりの俺には最適の選曲だろう。冷や汗掻いて、泣き言ぼやいて歩き続けたなら、綺麗な花を咲かせられるかな?
百合や牡丹は高望みでも、せめて花咲けラフレシアってね。
そんなささやかな俺のワンツーパンチが、歴史への蜂の一刺しとならぬようにしなければ。
差し違えての昇天など、御免被るからな!
唐突に登場した宇喜多っち。名前は記しませんでしたが仲間達は、以下の通り。
宇喜多三郎右衛門尉直家、19歳。
弟、宇喜多六郎兵衛春家、16歳。
弟、宇喜多七郎兵衛忠家、15歳。
妹は、10歳と7歳。
郎党は、伊賀右衛門尉久隆、18歳。
戸川平助(秀安)、10歳。
長船又三郎貞親、21歳。
岡平内家利、17歳。
さて今週末の『麒麟がくる』には足利義輝公が登場するようですが、天文16年時点だと、数え12歳の子供です。
三淵弥四郎藤之(藤英)は18歳くらいで、細川与一郎藤孝は14歳です。
貴人であれど子供です。あまり多くを望まないで下さいませ(平身低頭)。
付記。
大坂本願寺が「石山」と呼ばれたのは江戸時代以降にて。伏見城と伏見桃山城の関係の如し。