『 ハルマキウドン 』(天文十六年、春)
ダイスケ様の御作『異世界コンサル株式会社(旧題:冒険者パーティーの経営を支援します!!)』http://ncode.syosetu.com/n0579dc/ を読み返していたらちょいと引っ張られてしまいました。
佐藤庵様の御作『転生内親王は上医を目指す』の最新話 https://ncode.syosetu.com/n5465fc/148/ と勝ち合いそうで冷や冷やだったのは内緒の話です(苦笑)。
誤認箇所を訂正致しました。御指摘に感謝を(2019.11.15)。
ビクビクする気持ちを抑えつつ仮御所に政所執事を呼び出し、諮問の体を装って“京師所司代”の設置を提案したのは二月の初旬であった。
膝前に広げた俺が書き散らした設立にあたっての要綱もどきのレジュメに視線を落としたまま、腕組みをする伊勢伊勢守。左様でございまするな、そういったきり体感時間で三十分は黙りこくっている。
……で、どう? やっぱ、駄目?
痺れを切らしてつい咳払いをしてみたら、ちらりとこちらを見やった伊勢は静かな声で“持ち帰らせて戴きまする”などとまるで官僚みたいな答弁をしやがった。いや、室町幕府が誇る最高の官僚だから別に問題じゃないが。
そして待てど暮らせど半月ばかり、回答はなかった。
何度かせっついてみたのだが、暫時お待ちあれ、という暖簾に腕押しの返事ばかり。そういわれたらこちらもそれ以上は催促出来ぬ。他にもすることは山積みであったし。
伊勢の息子にして関東に派遣した者たちの取り纏め役だった兵庫頭貞良からの報告、河田兄弟ら近習たちの物見遊山の感想、多羅尾一党が見聞した関東情勢、藤堂虎高ら供侍の愚痴、などに耳を傾けなければならなかったし。
何よりも、近習たちの元服の儀をせねばならなかったから、本当に忙しかった。
烏帽子親には誰が良いかと考えたが、幕府の重鎮である内談衆筆頭の大館常興に任せることに。従四位下って肩書きは大事だよね、やっぱ。補佐役は、三淵伊賀守と本郷治部少輔の二人。
場所は仮御所の林光院ではなく、“花の御所”の会所である。
上段中央に座す俺の左方には貴人特有の座り方、楽坐をしているトンチキ親父殿が。楽坐とは足を組まない胡坐みたいなもので、足裏同士を密着させるという独特な座り方だ。俺も練習してみたが腰への負担が半端なかった。どこが楽坐だよ、ちょっとした苦行じゃねぇか。俺は一生胡坐で過ごしてやるぜ。奇人変人座りなど、やってられるか!
そんな裏事情はさておいて。
自分の時は口上にしろ所作にしろ覚えること為すことが多くて苦労だらけだったけれど、この時は儀式執行の総責任者でありながら単なる見届け役でしかないので、実に気楽なもので。気分は、子供の御遊戯会を観覧する父親である。
とはいえ二十六人を元服させるのだ、早朝に始まった儀式が無事に終了したのは昼過ぎになっていた。トイレ休憩もなしでのぶっ続けだったので、終わった瞬間に参加者の大半が厠へ駆け込んだのは、後世に残れば面白エピソードになったやも。俺も勿論、いち早く駆け出したさ。足が痺れて二回ほどすっ転んだけどな!
それはさておき俺に遅れること一ヶ月と少しで、近習たちは大人の階段の一段目に足をかけた訳だ。気心の知れた少年たち青年たちが、信頼のおける部下たちとなってくれたのだ……のはずだ、多分きっと。
俺の義藤から偏諱を与えた者が五名。三淵弥四郎、改め藤之。細川与一郎、改め藤孝。彦部又四郎、改め藤信。大館十郎、改め藤光。一色七郎、改め藤長。
藤孝は有名だから然もありなんだが、弥四郎は藤英じゃなかったっけ?
後の四人に藤の字が偏諱されたかどうかまでは、流石に覚えちゃいない。又四郎は身内だし、七郎も足利一門だから当然だろう。十郎の大館氏は三淵氏同様、側近中の側近だから、誰も文句はないよね。
文句がないのも当たり前で、彼らの命名は全てトンチキ親父によるものだったりする。これで良かろうと得意満面だったし、俺からも異議はございませんですよ。
家格といい関係性といい偏諱を与えるのは難しいが、格別な思し召しで以って一字を通字として与えるって名目で、どうか御名前を頂戴致したくと願う者たちと今後も密な関係を結んだままにしたい者たち計九名には、“輝”の字を与えることとした。
荒川勝兵衛、改め輝宗。松井新左衛門、改め輝之。眞木嶋孫六郎、改め輝光。池田弥太郎、改め輝正。赤井五郎次郎、改め輝直。山中甚太郎、改め輝俊。山岡次兵衛、改め輝景。三好神介、改め輝勝。長野五郎、改め輝業。
何故に“輝”かといえば、そりゃあ勿論、義輝からだ。名乗った途端にケチが付き捲り死亡フラグまで林立する超縁起悪な名前ゆえに、今生で名乗るかどうか思案のしどころだけど、格好良いのだよなぁ“義輝”って名前は!
勝兵衛と新左衛門の二人は重代の家臣の子息にして、奉行衆としては能吏の血筋だから特別扱いしてやった。孫六郎と甚太郎と次兵衛と五郎の四人は、足利家との繋がりは濃くないけれど、先々のことを考えれば絶対に手放したくない人材だ。
弥太郎と五郎次郎と神介の三人は、現在の将軍家からすれば敵対勢力の子息である。とはいえ、面と向かって正式に“手切れだ!”と絶交宣言はしちゃいない。あくまでも不快感をふんわりと伝えているだけだった。
トンチキ親父はもっと明確な敵意を示すべく洛外の山城を強化しようとしたのだけど、俺が意見して止めさせている。城があっても守らせる兵が足りないし、城将を任せられるような適任者がいない、詰まり銭の無駄だと。
同じ銭をかけるなら、洛中ぐるりの土塁を強固にして適当な場所に物見台を兼ねた櫓を立てるべきだと具申したら、暫し考えた後に“左様であるな”と納得してくれたのには、少々吃驚したけれど。
ところでトンチキ親父が強化しようとした城って将軍山城じゃなかったっけ? 銀閣寺の背後に聳える東山三十六峰の一角、北白川の山の中にある古城の?
それがどうして、嵯峨の嵐山城だったのだろうか? 謎は深まるばかりだが、どちらも細川氏由来のお城だから良しとするか。もしかしたら慈照寺の一帯は俺のテリトリーだから手出しするのを止めたってことかな。……まさかね?
おっといけない、また思考が横道に逸れてしまった。
表面的には将軍家は細川京兆家とは疎遠になりつつある程度なので、弥太郎と五郎次郎と神介へ名を授けることにレッドカードは出されずに済んだ。特別扱いに過ぎるのではとイエローカードを出そうとする外野がいたようだけど、華麗にスルーしてやった。
何故ならばこれはトンチキ管領側に対して、彼ら三人を人質扱いせず大事にしていますよ、というメッセージでもあるからなので。左様な理屈をつけたから、トンチキ親父も許可したのかもしれない。
高五郎右衛門、改め師尚。和田伝右衛門、改め惟政。和田新助、改め定利。蜷川新右衛門、改め親長。石谷三郎左衛門、改め光政。小笠原又六、改め秀清。多羅尾助四郎、改め光当。山口甚助、改め光広。河田九郎太郎、改め元親。河田九郎次郎、改め重親。木村半兵衛、改め定重。速水兵右衛門、改め實政。
以上の十二名は“将軍家からの偏諱など畏れ多い”とかで実家が用意した名を名乗らせて戴きたいと申し出た者たちである。俺としては名前を考える労力を払わずに済むので、快くOKとした。
但し儀式であるので、常興が名を考案して授けるという形式にしたけどね。何事も儀式では“勿体”が大事なのだ。
元服し一丁前となりおおせた近習たちの大人の階段の二段目は、新たな職務の拝命である。授ける側の俺には緊張など欠片もないが、仮御所の会所に真新しい烏帽子と下ろし立ての直垂姿で並ぶ青少年たちの顔を見れば、きっと晴れ晴れしい気分なのだろう。緊張感なしで御免ね?
「三淵弥四郎藤之」
「はっ!」
俺の呼び出しに一番前に座していた藤之がにじりながら前へ進み出る。左手に控えていた進士美作守晴舎が、軽く巻いた奉書紙を乗せた三宝を俺の前に滑らせた。勿体ぶった所作で奉書紙を取り、下座に向けて大きく広げて見せる。
「その方を御番衆頭取に任ず。これよりは御所大番頭たる進士美作を助け、御番衆を取り纏めるべし」
「畏まりまして!」
「大館十郎藤光」
「はっ!」
「その方を近習頭取に任ず。これよりは御所大番頭たる進士美作を助け、近習を取り纏めるべし」
「畏まりまして!」
「細川与一郎藤孝」
「はっ!」
「その方を側役用人頭に任ず。これよりは御所大番頭たる進士美作を助け、余の不足を補うべし」
「畏まりまして!」
御所大番頭とは新設のポジション、いうなれば内閣官房長官みたいなもので俺を頂点とする将軍府の取り纏め役である。とはいっても実態としての職務は、政所と“花の御所”からの連絡全てを掌握する程度だけどね。
御番衆も新設の役目で、いわば親衛隊である。既存の組織ならば奉公衆に該当するのだが、奉公衆は何れ組織改変する予定だが改変した時に代替の組織がないのは不安だったので、先んじて作ることとした。属するのは供侍たちである。
未だ十七歳の弥四郎藤之には親衛隊隊長の職務は重過ぎるかもしれないが、大丈夫だろう。藤堂虎高や滝川彦右衛門ら供侍たちは優れた武士たちだ。上手くトップを立ててくれるに違いないし。
それに御番衆のメンバーには、後ろ盾が乏しい河田兄弟や実家が土豪の半兵衛定重と兵右衛門實政といった近習仲間が配下に加わるし、真田一党も黒田一党も……おや、数十人規模だな。
二十歳に満たぬ若造には荷が重い役目だったかな? ……まぁいいや、千尋の谷よりも浅い試練、いや、武将への大事なステップだと思って頑張れ!
近習頭取は、今まで進士美作が勤めていてくれた職務だ。教授師担当の村井吉兵衛が補佐するのだから、青二才の十郎でも大過なく務めてくれるに違いない。
側役用人とは、俺の秘書官兼補佐官だな。与一郎からすれば今までの御仕事に正式な肩書きがついた程度のことだろうと思う。だから気負わず今まで通りに……出来れば今までよりも手控えた働きをしてくれるといいな!
与一郎の部下となる彦部又四郎と一色七郎も以下同文。
五郎右衛門と和田兄弟と勝兵衛と新右衛門と三郎左衛門は、親の後を継ぐべく奉行衆見習いとして政所へ明日から出仕だ。
他の者たちは奉公衆見習いである。畿内及び近畿周辺、遠国の国人領主の子息たちを御所や公儀の役人に任じる訳にはいかないしね。それよりは肩書きだけでも自由度の高い奉公衆予備軍にするのが良いだろうってことで。
さて今更ながらだが、俺は当年とって十二歳となった。
後五年もすれば大人でもない子供でもない歳になるのだろうが、今はバリバリ子供である。因みに同い年は勝兵衛と孫六郎だ。そんな年少を元服させ役職を与えるのは早過ぎないかという意見があった。
俺もそうは思わないでもなかったが、主君である俺自身が子供ながらに武家の棟梁なのだ。“じゃあ余も元服するには早過ぎたのか?”と申せば異議があっという間に雲散霧消してしまった。
異議を申し立てるは先の将軍様への異議となる。そりゃあ口を噤むしかねぇよな、上野民部大輔よ。少しは考えてからものをいえよ、全く!
そんなんこんなで場外では色々とあったものの、やや卒業式っぽい任命式が閉幕したら小休憩を挟んで入学式っぽい式典の始まりだ。
奉公衆の一員で細川奥州家の当主である細川中務少輔晴経の嫡男、小四郎(十二歳)。進士美作の嫡男の主馬(八歳)。奉行衆の能吏である沼田上野介光長の長子、弥七郎(九歳)、次男の小兵衛(七歳)。
新左衛門の次弟の松井新兵衛(十歳)と三弟の新三郎(八歳)。次兵衛の三弟、山岡元四郎(十五歳)と四弟の八郎(八歳)。
身内からは以上の八名である。二十六名の大所帯から随分と減ったなぁ。とはいえ別に寂しくなるって訳でもない。まだ暫くは奉公衆見習いの者たちも身辺にいるのだから。今までと何ら変わりなし、そう思っていたのだけどねぇ?
土岐頼芸の供奉の一員として美濃国からやって来た前田孫十郎(九歳)は、自発的な一本釣りだからこの場にいるのは当然として。
最前列で平伏しているのは大館右之助(十一歳)。十郎の再従弟だそうな。十郎とは似ていない柔和な顔立ちだ。その真後ろで頭を下げているのは野村左門(十五歳)。奉公衆の一人、野村越中守晴定の嫡子である。
この二人も良いだろう。
出仕して当然といえるし、どちらかといえば出仕するのが遅過ぎたくらいだ。理由は家庭の事情だろうからとやかくいうべきものじゃないが。しかし他の三人に関しては、少々予想外だったりする。
佐々木亀若丸(十二歳)と仁木五郎太郎(八歳)。亀若丸は、六角定頼の兄氏綱の子である佐々木近江守の嫡男。五郎太郎は氏綱の庶次男、伊賀国の守護代格の仁木左馬頭義政の嫡男だ。何でそんな大物の子が……。
最後尾で小さく身を屈めているのは柳生喜七郎(十六歳)。家厳の弟、松吟庵の嫡子。庶子の兄がいるそうだが、興福寺で小坊主をしているとか。いや、実家の手伝いはしなくていいのか?
喜七郎の横で大柄な身を辛そうに折り畳んでいる真田源太郎(十一歳)、お前もだ。もしかして柳生氏も真田一党も放任主義なのか?
結局、何だかんだで十九人の新規採用の近習たち。今年からは更に賑やかになりそうだな。
「皆のもの大儀!」
「何卒宜しく御願い申し上げまする!!」
代表格である小四郎が甲高い声を上げれば、少年たちが一斉に唱和する。
会所の後方で踏ん反り返っている五郎次郎みたいな問題児予備軍がいなさそうなのは安心材料だな。うむうむ励めよ者共、十郎には逆らうなよ。弥四郎も厳しいし、与一郎だけは絶対に怒らすな。大変な目に遭うからな!
と、そんな感じで元服したりさせたり、挨拶したりされたり、人事をいじったりと比較的平和に過ごしている俺の周囲とは違い、洛外の各所は相変わらずキナ臭い戦国テイストを満喫中であった。
いや、違うな。戦国時代ではあっても元気さが凄惨さで色付けされた後期ではなく、活気はあれどダラダラとした前期の“応仁の大乱”っぽい合戦だよな。
摂津国の北部から東部地域を舞台とした、トンチキ管領とボンクラ管領候補のチマチマとした小競り合い。戦力比では7:3くらいだと思うのだが、六郎の野郎が戦力の出し惜しみをしている所為で互角の勝負が進行中なのだ。
俺の記憶では確か、洛外の愛宕や東山一帯も戦場になっていたはずだが、幸いにして然様な事態は今現在発生していない。出来ればこの状態を維持したいものだ。ではどうすればいいのか?
洛外西部の国人たち、西岡十六人衆を警備員にするのが最も手っ取り早いよな。東山から山科にかけて影響力を持つ今村紀伊守にも手伝ってもらおう。伊勢に頼んで御教書でも出させるか。
となると、当初の資金繰り案では難しいよな。どう考えても予算オーバーだ。誰か、将軍家に金を貸してくれそうな奇特な人は何処かにいないだろうか?
……これも伊勢との相談案件だなぁ。
「こうやって皆々が参集するのも久々でございまするな」
策彦周良師が目を細めれば、参列者の皆が左様左様と首を縦に振る。小鳥のさえずりが聞こえて来る麗らかな昼過ぎ。“拿雲”さえ羽織れば火鉢などの暖房器具がなくとも障子戸を開けっ放しでも過ごせるのが何とも有り難い。
「冬の寒さは老体には堪えるからのう」
「然れど大樹公が下さった“雅雲”の御蔭にて、頗る暖かく過ごせましたわい」
「全く以って有り難いことにて」
惟高妙安禅師と大林宗套禅師と仁如集尭禅師のアラウンドセブンティの御坊様方に一斉に頭を下げられるのは何とも恐れ多いよ、桑原桑原。
“お役に立てたのならば幸甚にて”と俺がいえば、池坊専好と池坊専栄の二人も“御身御大事に”と声を揃えた。集尭の弟子の頼音房も“何卒何卒”と手を合わせている。
しかし頼音房とは何とも勇ましい出家号だな、梅丸君。見かけも変声期前の声も可愛らしいままなのにさ。声変わりをしちゃいないのは俺もだから、他人のことはいえないけどな。
その他、笑嶺宗訢師を含めた見慣れたお顔の少し後ろには新顔が三人。年齢は見た目で判断すれば中年、少年、小坊主だ。静かに座しているのは多分、どなたかの御付だからだろう。
与一郎もこれくらい万事控え目であれば嬉しいのだけどなぁ。
鹿苑院の会所にていつものように一閑斎師が立てた茶を啜りながら、和気藹々と雑談を楽しまれている面々。雑談とはいってもその内容の大半は、どうすればもっと洛中を富ませることが出来るかだったりする。
銭の話題に終始なされているが、生臭さをあまり感じないのは禅宗の御坊方がのんびりと茶を喫しながらなされているからだろうか? それともあくどく、あくせくと稼ごうとなされていないからだろうか?
何れにせよ、貧乏ったれの将軍様としては背を丸めているしかないけれどな!
お金が有り余っている人はいいよなぁ、などと羨ましがってばかりもいられない。どうにかしてその豊富な財貨を俺の方へと引き寄せねば!
「禅師方々」
俺の呼びかけに禅師たちが振り向く。その顔は枯淡の境地とは正反対だった。俺と同い年の専好ですら目の輝きがギラついていやがる。何となく室内の生臭さが増したような気がするが、もしかしたらそれは俺の中から湧き立っているのやも?
「何か新しき趣向がございまするのか?」
妙安禅師が口を開けば、宗套禅師と集尭禅師が僅かに身を乗り出して来られる。
「田畑、特に麦畑を今少し広げられませぬか?」
「ふぅむ」
「墾田とな」
「大樹公はどこをと思し召しておられまするや?」
「下京は四条通より南、二条通より西。東山は粟田口から六波羅辺り。更に山科をと」
「かなり広範になりまするな」
「禅師方々の合力により洛中にて作事に励む者共は、日毎増えておりまする。つまり多くの腹を満たさねばならぬのが今の洛中にて。往時の栄華を取り戻さんとする洛中は益々大きくなりまする。されど今のままでは……」
「食が足りなくなりまするか」
「然様でございます、妙安禅師」
「然れど細川京兆家の諍いは止む素振りすらなし。南と西に田畑を広げるは些か難しかろうと存ずるが?」
「全く以って管領に下知致す将軍家としては汗顔の至り。恥じ入るばかりでございまする」
「いや、それは致し方なきことにござろう」
「然様然様」
「世の趨勢でありますからなぁ」
フォロー……と受け取っていいのかどうか微妙だね、全く。板の間にめり込むくらい頭を下げたくなる気持ちを掬い上げるほどではないくらいの微妙さだ。羞恥と残念の四文字が刻まれた重石を担いでいるような気分だぜ。
将軍家の顔に泥を塗り続ける京兆家め! 六郎のトンチキ野郎も、二郎のグダグダ野郎も、どっちも絶対許さねぇからな、畜生め!
などと心の中では明後日の方向を罵倒しつつも顔は頗るにこやかに、纏う雰囲気は和やかに。
「南と西の開墾は先に延ばすと致しまして、他の地は如何でしょうか?
粟田口は加茂川からの水も引き易く、都合が宜しきかと。同じく東山の裾にある六波羅も開墾し易き地にて。山科は当地を領される山科内蔵頭との合力と相成りまする」
「粟田口と山科は宜しかろうと存ずる。然れど六波羅は鳥辺野の入り口として長らく不浄の地なり。然様な地で実りし五穀を都人が食すであろうかのうぅ?」
「三年前の大水にて不浄は洗い流されたと余は思うておりまする。更に申さば河原者らの働きにて、加茂川の岸には一つたりとて遺骸はございませぬ。不浄の地とは今は昔と相成りました」
「ふぅむ」
「さてさて」
宗套禅師と集尭禅師は前のめりの姿勢を正し、顎鬚をしごきながら思案をなされている。この程度のプレゼンでは興味は薄いようだ。
「大樹公の申しよう一考の価値はありまするが、ちと物足りなく存じますなぁ」
同じく背筋を伸ばされた妙安禅師は俺を横目でみやる。
「何故に“田”ではなく“畑”なのか。しかも“麦畑”なのか。後一押し……はございませぬのか?」
やはり見透かされていたか。
「では御言葉に甘えまして……膳を運び入れよ」
会所の隅に合図すると、与一郎は短く返事をして外へと出て行った。
久々に開催した文化サロン。何だかんだと実り多きものだった。内容を慮れば金融とグルメなので文化的とはいい辛い反面、超文化的だったかも。銭なくば文化は醸成出来ず、グルメとは文化の極みなのだから。
とはいえ麦畑、それも小麦の開墾事業の共同出資者を募ることが出来て万々歳だ。小麦は米と違い作付けの面積を大きくしなければ効率が悪い作物だから、資本を結集しないと意味がない。
大麦ならばそのまま麦飯として食せるが小麦は製粉しなければ食せぬ作物だ。当世をグルッと見渡せば、裏作として大麦は彼方此方で作られているが小麦は微々たる量しか作られていない。
そりゃそうか、製粉に欠かせぬ石臼が洛中では一般化されてないのだもの。だが同じ石臼でも抹茶生産用は出回っているこの不思議。抹茶用よりも大分デカイからなぁ製粉用の石臼って。しかも人力では大変だ。
ゆえに水車の出番となる。
水車のある風景って前世だと浮世絵では見たことあるが水墨画では記憶にない。水車が普及したのって江戸時代か、と思いきや然に非ず。実は平安時代から灌漑用の水車は日本各地に普及していたりした。
そして製粉用の石臼を回す水車は灌漑用よりも古い飛鳥時代、推古天皇の御世に渡来していたと日本書紀に書いてあったのだから吃驚だ。水車がある風景とは、数百年も前からの日本の農村の原風景なのだよ。
加茂川にはないけどね。何故なら白河法皇も嘆くくらいの暴れ川だもの、加茂川って。北野天満宮の西を流れる紙屋川には幾つもあるようだけどなぁ。懸案事項として先送りにするしかないか。
加茂川の浚渫事業は五月になれば再開する。その時に加茂川東岸に遊水地を造り、掻き出した川底の土を鋤き込んで小麦畑を開墾するのが先決だよな。同時期に山科の地でも開墾をしなければ。
今年の収穫は無理でも来年には。小氷河期の現在でも寒冷に強い小麦ならばそれなりの収穫が見込めるだろう。
今日の集まりで新たな粉モノ料理の美味さを知った禅師達のことだ、恐らく今年は索麺(=素麺)よりも饂飩を大いに持て囃すに違いない。饂飩よりも手は込んでいるが味良し栄養価高しの春巻きもだ。
特に禅師達は胡麻油が香ばしい春巻きが甚くお気に召したようで何より。湯掻いた筍と戻した干し椎茸の千切りに、丁寧に灰汁抜きした山菜の包み上げは最高の一品だものね。
次はお好み焼きでも、と思うけどキャベツがないしなぁ。五薫の戒めがあるからネギも使えないし。当分はクレープもどきで誤魔化すしかないか。或いは酒糀を練り込んでパンでも焼くか?
……ああ畜生、粉モンが食べたいなぁ!
脱穀と製粉の過程で発生する籾殻などのゴミは、家禽の餌に転用する予定だ。家禽は肉と卵、羽毛の素材である。但し家禽といっても鴨と鶉だけで鶏はなし。
養鶏をしない理由は大昔に由来する。古代の日本において鶏は時告げ鳥として神聖視された生き物なのだ。天岩戸伝説でも常世長鳴鶏として登場し、天武天皇の殺生禁断の詔でも牛・馬・犬・猿と共に対象とされている。禁忌の範囲は鶏本体のみならず卵にも及ぶのだ。
闘鶏はOKなのになぁ。ああ、鶏肉が食べたいなぁ!
江戸時代になれば鶏は無理でも卵や軍鶏が食されるようになる。世の中の風潮を少しずつ変えて行けば何れは……。まぁ困窮すれば禁断もへったくれもなくなるのだけどね。飢渇に勝るものはなし。いや、三木の干殺し鳥取城の飢え殺しは絶対にノーサンキューだ。
鶏は食べたし飢渇は御免だし、まことこの世は侭ならぬ。
ああ、そうそう。実り多きといえば、新しい出資者と近づきになれたのも本日の成果だ。禅師達の御付と思われた新顔の三人の内の一人、小坊主が富貴の一族だったのである。
聖澄を名乗る小坊主は禁裏御蔵職を代々務める立入氏の直系に連なる者だったのだ。因みに禁裏御蔵職とは諸役免除の特権を持つ天皇家の金庫番のこと。立入氏とは奉行衆の松田氏をルーツとする元武家である。
数代前から武家を辞めて、土倉業者をやってるけどね。
土倉業、言い換えれば金融業。立入氏は天皇家の財産を運用することで肥え太っていたのである。然れど好事魔多し。先々代も先代も既に亡くなり現当主、従五位下左京亮宗継は二十歳の若造。さぞや苦労が多いことだろう。不安も多いことだろう。ここは将軍家が助けてやらねば。
伊勢と相談して本家筋の松田丹後守晴秀や対馬守盛秀も動かして、誑か……じゃなくて丁寧に談合してこちらへと誘引しなければ。禅師達以外にも財布は幾らでも欲しいからね♪
小さいなりして提供した御膳を全て平らげていたのだ、取り込める可能性は高かろう。妙安禅師もそれを見越して同席させたに違いない。
後の二人、中年の江隠宗顕師は宗訢師の兄弟子ってことで特段気にする必要はなさそうだけど、少年の蒲庵古渓君は聖澄君と同じくらいに要チェックだ。
何せ、足利学校の現役学生なのだから。しかも禅師達の評判を聞く限り、かなり優秀な生徒のようだ。丼サイズの縄文土器で提供した味噌煮込みうどんを掻き込む姿に目を瞑れば、確かに優等生っぽい秀麗な顔立ちの少年だったな。
大人の階段を上った元近習達もそうだったが、少年達と親しくなるには胃袋を掴むのが一番手っ取り早いね!
下野国足利荘にある足利学校は、日本最大にして最高の学府である。そこの学生ならば色々なことを学んでいるだろう。是非とも御教授願いたい。上杉氏没落後の関東情勢の最新情報も知りたいし。後日、仮御所へ招待する約束を結べたのも本日の収穫だよね。
千里の道も一歩から、と古人曰く。日々の積み重ねの中で惜しむことなく努力を続ければ、いつかは必ず成果を手に出来るはず。その成果は次の目的へと誘うチケットだ。
だから、この文机に積み上げられた未決済の書類もまた新たなステージへの試練なのだと受け入れよう!
……おや、こんな所に丁度いい感じの枕が転がっているじゃないか。これは早速に試さねば……はいはい、判ってますよ、やりますよ、目を通して印判を押せばいいんだろう、署名して花押を書けばいいんだろう。
だからそんな冷たい目で睨むなよ、な、与一郎?
気づけば細川与一郎藤孝君のポジションが、『真田丸』の直江兼継公に。
御屋形様はつらいよ。いや、与一郎の方がもっとつらそうだな(苦笑)。