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『 サイレント・プランニング 』(天文十六年、春)

 昨日、ひょんな御縁で、友理潤様が催されましたプチオフ会に参加させて戴きました。

 楽しい時間を有難うございました。

 うっちー(羽智 遊紀)様、古川アモロ様、夏カボチャ 悠元様、藤乃 澄乃様、そしてマジシャン浅田様。皆様本当に有難うございました。

 今後も宜しく御厚誼を頂戴致したく存じまする(平身低頭)。

 誤字を訂正致しました。御指摘に感謝を!(2019.10.21)

 春は名のみの寒さなりけり、と今年も呟く一月下旬。

 その日もその日とて、俺は政所から届けられた文書に目を通していた。どこそこの誰がどこそこの誰かと土地争いをして、あーだこーだと揉め倒していますが前例によって政所は次のように裁定致しました、的な文書に。

 政所の裁定に納得したら、将軍としてOKですよの印を書き込まねばならない。所謂、花押ってヤツを。

 誰が考えたのか知らないけれど、俺の花押は“β”に萎れた羽を生やして鼠のフンみたいな点を四つ打つ、何とも書き難い代物。何度書いても微妙にバランスが崩れる絶妙に最悪なデザインだ。

 尤も、前任者のトンチキ親父のふてくされた狸っぽいデザインの花押よりはマシかもしれないが……いや、目糞鼻糞か。

 あ~~~~~草臥れた。どうして俺は、こうも毎日毎日つまらない内容の文書を読んでサインしなきゃならないのだろうか。新手のいじめか? それとも斬新な児童虐待か? もしかしてファンキーな拷問か?

 こんなことなら将軍に、なるんじゃなかったぜ!

 ……などと愚痴ったところで今更どうしようもない。なってしまったものは仕方ないよな。あ、書き損じまった、畜生めが!

 やってられるか、と筆を放り出した俺は文机に頬杖ついて去年の末から現在に至るまでの日々に思いを馳せる。あっという間に過ぎ去った、あれやこれやに……。



「きみょ……うおっほん、菊幢丸よ、これよりはそなたが日ノ本におる全ての武家を従える唯一無二の将軍である。

 今この時より、そなたは従五位下左馬頭、足利義藤なり!」


 何だか今ひとつ締まらぬトンチキ親父の宣言で無事……うん、無事かどうかは微妙な感じで終了した俺の加冠の儀。

 場所は坂本の町を遥かに見下ろす日吉大社の境内、社家(=神職)の樹下成保の邸宅であった。

六代義教の比叡山攻めで焼亡してからこの方約百年間、まともに復興されなかった屋敷だったが、俺の加冠の儀を執行するにあたり作事奉行の進藤山城守が指揮の下で再建されたものである。

 恐らく、焼亡前よりも立派になったのではなかろうか。何せ百人乗っても……訂正、百人が悠々と座れるような大広間があるのだからさ。

 親しい顔、凡そ二年ぶりの懐かしい顔、初めて見る顔、吃驚仰天なスペシャルゲストなどが見守る中、厳粛に行われた儀式。ガッチガチに緊張し捲くっていたので何をして何をしたのか、今となってはほとんど覚えていない。

 ハッキリと記憶にあるのはトンチキ親父の宣言と、烏帽子親を務めてくれた六角定頼の覚束ない手つきである。百戦錬磨の古強者も緊張するのだなぁ、と思わず笑ってしまったからだ。

「前に余が申した通りになったな、弾正少弼。血筋は違えども……そなたは余の親であるぞ」

 諸事情のゴリ押しで位と家格が上がり管領代となった定頼。慣れぬ立場と慣れぬ雰囲気に挙措が怪しかったのだが、俺の軽口で力が抜けたのか紐を結ぶ際はスムーズだった。

「向後もお手柔らかに願い上げ奉る」

 作法を済ませ恭しく平伏した定頼。こちらも両手を就いて御礼を述べたけど、六角氏とは今後もずっと仲良くしたいものだよな、本当にさ。



 それからの一ヶ月は、大変だった。ホント、大変だった。

 立場がどうあれ中の人間がパンピーなのだもの、片手で足りる年月で得た経験値で乗り越えられたのは奇跡といってもいいだろう。思い返すだけで目が回りそうな怒涛の期間であった。


 去年の師走二十日、雪が深々と降る静かな朝から開幕した加冠の儀。昼過ぎに終わり、昼食の時間となったが始まったのは杯が飛び回る大宴会。招待客が多数いたので仕方がないが、こちとら未成年の身。酒が飲めるはずがない。

 しかも初めてしたお歯黒の臭いこと臭いこと。定頼が手配してくれた山海の珍味が並べられた御馳走の山も、鼻がひん曲がるような臭いの所為で何を食べても美味しくない。

 そんな宴会三昧の日々が三日も続けば立派な拷問、現代ならば裁判沙汰の児童虐待案件だ!

 浮かれ騒ぐむさ苦しい大人たちを白い目で眺め続けた三日間が済んだと思えば、即座に洛中への帰還である。酒臭い息に包まれながらの移動もこれまた苦痛でしかなかった。乗り心地最悪な御輿に乗せられていたから、もう大変で。

 ゲロ吐きだけはどうにかこうにか我慢したが、二度と乗りたくねぇや。絶対に馬に乗れるようになってやる。貴人は御輿で移動するものとか三淵がいいやがるが、知ったことか!

 住み慣れた慈照寺に直帰したかったのに速攻で連れ込まれたのは“花の御所”。まぁいいか、取り敢えず一休みしようと思ったがそれも許されず、鬼より怖いオーラを纏った伊勢が付きっ切りで特訓を施してくれたよ、ノーモア・スパルタ!

 何の特訓かといえば、宮中行事での所作である。

 去年までは無位無官だからと良い子に留守番をしていたが、今年の正月は左様な訳にはいかない。何故なら内裏への正月参賀というビッグイベントに参加しなきゃならないからだ。何てこったい、すっかり忘れていたぜ、オーマイガー!

 今年の俺はハリボテでも正式な征夷大将軍、似つかわしくなくとも従五位下左馬頭なのだ。

 付け焼刃で所作を学んだらお浚いをする余裕も与えられず、トンチキ親父に伴われて行ってきましたよ、宮中へ。南の正門、建礼門を潜った辺りから記憶が五里霧中だけどな。

 前世では人並みに敬愛はしていたが遠い存在だと思っていた皇室。現世では将軍になれば近くなるのは考えるまでもないことなのに、前世がパンピーの俺はどうしてもその感覚が疎かった。

 なので、超緊張でしましたよ、もうガッチガチ。だって宮中だぜ、宮中。パンピーがほいほいと行けるような場所じゃないだろうが。お会いするのは今上帝だぜ、天皇陛下!

 帰り道にトンチキ親父が“見事であったな”と褒めてくれたので、恐らく粗相はしなかったと思うけど。覚えていないのだから嘘か誠かも判らないのが何ともはや。

 因みに、参内から半月以上経った今でも何だか地に足が着いていない気分だったりする。おまけに、従五位下から従四位下にと二階級も昇進しちゃったし。

 ……二階級特進って、死亡フラグじゃないよね?


 フワフワしたりビクビクしたりと忙しい気分で“花の御所”に戻ったら、例年通りの御仕事の時間だ。待たせたな皆の衆、ちゃっちゃと年賀の挨拶を受けようじゃないか。今年の俺様は一味違うぜ、多分だけどな!

 今年も一番目は越後国長尾氏の京都雑掌を務める神余(かまなり)親子か。どうしたどうした、今年はえらく元気がないな……ってそりゃそうか。

 被官として仕える寄親の関東上杉氏が壊滅してしまったのだ、影響してないはずないよな。ほとんどお飾りだったとはいえ、独立不羈の荒くれ者が多い越後国にとっては決して軽くはない重石であった上杉氏。

 長尾氏一族も決して仲良しこよしじゃないし、これからの越後国は荒れるだろうな。その責任の一端は俺にもあるので、懇ろな言葉をかけてやった。心の中でも応援してやろう。

 ほどほどに頑張れ景虎、出来れば適当に挫けろよ。少なくとも仇討ちだとか叫びながら関東に乱入するなよ。暴れたかったら川中島で信玄相手にやってろよ。北条氏に仇為して俺の計画の邪魔などするなよ、判ったな!

 続けて他の者たちも例年通りに引見したが、何となく去年までとは違う感じがするのは気の所為かな? 言葉遣いとか所作とか微妙に差異を覚える。やはり、代理に下げる頭と本職に下げる頭は違うということだろうか。

 違うといえば、越前の朝倉氏が初めて一門に連なる者を送って来たこともそうだった。やって来たのは、一乗谷の奉行人である朝倉玄蕃助景連。共に推参したのは、同じ奉行人にして将軍家への奏者である前波左衛門五郎景定とかいう者。

 前波は去年までも来ていたかもしれないが、よく覚えていない。トンチキ親父への奏者を務めていたので、もしかしたら去年までは無視されていたかもしれない。 幾ら将軍家世子であるとはいっても、所詮は代理。無位無官の子供になど相手にするに能わずとは、流石は誇り高き朝倉氏だね、全く。

 ああ勿論、皮肉じゃないぞ。マウント上等が武士業界の習いだもの。やって当然、やられて納得ってヤツだ。まぁ尤も……今後は許さねぇけどな!

 六角氏は今年も進藤山城守が来てくれた。定頼自身は無理でも身内の誰かが名代として来るかと思ったが、領内の仕置きが大変なので書状で勘弁して欲しいとのことだった。そういえば、浅井氏を併呑している最中だったっけ。

 書状には、実家である井口氏の無念を胸に宮部継潤が催した仇討ち(いくさ)の後始末で、てんてこ舞いだとも書いてあった。

「端午の節句の頃には全て片付け、改めて御前にて御昇進を言祝がせて戴きたく候、と弾正少弼の言上にござりまする」

「相判った。その日を楽しみにしておると伝えるべし」

 書状といえば、北条氏から届けられたのは丁寧な長文の書状だったな。俺が与えた厚情への答礼と、将軍就任を賀するべく、然るべき者を使者として発する旨が生真面目そうな文字で認められていた。

 今川氏と武田氏からも書状は届いていたが実に簡潔な内容だったが。どちらも春の終わり頃には将軍就任の祝いの品を届けるとか何とか。

 ……また能面じゃないだろうな?


 宮中での拝謁と“花の御所”での参賀の儀が滞りなく終了したら、近衛家への挨拶だ。

 何だかんだと御世話になりました、稙家伯父さん。本当に有難うございます。

 どうだ、龍丸。俺も官職持ちになったぞ……従二位左近衛大将のお前には負けるけどな。え、正二位昇進が内定しているって。あっそう、そいつは良かったな!

 婚約者の篤子姫は一段と綺麗になり、異母妹の初子は一段と可愛くなり、居候の鶴姫は田舎臭さが薄れて少しお淑やかに。はっはっは、良き哉良き哉。

 あ、サー・マザー。抱き締めて下さるのは嬉しゅうございますが、二の腕が喉にガッチリとかかってます。チョーク、チョーク、ギブギブ、ヘルプ・ミー!

 グランマは相変わらず迫力満点であらせられましたが、グランパは少し顔色が悪かった。時折なされていた咳が気になるところ。お歳もお歳だし大事ないといいのだけれど。

 一連の行事と里帰りを終え、幾つかの懸念を抱えながらも懐かしき我が家に帰りましょうそうしましょうと思ったのだが、伊勢がストップをかけやがった。

 “当今将軍が洛外に住し続けるは宜しからず”だってさ。

 そりゃまぁ確かに慈照寺のある東山一帯は洛外だけどさ。別にいいじゃねぇか。え、絶対駄目。あっそう。じゃあ仕方ない。引っ越しますよ、引っ越せばいいのだろう。だがな、伊勢よ……俺はどこに住んだらいいのだよ?

 “花の御所”にという案があったのだが、そうすると大御所と相成ったトンチキ親父と同居せねばならない。俺は年少だしトンチキ親父は後見人だから一見問題ないように思えるが、実は大問題なのである。

 実績のある(さきの)将軍と実績のない現将軍が一つ所に住んでいたら、部下はどちらの顔色を窺うだろうか?

 そりゃあ当然、前者だろう。

 ってことは詰まり、現将軍の権威は高まらず低下したまんまである。下手すりゃ大暴落である。ブラックマンデー万歳だよこの野郎、あっはっは!

 じゃあトンチキ親父に出て行ってもらおう……としても、追い出す先はどこだ?

 不在期間が多々あるにしても凡そ二十年、トンチキ親父の私邸であり公邸であった“花の御所”。そこからの転居となれば生半な場所では駄目だ。さりとて目ぼしい物件がそうある訳でもない。

 何せ応仁の大乱以降、洛中は何度も戦火と災禍に見舞われ捲くっていたからな!

 洛中が穏便になったのはここ数年の話。御大尽たち、主に寺院、が洛中再建に銭を惜し気もなくばら撒いてはいるが、往時の姿を取り戻すにはまだ数年の歳月を要するだろう。

 そんな訳で。

 即座に結論が出そうにないすったもんだの議論が政所で数日間繰り広げられたが、問題解決の糸口は見つけられなかった。そりゃそうだ。しかし、意外な所からベリーグッドなナイスアイディアが出される。

 発案者は惟高妙安禅師様々。“花の御所”の北側、室町通りの北限にある空き地に隠居所を新築しては、という提案だった。

 二百数十年前の鎌倉時代。時の執権、北条時宗の招きに応じて渡来した禅僧の無学祖元という偉いお坊さんが創建した弘安山無学寺があったのだが、その後の戦乱で焼亡し荒地となってしまった。

 荒地はいつしか貧民窟と化したのだが、応仁の大乱でまたもや焼亡。今や誰も住まぬ相国寺の管理地である。そこを提供しましょうと禅師は申し出て下さったのだ。

 併せて、隠居所が完成するまでの間、相国寺境内の堂宇の一つを仮御所として俺に進呈致しますとも。

 有難う、禅師!

 御蔭で俺が慈照寺から相国寺に転居するだけで済み、諸問題は最大の頭痛の種を残して万事解決である。いやそれって解決してねーじゃん!

 最大の頭痛の種とは、何はなくとも銭の話である。隠居所を新築するにあたっての費用をどうするか、だ。Oh、何て頭の痛い問題だろう。世知辛いね、全くね。

 洛中の経済状況が改善傾向にあるのに比例して公儀の収入も増加中ではあるが、ド貧民が貧民の上になった程度。潤沢な資金が金蔵にある訳じゃない。

 だが慌てない慌てない、一休み一休み。

 いい金蔓がいるじゃあ、あーりませんか。管領の座を奪わんと意気軒昂なスットコドッコイが、さ♪

 絶対に負けられない合戦を繰り広げている最中にも関わらず戦場を離れてノコノコと御機嫌伺いにやって来た男、遊佐河内守長教とその上役がさ!

 事情が許せば細川二郎氏綱本人が坂本へ参上し、定頼の代わりに俺の烏帽子親となっていたのだろうが、六郎晴元からトンチキ管領の座を奪わんと執念を燃やし倒している真っ只中だ、来られるはずがない。

 だがしかし、何もしない訳には立場上いかぬ二郎の野郎は、己の名代として長教を派遣しやがったのだった。長教は俺たちと一緒に洛中へ戻っている。これは実に丁度いいよね、折角にも将軍家の慶事に参加してくれたのだ、手ぶらで帰す訳にはいかないや。

 帰還後もグズグズと洛中に居続けていた長教を呼び出した俺は、いそいそと現れた長教に申しつけてやった。彼の空き地に隠居所を造作せよと、ね。

“え? 何だ? 洛外南部の大山崎と鳥羽荘の小城を増改築中だから難しいだと?

 おうおう、そんな小城の一つや二つと大御所様の隠居所のどっちが一大事だと思ってるんだ? 嫌なら六郎の野郎に無心するぞこの野郎!”

 ということを正しい社会人会話に仕立ててアンニュイ気味にやんわりと伝えてやる。

 将軍家の明確な支持を取りつけ、二郎の立場を官軍にしたい思惑が透っけ透けな長教。暫く押し黙ってから、押し殺した声で“御意、確と承りしまして候”といってくれたよ。意思の疎通が潤滑に行われて何よりだ。

 顔が少々引きつっていたようだけど、二つ返事だったし恐らく気の所為だろう。数年に亘って軍勢を催していられる財力があるのだ、豪邸の一軒や二軒なんぞ容易いことだろうが、なぁ長教よ。

 戦費が減るのは二郎陣営にすれば嬉しい話じゃないだろうが、心配後無用。史実では、後二年ほど我慢すれば三好長慶が逆転勝利をもたらしてくれるのだから。どうか安心して散財しておくれ。

 こうして当座の間、相国寺の塔頭寺院のひとつである林光院に住まうことと相成った、俺。林光院が選ばれた理由は、政所まで裏門を使えば徒歩三十秒という立地条件にある。そして創建の施主は三代義満で、開山上人は夢窓国師だとか。

 お願いだから不肖の子孫め、嘘つきの馬鹿者めって、化けて出ないでね御両人!


 俺が退去した慈照寺は、土岐頼芸とその一行に貸し出すこととなっていた。これまた洛中に隠居所を見繕うまでの暫定措置だけどね。

 頼芸には慈照寺を貸すにあたり俺自身がガイドをしてやった。ここは八代義政の隠居所であり供養の寺であり、現在は十三代目将軍様こと俺様の管理物件であると。それを態々貸し出してあげるのだ、と何度も念を押しながら。

 忝き御厚情なり、と平伏し拝む頼芸。これで賃貸料も濡れ手に粟のガッポガッポだぜ、うっはっは!

 どうせ、新しい美濃国主の土岐頼純と事実上の美濃守護たる斎藤利政がたんまりと隠居料を出してくれたに違いないし、お金は死蔵するより使わなきゃ意味がないだろう。ないに違いないよね? だったらその使い道に不肖この俺様がなってやろうじゃないか。

 値段は付加価値込みで適正価格の……五割増しで我慢してやるからさ。どうだ、割安だろう♪


 ……それにしても、吃驚したなぁ。

 戦国時代に興味があるなら絶対に知っているであろう有名人、その名は森三左衛門可成が頼芸の随行に混じっていたとは!

 出来るだけ早期に略奪しなければ。

 しかし、どうして三左衛門とその親父の……えっと……越後何とかが故郷を離れて都くんだりまで流れてきたのだろうか? 織田氏と仲良くしてなかったのかな?

 まぁいいや、時間が出来たら事情を問いただしてやろう。

 後、他にも堀とか金森とか前田とか。

 堀掃部大夫って奴は年齢からして恐らく、名人久太郎こと秀政の爺さんだろう。ということは連れ立って来た息子の源太右衛門か太郎左衛門が秀政の父親になるのだろうな。こいつらもゲットしなくては!

 金森の者にはちょっとガッカリした。それとなく石成主税助に探らせてみれば、次男である金森五郎八長近は既に尾張国へ出奔し、織田信秀に仕えているのだとか。ちっ、残念。精悍な面構えの金森采女正定近は兎も角、嫡男の忠四郎政近はヒョロくて頼りなさそうだし。

 然れど上手く彼らを優遇して懐柔してやれば、情に(ほだ)されて長近のぶっこ抜きが図れるやも。取りあえずは慈照寺の台所要員に俺の台所方の小者を派遣して栄養状況を整えてやるとするか。

 胃袋をガッチリ掴んでやれば、どんな奴だって逆らえないからな。やったるぜ、ストマック・クロー!

 前田は……誰だ?

 冴えない面の三十路男、前田左近将監基光。前田といったら利家か慶次郎なのが戦国時代の常識だぜ、ってのが当たり前だのクラッカーである。他には誰だ……ああ、豊臣政権の五奉行に、前田玄以がいたっけか。

 ……もしかして利発そうな顔した少年、息子の孫十郎が後の前田玄以だったりして? 万が一ってこともあるし、この坊やも逃がさないようにしないとな。

 頼芸には鷹の絵くらいしか価値はなさそうだけど、美濃国からやって来た面々は中々に期待出来そうな人材ばかりだぜ、ひゃっふー!

 頼純、利政、グッジョブだ……面倒臭くて暑苦しくてウザい、従兄殿も一緒に送り出してくれさえしなければ、な!


 従兄殿との対面というか謁見というか、実に線引きし辛い空気だった。道増伯父さんが同席してくれていなければどうしようもなかったかもしれない。だって、初対面なのだ。しかも菊幢丸の二十歳も上なのだぜ。俺からすれば二十歳くらい年下だけどさ。

 近衛家の血が流れているとは思えぬ厳つい顔。丁髷を結っていなければ、深夜の繁華街を蟹股で闊歩するヤンキーの成れの果てにしか見えねぇよ。だが言葉遣いは丁寧でどことなく典雅である。外見は兎も角、中身はまともな社会人のようだ。

 それも、二十四時間連続で働けそうな熱血サラリーマンタイプの。

 心配だなぁ、本当にそんな資質でこれから公家の一員をやっていけるのか、従兄殿?

「大樹よ御安心召されませ。これよりはこの“大納言”が御傍におりますゆえ! 御下命あらばいつ如何なる戦場にても馳せ参じましょうほどに!」

 いやいやいやいや、従兄殿、いや、兄ちゃんよ。あんたはもう武家じゃなくて公卿だろうが!

 道増伯父さんも“大納言ではなく左衛門佐であろうが、戯けめ!”じゃなくて、もっとちゃんと叱ろうよ。もうホント、馬から落馬したみたいに頭痛が痛いわ!

 もしかしたら時が十年も過ぎれば、龍丸もこんな風になってしまうのだろうか? 実に嬉しくない未来日記だな。

 カンラカンラと高笑いする斎藤“大納言”改め粟田口左衛門佐の兄ちゃんを横目に、俺は道増伯父さんに頭を下げる。遠路遥々のお努め、本当にお疲れ様でした。

「さぞや御苦労がおありでしたでしょう」

 然程でもなかったがの、という前振りをしてから凡そ半刻の間、休むことなく喋り続けた道増伯父さん。その間、俺は“へぇ”と“はぁ”を何回いえただろうか。前世でもそうだったが、オッサンの手柄話ほど聞いていて辛いものはない。

「これ、菊幢丸よ、聞いておるのか?」

「叔父上、菊幢丸ではなく大樹公であらせられまするぞ」

「判っておるわ、多幸丸。それでだな、菊幢丸……」

 ……ダメだこりゃ。

 幼名で呼ばれた兄ちゃんもお手上げとばかりに肩をすくめた。結局、伊勢が来客が、と追い出しにかかるまで俺は苦痛を伴う退屈な時間を味あわなければならなかったのである。何の罰ゲームだよ、全くもう。

 嗚呼やれやれ。漸く辞去する気になった二人を疲労感マックスで見送っていたら、廊下に一歩踏み出した所で足を止めた兄ちゃんが首だけをこちらへ向けた。

「おお、すっかり忘れておった。大津の辺りで拾い物をしたが此方(こなた)の趣には合わぬゆえ置いて行く。大樹の好きなようにいたせ」

 はぁ? 何だそりゃ?

 首を傾げながら会所として使用している方丈の縁側に出てみれば、兄ちゃんのいう置き土産とやらが蹲るようにして平伏していた。

 痩せこけた体をボロボロで薄汚い墨染の衣で包んだ野良坊主。年齢はティーンエイジャーだろうか。汗やら垢やらが醸す饐えた臭いに閉口しながら名を問えば、“しゅぎたにじぇんじゅぼうと申しましゅ”と噛み噛みで答えやがる。

 ん、ちょっと待て……もう一度、名を名乗れ。

「しゅ……すぎたにじぇ……ぜんじゅぼうにござりましゅる」

 ほう、すぎたにぜんじゅぼう、か……って、杉・谷・善・住・坊、だとっ!?

 まさか、戦国時代のトップクラスのスナイパーが置き土産だなんてお釈迦様でも予想出来ないことだろう。まさに死んだはずだよお富さんだよ、正直おっ魂消た!

 どこの誰だよこの野郎なら速攻で叩き出すところだが、こいつは見事な拾い物だぜ、兄ちゃんグッジョブ! くれるというなら有難く頂戴しましょう、是非とも下さいませ。

 物好きにもほどがございまする、などと与一郎たちが顔を顰めたが知ったことじゃない。“袖擦り合うも他生の縁、窮鳥も懐に入らばアレだろうが”とか何とかいって煙に巻き、身なりを整えさせて飯を食わせるように申しつける。

 こざっぱりした格好をさせたが、言葉遣いや所作までは改まらなかった。いつから坊主をしているのか知らないが、碌に修行も勉強もしていないようだ。或いはさせてもらえなかったか、だ。(もらわないは自分があえて望まない場合の表現で、もらえないは、望んでいてもできない場合の表現なので)

 杉谷ってのも氏を表すのか出身地の名称なのかも定かではないとのこと。確か素性が定かでない人物だったような……ってどうでもいいか。

 俺としては、善住坊の過去を穿鑿する気はないし行儀作法にも期待しちゃいないのだし。期待すべきは射撃術の腕前だ。ならば教育係は同じく品が足りない彦右衛門が良いだろうと、全ての世話を押しつけて……キチンと指導してやれと命令してやった。

 あからさまにウンザリ顔をしやがったが、耳元で魔法の言葉を囁いたら途端に態度を改めるのが、彦右衛門の良いところである。


「将軍家直参として、更なる働きに期待しておるぞ」


 背筋をピンと伸ばした彦右衛門は恭しく平伏するや、善住坊の首根っこを無造作に掴んで去って行った。種子島式鉄砲に早く馴染んでくれよ。石清水八幡宮でバキュンと励んでくれ給え。

 俺が所有する最先端の新兵器は、助五郎が苦心惨憺の結果である。全部で十五丁。約束を守り、たった一年で約束よりも五丁多く製作してくれたのだ。何度か届いた便りには橘屋何とかや津田何とかという者たちの助力もあったそうな。

 橘屋が誰かは知らないが、津田何とかってのは津田宗及のことだろうか?

 そんなはずないよな。助五郎こそが後の天王寺屋の主、津田宗及その人なのだから。じゃあ誰だろう? 橘屋も津田も、本能寺で楽隠居を決め込んでいる種子島加賀守の紹介らしいのだけど……。

 まぁ、いいか。

 現物はあれど作り方は定かではない物を一から製作するには、研究をして基礎技術を立ち上げることから始めねばならないのはド素人の俺にも判る。左様に難解な作業、人手は幾らあっても足りないはずだ。

 手伝ってくれるのなら、誰でもいいや。どうせ数年の内に誰かが作り、量産するのだ。技術を隠匿しようったって歴史が許しやしないだろう。俺も隠し通せるなどと甘い考えでやらせている訳ではない。

 誰よりも早く大量に所持したい、それだけが俺の望みである。誰かが生産体制を整えてくれるなら、それに乗っかるのも吝かではない。助五郎経由で口ばしを突っ込み、強引にでも共同開発者になってしまえばよいのだから。

 幸いにして他所ではなく、助五郎主導のチームが大量生産の先駆けとなってくれたようで、万々歳! ひょんな縁で新たな人材も登用出来たし。

 縁を繋いでくれたのは、一時帰宅していた供侍の田中久太郎だった。久太郎の実家は琵琶湖水運に多大な影響力を持つ高島七党のひとつである田中城城主の分家なのだとか。

 つまり久太郎の実家は帰農しているとはいえ地元では名家扱いで、近隣の村名主たちとネットワークを形成していて、その一環に国友村があった。

 国友村、といえば戦国時代に鉄砲鍛冶で御馴染みの工廠もどきの村だ。石田三成が関ヶ原でぶっ放した大砲も、国友村謹製である。そんな国友村から嫁を貰っていたのが久太郎だったりする。

 久々の実家でゆっくり羽を伸ばせた……かどうかは知らないが、休暇を終えて帰って来た久太郎は義父と義弟を連れていたのであった。義父の名は国友善兵衛、国友村の村名主で腕利きの鍛冶師、義弟の与左衛門は鍛冶師見習いだとそうで。

 予想外の人物の登場に、実に田舎の実直そうな親子であったが、俺は腰を抜かしそうになった。そして思わず叫びそうになった、そういう大事なことはもっと早くいえよ、と。

 色々といいたいことはあったが全て飲み込んだ俺は、幾らか資金を握らせながら久太郎に二人を連れて助五郎の下へ行けと命令した。何としても堺で最新兵器製造技術を習得せよ、と。

 最前まで浅井氏の支配地域であった琵琶湖の北東岸、国友村はその辺にあるそうだ。しかし、どこかの何とかっていうのが久政を殺し、浅井氏は滅亡寸前。六角氏が辛うじて生かしてやっている状態。

 定頼が実効支配を確立させていない今ならば、国友村に幾らか唾をつけても文句はいわれないだろう、多分。ならば早速と、定頼宛に書状を書く。公儀の御用鍛冶師に認定したいのでヨロシク!

 これくらいなら嘯いても案外スルッと通るかもしれない。実際、武具の整備には優秀な鍛冶師がまだまだ必要だからな。

 火薬に関しては、多羅尾を中心とした甲賀者たちが薬草作りと同時並行で量産化に着手してくれていた。御蔭で射撃演習し放題。彦右衛門に連行された善住坊も今頃は石清水八幡宮に設けた射撃場で、スナイパー人生を歩み出していることだろう。

 将来的には彦右衛門に将軍直卒の鉄砲隊指揮官を任せる予定。善住坊はその一人目の隊員だ。追い追い人数を増やさねばならないが……そのためには組織を改変しないとなぁ。


 三月下旬になれば、島津氏の本拠地まで赴かれた町卿が約一年振りにお戻りになられる由。その護衛として随伴した黒田一党も漸く帰還だ。黒田下野がスカウトした牢人衆からも何人かは鉄砲隊に配置しよう。

 後の者たちは、どうしようか。不満が出ないように処遇も考えねばならないな。

 考えねばならぬことは他にもある。例えば現任の奉公衆のこととか。

 三代義満が雛形を作り六代義教が実権を与え九代義尚が制度化したって経緯を持つ奉公衆。公儀が運営する立派な正規軍かと思いきや、実態としては将軍直属の私兵集団である。何ともあやふやな組織なのだった。国家感が希薄な中世ならではの存在だといえよう。

 それとは別に御供衆と称される者たちがいる。八代義政の時に登場した近侍のことで半ば名誉職だ。しかし百年と持たずに奉公衆に吸収されてしまった。今では奉公衆の上位者のことを示す用語にまで形骸化してしまったけどね。

 それはまぁそれとして。

 奉公衆の忠誠心の行く先は当然ながら将軍家にある。将軍が白といえば黒も白だと断言する、ほどの忠誠心はないと思うけど。それでも十の内、七くらいはあるだろう。残りの三は打算と(しがらみ)に違いないが。

 左様な奉公衆たち。ほぼ全員が前々々世……じゃなくて先々々代くらいからの世襲だったりするが、現任者を取り立てたのはトンチキ親父である。トンチキ親父が将軍職を継続中なら問題ないが生憎、今の将軍はこの俺だ。

 果たして奉公衆たちは俺に忠義を尽くしてくれるのだろうか?

 大館晴光、一色晴具、細川晴経、摂津元造などの御供衆でもある奉公衆たちは大丈夫だろう。俺個人とも交誼があるからだ。だが奉公衆とは名ばかりで実情を伴わぬ紀伊国の畠山氏などは信用して大丈夫か?

 実態を伴っている者でも、上野民部大輔信孝はどうだろう。

 俺の記憶が確かなら、上野信孝と子の清信は反三好であり反織田だったはず。上野親子を中心とする一部の奉公衆が、義輝や義昭のプライドを無用に煽り立てたことが足利幕府の寿命に止めを刺したと記憶している。

 トップが代替わりしたのだし一挙に人事刷新……といきたいけれど、やや拙速に過ぎるかなぁ。やはり三淵や伊勢の意見を聞きながら穏便に変更しないとな。

 他にも、間もなく元服式を執り行う近習たちの処遇も、新しく近習に採用する予定の少年たちの待遇も考えなければ。


 ……素案はあるのだけれどね。


 既存の奉公衆は肩書きそのままで人事異動させる。移動先は新たに立ち上げる心算の組織で、名称は“京師所司代”。職務内容は洛中の治安維持と民政、詰まり平安時代の検非違使、鎌倉時代の六波羅探題みたいな組織だ。

 但し裁判権はない。裁判権は政所に所管させたままとする。職務はあくまでも洛中の平安を保つことである。組織の陣容が整えば管轄範囲を洛外へと広げ、三年後には山城国全体に、将来的には日本全土を守る“国軍”へと……今の段階では夢のまた夢だがなぁ。

 先ずは首都たる洛中を守ることが先決だ。

 一昨年前から洛中は大きく様変わりをしている。あの大嵐と洪水の災禍が洛中の悪しきモノを全て洗い流してしまったかのように。それは、禅師を中心とした寺院の財力、阿波三好党の好意と助力、何よりも洛中に住まう者たちが一致団結した結果である。俺は単に口出しをしただけだ。

 多くの者たちが涙ぐましい努力と流れる汗を厭わぬ労力を結集させたがゆえに、日々の食にも窮するような貧民はいなくなった。老爺から子供まで、働く気力のあるものには何がしかの職が与えられ、働けぬ者にも何がしかの役割が与えられている。

 加茂川を浚渫し、取り除いた砂利は大路に敷き詰められ、突風が吹く度に巻き起こっていた土埃は減少した。行き倒れはおらず、朽ちるに任せられていた遺骸もない。水路の汚泥も綺麗に掃除され、悪臭漂う汚水も姿を消した。

 美しさと(いにしえ)の栄華を取り戻しつつある洛中には、安全と安心を求めて近畿の各地から毎日のように人々が流入している。人口が増えれば当然として軋轢が生まれる。しかし未然に解消する努力を怠らなければ、問題は発生しない。

 問題が発生しないように洛中を巡回するのが今の奉公衆の役割である。問題が発生してしまったら解決に奔走するのは奉行衆の務めだ。奉行衆は政所の職員として立場が歴然であるが、侍所が有名無実となっている現状では奉公衆たちの処遇は宙ぶらりん状態だったりする。

 京師所司代の設置案は、奉公衆の役割を明白にするためのものだ。奉公衆たちからすれば、現状の追認みたいなもので取り立てて批判は出ないだろうと予想している。

 京師所司代別当職、言い換えれば首都武装警察総監には大館晴光を指名しよう。副総監に相当するポジションには摂津元造が順当だろうか。運営資金は当分の間は、洛中の各種座に課している税の一部を割り当てる予定だ。

 征夷大将軍の下部組織でありながら、実質的には独立機関として行政事務を執行している政所のように、京師所司代は将軍家の意向よりも朝廷を護持し洛中を防備することを優先する組織となって欲しい。

 首都を兵火から守りきることが、結果として武家の棟梁たる将軍家の権威を守ることに繋がるのだから。

 ……企画倒れにならぬよう考えを廻らせないとなぁ。


 反故で折った紙飛行機を天井へと飛ばした俺は、眉根を揉みながらバタリと仰向けに寝転ぶ。閉じた障子戸の向こうからは鍛錬に余念のない近習たちの溌剌とした声が聞こえて来る。ランニングでもしているのだろうか。遠ざかっては近づき、また遠ざかる。

 励めよ若人よ。見た目は子供のオジサンは君らが颯爽と活躍出来るよう、今日も寝る間を惜しんで頑張っているからさ!


「大樹、昼日中に居眠りとは如何なる御了見でございましょうや?」


 音もなく開けられた障子戸。逆光で真っ黒なシルエット人間にしか見えぬ者が、与一郎の声を発した。春先なのにツンドラ気候みたいな、痛いくらいの冷たい声を。はっはっは、風邪を引く前に凍死しちゃいそうだな!

「見て判らぬか、与一郎よ。余は眠りこけていたのではない、考え事をしておったのだ」

「ほほう、左様でございましたか。それで何を考えておいでになられたのでありまするか?」

「決まっておろう……天下のことである」

「……左様でございましたか」

 許可も求めず奥の間(プライベート・ルーム)に入り込んで来た与一郎は、口を真一文字に結んで大仰な仕草で首を巡らせた。仕方なく俺も身を起こして同じように首を巡らせる。

 縄文式やら弥生式やらの土器、土器、土器、土器が所狭しと並べられている室内。例えるならば酷い不整脈みたいだな。ドキドキが止まらない、なーんてな……。

 薄っすらと青筋を立てていた与一郎だったが、文机の上で手つかずのまま積み上げられている未決済文書と、足元に散らばる幾つかの紙飛行機を見るなり、ホッケーマスクを被った殺人鬼よりも無表情となりやがる。

「……左様でございまするか?」

 おう、まるで暗黒面に堕ちた暗黒卿みたいな声色だね。中々に芸達者だなぁ、与一郎よ。何だか判らないけれど息苦しくなってきた気がするよ?

 さてそれじゃ御仕事を再開しようかね、させて戴きましょうかね……はいはいやりますよ、頑張りますよ。死亡フラグが立つ前に、寿命を縮められたくないからな!

 足利将軍家歴代の花押については、こちらのサイトを参照させて戴きました。

 http://www.nanndemo.info/kaoh_photo/kao_asikagashougun.html

 各人の官位就任に関しては、以下のサイトを参照させて戴きました。

 https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F

 誠に有難く忝く。

 WikipediaさんとGoogleさんにも最敬礼。いつも御世話になっております(平身低頭)。

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