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『 十二代目の怒れる男 』(天文十五年、冬)

 先月は投稿出来ず、申し訳ございませんでした。

 今回はちょいと趣向を変えて、当事者ではなく第三者視点です。

 菊幢丸に奇矯な振る舞いあり、などと晴員が申したは、はていつの事であったろうか?


 朱塗りの杯に満たされた濁り酒を一息で飲み干した足利義晴は、墨で濃さが足された眉を寄せた。生来の青白い肌ゆえに白粉を薄く塗るだけで済ませた顔を少しだけ曇らせる。しかしそれは束の間のこと。眉間に寄せられた皺は直ぐに解かれた。


 おお、そうであった。戯け者の木沢左京亮が討ち取られた頃であったな。


「如何なされましたでしょうや?」

 空になった杯に朱塗りの銚子の口を差しかけようとした申次衆の本郷治部少輔泰茂が、杯を手に茫洋と宙を仰ぐ義晴の様子に首を傾げた。

「いや何……木沢左京亮が悪行の報いを受けたのはいつであったか……と思うてな」

「さて……(それがし)が出仕させて戴いてからのことではございましたが」

「その方が出仕致したは六年前の秋である。左京亮の奴ばらが遊佐河内守の手の者に首級を挙げられたは、四年前の春にござりまする」

 したり顔で杯を口に運ぶ大館常興。無骨な外見に似合わず、日々の様々なことを仔細漏らさず日記に書きとめる几帳面な性格である。それがゆえに十年前二十年前のことですら記憶に留めており、この場にいる誰よりも長命でありながら最も頭の働きが確かな者であった。

 内談衆や申次衆に列する者のみならず、将軍に近侍する奉公衆の者たちからも過去のこと、先例前例の有無についても何かと頼りにされている常興。義晴にとってもかけがえのない、側近中の側近である。

「常興の申すことに間違いなどあるまい。左様か、もう四年前のことであったか」

 義晴の言葉に深く頷く本郷泰茂は、この場にいる者の中では一番の新参者だった。将軍に長らく近侍していた分家の者が、越前朝倉氏の内紛に端を発した政治的事件で義晴の不興を買って出仕停止となったのが六年前、天文九年七月のこと。

 同年の九月、分家の失態が一族に及ばぬように図るため若狭国の領地を離れ、申次衆に名を連ねた泰茂。本郷氏本家当主としては当然の務めである。

 万事控えめな性格ゆえ、公的立場としては分家に遅れをとっていたのだが、義晴の傍近くに仕えるにはその性格が良い方へと働いた。主君より五歳年嵩で戦国武士らしからぬ穏やかさの持ち主であり、今では義晴のお気に入りのひとりとなっている。

 心許せる親密な者だけを傍らに置いてのささやかな酒宴。都を離れて以来ずっと抱え込んでいた鬱屈を忘れ、義晴は久々に緩みを楽しんでいた。

「公家には公家の苦労がありまするが、武家の方々の有為転変に比すれば何ほどのこともなく」

 此方(こなた)は公家でようござった、という言葉を酒と共に飲み干したのは勧修寺尹豊である。今日の昼前に近江国へ到り桑実寺に到着したばかりなのだが、既に何日も逗留しているかのような寛ぎっぷりだ。

 尹豊の朗らかな笑い声に義晴の頬が更に柔らかくなる。武家伝奏が都を発してここにいるという事実がまた、義晴の心労を大きく軽減させていた。

 日本における酒宴は無礼講が常識である。素面(しらふ)でいるのは失礼の極み泥酔は苦しからず、がモットーでありルールなのだ。

 因みに公の身分を持ち出せば、尹豊は正二位権大納言。義晴は従三位右近衛大将。残りは従四位下の常興が精々で後は従五位下ばかり。

 一応殿上人と称される身分であるのだが、朝廷における位の差を別で例えるならば地震の震度差だろうか。一段階の違いは大いなる違いなのである。

 本来ならば段差も上下の差もない円座にて、肩が触れ合うほどの近さで親しく語らい合うことなど出来る間柄ではない。


 晴員は大仰であったな。まるで唐土(もろこし)の寒山や拾得の如き風狂と成り果てたような物言いであったわ。


 寒山と拾得とは唐の時代、天台宗の中心的名刹に住み着いた俗人である。

 仏教の真理に触れた者たちだと尊崇された反面、しばしば奇声・叫声・罵声を上げたり声高に歌を吟じたりするので寺僧たちには敬遠される存在でもあった。非僧非俗の風狂の徒、が当時からの評価である。


 まぁ、あながち間違いではなさそうな。

 余の(そく)は確かに風狂の者である。夢窓国師の御告げなるものを口走ったかとおもえば、外つ国(とつくに)の音曲にしか聞こえぬ奇妙な調子の今様を吟じよる。

 余のみならず多くの者共が当然としてきたことを不可思議なりと申しよるし、誰もが忘れていた(いにしえ)にありしことを新しきことのように申しよる。

 誠に奇妙な童であることよ。


 声に出さずクスクスと笑う義晴に、尹豊の切れ長の眦が下がり気味となった。

「いつぞやの夜とは違い、今宵の大樹様は上機嫌であらせられまするな」

「それは亜相(あしょう)(=権大納言の唐名)様の御蔭にてござりましょう」

「左様左様。亜相様の御尽力にて御世子様の加冠の儀は禁裏にも認められたものと相成りました。誠に忝く候」

 泰茂と常興が揃って頭を下げると尹豊は軽く手を振りつつ目を細める。

「然に非ず、然に非ず。此方(こなた)は何もしておらぬ。……全ては御世子殿の御手柄なり」

 振っていた手を止めた尹豊は、すらりとした細い指を一本二本と折り出した。

「禁裏の勅を奉じてなされた水路の作事。幼き身でありながら尽力なされましたこと、此方(こなた)も聞き及んでおりまする。堂上では誰しもが、誠に殊勝である、と申しておりましたな。

 恐らくは……御上も同じであろうかと推察致す次第。

 更に申さば巷で膾炙致す『いろは教訓』なるものにも御世子殿が関わっておられる由。昨今、都に住まう者共が穏やかなるのも仏法の御教えが平易に伝わっておるからであろう」

「世子様が詠われる今様には我らのみならず、地下の者らの慰めにもなっている由」

「創始なされた東山流故実もまた良きかな」

「……それもこれも全て、大樹様の薫陶宜しき御蔭でありましょうなぁ」

 肯定も否定もせず、義晴は声を出さず笑みを深くする。慎み深さの顕われにも見え、身に覚えのないことを指摘された際の戸惑いにも見える、複雑な笑みを。


 余は何も関知しておらぬ。

 ただ……野放しにしておっただけよ。

 菊幢丸は余が息ながら余の息に非ず、そう思うたゆえな。

 あの者は、足利の血が生み出せし化生なり。

 代々の父祖が抱えし荒げなるものを抑えきれぬがゆえ、あの者は奇しき振る舞いをしておるのであろう。

 余もまた然り。

 然れど余は荒げなるものを燻らせるだけで、劫火と燃やすことは出来なんだ。将軍家を雁字搦めに捕らまえる(しがらみ)を気にし過ぎておるゆえな。

 将軍家に(わだかま)る業とやらの深さ、暗夜よりも昏き闇から抜け出せなんだゆえな。

 然るにあの者は違う。

 業も闇も何とも思うておらぬ。柵すら易々と跨ぎ越して行きおる。或いはもしや……何も気づいておらぬのやも知れぬな。あの者は尋常の者に非ず、まこと足利の御家の澱の化身よ。

 ならば……奇妙丸とでも名付けるべきであったか。


 呵呵大笑し出した義晴に、座の者たちは一様に目を丸くし絶句するも、やがて同じく声高く笑い始めた。



 夜の帳に包まれ静まり返った桑実寺の一室から湧き出す賑やかな笑声に、中庭と渡り廊下で隔てられた小部屋にて宿直(とのい)を務める奉公衆の二人は揃って肩の力を抜く。

 今宵の大樹は御気色が良いようであらせられるな、と朽木宮内少輔晴綱が言えば、誠に誠になどと相槌を打つ肥田兵部少輔軌吉。

「御方々、今宵も御役目誠にお疲れ様にて候」

 夜半には少々明る過ぎる声が外から発せられ、失礼仕りまする、と障子がスルリと開けられた。

「温まりまする物でも如何でございましょうか?」

 湯気の立つ茶碗越しにニッカと笑う青年に、晴綱の肩の力が更に抜ける。

「おう、彦右衛門か」

「お役目柄、(ささ)を御進め出来ませぬが」

 顎鬚頬髯で覆われたむさ苦しい面も愛嬌を感じる(とぼ)けた雰囲気の彦右衛門は、とってつけたような挙措で恐る恐る高坏を運ぶ。その背後からもう一人、涼やかな佇まいの青年が見事な所作で後に続いた。

 干し柿を肴に抹茶を喫する奉公衆たちに一礼し、彦右衛門と青年は宿直部屋を後にする。

「さてもさても、気疲れする役目である事よ」

「左様にござりまする」

「はははは……お主は気楽で良いな、十兵衛よ」

 彦右衛門に十兵衛と呼ばれた青年は、はぁと気の抜けた返事をした。はぁ、と大きな溜息をついた彦右衛門はガックリと首を折る。

「俺がお仕えするのは、お主が思うよりも人使いの荒い御方であるゆえな。

 堺での御役目を果たすのに奔走し、ようよう首尾よく御勤めを果たせたと上洛すれば坂本へと移られたと聞かされ、慌てて近江へと来てみれば“大儀であった”の御言葉と共に“更に励め、大樹の下へ参れ”と申しつけられて、休む暇なくここで下働きをしておるのだ。

 (ねぎら)うて欲しいとは思わぬが、少しは手加減はして欲しいものよ……」

 御同情申し上げる、と合いの手のような慰めを口にしかけた十兵衛であったが、彦右衛門の表情を目に留めて口を噤んだ。そこに不平や不満の色が見えなかったからだ。

 十兵衛よ、という砕けた口調もどこか楽しげな彦右衛門。

「お主もウカウカとはしておれぬぞ。若子様がまたぞろ何ぞ奇妙なことを始められれば、その方が仕る三淵伊賀守様もお忙しくなられるのだからな。

 そんな若子様は、大樹様へと御成りあそばされる。三淵伊賀守様も大いに振り回されることであろう」

 カラカラと笑う彦右衛門の背中を見つめる十兵衛は、笑うに笑えず頬を引き攣らせた。

「問屋、戻ったぞ」

「お帰りなされませ」

 桑実寺の(くりや)脇の小部屋にて茶を立てていた彦右衛門よりも年長に見える大柄な男が、ゆったりとした所作で茶杓を床に置いて軽く会釈する。

「もそっと早う戻って来な、折角の茶が冷めてしまいますやん」

 憎まれ口を叩いたのは風炉に炭を足していた小柄な少年だ。

「うるさいぞ、下手貫(へたかん)!」

「下手やないわ、別貫(べちかん)や!」

「判った判った、この夜更けに大声を出すな、みっともない」

「年下を怒鳴り散らしといて、みっともないんはどっちや?」

「黙れ、小童(こわっぱ)!」

「何がや、おっさん!」

「御両人とも、お静かに……茶が冷めてしまいまする」

 問屋と呼ばれた男の眼光が鋭くなるや、大人気ない青年と生意気な少年は揃って口を閉ざし、明後日の方向に視線を漂わせる。

「然れば頂戴致しまする、問屋殿」

「与四郎と呼び捨てにして下さって結構ですよ、十兵衛殿」

「いや、武士ではあれど私も地下に近しい身。問屋殿とさして変わらぬ身の程にござる」

「それをいうなら、俺も所詮は地侍。ここで長逗留なされておられる官位持ちの御方々に比べれば、お主らと似たようなものだ」

「せやな。……わては都人やけどな」

「今は落ち目の商家のな」

「うるさいな、わてが坂本屋の身代を都一にしてみせるわ」

「その為にも紹鴎師の教えを真摯に学ばねばなりませぬ」

 尤もそれは己が身も一緒ではありますが、と瞑目する問屋与四郎。父である先代が早世した所為で、問屋も一時期は暖簾を下ろす瀬戸際まで追い込まれたことがあったからだ。

 武野紹鴎と辻玄哉の二人が茶の湯の師匠として教導し、商売の後援をしてくれなければどうなっていたかと、今でも与四郎は身震いする夜がある。

 弟弟子でありながら奥深き茶の湯の世界で道を探し続ける朋輩として与四郎は、俗名を捨てて別貫なる号を頑なに名乗り続ける少年を実の弟のように慈しんでいた。

 慈しむからこそ、いわねばならぬ厳しいことも口にする与四郎。それが判っている別貫は神妙な顔となったが、差し出された茶碗の中身を見て眉を顰めた。

「せやけどこればっかりはなぁ……」

「どうした、小童。牛の乳は苦手か?」

「そうやない……ただ」

「ただ、どうしました?」

 彦右衛門を睨みつけ、十兵衛には首を竦めてみせた別貫。

「この……“抹茶御麗”とかいう物、(みやび)やとは思うけど……何か違うんやわ」

「どう違うのですか?」

「何ていうたらええのやろうか」

 ガブリと一口で抹茶オレを飲み干した彦右衛門が、淡い緑色に染まった口髭を歪めた。

「お主が申したいのは、“侘び”ではない、だろう?」

「そう、それや!」

 我が意を得たりとばかりに別貫が膝を叩けば、与四郎と十兵衛も感心したように目と口を丸くする。

「“抹茶御麗”は心身を健やかにするための茶であるが、茶が備える本来の趣を損ねた飲み物である。紹鴎師が現されようとなされている茶の湯とは、飾らず、あるがままを喫するものであり、風雅の対極にあるものだ。

 牛の乳は以前よりは手に入りやすくはなったとはいえ、常に飲めるのは未だ顕職にある御方か富貴の分限者だけ。茶葉ではなく笹を煎じて飲むが精々の侘び住まい者共からすれば“抹茶御麗”は、まだまだ高級過ぎる“雅”の飲み物なり。

 ……まぁ全て、若子様の受け売りだがな」

 茶碗を与四郎に差し戻した彦右衛門は、もう一杯所望、といいつつ懐紙で口を拭う。

「俺は無粋者ゆえ、茶の湯の道など確とは判らぬ。趣だの風雅だの侘びといわれたところでさっぱりだ。然れど若子様が仰られたように理で説かれれば、なるほどと思う。

……若子様には、茶の湯とは頭を使うて喫するものに非ず、心で味わうものだ、ともいわれたがな。

 全く茶の湯とは、難しきものよ」

 二杯目に手を伸ばそうとした彦右衛門は、三人の醸す雰囲気が尋常ならざる感じであるのに、漸く気がついた。如何した、と問おうとしたが三人が一斉に平伏するのに面喰らってしまう。

「彦右衛門殿にお願いがござりまする!」

 十兵衛が、三人を代表するかのように平伏したまま声を張った。

「是非とも御世子様に御目通り致したく候。叶うるならば、親しく御言葉を頂戴致したく存じまする」

「わたくしめも何卒」

「わても同じく」

「……お主ら、頼む相手を間違ってはおらんか?」

 如何にも呆れたとばかりに何度も首を左右に振る彦右衛門。

「十兵衛よ、伊賀守様に頼めば良いではないか。もそっと近しくなりたいならば嫡男の弥四郎殿か……或いは常に傍におられる細川与一郎殿の家臣となれば良いではないか。

 若子様が大樹公に御成りあそばせれば、弥四郎殿も与一郎殿も元服成されて新しき奉公衆に就任なされるであろうし」

「あ、なるほど!」

「与四郎と別貫は、紹鴎師に頼むが筋であろうに」

「左様でございますね」

「そうですな」

 憑き物が落ちたように正気を取り戻した三人。十兵衛は頭を掻き、与四郎は盆の窪に手を当て、別貫は小鼻の横を擦り、己の不明を恥じた。

 するろ、耐えかねた様子の彦右衛門が吹き出せば、残りの者たちも揃って声を弾けさせる。カラカラと朗らかな笑い声に包まれた小部屋。その楽しげな雰囲気は泰茂が、大樹様が茶を所望である、と言いに来るまで続いたのだった。



 余が加冠の儀に臨んだは三条の御所であったな。


 寝所にて義晴は往時のこと、己が征夷大将軍に補任された時のことを回想していた。


 江州で生まれ播州で育ち、十の歳に漸く上洛を果たせた時は父の無念を晴らすことが出来たと涙したものであった。

 上洛して直ぐに“読始(=学習始め)”の儀を行い、“義晴”の名と従五位下の位を与えられた。初めて歯を鉄漿で染めた“涅歯”の儀は難渋したな。慣れてしまえば何ほどのこともないが。

 内裏へ参賀した二月(ふたつき)後に正五位下左馬頭に補任されたは、一生の誉れであった。

仮の住まいであった岩栖院から三条の御所へと居を移し、加冠の儀。余は遂に征夷大将軍となったのだ。

 ……形ばかりのお飾りであったが。

 伊勢や常興、清光院らが手取り足取り導いてくれて、ようよう務められた御蔭であったわ……それと、道永(=細川高国)の、な。


 抹茶オレをチビチビと飲みながら、義晴は文机に広げられた幾枚かの書状や絵図に目を落とす。


 細川の一切を握りたいがための儀典であったな、余の元服の儀は。

 道永は、母の名も知れぬ田舎育ちの小童を北嶺の荒法師共が担ぎ上げる神輿のように奉りおった。その御蔭で余は、将軍となり大樹と呼ばれる身となりえた。

 父を亡くしたばかりの乳飲み子であった余を引き取り扶育してくれた赤松義村。彼の者を隠居に追い込み播州一国を奪い取った守護代浦上村宗。赤松にとり足利の名は障りであるのやもしれぬな、ははは……。

 父を都から放逐し再び将軍となりおった恵林院殿(=足利義稙)と仲違いした道永は、新しい将軍を……担ぎ上げる神輿を求めよった。それが余だ。

 内裏では成り上がり者であった権大納言東坊城と手を組み、余の名を“義晴”と決め、余の位を左馬頭と定め、加冠役として余に烏帽子を被せよった。さぞや得意の絶頂であったろうな。

 一つ残った管領となり、余の後見となることで天下を差配する立場となったのであるからの。尼崎で腹を切るまで得意満面であったのなら、果報の者だったのやもしれぬな。

 これで漸く嫌な重石がなくなったと思うたが……道永が六郎に替わっただけで他は何一つ変わらなんだ。

 ここ桑実寺にて政務を取り仕切ること三年。堺にて専横甚だしき兄の義維……ああ今は阿波にて義冬を名乗っているのであったな、に勝つために致し方なく六郎と手を結んだが、しくじりであったな。

 道永も下を治める智恵のなき者であったが、六郎の阿呆めは智恵のみならず威厳もなき者であったとは、思いもよらぬことであったな。全く度し難いことよ。


 何処からか隙間風が吹いたのか、文机傍に立てられた高燭台の灯明がユラユラとそよいだ。


 六郎の阿呆めは、三好の粗暴も木沢の僭上をも己の力では抑えきれずに他者を頼りおった。そして南無阿弥陀仏の筵旗を掲げた無辜の阿呆共が都を焼き、ついでに南都をも焼き払いおった。

 阿呆が阿呆を焚きつけ、焚きつけられた阿呆が焼いてはならぬモノを焼いてしまいよる。何と浅ましきことか。全く阿呆は力ばかりよな。しかも阿呆ゆえに力の使い道を知らぬ。

 まことこの世は、始末に負えぬ阿呆ばかりであることよ。


「誰かある。筆を持て」

 障子で隔てられた廊下から“畏まりまして”と声が上がる。

 やがて“失礼仕りまする”と筆と硯を盆に載せて運んで来たのは泰茂であった。その後ろには巻紙を載せた盆を中腰で捧げた彦右衛門がいる。

 然らば御免仕りまする、と泰茂と彦右衛門が下がろうとするも、暫し待て、と義晴が両名を引き止めた。

 慌てて下座で平伏する泰茂と、ペチャンコに這い蹲る彦右衛門。

「その方、確か菊幢丸に仕えておるそうな。名は、何と申す?」

 雲上人の不意打ちにヘドモドする彦右衛門。直答を許す、という義晴の催促と、早うお答えせよ、という泰茂の言様で、どうにかこうにか蚊の鳴く声で名乗りを上げた。

「彦右衛門、近う寄れ」

 恐れ多きことにて、と尻込みする彦右衛門であったが幾度かの押し問答の末に、泰茂と並んで義晴の息が届く際で控えることとなる。

「その方は、これらの絵図を存じておるか?」

 文机から取り上げた二枚の絵図を板の間に並べる義晴。

「は、はは……存じておりまする」

「泰茂はどうか?」

「右の図は、御世子様が描かれました日ノ本全図の写しであるかと。然れど左の図は初見にて存じませぬ」

「ならば教えて進ぜよう。左の図は慈照寺の反故の山から拾い上げた物の写しである。過日、菊幢丸に問い質さば“南閻浮提(なんえんぶだい)”、即ち経文が記すところの人が住まう世界の全てであると申す。

 真かと問わば、夢窓国師に教えてもろうたと申しよる。……であるならば、真であるのだろう。真であるならば、この図の真ん中にある羽虫の如きものが、日ノ本であるのだそうな」

 墨に浸されていない真っ白い筆の穂先で日本列島を突っ突きながら義晴は、阿呆らしいことよ、と呟いた。

「六郎も、他の者らもこの日ノ本の中で力を示そうと、天下とやらを我が物にしようと狂うておる。余もそうであった。父祖の等持院殿様(=足利尊氏)、鎌倉に府を開かれた武衛様(=源頼朝)、摂関家をも凌駕する権勢を掴んだ清盛入道。

 皆々が競い覇を挙げた天下とやらも……南閻浮提の中では実に小さきものであることよ、な」

 ゆっくりと顔を上げた義晴は瞳に不可思議な光を宿しながら、彦右衛門に問いかける。

「菊幢丸は、阿呆であるか?」

 何を問われたのか瞬時に把握出来なかった彦右衛門であったが、質問の意味を悟るや否や声高に否定した。

「左様なことはございませぬ!」

「ふむ、ならば聡いか」

「若子様は総身に知恵が詰まった御方にございまする。決して阿呆ではございませぬ!」

「ふむ……聡いだけの者であるか」

「さ……、いえ、聡いのみに非ず」

 大声を出していることに気づいた彦右衛門は、慌てて声量を整え直す。

「若子様は面白き御方にございまする」

「可笑しき……ではないのか?」

「者によっては“可笑しき御仁”にございましょう。然れど我ら慈照寺に侍る者たちは、若子様が面白き御方ゆえに喜んで仕えておるのでございます」

「……赤松の牢人たちもか?」

「若子様に黒田の名を下賜された者たちも同じにて。然もなくば、九州くんだりまで二度も参りはせぬでしょう」

「銭のためではないのか?」

「銭のためならば、もそっと割りの良い手立てを講じておりましょうほどに。我ら若子様の供侍共は、食い詰めの身ではありましたが……一人として身のほど知らずの阿呆ではございませぬので」

「左様か」

 満足そうに何度も頷いた義晴は、下がって良い、と言い捨てるや二人に背を向けた。



“大樹様は、四年も前から世子殿に(まつりごと)の一端を学ばせておられましたのですな”

 御免仕りまする、と立ち去る足音を聞き流しながら、義晴は酒宴にて尹豊が口にした言葉を反芻する。


 そうではない。

 夢にて夢窓国師の教導を受けし菊幢丸が尋常の者ではないと思うたから、好きにさせておっただけよ。(うつつ)にては名高き禅僧らの教えも受けておるしな。

 いや、禅僧のみならず大徳寺や六角堂の御坊たちとも親しく交わっておったな。

 近衛の館でも(さきの)相国(=近衛尚通)公、義兄(=近衛稙家)殿も格別の計らいをしておるそうな。

 風狂のみに非ず、阿呆に非ず、尋常に非ず、奇妙だけにも非ず。まことに不可思議な小童であることよ。

 なればこそ多くの者共が菊幢丸の元服を言祝ごうとしておるのであろう、な。


 文机に広げられた書状を見ながら筆を執り、硯に蓄えられた墨に筆先を浸すや迷うことなく巻紙の上を走らせる義晴。

 管領代に就任したばかりの、六角従四位下弾正少弼定頼。

 武家伝奏として朝廷からの勅使役も兼ねる、勧修寺正二位権大納言尹豊。

 尹豊の供奉役を務める、山科従五位上内蔵頭言継。

 列席として(さきの)若狭守護、武田正五位大膳太夫元光。

 四人の名を書き連ねた義晴は、少し間を空けた箇所に筆先を落とした。


 (さきの)美濃守護、土岐正五位左京大夫頼芸。

 守護代の斎藤利政(=後の道三)の謀反で尾張国に放逐されるも、捲土重来を期して美濃国主に復したのが四年前のこと。しかし今年の秋半ばに再び国主の座を剥奪され、隠居に追い込まれた人物である。

 美濃国に滞在中の伊勢兵庫頭貞良が発した書状には、頼芸とその家族全員が関東派遣団と共に数日の内に坂本へ到る旨が記されていた。

 一行の中には他にも、申次衆の家系でありながら関東に根付いた大和正六位下図書允(ずしょのじょう)晴完(はるなり)が、北条相模守の名代として同道していることも報じられている。

 頼芸と晴完の次に名を書状に記されたのは、曰く因縁だらけの人物であった。

 粟田口従五位上左衛門佐正義。

 元の名は斎藤“大納言”正義という。利政の養子となって美濃国内で大暴れした武闘派だ。しかし大元は、妾腹ながら近衛稙家の長庶子としてこの世に生を受けた男である。

 多幸丸の名であった少年時代に比叡山横川の恵心院に出家させられたのだが、武芸に傾倒し過ぎた余りに武士となるのを志し、縁あって利政の懐に潜り込むや、まんまと養子になり斎藤家の一手の将となった変わり者だ。しかも九年前には烏峰城を築き、城主となっていた。尚、“大納言”はあくまでも自称である。

 そんな奇行の貴公子が何の冗談か、武家を辞めて公家へと逆戻りをしたと書状には記されていた。近衛家との仲介をしたのは一行の代表である道増。稙家の弟から伝えられた放蕩息子の処遇に、もう既に縁が切れたと思っていた近衛家は随分と苦慮する。

 苦慮した結果が、二百年以上も前に絶えていた近衛家支族の家名、粟田口家の復活であった。家名と共に授けられた任官を当人は不平ばかりだとも記されていることに、義晴は笑うべきか呆れるべきかで悩む。


 近衛の血も煮詰めれば奇妙な者を生み出すのか。然れば足利と近衛の血を受け継ぎし菊幢丸が奇妙であるのは、詮なきことか。


 正義は斎藤家への最後の御奉公と思っているらしく、新しき美濃国主である土岐頼純と利政の名代として頼芸を供奉しているという。その他、供奉する者たちとして記されていたのは森可行、堀掃部大夫、金森定近、前田基光といった土岐氏に近い国人たち。その誰もが家族郎党を伴うと併記されている。

 随行者が数十名の大所帯となったことで移動に難渋していることが書状の筆致と行間から、義晴には透けて見えた。


 ふむ、濃州は斎藤の領する国となるか。土岐も長くはなさそうな。斯波、畠山に往時の勢いなく、赤松、京極も消えかけておる。ああ、関東の上杉も命運が尽きかけておったわ。琵琶法師の謡うが如き盛者必衰の世であることよ。

 さて……足利もいつまで続くやら。

 怒りに任せ何度潰そうと思うたことか。然れど父の悲願、父祖の宿願を思えば怒りに身を任せるなど出来なんだ。出来なんだゆえに立て直そうと励んだ。

 だが余には……力と知恵が足りなんだ。

 潰すにも続けるにも工夫がいることは判りしも、如何にすれば良いかの手立てを見つけられなんだ。余に出来たことは病臥する死に損ないに白湯を一杯、献じたほどのことであろうな。


 巻紙に記す名は更に増えていく。洛中及び畿内の主だった僧と関東からやって来る僧たちの名が。

 天台座主、青蓮院宮尊鎮法親王。鹿苑院僧録、惟高妙安。大徳寺、大林宗套。天龍寺塔頭妙智院、策彦周良。妙心寺、快川紹喜。醍醐寺三宝院、義尭。六角堂、池坊専存。知恩院門跡、超譽存牛。石清水八幡宮社寺、正法寺伝譽。大和国興福寺塔頭多聞院、長実坊英俊。相模国鶴岡八幡宮二十五坊、相承院快元。相模国伝肇寺、感譽存貞。

 比叡山を治める天台座主と足利将軍家の仲は親密ではなく、どちらかといえば利害が克ち合う間柄であった。しかし青蓮院宮尊鎮法親王は今上帝の弟宮で、母は勧修寺家の姫であった。尹豊の大叔父になる。内裏と勧修寺家が働きかけた結果であるのは明白だった。

 臨済宗に属する大徳寺に天龍寺に妙心寺、臨済宗のトップに君臨する鹿苑院が出席する理由は勿論、惟高妙安と菊幢丸が太い絆で結ばれているからで、六角堂もまた然りである。

 醍醐寺と興福寺からの出席者は、菊幢丸の叔父である義俊と覚譽の二人が命令したからである。応仁の大乱で荒廃著しい醍醐寺は、同じ真言宗の名刹である大覚寺の支配下となっていた。大覚寺の住持は義俊である。また興福寺別当は覚譽だ。

 阿弥陀如来を本尊として祀るのは同じながら、一向宗とは異なり比較的穏やかな宗旨となっている浄土宗。その本山である知恩院は、菊幢丸が発案し惟高妙安が主導する洛中での福祉政策にいち早く賛同し、共同出資者となっていた。相模国伝肇寺も浄土宗の寺院である。

 また足利氏のみならず八幡太郎義家の血脈にある源氏武士にとって尊崇すべきは、氏神の本宮たる石清水八幡宮と鎌倉宮である鶴岡八幡宮だ。その本宮を管理する社寺も、浄土宗の寺院であった。


 さてもさても、よくよく坊主らに好かれる童であることよ。嫌われて佛敵と断じられぬ限り、金穀に窮することはあるまいて。

 ……余の加冠の儀は阿呆の都合であったが、菊幢丸の加冠の儀は然に非ず。余の願うがままに取り仕切らん。阿呆共のためになぞ行ってなるものか。


 文机に筆を投げ出した義晴は、微かに音を立てて炎を湛える燈芯を見つめる。


 願わくは我が身の猛々しきこと灯明の如く、願わくは我が心に宿る智慧は火の如く、念念に武威の油を注ぎて、修羅道に住する父祖を供養し奉らん。

 我が息、菊幢丸の弥栄をば、我は鬼神となるとてもきっと護持致してくれようぞ。余が行う全ては足利の血のために。悪鬼羅刹も皆々噛み砕いてくれよう。

 余は足利の血を正しく受け継ぎし、悪しき将軍なり!

 ってな訳で、主人公をほったらかしの回でした。

 次回からは足利義晴公を主人公とした『スケア公方』が始まります♪

 勿論、嘘です。次回からは通常運転です(平身低頭)。

 追伸。オールスター的な話をサラッと書くのってホンマに難しいです。

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