『 既知との遭遇 』(天文十二年、春)<改訂>
政所の在地は、捏造です。調べたのですが判らなかったので。花の御所か伊勢氏の邸宅か、とも思いましたが、どちらも然程広くなさそうでしたので、別にあると設定致しました。
誤字脱字の御報告に感謝を!(2021.03.27)
春とは名のみの寒さなりけり、って正鵠を射た表現だよなぁ。
小氷河期は今年も元気モリモリで、今日も今日とて雪が舞い散っている。まぁ積もりそうにないだけマシか。
元日は雪に閉ざされた坂本で迎えたけどな。
琵琶湖畔から眺める初日の出がなかなかに乙なものだったのがせめてもの救いであるが。
年明け早々に都へと戻って来られたのは、昨年末に細川高国一派の残党が起こした蜂起が不発に終わったからだ。
反体制派というか反主流派というか、兎にも角にも欲求不満が高じて大暴れしようと企んだガラクタ野郎共を追い払った功績は、ポンコツ管領こと細川晴元にある。
将軍家としては良くやったと一応は賞賛したが、抑々は細川一族の内訌なのだ。
俺としては称賛するよりも不満分子を放置していた懈怠を叱責すべきでは、と思うのだけどね。
だがそうもいかないのが、将軍家と細川氏の関係なのだ。この関係がホントにややこしい。銭形平次でも解けぬくらいに縺れ捲っているからなぁ。
何れかの機会に、俺も拗れ過ぎた細川氏の内情をキチンと理解しようとは思うのだけど、何もめでたい正月にやる事じゃないよね。
慌てない慌てない、先送り先送りだ。
さてさて、都に戻るなり即座に慈照寺へと引き篭もった俺は、火鉢で炭をガンガン焚いて暖を取りつつ、どうすれば鉄砲や弾薬を手に入れられるかを考え続けた。
史実に変更がなければ天文十二年である今年、種子島へ鉄砲が伝来する。何月頃かと言えば夏以降の筈。ポルトガル人を乗せた倭寇のジャンク船、王直もしくは五峰って明の海賊の船が台風で被害を受け難破寸前で漂着するのだ。
“てつはう”“火縄銃”“種子島”。
日本へ最初にやって来たのは元寇の際の“てつはう”だが、蒙古襲来を描いた絵巻では鉄砲ではない。陶器製の器に火薬を詰めた投擲式の炸裂弾。別名が“震天雷”。
前世で読んだ本には確か、応仁の乱の頃には鉄砲と呼んでも差支えのない形状の火器が伝来していた、と書かれていたよな。尤もそれは中国産の“小銅銃”という物で、火縄銃よりも単純な筒型火器なのだが。
東軍の細川何とかが使用したと何とかと言う名前の僧侶が書いた日記にそう記されているらしい……だったよな?
小銅銃は小田原や甲斐にも伝来していて、試し撃ちの轟音が怖くて幼児だった北条氏康がビービー泣いたとか、武田家が実戦で使ったけど役に立たなかったと言う記録もあるとか何とか。
……洛中を捜索すれば、小銅銃が一丁くらい何処かの蔵で見つかるのじゃなかろうか?
とっくの昔に鋳潰されて鍋釜になっているような気もするけれど。
歴史が変わっていなければ今年、東南アジアで生産されたヨーロッパモデルの最新式が伝来するのは確かなのだ!
……いっその事、信長を見習って本能寺に住居を引っ越そうかな?
種子島に末寺があるから直接買い付けの機会が得られ易いかも。種子島には奈良の興福寺も末寺を建てていたような。ならば興福寺に伝手を求めるのもアリかも。
正直言えば、さ。
俺が既に将軍様の身分なら、さっさと大内家が勝手にやっている勘合貿易に相乗りさせてもらって、将軍家の旗印を靡かせた船団を派遣するのだけれど。
或いは島津経由で種子島家と繋ぎを作り、琉球をも巻き込んで硝石もろとも大量購入とか。
……全くもって歯がゆいばかりだ、世知辛ぇ!!
そんなこんなの切歯扼腕する日々を過していた或る日の事。
気晴らしにと、慈照寺の泉殿で惟高妙安禅師と碁を打っていたら、またトンチキな親父殿が癇癪を起こしたとの知らせが舞い込んで来た。
底冷えする外気の中、息切らせて馳せ参じて来た若くもないが中年でもなさそうな男が、汗まみれの額を縁側に擦りつけて言ったとさ。“何卒、若子様よりお慰めの御言葉を”と。
え~~~~、嫌だ、すっごく面倒臭い、御免蒙る!
「誰ぞ女子なりとて侍らせれば、御所様の御気色は和らぐかと思うが?」
「それは既に……」
あ、やって駄目だったのね。
「然らば辞を低くして時を稼ぐか、耳を塞ぎ続けるしかなかろうの」
ニコニコと笑いながら禅師が言外に放っておけと言われたが、男は縋る目でこちらを見詰め続けている。
「若子様、某からも御願い申し上げまする。何卒、花の御所へ」
俺の背後で控えていた人物が見るに見かねたのか、男の助勢をし出しやがった。
捨て置いとけばいいだろうが、と不服と不平と不満を表そうとしたが俺の傅役代理を務めてくれている三淵伊賀守晴員の進言を無下にする訳にはいかない。
代理、とは実に奇妙な事だと思うのだが正式な傅役がいないのだから、仕方がない。何故いないのだと思ったが、どうやらトンチキな親父殿が矢鱈と勘気や癇癪を乱発した所為で、人がいなくなったらしい。
仕方がない、で済む話か?
駄目人間がトップに立つと下の者は大変だよな。俺もその一人だけどな。
「人が生きる道は楽土ばかりでもなし、苦行ばかりでもなし。楽とは苦をも内包するものであるからの」
含蓄ありげな良い言葉で纏めようとしているみたいだけど、俺に負けそうだから碁打ちを有耶無耶にしようとしているだけですよね、禅師?
“何卒、何卒”と鬱陶しい事この上ないが、また手荷物扱いで朽木まで長距離移動させられるのも邪魔臭いしと割り切って、俺は腰を上げた。
「禅師、本日はこれにて御無礼致します」
鷹揚に頷きながらもそそくさと碁石を片付け始める禅師に別れを告げ、俺は草履を用意するように命じれば、方丈前の庭で素振りの手を止め俺達の遣り取りを伺っていた与一郎ら近習達が、木刀を引っ提げ慌ててすっ飛んで行く。
「誠に忝く存じます」
出発の準備が整うまでの暇潰しに、恐縮頻りの男に細川氏の内ゲバ情勢はどうなっていると尋ねれば、膠着状態の一言だった。
まぁ、そうだろうな。
三好長慶が細川氏主体の権力構造を覆すまで続くのだから。カウントダウンがゼロとなるまで後、六年と何ヶ月かあらぁな。
処でさ、御宅はどなたさん?
「御挨拶が遅れ誠に申し訳ございませぬ。某は奉公衆の末席を汚しておりまする、大舘伊予守晴忠と申す者にて候。若子様の御尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます」
へ、大舘ってか?
詳しく問えば、トンチキな親父の側近中の側近である内談衆の長老格、常興の長子で、大舘氏宗家を継承した左衛門佐晴光の庶兄であった兵庫頭高信の跡継ぎであるそうな。
兵庫頭高信が早くに亡くなった為に十代で家督を相続した伊予守晴忠は、親族衆筆頭という立場であるとの事。
言われてみれば確かに、常興に似ていなくもない。
室町時代に来てから此の方、出来るだけトンチキな親父殿……いい加減面倒だからもうトンチキ親父でいいか、の住居である“花の御所”とは出来る限り距離をおいていた。
厄介事に巻き込まれるのは御免被りたいからだ……今回みたいに。
だってさ俺、自分の事で毎日いっぱいいっぱいなのだもの。
トンチキな言動で嵐を巻き起こす権力者など、ハッキリ言ってノーサンキューである。
しかし全身全霊で御断りを表現すれども今の俺は子供だから、トンチキ親父の都合に巻き込まれてしまう事もしばしばだった。
泣く子と地頭や、鴨川の流れと賽の目と荒法師などと同じくらい、不可抗力には逆らえないのが世の常であるのが何ともはや。
いや、地頭と荒法師には何れ逆らってやる。八つ当たりしてやるから覚えてやがれ、コンチクショー!
俺も泣く子になれば、と思うが無駄な抵抗かもなぁ、ああ生き辛れェったらありゃしない。
などと泣き言は、さておくとして。
常興やその息子の左衛門佐晴光と、その次世代である十郎とは近江国への逃避行も一緒だったので面識があるけれど、伊予守晴忠と面つき合わせるのが初めてなのは何故だろう?
疑問を投げかけたら、回答は直ぐに得られた。
内談衆や奉公衆は将軍様いる所に常に在り、だと思っていたのだけれど実はそうではないのだとか。
そりゃそうか。
幾ら将軍様の他出というか家出というかであろうと、身分立場を考えれば洛中を空っぽにして出かける筈はないよな。
伊予守晴忠は留守居役の一人に選ばれ、将軍様不在中の“花の御所”を守っていたのだそうな。
留守番役を任されるとは余程信任されているのだろう……決してハブられた訳じゃないよな?
そんなこんなと小粋な世間話をしている間に用意が整ったので、主に俺の身嗜みファッションチェックに時間がかかったってのは内緒だ、禅師に頭を下げて慈照寺を後にする。
やれどっこいしょと馬に跨ったら、いざ“花の御所”!
実際には、三淵の馬に相乗りさせてもらったのだけど。相変わらず騎乗は上達していないのだから仕方がない。
俺達以外は全員徒歩だから、進行速度は実にゆっくりとしたもの。出来ればもっとゆっくりでも良いくらいだぞ。一生到着しなくても俺はちっとも困らないからな。
現代では舗装済みの直線道路となっている今出川通も、この頃は凸凹で草茫々で大して広くもない北小路だ。
国立大学や有名私立大学が立ち並び学生達が笑いさざめき歩く姿など想像も出来やしねェ。
閑古鳥が大合唱中の大通りを進めば進む程に、気分はもうドナドナさ。
ただでさえ気乗りしない他出だっていうのによ。
いかんいかん、このままではダウナーが気欝に進化してしまうぜ。どうにか気分転換しなければ。
俯き加減を取っ払おうと、無理からに上体を起こして左右を見渡す。
憂さ晴らし出来そうなネタはないかと首を廻せど見えるのは、廃屋の如き人家の連なりと侘しい人数の供回りのみ。
……俺をそんなに落ち込ませたいのか?
平等を旨とする現代でも首相や大臣が歩き出せば、秘書やら関係各所の役人やらSPやらがゾロゾロと群れを為すのが当たり前である。
お偉いさんは決して、時代劇の徳川吉宗や遠山金四郎みたいに単独行動など出来ないものなのだ。
況してや当世は身分社会上等の時代。そして俺は、ヒエラルキートップの御子息様である。
それがこんな少人数でウロウロしなきゃならないとは。
近侍筆頭の進士美作守は武家としては新参者だから仕方ないけどさ、三淵も伊予守晴忠も、そこそこ領地を所持する武家だろうが。
小者の五人や十人くらい引き連れて来いよ。どうして二人ぽっちしかいないんだよ!
……そういえば、前世でどこかの博物館の展覧会で拝見した洛中洛外図に、街角で闘鶏を観戦する足利義輝一行が描かれていたっけ。
あれも、数人しか周囲にいなかったなぁ。
仮に絵描きの都合による省略であったとしても、幾ら何でも少な過ぎだろうって思ってはいたが……まさか事実だったとは!
細川与一郎とその兄の三淵弥四郎は、済し崩し的に乳兄弟っぽい位置にいるのだから常に行動を共にするのは当然として。
その他はと言えば、足利家古参の重臣の家系ながら先代が早死にした所為で奉公衆ランキングが絶賛ダウン中の松井氏。その若き当主である新左衛門は、前髪姿の少年でしかない。
身長や体格は京八流の吉岡道場で剣術、この時代の言い方だと“兵法”を学んでいるし俺に習って牛乳を飲んでいるから同世代の男児よりは結構立派だが。
相変わらず成長度合いが捗々しくない俺からすれば、独活の大木になりやがったら承知しないぞ、と願うばかりである。
未だ走衆ランクの与一郎ら少年達は、所謂身辺警護役にも使えない者ばかりだけれど、忠誠心だけはバッチリのようだから将来に期待している。
すっごく心許ないけれど……頼んだぞ諸君!
などと期待はすれども現状が劇的に改善される訳ではなし。
もしも俺が井伊直弼だったら桜田門外で軽く十回は連続で暗殺される自信があるし、吉良上野介であれば赤穂浪士が半分以下の人数でも討ち取られそうだ。
ホンマ、どげんかせんといかん、よね?
「朝廷に献上する財貨があるならば、何故に余の元へも献上せぬのか!」
三十路半ばのトンチキ親父は、今日も絶好調だった。いらねぇよ、そんな絶好調なんて。ゴミの日にでも捨ててしまえ!
「又者の分際で不敬にも程があろうに!!」
昨日、尾張の織田さんが内裏築地の修繕費に御遣い下さいと十万疋もの銭を献上したのだそうな。 百疋で銭一貫文だから十万疋で一千貫文になる。一千貫文とは大体一万石の領主の一年分の収入に相当するくらいか。
剛毅だねぇ、織田さん。流石は“尾張の虎”と讃えられる名将だ。
尾張国主の斯波家の家臣の守護代・織田大和守家配下、清洲三奉行の一家でしかないのに主家も、主家の仕える主君さえも凌ぐ富裕には、呆れるやら感心するやら。
信長君も良いお父さんを持って幸せだねぇ、誰かさんとは全然違うね、ホントにね。
誰かさんとは勿論、俺の事だけどな!
ポンと大金を献上された禁裏も、さぞやホクホクと良い顔しているに違いない。一千貫もあれば倒壊寸前の築地塀も完全修理出来るだろう。上手く遣り繰りすれば、屋根の穴も塞げるに違いない。
まぁトンチキ親父が愚痴るのも仕方がないかもね。
“花の御所”の呼び名の通り、将軍様の御座所の中庭は春爛漫の花盛りで実に雅やかであるけれど、建物は如何に取り繕ったとして一言で表せば、あばら家同然。
綻びが目立つ茣蓙から目を逸らしても色褪せて穴が目立つ襖が見えるだけ、天井の方から聞こえるのは鼠の運動会だろうか。
だからとして、未だ十歳にも満たぬ俺を相手にダラダラと愚痴を零すのはどうかと思うけどな。
半刻以上も子供相手に何浅ましい事ほざいてんだ、あんた?
限りなく無視に近い一遍通りの挨拶程度で済まされただけじゃなく貢物もしなかった事が、余程腹に据えかねたらしい。
しかも信秀の使者は、内裏を出た後は花の御所へ再び挨拶しに来る事もなく摂津の本願寺へ行ってしまったとかで、大層お冠の激おこプンプン丸になっている、と。
好意的に解釈すれば、陪臣の陪臣のその又下の家臣の身分だから挨拶するなど恐れ多いと思われた……じゃないだろうな。
信秀は多分、朝廷に銭を払う事で尊王の篤志を持つ仁将であるという名声を買ったのだ。
美濃の斎藤や越前の朝倉や駿河の今川達と戦いながらも、些かも疲弊しておらず益々意気軒昂であると、世間に喧伝したかったのだろう。
一方で、現在の将軍家には銭を払う価値をこれっぽっちも見出さなかったのだろうな、きっと。
俺でも、そう思う。世の中ってのは、ホント世知辛ェよね。
もしも信秀の支配地域が尾張全土に及び、更に美濃や北伊勢にまで及んでいれば無視する事なくドカンと献金してくれただろうさ。信長が義昭にしたように。
襤褸は着ていても威光は錦の、将軍家や幕府に利用価値を見出して、な?
辛抱に辛抱を更に半刻ほど重ねた頃、漸くにしてトンチキ親父の鬱憤は一先ず解消されたよ、ヤレヤレだ。尊くも俺の時間を犠牲にしてだが。
これは代償を貰わねば割に合わないと身辺の人員増加えを申し出たのだが、伊勢に申せ、と素気無い一言。
費やした約二時間と愛想笑いと心にも無い慰めの言葉を無駄にしたくない俺は、彼方此方が崩れた築地塀を横目に早速、伊勢伊勢守のいる場所へと向かう。
伊勢とは、今更説明するまでもなく公儀の文官の長である政所執事の伊勢伊勢守貞孝の事である。
苗字が伊勢なら官職も伊勢、いっその事名前もイッセーとか一生とかにすれば面白いのに。
さて政所とは、侍所や問注所と並ぶ幕府の主要機関である。
政所が行政と司法を所管し、侍所は軍事と警察を問注所は司法事務を担当していた。
しかしこれは、過去の話。
侍所は、鎌倉初期には和田義盛が長官である別当職に就くなどして重要職だったが和田合戦で義盛が討たれた後は執権が兼任するようになり、有名無実化する。
室町幕府では将軍直轄機関として山城国全体の治安維持を担当したが、山城国守護職が設定された後は洛中のみを所轄とする京都所司代へと職掌が改変され、松田氏と飯尾氏の何れかが郎党を指揮して職務を執行する機関となった、のだけどね。
十二年前の享禄四年に起こった天王寺合戦、別名“大物崩れ”で、所司代であった松田元陸が味方の裏切りで討ち死にしてしまったのだ。
阿倍野と中津川で繰り広げられた大戦は、管領家としての細川家の名だけではなく、統治者としての幕府の存在も道連れにして地に墜ちたのである。
めでたくなし、めでたくなし。
その代わり、大活躍であった三好家の勇名は世に広がったのだけどね。
働き盛りの当主を討たれた松田氏が力を落とせば所司代の力も墜ちるのは自明の理で、形ばかりの京都警邏隊と相成りましたとさ、チャンチャン。
因みに飯尾氏は、別流が今川家の家臣となって引馬城主となっていたりする。
桶狭間の合戦が発生したら当主が討ち死にするのだけどね。
これは知っていても特に得しない豆知識だが、引馬城は後に浜松城と改名した後は不運な城から出世城と汚名返上となるのだ。……引っ越そうかな、マジで。
さて話を戻せば、侍所も大概だが問注所も相当なもので。
最初に設置された鎌倉時代、訴訟事案を頼朝へ進言する機関だったのだがその職務遂行過程において余りにも怒号が飛び交い過ぎ、音を上げた頼朝が邸内から追い出してしまったのだとか。
そりゃまぁ全国から訴訟が持ち込まれ、持ち込んだ訴人が一斉に口を開けば堪ったものじゃないよなぁ。
持ち込まれた案件は全て土地と金に関する事だから訴人は全員必死だし。
訴訟が増加するに従い事務処理が遅延するようになったので、新たな事務処理機関が作られいつの間にやら問注所の存在意義はあやふやになってしまったようだ。
室町幕府は鎌倉幕府の轍を踏む事を忌避し、文書管理と簡易裁判のみを担当する部門として政所の付随機関となっていた。
であるが故に、室町幕府における政所は絶対の最高執務機構なのだ、多分。
全国が千々に乱れ、全国の彼方此方で常に合戦が行われ、一揆が頻発し徳政令が度々発せられる現在の日本において、どこまで有効なのかは疑問だけれどね?
この時代における行政と司法を端的に言えば、土地の所有者の確定と土地の所有者から如何に税を搾り取る事が出来るか、にある。
その為、政所は花の御所の裏にある伊勢の邸宅の隣で、元は相国寺の一部を形成する塔頭寺院の一つを借り受けて設置されていた。
理由は実に合理的なもの。
公儀の財務管理を担当する御倉奉行が相国寺の土倉を借り、公方御倉としていたからだ。金庫番の傍に役所を作った方が何かと便利だもの。
交通機関未発達で道路の保全状態も良くない時代だし、何より電話もインターネットも無いのだから情報伝達が不便過ぎてはどうしようもない。徒歩五分圏内で全ての用を足せる立地条件になるのは如何にも自然の摂理だろう。
直ぐ傍でもある事だしと先触れも出さずに訪れたのだが、流石はそつなく諸事をこなす男の伊勢伊勢守、彼の差配により政所に出仕する者達総出による出迎えを受ける。
鷹揚に頷きながら上がり込むや否や、何処からともなく胃袋を刺激する味噌の焼ける良い香りが漂って来た。
時刻は凡そお昼時。そうか御飯休憩の時分だったのか。わざわざ仕事の手を止めさせて済まなかった、と口にしたが無意味に恐縮させるだけでいらぬ気遣いだったみたいだ。
いつもの俺なら一緒に相伴しようと言う処だけど、花の御所でのアレコレで食欲が減退気味、多分胃酸過多になっているに違いない、ので一先ず昼食は遠慮する事に。
おのれ織田め! そんなに足利将軍家に仇為したいのか!
今にも腹の虫を鳴らしそうな顔をした近習達に昼食を済ませるよう申しつけ、俺は伊勢の案内で執務室へと進んだ。
最初は応接用の奥座敷へと通されそうになったのだけど、堅苦しいのは嫌だしね。只でさえ伊勢は、堅苦しさが烏帽子を被って髯を生やしているような人物なのだし、文机にも棚にも書類が積みあがっていて墨の香りが充満している方が安心出来る癖がついてしまったしな。
普段、伊勢が使用している文机を前にして胡坐を掻くと、少し離れた下座に伊勢と三淵が肩を並べて坐す。
若子様におかれましては御機嫌麗しく、と定型の挨拶を口にする伊勢だったが愛想の欠片もない目を見れば、何しに来たんだ忙しいのに、と言外の言葉が読み取れた。
さて、どう切り出したものか?
人手が欲しいから公儀から頂戴な、などと言おうものなら阿呆を相手にする真面目な教師のように懇切丁寧な文言で俺を滅多打ちにしてくれるに違いない。
勢いの侭に来たのは失敗だったと気づくも、手遅れだ。
三淵に助けを求めようかと思ったが、この人物とて俺の意を汲んで先回りしてくれるような如才無さなど持ち合わせちゃいない朴念仁だもんな。
禅師がいてくれたらとも思ったけれど、禅師ならこの状況を楽しむだけで助け舟など出してくれないよな、絶対に。
「本日は如何なる御用向きでございましょうか?」
手詰まり気分で黙っていたら、伊勢が四角四面な官僚の鑑みたいにせっつき始める。ちょっと待ってよ、今上手い方策を考えるからさ。
小者が運んで来た白湯で口を潤しても口が滑らかになる事はなく、当て所なく目線を彷徨わせていたら、伊勢が大きく息をついた。
「申すまでもない事ではございますが、奉公衆と申す役柄は将軍家の直臣ではございますれども、公儀に出仕する重職でございます。
若子様は何れ大樹の後を継がれまするが今はまだ元服前の御身、将軍家の世子様であるとは申せ、幕府の長ではございませぬ」
「……左様か」
「御理解戴けましたようで、臣としては安堵致しました」
口にすらしていない俺の甘い目論見を見透かすだけではなく、呆気なくペシャンコに叩き潰した伊勢が、形通りの慇懃な所作で面を伏せる。
俺の浅知恵など丸っと全て御見通し、ってか。
「余の至らなさを正してくれて礼を言う、浅薄であった」
俺が精一杯の虚勢を張ると、幕府の屋台骨を支える政所執事の体が一段と沈んだ。
と、なればもう此処に用はない。
さて、どうしたものか。街頭に求人広告でも出そうかな。
薄給ですが喰いっ逸れはありません。名誉は十分に与えられますが、それしか与えられません。……ダメかな?
心許ない身辺警護要員だけじゃなく、何れ入手する予定の鉄砲に関する専門要員も確保したいし。
……まぁ鉄砲に関しては、もう少し猶予があるからいいか。
誰にも聞こえぬように溜息をついていたら、廊下の方からドヤドヤと幾多の人の気配がした。
「御無礼仕りまする」
口々にそう言いながら現れたのは、昼食を済ませた政所の役人達と俺の近習達。次々に下座で胡坐を掻いては一礼を寄越す。
大体は知らぬ顔ばかりではあるが、見知った顔もあった。
荒川治部少輔の後ろで身を小さくしているのは、和田弾正忠惟助。幅広い人脈を持つ惟高妙安禅師を頼り先頃上洛して来た近江国人である。
以前は六角家に仕えていたのだが、不興を蒙って退散したのだとか。
禅師に仕官先の口利きを依頼するのを聞きつけた俺は、任せろとばかりに横車を押し倒して政所に押し込んだのだった。零落れても元は国人領主、読み書き計算くらいは出来るだろうからな。
元服前の子供ふたりは、その内に近習として採用する心算だが、父親の方を登用すべきだったかな。うーむ、しくじった。
因みに子供ふたりの内、兄の伝右衛門は後世、和田惟政を名乗る一角の武将となり足利家の忠臣として働いてくれる人物だったりする。
青田買いは積極的にしないと!
石田三成、大谷吉継、片桐且元、藤堂高虎、中村一氏、長束正家、宮部継潤などなど、近江の土豪や国人出身者には実務に長けた有能な者が多いのは戦国時代の常識だもの。
そう考えれば、戦国時代だけではなく昭和になっても多数の有能な人材を供給し続けた近江を領地とした秀吉が、信長亡き後一気に勢力を拡大したのも頷けるというものだ。
トンチキ親父が矢鱈と近江へ逃げるのは、まさか天性の勘だったりして?
そんな訳ないか。
目の前で膝を就く蜷川大和守、荒川治部少輔、高和泉守、飯尾大和守。彼らの子供達、宗武入道の特別講義の受講生達も青田買いの対象であるのは言うまでもない。
蜷川大和守親世と言えば、新右衛門を代々名乗る伊勢家重代の家臣にして政所代である能吏だ。子孫には著名な格闘家もいる、頓知坊主のアニメで御馴染みの武家である。有名人、万歳!
蜷川家嫡子の親長は史実だと、俺が松永と三好三人衆の連合軍による襲撃で落命した後は土佐の長宗我部家に仕えている。
元親の妻が従姉妹の石谷氏で、明智光秀の重臣である斎藤利三とも係累となる華麗なる係累の一員だ。多分、使える奴に違いない。
そういえばこの中に、沼田上野介光兼もいるのだろうな。
東北で武威を示した津軽為信の軍師として活躍する予定の、祐光のお父さんだ。息子の将来には期待を大とする処。早く育てよ、祐光君!
まぁ祐光も親長も、未だ十歳未満の童子だから現時点では如何ともし難い話なのだけど。
次善の策でしかない青田買いばかりじゃなく、即戦力も欲しいなぁ。
彼らに親しみを込めた笑みを送るや、俺は所作に注意を払いながら立ち上がった。
出来るだけ見苦しくないように、粗忽者の退散と見透かされないように。
「邪魔をした」
そして直ぐに歩き出したくなる気持ちを押し隠して胸を反らし、甲高くならないように気をつけて言葉を続ける。
「その方らの働き誠に大儀である。将軍家の一員として未だ至らぬ身であるからこそ、余はそなたらの忠節を頼みとするものである。
そなたらの働きを無下にせぬよう精進を重ねるが故に、今後も宜しく頼み入る」
俺がそう言い切ると、伊勢を筆頭に全員が揃って平伏した。
それじゃあこれで解散!……だと格好悪いので、では参るとしよう、などと言いながら歩を進めた俺に、伊勢が真面目な顔で首を傾げた。
「東山へお戻りでありましょうか?」
「いや、折角洛中へ来たのだし、暫し遊山をして行く」
「ならば、心利いたる者を同道させまするほどに」
手にしていた扇子で床を打った伊勢が“主税助”と発すれば、廊下から顔を覗かせた男が畏まって平伏した。
「下京郊外にて下司(=下級役人)を務める者ながら中々に目端の利いた者であります故に、若子様の御目に適うかと存じまする」
上司の紹介を平然と聞き流しつつも礼を崩さなかった男をよく見れば、先ほど俺に白湯を運んで来た小者だった。
「石成主税助と申す西九条の雑掌にござります。世子様の御尊顔を拝し奉り誠に恐悦至極に存じまする」
え、……今、石成って名乗った?
永禄の変で俺をぶっ殺す、三好三人衆の一人の!?
「然れば、某も同道仕りたく存じまする」
不意に下座に控える者達の真ん中辺りから、二十歳前後と見られる男が声を上げた。
「右衛門大夫殿、お控えなされよ」
三淵が窘めるも、青年はにこやかな顔でしれっと名乗りを上げる。
「三好越後守が一子、右衛門大夫政勝にござる。
所用ありて罷り越しましたる処、奇遇にも世子様より直にお声を得る栄誉に接しました。
斯様な好機はまたと無きと存じまする故に、何卒某も遊山のお供に加えさせて戴きたく存じまする」
はい?
……お前、爽やかな面しているけど、三好政勝なの?
お前も三好三人衆の一人じゃねェか!!
…………お前ら、何で此処にいるんだよ!?
もしや、史実を前倒しするつもりなのか!?
もしや長逸も潜んでいるのか!?
って事は三好三人衆揃い踏みか!?
即戦力は喉から手が出る程に欲しいけど、いきなり俺の人生をクライマックスにする為の戦力が欲しいとは一言も言ってねェぞッ!!
転生って、こんなに世知辛ェのが常識なのかッ!?
織田信秀の献金問題。一般的には四千貫文(=四十万疋)と言われています。その根拠は奈良興福寺の多聞院英俊の日記にそう記されているからで。しかしその内容は「事実だったらスゴイね!」と伝聞のようで。
同時期に記された宮廷女官の『御湯殿上日記』には「十万疋進上すると将軍を通じて連絡があった」と記されてますので、そちらに準拠致しました。