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『 キリングフィールド・オブ・ドリームス 』(天文十五年、夏)

 お待たせ致しまして申し訳ございませんでした。

 漸く新規投稿です。

 次話も短いながら続けて投稿させて戴きまする。

 河越城合戦略図・捏造版を掲示するのを失念しておりましたので、添付致します。(2019.05.20)

 皆様からの誤字誤表記の御報告、誠に忝く候。逐次訂正させて戴きます。(2019.05.25)

 挿絵(By みてみん)


「“おにょれ、下郎推参なり!”」


 今朝も今朝とて、ペラい上掛けを蹴飛ばして起き上がれば、正面壁際の棚の前にずらりと居並ぶ埴輪たちが無言で迎えてくれる。何て無愛想な奴らだ。偶には笑顔で手を振ってくれていても良いだろうに。いやいや、やっぱり怖いからジッとしといてくれ。

 それはさておき……これで連続何日だ? 十日か? 二十日か? もう覚えてねぇや、畜生め!

 何でこうも毎日毎日、山内上杉憲政になる夢ばかり見るのだろうか、と自問すれば、そりゃあ……あんな書状を貰ったからだろうと八つ当たり気味に自答する。どんなことを記した書状かと問われたら、鮮やかな墨痕が血痕に見えてしまうような内容だったなぁ。

 差出人は北条氏康。……氏康さんたら雄雄しい書体でお手紙書いた、菊幢丸君たら読んで女々しくうなされた、悪夢を見るようなお手紙なぁに?


“世子様より賜りました御厚情の御蔭にて貪狼共を悉く討ち果たし候”


 ありゃー、討ち果たしちゃったのかー……などと他人事のように感想を洩らせたらどれだけ幸せだろうと思う。思うけれど、それが出来ないから連日連夜悪夢を見ているのだ。


 室町ライフを強制的に満喫させられるようになってから幾星霜、ざっくりといえば四年と少し。思えば遠くへ来たものだ。来たくて来た訳じゃないこの時代、いい加減慣れたと思ったが……まだまだ慣れないよなぁ。覚悟が足りない、というべきだろうか。

 覚悟とはつまり、室町武士の当たり前の敵を殺すこと。即ち人の命を奪うことだ。

 だけどさ、戦後日本生まれの俺にとっては人を殺すだなんて常識でも何でもない。

 当たり前だ。そんな不穏な日常など御免蒙る!

 だが今生きている中世って時代は毎日が不穏だらけ、風に舞う枯れ葉並に命が軽いのが当然なのだ。

 幸いにして俺は、転生してからこれまでの間、人の命を奪ったことがない。実に安穏と過せてこれた。どちらかといえば、奪うよりも救うことばかりをして来た……はず。生存権の確立と利便性の享受を優先するための方便でもあったのだけど。

 そんなお気楽生活も目出度くジ・エンド。いやいや全然目出度くないけどさ。

 何故ならば、遂に俺は恣意的に人命を損なってしまったのだ。己の都合を優先させんがため、己の欲するまま人殺しに加担してしまったのである。

 どうやってか?

 胡散臭いインチキ推理小説風に答えれば、遠隔操作による未必の故意、っぽい感じで。いや積極的な意図を込めてのことだから、善意の共犯かな。そんな用語の有無などさておいて。

 そんな訳で。俺の初めての殺人は、自らの手を汚さずにやっちゃってしまったのである。

 被害者は足利晴氏と山内上杉憲政と扇谷上杉朝定とその他大勢。

 正確には憲政の生死は未だ不明なので、もしかしたら生存している可能性もあるのだけれど、史実では死ななかったはずの晴氏の死亡は間違いなく確認されていた。

 殺害現場は、武蔵国河越の地。

 他多数の被害者の内で被害者名簿に特記されるのは次の者たち。

 松山城主難波田弾正憲重、元河越城代曾我兵庫助、青柳城主赤井左衛門尉照康、善城主善刑部四郎入道、高田城主高田兵庫助遠春、赤石城主那波刑部大輔宗俊、後閑城主北条相模守政時、東本庄館主本庄宮内少輔実忠、津久井城主本間近江守、那須壱岐守政資、梁田河内守高助。

 晴氏も足せば十二名、中々の大量殺人だ。

 難波田と曾我は朝定の家臣で、那須と梁田は晴氏の側近。残りの七名は早期の戦線離脱を図らず憲政に忠義を尽くした上野国人衆たちである。出処進退の判断を誤ったがゆえの自業自得といえるのかもしれないけれど。

 死んだ者たちの内、何人が朝定と同様に史実通りの死に方をしたかはさっぱり知らない判らない。然れど俺が河越城合戦に関わらなければもっと寿命があった者たちもいたに違いない。そう考えれば彼ら全員の死も、俺の責任となるだろう。

 自分が犯したこと、北条氏の行いに過剰な加担をしたことは決して後悔なんぞしてはいない。かといって開き直り切ることも出来ずにいる。だからこそ罪業深きに耐えかねて、毎晩悪夢を見ているのだろうと思う。


 俺が次期将軍となった暁に頼るべきは、三好長慶だと定めている。それは亡き爺さんの遺言を守ることにもなるからだ。尤も爺さんの遺言がなくっても、現時点の近畿で当てに出来そうな勢力は長慶しかいないし、しょうがないよな!

 室町後期、いわゆる戦国時代最初の天下人になったという実績を引っ提げた英雄、長慶。彼に頼らずば誰に頼れようか?

 だが長慶は未だトンチキ管領の支配下にある。今すぐには頼れない。三年経てば独立してくれるはずなので、それまでは遠回しに塩分控え目なラブコールをそこはかとなく送り続けるしかないってのが何とも歯痒い。

 長慶の次に頼みとしているのが氏康だ。

 理由は三つ。一つ目は母方の実家、近衛家を介して縁戚関係にあること。二つ目は幕府最高の能吏にして信頼のおける、政所執事伊勢伊勢守の遠縁であること。三つ目は独立した勢力として当代最高の戦国大名であること。以上。

 もしトンチキ親父が義晴ではなく晴氏だったら、どんなことがあろうとも三つ鱗の旗印に土下座して、ヘルプ・ミーと懇願していることだろう。卑屈な醜態を晒して命乞いをすると胸を張って断言してやろう、えっへん!

 とはいえ思い出してみれば、昭和の頃の北条氏の評価って低かったよなぁ。氏康の後継者である氏政に主な要因があるのだが。豊臣秀吉の天下統一を阻もうとした、時世を見誤った戦国最後の徒花的な感じだったっけ。

 だがしかし、日本史研究は平成の頃に大きく飛躍した。特に室町時代は再評価が多かったような気がする。氏政も単なる田舎の夜郎自大ではない、と評価が改まったっけ。

 爺さんの本棚にも最新研究を謳った書籍が多かった。評価が改まった人物の代表格が織田信長だ。実際には、ドラマなどで語られるような時代を先取りし過ぎた破天荒キャラではなかったとか。

 長慶もそうだし、北条氏もそうであった。松永久秀など稀代の大悪党から無二の忠臣へと百八十度の大転換だったりする。歴史的評価など刻一刻と変化し続けるものなのだ。

 では同時代の評価はどうだろう?

 洛中では現在、長慶の阿波三好党の評価は悪くない。田舎武士でありながら強請りもたかりも押し込みもしないのだから、それだけでAプラスだ。阿波三好党の重鎮たる三好長縁に以前、文化サロンで『平家物語』の講釈をしたことがある。

“何故に朝日将軍公が天下を手放されたのか。それは朝廷の信を得られなかったからであるが、洛中に住する下々の信を失ったからでもある。浅ましき山猿が如き振る舞いを慎もうとせぬ者たちを、都人は見下すのが当然だからな”

 様々な梃入れで侍所の機能が一部復旧したが為、洛中の治安は実に穏やかだ。洛中の住人たちは滅多なことでは乱暴狼藉に遭うこともない。阿波三好党もその一助を担っているのだからAプラス判定は当然といえる。

 本来ならばその評価は上司たるトンチキ管領や京都所司代モドキの茨木長隆にも寄与しそうなものだが、彼らの態度は傲慢そのもので配下の郎党たちも傍若無人を改めようとしていない。従って評価は決して宜しくない。

 宜しくはないが、トンチキ管領の勢力が近畿を押さえている御蔭で洛中を取り巻く環境が平穏無事なのも事実。実情を知る立場からすれば、トンチキ管領がいなくなった方が洛中の平穏は最高品質となるのだから……早く自主的に退場してくれないかなぁ。

 長慶よ、頼むから史実通りに三年後には独立しておくれよ。史実よりも前倒しになってくれても構わないからさ。

 さて一方の北条氏はといえば?

 どうやら関東での評価は順調に右肩上がりのようだ。古河公方や上杉氏たちが揃いも揃ってボンクラだから、その評価は尚一層である。他にも、鶴岡八幡宮を焼いた里見氏みたいに評価を自滅させた阿呆もいるしね。

 年貢を四公六民にし、それ以外の課税も段銭・懸銭・棟別銭の三種に限定したことで、領国内の農民の負担を大幅に軽減させたってのも高評価に繋がっている。

 鎌倉幕府成立以降、領主が領民に課す税は多彩で複雑怪奇なものになっていた。政所の仕事が多忙なのも取り立てる税が煩雑だからであり、どの課税が有効で無効なのかを資料を参照しながら逐一判断せねばならぬからだ。

 税金は安ければ安い方が良いけれど、税収が少なければ公共は保全されないし、公共が保全されなければ納税者は安全に暮らすことが出来ない。税とは公共サービスの原資なのだから。

 何だかんだと公共サービスを名目として、この世は様々な名目の課税がミルフィーユ状になり混然としているのが現状だったりする。御蔭で政所の仕事の半分は、目的不明瞭な徴税で得た予算の使途が不明であるのをどうするかに無駄な労力を費やすことなのが、何ともはや。

 おまけに……領主が裕福に暮らしたいがために課す税も混ざっていたりするのが大いなる頭痛のタネだ。

 さてそんな頭痛のタネを洛中洛外、日ノ本の中心たる都でドカンと課しているのが非愛されキャラのトンチキ管領様。そして比叡山である。

 都って場所を考察すれば、幾らでも人は湧いて出る場所だ。どれだけ多くの住民が凋散しようと、どれだけ多くの住民を殺そうと、暫くすれば日ノ本の各地から人が勝手に集まり営みする場所、それが都の本質だ。

銭も富もまた同じ。都が都である限り、幾らでも集まって来る。

 ゆえに支配者層は収奪することに些かも躊躇しない。その結果が複雑怪奇な徴税システムなのだ。

 ……思考が大分逸れたような。えーっと何を考えていたのだっけ。……ああそうそう、河越城合戦だ。


 残念ながら俺は近畿のど真ん中から身動きの取れぬ身であるし、近畿を離れられるのは手荷物扱いされながら近江国へ逃避行する時だけ。

 因みに当世の近畿とは山城・摂津・河内・和泉・大和の五ヶ国のことで、京都大阪奈良の二府一県のみを意味する。滋賀県こと近江国はアウト・オブ・範疇なのだ。

 そんな俺がどうすれば近畿から遠く離れた関東に盤踞する北条氏の、乾坤一擲の大勝負に関与出来るであろうか?

 総身同様にたかが知れている知恵をフル動員させ、もう必至のパッチで考えた。構想期間約三年。頑張った俺は、制作費プライスレスの案を二つもでっち上げたのである。はい、拍手を下さい、オー・サンキュー♪

 一つ目は氏康へのアドバイスとサポートだ。


“東国静謐は日ノ本の重大事なるべし。三代に亘る相模守の志なくば東国静謐は成り難し。向後も尽力するを切望す。”

“先ずは武蔵国を平らげるべし。武蔵国の要は江戸城なるも要の命運は河越城次第なり。きっと用心怠るべからず。”

“河東郡の経緯仔細、堪忍し難きことなれど、古来より損して得取れの警句あり。北条鱗の軍旗を立てるは落日の方に非ず、旭日昇る方へと立てるが肝要なるべし”


 思いつくまま筆を走らせた内容だったが、どうやら氏康は俺の意を最大限に汲み取り活用してくれたようだ。

 サポートは、北条氏が早期に今川氏と国境問題で手打ちが出来るように中立的交渉団の派遣である。

 国境問題解決を己の手で解決することで今川氏内部における立場の強化を目論んだ武田信虎。そんな企みをベースに結成された交渉団のリーダーは、道増伯父さん。

 しかし真のリーダーは政所の若きエースたる伊勢兵庫頭である。

 信虎に負けず劣らず海千山千な道増伯父さんだけど、実務に関しては疑問符を抱かざるを得ない。それを支えるのが兵庫頭の役割だった。正確にいえば実務のトップとして国境問題交渉を決裂させることなく、完全解決一件落着に導くのが主目的だ。

 本心としては父親が獲得した領土を手放したくはなかろうが、何としても氏康には納得してもらわなければならない。そのためのアイテムが親書だ。キーワードは、“損して得取れ”である。

 望まぬ領土返還交渉の主導権は氏康側にあるのを政所が理解していることを伝え、河東郡を占領し続けることのデメリットと手放すことのメリットを懇切丁寧に説明することが重要だ。その逆のメリットとデメリットは別に話さなくても良い。

 そして返還までのロードマップは可急的速やかに行う必要がある。信虎が想定するよりも早くなければ駄目だ。信虎自身に、今回の交渉の主役は当事者間ではなく、仲介者たる交渉団にあることを理解させるために。

 政所は幕府の中枢機構である。それが乗り出すのだ。たかが田舎大名の隠居如きの思惑や都合でどうこう出来るような組織じゃないってことを徹底的に理解させなければ。二度と利用しようなどと悪心を抱かせぬようにね。

 更に望み得るならば、政所の仲介による相互不可侵条約を締結させたい。攻守同盟ではなく、お互いが攻め込まないって程度で十分である。お手伝い(いくさ)などという面倒臭い約束抜きの協定を結ばせるのだ。

 結果だけを見れば、今川氏は奪われた旧領を全て奪還出来るので万々歳となるが、信虎の威勢が増すので結果としては痛し痒しとなるはず。現に正月のことを思い出せば、既にその兆候は顕著なようだ、あっはっはっは、ざまぁみろ!

 信虎が獅子身中の虫となってくれれば、今川氏の仮想敵は北条氏から武田氏とスライドする。俺としては今川義元と武田晴信との仲が延々と拗れてくれる方が有り難いしね。

 耳をすませば聞こえるくらいにギクシャクしてくれたら、義元も晴信も氏康との関係をより良いものとするに違いないのだから。駿河国と甲斐国との間が不穏であればあるほど、氏康は背中を気にしないで関東制覇に臨めるだろう。


 それはそうと、河田兄弟に託した御土産も有効活用してくれたかな?

 御土産とは、会図面式合戦(シミュレーション)の“演習”セット一揃えである。因みに絵図は“富士川の戦い”。序でに何も描き込んでいない白地図、絵図と同サイズの紙も六枚ほどオマケで付加えた。

 河越の地は氏康たちにとっては熟知の場所。約十年も実効支配しているのだから当然だ。諜報部隊の風魔忍者もいるのだもの、地図を完成させて図上演習をしてくれたらば大勝ではなく完勝するに違いない。

 実際、河越城合戦は北条氏の完勝となった。

 朧げな知識と照らし合わせても、史実以上の成果を挙げたのは百パーセント間違いない。受け取った詳報に俺は心底安堵した。不可侵条約も締結させたそうだから万々歳である。俺のやらかした事は余計な差し出口ではなかったようだ。もう拍手喝采だね。

 どうしても俺は北条氏に完勝して欲しかった。

 史実通りであれば今年中に俺は征夷大将軍となる予定。将軍就任後の大仕事を出来るだけ穏便にしたいから、ってのが完勝を願った最大の理由なのだけどね。


「若子様、これは御内書すら頂戴致しておらぬことゆえにあくまでも内々のこととしてお聞き戴きたく存じまするが」

 実に勿体ぶった言い方をしながら伊勢が俺の目を覗き込む。口髭の端に抹茶ラテの泡がついていなければ、ははぁ、と畏まりたくなるくらいのオーラを感じた。

「昨日、“花の御所”へと参上仕りました折に御諚を賜りましてございます。大樹様は近々に大御所におなり遊ばす御所存にて。

 ……この意味、お判りでございましょうや?」


 俺の就任式は逃避行先での実に簡素なものとなるはず。畿内の政治情勢が激変する中で挙行されるのだから万雷の拍手は望めやしない。しかも畿内最大の実力者、トンチキ管領と敵対している真っ最中でのことだから。

 ゆえに就任しても将軍様として執行出来ることなどたかが知れている。上奏されることを追認するだけだ。幕末長州の殿様みたいに、室町の“そうせい公”にしかなれないのは未来日記の確定事項である。

 だけどね、追認しか出来なくとも、やれることはあるのだよ。

 先んじて現状を変えてしまえば良いだけのこと。身近なことはおいそれと手出しは出来なくとも、手の届き難い先であれば憚ることもないだろう、ってね。

 近衛屋敷でサー・グランパたちに大声で宣言した通り、俺は爺さんの遺志を叶えるために、いや菊幢丸として生き残るために、世の枠組みをガラガラポンしてやるのだ。

 幕府を改編し、諸悪の根源と成り下がった管領共を全員潰す。

 畠山氏や斯波氏は勝手に自壊しているからどうとでもなるし、正直どうでもいい。立ちはだかる最強のハードルはトンチキ管領。こいつを潰すには未だ時が必要である。ならば遠くの管領から先に潰してやろう。

 標的は、関東管領の上杉氏だ。

 織田信長が桶狭間で一躍、時の人となるよりもズーっと前の時点である今現在において日ノ本の害悪は誰だと問えば、畿内は足利将軍家と細川氏、関東は古河公方と上杉氏だ。

 俺が菊幢丸である限り将軍家を潰す訳にはいかないが、後の三つを潰すのに何の遠慮がいるものか。次期足利将軍となる俺さえ生き残れるならば、後の三家は必要ない。むしろ御退場してもらった方が都合良い。

 前世で学んだ知識でも、混沌とした畿内に安定をもたらすのはトンチキ管領の下から独立した長慶だし、荒れ狂う関東情勢を平穏にしたのは上杉氏と古河公方を放逐した北条氏だからな。

 長慶が自立するのは数年後のことだが、氏康の覇業に加担するならチャンスは今しかない。幾ら室町幕府創業の功臣であるとしても消えてもらわねば。序でに室町時代を蝕む腫瘍と化した古河公方も絶対に除去しないとな。


 氏康が河越城の戦いに勝利したことで、古河公方が消滅の危機に立たされたことを俺は知っている。たった一つの敗戦で扇谷上杉氏が滅亡したことも。扇谷上杉氏は関東から一掃されたが、山内上杉氏はしぶとく生き残ったこともだ。

 減衰するも残存した山内上杉氏は、後に氏康の攻勢で関東から追い払われて越後国へ落ち延び、軍神を誕生させた。軍神とは勿論、謙信のことだ。誕生した謙信は、北条氏の関東制覇の新たな障害となるのである。

 聖将だか義将だか知らないが、謙信という存在は関東にとっては百害あって一利なしの男である。俺の企みは、上杉謙信なる武将をこの世に誕生させないって目的もあった。塵は塵に、灰は灰に、長尾景虎は長尾景虎のままに。


 その為には、何が何でも徹底的に潰そう。

 そして潰れました、と正式な報告があったら“ああ、そうですか”とニヤニヤしながら追認してやるのだ。

 何が何でも上杉氏を潰そうと決めたあの時の俺は、交渉団の一員として送り出した多羅尾助四郎とその一党に密命を下した。関東一円における上杉氏の威勢に瑕疵をつけよと。

 今思えば、何て無茶振りをしたのだろう。助四郎たちもさぞや難儀したに違いない。右も左も判りゃしない未知の土地で、どうすりゃいいのかと。帰還したら労ってやらないとなぁ、給金を弾むとするか、また財布が寒くなるなぁ……。

 まぁいいや、何とかならぁな。クヨクヨせずに多羅尾の者たちの奮闘に話を戻そう。

 近畿では有能でも不案内の関東では実力が万全とはいかない。ではどうしたかといえば、北条氏配下の忍びの力を借りたと助四郎からの手紙にあった。北条氏の忍びといったら御存知、風魔衆である。

 風魔衆の手引で多羅尾の者たちは行商人や遊行僧などに化けて関東一円に散らばった。相模国と武蔵国はもとより上野・下野・上総・下総・安房・常陸の関八州全域へ。各地の生の情勢を見聞しつつ、“都での風聞”なるものを其処彼処で囁かせたのだ。


“杉木立 時経ちたれば 立ち枯れる 枝葉(えだは)は落ちて (うろ)ばかりなり”


 ……などといった風聞は、実際には都では流れちゃいない。

 洛中に生きる人々にとって関東のことなど関心事じゃないのだから、当然だよね。でもそんなことは関東の人々には知り得ない事実なので、風聞は事実として関東に遍く流布された。

 風聞が流布されても両上杉氏は関東に長く根を張った巨人ゆえに、只今絶賛劣勢中でも号令をかければ多くの家臣共がワラワラと集るだろう。最大動員数は二万人か三万人か、無理すれば四万人以上だろうか。

 未だに数十万石を支配しているのだ。扇谷上杉氏の屋台骨を支える太田資正もいやがるし。山内上杉氏の大黒柱たる長野業正を誑か……訂正、仲良く出来ただけで万々歳としよう。

 その一方で、古河公方は事情が違った。

 直轄領はせいぜい古河城の周辺くらいの数万石、自前で用意出来る兵隊など数が知れている。但し古河公方の権威は未だに関東では絶大だ。檄を飛ばせば周辺の領主たちが兵を揃えて馳せ参じるのであるからして。

 当に腐っても鯛、筆を誤りまくっても弘法、ってヤツか?

 ノコノコと参集する周辺の領主、もう戦国大名と言い換えても問題のない奴らだが、どんなのがいるかと名を挙げればピンからキリまで揃っていた。

 常陸国の大半を領する佐竹氏と一部を領する小田氏。下野国の中部を大きく占める宇都宮氏と零細領主に成り下がった結城氏、実力者の佐野氏。下総国の太守、千葉氏。上総安房の二カ国を支配する里見氏。以上がピンの大物たち。

 下野国には那須氏を頭とする那須七騎、小山(おやま)氏。常陸国には鹿島神宮惣大行事職の鹿島氏、大掾(だいじょう)氏、江戸氏。武蔵国の成田氏、三田氏などなど。キリは数え上げれば際限ないので以下略。

 古河公方の権力とは彼らの武力の上に成り立っているのだから、彼らが武力を提供しなければ古河公方の権力は砂上の楼閣同然。砂山なら俺みたいな子供でも削ることが出来るに違いない。

 じゃあ削ろう。思い切り良く、ザックリと!


“草臥れし 古き皮など 如何にせん 捨てるに如かず 捨てるに如かず”


 ……などという風聞も実際には以下同文。

 囁かれた風聞を聞いたであろう関東の雄たちはどう思ったであろうか?


「兵庫頭の書状によりますると、関八州における古河の公方様の名利は然ほどでもありませなんだようでございまするな」

 髭の泡を懐紙で拭った伊勢は、どこか遠くを見つめながらポツリといった。

「可笑しな風聞が広まっていたことも然ることながら、佐竹右京大夫も千葉千葉介も宇都宮左衛門尉も古河の公方様には合力しなかった由。……鎌倉府の権勢も今は昔と為り申した」

「伊勢守は、鎌倉府の再興は難しと見るか?」

「容易ではござりませぬでしょう。古河城には御正室様との御子がおられますが、継室様の御子もおられるとのこと。

 御正室様は、河越で討ち取られた梁田河内守の娘。継室様は、河越で勝利した北条左京大夫の娘。したが何れも幼子であると聞き及んでおりまする、はてさて跡目相続は如何あいなりますのやら。そもそも、大樹が御認めになられまするや否やは……」

「御父上は……大樹は、鎌倉府の存続を御認めになられぬと?」

「さてそれは(それがし)にも確かなことは判り申さぬことにございまするが……」

 茶碗を両手で弄びながら、然れどと伊勢は溜息を漏らす。

「関東を蔑ろに致す根本を正そうとなされる御意思は、従前より承っておりまするゆえに」

「如何なる御意思なのだ?」

「“余がせずとも日ノ本のことは次が自侭にするであろう”と、申されておいででございました」

「……いつのことであるか?」

「昨年、年明けを言祝ぐ参賀の帰路でございましたな」

「……然様か」

 やったぜお墨付きをもらったぜ! などと手放しで喜ぶべきだろうか?

 むっつりと黙り込む俺を見る伊勢の目尻が下がり気味となる。

「若子様はお優しゅうございまするな」

 えっ、唐突に、どーゆーこと?

「お優しき心を持たれるは人として良きことにございまするが、為政者には無用にございまする。仁愛ならば別でございまするが、優しさは仁愛とは異なるものと思し召されませ。

 此度の武州における合戦で数多の者共が命を散らしました。古河の公方様も関東管領職様方も負けるはずがないと思っておられたに相違ございませんでしたでしょうが、武運拙きことと相成り申しました。

 ……詳しきは存じませぬが、関東一円の方々や者共の命運に和子様の為しようが大きく関わっていたことは先ず間違いないでしょう。

 然れど因果で申さば、和子様の謀は因果の大元には非ず。因は方々や者共の来し方にあり、果は彼らの意が産み出したものでしかございませぬ。

 北条が覇の道を切り開いたのも、鎌倉府に連なる者共が栄華の道を閉ざしたのも、関東の古強者共が御家を保ち得たのも、全て各々の意が決定致したものにて候。

 若子様が“方々滅ぶべし”と思し召されたとて、それが叶うかどうかは定かではございますまい。関東諸家の隆盛も衰微も若子様の責ではございますまい。若子様は未だ身分不確かでございますゆえに。然れど……」

「然れど?」

「将軍家の一員として確と命じられましたのならば、責を負うてもらわねばなりませぬ」

「然様……よな」

「将軍家の為されまする(まつりごと)は朝廷が扱われる(まつりごと)とは大いに異なりまする。

 帝が為される(まつりごと)は天の意を承る行いにございまするが、将軍家が為される(まつりごと)は地に諮り他を謀る行いにて候。

 諮りと謀りの(まつりごと)なるは、屍と血涙の山河を踏み分けねばならぬ所業に候。刀槍にて手にした天下なれば当然のことと存じまする。

 例え幼子であろうと天下様と御成り遊ばされれば、発する御言葉は臣下の命運を縛り、百姓ら下々の生死を左右致すことと相成り申す。御自身は小事と思し召されても事大となりまする。

 (まつりごと)は児戯に非ず。優しさとは甘えであり逃げであり、判断を過てる源にて候。努々放逸なされませぬように」

 深々と平伏した伊勢は静かに東求堂を退出して行った。


“何卒、御覚悟を定められませ”と言い残して。

 やっぱ人間、休まないとダメですね。

 今日は一ヶ月ぶりの全休日でありました。

 貧乏暇なし、金もなし、せめて欲しいな、アイディアは。

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