『 上杉ていた男 』(天文十五年、夏)
伊勢氏の系図を作成しようと思いましたが、伊勢新九郎盛時が伊勢氏系譜の何処に入るのか、諸説あり過ぎて断念致しました。
そんな事をしていたので、更新が遅れました。誠に申し訳なく候(平身低頭)。
河越城の表記が川越城となっておりました。他にも色々とございました。誤字指摘をなさって下さいました方々に感謝を(平身低頭)。いや、失態失態反省反省。反省の結果、加筆修正も致しました。(2019.04.06)
曾我兵庫助の記述を除外致しました。曾我兵庫助は扇谷上杉氏の家臣ですので。当方の事実誤認でした。併せて武家官位を追記致しました(2019.05.19)
山内上杉氏の当主、憲政は屈辱に塗れた日以来ずっとイライラしっ放しであった。
憲政の認識からすれば今回の出来事は些細な行き違いなどではなく、自分勝手な家臣共が不心得を起こした、という思いなのだ。ならばイライラしていて当然だろう。忖度されても斟酌しない、それが関東随一の名家の貴人としての認識であった。
関東武士は須らく関東管領の威に靡き、意を押し頂いて然るべしであるのに、憲政の許しも得ることなく陣を引き払ってしまった上野国の国人衆たち。尤も請われたとしても、許可するはずなどなかったが。
ひとりひとりの名を挙げれば、次の通り。
安中城主安中越前守重繁、松山城主大石源左衛門尉定久、国峯城主小幡尾張守憲重、木部城主木部駿河守範虎、御嶽城主九里采女正、倉賀野城主倉賀野三河守行政、岩下城主斎藤孫三郎憲次、高山館主高山遠江守満重、白井城主長尾左衛門尉憲景、厩橋城主長野左衛門太夫方業、箕輪城主長野信濃守業正、丹生城主新田主水正景純、沼田城主沼田勘解由左衛門尉顕泰、天神山城主藤田左衛門佐重利、金山城主横瀬信濃守成繁。
誰も彼もが立派な肩書きを名乗っているがそのほとんどは僭称の武家官位である。正式の官位ならば朝廷が発給するもの一つしかないが、武家官位は朝廷の関知しない個人的に名乗るものなので全国各地に乱立していた。
とはいえ、ある程度の地位と威風が備わった者がそれらしく名乗らなければ、失笑の的となるのではあるが。
そんな厳しい僭称官位を持つ国人衆の中で、憲政が最も許し難く思うのは左衛門太夫と信濃守の二人、大石定久と長野業正である。大石氏は武蔵国守護代に任じられている代々の重臣で、業正は“上州の黄斑(=虎)”と渾名される猛将だからだ。
関東管領という金看板が汚泥に塗れる羽目になったのは、両者が反意を示したからである。両者に同心した者たちも皆、憎悪の対象となっていた。
“おのれ、許すまじ。河越を落とさば次は箕輪ぞ。長野も大石も他の輩もきっと根切りにしてくれよう”
起居する僧たちを追い払い陣屋とすべく強制徴用した小寺の本堂にて、浴びるように酒をあおり続ける憲政。酔えども酔えども腹立たしさは治まらず、相伴する高田城主高田兵庫助遠春や赤石城主那波刑部大輔宗俊も、お通夜の列席者のように押し黙ったままで俯いていた。
“悔しや!”と憲政が吼え、素焼きの杯を床に叩きつける度に、座の空気は濁った沼のようにより気まずいものとなる。
業正たちが去ったことで河越城包囲網には大きな穴が出来てしまった。穴を塞ぐべく攻城軍の首脳たちが大慌てで陣替えを行ったのは、四日前のこと。古河公方足利晴氏の御前にて、扇谷上杉朝定や主だった者共との打ち合わせは半日に及んだ。
“そこもとの手勢の陣と余の手勢の陣を入れ替えようと思うが、如何であろうか? 今の兵部少輔(=憲政)の人数では西を固めるは厳しかろう?”
“然様然様、御所様(=古河公方足利晴氏)の申される通りにて”
百戦錬磨とは程遠いものの戦場経験だけは無駄に豊富な晴氏の言いようは、案ずるようにも聞こえ嘲るようにも聞こえる。晴氏の半分ほどの人生しか生きておらぬ、若造と呼ばれても仕方がない二十代前半の扇谷上杉朝定が阿諛追従の見本のような相槌を打つ。
親世代であるのと上位権力者であること。憲政にとって晴氏とは孝と忠を尽くすべき存在ではあるが、敬愛すべき存在ではない。何故ならば、数年前まで上杉氏にとっては不倶戴天の仇敵といえる北条氏と同盟を結んだだけではなく、あろうことか上杉氏一族が占有すべき家職である関東管領の肩書きを、北条氏綱に与えた男でもあったのである。
古河公方の威信が斜陽化した直近の理由は、小弓公方を名乗った叔父の足利義明が強大な対立勢力となったことだった。己の存在理由を脅かす小弓公方に抗するためには、形振り構ってなどいられなかったのだろう。
その証拠に、北条氏が氏綱から氏康に代替わりした途端、掌返しで敵対するようになったのだから。
禁じ手さえも一時凌ぎの手段として実行することを厭わぬ男、それが晴氏である。有利不利で北朝と南朝を使い分けた尊氏の末裔らしい振る舞いだった。
主従関係が明確に成りつつあった室町末期の最終ランナーの一人である真田昌幸は“表裏比興”と評されたが、今時分であれば真田昌幸の為しようなど常識の範囲内、問題行動だと指摘するのもバカらしい程度である。
仏の嘘を方便といい武士の嘘を軍略というとか。風の吹き方に合わせて旗幟が変わるように、その時々で軍略も方針も変更しなきゃ生き残れないのが、室町時代の現実なのだからさ。
とはいえ、弱肉強食上等の今でも一定のルールはある。憲政の立ち位置からすると、晴氏はやってはいけないことも平気で行うし、ルール違反も一顧だにせぬ男だ。それこそルールを勝手に書き換えてしまうような信用するに値せぬ不審者であった。
信用するに能わずといえば同じ上杉氏の朝定も一緒だ。同じ一族ではあれど数十年に亘り憎悪をぶつけ合い、鎬を削りながら殺し合いをしてきたライバルである。北条氏が不倶戴天の仇敵ならば、扇谷上杉氏は関東管領という唯一無二の金看板を奪い合う最大の目の敵だ。
仇敵を倒すため、不審者や目の敵などと共闘する。呉越同舟もここに極まれりといった状況が憲政の苛立ちに拍車をかけていた。
膳を蹴散らしてやおら立ち上がった憲政は、ふらふらした足取りで本堂の縁に独り立つ。夕方に振り出した雨は既に上がっているが、空を厚く覆う雲の所為で月はおろか星の一つさえ見えやしない。
憲政が眦を吊り上げて睨む闇の彼方に、河越城がある。野っ原に建つ然したる規模ではない、ありきたりな造りの平城が。氏綱が僅かな手勢で朝定から奪い取った、扇谷上杉氏の居城が。
不意にどこかからか喚き声が聞こえた。
夜半の湿り気を帯びた空気が突如ざわつき出す。半年以上の長きに亘る陣中生活ともなれば、喧嘩沙汰などざらである。況してや血の気の多過ぎる東国武士や足軽たちの群れだ。諍いが起こらぬ方が不思議といえよう。
“また雑兵どもが騒いでおるのか!? 斯様な夜中に迷惑千万なり!”
酒臭い息を吐いた憲政の足下に、鎧姿も厳しい武士が駆け寄って来た。
“御注進仕りまする!”
“宮内少輔、何事であるかッ!?”
“恐れながら申し上げまする!”
宮内少輔と呼ばれた男、側近衆の中で最も豪傑である本庄宮内少輔実忠が片膝をついて吼えるような声を出す。
“夜襲にござりまする!”
“夜襲とな? ……河越の者共め、寡兵にも関わらず血迷うたか?”
“然に非ず”
立ち上がった本庄が、怪訝そうに泳ぐ憲政の目を強い眼差しで射抜く。
“小田原からの大兵によるものにござりまする!”
「“おにょれ、下郎推参なり!”」
ペラい上掛けを蹴飛ばして起き上がれば、正面壁際の棚の前にずらりと居並ぶ埴輪が無言で迎えてくれた。
……夢か。そりゃそうだよなぁ、はにゃあ……。
五月になってからは、関東から多羅尾の手の者が続々と書状を届けに来る。行数が長くなるにつれて、河越城での合戦にいたる経緯と合戦後のことが具体的となってきた。
変な夢を見たのは恐らくその所為だろう。……何で勝ち組の北条氏じゃなくて負け組の方の憲政だったのかは知らないけどさ。前世からの負け犬根性の為せる業か?
「お早うございまする」
少々の奇声や奇行では動じなくなった細川与一郎が戸を開け、すまし顔で平伏してやがる。東求堂は平常運転でありまして、余の朝は全てこともなしだよ、何だかね。
小用を済ませ顔を洗って歯を磨く。一汁三菜の質素で贅沢な朝食タイムが終われば、書類仕事のスタートだ。
山科に移転した山水河原者たちは順調に現地へ溶け込んでいるとのこと。土地の者たちは外部勢力により侵食されていることに気づきもせず、善阿弥とその仲間たちと仲良く近所づきあいをしてくれているみたいで、何より何より。
洛外のことなれば、他にも西岡の地を領する十六人衆たちも京洛の経済活動に以前よりも積極的に参画してくれている。小泉三郎兵衛、藤岡石見守、鶏冠井八郎次郎の三人が中心核となり、洛中で日々消費される穀物類の供給源となっていた。
流通分野でいえば、淀川中流域を領する鳥飼氏の活躍にも最敬礼だ。勿論、物流における最大のターミナル基地である巨椋池に睨みを効かす眞木嶋一党の働きにもである。
洛内に関しては旧来からの宗教勢力の助勢がなかったら、と思うとゾッとするなぁ、本当に。
一昨年の大水害後、洛中に溢れそうになった食うや食わずの貧民たちも、惟高妙安禅師を筆頭とする臨済宗寺院グループが撒き散らした公共事業交付金の御蔭で、食う物と住処を得て“貧”の一字を遠ざけることに成功。
浚渫と護岸工事が進捗した結果、賀茂川は暴れ川ではなくなりそうだし、掻き出された川砂利で覆われた洛中の大路は土埃とは無縁となった。
介護が必要な病人と末期の者は東山に運ばれ、施薬院と化した清水寺に収容されている。それを支えるのは、伊賀国から運ばれる安価な薬草だ。
養護が必要な高齢者や幼子を積極的に保護しているのは、洛中と堺の大商人たちの後援を受けている本能寺をはじめとした法華宗(=日蓮宗)の寺院グループである。悲田院というよりは巨大な老人ホーム兼孤児院だな。
大坂の四天王寺の門前は日本最大の牛市場があるが、そこで購入された和牛が頻繁に洛中へと運ばれ、洛南と洛北の空き地で放牧されている。今では公家社会で抹茶オレは常飲の一品となり、富裕層の町民も当たり前のように飲んでいた。
笹の葉茶“星合の雫”は身分の上下に関わらず洛中の住民の日常的な清涼飲料水として普及し、水瓶に溜めた飲用水を竹炭で浄化することも当たり前となり、最近では“生水飲むは都人に非ず”と揶揄されるくらいである。
元々、地下水が豊富な洛中は其処彼処に井戸が掘られているので、生水飲んで腹を壊す者など皆無であったけれど、洛外から流入する人口が右肩上がりの現状では、衛生観念を意図的に可視化しなければあっという間に疫病の巣となりかねない。
狭大夫配下の庭掃たち、鹿次郎支配の清目たちが洛中の清掃作業を徹底的に行ってくれているので、路上の汚物は直ぐになくなり、街路脇の水路も汚水で澱むこともない。死人が出れば藤林坊が率いる長吏たちが鳥辺野・化野・蓮台野の何れかへ即座に運び荼毘に付している。
平成の日本で最初の大震災が起こった時から矢鱈と言われ出した“自助互助公助”の六文字だが、平成の世では自助が大文字で公助は小文字だったよなぁ。思い返せば酷い話だよな、自助を強要するなんて。
平成の世であっても自助は厳しい。それじゃあ室町の世なら?
厳しいどころの話じゃない。しかし強要されずとも自助が当たり前に罷り通っているのが、今の時代である。自助出来ない者は死ぬだけだ。生き残れずに死ぬ方が悪い。いや、自助ではなく自力救済の方が適正かな?
自助の“助”は補助の“助”だ。不足を補うってことだ。だが今の人々に課せられているのは足りる足りないの次元を超えた、救済なのだ。生き抜くことが難しく、死に逝くことが容易過ぎるリアルワールドにおいて誰もが自力救済を求めればどうなるのか?
藁にすら縋る溺死寸前ならば、人は闇雲にありったけの力で生への渇望を表現する。渇望は容易く狂乱に変容し暴走を始めるだろう。
即ち“一揆”の発生だ。
洛中の住人として、一揆の発生だけはどうしても避けたい。徳政一揆だろうが土一揆だろうが集団による暴発は、破壊と荒廃をもたらす。プラス効果は欲求不満が一時的に解消されるだけで、問題解決とはならないし一件落着ともならない。
況してや、一向一揆などは最悪中の最悪だ。
では、どうしよう?
一揆の芽は、発芽する前に全て摘みとってしまうのが一番。ゴンベさんの畑を穿り返すカラスのように、せっせこせっせこと手当てをするのだ。自助が正しく作用するようにコントロールしてやれば良いのである。
……などと言うのはヤスシで、気軽にキヨシだ。
間違っても不満と困窮が急進的で激化し易い宗教勢力……一向宗と結びつかないようにしなくては。法華宗にも注意は必要だが、朝廷が発した禁教を解かれたばかりだし当分は大丈夫だろう。それに法華信者は金持ちが多いし無下には出来ないよな。
一向宗とて大水害で流出した五条橋の修築費用を出したりしているが、当てに出来ぬのは今更だものなぁ。門徒たちを完全掌握しているならまだしも、ねぇ?
それに比べれば絶大な信頼を無条件で寄せられるのは、幕府の統制から些かも逸脱しない臨済宗グループだ。今は全面に出ず出資者として様々な事業の後援をしてくれている。
換わりに京洛経済圏の最前線で活動してくれているのは、洛中の商人たちだ。戦乱と大水害からの復興で沸き立つ洛中に流入する外部からの人口は、当分止まりそうにない。
世情が混乱期に陥ると、不便な田舎よりも簡便な都会に人が集ろうとするのは今も昔も変わらない。食と職が常にあるのが都会だからだ。確かに都会は食と職が溢れている。しかしそれは有限であった。
無策のままにしておけば、どれだけ都会に供給力があろうともいつかは必ず需要が上回ってしまう。供給が途絶えれば勃発するのは暴動、つまり一揆だ。途絶える前に、乏しくなる前に手当てをしないと全てがパーとなる。
そんな訳で、これまで同様にこれからも禅師を筆頭とした有徳者には銭を滞らせぬように出資してもらいたいし、桔梗屋を含む商人たちには食と職を提供してもらわないとね。
幸い現状は、概ね良好である。洛中の新築改築ラッシュはまだまだ終わりそうもないし、洛外には幾らでもある空き地を開墾するのも当分は必要だ。
日本最大の消費地が消費地のままであれば、単なるブラックホールでしかない。消費することで何かを生み出さないと。生産しないといけないのは食料だけではない。工業製品の素材もだ。
桑、漆、藍など銭の元となる物は幾らでもある。特に養蚕を京洛近郊で活発化させるのは、今後を考えれば絶対に必要だろう。洛中以外でも需要のある物品を増やさなければ。巨椋池を内港に、堺を外港に、全国及び海外との交易にももっと積極的に……。
などと考えても、今の俺に出来ることは関係各所から送られて来る報告書に返信を書くだけだ。誠に大儀である、感謝申し上げる、更なる助力をお願い申し上げる、の繰り返し。
現代知識と照らし合わせて改善出来そうな点が思いつけば、チョコチョコっと書き散らすこともある。慌てず急がずと書くこともあれば、便利さ合理性を優先させて進捗を促すことも。シャベルやツルハシの落書きを添えたり、リュックのような頭陀袋を描いたりもした。
……こんなことなら、アイドルグループの自活番組や生産チート系のファンタジー小説を、もっと真面目に観たり読んだりしておくべきだったと悔やんだりすること頻りだよな、畜生め。せめて石鹸の製作法やくみ上げポンプの構造くらい覚えていれば……後悔先に立たず、全く頭の痛いことだな、全くもー!
頭が痛いといったら鉄砲についてもだ。
堺の助五郎からは、新しい仲間が加わった御蔭で鉄砲国産化計画は進捗著しいとのことだったが、量産化にはまだまだかかりそうだと伝えて来た。橘屋何とかってのが有益な人物だと良いのだが。津田何とかと芝辻何とかってのも。
またぞろ開発費が嵩むよなぁ、元より合点承知の助であることなのだけど、さ。
「若子様、伊勢守様がお越しになられました」
廊下で膝を折る三淵弥四郎の声に俺は生返事を返すと、書類が散らばった東求堂の後片付けをいつものように与一郎に任せる。与一郎と弥四郎の二人だけには隠しごとなく全てオープンにしていた。隠しようがないから、って理由でだけどね♪
与一郎に任せた書類は、概ね三つの山に大別される。送られて来た書状は保存箱に、情報を整理した文書は控えとして手文庫に、後は返書である。返書は多羅尾、山中、山岡、真田らの手の者によって各所へと即座に運ばれて行く算段だ。
大和国に大半が移住した真田氏も、興福寺の援助の下で再起を図る柳生氏と上手く連携しているようで安堵していた。どちらも潜在能力を活かしきれずに不遇を託った者同士、傷を舐めあうことなく二人三脚してくれれば何れ大成してくれることだろう。
……見捨てられないように、俺も励まないとなぁ。
旧来の余禄に胡坐を掻き続けていたら、史実の将軍家や現在の関東の旧権力のように無用の長物扱いされかねないものなぁ。
溜息をつく間もなく会所に到れば前回と同様、長野五郎と大胡武蔵守をアシスタントとして従えた伊勢伊勢守が座していた。先日の約束を守り、尻切れトンボだった前回の講義の残りを果すための来訪である。
流石は成分の半分が律儀で出来ている伊勢だな。一斉に頭を下げる近習たちの間を通って指定席に腰を下ろせば、挨拶もそこそこに本日の講義がスタート。
「伊勢守、本日も宜しく教授を頼む」
「畏まりまして候。然ればでござる、本日は関東管領職として東国秩序の要たる上杉氏につきましてお話し申し上げまする……」
上杉氏とは藤原北家の傍流として中級貴族だった藤原重房を祖とする家系である、と自称する家柄……今から三百年は前の話なので確かめようがないけどね。
丹波国上杉荘を領したことから上杉氏を名乗り、鎌倉幕府六代将軍となった宗尊親王に従い関東へ下向、都人から東夷へとクラスチェンジした成り下がり者だ。
そんな上杉重房は関東に根付くにあたり足利氏の被官となる。更に重房の娘だか妹だかが足利氏五代の側室となって六代目を生む。鎌倉時代の足利氏当主の正室は執権北条氏から娶ると決まっていたので、孫娘も同じく七代目の側室となった。
その後、孫娘は嘉元三年と徳治元年に二人の子を産む。それが尊氏と直義の兄弟だ。つまり、上杉氏の存在なくしては足利氏の天下獲りはなかったのである。
足利兄弟の伯父の上杉憲房は執権北条氏との合戦で数々の軍功を挙げ、上野守護に任じられた。だが南北朝の争いの最中、尊氏が九州落ちを図った京都四条河原の戦いで敢えなく討ち死にする。
当主を失い危機を迎えた上杉氏だったが、残された息子たちが奮闘したことで足利兄弟の信頼をガッチリと保持することに成功、もう安泰だと思った途端にライバルが登場。当に禍福は糾える縄の如し!
因みにライバルとは何を隠そう御存知、高師直とその一族だった。
長年に亘り足利氏を支えてきた忠実なる執事、高氏。その存在失くして足利本家は立ちいかないので、尊氏は師直に頼った。一方新興勢力の上杉氏は濃密な血縁関係を基として直義の勢力基盤に加わる。幕府内に二つの巨大派閥の誕生だ。
有能な軍事指揮官たる尊氏と優れた軍政官たる直義の仲が、意志の疎通が、連帯意識がキチンと働いていた時は良かったが、派閥が急速に肥大化するにつれトップ同士の間に吹く隙間風が暴風と化す。
それにしても、どうして足利兄弟は仲違いしてしまったのだろうか?
軍事と政治が密接不可分だったからだろうなぁ。
尊氏が軍事の一環として行った行為が政治の分野に抵触し、直義が政治的判断を下した内容が軍事の領分を侵した。そこで両者による話し合いが常に行われていれば問題は大事にはならなかったのかもしれない。
だがそうはならなかった。
なまじ二人が血を分けた兄弟だったのが災いしたとしか思えないのだ。尊氏は弟ならば譲ってくれるに違いないと甘え、直義は兄ならば理解してくれるだろうと自我を通した。派生する問題は山積みとなり、にっちもさっちもいかなくなる。
さぁ、観応の擾乱の始まりだ。
高師直一族が没落し、南朝残党が暗躍し、直義が死んで、多くの武将に様々なしこりを残したものの、分散しかけた権力は再び尊氏と義詮親子の将軍家の下に集約された。
やれめでたし一件落着。
三代義満からの治世は概ね平和、……にならないのが室町品質である。
嘉吉元年の六代義教暗殺事件、嘉吉三年の三種神器強奪事件、長禄元年の赤松遺臣たちによる後南朝襲撃事件、享徳三年に始まり三十余年も続いた関東の大乱、言わずもがなの応仁の大乱、享禄二年に始まり四年に終わる古河公方家と関東管領山内上杉家でそれぞれ起こった内訌。
主な事件以外では、幾度かの政変と数多くの御家騒動、数え切れぬほどの国人一揆と土一揆。北では長禄元年にアイヌが武装蜂起したし、南では確か尚氏による琉球統一戦争が終結したくらいかな。
まさに日本全国血みどろ音頭状態。一月は正月で敵を殺すぞ、殺す殺す殺すぞ、敵を殺すぞ、ってか?
開幕……訂正……幕府爆誕以来、殺と伐の二文字が乱舞しっ放しの室町の世。幕府の創業を助けた三管領と四職プラスアルファの大家名家は、並みいる敵を倒すことに馬車馬の如く東奔西走し、地位を向上させ領地を増やすことにも邁進した果てに、草臥れた者から蹴躓いていった。
三管領から畠山氏と斯波氏が脱落、四職も自壊する。生き残ったのは三管領の一角たる細川氏と、プラスアルファである今川氏と関東管領の上杉氏のみ。
畠山氏は遊佐氏がいなければ御家を保てず、斯波氏は織田氏頼みでどうにか命脈を繋ぐ始末。四職の赤松氏は分解寸前、一色氏は若狭国の武田氏に食い荒らされ、京極氏は六角氏の傀儡と化し、山名氏は尼子氏の攻勢に気息奄々。プラスアルファの土岐氏も斎藤氏の勃興で風前の灯である。
斯波氏の領地を蚕食した朝倉氏、九州探題職を強奪した大友氏、中央政界とも太いパイプを持ち続ける大内氏、地方で独立王国を築いた甲斐国武田氏、関東管領の子分である長尾氏も今では越後一国の領主だ。
名を挙げた武家は全て、応仁の大乱以前から存在する武家ばかりである。幾多の戦乱の中で持ち点を倍増させた武家もあれば、素寒貧となった武家もあった。
そんな何代も前から存続する武家とは一線を画すのが、応仁の大乱以降に持ち点ゼロを100点以上にまでした宗瑞を始祖とする北条氏であり、その過程で狙われたのが上杉氏だった。
室町幕府と共に成長を続けていた上杉氏は、細川氏と同様に周囲の敵を駆逐した途端に戦意を外から内へと向けてしまう。内ゲバ開始の笛が鳴るやいなや山内、犬懸、託間、扇谷に分裂し、関東管領職は上杉四家で持ち回りとなった。
やがて最初に託間が脱落し、禅秀こと上杉氏憲の暴発が不首尾となって犬懸が没落するや、上杉氏宗家の座と関東管領職獲得競争は山内と扇谷によるマッチレースとなる。熾烈なタイマン勝負のゴングが打ち鳴らされたと、お立会い。
……しかしバカだよねぇ上杉氏って。
分裂しなきゃ少なくとも後百年は強者でいられたのにさ。仲間割れしなきゃ上杉氏の持ち点は300点以上あっただろうに、戯けの田分けをしてしまったので持ち点は半減してしまった。源氏のマネして内ゲバなどせず、藤原氏の流れらしくしていれば……って、藤原氏もドロドロと内部抗争に明け暮れた一族だったっけ。……あっはっはっは、じゃあ仕方ないか……って笑えねぇなぁ全く。
関東管領職とは、鎌倉公方を補佐するために設けられた役職ではあったが、鎌倉公方を洛中の幕府が遠隔操作するための装置でもある。設置当初は正常に動いていたのに、バージョン更新した途端にぶっ壊れた不良品だったけどね。
感情の篭らぬ平坦な声で滔々と語り終えた伊勢の表情は、どこかのっぺりとしていた。
さて、講義の終わりは質疑応答の時間である。
立ち上がった俺が“質問者は挙手せよ”といった途端、近習たちが一斉に手を挙げた。適当に当てていくと、誰もが同じような疑問を抱いているようだ。
“どうして上杉氏は北条氏に負けたのか?”
河越城で行われた合戦の勝敗は、既に都雀の噂話として消化されているのだから当然といえば当然か。“上杉、滅亡したってよ”という否定と肯定の狭間的な内容なのが実に微妙な話だけど。
さて、伊勢は近習たちの疑問に如何に答えるのかな?
「天運……いや天の御意志が介在したのやも知れませぬな」
そう諧謔じみた言葉を発した伊勢の口元が意味ありげに歪む。
「そはつまり……御屋形様(=憲政)は天に見放されたということでござりまするか?」
かすれ声の五郎に対し、黙して顎を僅かに引く伊勢。
「盛者必滅は世の定め、でありましょうかな」
「……驕れる者は久しからず、ということか?」
五郎の座す反対側をちらりと見遣ってから俺に視線を向けた伊勢が、徐に口を開いた。
「天とは常に我らが仰ぎ見て戴くもの。そこに如何なる御意志があるやは下々たる某には確とは申せませぬ。……誠に畏れ多きことにて」
一拍の沈黙の後、伊勢は訥々と関東における北条氏の存在について語り出す。
些か前置きが長くなりまするが、といい差す伊勢の説明は言葉の通りに迂遠なものであった。
「ことの発端は、東海の太守たる今川氏第八代当主義忠公が若くして討たれ、残されたる嫡子が僅か六歳であったことにて候……」
義忠の死因は、応仁の大乱の末期の混乱にある。幕命を奉じて合戦していたのに、いつの間にか幕府に敵対する行動をしてしまったのだ。ちょっとした行き違いであったが、その代償が己の命と御家の命運だったのだから、運がないというか何というか。
死んだものは仕方がないが、仕方がないで済ませられないのが残された者たちである。
御家存続を危ぶんだ今川氏の家臣たちは激しく動揺してしまったのだよ、大変だぁ。……筒井氏を見習えよって思うが、中央近郊の国人と辺境未満地方の大大名とでは立場も状況もが違うか。似たようなものだと思うけどね。
そんな家中不穏の隙につけ込んで相続権を主張したのが義忠の従兄弟である、小鹿範満。母親は犬懸上杉氏の政憲の娘だ。またも絡んで来たよ上杉の名が。政憲は同盟を組んでいた山内上杉房顕の重臣である太田道灌と共に、範満の後ろ盾となる。
そんな暗雲漂う駿河国に颯爽と登場したのが、後の宗瑞こと伊勢新九郎盛時だった。
幕府奉公衆の一員という肩書きは田舎の武家社会においては実に煌びやかなものであり、義忠の妻にして龍王丸の母である北川殿の弟という立場は今川氏の重臣たちに信用性を与える。
奉公衆の肩書きのままでの下向は、幕府が関東管領の影響力が東海にまで及ぶことを懸念したのかもしれない、とは伊勢の解釈であるが……恐らく正解だろうな。
中央政界の威光と意向を背負って今川氏の内訌に介入した盛時は、現地で兵を起こして範満を討つ。こうして龍王丸は無事に元服し、氏親と名乗りを改めた後に今川氏第九代となった。
叔父として氏親を支えつつ駿河国の東端で上杉氏に対峙し続ける盛時は、地歩を固めながら少しずつ広大な関東に領地を広げ、堀越公方の権勢を駆逐しつつ権益を吸収する。堀越公方の討伐も御意志やもしれませぬ、と歯切れの悪い伊勢の言い方にざわつく室内。
……どうやら、冒頭の“天”とやらの正体見たり枯れ尾花、って感じになってきたな。伊勢も敢えて隠そうとしてないし。天の御意志は“花の御所”より発せられるのだ。
顔色の悪い五郎と平静な大胡武蔵守の胸中は、如何ばかりだろうか。薄々気づいていたには違いないが、いざ事実として突きつけられると、ねぇ?
戦上手の盛時は各地を転戦としながらも伊豆・相模の二ヶ国の切り取りに成功。更に武蔵国へと思ったところで、残念ながら稀代の英雄にも寿命が訪れる。
さようなら盛時。そして、こんにちは氏綱。
後事を託された二代目は消極策をとらず積極拡大策による守成を果す。その手始めとして行ったのは、関東のジモピーには馴染みのない苗字を、関東武士生え抜きの代表格にチェンジしたことだった。
苗字を変える、ってのは一族にとっては大いなる決断であっただろう。結構なハイリスクチャレンジだといっても過言じゃない。だがその決断はハイリターンをもたらした。
都からの余所者が関東に根づく宣誓であるのと同時に、関東武士たちの総帥であった家系の継承宣言である。しかも僭称ではなく、有資格者が正式な手続きで以っての行為だったのだから吃驚だよね。
実は伊勢の血筋を含む伊勢氏とは、平高望を祖とする高望流桓武平氏の末裔で、家系図を書き起こせば清盛を生んだ伊勢平氏も身内だった。そして高望王直系に連なるのが、鎌倉時代の支配者である執権北条氏だ。
実に摩訶不思議は、血脈なり。
つまり伊勢氏綱が北条氏綱となるのは、断絶した本家筋の跡目を分家が相続するといった塩梅となるのである。しかも氏綱の正室である養珠院殿さんの実家、横江氏は北条氏の庶流なのだとか。
傍流の末と本流の末尾が結びついたのだから、北条氏の家名を相続するのに問題などない。その証として両方の血を引く嫡男、新九郎氏康も生まれた。
執権北条氏とイコールだった鎌倉幕府を倒すことで成立した、室町幕府の将軍様。その子孫は、北条氏が復活するのを如何に思ったのだろう?
その子孫とは……トンチキ親父なのだよ、これが。しかもたった十二歳の子供将軍様だ。感慨などなかっただろう。
大体にしてトンチキ親父の少年時代は、高国と六郎の野郎とが近畿を舞台に激突を繰り広げていた、細川氏内紛盛んなりし時期だ。遥か東国の田舎大名の一大決心などに気を回せる暇などないよなぁ。
恐らく、将軍家は無関心を装ったに違いない。
だが、政所は違った。正確に言えば政所執事には最重要の関心事であったのだ。それは当然だろう同じ血脈の間柄、当に身内の問題なのだもの。
伊勢は細川氏の内紛で荒れる状況を余所に、氏綱の改名及び北条氏継承の申請を朝廷に送り、抜かりなく根回しもしたようだ。御蔭で氏綱は朝廷からのお墨付きを得ての改姓に成功、恙なく補任も得た。
こんにちは北条、今日から君は従五位下左京大夫さ。
尚、左京大夫って官位は執権北条氏の当主だった者に与えられた官位の一つだ。朝廷が認可したことで、関東に根を張った伊勢氏はこれで“他国の逆徒”などではなく、正当なる関東武士になったのである。
さぁそして、氏綱の積極拡大策の第二弾は鶴岡八幡宮の再建というこれまたド派手なものだった。今から六年前のことである。
これまた発端は迂遠なもので、鶴岡八幡宮若宮別当職にあった古河公方二代足利政氏の息子が永正十四年に独立したことである。今から約三十年前の話だ。
兄である高基があろうことか父と争ったことを不服とし、別当職を投げ捨て“我も公方なり”と宣言しちゃったのだ。
所謂、小弓公方の誕生である。さぁさぁ、ややこしやぁ、の始まりだ。
一々説明するのが難しいくらいに難儀な関東情勢。小弓とは、古河や堀越と同じく地名である。足利氏に連なる者が“公方だがね”と宣言し、居住地をここにする、って定めた途端に誕生するあやふやな身分だった。
あくまでも幕府が認定している公称は“鎌倉公方”だけで、古河も堀越も小弓も非認定な肩書である。ぶっちゃけていえば“さっさと鎌倉に移住しやがれ、然すれば認めてやろう”だ。
中央にいると地方で起こった事件やら合戦やらのあらましが逐次、文書で申し伝えられて来る。但しそれは、当事者が自分の正当性を一方的に主張するためだけの内容なので、当事者や関係者の人数が増えれば主張する内容も増え、真実が何かが判らなくなることが頻発するのだ。
主張する内容が、大本営発表的だったりフェイクニュースだったりするのだから、もうてんやわんやのわやくちゃである。
だから結城氏が主役となった合戦も、現場を知らぬ中央政界の者が文書だけで判断すれば、“田舎の名族が頑張ったのか、大変だったね、御疲れ様”程度にしか思えないのだ。所詮はド田舎の出来事、中央政界に影響が波及しない限りは、“へー”と“ほー”以外にいうべき言葉がなかったりする。
さて江戸湾周辺から房総半島一帯を舞台とした騒乱の主な登場人物は、小弓公方と真里谷武田氏と安房里見氏と北条氏だ。
伊勢が持参し閲覧させてくれた政所が保管する一連の書状を見るにつけ、誰と誰が同盟を組み、誰と誰が争ったのかは今一つ理解出来なかったよ。……判ったのは、里見氏が北条氏を攻めるにあたり、鶴岡八幡宮で略奪を行い、社殿を焼いてしまったということだ。
平重衡や松永久秀が東大寺を焼いたとか、六代義教や信長が比叡山を焼いたとかで後々まで大悪人扱いされているが、武家の社会に限っていえば里見氏の所業の方が余ほど悪辣で罰当たりである。因みに久秀に関しては濡れ衣だけどな。
日ノ本の武家の中核で本流たる源氏が崇拝し、本邦初の武家の棟梁たる源頼朝が築き上げた武家の都の精神的支柱である鶴岡八幡宮を焼き払うとは、言語道断!
何が仁義礼智忠信孝悌の八つの珠だ、どの面下げて“星よ導き給え”だ、この野郎! 里見氏なんざ、犬に食われて滅んでしまえ! などといったら言い過ぎかな?
とにもかくにも、社殿は灰燼に帰した。鎌倉公方と関東管領が確りとしていれば、起こらなかった事件であるのは確かだろう。つまり関東秩序を維持する者たちに、旧権力の烙印が押された大事件でもあったのだ。
そんなダメダメ野郎の旧権力の代わりに、焼け落ちた鶴岡八幡宮の再建案を企画実行したのが新興勢力の北条氏なのである。
つまり氏綱の為したことは、武都たる鎌倉を守護する者は小弓公方でも古河公方でも関東管領でもない、という意思表明でもあったのだ。これからの関東の秩序は、北条氏主導で行う、って宣言だと言い換えても良い。
そう言われた方はどう受け止めたのだろうか?
若き関東管領にして上杉氏当主の座に誇りを持つ憲政には、存在意義をかけた最終戦争の宣戦布告だと受け止めるだろうなぁ、きっと。
江戸城に続けて河越城と、二度も居城を奪われたのは至近のライバルの失策であるから手放しで喜ぶべきことだろうが、同族の汚点は一族の長としては見逃せぬ過失だ。北条氏という外敵の台頭に、伝統ある名家としては立ち向かわざるを得ないのが憲政の立場である。
北条氏の存在を許諾するとは自己否定と同義なのだ、武器を手にして当然だよな。己の開墾した畑へ襲い来るイノシシを放置出来る農家など、いるはずがないのだもの。
もし俺が上杉憲政に生まれ変わっていたらどうするだろう?
土下座外交に徹して宥和以上の宥和政策を採るべきか。誇りも外聞も捨て去れれば、そうするだろうな。だって、死にたくないし。でも、命惜しさに然様な策が採れるだろうか、本当に?
……無理かもしれない。許してくれ、といっても上杉氏重代の家臣団が許さないだろう。それにこっちの申し出を北条氏側が許容してくれるだろうか?
……やはり無理っぽいよな。では仕方がない。宜しい戦争だ、徹底的に殺し合うとしよう。勝敗はどちらかが死ぬまでだ。決戦場は河越城でいいだろう。敵は西にあり、だ!
俺であろうとなかろうと、憲政の辿る運命は史実と何ら変わらないに違いない。
だって憲政って男は、上杉氏の栄光を守り続けることが天に与えられた使命だと思い込んだ果てに拗らせてしまった野郎なのだから。絶対にそうだ、間違いない!
何故断言出来るかと問われたら、俺は自信を持って次のように答えるだろう。憲政の生き様は足利義輝とそっくりだからだ、と。
だから判るのだよ、判ってしまうのだよ、判りたくなかったよ、畜生めが!
発表された新元号は「令和」でした。
意味どおり「気高く美しく和やかな」日々となりますように、と願うばかり。
良い意味の字の組み合わせだと、「嘉吉」「永禄」も字面だけは良いのですけどねぇ?(苦笑)