『 鎌倉族の兄弟 』(天文十五年、夏)
一ヶ月以上もお待たせ致しまして、誠に申し訳ございませんでした。
法務繁多であったのもさることながら、書き出しに失敗して何だか判らぬ文章になったのを手直しするのに時間がかかり過ぎてしまいました。御免なさいです(平身低頭)。
誤字誤表記を訂正致しました。系図も訂正致しました。御指摘御報告下さいました方々に感謝を!(2019.03.17)
赤堀上野介を赤堀親綱に変更しました(2019.03.18、参照hp/http://takatoshi24.blogspot.com/2010/11/blog-post_13.html)。
洛中でアレやコレやと毎日のように楽しく過した覚慶が、花の都の日常を満喫し倒した真田一党とを連れて興福寺へと戻ったのが昨日のこと。幼い頃に生き別れになり……といったら語弊になるが事実でもある、数年ぶりに旧交を温め直したら沸点近くまで暖め過ぎた感もあるが、まぁいいだろう。
覚慶とは不仲になるよりはワイヤーよりも強靭な紐帯を結び続けたいのだからさ。
同じように今後も仲良くしたいと思ったりそうじゃなかったりの、卜伝とかいう物騒な爺と国主の嫡子である剣術ラブの熱血漢のコンビが、柳生新左衛門を伴い伊勢国へと漸く旅立ってくれたのは三日前のこと。
ああ、疲れた、草臥れた、やれ有り難や、ホッとした。もうこれ以上、無駄に殺気や暑苦しい熱意を浴びたくないし。お目付け役の胤栄よ木造よ、確実に連れて帰れよ、頼んだぞ!
思い返してもパワハラがマシマシの接待漬けにも似た日々が過ぎ、やっと戻った平々凡々な毎日。さぁ平常運転を満喫するぞと思った矢先、その一報が届けられた。
明日で四月が終わる日のことである。
“去る卯月二十日、武蔵国川越にて大戦あり。古河の公方様並びに扇谷上杉家御当主修理大夫公御討死の由。関東管領山内上杉家御当主兵部少輔公、行方知れずにて候。”
届けられたその一報は、“花の御所”にも政所にも激震をもたらしたのだそうな。
手紙の発信者は、伊勢兵庫頭貞良。政所執事、伊勢守貞孝の息子にして交渉団の副団長を務める新進気鋭の青年官僚である。正確には、派遣団の依頼主たる無人斎道有こと武田信虎や、団長の道増伯父さんという、我侭と自分勝手の権化たちの小傅役だ。
二人とも本当に出家者なのか、と疑いたくなる人物だから兵庫頭はさぞや苦労したことだろう。
今川氏と北条氏との駿河国河東郡を巡る領土紛争の解決を期待された道増伯父さんたちは無事に任務を達成し、現在は帰途に着いている。主目的を果し東海地域の現状を余すことなく具に検分した一行は、今は美濃国にいるのだそうな。
一行といっても全員ではない。
俺が指名し派遣した者たちの中で、河田兄弟の兄の九郎太郎は中村孫作と共に上野国の長野氏の居城に腰を落ち着けたままだし、弟の九郎次郎と多羅尾助四郎は相模国の小田原城に居候中だ。
帰宅者リストに名を連ねているのは、兵庫頭の他は山口甚助と速水兵右衛門と藤堂虎高の三名だけである。ああ勿論、武田信虎は今川義元の邸宅にリリースしたので安全対策もバッチリさ。
安全対策といえば助四郎に付き従った多羅尾氏に属する地侍たち、甲賀忍者たちといってもいいが、その約半数が北条氏配下の忍者グループの協力を仰ぎながら関東各地に埋伏中なのだとか。先月届いた助四郎からの手紙にそう書いてあった。
そうするように命じたのは俺だけど、道中の安全は保てるのかと不安になったが、減った人数分は北条氏の忍者が補填してくれるのだそうな。それはそれは、良かったのか良くなかったのか、何とも微妙な話だな。
因みに甲賀忍者の埋伏先は主に上野国と常陸国。本当は甲信越三ヶ国にも派遣したいが、武田氏や長尾氏の忍者軍団と無用な衝突を起こしかねないし。その点、上杉氏や佐竹氏には大した諜報組織がないので安心だもの。何事も安全第一だよ。
さてさて話を戻そう。
助四郎が配下に託した情報が美濃国滞在中の兵庫頭に届き、情報の重大さに瞠目した兵庫頭が慌てて送って寄越した関東での一大事。
息子からの手紙を受け取った伊勢は即座に“花の御所”へ参じ、トンチキ親父に“由々しきこと出来にて候”と御注進に及ぶ。額に噴出す汗を拭うことも出来ず、ただただ身を屈めていたとは本人談だ。
苗字を改めたとはいえ北条氏は伊勢の一族に連なる者。それが将軍家の親族たる古河公方と公儀の地方組織の長たる関東管領を務める名家に刃向かい、あまつさえ命を奪ったのだ。一族の長としても公儀官僚機構の長としても、大失態であると責められ、責任を問われても仕方のない事態である。
良くて謹慎蟄居、悪くて切腹、最悪なら御家断絶を申付けられかねぬと観念しながら沙汰を待つ伊勢に対し、トンチキ親父が申したのは意外な台詞だったそうな。
発っせられたのは“是非もなし”の、たった五文字。
実に冷めた平坦なお言葉でありました、と伊勢は少し放心した様子で語ったのである。まるで信長みたいな台詞をどの面でいったかは知らないが、多分無表情だったのだろうなぁ。
「未だ生きた心地がせぬ思いでござりまするが……」
いつもは冷静を絵に描いて表装し床の間に飾ったような雰囲気を崩さない伊勢が、背を丸めて語尾を震わせる姿に、俺は驚きを隠せずにいた。
“花の御所”を退出した伊勢は一目散に慈照寺まで駆けて来たようで、息は荒く襟元は乱れ烏帽子は拠れていた。これが妙齢の女性ならば興奮間違いなしだが、秀麗とはいえオッサンだから見苦しいことこの上ない。
気を落ち着かせるために人目の多い会所ではなく泉殿へと案内し、細川与一郎が立てた茶を振舞う。
北条氏に関しては俺が主犯で伊勢は従犯の立場だから、本来ならば伊勢よりも俺の方が取り乱すのが筋なのだろうが、生憎だけど俺は室町時代四年生だ。まだまだこの時代の感性よりも現代の感覚の方が勝っている。
現代の感覚でいえば、旧来の秩序が覆される下剋上とやらが彼方此方で芽吹き出した頃である。世はまさに戦国乱世、といった花が満開となるには些か早いけれど、既に戦国時代スタートの笛は吹き鳴らされていると思うのだ。
況してや、川越の合戦で北条氏が大勝する事実は戦国好きにとっては周知の事実。何をそんなに驚いているのか、ピンとこないでいた。しかも、川越の合戦は戦国三大奇襲戦の一つに数えられてはいるものの、桶狭間や厳島に比べればネームバリュー的にはマイナーな戦いである。
記憶を漁っても確か……八万の軍勢を一万くらいで討ち破った程度のデータしか出てこないや。
「世子様が落ち着き払っておられまするのが、某には不思議でなりませぬ」
衣装を整えいつもの雰囲気を取り戻した伊勢が、干した茶碗を与一郎へ渡しながら呆れたように首を左右に振る。
いやいや、そういうけどさ。例えば東京都が巨大な雲に覆われて音信不通になったとか、巨大な未確認生物が上陸して大暴れしているとかなら、京都府在住の人間にも大事だけどさ。川越での戦だなんて、たかがド田舎のローカル戦じゃないか。
赤坂の名門ホテルが取り壊されましたと大々的に伝える、東京発のニュースを観るような感慨しかないよ、正直いってさ。
敢えていわせてもらうなら、だから何だよ、って気分しかないぞ。
といった具合に安閑としているのは俺だけのようで、与一郎も三淵弥四郎も一色七郎も荒川勝兵衛も大館十郎も、三淵伊賀守晴員も、室内に侍る近習たちと傅役の全員が伊勢と同じように深刻な表情をしていた。
特に長野五郎などは今にも死にそうな顔色になっている。
ふむふむ、どうやら俺と彼らとの間にはアフリカ大地溝帯かマリアナ海溝くらいの、広くて根深い認識のギャップがあるようだ。是正するには如何にすべきだろうか?
「悠長になされていては困りまするぞ」
暖簾に腕押しチックな俺の態度に、伊勢の語気がやや強くなる。
ううむ、このままではボンクラ世子の烙印を押されてしまいそうだ。仕方がない。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とか何とかだ。恥を忍んで教えを乞うとしよう。ズーっと知ったかぶりをしているのも何だしな。
「余には未だ知らぬこと、理解し得ぬことが多々ある故に教示を願うのであるが」
勿体ぶって、一息入れる俺の悪いクセも発動させて、と。
「今更ながらに訊ねるが……そもそも“古河の公方”とは、何者であるのか?」
「……!」
思い切って尋ねてみたら伊勢が絶句してしまったよ、あっはっはっは、こいつは傑作だ。豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔とはまさに今の顔をいうのだろうなぁ。伊勢だけではなく三淵も、近習たちも呆れ顔に近い表情をしていた。
「案ずるな、余も阿呆ではない。等持院殿様(=足利尊氏)が二代様にすべく宝筐院殿様(=足利義詮)を洛中へと呼び戻された際、代わりに下向あそばされた瑞泉寺様(=足利基氏)が御初代となられ開かれたのが、鎌倉公方府であろう。
そのくらいは余も知っておる。……その方らも存じておろうが?」
ぐるりと首を巡らせれば、七郎と勝兵衛と十郎の三人がスッと目を逸らしやがった。おいっ!? 手前ぇら、そんなことも知らなかったのかっ!? それでよくも俺のことを阿呆な子扱いしやがったな?
「等持院殿様と宝筐院殿様が定められたは、鎌倉の公方府である。然れど仄聞するに“鎌倉公方”は鎌倉におらぬとか。しかも呼び名が鎌倉ではなく“古河の公方”であるという。さてさてこれは如何なることや、誰ぞ教えてはくれぬものか?」
与一郎と弥四郎兄弟とその親が微かに首を傾げながら、肩を窄めるのを横目に問いかけた……何だ、何でもござれの三淵親子も俺と同じくらいの理解力か。
俺たちの知識レベルの乏しさに、伊勢が吐息を細く吐き出した。
「……然らば某が説明申し上げましょうほどに」
そんな具合で急遽、伊勢による講義が開催されることとなったのだけど、俺らだけで聴講するのも勿体ないので会所へ移動。近習たち全員にも聴講させることとした。
縁側に出て大きく手を叩く。はいはい、注目、全員集合、汗を拭ってさっさと集まれ皆の衆。
近習たちは、一ヵ月以上の長期休暇を無為に過しはしなかったようで一回りも二周りも大きくなって戻って来てくれた。俺は一寸たりとて成長していないけどな、ド畜生め!
……私情はさておき、ゾロゾロと移動する若者たちの中に壮年が二人。言わずと知れた吉岡憲法と大胡武蔵守だ。前に教えた“邏自緒体操”がよほど衝撃だったようで、最近はやたらとストレッチに意識がシフトしていたりする。
だけどさぁ、剣を両手で握り締めたまま頭上高く上段に構え一気呵成に振り下ろす運動、って何だよ。それは単なる示現流のチェストじゃねぇか?
まぁ指導に、屈伸だとかランニングだとかの時間を多めに割くようになったのは、改善だよなぁ。長い目で指導するしかないか。……やはり惟高妙安禅師に頼んで洗脳……意識改革をしてもらうとするか。
半刻後。
会所の上座に伊勢が腰を下ろし、俺を前列にして近習全員と三淵が対面して座る。伊勢の左右には長野五郎と大胡武蔵守がいた。今回の講習内容にはうってつけの副教官である。
それでは拝聴しよう、始めよう。
一般的に“公方”といったら将軍のことで、将軍とは常にひとりしかいないのが当たり前である。ところが室町幕府が開闢してからずーっと、公方と呼ばれる存在は常に二人いた。
西日本を統括する幕府の公方と、東日本を統べる公方の二人が。
何故、二人も公方が並び立っていたのだろうか?
それを理解するには幕府開闢時の状況を知らなきゃ無理だろう。
室町時代の幕開け、初代将軍となった足利尊氏は日ノ本六十余州を支配するに当たり、権力を一つに集約しようとしなかった。理由を挙げれば様々あれど一言でいえば、尚武の世が熟成し過ぎていたからではなかろうか?
言い換えれば、取り敢えず強くて頼りがいのある奴が一番偉い、だ。そして“取り敢えず”という但し書きがついているのが難題だったりする。
尊氏と直義の足利兄弟が鎌倉幕府打倒を志した時のライバルは、同じ源氏一門の新田氏であった。南北朝の争いの過程で漸くライバルを打倒した足利兄弟だったが、周りを見渡せばライバル予備軍と言うべき武田氏・今川氏・佐竹氏などが存在していることに気づく。
一応は天下一番の武家に成り果せた足利氏だったが、幕府を何処に開くかで兄弟の意見が分かれた。兄の尊氏は南朝勢力が虎視眈々と狙い続ける京都を離れられぬと言い、弟の直義は武家の都として名を馳せている鎌倉が良いと言う。どちらの意見も一長一短があった。
戴く北朝の帝がおわす京都を離れることも出来ず、かといってライバル予備軍が近隣に割拠する鎌倉を留守にも出来ない。ゆえに、尊氏と直義が京都に、尊氏嫡子の義詮が関東に配する折衷案が採用された。
その後いろいろあって義詮が京都へ召還され、直義が死に、尊氏の後継として義詮が二代将軍となった後、正式に鎌倉公方府が設置される。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐の十ヶ国を直接支配すると共に奥州を間接支配する、巨大な権益を所有した役所の誕生だ。
インフラが未整備で技術的にも拙い時代に中央政権が日ノ本全てをカバーするのは無理だったからこそ選択された、分割統治体制である。京都の公方の下には九州を統括する九州探題がおり、鎌倉公方の下には奥州を統括する奥州探題がいた。
室町時代の共同統治者的立場の鎌倉公方。しかし人事権は全て京都の公方が掌握している。その初代に任じられた尊氏四男の基氏は兄の義詮によく仕え、職務を全うしたのだけれど、ねぇ。
二代目以降は、京都の配下でいることを良しとせず対立し出したのには、もう笑うしかない。しかも後に、鎌倉公方家内部で跡継ぎ争いの内紛を起こして自滅への道を爆走したのは、笑うに笑えない話である。
源氏の血筋って、一致団結しさえすれば恐るべき力を発揮するのだが、一致団結するよりも内ゲバに終始するのが好きな血筋だからなぁ。
もしも鎌倉執権だった北条氏みたいに謀略で並みいるライバルを次々潰し、天皇家が糾合した勢力すら一蹴するだけの武威を見せつけていたら、足利将軍家による支配体制はもっと磐石だったろうに。
……北条氏は平氏の血筋だから出来たのであって、源氏の血筋では所詮無理かもな。源氏の血筋で自滅したり衰退したりしなかったのは、佐竹氏くらいじゃなかろうか。徳川氏は先祖不明の自称源氏で純血種とは言い難いし。
うむ、源氏の血筋に期待をするのは止めておこう。
さてそんな期待するだけ無駄だってのを体現したような御家である鎌倉公方家は、六代義教の発した命令で潰されてしまう。所謂、永享の乱だ。当事者と同時代の武家にとっては一大事だが、二十一世紀の受験生には覚える必要もない重大事案である。
何だかんだと反抗的だった代々の鎌倉公方。その理由は立場も血筋も将軍家に近過ぎた所為である。あわよくば己が室町将軍になれるのでは、なりたいな、なってやろうじゃねぇーか、などと企んでいたからだ。
特に四代目である持氏はその姿勢が顕著であった。それが六代義教の逆鱗に触れる。義教に動かされた朝廷は、遂に“治罰の綸旨”と“錦の御旗”を発してしまう。治罰の綸旨とは、朝敵認定の書状。朝敵とは即ち、国家の敵だと断罪する究極の絶交状だ。
こうして朝敵とされた持氏は、錦の御旗を掲げた官軍の攻撃を受けて自刃する。長男義久の自害に遅れること約四ヵ月の春であった。合掌、チーン。
そんな訳でこれにて鎌倉公方の歴史は一巻の終わりチャンチャン……とはならなかった。持氏の子供がまだまだ生き残っていたからだ。下総の名族結城氏に匿われた次男の春王丸と三男の安王丸が復権を求めて蜂起した世に名高い“結城合戦”が勃発する。
武門の誉れ高かき結城一族ではあったけれど、義教の派遣した大軍の圧力には抗し切れず僅か三年で合戦は終息。春王丸と安王丸は捕らえられて処刑、結城氏当主は嫡男共々討ち死にという結果であった、合掌。
然れど然れど、そんなことでは潰えないのが武家である。
名を残し、血脈を残してしぶとく生き続けるゴキブリ並のバイタリティなくして武家は武家ではありえない。
春王丸と安王丸と共に捕らえられた持氏遺児の四歳児がいた。何がしかの刑に処するために京都へと護送中、何とも稀有な幸運に恵まれる。義教暗殺事件、所謂“嘉吉の乱”の勃発だ。混乱する幕府を尻目に無事逃げ延びたのは四歳児。
強権発動と書いて義教と読む六代将軍が凶刃に倒れた後、威勢も発言力も低下した幕府は関東の武士たちが起こした鎌倉府再興運動に抗しきれず了承の回答を発する。そして再び鎌倉の地に舞い戻った幼子は、少年へと成長した後に見事五代鎌倉公方に成り果せる。足利成氏の誕生だ。
鎌倉公方の、いや武家のしぶとさってのは、強力な除草剤でも駆逐出来ぬ雑草みたいだね、全く。
幕府の承認を受けて鎌倉公方に就任した成氏だったが、曽祖父・祖父・父の事績に倣い幕府と対立する。しかも父と同じように治罰の綸旨を叩きつけられ、錦の御旗を掲げた軍勢と戦うのだ。
ただ曽祖父の氏満・祖父の満兼・父の持氏と違ったのは、鎌倉公方でありながら鎌倉の地に拘らなかったのである。そして先代たちや兄弟たちよりも合戦が上手であった。あるいは、成氏以外の五人が下手過ぎたのかもしれない。
鎌倉公方にとっては側近中の側近であるはずの関東管領とは先代からズーっと不仲で、開戦と休戦を繰り返す間柄であったが、ある日ある時ある場所で上杉憲忠を殺したことで再び決裂。
上杉氏との抗争は、またもや関東全域を巻き込むことになる。確か所謂“享徳の乱”、あるいは約三十年戦争の勃発だ。関東の静謐を維持するための鎌倉公方が、初代を除く全員が騒乱の発火点になり続けているって、凄いギャグだよなぁ。
そして戦いの最中、成氏は鎌倉の地を脱する。いや完全に捨て去った。何でだろう何でだろう?
一般的に鎌倉の地は険峻な丘陵に囲まれた海辺の地である。陸地の通路は七ヶ所の切通しと称される出入り口だけだ。守るに易く攻めるに難い地だと言われ続けている。
しかし実際には海に面した耕作に不向きな湿地帯で、湧き水のほとんどが塩水だという場所。本当は七つの切通しと海上を封鎖されでもしたら喉が干上がり餓えに苦しむ、篭城戦には不向きな場所なのだった。
成氏は現実が見えていたのだろう。だからこそ先人の失敗を糧とすべく、鎌倉を捨てて本拠地を古河へと移したに違いない。こうして鎌倉公方は、古河公方に変換された。
古河公方爆誕の四年後、関東情勢の正常化を目論んだ八代義政が異母兄の政知を新たな鎌倉公方に任じて下向させる。しかし望み叶わず鎌倉に入れず、伊豆国堀越を拠点とした。所謂、堀越公方の創設である。
こうして鎌倉公方は、古河公方と堀越公方に分裂し両立状態となってしまう。その異常事態の解決は、伊豆国に伊勢新九郎盛時こと後北条氏初代の宗瑞が登場するまでなされなかった。……解決方法は当然ながら刀と槍と弓矢だったけどね。
政知の長男の茶々丸が堀越公方二代目に就任した……って本人は言っていたらしいが、幕府は認めていないのでノーカウント。宗瑞に捕捉された茶々丸が自害したことで堀越公方が存在したのは実質一代のみとなる。
以上が、今からざっと約五十年前までに起こった話だ。何ともギャフンな約二百年だよ、全くね!
因みにトンチキ親父の父にして第十一代将軍だった義澄は、堀越公方政知の次男坊だったりするからややこしい。
ややこしいので後で図に描いておこう。それにしても流石は政所執事、幕府の内臓メモリーにしてお婆ちゃんの知恵袋たる伊勢だ。よくぞこれだけのことを覚えているよな。え、まだ語り切っていないのでお静かに? へいへい、御免やっしゃ。
それにしても昔の人は……いや現在進行形の人々はやたらと改名する奴が多いよなぁ。
うっかりしたら誰が誰だか判らなくなってしまうよ、全くもう。
そりゃまぁ確かに、戦国時代三大英傑でも成人後に改姓改名をしていないのは、織田信長だけだし、名前も苗字もコロコロ変わるのが大昔である今現在の常識だけど。
そんな信長でさえ系図を記せば、信広信行信包信興長益エトセトラエトセトラと兄弟だらけだ。信康秀康秀忠忠吉忠輝義直頼宣頼房などと子供だらけの徳川家康の系図も大概だよなぁ。両者に比べたら豊臣秀吉の系図はシンプル・イズ・ベスト。だから滅亡したのだが。
系図が複雑になればなるほど、家系は滅ばない。本家が絶えても分家という予備があれば、本家は相続されるのだから。ただ問題なのは、分家が本家の下であることに納得するかどうかだ。
鎌倉時代に武家が公家を凌駕してから数百年、世は当に武功と文治の実績がものをいう実力主義の時代である。分家の当主、年齢の近い弟が野心を抱けば、本家の当主であるとしても安穏とは過せやしない。信長や秀吉などが身内殺しをしているのは、危機感を覚えたからだろう。
例え身内が大丈夫だとしても、部下に反意をもたれてしまうこともある。未だ下剋上は盛んではないが、ブームになりそうな気配はあちこちで芽吹き出している。
しかし、長い歴史の中で培われた秩序をベースにした序列主義がなくなってしまった訳じゃない。老いて益々盛ん、という表現が的確かどうかは知らないが、新たな力が上昇気流を掴もうとする度に、強力な停滞前線みたいに存在感をみせていた。
宗瑞……ああ、そうそう。昭和では北条早雲って名前で一般的に流通していたけれど、実際の歴史に北条早雲なる人物は存在しない。非実在名称だ。実在したのは、伊勢新九郎盛時、もしくは出家号の早雲庵宗瑞である。
細川ガラシャが明智珠で洗礼名ガラシャってのと一緒だ。細川ガラシャは、この時代の日本が夫婦別姓であることを知らなかったイエズス会の早とちりらしいけど、北条早雲ってのは誰が言い出した誤表記だろうか、などと考えても答えは出ないのだから、この疑問は棚上げしましょう、そうしよう。
さてその宗瑞が、堀越公方にならんとしていた茶々丸を駆逐し伊豆国の制覇を成し遂げられたのは、十代義材の後押しが大きな要因であるのだそうな。堀越公方の嫡子という権威を凌駕する権威の後押しがなければ、中途半端な結果に終わっていたかもしれない。
伊豆国を完全掌握出来たからこそ、北条家は関東に戦国時代を呼び込むことに成功し、一躍歴史の表舞台の主役と成り果せたのだろう。しかしそれも序列主義による秩序の枠内で起こったことなのである。
戦国時代といったら群雄割拠のイメージだが、決して無秩序なバトルロワイヤル状態ではない。
フランス革命も法の下での無秩序だったし、中国の易姓革命も儒教や五行思想に基づく騒乱だった。
下剋上を容認する戦乱の時代とはいっても何でもありではなく、競技場で行われるルールに則った戦いなのである。では審判役を担当するのは誰だろう……世論かな?
京都から駿河国へ下向した宗瑞が今川家から与えられた興国寺城から始めた、北条氏による関東経略。その道程は決して平坦ではなかった。何故ならば、関東の者たちからすれば所詮は西からやって来た余所者だからだ。
そんな余所者である宗瑞が、姉の子が当主に収まった今川家と中央権力の力と威光を背景にして伊豆国を平定するのに要した時間は五年。次に狙いをつけたのは相模国であるが、これを平定するのには十九年を要している。
どうして、たかだか神奈川県の四分の三強ほどの面積しかない相模国の平定に十九年もかかったのだろう? 答えは、室町時代の秩序が障害となって立ちはだかったからである。
障害を具体的にいえば、関東管領の上杉家だ。
関東圏における戦国時代とは、北条氏と上杉氏の戦いだとイコールしても問題ないだろう。今から百年ほど前に始まった関東の戦国時代は、北条氏が上杉氏を含む大軍(=豊臣家の軍勢)に滅ぼされたことで終了するのだから。
いかんいかん、また先走ってしまった。時間を戻そう。
序でに話も戻して、お次は上杉氏と関東管領職について理解を深めなければ。どちらも中学校の歴史の授業じゃ学ばないけどね。だが室町時代を知る上では重要な一族と役職だったりするのだよ。
「御無礼仕りまする」
不意に外から発せられた声に振り向けば、本日の門衛兼取次役当番の和田伝右衛門が廊下で平伏していた。
「伊勢守様、政所よりお迎えの使者罷り越されまして候。執務滞りの由、急ぎ御出勤戴かれたしとの事にて」
眦と口髭の端が下がり、僅かに肩を落とす伊勢。
「誠に申し訳なく存じますが、本日はここまでと致したく候」
続きはまた後日に致したく、と苦笑いを浮かべて伊勢が去って行き、後には俺が書き留めた大量の覚書が残された。ふむ、次の講義までには整理して内容を覚えておかなければ。伊勢の失望した溜息を何度も聞きたくないしなぁ。
夜も寝ないで昼寝して、頑張るとするか!
「若子様、宜しゅうござりましょうや?」
髷が乱れるのも気にせず頭を掻き毟っていたら、再び伝右衛門の声が。何事かと振り返ると伝右衛門の傍らに小汚い姿の男が一人、身を縮込ませながら平伏していた。
「多羅尾の者にて候」
伝右衛門に紹介されるや更に背中が萎む。
「然様か」
軽く髪を整え廊下に出て、地べたに這い蹲る男の前に腰を落とした。俺の気配を察してか、旅塵に塗れた男は潰れたヒキガエルみたいな有様となる。恐縮を最大限に表現すればこうなるって見本みたいだな。
「助四郎の書状でも持参してくれたか。誠に遠路大儀であったな」
へへぇ、と言いながら男が差し出した書状を伝右衛門が受け取り、俺の元へ。おや、二通あるな。発信者は別々か。
「五郎よ」
「ははっ!」
「国許の親父殿より息子のそなたへ、だ」
素早く歩み寄って来た五郎は、受け取った書状を早速広げて読み始める。結婚式の祝辞で嫌がられないくらいの長さの書状を読み終えた五郎は、軽く巻き戻すや俺へ返そうと差し出す。
「読んで良いのか?」
「末尾に父が、必ず若子様に御披見戴くように、と認めておりますゆえに」
「然様か」
それなら遠慮なく読ませてもらおう……えー何々……えーっと、えーっと、えーーーっ!?
危うく書状を握り潰しそうになる。五郎を見れば暑くもないのに額にはびっしりと脂汗、目はまんまるに開かれ、口元はわなわなと震えている。恐らく俺も似たような状態に違いない。
五郎の父、長野業正が送って寄越した書状には、驚くべき内容が記されていた。
“上野半国、御屋形様と手切れにて候”
端的ながら余すことなく全てを内包した一行。どうやら業正を旗頭とする国人衆たちの多くが関東管領に反旗を翻したとのことだった。一体全体どういうことだ!?
掻い摘んで述べれば、ことの発端は俺が生まれた頃くらいまで遡る。宗瑞の代から行われた北条氏による武蔵国への侵攻。氏綱に代替わりしてからの天文六年、北条氏は遂に扇谷上杉氏当主の居城にして武蔵国の枢要の地である川越城を攻め落とした。
奪われた居城を取り返さんと、扇谷上杉氏は必死のパッチで軍勢を催しては襲いかかった。しかし難攻不落の川越城。北条氏が防備を固めたことにより、容易に落ちそうにはない。
しかし氏綱から氏康へと代替わりした北条氏に隙ありとみた扇谷上杉氏の朝定が、日頃は仲の悪い山内上杉氏の憲政と連合を組んでの奪還作戦を敢行したのが、去年の夏の終わり。両者を仲介したのは古河公方だった。押し寄せた軍勢は公称八万だが、実数は約五万。
一方守り手は正真正味の僅か三千。城攻めには三倍の兵力をっていう法則をぶっ飛ばすような力技の大兵力を前に、川越城の命運は風前の灯に……とはならなかった。防御側の主将が北条氏配下で随一の猛将、北条綱成であったことと、攻め手の戦意が低かったことが理由である。
なまじ大軍となったことで、簡単に勝てる戦じゃん、って雰囲気が蔓延し、下手に命を落としても恩賞は少なそうだし死に損になりそうだよね、って空気が漂ってしまったのだ。
そんな感じで年を跨いでの長対陣。篭城側は準備万端で戦意衰えることないのに対し、攻城側は厭戦気分に欠伸を洩らす者ばかり。このままでは攻め手の軍勢は何も得ることなく現地集合現地解散の物見遊山になりかねない。
ここで業を煮やしたのは、何故か協力を依頼された方の山内上杉憲政である。関東管領の威令に従わぬ川越城など力攻めで潰してしまえ、と配下に命令したのだ。命令を受けたのは赤堀親綱と倉賀野行政と木部範虎など上野国人衆三千。赤堀と倉賀野は業正の隣人で、木部は五郎の姉婿である。
四月半ばの払暁に行われた城攻めは、大惨敗であった。兵の半数が死傷し、赤堀は首を獲られ、倉賀野と木部は大怪我を負う。
城攻め三倍の法則違反、兵力の過少投入、堅城への力攻めを強行、と失策の見本で行う前から成功などおぼつかぬことであったのに、命令した憲政は激怒したのだと。そしてあろうことか、不甲斐なし、として倉賀野と木部に謹慎を命じ、赤堀には領地没収の沙汰を下したのだ。
戦場で何を言い出したのやら、関東管領。やはり管領ってのはトンチキでないと務まらないのかね?
敗軍の将たちは傷心のあまり唯々諾々と従い……はしなかった。上野国人の代表格たる業正が激発したのである。
もしかしたら、憲政としては全軍の綱紀粛正と奮起を促すための命令であったのかもしれない。ところが命じられた方からすれば無茶振りからのパワハラである。矜持と一所懸命が信条の武士たちからすれば、堪ったものじゃない。
ただでさえタダ働き必至の戦場なのだ。
溜まりに溜まった憤懣を大爆発させた業正は、同じ思いの同僚国人衆と語らって昂然と戦地を後にする。その兵数なんと、二万。ちょっと気の利いた命令を発した心算の憲政は、手勢の大半にそっぽを向かれてしまったのだった。
“斯様な次第に相成り候。先の御言葉を頂戴致したる今日、向後は京洛よりの御下命のみを仰ぎたく候。”
……ありゃー、真に受けられたー。
いや、真に受けてくれて滅茶苦茶嬉しいのだけど。当たればハッピーなラッキーパンチがノックアウトパンチになってしまった気分で、商店街の福引でガラガラ回して金の玉が出た時ってこんな感じなのだろうか?
ふと手元に残った書状を見る。
差出人は、相模守氏康。
俺が洛中から送ったエールに応えて大当たりをもぎ取った男の名が、力強く墨痕鮮やかに記されている。
今川氏との手打ちを促進させて北条氏の向背に安心を与え、業正に働きかけることで北条氏の敵の兵力を大幅に減衰させた。その結果、氏康はゆとりを持って事態に対処し、大勝したのか……。
何だろうこの、やってやったぜ感とやっちまったぜ感のミックスは?
よし……今日はもう寝るとしよう!
多羅尾の者へ懇ろに礼を述べて、伝右衛門に宿所と食事を宛がうよう伝える。業正からの書状を五郎に返却したら、講義内容の覚書を掻き集めて氏康からの書状諸共に懐へねじ込む。
やや挙動不審気味な俺を、いつものように生暖かい目で見る近習たち。やんちゃばかりのちょっと可笑しな子供を見る、近所のおばちゃんたちみたいな顔をしてるんじゃねぇよ、全く。俺を誰だと思ってるのだ? これでも大卒だぞ、三流大学だけどな!
未だ衝動から立ち直れぬ様子の五郎の手から書状を抜き取り、中身を読み終えた大胡武蔵守は、書状を丁寧に巻き戻しながら俺を見上げる。とはいってもそっちの座高とこっちの身長は似たり寄ったりなのが悔しいぜ。
「若子様に於かれましては上野国がこと、何卒良しなに御取計いを賜りたく」
おいおい、鋭い眼差しじゃねぇか。俺が本物のガキんちょだったら遠慮なく小便洩らすところだぜ。
「“もののふの、やたけ心の一すじに”であるか?」
「“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と、殿は某が旅立つ間際に申されました」
「なるほど……委細心得た」
「御心、誠に忝く候」
ああ、なるほど。お前の役割は、五郎の守り刀じゃなくて俺の喉元への匕首だったか。へいへい、せいぜい頑張りますよ。思う存分寝倒して、目が覚めたらな。
「者共大儀であった。本日のことはこれにて!」
一斉に平伏する近習たちと大人たちを尻目に、俺は寝床へまっしぐら。今日はもうこれ以上、浮世の剣呑につきあってなどいられるか。もしも俺が熱心な宗教家であれば、寝床じゃなくて祭壇前に額づくのだろうな、“神よ、助け給え救い給え”ってね。
だけどさ。
もしもだけど、そもそも神様がいなければ、俺の為した謀は善でもなけりゃ悪でもないのじゃなかろうか。
それじゃあ俺が為したことは一体何だというのだろう?
……先を見ていないガキの戯れか、足下すら見えていない凡人の悪足掻きだろうよ、きっとね。
劇場版『幼女戦記』はホンマに面白い作品であります。
鑑賞特典の小冊子3種欲しさに、別々の映画館に行って、三回鑑賞したとですよ。
十日に一度の頻度で観ましたが、何度観ても面白かったですわ♪