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『 尻は燃えているか 』(天文十五年、春)

 ちょいと法務繁多にて、間が空いてしまいました。

 申し訳無しでござーる。

 一部、是正致しました。(2019.01.18)

 誤字を訂正致しました。(2020.07.27)

 谷川の岸に小さな屋敷がありました。

 集落はたった一つでしたが住人は壮年がいないだけで、後は乳飲み子から老齢まで皆いました。田畑も二十町くらいでしたが、直ぐ後ろは栗の木もある豊かな緑の山でしたし、集落の隅にはコンコンと冷たい水の湧く水源もあったのです。


 などと文学的に表現したところで、柳生荘は鄙びた田舎の村以外のなにものでもない。点在する住人の古びて黒ずんだ家々も、突風が吹けば飛ぶような将棋の駒が並んでいるみたいだ。

 一見しただけで、七郎左衛門が語った苦境が嘘ではないことが判る。

 ひたひたと波が満ちて来るように、静かに衰退が押し寄せて来ている。幼子に少年、年寄りに女性はいても、働き盛りの男性がほとんど見当たらない。

 成人が一年に食べる米の量が一石、一石分の米が収穫出来る田の大きさが一反。一反が十集れば一町となる。聞いていた田畑の広さでは多くの住人を養うなど無理だ。例え山の幸で不足分を補えたとしても。

 (いくさ)に負けるということは、収入が減るということだ。

 収入が減る理由は領地が奪われるだけではなく、領地を耕作する労働力が減ることでもある。戦場で屍を晒す、負傷により労働出来なくなる、減った食い扶持を手っ取り早く入手するために出稼ぎに出る、などなど。負け(いくさ)続きなら尚更だ。

 一ヶ月と経たぬ内に草木が芽吹く本格的な春が到来するが、山地の縁に当たる柳生荘に朗らかな暖かさが訪れるのはまだまだ先のこと。当分は冬の厳しさと向き合い耐えねばならない。

 確かに、厳しい状況である。泣き言を言いたくなる気持ちも判らなくもない。

 しかしそれは全て、領主の判断ミスに起因するのだから自業自得と言える。住人たちもまた、然様な判断ミスをした領主を戴いたことを身の不幸と諦めるしかないだろう。それが今の世の考え方である。

 いや、そうでもないか。

 領主を経営者に置き換えれば、住人は社員と変換出来る。或いは領主を市町村の首長に置き換えても良いか。トップの経営ミスが社員の給料の低下や、住民サービスの劣化に直結するのは昭和や平成の時代にも当たり前だった。

 違いがあるとすれば、今の俺にはその改善を為す力が多少はあるってことだ。

 “エコ贔屓、したい時に、するが良し”ってのは蓋し名言だよな。古人曰く、じゃなくて大学の担当教授の口癖だったけどね。

 誰かの恨みを買ってでも恩を高値で売りつけられるならチャンスは逃すな、ただし売り方を間違えたら恩は仇になるけどな、とも教えられた。教授の過去に何があったのだろうかと、ゼミ仲間と話題にしたのも懐かしい。

 教授の近況も気になるが、それよりも喫緊の課題は“どうするどうなる柳生一族”である。この課題を解決しないことには先に一歩も進めやしないし。

 惟高妙安禅師のお諭しのように、この世のありとあらゆる事象は因果関係で成り立っている。柳生氏の抱える問題も因果関係を解きほぐさないと解決出来ないのだろうなぁ。

 そういえば、どうして禅師は因果について説明なされたのだったっけ?

 …………ああ、そうだ。

 俺が偶々その時に手にしていた『太平記』を見られたからだったなぁ。“若子様、何故にこの世は鎮まらぬと思し召されますや?”と問われたので、将軍家が無力だからです、と答えたら、“然に非ず”と申されたっけ。

“将軍家や朝廷の(まつりごと)に徳や力があろうとなかろうと、過去からの因果によるものなり。北条得宗家が滅んだのは滅びの時を迎えたからであり、足利家が天下を獲ったのも機会を得たからにて”

 そして『太平記』を指差し“全てそれの受け売りですが”と、カラカラと笑われ、“それを読まるるは世の(ことわり)、人の行いを学ぶことに候。よくよく学ばれよ”とも申されたのだ。

 全四十巻もあるから読破するのは当分無理そうだけど、ね。

 だが確かに読んでいると禅師の申されたことが真理であると理解出来た。儒教に基いた倫理道徳を主題としながら、道義的に正しい者が勝つとは書いていないのだから。徳がなくても時宜を得た者が勝ち、徳があったとて時宜を得なければ敗者となる。

 そう考えれば、柳生氏はついてなかった時に間違った選択をしたから、こうなったってことなのだろう。……ダメじゃん、アカンやん。どうすれば再建出来るのだ、このスクラップ国人領主を?

 答えを出せるのかと悩みながらも、取り敢えずは目先のことから処理するとしよう。

 先ずは、山中甚太郎を槇島城へと走らせる。懐には眞木嶋孫六郎への命令書が一通。伊勢国の奇人な貴人も含めた大人数が押しかけるのだから、城内での受け入れ態勢を遺漏なきよう整えさせないとね。

 柳生氏当主の屋敷は堀と土塀を巡らせた立派な陣屋であった。村人全員が籠城出来るほどに広くはないが、国人領主が構える居にしては十分過ぎる造りとなっている。とはいえ、俺たち一行約百名が全員収容出来るかといったら少々厳しい。

 故に仕方なく、主だった者たち以外は笠置山の中腹にある廃寺へ行ってもらった。世話役には石成主税助を任命したのでノープロブレムである。些事は丸投げに限るねぇ。

 さて笠置山と言えば、後醍醐天皇だ!

 鎌倉時代の笠置山には巨大な伽藍を要する大寺院、笠置寺があった。寺伝では後に天武天皇へと即位する大海人皇子が、『今昔物語集』では大海人皇子に討たれた天智天皇の子である大友皇子が建立したというが、どっちだよ?

 立地条件から東大寺や興福寺の影響下にあり、古くから山岳信仰の道場としても尊ばれており、類まれな摩崖仏を数体も祭る修験道の聖地でもあったようだ。

 都と南都の中間に位置する険しい山に建立された笠置寺ゆえに、弘治の乱の際に後醍醐天皇の挙兵の地となったのである。尤も、一ヵ月と保たずに落城したし、後醍醐天皇は取っ捕まって隠岐へと流されてしまうのだけどね。

 そんなこんなで反幕府の拠点にされた笠置寺は、えらい迷惑を被った。全山焼亡、御自慢だった摩崖仏もボロボロに。その後、幾度か再建されるも何度も火事で焼け落ち、今では過去の栄華など見る影もなく零落しきっている。

 そんな有様だったから、今の笠置山は柳生荘の者たちが好き勝手に使っていやがった。自給自足の為に狩場とし、燃料の柴も取り放題で。中腹にある廃寺も元は笠置寺の塔頭寺院だったが、今は改良されて柳生荘が敵襲を受けた際の避難場所の一つとなっていた。

 一応は興福寺の管轄物件なのだけどね?

 御大尽の興福寺からすれば空き寺の一つや二つ、どうってことはないのだろうけど。支配下に置く笠置寺にテコ入れすれば事情は変わるだろうが、今のところはその予定はないみたいだし。

 ならば一先ずは有難く徴用させてもらおう。どうせ今日中に山越えして宇治まで行くのは無理だもの、薄っすらと雪化粧を纏った山野で野宿は御免被るし。南都で買い集めた食材なども一緒に運ばせたから、後は主税助にお任せである。

 北畠具教君主従と、長野氏の息子と剣豪たちと居候の代表者は隣室で待機(ステイ・ヒア)させ、俺は覺慶と用心棒の宝蔵院胤栄と、仲介者たる松永久秀を同席させて柳生氏とのトップ会談に臨んだ。

 勿論、三淵と与一郎を傍らにしてね。又四郎には密命を与え台所で所用をこなしてもらっている。

 さて、上座を占める俺たちに対し、柳生氏当主たちは下座で畏まって平伏していた。畏き御方々に辺土まで御足労を賜り恐悦至極、とか何とかとの言上を聞き流しながら右手で顎を擦る俺。

 くどくどと繰り言を聞かされるのは陰鬱だから、ズバッと解決策を打ち出してこれにて一件落着と言い渡したいが、相変わらず一向に思案が纏まらない。

 既に将軍位に就いていたなら何とでもなるのだけれど、こちとら未だ将軍世子で無位無官の身。普通に考えれば、出来ることなど些少の支度金を与えて自立支援を促すくらいだ。今回も黒田下野一党の時と同じようにしたいのだけど、この後には真田氏たちが控えているので銭に関しては出来るだけ支出を避けたいよなぁ。

 史実の菊幢丸に比べれば桁違いに裕福な生活をしてはいるけれど、銭は無限ではないし、先々のことを考えれば締めるところは締めておかなきゃ。放漫経営が成り立つほど世の中は甘くない。かといって、この時代の一大資源は人材だ。人件費をケチれば全てが砂上の楼閣となるし、いやはや参った降参だ。

 俺一人でどうにもならない。ならば誰かに丸投げするか、玉突き事故を装って巻き込むしかないよなぁ。そうだよ、俺一人で背負うには荷が重過ぎる案件じゃないか。他の者たちにも応分の手伝いをさせたとしても何の障りがあるだろうか、いやないだろう!

 嘆願に費やす言葉が尽きたのか、口を噤み上目遣いでこちらを窺う柳生因幡守家厳。ふむ、漸く俺のターンか。悪いな家厳、今回は観客がいるのだから遠慮会釈をほどほどにした対応をさせてもらうぞ。甘い奴だなどと舐められたくはないからな!

「用向きは承知した。余としてもその方らを不憫に思う」

「然れば……」

「なれば問うが、余がその方らの苦境に助力したとして如何なる益があるのかを詳らかにせよ」

「それは……」

「ただし、忠節の限りを尽くし御奉公致しまする、などと詰まらぬことは申すなよ」

 まるで棒っ杭を呑まされたように、口を開けて起動停止する家厳。弟の七郎左衛門や息子の新左衛門も似たような表情をしている。いや、他の者たちもか。俺を除く全員が凍りついたように息を止めていた。

「若子様」

 俺の物言いがどうやら宜しくなかったようだ。大袈裟な咳払いと共に三淵が咎めるような声色を出す。へいへい了解、それなら言い換えてやろう。

「『論語』に曰く、“君君、臣臣、父父、子子”と。続けて“信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸”と。

 この世を広く見渡せば、はたしてどこに君らしき君がおるのか? 君がおらぬのに臣らしき臣がおる訳がなかろうが。忠を尽くせ、孝をせよ、悌をなせ、と古典は申すが、君と臣が食い合い、父と子が相克するのが今の世である。

 信義や道理に(もと)る虎狼の輩が跋扈するこの世において、口先だけで忠義を尽くすと申されてもな、如何にすれば信用出来ようか?

 そもそもがだ、余とそなたとは今の今まで何の交流もなかったのだ。余はそなたらが如何なる者共かを詳しくは存ぜぬし、その方らも余の腹の底が如何なるものか存じておらぬであろう?

 余の如き年端もいかぬ只の童が、忠節を尽くすに足る人物であると、一族の命運を託すに足ると、心底より思うておるのか?」

 丁寧に解説すると、今度は皆が唸り出した。大体なぁ、忠節やら忠誠に関していえば三淵親子に勝る忠義に篤い者などこの世にいる訳ないと思っているし。こっ恥ずかしいから口にはしないけどさ。

 誰も口を開こうとしないので、場繋ぎに黒田下野一党のことを語る。主家の衰亡で浪々の身となるも、御家再興のために一族郎党で傭兵稼業に身をやつしている者たちのはなしだ。俺が彼らの身元引受人となったのは、全てを曝け出して命運を俺に委ねたからだ。大いなる期待を寄せられたから、俺は彼らに助力したのである。

 などと、言わなくても良いこと以外は全て語った。

「黒田下野は余に使い潰されることも厭わず懸命に働いてくれておる。誠に有難いことだ。故に余は、何れ必ず彼の者たちが日の目を見るように取り計らう所存である。例えそれが、余に仇為す結果となろうともな」

 おや、隣から嗚咽のようなものが聞こえたような?

「“大和は国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し美し”と詠まれたのは、倭建命であったな。都の四方にある国々の中でも、大和国は一際豊かな国である。浅ましき虎狼共が虎視眈々と狙い続けておる山城国や、常に水害の災禍に悩まされる摂河泉三ヶ国とも違い、穏やかな風土である」

「然れど、餓えはございまする」

 おう、漸く口を開いてくれたか、家厳よ。

「餓えはどこにでもある。餓えぬ国があるとすれば、それは浄土ではないかと思うが?」

 俺がピシャリと撥ねつけたら、またもや口篭る家厳。背後の新左衛門は顔を赤くし、七郎左衛門は青くしているが、どちらも口を真一文字に食いしばっている。口を開けば当主の面目を潰す行為になるのだから必至だよな。

 ふむ、家厳は口下手ではあるが一族内に対しては当主としての威信が行き届いているようだな。さてさて、どうする柳生一族?

「甘えは許さぬ、ということでありますな」

 窮した家厳に助け舟を出したのは、久秀であった。流石は久秀だ、グッドタイミングで口を挟んでくれたものだ。

「宇治関白頼道公が春日の社に寄進した地の一角がこの柳生荘であると、松吟庵殿から聞き及んでおりまする。代官を任じられた菅原大膳永家殿が土地の名を名乗り、柳生氏がこの世に現れ出でたとも。

 時を経て、今の柳生氏は大和国守護を仮託された興福寺の被官の端くれにて候。

 然様な身で、興福寺ではなく将軍家御世子様に助力を願い出るは、些か浅慮にござりませぬかな」

「それは……」

「困窮の際にあるが故の行いであるは、(それがし)も重々承知致しており申す。然ればこそ、(それがし)は仲介の労を取り申した。

 ……因幡守殿、ここが岐路にござりまするぞ」

 目を細くした久秀が、上座で横並びしている俺と覚慶を等分に見つめる。

「大和国の一員であり続けるのか、それを返上なされるのか。これより先に進む道は二つに一つしかござりませぬぞ……覚悟をお決めなされませ」

 血の気の失せ、真っ白な顔色となる家厳が天を仰げば、背後の二人は俯いて床を睨みつけていた。サンキュー、久秀。上手く追い込んでくれたものだ。

「世子様……」

 考えるまでもなく、答えは決まっていたのだろう。無念の極みといった感じで家厳が、噛み締めた歯の隙間から言葉を搾り出す。

「何卒、お助け下さいますよう、伏してお願い申し上げ、奉りまする」

 家厳の頭が下がると同時に、新左衛門と七郎左衛門も力なく項垂れた。

「良かろう。余の力の及ぶ限り、柳生氏の皆々を余さず掬い取るべし」

 チラリと傍らを見やれば三淵が、宜しいのでしょうか、と言いたげな表情をしている。安心しろ安心しろ、大丈夫だからさ。

「覚慶よ」

「何でございましょうか、兄上?」

「投資をせぬか?」

「とうし、とは何ですか?」

「投資とは、種蒔きを終えた畑に水を遣ることである」

「水を遣ること、でございますか?」

「然様。ここに柳生荘なる畑がある。余がそこに種を蒔こうと思う。しかし残念ながら余は水まで手が回らぬ。そこで覚慶に手伝って欲しいのだ」

「……つまりは、如何なることでしょうか?」

「三年間、柳生荘が餓えず困らずに暮らせるだけの銭を出して欲しい。余が三年間で柳生の者共が立ち行くように手段を講じる」

「なるほど」

「只で、とは申さぬ……質となる物を献じるゆえに」

 覚慶から下座へと視線を移せば、ガックリと首を折り萎れていた家厳たちが、何事かとこちらを窺っていた。

「武家が生きる術は三つある。武の道を逞しくするか、文の道に優れたるか、文武の両道を携えたるか、だ。

 柳生の者共は武が拙い。もし逞しければ筒井との(いくさ)に負けはせなんだろう。文にも優れておらぬ。もし優れておれば困窮に負けぬ方策を己で立てられたであろう。

 さて、柳生新左衛門よ。無位無官の童如きに、斯様に嘲られて悔しゅうはないか?」

「……悔しゅうござる」

「ふむ、なかなか良き面構えよな」

 再び顔面に血の気を滾らせた柳生氏の嫡男を、俺は真正面から見据えた。

「ならば、柳生荘を捨てよ。広き世に出よ。その方の気性では柳生荘はおろか大和国にも収まらぬであろう。良き師を見つけて諸国を廻り修行せよ。

 もしその面構えに見合った技量を得たれば、余の元へ戻って来るべし。然れば余はその方に、将軍家兵法指南を命ずるであろう」

 怒髪天を突きそうだった新左衛門の顔が一瞬で、何とも間抜けなものとなる。呆気にとられた顔を見るのは何とも楽しいなぁ。

「七郎左衛門に尋ねるが」

「如何なることでござりましょうや?」

「その方は『太平記』を通読したことがあるか?」

「いえ、機会に恵まれませず数冊を手にしただけでして」

「覚慶よ、そなたは如何だ?」

「未だ手にしておりません」

「弾正や宝蔵院殿は如何であるか?」

「恥ずかしながら半分ほどかと」

「拙も全ては……」

「然れば皆に聞くが、写本があれば読みたいと思うか?」

 俺の問いに三淵や与一郎も含めた全員が首を縦に振った。隣室から、是非とも、といった声が聞こえたが、取り敢えずスルーだ。

「では、余が慈照寺にて所有せる物を貸し出すゆえに、七郎左衛門よ写本を作れ」

「そ、(それがし)がでしょうか」

「松吟庵と号す茶人であろうが、その方は。書の千字や万字、書けぬで如何する。三年もあれば四十冊くらい大したことなかろうが。

 もし一人で為せぬのであらば、人を頼むが良かろう。幸いその方には文に長けた茶人仲間がおるであろうが?」

 俺の視界の端で、久秀が肩を竦める。

「更に多くの人手が必要ならば、文も学も修めた者が興福寺に沢山おるのではないか?

 そうよなぁ……いっそのこと笠置寺を写本の工房にすれば良いかもしれぬなぁ。

 南都には帝も御所も戻ることはないゆえに都として再興することはないであろう、然れど文芸で以って往時の賑わいを復古することは出来るやもしれぬ。

 興福寺が持ち得る財貨の一端を文芸へと振り向けたれば、『太平記』のみならず散逸するやもしれぬ多くの文書を守れるやもなぁ」

「それは、晴れる()にございます、兄上」

 満面の笑みを浮かべた覚慶が何度も肯き、顎に手を当てて思案顔であった胤栄も納得したように大きく頷いた。

「『太平記』の写本が複数作れれば、進物としても価値が出ような」

「然れば是非共に我が主、三好筑前守にも一揃え賜りたく存じまする」

 恭しい所作で平伏する久秀。慌てて七郎左衛門も板の間に額づく。

「さてこれで武と文が備わった。誠に重畳である。後は因幡守と柳生荘のことだけであるが……ここでは何を耕作しておるのだ?」

「米と小麦、他には幾ばくかの野菜にござりまする」

「蕎麦は作っておらぬのか?」

「はい、然様にござりまする」

「それは残念であるな。余は蕎麦が好きなのだが……」

「「「「ならば(それがし)にお任せあれ!」」」」

 突然、こちらと隣室とを隔てていた戸板がスパーンと小気味いい音を立てて開き、控えていた者共が一斉に頭を下げた。

「お話しは全て聞かせて戴きました!」

 いや、知ってるし。って言うか、わざと聞かせてたのだし。

「新左衛門の師には、(それがし)が務めましょうほどに」

(それがし)も御助力申し上げまする」

 塚原卜伝が胸を張れば、大胡武蔵守が穏やかに微笑む。

「写本の儀、我が北畠も参画させて戴きたく候」

 具教君が例の如く感極まった風情で言えば、横に座す木造が相変わらずの諦観の相を顔に表していた。

「蕎麦作りは我らにとっては慣れたものにて。因幡守殿さえ宜しければ、我ら信州育ちが幾らでも合力致しますほどに」

 真田源太左衛門がにこやかに締め括れば、長野五郎が何かを言おうとして口を閉じる。何も言うことがないのだから、まぁ仕方ないよな。五郎君の役割は別にあるのだもの。

「若子様、仕度が出来ましてございまする」

 グッドタイミングで現れた又四郎が、柳生一族の後ろで膝を就く。

「では、余が差し出す質を存分に味わってもらうとしようか」


 ここでもカレーはバカ受けだった。白米やナンの代わりに、蕎麦粉と塩と水で練り上げ寝かしたものを薄く広げて竈で焼いたガレットを添えたのだが、これも受けた。カレーは水分を少なめで作らせたので、ディップみたいで実に良い感じだ。

 仕度の差配をした又四郎が得意満面で料理の説明をするのが、何とも微笑ましい。

 これが正式な食事であれば食べながらの会話など無作法極まりないが、おやつ時の軽食だ、少々無作法でも良いよな。やはり食事は御通夜みたいな沈黙状態よりも、ワイワイしながらの方が俺は好きだからさ。

「兄上、これは本当に釈迦牟尼世尊が食しておられた物に相違ないのですか?」

「ああ、相違ない。天竺屋にも確かめさせたからな。後ほど“香苓”の調合法を教えて進ぜよう。素材となる薬種は全て、天竺屋で揃えられるものばかりだから安心せよ」

 本当に天竺屋が手広い商いをしていてくれて助かったよ。洛中でも蕎麦粉はほとんど商われていないから、入手出来たのは望外のことだったのだ。

「余が直ぐに供せる質はこれぐらいしかないが」

「これだけで充分です。もし伯父上……管主様が御同意下さらなくとも、私の一存で動かせる銭は充分にございますので、兄上の申される投資……とやらの件はお任せ下さいませ」

 甘葛(あまづら)を足してお子様風味にしたカレーを嬉しそうに頬張る覚慶が言い差せば、辛口を食べて額に汗を噴出させている胤栄もあっさりと安請け合いしてくれた。

「拙も助言致しますゆえ、どうか御安心を。いえ、いっそ首を横に振って下されば、覚慶様と拙とで“香苓”を独占出来るのですが」

 ……お目付け役の胤栄がそう言うなら、柳生荘の件は大丈夫のようだな、うん、多分。

「しかし、蕎麦掻き以外に斯様な食べ方がございましたとは、いやはや不明にござりました!」

 感心頻りでガレットを貪る真田に、俺は今朝からずっと抱いていた疑問を漸くにしてぶつけてみることにする。何で、ここにいるのだ? 返された答えは、予想範囲内の想定外であった。


 時は天文十年五月中旬、諏方頼重と村上義清と連合した武田信虎が信濃国の小県郡に攻め込んだ。世にいう海野平(うんのたいら)合戦とか何とか。俺には初耳だから町内会レベルの狭い世で語られているのだろうな、多分。

 迎え撃つのは海野棟綱を旗頭とする滋野三家と真田氏。うむ、真田以外は誰も知らねぇし判らねぇや。俺だけが知らないのかと思ったら、三淵たちから漂って来る雰囲気も俺と似たような感じなので、やっぱりドマイナーズなのだろう。

 そんなドマイナーズが、信虎や義清といったメジャーズに敵うはずもなく敗退。ゲリラ戦でチマチマと抵抗を続けるも衆寡敵せず、あえなく所領は奪われてしまった。敗れた棟綱は山内上杉氏当主の憲政を頼り、真田氏は一族郎党の大半を在地に残して憲政の重臣である長野氏を頼ったのだと。

 所領を奪われ浪々の身となること五年、その間に情勢は目まぐるしく変化する。先ずは滋野三家の一つである禰津氏が許され旧領を回復。武田晴信がクーデターを起こし、信虎を追放。そして上杉憲政の命を受けた長野業正を総大将とする上野国の軍勢による信濃国襲撃である。

 遂に真田氏の旧領回復のチャンス到来かと思いきや、そうはならなかった。

 業正は武田氏の勢力を駆逐しただけで、小県郡は相変わらず義清が占領したままだったからである。

 そんなある日、禰津氏からの使者が源太左衛門の許を訪れ晴信の書状を手渡す。諏訪氏を滅ぼして再び信濃国への足がかりを得た晴信は、村上氏をも駆逐して信濃国の完全制覇を目指すので、助力すれば旧領を返還する、などと書かれた書状を。

 時同じくして、俺の書状を携えた河田九郎太郎が業正と面会していたのだと。

 河東郡を巡り絶交状態だった北条氏と今川氏との間を取り持つ交渉団に随行させた者たちに俺は、関東情勢の調査と北条氏首脳部とのパイプの構築することを密命として与えていた。

 そして関東情勢の調査の一環として、業正の取り込みを考えたのだ。

 大学生の頃に嵌ったゲームで、べらぼうに強い武将ユニットの一つが業正だった。扇谷上杉氏を支えたのが名将太田道灌ならば、山内上杉氏を支えたのは猛将の業正だと言っても過言じゃないだろう。

 北条氏の関東制覇が遅々として進まなかった理由は、関東管領職を金看板として掲げ続けた上杉氏が立ちはだかっていたからである。実質的な権勢は既に斜陽であっても、権威は未だに苔生してはいないのだ。

 その権威を支えることに生涯を費やしたのが名将と猛将なのだけれど、二世代前の人物である道灌は既に亡くなっている。関東管領の命脈を支える強固な柱石は業正しかいないのだ。

 そんな二本柱に守られて来た命脈も、後二ヶ月もすれば片方が断たれる予定だけどね、史実通りでは。

 河越夜(いくさ)、あるいは河越城の戦い。

 厳島、桶狭間と並ぶ日本三大奇襲戦の一つ。劣勢必至の少数が、圧勝確定だった大軍を討ち破った画期的決戦だぜベイベー。

 当主が戦死した扇谷上杉氏がほぼ消滅し、山内上杉氏も多くの兵を喪失したこの戦いが契機となり、関東管領と古河公方の権威は失墜するのだ。権威が復活するのは越後国へ逃れた憲政が長尾景虎を養子にして、関東管領職を譲渡してからになる。

 もしも、だけど。

 俺が介入することで業正と憲政の間に隙間風を吹かせられないかな、と思ったのだ。信虎の政治活動に協力したのも、その絶好の機会じゃないかと思ったからで。そうでなきゃ誰が大切な近習たちを送り出したりするものか。

 因みに九郎太郎に託した書状には、業正の武名は遥か洛中にまで轟いていること、業正の公儀に対する忠誠に感謝していること、その忠誠心を以って俺自身は業正を将軍家の直臣だと見なしていること、何れは直接に膝を交えて相対したいことなどを書き連ねた。

 更に、昨今の古河公方と関東管領の有りようと為しように不満を感じていること、関東静謐のためには現状を大きく改めるつもりでいること、その際には業正の力に大いに期待していること、就いては子息を近習に取り立てたいので派遣して欲しい、他にも推薦したき者あらば喜んで迎え入れる、とも書き記した。

 業正の子である五郎がここにいるってことは、業正は俺の意を最大限に汲んでくれたってことだろう。駄目元での策が実ったのは超ラッキーだったなぁ。田舎武士のチョロさ、室町人の感激屋気質に感謝だよね。

 しかもまさか、戦国時代のチート一族である真田氏まで一本釣り出来るとは!

 五郎が語るところによれば、俺からの書状を業正から見せられた五郎は一も二もなく近習となることを承諾したのだと。是非とも洛中にて坂東武者の心意気を発揮したいと意気込む姿に、上から目線でいたことを恥じる。感謝する、と咄嗟に両手を就いてしまった。

 俺が頭を下げたことに感極まった五郎が、嬉しや嬉しや、と号泣し出せば、具教君が、ようござった、と貰い泣きをする。おんおんと大声でなく二人の若者に、大人たちも目に涙を浮かべる始末。現代人の感覚からすれば、ドン引き劇場の開演だよ。

「武田の誘いを断り、世子様の御言葉に縋らせて戴くことに決した(それがし)の判断は、間違いではござりませなんだ。牛馬の如く働く所存ゆえに何卒宜しくお引き立てのほどを」

 深々と額づく源太左衛門の背を、具教君が何度も叩く。

「世子様は決して約束を違えたりはせぬ御方よ。現に、(それがし)のために態々坂東にて人探しまでしてくれたのだ。卜伝師の如き当代最高の兵法家を探し出し、お連れ下されたのである。誠に忝きことにて候!」

 いやまぁ、あの時はその場の勢いで言ってしまったってのが真相なのだけど。

「偶さか、武蔵守を訪ねたのが五郎殿ご上洛の間際でござりましてな。そこで、滞在中の御近習から世子様の書状を拝受致しました。

 “伊勢国に良き剣才あるゆえ、宜しく教導を頼む”。

 それだけを記した書状に、些か興が湧きましてな。北畠中将様がおらるるは五郎殿が上洛なされる途上ゆえ、同道させて戴こうと思い到った次第にて」

「お訪ね下さいました卜伝師の話を聞き、是非とも世子様に御礼を申し上げねばと洛中へと便り致しましたところ、世子様は興福寺大法要御出席のため大和下向の由と知らされまして、厚かましくもこうして押しかけましたのでございまする」

 お騒がせ致しました、と頭を下げる具教君や坂東者たち。

 ホントお騒がせだよ、と言えるはずもなく、いやいや良き哉、と適当にお茶を濁す。安請け合いをしたけど、住所不定無職の徘徊老人が本当に見つけられるのかとヒヤヒヤしたが、案ずるよりも当たって砕けろってことだった。

 こんな結果オーライは、俺の人徳よりも具教君の剣術を極めたいってキワッキワな思いが、世の条理を動かすほどにエグ……強かったからだろう。“一念天に通ず”とは蓋し名言だねぇ。

 又四郎と与一郎が台所と広間を二往復し、カレーと蕎麦粉が尽きたら今度は酒と肴が運ばれて来る。気づけば呑んべぇ共の宴会がスタートだ。

 二人の剣聖と槍の達人が未来の剣豪たちの酌を受けながら大杯を干す隣で、所領を失いかけている領主が国を追われた流浪の主と肴を齧りつつ未来について語り合っている。茶のみ仲間の二人は肩を寄せ合ってヒソヒソ話に耽り、他の二人はどこか達観したような表情で向かい合っていた。

 急激に場面転換した室内にて俺に出来ることなど一つしかない、戦略的撤退だ。

 頼りになる秘書役に目配せし、覚慶の手を引っ張りながら別室へと身を翻す。追っ付、与一郎が又四郎と五郎を連れて来るだろう。

「覚慶よ、そなたは何故に五戒の最後が“不飲酒戒”であるか存じておるか?」

「いえ」

「人は命を喰らわねば生きていけぬ、盗まねば生活が成り立たぬ時もある、邪であらねば命を守れぬこともある、真実のみを語って成り立つほど人の世は熟しておらぬ。故に仏法の戒律では、欲望の趣くままに恣意的な行為のみを禁じたのだと余は思う」

「はい」

「そこで、酒だ。酒は容易に人の心の箍を外す。ほどほどであれば大丈夫やもしれぬが、人とは酒を嗜むのをほどほどで済ますことが出来ぬものだ。広間で酒を嗜んでおる者たちも、後半刻もすれば無礼講とやらになるであろう。呑んで騒いで、騒いで呑んでの繰り返しだ。

 ……ほどほどであれば“百薬の長”や“般若湯”なのだがなぁ。

 そなたも何れは酒を口にするであろうが、節度を失わぬよう気をつけよ。決して酔った勢いでアレを解決せよコレを何とか致せなどと、年端もいかぬ童に無理難題を申しつけるような大人になどなるでないぞ」

「はい、気をつけます」

 柳生屋敷に仕える者に命じて火鉢と水を張った小振りの釜を用意させると、俺たちはああやれやれと腰を下ろした。少し遅れて現れた又四郎が一抱えもある風呂敷包みを運んで来て、荷解きをする。風呂敷包みの中身は、茶碗と茶筅と抹茶の詰まった棗だ。

「ところで兄上」

 別室にて、少年たちだけで茶席の真似事をし始めて早々、覚慶が興味津々で俺を見た。

「慈照寺ではどのような生活をなされておいでなのですか?」

「うむ、日々身を慎み修練と勉学に励んでおる」

 ガチャン。グヒッ。

「失礼致しました」

 茶頭を務める与一郎が茶碗を倒す粗相をし、奇妙な声を洩らした又四郎が慌てて口元を覆った。どうした二人とも、珍しく挙動不審じゃないか。何か心に疚しいことでもあるのか?

「申したきことがあらば好きに申すがよい」

 (なり)は小さくとも意見開陳を封じるほど、器量は小さくないからな。

「然れば!」

「実は、でござる!」

 だがしかし、意見を全て受け入れられるほどに度量は大きくもないぞ。

 興味津々で耳を傾けようとする覚慶と五郎に対し、妙に勢い込んで口を開く与一郎と又四郎。グツグツと湯気を立てる釜。遠くから聞こえて来る酔っ払いたちの大声。

 そっと目を逸らした俺は古来よりの作法に則り、徐に左右の人差し指を耳に突っ込んだ。不都合な真実は見ざる聞かざるが一番なれば、世は全てこともなしでござーる。

 今回も説明多めとなりました事に、忸怩たるものが……。

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