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『 私も柳生に連れてって 』(天文十五年、春)

 皆様、遅ればせながら新年明けましておめでとうございます。

 旧年中は数々の御縁と御厚情と御愛顧を賜り、全く以って忝く候。

 本年も何卒宜しく御願い申し上げまする(平身低頭)。

 誤字・誤表記を訂正致しました。(2018.01.03)

 この世の(ことわり)とは“因果”である。

 然様に、たった二文字で釈尊の教えを平易に解説なされたのは惟高妙安禅師だ。今ある全ては結果でしかなく、その結果が生まれ出た要因は全てその前にあるのだと。

 つまり因果とは方程式みたいなものだろうか?

 一たす一は二。答えが二となる方程式は幾つもあるが、何かと何かが関わらなければ二という答えは生まれない。

 また、漠然と“因果”と聞けば、“何をした”“何をしなかった”から“そうなった”と考えてしまう。因果とは、能動的な結果であると。しかし、この世のことは能動的な事象だけで成立している訳ではない。

 “何かをされた”“何もされなかった”から“そうなった”といった受動的な結果も立派な因果である。

 そんな因果を今の俺にとって最も身近なことに当て嵌めて考えてみよう。


 何故、足利幕府は滅んだのだろうか?


 何をして、何をしなくて、何をされて、何をされなかったから、滅亡したのだろうか?

 永続する組織などないのだから幕府は何れ滅ぶべき運命にあった、と言い切ればそれ以上は考察が進まない。かといって、因果の“因”をどこに求めるかによって考察の幅は大きく異なる。

 そもそも尊氏が始めなければ、足利幕府は終わりを迎えずに済んだのだ、みたいに“始まりこそが終わりの始まりである”などと言い出したら、逆説的過ぎてギャグにもならないよなぁ。

 うむ、際限をなくしたら取り留めも消失してしまったので、考察の範囲を狭めるとしよう。


 足利幕府を滅ぼした当事者は、義昭と信長の二人である。


 俺が前世で読んだ研究本によると、どちらも秩序を重んじる人物だったとか。

 二人とも最初は足利幕府による秩序を復活させようと尽力する。

 しかし残念ながら、戦国時代と区分される室町時代後期には足利幕府による秩序では、どうにもならない時代であった。足利幕府による秩序など、ひび割れて底に大穴が空いた桶同然だったのだから。

 水を容れて溜めようにも容れた端から水が洩れるのでは、どうしようもない。

 義昭と信長は、桶を修理すれば大丈夫だと思った。だから最初は共同作業で修理に努めたのだけど、その作業の最中に信長はふと気がつく。この桶は修理不可能なのではないだろうか、と。

 何故に信長が気づいたのか?

 それは信長自身が、尾張国内の秩序を破壊して戦国大名へと伸し上がった人物だったからだろう。

 平清盛のように、源頼朝のように、足利尊氏のように、その時代に一番力量のある者が天下人となって新たな秩序、世に荒れ狂う水を全て収容出来る新たな桶を作るべき時が到来したのではないかと、気づいたのだろう。

 もしかしたら信長だけではなく、義昭も気づいていたのかもしれない。すんなりと将軍に就任出来ず、右往左往と苦労の上に武家の棟梁となったのだから視野と思考が狭窄した人物ではなかったはずだ。きっと理解していたに違いない。

 だが義昭は、古い桶を捨て去ることが出来なかった。

 あくまでも古い桶を使い続けようとしたのは、義昭は古い秩序の中でしか生きられない人物だったから、なのかもしれないし、或いは臣下として侍る古い秩序でしか生きられぬ者たちを見捨てられなかったからかもしれない。

 未来から過去を見れば、信長が足利幕府による秩序を捨てようとした時点で義昭も捨てるべきだった。であれば義昭も、新しい時代を堂々と生きることが出来ただろう。

 しかしこの時点で、足利幕府による秩序を捨てられたのは信長だけだった。日本全国では、未だに足利幕府による秩序は行き続けていたのである。

 武田信玄が死に、朝倉氏・浅井氏が滅ぼされ、三好宗家当主が自刃し、元号が元亀から天正に変わった時、信長は四面楚歌の危機を脱したように思えたが、そうは問屋が卸さなかった。

 都を追われた義昭が本願寺を焚きつけ、毛利氏を動かし、上杉謙信に信長打倒の兵を起こさせたのだ。信長が義昭と決別しなければ、一向一揆ももう少し大人しかったかもしれず、毛利氏と謙信は起たなかっただろう。

 結果的に信長の運が勝り、再びの四面楚歌の危機を脱することに成功した。

 正確には脱しかけた、だけどね。

 明智光秀が本能寺を襲撃し、信長を討った理由の一つとして足利幕府の再興を目論んだ説が、平成の時代になっても横行しているのだから。

 一度生み出された秩序は生半可なことでは破壊出来やしない。

 北条氏が伊勢の苗字を捨てたのも、鎌倉時代の秩序に乗っかるためだ。乗っからなければ関東全土に宣言した覇も、周辺の武士たちには全然認めて貰えなかったからなのだもの。

 室町時代を創った足利幕府による秩序も、信長は破壊しきれなかった。本能寺の変がなければ、新たな秩序を創設出来たのかもしれない。信長一代で出来なかったとしても、二代目が為しえただろう。

 気づけば、またもや考察が飛躍してしまった。……今一度、義昭に話を戻すとしようか。


 義昭……ではなく出家身分のままの覚慶は、俺より一つ下の数え十歳。実年齢九歳は年の割に確りとした、生真面目な性格の少年だった。それでいて、笑顔や仕草の端々に年相応の子供っぽさが見え隠れするのも好印象。

 興福寺の境内、塔頭寺院の一つでありながら興福寺の枢要である一乗院の一室を間借りして起居する中で、時間を作っては何度も覚慶と共に過した。ある時は朝食後の勤行の後、またある時は薬石(=夕食)前の作務の合間など。

 南円堂落慶法要が無事に勤め終わった翌日は興奮冷めやらぬのか矢鱈とハイテンションで饒舌だったけれど、三日も経てば流石に平静を取り戻したのか穏やかな口調で受け答えをしてくれている。

 覚譽伯父さんや他の大人達が五日を過ぎても未だに高揚感に冒されたままなのは、正直どうかと思うけどな。


「兄上は何故に様々な工夫を形と為すことが出来るのですか?」

 そりゃあ未来人だからさ、と正直に言えたらどれだけ気が楽なことか。

「それはまぁ、ノーコメント……ってことで」

「“能古面”ですか。兄上は広く古面を蒐集為されておられると聞き及んでおります。進取を新奇とせぬ工夫は、故事を大切に為されておられるからですか?」

 スルーしてくれて助かったけど、俺の失言が奈良にまで伝わっているのは助かってないよなぁ。まぁどうせ、覚譽伯父さんがあることないことを吹聴している所為だろうけどさ。

 俺に関してないことないことを言いふらすのは止めて欲しいよね、全くもう!

「私には及びもつかぬことにて」

 そりゃあそうだろう。思いつかれたら吃驚だよ。

「いや、そうでもないと余は思うが」

「然様ですか?」

「うむ、そなたは日々経文を読んでいるのだろう?」

「はい」

「経文とは釈尊の語られた言葉を書き記した物と、後代の多くの先師学僧たちが釈尊の語られた言葉を如何に解釈すべきかと思索したものであろう?」

「然様にございます」

「ならば、余よりもそなたの方がよほど故事に親しみ、大切にしているじゃないか。所詮、余の為すことなど戯れに等しいのやもしれぬ」

「戯れ、ですか?」

「うむ。然れど戯れとは申せど、ふざけてはいないぞ。余は大真面目に戯れているのだ。余の為すことが他者の共感を得たるのは、大真面目であるからやもしれぬ。

 何故、戯れ如きを大真面目にするのかと申せば、大真面目にせねば面白くないからだ。

 我らが始祖たる武皇嘯厚大禅門様(=源頼朝)に“大天狗”と称された後白河院御自らが編まれた『梁塵秘抄』に、“遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん”という歌がある。

 人の一生はあまりにも短い。百年と保たずに寿命は尽きる。

 然様に短い一生を如何に過せば、悔いを残さずに済むであろうか?

 余は思うのだ。遊ぶことにも懸命でなければ、大真面目に戯れなければ、時を無駄にしてしまうのではないか、とな」

「兄上様、晴れる()にございます」

 パシンと膝を打った覚慶が、深々と頭を下げるのを見て、改めて思う。取ってつけたような弄言を真に受けるとは、本当に真面目君だな!

 やはり前世で読んだ研究書の通りの人物みたいだぞ、義昭って。

 織田信忠、武田勝頼、上杉景勝、毛利輝元、豊臣秀次、徳川秀忠たちと同系統の人物なのではないかな。数十万石以上を領する大名家の二代目に共通する、守成タイプだ。

 彼ら六人はそれぞれ性格も生涯も末路も違うけど、偉大な創業者の後継として四苦八苦した者たちである。

 受け継いだ版図を全て失った者、受け継いだ領地の大半を失った者、受け継ぎ損なった者。秀忠以外は全て負け組となり、その舐めた辛酸ごと歴史に埋没してしまった。

 秀忠は争うライバルを家康が全て消し去ってくれた御蔭で、遺憾なく実力を発揮することが出来たのだろう。

 もしも足利二代・義詮のように未だ世情が安定とは程遠い時点で後継していたとすれば、どうなったであろうか?

 義昭のように、長らく続いた時代の終焉に後継者となっていたら如何だっただろう。恐らくは慶喜みたいに政権維持にしくじったのではないだろうか?

 そう考えれば、義昭は不幸な人物だったと言える。生まれた時代が悪過ぎた。右肩上がりの時代に生まれず、自分よりも数段優れた英雄英傑たちと競合せずに済んだなら可もなく不可もなく一生を終えることが出来たに違いない。

 あるいは真面目な性格が幸いし、名君と讃えられる人物となっていたのかもなぁ。

 俺の横でニコニコと、折り紙に興ずる覚慶。

 史実通りに俺が殺されたら、その結果として時代の尻拭い的な不遇な人生を否が応でも歩まざるを得ない少年。

 つまり俺が史実通りに殺されなければ、覚慶は穏当な人生を生きることが出来るのだ。俺が“因”にならなければ、覚慶は義昭という“果”にならないってことだよ。

 色々と考えを拗らせてしまったが、何だ、単純な話じゃないか。何としてでも生き延びるという従来の方針を堅持すれば良いだけのこと!

 折り上げた鶴を眺めては悦に入る覚慶。年相応の可愛らしいクリクリ坊主である。この笑顔を守ることは、俺が人生を全うすることとイコールなのだ。

 よし決めた!

 この少年を絶対に不幸で不遇な立場に追いやらないぞ、と俺は誓おう!

 前世では一人っ子であったので判らなかったが、今、俺の心に兄弟愛なるものが芽生えたことが判ったぞ。精神年齢的には俺の息子かもしれないけどな。

 兄弟愛が家族愛だとしても、問題ない。俺はこの子の人生を守ってみせる!

「覚慶よ」

「はい?」

「余は全力で生きることにするぞ!」

「え? ええ、ああ、はい?」

 ガシッと覚慶の両手を握り締めると、俺の熱意が伝わったのか瞳が微かに潤みだす。そして潤んだ瞳から零れた一粒の涙が、クシャクシャに潰れた折鶴にポツリと落ちた。

「兄上ぇ……」

 シクシクと泣き出した覚慶のために、死に物狂いで鶴を折ってあげましたよ。

 うーむ、子供を守るって大変だよなぁ、全く。


 大和国の滞在中は、覚慶の相手だけをして過していた訳ではない。落慶法要期間中に見知った者たちとも度々対話をした。

 例えば、宝生座の一閑師、金剛座の氏正師、金春座の喜勝師などの大和猿楽の方々。

 普段はライバル意識バリバリで仲良くしているとは思えない三人なのだが、俺と会う時はキッチリと団結し声を揃えて不服を申し立てられた。

 初対面なのに何で文句を言われなきゃならないのだ、と思ったが、理由を聞いてなるほど納得……しなきゃいけないのかねぇ?

 三人の言い分は、俺の宗節師への贔屓が過ぎるというのだ。

 贔屓? いやいや、贔屓も何も、俺が知っている能役者は宗節師だけなのだから贔屓するもしないもないだろうし、俺が宗節師と近しくなったのはトンチキ親父とトンデモ伯父さんの無茶振りの所為なのだし。

 文句があるなら、室町将軍と興福寺代表に提訴してくれよ!

 などと理路整然と言い立てたのだが、例によって例の如く、三人は聞く耳を持っちゃくれなかった。どうして俺の周りの人間は揃いも揃って、人の話を聞こうとしないのかなぁ?

 まぁいいや、聞いてやろうじゃないか不服とやらを。

 ……はぁ、なるほど。色々グダグダと言葉を輪唱のように連ねたが結局は、自分たちにも何かネタをくれ、と。そういうことか。

 仕方がないので、番組の題材となりそうな物語を三つも語ってやったぜ。

 青鬼が撒き散らした疫病の所為でバタバタと人が死に逝く、とある国。その国から一握りの男たちが遥かな場所まで妙薬を求め、丸一年かけて破天荒な船旅をする物語。船の名前は大和丸だ。

 不慮の事故で子供を亡くした陰陽師が秘術を尽くして金物の人形に魂を吹き込み、子供を蘇らせようとする。しかし秘術は完全ではなく出来損ないとなり、陰陽師は人形を捨てる。捨てられた人形は別の陰陽師に拾われ、己の存在意義を確かなモノとするために働く物語。人形の名は、亜斗法師だ。

 田舎育ちの少女が、ひょんなことから都の貴族の許で行儀見習いとして奉公する。足の弱った貴族の姫君を励ましながら、様々な困難に立ち向かう物語。少女の名は、はゐ()だ。

 ついでに謡いも一曲、進呈してやったら喜んで帰ってくれたよ、ああ疲れた草臥れた、もう頼まれても二度としてやらねぇ。

 然れどまぁ、これから大和国では、宇宙戦艦やら、鉄腕やら、アルプスの女の子やらが舞台を賑わし、終演時には出演者全員で『SUKIYAKI』を合唱するに違いない、ってことに思い至れば片腹痛いが。

 いついつまでも愛されるのが、稀代の名作と名曲である。例えそれが、数百年ばかり時空を逆に超えたとて、問題ないよね、多分きっとさ?


 そんなこんなで日暮らせば、大和国の滞在予定も早半分を過ぎて、残すところは後十日。

 今まで兄弟らしい付き合いをしていなかった覚慶や与一郎たちと一緒に遊び、覚譽伯父さんに遊ばれ、三淵や主税助を従えて奈良の町を散策する。

 洛中では中々味わえぬ気侭な日々に、気分はリフレッシュだぜ♪

 散策の途中で立ち寄った天竺屋で貰った銅鐸を、キュキュッと手拭で磨く嬉しさよ。応接間に飾られているのを見て“コレは良いモノだ!”と叫んだら、“斯様な物で喜んで戴けますならば幾らでも”とか申し出てくれたので、有難くあるだけ全部頂戴したのである。

 デカイのは五十センチくらいか。小さいのでも三十センチくらいあった。大乗院の宿所に十八個をズラリと並べれば、何と壮観であることか!

 縄文土器も銅鏡も良いが、銅鐸もいいよなぁ。中にぶら提げて音を鳴らす舌がないから完品でないのが残念だけど、錆びて輝きを失くした青銅色の趣が素晴らしいから、これで良いのだ。

 良いと言っていいのかどうか微妙なのが、これらの銅鐸がどこの遺跡から掘り出された物なのか、って点で。銅鐸の出土地として有名なのは出雲や吉備といった中国地方である。

 ってことは、天竺屋の通商ルートはそちらにも広がっているということだ。天竺屋の商いとは金貸しだ。土倉業を営み、質屋業にも精を出している。総合的な金融業者というべきか。

 各地の品物を右から左に動かす方の商業は、片手間で行っているのだそうな。ならば、銅鐸はその片手間の最中に入手したのだろう。

 今回のことで、俺が銅鐸などの埋蔵物に興味があることが天竺屋に知られた。

 もしも俺のコレクター魂が妙な形で伝播してしまったら、各地に眠る遺跡の破壊が進むのかもしれない。天竺屋には助五郎たちに申し伝えたように、遺跡破壊をしてまで古代の遺物を掘り起こさないように注意せねば。

 俺が欲しいのは偶然に見つかった発掘品であって、墓荒らしの略奪品じゃないってな。序でに能面は集めていないってのも広がってくれないだろうか?

「若子様、何をとほんとしておられまする?」

「とほん、だと?」

「はい、少々気の抜けた御顔をなされておいででしたので」

 済まし顔に益々磨きがかかったような与一郎に言われると何だか気になるなぁ。そんなに間抜け面をしていたのか。いやいや、そんなはずはない。先々のことを見据えて思いを廻らしていたのだから、俺はボーッとはしてないはずだぞ。

 覚慶が義昭になったのが“果”から“因”とすれば、信長が天下人に上りつめたのが“果”となる。史実に些かの改変もなければ、桶狭間の戦いを足がかりにして飛躍した信長は、紆余曲折の過程で足利幕府を廃絶へと追い込む。

 だが今の時間軸は史実とはズレが起こっている。正しくは俺が生き残りをかけてズレを起こしたのだけど。今のところ、俺が起こしたズレは近畿圏内の更に狭い範囲に限定されていた。

 本当はもう少し広げたいのだけどなぁ……特に東海地方にまで。

 足利幕府の潜在的脅威となりそうな者、史実に従えば信長の力を、少しでも削ぐことが出来れば上々吉である。

 偶然だか神様のお導きだかで村井吉兵衛と滝川彦右衛門を、織田氏に出仕する前に採用出来たのはラッキーだった。信長の覇業の功臣が二人も減れば、信長の飛躍力も多少は減衰するだろう。とはいえ、二人が信長の覇業に参画するのは桶狭間以降の話だけどね。

 尾張一国を手中に収めるまでの信長に対して、俺が出来ることなど全くないだろう。だったら違うアプローチをしないとね。

 河東郡を巡って仲違いをしていた今川氏と北条氏の仲を取り持つことで復権を目論む武田信虎の野望にささやかな助力をしたのも、今川氏にこれ以上関東へ関与させないためだ。

 対北条氏で力を無駄遣いせずに済んだ今川義元。彼の目と手が少しでも早く三河国から先へと到るとしたら、信長の飛躍はどうなるであろうか?

 俺が将軍権力を確立させるまで、信長と義元には仲良く殺し合いをしていて欲しい。俺の目標は、三好長慶のバックアップによる政権維持だ。近畿のことは全て長慶に丸投げすれば俺は安心して左団扇……もとい、政権運営に専念出来るだろう。

 長慶が親分であるトンチキ管領をぶっ飛ばし、役立たずの足利将軍家をおっぽり出して天下人として歴史に名を残そうとした時に障害として立ちはだかったのが、近江国の六角氏と丹波国の国人領主たちと、大和国の筒井氏たちだ。

 三カ国の者たちが長慶の天下に異を唱えて(いくさ)を仕掛けたのは、足利義輝が長慶の存在を良しとしなかったからである。

 しかし俺は双手(もろて)を挙げて歓迎だ。六角氏とは仲良くしているから何とかなるだろう。丹波国は波多野氏が反三好氏の立場を崩さないだろうが、対抗勢力として赤井五郎次郎をぶつければ何とか出来るに違いない。

 五郎次郎は何れ荻野氏の養子となる。そこに長慶の与党である内藤氏を糾合させれば、丹波国の過半数を占める一大勢力の完成だ。そうなれば波多野氏を早期に駆逐することも可能だろう。

 筒井氏たち大和国の国人領主たちを改めて興福寺の下に纏めることが出来れば、長慶は大和国に手を出すことを控えてくれるに違いない。攻め込まれる隙を見せなければ良いのだ。

 覚譽伯父さんの後を覚慶が引き継ぎ、大和国の守護役を務めてくれたら、俺は洛中でのほほんと過せるだろう。取り敢えず、大和国の実働部隊のトップは筒井氏に任せるのが一番だよな。

 早々に歴史に沈んだ十市氏、古市氏、越智氏には人材がいない。筒井氏には左近の島氏と右近の松倉氏がいる。もう一人、森だか林だかって家老もいた。興福寺を通して筒井氏を押さえ込めば、大和国は問題ないさー♪

 ああ、そうだ。大和国の国人領主の一人、柳生氏だけは別枠で確保しておきたいものだ。江戸時代に至るまで武闘派として名を上げ、政治家としても有能な人物を生み出した一族なのだ。手下に出来れば最高だよな!


「若子様」

 どうやらまた、とほんとしていたらしいな、ゲフンゲフン。

「お目通りを願っている者がおりますが、如何致しましょうか?」

「うん、客か?」

「はい。松永弾正様と、松吟庵と申される茶人にて」

 え、久秀が? 何でここに?


「松吟庵殿とは茶の湯の仲間でございまして」

 どこで見つけてきたのか、小振りの土器で茶を立てるのは亭主役の松永久秀。正客の席に座るのは俺、次客に座すのは松吟庵なる壮年の僧侶。末席の三客は三淵である。

「一昨年の春に武野師の席にて初めて対面し、それより以降親しくさせて戴いておる次第にて」

「良きお付き合いをさせて戴いておりまする」

 刑事ドラマにモブの一人として登場するマル暴担当の中堅刑事っぽい顔をした僧侶が、物柔らかに言う。顔つきから受ける印象とは百八十度違う人物なのかな。それにしても松吟庵って蕎麦屋みたいな名前に聞き覚えがあるのだが、うーむ思い出せない。

 まぁいいや。いや、良くないや……何故このタイミングで久秀がここに来たのだ?

「世子様におかれましては先日の落慶法要にて心踊る今様を御披露なされたと松吟庵殿よりお知らせ戴きましてな、取るも取り敢えず参りました次第にて」

 え、態々俺に会いに来たのか?

「是非とも松吟庵殿を世子様とお引き合わせ致したく存じまして」

 久秀が立ててくれた茶を一口飲んでから隣に回そうとして、ふと視線を落とせば松吟庵のゴツゴツとした手が目に入った。僧侶とは思えぬ岩石みたいに無骨な手は、まるで歴戦の武将のような……。

「あっ!」

 思い出した!

「如何なされましたか?」

「その方は確か、柳生の者だったな?」

「……拙僧のことを覚えておいて下さいましたとは、誠に恐悦至極」

 覚えているも何も、お前、十日以上も前にここに来て、いや茶室じゃなくて会所で大人数の中の一人としてだったけど、俺に謁見しただろうが!

 地味でモブっぽい雰囲気だったし、この前は今日と違って普通に一般的な侍ルックの衣装だったよな……てめぇ、よくも謀りやがったな、この野郎!

 茶碗を置き、剃りあげた頭を恭しく下げる松吟庵。久秀は、悪戯が見つかった小僧のように小さく舌を出していた。事情が判ってないらしい三淵はノーリアクションである、ってちょっとは何か反応しろよ、全く。

 それはさておき、ああ、そうだ、思い出したよ松吟庵って名前にも。久秀のマブダチだった男だよ。

 久秀が信長を裏切り信貴山城で自爆した際に名品として讃えられた茶釜“古天明平蜘蛛”も木っ端微塵となったとされるが実は、本物はマブダチの松吟庵が密かに預かっていた、とかいう言い伝えが柳生氏に伝わる文書に記されているとか。

 信じるか信じないかはその人次第、って具合の逸話だけどね。

 道理で聞き覚えがあるはずだよ、久秀関連の情報でしか語られていないドマイナーな人物なのだからさ。知っている方が奇特なくらい知られざる、当時の地域限定有名人だからなぁー。

「それで、余を引っ掛けた訳は何だ?」

「興味を惹きたかったからでして」

「ほう、余の如き童の興味を惹いたとて、その方に何の益があるのやら」

「然様でござりまするな……手法を誤ったようでござりまする」

 衣擦れさえ立てず半歩ほど身を引き、畏まった態度で深々と頭を下げる松吟庵。その姿は俗世から身を引いた出家者ではなく、柳生氏の一員たる柳生七郎左衛門であった。

「どうか柳生の窮状に御助力戴きたく願い上げ奉りまする」

 え、どーゆーこと?


 七郎左衛門の説明によれば、柳生が苦境に陥った要因は俺が生まれた頃にまで遡るらしい。切っ掛けは、またもアイツか木沢長政の野郎だ。

 河内半国と山城国下五郡守護代を兼任していた木沢が河内国から大和国に乱入、信貴山に城を築いて大和国支配を目論んだ際に、筒井氏や伊賀国の仁木氏と土地争いをしていた柳生氏は長政に加担したのだと。

 よりによって、長政に……などと言えるのは長政が失脚して敗死したのを知っているからで、当時の柳生氏からすれば長政の来襲は天の助け、長政に加担するのは一族の存亡を賭けた大勝負だったらしい。

 結局は、掴んだのは浮き輪代わりにもならぬ藁しべで、柳生氏は賭けに負けたのだった。長政が滅べば、長政に与した者たちも一蓮托生とされるのは当然のこと。

 筒井氏にフルボッコされて、国人領主から土豪へあえなく転落してしまった柳生氏。一族の命運をベットするなら、せめて帰りの電車賃くらい残しときゃいいのにさぁ、下手を打ったよな柳生氏は。

 史実では確か、長慶が天下人となる時に大和国支配を担当した久秀の軍令に従い、筒井氏を滅多切りにして武威を示すと同時に恨みを晴らすのである。今から大体十年後のことだけどね。

 その十年ほどが待てなくなったのか?

 まぁ考えてみれば柳生氏って、織田政権下では所領安堵されたが豊臣政権化では隠し田を摘発されて所領没収されている。柳生氏が日の目を見るのは徳川政権になってからだ。だとすれば、後五十年くらい後か……。

 十年も待てそうにない柳生氏に、後五十年もしたら万石取りの大名になれるから頑張れって励ますのもなぁ。しかも俺が史実を改変する予定だから、それすら宝くじよりも当てにならないけどな、って言い添えるのもねぇ。

 ここはアレか。俺が飛躍するためのフラグだと思って回収すべき案件か?

 小細工をしてまで俺の興味を惹こうとした七郎左衛門。気づけば久秀までが両手を就いて額づいている。茶室に響く音は、コポコポと湯の湧く音だけ。腕組みをして思案すること暫し。静寂を破ったのは三淵の咳払いだった。

「柳生荘と申さば、木津川の近くにして笠置山の南方にござる。笠置山を北へと越えれば、宇治へと到る街道がございまするな」

 三淵の静かな眼差しが俺を見据える。

「柳生の者共は、後醍醐帝の檄に応じて建武の御世に合力した家柄にございまするが、近年は幕命に反する行い多き奴輩でもござる。

 とは申せ、力弱き者の為すこと。如何なることと相なろうが、世上には然して関わりはござらぬかと」

 もって回ったアドバイスを有難う。三淵がいてくれて助かったよ。御蔭でどうするか腹が決まったよ。

「松吟庵よ」

「ははっ!」

「明後日に出立する故に、柳生荘へと案内せよ」

「誠に忝く候!」

(それがし)も同道仕りまする」

 え、久秀も来るの!?


 まぁそんな訳で。

 俺は興福寺を後にして柳生荘へと行くことになった。道案内は松吟庵こと柳生七郎左衛門と松永弾正忠久秀。供回りは三淵伊賀守晴員、細川与一郎、彦部又四郎、山中甚太郎、石成主税助。その他は小者数名に、護衛の者数名。

 さぁ出発だ、と思ったら何故か人数が倍以上に増えていやがる。

「兄上と旅が出来るとは望外の喜びです!」

 どうして覚慶が旅支度をしているのだろう、と隣に立つ覚譽伯父さんを見上げれば、苦笑いをしながらそっと耳打ちしてくれた。

「菊幢丸ともっと一緒にいたいのだそうな。當山(=興福寺)では暫くの間、法要もない故に好きにさせてやってくれまいか」

 そういう理由なら仕方がない。先のことを思いやれば、覚慶との結びつきを密にしておくのは願ったり叶ったりなのは確か。精一杯サービスしてやるとするか。

 興福寺としては大事な跡継ぎである覚慶だ。覚譽伯父さんも槍や薙刀を携えた僧兵たちを護衛として多数用意した。

 護衛役の筆頭は、幹部クラスの僧侶である。興福寺塔頭寺院の一つ、宝蔵院の院主、覚禅坊胤栄。十文字槍を手にした二十代後半の男は柳生氏の次世代、新左衛門とも交流があるのだそうな。

 ……宝蔵院って、宮本武蔵と戦ったりしたとかしなかったとかで有名な、あの宝蔵院流槍術で御馴染みの、宝蔵院か!?

 これは魂消た、驚いた! 宝蔵院って興福寺の一員だったとは知らなかった。

 俺を吃驚仰天させたのは、他にもいて……。

「昨年は(それがし)の大願を叶えて下さり、誠に忝く候。本当に有難きことと伏して御礼を申し上げ奉りまする」

 いやいや、何で北畠さん()の具教君もここにいるのだ?

 しかも一人ではなく前回同様、子作り……じゃなくて木造具康と郎党を従えてさ。

(それがし)に、最高の師を二人も御紹介して下さるとは、世子様の御厚情に対し如何ように御恩を返せばよいものやら」

 あ、また具教君の激情劇場が始まったよ、参ったな。

 なぁなぁ、具康さんよ。あんたは大叔父さんなのだし、官位も上なのだからどうにかしてくれよ。それと自分らの後ろで片膝立ちしている集団は、どちらさん方なのさ?

「お初に御目にかかりまする。(それがし)は鹿島の大掾氏に連なる者にて、塚原土佐守にござりまする。以後御見知りおき戴きたく」

「拝謁の栄を賜り誠に忝く存じまする。(それがし)は上州箕輪城主、長野信濃守が一子、五郎にござりまする。厚かましくも参じ致しまして候。これなる者共は信濃守に従う者たちにて」

「長野信濃守に仕えまする、大胡武蔵守にござりまする」

「長野信濃守の許にて起居致しておりました真田源太左衛門にござりまする」

 一斉に平伏する武士たちの自己紹介に、俺の意識が瞬時にスパークする。

「武蔵守殿は卜伝師の高弟でもありまする」

 何故か自慢げに胸を張る具教君。

 って……え、上州長野氏の配下で卜伝の高弟!? それってまさか!?

「我ら一同、世子様の御下命に従い、謹んで御前に侍りましてござりまする」

 塚原土佐守を名乗った年配の武士が代表しての口上を、俺はどう受け止めたらいいのだろう。自業自得だと笑えばいいのか、因果応報だと泣けばいいのか、正解はどっちだ?

 左右を見回せど、何故か三淵も与一郎たち近習も、覚譽伯父さんさえも肩を竦めて首を左右に振って答えてはくれぬ。久秀と七郎左衛門は目を丸くしながら無言だし、胤栄たちなどは我関せずと素知らぬ顔をしていやがる。

 ただ一人、覚慶だけがキラキラした瞳で俺を見詰めていてくれていた。

「兄上は、東国にまで名が轟いているのですか?」

 ええ、まぁ、いや、どうだろう、ねぇ?


 卜伝も長野も、自分で立てたフラグなのだから回収するのは自己責任だけどさ、一遍には流石に無理だよ、お腹一杯だよ。それにさ、真田にフラグを立てた覚えはないけどな?

 まぁそんな、身から出た錆が極端に膨張したような訳で。

 溜息やら悪態やらが止められやしない俺を真ん中にした一行、凡そ百名もの大名行列モドキは無事に柳生荘へと辿り着いたのだよ、どっとはらい。

 今回は、新年らしく豪華な御節料理みたいに沢山の著名人を詰め込んでみました。

 具を詰め込み過ぎて、味が無茶苦茶で具材が煮崩れしてなければ良いのですが(苦笑)。

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