『 ナ・ラ・ナント 』(天文十五年、春)
様々な書き散らしを回収した回です。
削れず分割出来ず冗長で、誠に申し訳無しです(平身低頭)。
文章の不備を訂正致しました(2018.12.28)。
赤松氏旧臣の名前の間違いを訂正致しました(2020.02.13)。
特急電車を乗り継げば恐らく一時間くらい。地図上だと京都市の中心から真っ直ぐ南下すれば、奈良市の中心まであっという間である。
電車のない時代は船で川を下るのが一番早いだろう。賀茂川を下り巨椋池で木津川に船先を向ければ半日とかからない。
陸路だと水際沿いの旧官道を利用し、宇治辺りで一泊しながら行くのが尤も安心なルートだ。直線距離で約四十キロ。車ならあっという間なのだけどなぁ。
俺たちが洛中を発ったのは一月の終わり頃だった。暦の上では春だけど気候はガッツリと冬である。“拿雲”に身を包めども全身を完全防備出来る訳ではないから、手足の末端が寒くて寒くて仕方がない。
猪か何かの毛皮を手足に巻いてはいるが、前世と違い脂肪の薄い子供には結構堪える。焼いた石を布で包んだ温石がなかったら、低体温症必至だよなこれは。
念には念を入れた耐寒装備で、川舟に揺られて過すこと数刻。冬は水量が減るので川面は低くく、流れは緩やか。御蔭で船酔いを起こすこともない。風景や前後の舟に乗る者たちの顔をぼんやりと眺める余裕もあった。
夜明け間もなくに賀茂大橋付近を発った八艘からなる俺たちの船団は、もうすぐ巨椋池に到着する。船頭を含め五人も乗れば満員の小船で船団を名乗るのはおこがましいか。人よりも荷物の方が圧倒的に多いし。
などと思っている内に船団は巨椋池に到着した。見るのはこれで二度目だが、その景色は唖然呆然としか言いようのないものである。前回、石清水八幡宮に行った時は鉄砲のことで頭が一杯だったから、ちゃんと見てなかったからなぁ。
高度経済成長期の末期に生を受けた俺は、巨椋池を知らずに育った。
地名は知っているし古地図で凡その姿も知っている。しかし昭和の後半には完全に干拓されていて、ここに湖に準ずる巨大な水溜りがあったなどとは想像の範疇外だったからだ。
視界を占める圧倒的存在が当たり前のように存在しているのを見ると、本当に度肝を抜かれる。洛中洛外の稀少な人工物はいい加減慣れたが、自然の造形、それもこれほど巨大な物に慣れるには何年かかるのやら。
もしも、今の気分を平成の時代に味わうとしたら、インド洋でシーラカンスを釣り上げるようなものだろうか?
それにしてもデカイ池だ。
……などと思うのは俺だけだろう。この時代の認識では、ここは池ではなく川の合流地点であり分岐点でしかないのだから。壮大な景色に、ただ一人感動している俺のことなどほったらかしで、舟は宇治へと到着した。
船着場には武士の一団が待ち構えている。
「出迎えご苦労!」
先頭の舟から川岸に降り立った眞木嶋孫六郎が声をかければ、武士たちは一斉に腰を屈めて“お帰りなさいませ”と声を揃えた。武士たちは数世代に亘り室町幕府奉公衆に名を連ねる眞木嶋家の家臣たちである。
今日は巨椋池を含む宇治川流域を支配下に治める槇島城に一泊の予定だ。
……後に、足利幕府終焉の地とも言われる槇島城。うむうむ何とも不吉だねぇ。俺が向かう先が鞆の浦だったら笑うに笑えぬジョークだよな! 行き先が奈良で本当に良かった!
既に書状にて通知済みであったが、いざ将軍家世子の御成りとなれば槇島城は上を下への大騒ぎ。表御殿で過分な歓待を受けてしまった。宴席の上座にいるのが俺だけではなく上級公家の町資将さんも一緒だから、当然といえば当然なのだけど。
先月、正三位に昇格したばかりの高貴な御方の来訪に、孫六郎の母親や親族衆などが“末代までの誉れ”“御先代が存命であれば”などと感涙に咽ぶやら何やらで。いやはや、何とも気疲れする一夜だった。お蔭で爆睡出来たけどね。
爆睡から目覚めたのは夜明け前。不健康だった前世とは異なり健康優良児生活の朝は早い。いつもなら起きぬけ早々に書物を紐解いたりするのだが、他人様の御家では流石にし辛い。仕方なく寝床でダラダラしていたら与一郎たちが起こしに来てくれた。
用意された盥で顔を洗えば、与一郎が髷や髪型を整えてくれる。山中甚太郎が寝床を片付けている間に、彦部又四郎の手を借りて着替え完了。自分ひとりで出来ることなのに人手を借りてせねばならぬのが、特権階級の権利であるが義務でもある。
庶民感覚からすれば、面倒だよなぁ特権階級ってさ。
町卿と一緒に朝食を済ませ、茶を一服頂戴していたら“御無礼仕り候”と孫六郎の家臣がやって来た。
「堺よりお出迎えの方々がお着きになられました」
お、早いな。平伏する孫六郎の家臣の背後に姿を見せたのは着古しではなくパリッとした姿の滝川彦右衛門と、佐々木改め黒田下野である。
昨年末、鉄砲を携え助五郎の元へと赴いた彦右衛門はそのまま、助五郎と共に堺の天王寺屋本店へと行った。彦右衛門に与えた使命は、鉄砲及び弾薬製作の監督役である。史実でも確か鉄砲の腕前で信長に召抱えられたはず。鉄砲に関するアレコレを任せるのにこれほど適任はいないだろう。
彦右衛門に遅れること数日、佐々木下野とその一党並びに龍造寺隆信君主従も堺へと移動させた。隆信君を送り出す際には、くれぐれも食べ過ぎ呑み過ぎに注意することを口が酸っぱくなるくらいに言い含めた。
馬に乗れぬ武将は必ず戦場で遅れをとるからな、と。
お前が言うな、と指弾されそうなことを言ったものだが、俺は馬に乗れずとも良いのだ。跨がれるし、そもそも戦場になぞ出る気はないのだから。だって戦場って怖いし、危ないし。自殺願望か極端な嗜好のマゾでもあるまいし、誰が好き好んで危険地帯に行きたいものか。俺は百まで生きて畳の上で大往生するのだ!
まぁ武家に生まれて俺みたいな考えを持つ奴は異端中の異端に違いない。武士とは命を賭けてでも栄達を掴み、名を残したいと思う生き物なのだから。
佐々木下野もまた、そんな生き物であった。
堺へ出立する前日のこと、隆信君と同じように是非とも名を賜りたいと懇願されてしまったのである。いやいや既に重隆って名前があるじゃないか、と言ったら、息子二人に賜りたく、と返す。
そう言われてもなぁ、隆信君と違って俺は二人の史実の名前など知らないし。いやいやと是非ともを何度か繰り返した後、押し問答に観念した俺は別の提案をしたのである。“ならば、苗字を変えるか?”と。
六角氏や京極氏もそうだが近江国出身者には“佐々木”が矢鱈と多い。佐々木下野も近江国がルーツだ。御先祖さんは黒田村に根付き、黒田判官を称したらしいが何故か子孫は佐々木に復している。
今日この時より、その方の血族は先祖伝来の名乗りである“黒田”を名乗るべし。
そう言ったら“有難き幸せ”と大号泣。むさい中年がおんおんと泣く姿は可愛らしくも何ともないので、そろそろ勘弁して欲しいのだけど。
然様な訳で、史実通りに黒田重隆がこの世に誕生したのである。
……小寺、って苗字をすっ飛ばしたのは史実通りじゃないけれど。これくらいの改変は別にいいよね?
年明け前に隆信君主従を堺へ送り出したのは、いつまでも天台宗系の寺院に居候させる訳にはいかなかったからだ。もしも比叡山に取り込まれてしまったら、と危惧したのである。
一方、黒田一党に関しては別の理由だ。助五郎経由で充実させた装備の受け取りと、人手を増やすためだった。
隆信君の実家を再興するのに黒田一党だけでは兵力が足りない。既に黒田下野配下の郎党が旧赤松氏家臣で浪々の身となっている者たちへのスカウティングに奔走していたが、手応えが今一つだという。人手が集らないではどうにもならない。どうにもならないでは困るので、黒田下野自身にスカウト活動を命じたのである。
彦右衛門と並び胸を張って下座に平伏する姿をみれば、どうやら首尾は上々らしいな。
それじゃあ早速、報告してもらおうか。
赤松氏の旧臣からは上月なんたら、神吉なんたら、魚住なんたら、と羅列されたが正直言って、誰が誰やら。耳に引っかかったのは、後藤藤次郎と明石修理介と衣笠豊前守の三人だった。もしかしたら後藤は又兵衛の、明石は全登の親父か爺さんかもしれないな。衣笠は……鉄人の祖先かも?
後は備中国牢人の大饗左兵衛と甚四郎親子に、摂津国の渡辺惣官家一党。大饗何たらが誰かは知らないが、渡辺には覚えがある。惣官家が何かは判らないが恐らくは本家とか惣領って意味だろう。
何よりも、大阪市内で生まれ育って“渡辺”にピンと来ない訳がない。渡辺綱を始祖とする一族、それが渡辺氏なのだ。今の当主は与左衛門尉稙というらしい。……だけど何故に渡辺グループが?
まぁいいや。
黒田下野の報告では、武士と小者を合わせて六十三名を採用したのだそうな。その内の約七割を渡辺グループが占めているらしい。由緒ある摂津海賊の末裔が主力となるのは、願ったり叶ったりの状況かもしれない。
大儀であった、と下座に一声かけてから町卿へ向き直り平伏する。
「町宰相(=参議)様におかれましては何卒心安く御出立あそばされますよう」
「うむ、世子殿の御配慮確かに頂戴した。誠に有難く思う。その方らにも苦労をかけようが何卒よしなに頼む」
「「何卒お任せあれ」」
って、何で彦右衛門も言うのだよ。お前は堺に左遷……もとい常駐だろうがよ、とツッコミを入れようとしたら機先を制するように一通の書状を差し出してきやがった。
流石は空気を読む達人だよ。平成の御世ではブラック大名と悪評多き織田信長の下で、譜代ではない中途採用組から大幹部の一人にまで出世しただけはある。残念ながら今の時間軸では俺の配下からは逃がさない予定なので、関東方面軍司令官には就任させないけどな!
受け取った書状の送り主は助五郎だった。中身を披見すれば点目になるくらいの、まさかの内容であった。おのれ、どうしてくれようか!
「何れ改めて祝わせてもらうと伝えてくれ。事後の音信とは水臭いぞ、ともな」
年明け早々、結婚したのだそうな。しかもお相手は宴席でオモテナシをした一人、亀屋の五位女さんなのだと!
五位女さんの後見役をしていた吉田与兵衛の爺さんの許可が下りたのは俺の御蔭でもあると、矢鱈めったらに感謝の言葉が書き連ねてあったが。去年の洛中有力者を招いての宴席は、プロポーズ大作戦だったってことかぁ!
去年末に知らされていてもどうしようもなかったから、事後報告だったことに不満はないけれど。それでもやはり、前もって知っておきたかったなぁ。うーむ、どのようなお祝いをしてやろうか?
洛中に帰還するまでには考えて、用意しておかなければ!
彦右衛門と黒田下野を伴った町卿と、その従者たちと大量の荷物を城門にて見送った俺は、再び城内の表御殿で待機だ。俺のお迎えはまだ来ないからな。暇潰しに孫六郎を含めた近習たちと紙飛行機を飛ばしたりして過すこと、凡そ一刻。
漸く奈良県からのお迎えがやって来たよ。
「お初に御目にかかりまする。某、興福寺官符衆徒総代、筒井栄舜坊が臣、筒井左門と申しまする。世子様におかれましては誠に御機嫌麗しゅう」
「お初に御目にかかりまする。某は興福寺官符衆徒が一人、井戸若狭にござりまする。何卒お見知りおき願いたく存じまする」
栄舜坊って確か……順慶の親父の名前だったよな、“元の木阿弥”で御馴染みの。その家臣で、尚且つ苗字が筒井ってことはきっと順慶の叔父さんに違いない。井戸若狭ってのは史実の未来において松永久秀の大和国討ち入りの結果、コテンパンにやられた井戸良弘の親父か叔父さんなのだろう。
然様な二人がお迎えとして来たので、孫六郎とはここで暫しのお別れだ。
今回の旅行日程は、概ね一ヵ月の予定である。
洛中を長期間留守にするのはこれが初めてではない。三年前の秋は近江国の坂本で一ヶ月を過したっけ。あの時はトンチキ親父の私的理由による逃避行であったが、今回は半公用である。
さて都を留守にするに当たり、近習たちの処遇をどうするかを考えねばならなくなった。前回は緊急避難であったから最小限の人数で行動せねばならなかったので、大半を留守番として慈照寺に残すことに。
しかし今回は、重要性はあれど緊急性はない小旅行みたいなもの。大人数を引き連れての団体旅行もアリかもしれないが、参勤交代でもあるまいしと自嘲しつつ自重する。ならば、春休みにしても良いかもしれないな。
新年の行事が一通り終了する小正月の翌日。慈照寺の会所に一同を集め、大和国下向へ同道させる者五人を指名した俺は残りの者に一ヵ月の休暇を言い渡したが、ただの休みではないことも併せて付け加える。
何れ家督を相続する者は、御家の当主となった際に何をすべきなのかを考えるように課題を与えた。洛中に自宅のある者への課題は、洛中を隅々まで見聞せよ、である。
つまり、漫然と休むな、ってことだ。
村井吉兵衛や田中久太郎たちには、交代で慈照寺の留守番役を勤めるよう伝えた。家族との団欒も忘れるな、とも。早く歴史に名を残す有能な子供を作ってくれよ、って言ったらパワハラかな?
言わないけどな、そんなこと。
彼らの働きには、余人に変え難いほどに満足している。先々に何かが起こったとて、彼らが傍にいてくれるのなら百人力だ。日々の平穏も彼らなくしてはあり得ない。
そんな頼もしい限りの彼らが一人も侍っていない今回の旅は、少々不安でもある。例によって石成主税助が供奉してくれているものの、武芸に秀でた人物ではなし。半公務なので奉行衆から米田源三郎と、奉公衆からは大館十郎の叔父に当たる伊予守晴忠が随行してくれてはいるが、どちらも腕に覚えあり、とは言い難いタイプだからなぁ。
やはり頼みとするのは傅役たる三淵伊賀守晴員だよな。俺の命運は、三淵一家にかかっているといっても過言じゃない。与一郎には俺の筆頭秘書官的立場として、弥四郎は俺の不在時の近習頭取として、それぞれ頼りにしているのだ。
頼りにしているといえば、孫六郎の未来にもだ。何故なら、孫六郎は数年の内に槇島城主となる立場なのだから。
槇島城は、洛中への交通及び物流のターミナルである巨椋池の東側、京洛と南都の中間地点にあり、宇治五箇荘を統べる要害であった。因みに西側、淀川水系には山崎城と勝竜寺城がある。
何れも室町時代中期には築城されているが、現時点で拠点としての重要度では槇島城が他の二城よりも遥かに図抜けていた。槇島城の重要性が失われ廃城の憂き目をみるのは、豊臣秀吉が伏見城を築いてからだ。
然様な要衝の城主となる孫六郎の背には応分の責任が圧し掛かっている。昨年の大水害被害からの復興改修工事を大過なく勤めた家臣団を統率せねばならぬのだ、生半可な人物では城主は務まらないだろう。
慈照寺で惟高妙安禅師をはじめとする教師陣の厳しい指導にも、へこたれなかった孫六郎。家臣団にコントロールされるお飾り城主にはならないだろうが、人の上に立つ者としての威信を示し損ねれば謀殺されるかもしれない。
もしお飾り領主となったとしても、それはそれで一つの生き方だ。傀儡としての人生を大過なく全う出来ればだが。その時は傀儡として生きる為のノウハウを是非とも伝授してもらおう。投げ捨てられたり海に叩き込まれたりしないのならば、お御輿で担がれて過す人生も素敵だろうから。
然れど幸いにして、孫六郎と家臣団との仲は悪くなさそうだ。
昨日今日の観察程度では判らない部分もあるかもしれないが、表面上に僅かでも現れていないのならば問題なかろう。
十代半ばの年齢ながら、人の機微に聡い与一郎や忍者の一員である甚太郎、近衛家一族の端くれとして貴族社会のドロドロも知る又四郎にもそれとなく確かめたが、槇島城内の雰囲気は俺が感じたものと差異がなかった。
並みの大人がボンクラに思えるくらいに賢い少年たちの評価だ、信用しても良いだろう。眞木嶋氏とその家臣団がいる限り、槇島城一帯は大丈夫であるに相違ないと。
しかし、眞木嶋氏は吹けば飛ぶような小名とも呼べぬ国人領主でしかない。世情の波に翻弄されるのが常で、状況次第では幾らでも立場とアドバルーンを変更するだろう。
況してや今年は有為転変の年だ。
洛中に戻り次第、近習たちには個別面談をしないとなぁ。
将軍家が豹変した時に同道するのかしないのか、以外の選択肢があることを伝えないとね。旗幟を鮮明にせずとも済む道を選ぶ自由があることを。
有為転変といったら、赴く先の地域の来し方もそうである。
大和国には鎌倉時代から現在に至るまで正式な守護職が任命された実例がない。分郡守護ならば宇智郡が河内畠山氏に、宇陀郡が北畠氏に任命されていたりするけれど。
分郡守護とは、一国を構成する郡単位で任命される守護職のことだ。ある程度の郡を束ねる肩書きが半国守護となるが、半国守護の大半は共同統治者のことを意味するのだからややこしい。
そんな守護職不在の地において、実質的に守護職を自他共に認めるのが興福寺だ。理由は明解で、大和国一円の荘園をほぼ領しているからだった。
建立の起原は、大化の改新の立役者の藤原鎌足が山城国山科に建てた山階寺。紆余曲折の後、鎌足の息子の不比等が平城京遷都時に春日大社の庭先にデンと移築した、七堂伽藍の巨大寺院である。
寺院を守るために多数の僧兵を擁し、広大な荘園を守るために無数のガードマンが配置された。ガードマンとはつまり、大和武士のことだ。しかし平清盛を宗主とする平家という暴力装置の前には、僧兵も大和武士も無力の二文字。
源平合戦の序盤、平重衡が率いる軍勢による南都焼討において近隣の東大寺諸共に、大半の伽藍が焼亡したのだから。
しかし焼討直後から始まった復興事業により速やかに再建された。それから何度も火事に見舞われては再建する、の繰り返しが行われている。
大小様々な受難に遭いながらも、めげずに立ち上がるのは興福寺のみではない。大和武士たちもまた、そうであった。数え切れぬほどの小競り合いを繰り広げた結果、筒井氏vs十市氏に終始するのが現状である。
興福寺という蓋がされた大和国というコップの中で日々行われる力比べ。井戸氏は越智氏が凋落し始めたのを契機にグループを脱会し、今は筒井氏に与しているらしい。
強者の理論よりも、弱者の実践が息づいているのが大和国のリアルな現実だったりする。孫六郎を連れて来ることが出来たなら、さぞや勉強になったことだろう。赤井五郎次郎や池田弥太郎にとっても、生きたお手本だらけの土地だよなぁ。
丹波国の赤井氏も摂津国の池田氏も、強者の暴力の前に臥薪嘗胆を強いられた歴史を持つのだから。歴史といっても二十年以内の話だけどね。
さて興福寺に話を戻せば、今を遡ること十五年前の享禄四年のこと。
細川京兆家を中心とする政治的事情を火種として畿内と北陸で猛威を揮った一向一揆は、丸一年以上も暴れ回ったにも関わらずいっこうに落ち着きをみせなかった。
翌年の享禄五年の夏、その暴徒が勢いを衰えさせぬままに大和国へも乱入。破壊と狼藉の限りを尽くしたのである。特に狙われたのは興福寺と境内の塔頭寺院。多くの堂宇が灰燼に帰した。
それから僅か十四年の年月で、興福寺は往時の威容を取り戻しつつあるとか。仄聞するに復興の進捗度合いは、焼亡前の七割ほどだそうな。再建がなったのは主要な堂宇とシンボルである五重塔、残りも今年中には完成するのだと。
唸るほどに銭のある寺院は剛毅だよねぇ、太っ腹で羨ましいことだ。
今回の将軍家世子の大和国下向は、興福寺再建事業の一環である南円堂再建落慶法要とそれを祝しての猿楽大和四座競演による大興行に出席するためである。
直接の依頼主は観世宗節師で、命令を発したのはトンチキ親父なのだが、体裁としては一応、興福寺からの招待となっていた。
招待状の差出人署名は“興福寺別当覚譽”。言い換えれば我が伯父さんによる、物腰柔らかな強制出頭命令だ。
再び川舟に揺られ、今度は木津川を流れに逆らって進み、木津の市場町と思しき所で上陸したら昼食タイム。この近くで平重衡が打ち首になったと井戸が笑いながら語り、冷えた握り飯を不味いものにしてくれたぜ。TPOを考えろよ、この野郎めが!
食休みをしたら今度は馬に乗り換えて出立。勿論、全員が騎乗できるはずもなく、馬上にいるのは俺を除けば案内役を勤める筒井と井戸と、与一郎と又四郎と三淵のみ。近習の二人は相乗りで、口取りするのは甚太郎である。
いつものように主税助に手綱を預けながら、枯れ木同然の落葉樹ばかりの雑木林を貫く道をポックリポックリと通り抜ける。樹木により塞がれていた左右の視界が明るくなれば遥か先に、こんもりとした山が見えた。
澄んだ寒空の下、遠目にも青々として見えるのだからきっと若草山だろう。すると近くに見える屋根は東大寺の大仏殿で、鉛筆の先っぽのようなシルエットは興福寺のシンボルの五重塔だろうな。
薄が生い茂る野原の僅かな起伏を避けるように切り開かれ、踏み固められた奈良へと続く道。春の盛りまで未だ道半ばの色褪せた光景に、北風が寒々しく吹き抜ける。“拿雲”を着込んでいても楽しみようのない世界だよなぁ、全く。
興福寺までは後一刻もかかりませぬゆえ、と筒井がこちらを気遣えば、これより先にある奈良坂の般若寺には三位中将(=平重衡)の供養塔がござる、と井戸が観光ガイドをしてくれた。
何でそんなに重衡をプッシュするのだ、井戸若狭よ。恨みでもあるのか、それとも自慢したいのか、俺はそっちの方がよっぽど気になるけどな?
「観世の演目に『重衡』がござりまするが、もしや誠に三位中将が迷い出でたれば、某が一刀のもとに斬り捨てましょうほどに」
隙あらば重衡ネタをぶち込んでくる井戸の観光案内を聞き流しつつチラリと視線をずらせば、筒井は筒井で畏まった面持ちで馬を操っている。去年の夏に、トンチキ管領のライバルを担いで大失敗したのを恥じているのだろうか?
そのような訳はないよな。勝敗は兵家の常とか何とかと昔から言うし。恥じたり悔やんだりしているなら、例え当主ではなく代理であろうともノコノコと顔を出したりはしないだろうし、厚顔無恥とも違うのだろう。
去年の敗戦などどこ吹く風で、ちゃっかりと筒井グループに加盟している井戸もまた、同じなのかもしれない。
トンチキ管領のライバルを担いで挙兵する、ってのは幕府に対して反旗を翻したってことなのだが。それを謝罪するでもなく言い訳をするでもなく、なかったこととして平然としている大和武士の面の皮の厚さよ。いや、向背常ならぬ、も室町時代の常識か。
反旗を翻すよりも翻される方が悪い、咎め立て出来るものならやってみろ、ってことだろう。
然様なことをつらつらと考えている内に、俺たちは終点の興福寺に到着する。太陽の傾き加減から推察すれば、今は午後の二時か三時頃だろうか。久々の他出、それも添え物ではなく主賓としての外出は初めてなので、何だか疲れたなぁ。
到着後直ぐに覚譽伯父さんに挨拶したら、夕餉もそこそこに寝所に引き篭もる俺。
法要は三日後。期間は五日間。トンチキ親父の名代を務めねばならぬ将軍家世子って立場は明日から頑張るからさ、今日は一先ず閉店ガラガラお休みなさい、だ。
そして盛り沢山で色々あった八日間の、本日は千秋楽。
午前中は次々と訪れる大和武士たちの挨拶を受け、午後は宗節師と打ち合わせをし、夜は覚譽伯父さんの隣で大和国各所から参集した僧侶や神官や有力商人たちとの宴席三昧。
平均すれば一日で凡そ百人と顔合わせをし続けた三日間。もう誰が誰やら、さっぱりだ。記憶に残ったのは、柳生荘から来た者たちと外国人の末裔だという商人くらいである。
遂に会ったぜ、あの柳生一族と! 当主の因幡と息子の新左衛門、因幡の弟の七郎左衛門が現れたが、如何にも剣豪といった雰囲気も陰謀を企んでいそうな印象もなく、ちょっと拍子抜けだったけどね。
外国人の末裔は、興福寺の庇護を受けながら奈良坂近辺で代々商いをしているという、天竺屋の楠葉月次なる者だった。三代・義満の頃に天竺より来日した初代は“天竺”を苗字としたが、二代目からは転居先の地名に苗字を変更したのだそうな。
確かに顔立ちはのっぺりとしておらず、周囲の者たちよりも彫りが深いしワシ鼻気味だなぁ。結われた髷の先もモジャッとしているし、目の色が青ければシルクロードでラクダに跨っていてもおかしくなさそうだ。
流石は平城京以前から国際都市として賑わいをみせていた土地柄だけはある。多士済々というか、何でもありというか。洛中もそうだが、都って場所は本当に吃驚と仰天の履歴書が当たり前なのだなぁ。
怒涛の如く押し寄せる者共にアップアップしていた所為で、兄弟だけで時を過ごす暇もなかった。覚譽伯父さんの後継者となるべく修行中の我が年子の弟君と親しくする時間が、さ!
幼名は千歳丸。出家後の法名は、覚慶。
俺が殺されたら、義秋を名乗ってから義昭となり、室町幕府の最終相続人となって歴史の徒花となる男。生前は迷惑放題の問題児で、死後は猶子とした醍醐寺三宝院門跡の義演の日記に“特に思うことなし”などと思いっきりdisられてしまった、不甲斐なき人物。
ところが平成の後半くらいに史料研究が進むと、意外とボンクラではなかったようだぞと評価が一変しつつあったりもする謎の人だったりもする。
本当の人間性はどうなのかをじっくりと確かめたいのだけど、状況が許してくれなかったぜ、こん畜生め!
何だかんだの三日間が過ぎ、落慶法要なる祭典がスタートしたらしたで益々スケジュールがタイトになったぜ、全くもう!
午前中は本堂にあたる金堂で務められる祝賀の大法要。導師である覚譽伯父さんを中央に、二百人ばかりの僧侶が一斉に経を唱えるので迫力満点。唱和された音声が堂内にわんわんと響くサラウンド状態。
覚慶も最前列の中央付近で、顔を真っ赤にしながらボーイソプラノを張り上げていた。
僧侶たちの前には経机が一人一つ用意され、経本が積み上げられていた。経本のタイトルは『大般若波羅密多経』。玄奘三蔵が漢訳した全十六部六百巻に及ぶ恐ろしい量のお経の、一部分だ。
『第十六・般若波羅蜜多分』という最終章だけを抜粋した全八巻の『善勇猛般若経』。それを全て、読み上げるように唱えるのが今法要のメインプログラムである。
因みに俺は、大衆と呼ばれる一般参加者枠の最前列で座し、ひたすらに口を閉ざして合掌だ。左右と後ろは与一郎たちが固めてくれているので、居眠りしても前に倒れぬ限り大丈夫だった。
五月蝿くて暇な午前の部が済んだら昼食タイム。胡麻や大豆が使われているので栄養価だけは保証されているが、味の薄い量の少ない何とも粗末な精進料理に目も口もショボショボだよ。これではイスラム教徒みたいに断食した方がマシじゃないかよ、全くよ!
内心でブーブー言いつつ食事を済ませたら、午後の部が始まる。南円堂の前に設けられた能舞台での日替わり興行だ。境内に詰めかけた大和国一円から参集した様々な階級の人々と一緒になっての舞台鑑賞である。
尤も俺は、升席のような仮設の特等席から舞台を見下ろす形での鑑賞だけどね。何本もの太い丸太を足場にした上に板を並べて手摺りで囲い、厚めの緋毛氈を敷いてある。特等席は舞台の近くに三つ並べて設けられていた。
俺は覚譽伯父さんや三淵や与一郎たちと一緒に、真ん中の特等席をゆったりと独占している。右隣では幹部クラスの僧侶に囲まれて覚慶が座していた。左隣は筒井たち主だった大和武士が微妙な距離を空けて座っている。
初日に舞台に立ったのは宝生座。番組(=演目)は『鵜飼』だ。禁忌を破って殺された鵜飼の老人が法華経の功徳でもって成仏する物語である。宝生座は謡いに特長がある流派で、現当主は四代目の宝生一閑。若かりし頃に関東へ活動の場を移し、服部四郎左衛門勝政の名で北条家に仕えているのだそうな。
二日目の金剛座の番組は、牛若丸が元服して名高き野盗を討ち取るという勇ましい内容の『烏帽子折』だった。金剛座は華麗で優美な舞いが売りであったが、現当主の七世金剛氏正は若さに任せた豪快な舞いで観衆を沸かせる役者である。
三日目の金春座が演じた『春日龍神』とは、天竺へ求法の旅に出ようとした明恵上人が春日の地にて釈迦如来の奇蹟を感得するといった番組だ。金春座の現当主は、六年前に宗家第六十一代目を相続したばかりの金春喜勝。不世出の役者であった祖父の禅鳳の偉大さを受け継ごうと、四苦八苦しているらしい。
因みに、聖徳太子の側近であった秦河勝を始祖としているために、他の流派の当主と桁違いの世代を重ねていると豪語していた。
四日目に登場した七世宗節師の観世座は、実にオーソドックスな『老松』という番組を演じた。大宰府を訪れた都人の前に梅と松の精が現れ、千歳万歳を言祝ぐのだ。
“君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで”で締めくくる、新春に相応しい演目といえよう。
日替わりで演じられた奉納舞台は、何れも諸座が得意とする伝統的な番組である。目新しさはないものの、長らく演じられてきた番組ゆえに洗練されていた。
前世で和風ミュージカルを鑑賞したことはなかったが、物語の内容が判ってみると結構面白いものだ。もっと文化的な生活をしておくべきであった。後悔先に立たずだなぁ。
「本来の約定なれば、新規の舞台をとっくに演じてもらわねばならぬことであったがなぁ。去年は夏の大水でそれどころではなかった故に、堪忍してやったが。
……菊幢丸よ。そなたは如何なる知恵を宗節に授けてやったのじゃ?」
遂に迎えた最終日の午後の部。
覚譽伯父さんは手にした中啓(儀式用扇子)で、俺の脇腹をグリグリと抉る。着膨れているから痛くも痒くもないが、痛くもない腹を探られるのは片腹痛いことである。
それは後のお楽しみにて、と誤魔化せば、早速舞台上でBGMの演奏が始まりましたよ。鑑賞中はお静かに、ってね。
昨日に続き今日も面を被り、緩やかな振舞いで演技する宗節師。
一昨年の夏に覚譽伯父さんと宗節師の間でなされた約束。それが今から果たされるのだが、成功するか失敗するかは紙一重である。何故ならば、これから演じられるのは宗節師の完全新作の番組だからだ。
物語の主人公は、鹿島大社の神である。西の彼方に良き土地ありと聞き及び、鹿に跨りトコトコと奈良へとやって来るという春日大社の縁起をベースにした、大和国の者が熟知する内容が舞台で繰り広げられる。
奈良へと到着した鹿島の神は平城京の賑やかさと物珍しさにワクワクする日々を過していたが、数年も過ぎると飽きてきて無聊をかこち出す。故郷には香取の神が友としていたが、ここに友はいない。“嗚呼、寂しや、寂しや”と嘆くだけの日々だった。
そんな、ある日。遥か西より眩しき存在がやって来る。釈迦牟尼仏と名乗る存在は地に降り立つや慈悲の心で、鹿島の神の心に巣食う憂いを速やかに取り払った。憂いから介抱された鹿島の神は歓喜を表す。
舞台の中央でワキ方である釈迦牟尼仏の手を取り、囃子方の奏でる伸びやかな曲調に合わせて一際朗々とした声で謡う、シテ方である鹿島の神。
「♪御佛のおわす、春日の庭に、皆々集えよ、手と手を繋げ。
邁みて、務めよ、邁みて、務めよ、邁みて、務めよ、邁みて、務めよ、邁みて、務めよ、邁みて、務めよ、尊きは別なく斉しき♪」
天にも届かんばかりの音声で謡いきるや、宗節師はひと呼吸置いてからタタンと床を踏み鳴らす。それが合図であった。
合図を受け取った俺はすっくと立ち上がり覚譽伯父さんの手を引っ張る。何事かと目を丸くする伯父さんに、いざ参りましょうと誘いをかければ、訳も判らずながら同じように手摺りを跨いでくれた。
威厳を意識しながらゆっくりとした動作で、伯父さんと手を繋いだままで階段を降りる。すると事前の手はず通りに与一郎と又四郎と甚太郎も立ち上がり、隣接する特設席へと踏み入るや、全員が覚慶の許へ。
又四郎に手を引かれ、与一郎に背を押され、舞台へと下りて来る覚慶。甚太郎は特別席に留まったままで牽制するように両手を広げており、高位の僧侶たちはどよめくだけで立ち上がれずにいる。
俺は涼しい顔して、きょとんとした顔の覚慶の右手を掴む。囃子方の奏でるテンポが少しずつ速まり高まっていくのに合わせ、キビキビと動く近習たち。
ほどなくして、用意が整った。
宗節師を真ん中にして、右側に俺、覚慶、又四郎が、左側に覚譽、ワキ方、与一郎が横並びとなる。
さぁ、レッツ・フォークダンスだ!
「♪御佛のおわす、春日の庭に。
皆々集えよ、手と手を繋げ!
邁務、邁務、邁務、邁務。
毎邁務、無別斉尊!
邁務、邁務、邁務、邁務。
毎邁務、無別斉尊!
えい! えい! えい! えい!
御佛はおわす、我らの中に。
輪を為し、和を為せ、手と手を繋げ!」
先ずは右足を左斜め前へ踏み出し、続けて左足をそのまま左へとスライドさせる。
次に右足を左後ろへと踏み出したら、左足を左へスライドさせる。
そして右足を軽く前へ蹴り出したら、左右の足の位置を素早く入れ替える。
それを繰り返した後、サビの部分で弾むような足取りで前へと進み、繋いだままの両手を上に挙げる。
輪を窄めたら、今度は後ろへゆっくりと下がり、元のように輪を広げる。
右、左、右、左と交互に足を出して横歩きをしてから立ち止まり、左足を軸足にして右足を左前、右前、左前、右前に爪先だけでステップし、続けて左右の足を逆にして同じ動作を繰り返す。
立ち止まってからは、両手を離して手拍子をリズムに合わせて派手に打ち鳴らす。
慣れれば難しくない一連の動作だが、初めての者には中々に大変だ。俺の指導の許、何度も練習を繰り返した宗節師ら観世座の者たちは難なくこなす。
近習たちも初舞台ながら堂々と胸を張って、見事な足捌きを見せていた。
覚譽伯父さんと覚慶は、当然ながらまごつき、ぎこちない動きをしていたが、それは最初だけのことで、気がついたら僅かな時間で近習たちと同じレベルとなっている。
流石は風流踊りが大好きな室町人だな。少々所作に拙さはあれど、笑顔であれば成立するのがフォークダンスの良いところ。横並びだった俺たちは手を繋いで輪を描き、時計回りにグルグルと囃子方の演奏と謡いに合わせて踊る。
一頻り謡い踊れば、全員の顔に一つの共同作業をやり遂げた者だけが浮かべる共有の笑顔があった。
舞台の中央に進み出た宗節師が、両手を広げて観衆全員へと呼びかける。
「然れば皆々様方、お隣の方と手を繋ぎ為され!
友を得為され、共に踊り為され!」
この日、大和国に“大和惣国風流踊り”なるモノが生まれたと、多くの情報通の日記に記されたのだと後に聞いた。
聖俗の別なく、男女の別なく、長幼の別なく、敵味方の別すらもなく。
興福寺の境内に集った者たちが幾つもの輪を作り、連動して一つの大きなうねりを生み出したのが、驚嘆すべしこと、と日記の作者たちの心に深く刻まれたのだそうな。
以前ならば刃傷沙汰に及ぶ深刻な事態が発生したとしても誰かが、
“邁務邁務すべし!”
などと宣へば、状況は一変。一頻り踊り終えれば皆が和やかな気分となり、無事の解決に至るのだってさ。めでたしめでたし?
その日の夜。
打ち上げの席で、落慶法要の大成功に喜色満面の覚譽伯父さんからは“晴れる哉”評価を頂戴した。失敗せずに済んで良かったと、宗節師と杯を掲げ合う。勿論俺は、酒は酒でもアルコール度数の低い甘酒だ。
一つ二つと杯を干すごとに、頭上に浮かぶクエスチョンマークが増えていくのが止められない。
青春時代に大好きだった、超時空的な要塞の物語的な事象が本当に起こるとは! 物語では古代人の歌謡曲が異種族宥和の絆となったが、今日のはラブソングではなく聖書の一節を引用した素朴な楽曲である。
目の前では筒井左門が十市氏の当主と向かい合い、どちらが先に倒れるかと足捌き比べをしていた。負けたら大杯での一気呑みの罰があり、勝てば大杯に酒が振舞われる。所謂、飲兵衛同士のお遊びだ。
越智氏や古市氏や井戸若狭などがやんやと手拍子を打ちながら、覚えたばかりの“邁務邁務”を合唱する。誰かが勝てば喝采を上げ、誰かが負ければ囃し立てる。
美しい奈良の都はすっかり寂れてしまったが昔から変わらず霍公鳥が鳴いてくれるのさ、などと詠ったのは大伴家持だったっけ。
これからは大和国の彼方此方で、むさ苦しい面の武士たちがヘブライ語由来の言葉を盛大に謡うのだろうか?
何とまぁ、魂消たことだ……南都だけに、な!?