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『 学び舎のモーメンツ 』(天文十一年、秋)

 改訂に時間がかかりました。投稿が遅くなり誠に申し訳無しです(平身低頭)。

 全体の前半分を書き換えましたので、ほぼ別内容になっているかと。

 誤字誤表記の御報告に感謝を!(2021.03.02)

挿絵(By みてみん)


「『老子』に曰く“天之道、不争而善勝、不言而善応、不招而自来、繟然而善謀。天網恢恢疏而不失(天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして(おのずか)(きた)り、繟然(せんぜん)として善く謀る。天網恢恢()にして失わず)”。

 釈さば即ち“天地開闢以来、この世には天の定めし“(ことわり)”があり、(ことわり)に違する者は決して見逃されず天譴(てんけん)(=天罰)が下される”と為りまする。

 (いにしえ)の者達は須らく然様に考えておりました。

 天の定めし(ことわり)を人の用いる言の葉へと調えたものが、“法”となりまする。

 法とは物事の理非曲直を(つまび)らかに致すものでありまするが、言の葉を遍く駆使せねば世の理非は明らかにならず、文字にすれば膨大となりましょう。

 天意を図り正しく法を用いるは誠に難業でありまする。

 そこで唐土(もろこし)の天子は、喫緊の要諦たる法をのみ厳選し抜き出しました。これが“律”にございます。

 律に基づき天朝が発せられるものが、“令”となりまする。

 律と令は不可分なるが故に“律令”とも申します。

 律令を礎として形を為すものが“制”となりまする。

 此方(こなた)ら天朝に仕えし公家衆は律令に則り政を担い、制に従いて家内を治めて参りました。

 さて、武家衆に於かれては如何でありましょうや?

 武家衆は公家衆と似て非なるものにござりまする。似ているは武家衆が公家衆の行いを手本と為されているからであり、非なるは(しょう)を異するからでありましょう。

 時に貞永元年。鎌倉府の三代執権であった観阿入道(=北条泰時)が一門及び評定衆らと合議し、武家衆による武家衆の為の律令を整えられました。

 それがこれより講義申し上げる、『御成敗式目』にござりまする」



 まさか四十歳を過ぎているのに教室で勉強する羽目になるとは!

 全く世の中ってヤツは油断出来ねぇな。

 現代から中世にバック・トゥ・ザしたって事実自体が、油断出来ない忌々しき事態なのだけどさ!

 って愚痴は今更過ぎるので、さておいて。

 まぁ勉強するのは嫌いじゃないし、此方から望んでのことだから不満はないのだが……何故に俺は只今授業中であるのか?

 抑々の発端は、俺が抱く不安にあった。

 見かけは子供でも中身は不惑を過ぎのオッサンである。少々のことであれば賢しらな子供の戯言で済むであろう。小学生当時の言動を思い出せば何とでも胡麻化せるに違いない。

 しかし残念ながら現代人だった俺は、室町っていうか戦国時代を過ごした経験がない。

 つまり子供を装うことは出来ても戦国の世を生きる人間のフリは出来そうもないってことだ。

 出来ない、と断言する理由は単純明快。俺は戦国時代の常識と価値観を知らないからである。

 これは困ったな、が正直な感想だった。早急に現代人から中世人に成りすまさなければ先が思いやられる、とも。

 ボロを出さないようにするにはどうすれば? 付け焼刃でも何とかならないか?

 正しい猫の被り方は?

 さぁどうするどうするどうする君ならどうするかな?


 だけども、そればかりを考えていた訳じゃない。

 最初は“どうすれば現代に帰還出来るのか?”を考えていたのだ。

 拉致されるように近江国へと移動した当初は、踵を打ち鳴らして“お家が一番”と唱え続けたりもした。

 御蔭で踵が腫れあがったが、決して無駄な努力ではなかったことを付記しておこう。俺の奇妙な行動は、将軍家家臣団の同情を大いに刺激したからだ。

 傅役の三淵伊賀守は“おいたわしや”と言い、長老格の大館常興は“必ずや帰洛致しましょうぞ”と皺くちゃの顔を更に皺くちゃにして号泣していたなぁ。

 家臣団の哀感が増すにつれ、俺は冷静さを取り戻した。考えるまでもなく俺の現在地は魔法の国ではないし、帰宅先はカンザスでもない。況してや帰還方法が竜巻だなんてとんでもない!

 呪文などの非科学的な方法に頼るとは、現代人の思考じゃねぇ。もっと科学的な方法を取らなきゃ。

 次に俺は、文机の引き出しに科学的な方法であるタイムマシンがないかと探すことにした。だがこの計画も早々に頓挫する。

 この時代の文机に、引き出しは無いからだ。

 こりゃ参ったね。

 後はもう、時速百キロ以上で走行中に落雷に打たれるしかないじゃないか!

 ……いや抑々、どうやったら時速百キロ以上で走れるのだ?

 それに落雷って、竜巻に依存するのと同じくらいに自殺行為だよなぁ。

 進み過ぎた科学は魔法と一緒らしいが、科学らしきものが見当たらず魔法など存在しないのが室町時代ってヤツだ。何とも世知辛ェ話だぜ、全くよ!

 物語で散々語られているように、転移と違って転生ってのは帰還不可が御約束なのか……。

 仕方がないから気持ちを切り替え、目標を帰還から生存へと転換させた俺なのである。丸二日ほどクヨクヨしたけどね、トホホのホ。


 余談はさておき。

 生存の最適解とは何ぞや、と近江国滞在の間ずっと夜も寝ないで昼寝して考える俺。

 どう考えても答えを得られそうにもないことに気づくまで、更に一昼夜を費やす。

 下手の考え休むに似たり、とは至極名言なり。

 十分に休養を得た俺は問題解決を丸投げすることにした。丸投げ先は勿論、細川与一郎だ。

 栴檀は双葉より芳しを体現する少年は、ほぼ即答で“承りました”と請け負ってくれた。

 いつになく安請け合いだったのでホントに大丈夫かと少し心配だったが、他に気易く頼る先も思いつかなかったので任せる事に。

 任せて正解だったと自画自賛に耽ったのは、約二ヶ月も滞在した近江国から帰国して間もなくの、初夏の事であった。

 与一郎が用意してくれた問題解決策とは、専門家による講義であったのだ。

 専門家の名は、環翠軒宗武入道なるツルツル頭の隠居ジジ……訂正、学者先生である。何でも、与一郎の母方の祖父であるのだそうな。

 公家社会の第一線を退く前の俗名は、清原少納言宣賢卿と申すのだとか。

 清原って確か球界の番長と呼ばれた強打者の……じゃなくて、超一流の知識エリート一族だったよな。神道の大家、吉田家も親族だったっけ。

 そんなビッグネームがどうして特別講師に?

 抱いた疑問に対しての与一郎の回答を聞いた俺は、見えないボタンを連打してしまった。合点合点合点である。

 清原卿、いや宗武入道は八年前に『式目抄』なる御成敗式目の注釈書を書き上げられたとのこと。なるほど、確かに宗武入道ほどうってつけの人物はいないや。

 ……いや、ちょっと待て。

 確かに俺は室町時代の武家のルールを学びたいと希望したよ、したけどさ、そんなビッグネームに学びたいとまでは要望してねぇぞ。

 体育の授業で恥掻きたくないからキャッチボールの仕方を教えてくれってレベルの願いが、どうして殿堂入りのメジャーリーガーによる個人レッスンになるのだ?

 展開が飛躍し過ぎじゃないか!?

 仮に宗武入道が極度の爺バカで孫にベタ甘だったとしても、身分や立場ってものがあるだろうに。二つ返事でホイホイって、どういうことだ?

 頭上に浮かべた不可視の疑問符を与一郎に渡したら、明快な解答を返してくれた。

 俺の依頼を承ったものの如何様にすべきか困った与一郎は、父親に相談したらしい。息子から相談を持ちかけられた三淵伊賀守晴員は、少し思案してから義父である宗武入道へと話を通したのだそうな。

 通常であれば特に問題のない話だったのだが、発端が俺であることが重要視された。現職将軍の世子、つまり跡取り息子って立場の俺が発端であることに。

 権威が物言う世界において、将軍家とは思うがままに横車を押し放題の身分である。俺の希望は、将軍家の希望であると解釈されたのだ。宗武入道は娘婿経由で将軍家へと確認を為されたとのこと。

 抑々が何となく口にした俺の思い付きであって、将軍家の与り知らぬことである。トンチキながら今生の親父も寝耳に水のことに、さぞや驚いただろうな。

 時々、意味不明の言動をする息子が突如として当代随一の碩学に法を学びたいと言い出したのだから。……言ってないけどね、そんな大層なことは。

 “将軍家世子として分別すべきことは如何に?”って質問が、どうしてこうなったのだ?

 まぁ今更の愚痴だけどね。

 然様な訳で、宗武入道直々の講義は将軍家の承認を受け、スムーズにスタートすることと相成った。

 訂正。スムーズは少々言い過ぎであった。

 将軍家家臣団の文系グループ、所謂“奉行衆”から“待った”がかかったのだ。

 法学の大家による特別講義の受講は我らにこそ必要である、とか何とかという主張である。

 なるほど、御説ご尤も。

 奉行衆の勤務する政所とは法に照らして諸問題、主に金銭と領地争いだが、を裁定する機関だ。

 職務権限の及ぶ範囲の最大は日ノ本全てだが……実行力を伴うのは洛中近辺。まぁ、山城・摂津・河内・和泉・大和の五ヵ国くらいだけどね。

 然れど政治の中心地である洛中近辺と五畿内における利権構造は、第二次大戦前夜の欧州情勢並みに複雑怪奇だからなぁ。

 日々持ち込まれる訴状の処理に、政所が天手古舞なのは周知の事実。脱ぐことの出来ぬ赤い靴を履かされ踊り続ける立場としては、堪ったものじゃないだろう。

 そんな奉行衆の拠所が『御成敗式目』なのだ。

 仕事柄、諳んじるくらいに知り尽くしている武家社会の基本法ではあるが、完璧に理解しているかと問われたら口を噤むしかないのが奉行衆の現実だとか。

 例えるなら、パソコンを活用していてもC言語までは判っていない、って感じかな。違うか。まぁいいや。そんな感じで、奉行衆は宗武入道の講義を切実に欲したのである。

 紆余曲折あって、宗武入道の特別講義が開始されたのは夏の盛り。それからは毎月二回、午前中一杯を使って行われていた。

 根底に儒教がある式目の説明の初っ端に老子の教えを持ち出されたのにはちょっと驚いたが、ゴリゴリの生真面目学者バカでないと判ったので安堵もしたけどね。


 そんな感じで始まった特別講義も回を重ね、本日が五回目である。

 初回から一向に覚めぬ熱意ある講釈に耳を傾けつつも左右を窺えば、宗武入道の孫である与一郎と三淵弥四郎兄弟以外の生徒達が真剣な表情で受講していた。

 生徒達とは、政所の次世代を担う奉行衆の子弟達だ。

 元服前の少年世代からは五名。蜷川大和守の嫡子、新右衛門。

 荒川治部少輔の嫡子、勝兵衛。

 高和泉守の嫡子、五郎右衛門。

 飯尾大和守の嫡孫、太郎左衛門。

 飯尾肥前守の嫡子、左近。

 元服済みの青年世代からは、伊勢兵庫頭貞良、摂津中務大輔晴直の二名。

 兵庫頭貞良は政所執事、言い換えれば公儀の文官筆頭、を代々務める伊勢氏の御曹司。

 中務大輔晴直は、先祖を遡れば鎌倉幕府に高級官僚として仕えた中原氏に行き当たる文官一族の後継者。因みに年の離れた姉はトンチキな親父殿の乳母で、父親の摂津守元造は内談衆、つまり将軍様の上級アドバイザーのひとりである。

 大の大人ですら頭を抱える学問を望んで学ぼうとは、未来のエリート官僚達は双葉より芳し、って感じ?

 青年世代は既に政所の若手官僚として社会人デビューしているが、少年世代は来年から俺の近習として出仕する予定の者達だったりする。

 そんな向学心溢れる青少年の後ろではその親である奉行衆達も幾人かが座っている。仕事をサボっていいのか、と首を傾げたが皆勤賞である蜷川大和守によれば“お務めは後回しでも差し支えなし”だそうな。

 蜷川大和守は当代の政所執事、伊勢伊勢守の懐刀として八面六臂の活躍をし続けている能吏である。

 能吏が抜けては政所の業務は滞るだろうに、と思ったけれど、彼の上司である伊勢伊勢守本人自身も皆勤賞なのだから何をかいわんや、だよなぁ。

 ところで、だが。

 どうして公家の学者先生が武家の法典の研究をなされたのだろう?

 その答えは宗武入道御自身が授業の中で申された。


「本日の講義は此処までと致しましょう。さて、初日にも申させて戴きましたが、貞永元年に定められました『式目』を学ぶ意義とは如何なるものか?

 此の場には『式目』を学ぶよりも『千字文』を手習いとし、『三字経』を素読為される方が良きように思われる御歳の御方様もおられまする」


 『千字文』とは千年程前の中国で作られた千文字からなる詩で、一字たりとて文字が重複していないので漢字のテキストとして最適とされている。

 『三字経』とは数百年前に同じく中国で作られた学習書で、内容は儒学・教養・歴史がざっくりと学べるものだ。

 確かにどちらも当世の初等教育には最適のテキストだろう。十歳に満たぬ今の俺にはピッタリだろうが生憎、義務教育を終えた身には不必要である。

 正真正銘お子様の与一郎ら少年達も既に習得済みだそうな。エリートの卵達ってホント優秀だねぇ。


「然れど、年少の頃より『式目』に親しむるは何れ天下を差配為さるに当たり、至極重要であると思う次第にて。

 此方(こなた)も妙経道を家職とする清原の名跡を継ぐ身と為りし以来今日に至るまで、数十星霜の歳月を重ねる中で日々怠りなく法について律令について学んで参りました。

 学べば学ぶ程に奥深さ果てしなさを知るのが、法であります。

 学ぶに際し道を過たぬようにと著述致しましたのが『式目抄』にて。

 貞永の式目は武家の法なれども、その実は律令を平易にしたもの。殿上の諸卿が解する法と照らし合わせても公正さは揺るぎなき物、世の理と非を明らかとするに最も相応しき五十一箇条にございまする。

 此の場に列する御方々に於かれましては、何卒此方(こなた)の真意を御汲み取り戴きたく存じまする。

 ……『詩經』に曰く“不敢暴虎、不敢馮河。人知其一、莫知其他。戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰”。どうか此れからも気を巡らせて学ばれますことを」


 慈照寺境内で最大の堂宇である会所を教室とした有難い授業が済めば、子供達のお楽しみである昼ご飯の時間。

 ジャンクフードとファストフードに慣らされた俺の味覚には、脂質も糖質も物足りない食事だけどな。だって味が薄過ぎるのだよ!

 香辛料すら限られた、超ヘルシーメニューが毎日毎日朝昼晩。健康的かもしれないけれど栄養不足で気分的に死にそうだ。

 慈照寺で俺の三食を差配する進士美作守晴舎にそろそろ意見しないとなぁ。このままでは成長期の体には宜しくねぇや。

 因みに晴舎は、将軍家の台所を司る進士氏流包丁道宗家の継承者でもある。

 公家社会の包丁道には四条流があり、武家社会には大草流と畠山流の二つの流派があるが、進士流は晴舎の父である次郎左衛門尉が畠山流から独立して起こした新規の流派だった。

 何がどう気に入られたのかは不明だが、トンチキな親父殿の贔屓を受けて今の地位を築いている。台所を預かるってのは、その家の生命線を握り締めているって事だからな。

 公家にしても武家にしても毒殺を気にして生活するのは嫌だから、全幅の信頼を寄せた者にしか台所を任せやしないだろう。

 そう考えれば、将軍家への忠義は進士親子と三淵親子が双璧なのかもしれないね。

 忠臣の鑑たる晴舎に、どのようなアプローチをすれば献立変更をさせられようかと考えながら居室へと続く廊下を歩けば柔らかな風が頬を撫でる。


 ……平成から天文の時代に転生させられて、もう半年が経ったのだなぁ。


 気づけば庭の山桜の葉も緑色を失いかけている。後一ヶ月もすれば紅葉シーズンの真っ盛りだぜ。

 てんやわんやしている内に、瞬く間に過ぎた気がする半年間。

 室町のって言うか戦国乱世という、日本人としては良く知ってはいるけれど今ひとつ理解し難い時代にアジャストするのに必死で……必死過ぎて何をして過ごしていたのやら、今となっては曖昧模糊で……。

 まぁ簡単に死なないように柔軟体操をして、毎日欠かさず沸騰させた牛乳を飲んでいたくらいかな。

 全然美味しくないけどね。

 和牛はいても乳牛はいないのだから、これは仕方がないと諦めている。

 最初に言い出した時は周りの者達に、特に晴舎にだが、呆れられたり諌められたりもしたのだが、屁理屈捏ねて押し通してやった。

 畜生道に堕すなどと言い出す奴もいたので、家臣団の武官グループ“奉公衆”の一人である上野民部大輔ってオッサンだったが、『大般涅槃経』を紐解き、

「譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥、悉入其中 善男子 佛亦如是 從佛出生十二部經 從十二部経出修多羅 從修多羅出方等経 從方等経出般若波羅蜜 從般若波羅蜜出大涅槃 猶如醍醐 言醍醐者 喩于佛性」

 と並べ立てて、牛乳を飲むのが畜生道だと申すなら醍醐寺や醍醐天皇はどうなるのだと言い返したら黙り込みやがったぜ、知識万歳!

 本当は牛肉焼いてステーキが食べたいのだが、流石にそれは拙かろうと思っての妥協した主張なのだ、誰が何と言おうと俺は飲んでやる!

 ……でないと背が伸びないじゃないか。

 転生前の俺は中肉中背……よりもやや低くちょい肥満気味のいたって普通の中年未満であった。

 なのに此方に来てからというもの、全然背が伸びてくれないのだ。いや少しは成長しているのだ、している筈だ、多分、きっと、恐らくは。

 衛生面を考えて沸騰させているのが悪いのかなぁ。栄養素が全部熱でやられてしまっているのかもしれない。だけど生で飲む根性はないから仕方がないよな。

 涙ぐましい努力に、誰かエールを!

 同世代の中で一番背が低いのは、この時代だと致命傷になりかねないから何とかしたいのだ。

 このままでは例え剣の達人になったとしても、お遊戯会の一寸法師にしか見えないだろう。

 尤も、太刀どころか小太刀にさえ振り回されるこの身では、木刀持って打ち込みの練習など出来よう筈もない。だからやっていない。

 このままだと、俺は絶対に剣豪などにはなれないよなぁ。どうしよう?

 それなのに。

 俺を見習い、動ぜずホットミルクを毎日飲んでいる与一郎の奴はスクスクと成長し、俺と大して変わらぬくらいから頭一つ分も大きくなりやがった。成長期とはいえ成長し過ぎだろうが、理不尽なり!

 しかも、若狭国主の武田信豊に弓術・礼法などを組み合わせた総合馬術である武田流弓馬軍礼故実を学び、筋が良いと大層褒められたりしやがって。

 べ……別に羨ましくなどないからな!

 何せ武田の奴はつい最近、三好長慶にボッコボコにやられて、有力な手下を多数殺られたそうな、ざまぁみろ。天罰覿面なり!

 何の天罰かは知らないけれど、多分天罰だ、そうだそうに違いない!

 そんな瑣末事はさておいて、肝心なのは俺の順調ならざる成長の事だ。

 馬に乗っては身が軽過ぎて思うように御せず、弓を引こうにも非力過ぎて弓弦が全然動かせないのはどうしてだ。

 玩具に毛の生えたようなヘナヘナの弓でヘロヘロな射撃しか出来ないのが悔しいさ、畜生め!

 だがしかし。

 来年はいよいよ鉄砲が種子島に伝来する、天文十二年だ!

 弓や馬術では勝ちを譲ってやるが射撃術をいち早く取得したら、“此方の方が三倍の敵を倒せる、弓とは違うのだよ、弓とは!”と上から目線で言ってやるから覚えておけ!

 身長は低くとも身分は俺の方が上なのだからな!

 鉄砲買い漁って鉄砲隊を編成し、三段撃ちでもしてくれよう! ……三丁あったら出来るに違いないから、問題なし。

 もう幾つ寝ると、一五四三(いごよさん) 便所の土を精製し 硝石作って放ちましょう 早く来い来い、種子島♪


「若子様、また面白き歌を吟じておいでかの?」


 あ、やばい、聞かれていたか。

 カラリと障子を開けて泉殿から顔を覗かせたのは長い顎髯の白さが眩しい、枯れかけても隆とした柳のような老僧、この慈照寺の住持を勤めておられる惟高妙安(いこうみょうあん)禅師だった。

 臨済宗夢窓派の禅僧で、相国寺広徳軒で瀑岩等紳に学んで法を継いだ洛中のみならず西国にも名が轟く高僧である。

 俺からすれば、泰然自若としながら世事にも通じ、いつも何処か楽しそうに生きているお爺ちゃん的な存在だった。何だか前世を思い出したよ、爺さんあの世で元気かなぁ。

 世知辛ぇ都合で右往左往させられる手荷物扱いの俺が、都にいる時は“花の御所”つまり将軍様のお屋敷ではなく此処で常に寝起きしている理由を問われれば、このお坊さんがいるからだと回答しよう。

 まぁ武家や公家や町衆という危険度マックスの魑魅魍魎共が跋扈する洛中よりも、鄙びた洛外である東山の地の方が安全だという理由もあるが。

 いざという時、北へ逃げれば延暦寺へと到る比叡山の山道を登って下れば、琵琶湖西岸の坂本へと行けるし、南へ逃げれば山科経由で六角氏の治める領地へと行ける。山科に本願寺がデンと構えたままだったら難しかったが、今はいないので万事OK!

 ……いなくなった理由は十年前の天文元年に、日蓮宗の宗徒達による本願寺焼き討ちがあったためである。しかしその結果が巨大な城塞都市、大坂本願寺の誕生に繋がるのだから禍福は糾える縄の如しとはよく言ったものだ。

 因みに近江国での滞在先であった朽木氏の本拠地は、坂本よりももっと北の山の中だ。

 それより何より、始終何かに当り散らすトンチキな親父殿と一緒に生活などしたくはない。精神衛生上も情操教育上も実に宜しくないからな。

 ……もしかして、史実の義輝が命を縮めた理由とは幼少時から父義晴の世迷い言を吹き込まれ続けて洗脳された結果、栄光に満ちた足利将軍家という過去に囚われてしまったからじゃないだろうか?

 そう言えば、近侍する者達も現在と過去を混同したような発言をする事がある。現状認識が出来ない、ではなく、したくないが勝ったような感じで……。


「若子様、書に親しむるは聖賢へ到る近道なれど、近道ばかりを選んでいては野に咲く花々の移ろいに心を惹かれる風雅からは離れる一方ですぞ。

 時には立ち止まり、後ろを振り返らねば道の良し悪しなど判別出来ますまい。

宜しければ泉殿にて、池でも眺めながら今様など一齣(ひとくさり)如何ですかな?」


 軽やかに笑われたそのお顔を見上げた俺は、飄々とした空気を薄絹のように身へ纏わせた老僧の誘われるままに、居室である東求堂の方へ背を向ける。

 東求堂とは、後の世では銀閣寺と称される慈照寺を建てた室町将軍八代義政の美意識を具現化した堂宇だった。

 東求堂の中に僅か四畳半の部屋がある。名を同仁斎と言う。床の間に違い棚のある伝統的な日本間の原形となった同仁斎は、足利義政の美意識を神話体系とした場合、その聖堂と例えても差支えのない四畳半の空間だ。

 義政は、此処で何を夢想し如何に苦悩したのだろうか?


「下手の考え休むに似たり、でありましたかな?」


 禅師が背中越しに言われた言葉に、泉殿の敷居を跨いだばかりの脚がはたと止まる。

 そうだよな、考えても答えが出無い事が判りきっている事を考えても仕方ないよな。


「若子様は、長く修行を重ねた修行僧よりも真理を申されまするが、幼子でも知っている道理が判らずに迷われたりもなされる。はてさて何とも不思議な御仁であらせられまするな」


 先日、何気なく呟いたのだけど、どうやら俺が昔から当たり前にあるものだと思っていた言い回しもこの時代にはなかったりするらしい。

 下手な考え、は囲碁や将棋の世界で言われ始めたというのは知っていたが、ふと考えてみれば囲碁や将棋が庶民の娯楽となって以降に言われ出し膾炙した諺ではなかろうか、と。

 まぁこれくらいなら失言の範囲には入らないだろう、多分。

 我に返れば、禅師は既に縁側で胡坐を掻いて気持ち良さそうに上体を揺らしておられた。

 東求堂と会所の間、池を眺める為に設けられた泉殿の板敷きの上に俺は膝をつき、両手もついてガックシと項垂れる。

 禅師が楽しげに弾んだ声で吟じておられたのは、紛れもなく『ホンダラ行進曲』だったからだ。


 近江国から都へと舞い戻ってから宗武入道の講義が始まるまでの間、特にする事もなかったある日の午後、うっかりと『スーダラ節』を口遊んだのが大失敗。

 偶々それを禅師に聞かれてしまったのだ。

 その歌は何だと尋ねられ言葉を濁したらしつこく追求され、思い出した青島幸男が記したデタラメ漢文を教えたら、ホームのベンチとは如何にと追求されたのには心底慌てたけれど、“放夢の別天地”つまり無我の境地の事だと苦し紛れの言い訳をしたのである。

 やれ言い逃れに成功、ああ助かったと思ったのも束の間、他にはないのかと更に詰問される事、凡そ三刻半。 

 どうにかこうにか言を左右にしてその場は凌いだのだけれど、それで許してくれる禅師ではなかったのだ。

 ああだこうだと一晩自問自答した俺は、この時代であっても何とか受け入れられそうな歌謡曲を幾つか開陳してしまった。

 『水戸黄門』の主題歌とか、中島みゆきの名曲とか、童謡だとか、音頭だとか。

 ところが最も禅師の心に響いたのが、クレイジーキャッツの歌だったのには正直吃驚仰天で。何でも歌の内容と、抑揚がとても気に入ったらしい。

 しかし、『スーダラ節』のように何だか判らないフレーズが多いのが特徴でもあるので、その意味は何だと重ねて質問された俺は開き直って正直に答える事にした。


「陀羅とは陀羅尼、つまり御仏の教えとは凡人にはしかとは理解出来ぬ、掴み所なく翻る風のようなもの。されど人はそれを掴まえようと足掻くものでもあります。

 御仏の教えを掴まえるのではなく帆で受け、舵をも任せ給うならば濁世は楽々と乗り切れよう、それこそが我が“本意(ほい)”であるとか何とか……」


 徹頭徹尾、嘘だけどな。

 すると禅師は、我が意を得たりとばかりに膝を力強く打たれたのだった。

 こんな戯言を信じるなんて、マジかよ禅師?

 それからというもの、高僧と人々に讃えられるお爺ちゃんは毎日のようにスチャラカな歌を吟じられるようになってしまわれたのである。御免なさい日本仏教界の皆さん、誠に遺憾に存じます。


 そんな訳で、鮮魚市場に並べられた鰯よりも活きの悪い虚ろな目で禅師を見遣れば、その向こうの池の辺で与一郎ら少年達が、一心不乱に木刀を振るっている。

 何だよお前ら、変だと思わないのか現状が。シャカリキになって聞こえない振りなんぞするなよ、当たり前だと受け入れるなよ慣れるなよ。

 この時代には似つかわしくない歌詞とリズムの所為で、変なミュージカルっぽい動きになってるじゃねーか、与一郎!

 もし今俺の手に携帯があれば、いつも牛乳を届けてくれる農夫に牛を連れて来て貰い、松明を括りつけて火を点けて倶梨伽羅峠の再現でもしてやるのだが。

 このカオスな光景を平家の者共みたいにお星様にかえてやりたい、と心底願うのだけれども駄目だろうな、多分きっと。

 恐らく与一郎の奴が、角をむんずと掴んで暴れ牛など簡単に投げ飛ばしてしまうに違いない。

 成長期の馬鹿野郎、いつか俺を見下ろして手荷物扱いする奴らを全て踏み躙るくらいにデカくなって、進撃してやるぞエイエイオー!


 残念ながらそのような高望みが叶う筈もなく、俺は再び手荷物扱いとなるのであった。

 何故ならば此の年の暮れ、世情を騒がす元凶であるポンコツ管領こと細川晴元のライバルであった、今は亡き細川高国の跡目を名乗る奴が堺で挙兵したからだ。

 折角、春に木沢が太平寺の戦いで討ち取られて、やっと洛中洛外近畿五州が落ち着いたと思ったのに、何をしやがる残党のガラクタ野郎め!

 つくづくと思う、細川家って本当にどうしようもない家だよな。

 与一郎よ、どうか一刻も早く分裂して世を騒がせたりせぬ唯一無二の新生細川家を築いておくれ。でなきゃ俺は溜息の洩らし過ぎで酸欠になりそうだ。

 全く、物騒過ぎるよこの時代は!

 武家だけじゃなく一般大衆の誰も彼もが武装していて、あいつは邪魔なライバルだからと殺し、何となくムカついたから殺し、欲しい物は所有者から強奪し、借金を踏み倒すために一揆を起こすのだもの。

 血に酔い過ぎた頭の可笑しい者しかいないのか、この時代は!


 透き通るような朗々とした節回しで、『帰って来たヨッパライ』の一番を詠われた禅師がこちらを振り向かれニコリと微笑まれたが、俺は口元を引き攣らせるのが精一杯であった。

 慈照寺第五世住持・惟高妙安禅師は翌1543年に相国寺鹿苑院塔主となられ、晩年は広徳軒(後に光源院と改称)で隠居なされたとか。

 学芸に秀で、衰退期の五山文学を担われ、『惟高詩集』などを残された高僧です。

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