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『 和紙は舞い落ちた 』(天文十四年、冬)

 先日、とある番組で“兵糧丸”の作り方が紹介され、試食したら意外と美味しいなる感想が語られていましたが、砂糖が潤沢にある時代のレシピだなぁと思いました。

 誤字誤表記を訂正させて戴きました(2018.12.01)。

 途中、十数行ほど脱落致しておりましたので、改訂致しました(2018.12.01)。

 会所へ呼びつけた佐々木下野に、円月と石井藤兵衛尉。

 前者には九州下向の準備の進捗状況を確かめ、後者には諸々の仕度が調い次第に帰郷するように申しつける。都落ちではなく、近衛家の発する使者を伴っての凱旋であると言えば、デカい体を折り畳んで咽び泣き出したのには閉口したが。

 泣き止むのを待ってから、裏切りは世の常なれど人を信ずることが悪いことではない、と諄々と諭す。今後も更なる苦難があるだろうが猜疑心を逞しくすべからず、などと偉そうに言ってから俺は三方(さんぼう)に載せた奉書を差し出した。

「これは……」

「帰国すればその方は元服するのであろう。ゆえに名を遣わす。本来なれば余が偏諱を使わす……と申したきところながら余も元服前では、な。

 偏諱はやれぬが、名はやろう。曽祖父を助けて御家を隆盛させよ、人を信じよ」

 苦笑いを抑えながら奉書に記した二文字を扇子で指し示す。

「そちの名はこれより、龍造寺隆信である」

 共に下向する町資将卿に元服の儀を依頼しておくから、と言ったら円月のみならず石井藤兵衛尉や佐々木下野までもが号泣しだしたよ。忝し、有難し、何と慈悲深き、と三者三様の泣きっぷりに俺はほんの少しドン引き。

 そんなに感謝されるとは思わなかったよ、マジで。

 歴史に便乗したり史実を上書きするのには慣れてきたけれど、この時代の喜怒哀楽の激しさには未だに慣れねぇや。塩分の過剰摂取じゃなかろうか、と心配が募る今日この頃だよ。

 涙と洟でグズグズの者たちを送り出したら、入れ替わりに山岡三郎太郎と桔梗屋利兵衛がやって来た。彼らを呼び出したのは他でもない、諜報網の再編をするためだ。

 この場にいない多羅尾一党には、約半数が東海道から関東方面に散らばってもらっている。残りの半分は薬草栽培と薬種精製にかかりきりだ。つまり多羅尾一党は現状手一杯。これ以上仕事を増やすのは無理だ。

 とは言え、九州に行く者帰す者たちをそのままにはしておけない。今度も天王寺屋の船に厄介になるのは確定済みだが、護衛が佐々木下野たちだけではなぁ。序でに西国筋の情報収集もしておきたいし。

 そうなれば頼みとするのは山岡一党と藤林一党である。現状、山岡一党は六角氏からレンタル移籍契約なので遠方には派遣させ辛い。ってことで九州及び西国への派遣は藤林一党の一択となるのだが、彼らには洛中の治安維持を蔭から支援してしてもらっていた。

 両党の代表者を呼び出したのは、藤林一党への西国派遣命令と、山岡一党に手薄となる洛中の治安維持支援を代務する旨の依頼である。伊賀と甲賀と違いはあれど既に幾度も顔合わせをしている者同士、業務の引継ぎと情報の共有は概ねスムーズに行われた。やれ、これで一安心……でもない。

 細かな打ち合わせはこれからがスタート。当人同士でしてくれても俺としては一向に構わないのだけど、 報告連絡相談のホウレンソウを態々してくれるのを突っぱねるのも何だし。

 そもそも、近衛家の名が表に出たことによって円月の帰還と龍造寺氏再興は二の次の目的となってしまった。その責任は当然俺に帰する訳で、近衛家との連絡役まで他の誰かに丸投げは出来ないし。

 何で室町時代まで来て仕事に追われた生活を送らなきゃならないのかね、と頭を悩ませていたら政所から喜ぶべき知らせが届いた。

「北条と今川との談合次第、無事落着との由。詳細は定かではございませぬが、北条は既に河東郡から兵を引いたとのことにて候」

 奉行衆の一員にして伊勢家の家宰でもある蜷川大和守が、いつものように生真面目な佇まいで報告してくれたのだ。これで北条氏は余力を持って関東制覇に邁進出来るだろう。このまま三国同盟締結まで結べたら最高だけどなぁ。

 続いて喜ばしい知らせを携えて来たのは助五郎であった。

 宴席が大成功であったと、満面の笑みでの報告を東求堂で受ける。一見すれば質素、しかし仔細に見れば心尽くしと贅を散りばめた接待がバカ受けしたのだと。特に茶事担当の武野一閑斎師は、懐石は一汁三菜に決すべし、と激賞されたそうな。

「須らく若様の御助言の賜物。この恩義、終生忘れませぬ」

 いつになく殊勝に平伏する助五郎。さて俺はといえば、呆気に取られていた。今の俺の気分を理解してくれるとしたら、わらしべ長者にアドバイスをした観音様だろうなぁ。

 些少ではございますが御礼を、と懐に手を入れようとする助五郎に俺はストップをかけた。親しき仲にも礼儀ありとは言うが、銭を介在させれば碌なことにならない。だから俺は、謝礼を断固として拒否した。

「受け取ってもらわなんだら、わての気持ちが治まりまへん」

「そうは言うがなぁ」

 さて、困ったぞ。このままでは大人しく引き下がりそうにない。それじゃあ相殺する対価を提示するしかないか。……したくはないのだけどなぁ。

「然れば、代わりに余の難題を解決してくれまいか?」

 傍らに控える与一郎に目配せすれば、床の間に飾っていた物を俺の前へ。万が一のことが起こらぬよう厳重に巻きつけた布を解き、黒光りする銃身を露わにしてみせた。

「これは、鉄砲と言う。精密にして大いなる脅威を秘めた新しい武器だ」

 両膝の上で拳を握った状態で身を乗り出し、鉄砲を注視する助五郎。

「過日、余が天王寺屋を訪れたのは頼みごとがあったからだ。まさか反対に頼みごとをされてしまうとは思わなかったが、な。そなたの勢いに負けて、御蔭で頼みごとが出来ず仕舞いで退散したが」

 俺が苦笑いすると助五郎もその時のやりとりを思い出したのか、盆の窪に手を当てながら気恥ずかしそうに天を仰いだ。

 動転頻りの有様に、今は願い事などに耳を貸す余裕などなさそうだと思い、あの時は言い出せなかったのだけど。

「さて助五郎よ。そなたの才覚で、これを量産してもらいたい」

「量産、でっか」

「それだけではない。鉄砲を使うには火薬と鉛玉が必要不可欠となる。その火薬と鉛玉をも量産して欲しいのだ。如何にすれば量産出来るかは滝川彦右衛門と、本能寺に寄宿しておる先の種子島の太守が存じておる。彼の者らと談合し、成し遂げて欲しいのだ」

 目線を合わせた助五郎に、俺は命令ではなく懇請をした。

「本来ならば、銭を山と積み上げて頼むべきこと。この鉄砲を一丁(あがな)うに一体いかほどの費えが必要となるのか、余にはとんと見当もつかぬ。火薬や鉛玉もあわせれば、凄まじき額となるであろうくらいは察しがつくがな。

 ゆえに、そなたの申し出に甘えるように言うは余の本意に非ず」

 俺が言葉に力を加えれば、助五郎の目の色もより真剣みが増す。

 本当に言いたくなかったのだ、このような形では。

 現代人である俺の感覚はこの時代には通用しないのは重々承知している。しかしそれでも助五郎とは一人の人間として対等でありたいのだ。助五郎だけではなく、後藤小一郎や中島四郎左衛門や吉田与兵衛たちとも。身分差、年齢差を超えた友誼を結んでいたいのである。

 出来れば助五郎の好意につけ込むようなやり方だけは、したくはなかったのだがなぁ。

「然れど、今しか頼めぬと思うたゆえに口にした。……余の願い聞き届けてくれようか?」

「如何ほど用意すれば宜しいので?」

「来年の冬には十丁、三年以内に百丁、五年後には一千丁」

「……ほう」

「将軍家は手元不如意ゆえに兵を多くは蓄えられぬ。兵を揃えようにも宛がう領地がないからな。

 兵数が少なき軍は百戦して一勝出来れば御の字であろう。つまり今のままでは将軍家が(いくさ)を起こせば、先ず負けるということだ。過去を遡れば勝ち戦がどれほどあったであろうか。

 他の守護に用立てさせれば兵数を調えられようが、それは将軍家の兵ではない。事実、将軍家は守護たちを当てにし過ぎたがために幾度も苦汁を舐めておる。

 将軍家が己で養いし兵でなくば(いくさ)にならぬ、兵が多くなければ(いくさ)には勝てぬ。

 如何にすれば少なき兵を強く出来るのか、と考え抜いた上での答えがこの鉄砲である」

 両手で抱え続けるには重過ぎる武器を床に置けば、ゴトンという鈍い音が部屋の隅々にまで響いた。

「将軍となりし後、余の身が立つか立たぬかは、この鉄砲にかかっておると申しても過言ではない」

 束の間、東求堂を静寂が支配する。

「承りまして候」

 やおら両手で鉄砲を掴み、押し頂きながら深々と頭を下げる助五郎。

「若様に身を立ててもろうたんやさかい、わてもお返しをさせてもらわな、あきませんわな。せやないと……」

 真面目くさった表情の隙間から楽しげな笑みを零す。

「友垣やおまへんわな」



 九州に派遣する者たちのことも“任せとくなはれ”の一言で請け負ってくれた助五郎に未来を託した翌日、今の俺に出来ることはこれくらいかと旧来の武器に親しんでいた。

「参りますぞ」

「応!」

 池田弥太郎のかけ声に三淵弥四郎が応じる。物陰から掲げられた旗の色が変わるやいなや、シュルシュルとどこか気の抜けたような音が宙を舞った。続けてヒュンという鋭い風きり音がし、軽い破裂音を生み出す。

 御見事、の一言が彼方此方から発せられ、良き哉、と静かな一言が告げられた。

 正しき作法で居住まいを調え、弓を背に回しながら腰を折り、御指南忝う存じまする、と頭を垂れる弥四郎。

 慈照寺境内のほぼ中心に位置する会所の北側は去年の夏前まで鬱蒼とした樹木に占められていたが、凡そ三十(けん)に相当する長さ、つまり約五十メートルにわたって伐採されていた。近習たちの修練の場を作るためにだ。以前は中庭で行われていた吉岡道場による剣術指南も今ではここで行われている。

 槍術の修練もまた然りであるが、それだけならば二十五メートルプールを縦に二つも並べたサイズの空き地は必要ない。

 ここで行うべき最も大事な修練は、弓である。武士が習得すべき必須の武芸は、弓術と馬術だ。世に名高き武将が“○○一の弓取り”と讃えられるのがその証拠。馬に関しては……乗れて当たり前ってことだよな。

 ならば近習たちにより実戦的な修練をさせようと用意したのがここ、通称“東山コート”である。“コート”と発音しているのは俺だけで、他の者たちは“後図”と理解していた。後図、つまり将来のための計画ってことだ。

 本日は、弓術指南も兼ねる武家故実指南役の小笠原稙盛が直々の指導をしに来てくれている。厳しいがとても丁寧な指導法なので、近習たちは唇を噛み締めながら励んでいた。

 弓馬に関する武家故実のトップランナーである小笠原氏であるが、流派は小笠原流以外にもある。細川与一郎が学んでいた武田流弓馬軍令故実、若狭国の守護家である武田家の御家芸がそうだ。

 武田家って、昔は甲斐国にしかないと思っていたが、若狭国や上総国や因幡国にもいたりするのだよなぁ。……戦国時代ゲームだと甲斐国以外の武田家は雑魚扱いってのは悲し過ぎる事実なんだが、かっこ笑いかっこ閉じる。

 分裂しているのは武田家のみにあらずってのは今更の話。御他聞に洩れず、小笠原家も以下同文。この場合、総本家たる信濃国の小笠原家は最初から除外である。奉公衆の最上位グループに属する京都小笠原家は、備前守家・播磨守家・刑部少輔家・美濃守家に分かれているのだ。

 嫡流は稙盛と又六親子の備前守家。後の三家は庶流である。

 さて京都小笠原家は権力中枢に近侍する一族なのだから、甘い汁を沢山啜りたければ一族のトップに立たねばならぬ。

 数十年前、備前守家が不運に見舞われ稙盛が幼少の身で当主を継承せねばならなくなった時、刑部少輔家が他家を押し退け台頭した。だが興隆期は長く続かず、将軍家の政変と共に刑部少輔家が没落すると、今度は播磨守家が伸し上がる。

 その後、将軍に就任したトンチキ親父が備前守家を引き立てたことで、失墜した播磨守家は失意を抱えて京都を離れ、関東へと流れて行く。四家の祖である小笠原政清の娘が、北条初代の早雲の妻であり、二代・氏綱の母である縁を頼りにして。

 今では北条家の重臣として活躍しているらしい。河田九郎太郎から届いた書状に記されていた、河東郡をめぐる北条家側交渉メンバー表に小笠原播磨守元続の名があったっけ。

 どこでどう人が繋がっているのやら、蓋を開けたら吃驚仰天ってのが武家の世界だよなぁ。公家も大概だけど。本家に分家に嫡流に庶流、()に凄まじきは氏族制度ってか?


「世子様、宜しゅうござりましょうや?」


 床机に座りながらボーっと現実逃避をしていたら、厳しいながらも丁寧な口調が頭上から降ってきやがった。

「ああ、勿論だ」

 与一郎が差し出した弓を手にし、ゆっくりとした所作で所定の位置に立つ。昨晩に降った雪がうっすらと一面を白く覆っていたが、今は踏み荒らされて斑模様となっている。もっと冬が深まれば、霜柱だらけになるのやも。

「参りまする」

「応!」

 会所の陰に潜む弥太郎が安全を示す薄い藍色(オールグリーン)の旗を下げ、危険を示す朱色(レッドアラート)の旗を掲げた。そして空へと投げ上げられる木製のフライングディスク。

 山なりの軌道を描く的を視界の中央に定めた俺は左手で握りを固定し、右手で弦を精一杯の力で引いた。すぼめた口から吐く息が一条の白い筋となり、それが途切れた瞬間、狙い過たず右手を離す。

 ふよん、ぴよん、ぽて。

 額に滲む汗を拭いもせず無言で立ち尽くす俺に、稙盛は丁寧に申し渡す。

「まだまだにござりまするな」

 当ったり前だろーが、無茶言うんじゃねぇよ!

 七尺五寸の弓胎弓(ひごゆみ)よりも短い半弓とはいえ、それでも六尺以上ある。身の丈よりも数十センチもデカい弓など、幼子に引けるはずなどないだろうが!

 自慢じゃないが、俺は同世代の荒川勝兵衛や眞木嶋孫六郎よりも二寸は小さいのだぞ。俺よりも半年遅く生まれた三好神介など、縦だけじゃなく横にも大きく育っているってのによ!

 などと怒鳴り散らし、序でに八つ当たりもしてやりたいが、然様な不調法は大人げないのでしないけどな。だから心の中で叫ばせてもらおう……成長期のこん畜生めが!

 冬場の溜息は可視化されるのが嬉しくないね、全くね。盛大に白い息を吐き散らしながら与一郎に半弓をつき返したら、今度は別の武器を手渡してくれた。半弓よりはコンパクトだが重さは倍以上の武器を。両手だけでは支えきれないので片膝立ちの三点支持で固定する。それでも多少プルプルするけど、ここは我慢だ。

「参りまする」

「応!」

 宙へ舞い上がる標的。片目で狙いを定め、呼吸を止めて引鉄にかけた指に力を伝えれば、カチャリと仕掛けが動き、バビュンと発射された射出物が真っ直ぐに飛ぶ。捉えた標的は空中でほぼ真っ二つに割れた。

 お見事にござりまする、との稙盛の好評に安堵の息を鼻から吹く。ふん、どうだこれが俺の……訂正、弩の実力さ。いや、半分は俺の実力だろう。伊達に前世で大学のサバゲー同好会の、幽霊部員だった訳じゃないからな。


 世の仕組みが律令制度で成り立っていた平安時代初期から中期、弩は武器の花形であった。当時の軍隊は国家の統制化にあり、武具は全て国の所管であったからだ。しかし武士が台頭した平安後期になると、武具は平易で簡易な物となる。

 鎧が軽装化し、武器が簡易化したのは、その方が管理しやすいのだから当然だ。埴輪が着ているような重装甲もギミックが複雑な弩も、予算豊富な国家が管理するからこそ配備出来たのだから。

 しかしグループの単位が細分化された武士の時代、そのような金食い虫が実用的であるはずがない。千人単位万人単位であればこそ重武装は効果的であった。数十人数百人単位での機動戦が主体となれば、重武装は役立たずとなる。

 今は昔と忘れ去られた武器である弩を何故に俺が手にしているのかといえば、偶々“花の御所”の武器庫で埃を被っているガラクタ同然のを発見したからである。見つけたからには使いたくなるのが、男の子の男の子たる本分だ。

 早速に政所が懇意としている工匠の元へ持ち込み、オーバーホールしてもらう。リペアで済むかと思ったら、ほぼリニューアルとなったのには笑うしかなかったけれど。

 刀を振ればへっぴり腰、槍や薙刀を振るのは一苦労。ちんちくりんの体格では弓を扱うなど夢のまた夢。せめて人並みの攻撃力を持ちたいよなぁ、と思いあぐねた結果が弩なのである。

 これならば、固定しさえすれば非力な俺でも扱えるからな!

 尤も、矢の装填は非力な俺には無理なので誰かの補助が必要だから、実用的じゃないってのも判ってはいるのだけど、ねぇ?

 武装に関してだと、実は他にも工夫をしていたりする。

 こちらは弩とは違い、かなり実用的なはずだ。何せ、武装の対象者は武士ではなく、地下人たち。河原者の善阿弥たちなのだもの。

 (なまく)らよりは切れ味のある数打ち刀を除けば、地下人の武装は精々が鋤、鍬、手斧、草刈鎌などなど。人殺しの道具には十分過ぎるが本来は農具である。人殺しの道具として作られた刀や槍ほどに、使い勝手の良い物ではない。

 そんな貴方に素敵な商品を御紹介。只同然で入手出来て、管理の手間暇もいらない武器が、こちらです。はい、竹槍ぃ~!

 B29の迎撃には不向きでも、武士でも落ち武者でも野盗でも突き放題の刺し放題。叩くに使って良し、足元を掬うに使って良しの優れモノ♪

 でも、投げるにはちょっと不向きである。それなら竹槍を投擲用に改良しても良いのじゃねぇか、と思ったのだ。改良点は只一つ、長さだ。一メートル半くらいにすれば、一本の竹で二本は作れるからお得だよね?

 雨のように無数の竹槍が降ってきたら、分厚い鉄板でもない限り防ぐのがほぼ無理だよなー。例え敵に当たらずとも山なりの軌道で落下すれば地に突き刺さるだろう。そうなりゃ些かなりとも敵の進軍を阻害出来るに違いない。

 だが問題がある。

 投擲って結構難しいのだよ、本当に。至近距離なら素人でも出来ようが、二十メートル以上離れた所へ投げるのは余ほど練習した競技者でないと、絶対に無理!

 そこで思いついたのが、見た目は靴ベラみたいな投擲補助具である。社会人成り立ての頃に熟読したMASTERなキートン先生が世界を股にかけて活躍する漫画でも取り上げられた、何とかって道具だ。

 正式名称は覚えてないので仮称“カタパルト”、にしようと思ったが当て字が難しいので“片羽根(カタバネ)”と名付ける。漫画でも鳥みたいな細工だったしね。素材には硬くて入手し易い、樫の木製にした。

 これで、善阿弥たちの武装も大丈夫だろう。竹槍の材料ならば居住地の近くに竹林があるから何の問題もない。前の住居であれば、そうはいかなかっただろうけどね。

 実は、善阿弥たちは慣れ親しんだ住処を離れ、新しい場所に入植しているのだ。正確に言えば、引っ越しせざるを得なかったのだけど。理由は、賀茂川の改修工事が大掛かりになってしまったがためである。

 洛中が二度と賀茂川の氾濫で被災せぬように行われた川幅の拡張工事は、今までの河川敷を失くす工事でもあったのだ。然様な訳で河川敷付近を住処としていた河原者たちは、それまでの住処から追い立てられ転居を余儀なくされる。

 そこで彼らの保護者である俺が転居先に斡旋したのが、慈照寺を真っ直ぐ南に下った辺りだ。全員ではなく大多数であったが、気づけば千人近い大所帯であったからちょっとした民族大移動となってしまった。

 川縁は住居に隣接して耕作地を広げられる点では便利だが、先の大水害を考慮すれば決して住み良い環境ではない。夏は涼しいが湿度が高過ぎる環境は疫病の温床ともなり易い。況してや冬の水辺は過酷過ぎる。

 それに、食い扶持を稼ぐ手立ての大半が木炭の生産に為りつつある現状を鑑みれば、川縁よりも山裾を生活圏にするのが良いだろうと思ったからだ。直ぐ近くに法然上人所縁の小さな僧坊があるが、力関係ならばこちらが上だ。

 秋ともなれば紅葉が実に美しい風光明媚な土地である。農業用水を引き込みやすい川縁からはかなり遠ざかったので田畑を広げるにはあまり適さないかもしれないけれど、そこは勘弁してもらおう。

 足りない分は、蹴上の切通しの向こうにある山科家の荘園に余剰の炭を提供して米や豆類などと等価交換すれば良いのだし。双方が得すれば共生関係になれるかも。主食たる穀物類さえ確保出来れば、後はどうとでもなると思うし。

 未来の新世紀日本とは異なり、この時代の東山一帯は鳥獣も沢山生息しているのだ、動物性タンパク質の確保にも困らないだろう?

 慈照寺が慈照寺のままなれば禁猟区設定だったが、今の慈照寺はネオ東山殿みたいなものだからそんな設定は有名無実。鳥獣だけじゃないぜ、取り過ぎなければ木材も木の実もキノコも山に満ち溢れているのだからさ。


「初めは卦体(けったい)なことをなされると思うておりましたが、慣れてしまえば道理に適っておるのですな」

 善阿弥を村長とする南田村MarkⅡに思いを馳せながら床几に腰かけていた俺の脇に、稙盛が綺麗に整えられた顎髭に手をやり頻りに頷きながら歩み寄る。

「矢を射る修練は動かぬ的でするものが当たり前だと思い込んでおりましたが、実戦にて射抜かねばならぬのはじっと動かぬ相手ではござらぬ。動き続ける相手を射抜く修練は、山鳥や鹿などでせねばなりませぬ。

 然れど冬に然様なことは無理にござる。如何に熟練の勢子がおろうとも、如何せん獲物の数が少な過ぎまする。お盆に似た木の板でその仮物に致すとは、長年に亘り弓術指南を仰せつかる身でありながら、とんと気づきませなんだ。

 先例を尊ぶは大切なことなれど、先人の通りし道のみを朴訥と歩むだけならば阿呆でも出来まする」

 やおら腰を落とし、蹲踞の姿勢となった稙盛が徐に頭を下げた。

(それがし)の不明を正して下さりましたこと、誠に忝く候」

 いやいや、そのように畏まられても。ひたすらに藁束ばかりを的にしての修練に飽きたので、クレー射撃的な要素を取り入れたら面白いかも、って思っただけなのだからさ。

「“(しるべ)なき 野を掻き分けて 参りなん 我に続けよ ここに道あり”で、ありましたかな」

 不意に稙盛が口遊んだのは聞き覚えのあるフレーズ。六角堂様こと、今は亡き池坊専応法師が生前に作られ『いろは教訓』に採用した、一首だった。

「下京にて辻立ちしておりました琵琶法師が語りし説法にござりましたが、実に趣のある良き申しようにござりました。

 何れかの教えに属せし僧の説法ならば、宗の祖師が詳らかに申せしことどもの優位を語るがゆえに、異ある者との宗論の基となりましょうが、琵琶法師の語るは仏法の源流たる釈迦牟尼の御諭しでありました。

 (いたずら)に宗論を起こすに非ず。平易でありながら実に奥深い文言にて、僧俗の境なく素直に耳を貸しておりました」

「六角堂様が本当に申し聞かせたかったのは、池坊を継ぐ者たちであったようだ」

 目を閉じれば、在りし日の闊達なお姿が閉じた目頭に思い浮かぶ。

「“花を活けるは人を活けること。人を活けるとは心を活けること。心を活けるとは花を活かすことにて”、そう仰っておられた。

 “如何にすれば花の美しさを損なわず、あるがままの美しき姿に人の心を添わせることが出来るのか、何十年と活け続けても答えに辿り着きもうさず”とも、な」

 瞼を開ければ稙盛の端正な顔がそこにあった。

「備前守は、“守破離”なる言葉を知っておるか?」

「いえ、存じませぬ」

「堺に大徳寺様、大林宗套師の弟子に利休なる数寄者がおると聞いた。守破離とは、その数寄者が申した信念であるのだそうな。

 師の教えを守りつつ、自問自答をしながら教えを破る。守るものと破ったものを足場として新たな道へと離るるとも、決して本旨を見失うべからず」

 ……とか何とか、だったよな確か。

 利休の言葉で間違いないことだけは覚えているけれど、いつどこでどのように発したのかは覚えてないし。うむ、思い返せば思い返すほど、うろ覚えの知識だなぁ。

「守破離、良き御言葉にござる」

 あ、戯言だと否定する前に受け入れられてしまった。ならば仕方がない、いつも通りにシレッとした顔をしておこう。

(それがし)も守破離なる信念を胸に留めおき、弓馬の道を作り続けましょうほどに」

「余も精進を怠らぬようにするゆえ、向後も宜しく頼む」

 などと偉そうに言ったものの、俺のしていることは“破壊”の破ではなかろうか、ってのが最近の悩みだったりする。鉄砲のことも、河東郡のことも、九州のことも、その他の諸々も、正解なのか不正解なのかも判らずただ闇雲に行っているだけなのかもしれない。

 助五郎の後を鼻歌交じりで鉄砲担ぎついて行った彦右衛門ならば、一発でも当たれば充分でしょう、などと気楽なことを言うに違いない。楽天的なのもこの時代の人間の特徴、悲観主義では室町の世を謳歌出来ないからなぁ。

 彦右衛門の言うように、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、が正解なのかもしれないなぁ。


「若子様」

 またもや鬱々と沈降しかけていた意識が、与一郎の声で現実へと引き上げられる。

「如何した?」

「的が尽きましてございます」

 ありゃまぁ。結構な量を用意したはずだったが、十数人が一人十本近くも射れば尽きて当然か。では、球拾いならぬ矢拾いと的の回収でもしてもらおうか。矢は再利用せねばならぬし、再利用出来ぬ物は割れた的と一緒に竈と風呂の燃料にしなきゃ。

 偶に撃つ弾がないのが玉に瑕、とは自衛隊の演習哀歌だが将軍家の懐具合も中々のものである。前世の記憶の御蔭でかなりマシな生活になっているとはいっても、御大尽生活に辿り着くには何マイルかかることやら。先が思いやられるぜ。

 進士美作守の指揮のもとに近習たち総出でコート内のお片付けをさせる間、俺は別の的を用意すべく東求堂へと足を向ける。部屋の片隅に積み上げた手習いの反故紙を一抱え持つや再び草履を履いた。

 反故紙は全て奈良時代の頃から揖斐川流域で盛んに製造された、所謂“美濃和紙”である。陸奥紙や奉書紙のような高級品ではないが、廉価品でもない。昭和以降だと紙など安い物だが、現状は総じて安くはないのだ。

 しかし俺は幸いにして特権階級に属している。貧乏貧乏と嘯きながらも優雅な生活を満喫中だ。各地からの贈り物を貰うのは当たり前のこと。美濃和紙も有り余るほどに献上されているので、反故紙をポイポイと捨てることに些かの痛痒も覚えずに済んでいた。

 だから、こんなことも出来たりする。

「世子様、それは何でござりましょうや?」

「これか?」

 それなりに丈夫な紙だが一枚では心許ないので二枚重ねにして、折って折って折ってそして……飛ばす。

「これは、このような物である」

 身を切るほどではないが防寒着なしでは過せぬ昼日中、太陽目指して冷たく澄んだ青空を真っ直ぐに飛んで行く紙飛行機。

 如何なる時も折り目正しき姿を崩さぬ、まさに武士の鑑とも言うべき備前守がポカンとした表情となった。次に唖然とした顔をしたのは与一郎と進士だ。やがて他の近習たちも優雅に宙を翔ぶ紙飛行機に目を丸くする。

 間もなく今年が終わる。史実通りに時が進めば来年は、俺にとって飛躍の年となるはずだ。この紙飛行機のようにどこまでもどこまでも真っ直ぐに…………あ、墜ちた。

「若子様!!」

 普段は目の前にいてもステルス的な存在感の弥太郎が、コートのずっと向こうから一目散に駆けて来る。重ねた両掌には墜落の衝撃と、雪に濡れた所為で少し形が歪んだ紙飛行機が載せられている。

「こ、これ、これは、い、一体っ!?」

 真っ白い息を断続的に吐き出しながら問い詰めてくる弥太郎に、不覚にも虚を突かれてしまう。……頑張れば存在感を出せるのだなぁ、やれば出来る子じゃないか。

「然れば教えて進ぜよう」

 紙の束を小脇に抱え、床机に腰掛け直しながら足で軽く地面を均した俺は、柔らかい地表に指で“紙飛行”まで書いて、手を止めた。流石にこの時代に“機”はないよなぁ。うーむ、ならば適当に当て字をするか。

「何と読めば良いのでしょうか?」

「弥太郎よ、これは“紙飛行騎(かみひこうき)”である」

「か、かみひこうき、で、ございまするか!?」

「うむ。これならば的の代わりになるであろうが?」

 もう一つ折って飛ばそうとしたら腕を掴まれた。誰だ、と思えば稙盛だ。目を見開いたままなので、かなりヤバイ顔つきになっている。

「ど、どうした、備前守? これでは、ふ、不服か?」

「不服などござりましょうやっ!!」

 うわ、頭上で怒鳴るなよ、耳が痛いだろうが!

「これは鳥の現身にござりまするかっ!?」

「え? ああ、まぁ、そんな感じ?」

「世子様は天狗の術を会得なされておられまするのか?」

「違うよ……いや、然様なはずがなかろうが」

「明応の御世に身罷られた細川右京大夫殿に弟子入りでもなされたのか、と」

 明応の右京大夫? ……ああ、マジカル管領こと細川政元のことか! ってそのようなはずがないだろうがよ! 俺が生まれるより三十年も前に死んでいるだろうが、政元は!

「これは妖しげな術などではなく、“折り紙”である」

「“折紙(=折形礼法)”にござりましたか」

「然様、“折り紙”である」

 失礼仕りましたと頭を下げる稙盛。やっと手を離してくれたか。ああ、痛かった。さて、片付けも済んだようだし紙飛行機で射撃練習を再開しようか、と思ったら。弥太郎の嘆願が鼓膜を突き抜けた。キーンとしたなぁ、全くもう!

「若子様、何卒(それがし)に伝授下さいませ!!」

 おいおいおいおい、そのような地べたに跪くな両手を就くな、汚れるだろうが。

(それがし)にも!」

「御願い致しまする」

「何卒何卒」

 弥太郎の一言を皮切りに近習たち全員が……進士まで両膝就いていやがるじゃねぇか。まさか紙飛行機飛ばした程度で、このような事態になるとはなぁ。

 いやまぁ、前世で友人に案内されて広島県の紙ヒコーキ博物館に行った時は、年甲斐もなくワクワクしたから気持ちは判らないでもないが。男は幾つになっても紙飛行機のような単純な玩具に心がトキメク生き物だもの。仕方がないと受け入れるか。

「世子様、(それがし)にも御指南戴きたく」

 ……備前守、お前もかよ!?


 五日後。

 年の瀬も段々と近づき何だかんだと忙しなくなる時期にも関わらず、俺はどうしてだか会所で紙飛行機教室を開催していた。鶴や亀も折ったりしているから、折り紙教室かもしれないな。どっちでもいいや。

 生徒は近習たちと備前守、だけではない。

 伊勢流故実の伝承者である伊勢備中守貞能、奉公衆の一色式部少輔晴具に細川中務少輔晴経、奉行衆の蜷川大和守親世に荒川治部少輔晴宣、トンチキ親父の側近筆頭にして内談衆最長老の大館常興もいた。

 授業参観かよ、と思ったが然にあらず。大の大人が至極真面目な顔をして、子供の俺が説明する遊び方を一言一句聞き逃すまいとしていた。傍から見ればさぞや滑稽な光景だろうなぁ。

 背筋をピンと伸ばしつつ嬉々として折り鶴を作り、紙飛行機を飛ばしては悦に入っている少年青年中年老年の四世代を眺めれば、俺の考えの方が滑稽なほど無粋に思えてしまうのが不思議だよね?

「東山流故実、中々に麗しきものにござりまするな」

 大小二種類の紙を折り水仙の花を作った政所執事の伊勢伊勢守貞孝が、目を細めながら己の作品を眺めている。障子戸越しに差し込む淡い陽光に照らされた紙の花は、まるで儚い芳香を纏っているようだ。

 いや、それよりも、伊勢よ。仕事をほったらかして大丈夫なのか? それに、東山流故実って何だよ!?

 幾多の紙飛行機が飛び交い歓声が上る室内で、俺は腕を組んで首を傾げる。

 戦国時代って、このように暢気な時代だったっけ?

 一昨日、佐藤庵様が活動報告にて「シリアスは書けない」と記されておられました。

 私もシリアスなど書けません。もしシリアスシーンがあったとしたら、ギャグの前振りでしかありません。

 真面目な話、って難しいのですよ、ホンマに。

 

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