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『 がんばれ!プアーズ 』(天文十四年、秋)

 北は北極から南は南極まで、全国70億人が待ち望んでいた……かどうかは知りませんが星海社新書から『室町幕府全将軍・管領列伝』(監修/日本史史料研究会、編集/平野明夫)が出版されました!

 それで、主人公を「菊童丸」から「菊幢丸」に今回から変更させて戴きます。

 前から変えようかどうしようか考えていたのですが、これを機に。過去投稿分も順次改訂させて戴きます。何卒、悪しからず宜しからず(平身低頭)。

 誤字を訂正致しました。(2018.11.06)

 思い返しても、あの日は予想外だらけの一日であった。

 顔合わせを済ませたら一息つく間もなく、初上洛をした者たちとの個別面談である。ああ勿論、滝川たちも同席させたけどね。上司が休めないのに、部下が休んでいいはずないものな。

 ブラックですか? いいえ、ダークネスです。それが武家社会の絶対的な基準値だよ、畜生め!


 最初に面談した種子島恵時に今後の身の処しようを訊ねれば、帰国を望まず、このまま洛中に滞在し続ける心算だそうな。息子の傍にいなくて良いのか、と重ねて問うも、寂しそうな笑みを浮かべて首を左右にする前当主。

「御家を滅ぼしかけた者に居場所などござりませぬ」

 恵時には、結果的に兄を隠居に追い込んだ三郎兵衛以外にも弟が三人おり、全員がそれなりの人物であるとのこと。故郷を離れる際にも、御家のことは我らにお任せあれ、と声を揃えたそうな。

 いらない子決定なのか、恵時?

 ちょっと心配したがそれは取り越し苦労であった。種子島における役割がなくなっただけで、種子島氏一族にとって不必要な人間になったのではなく別の役割を務めるのだと。これからは外交官として中央政界に身を置き、御家を側面から支えるのだと力のある口振りである。

 それは良かった、が正直な俺の感想だ。火縄銃をもたらしてくれたのだから、俺もそれなりの応接をしないとね。先ずは滞在先の確保のお手伝いからかな。どこへ放り込めば良いだろうか、思案せねば。


 次の面談者は、佐々木下野だった。

 どうして彼ら播磨国人が九州の僻地にまで赴き、そこで一年以上も滞在した上、帰路も別れることなく洛中までノコノコとついて来たのかを紐解けば、六代義教が暗殺された時点にまで遡るのだから、何とも根深い理由である。

 後醍醐天皇が倒幕の旗揚げをした際に足利尊氏らと共に共闘した、赤松円心をトップに戴く赤松氏。尊氏が後醍醐帝と袂を分かってからも行動を一つにし、室町政権でも大幹部の一席を占め続けていた。

 ところが、赤松氏の勢力が強く成り過ぎたことを快く思わなかった義教が一計を案じる。赤松氏一族の不和を狙い、当主である満祐の弟の領地を召し上げ、義教が重用する分家の赤松貞村に分け与えたのだ。

 すると勢力減衰どころか失脚の危機に瀕したと思った満祐が逆襲を図る、それが将軍弑逆事件である“嘉吉の乱”だった。

 しかし義教を殺したことは一時凌ぎにしかならず、追討の軍勢の攻撃の前に赤松氏本家は滅亡する。本家はなくなったが、分家は残った。残った分家は、棘だらけの道を進むことを覚悟して赤松氏復活へのゴールを目指す。

 その第一歩は、南朝方残党の篭る吉野を襲っての神爾奪還作戦。一年もの準備をかけた秘密作戦を無事完遂することで加賀半国を取得。更に応仁の乱では東軍の主力として血みどろの戦果を積み上げた。

 それで漸く、旧領である播磨・備前・美作三ヶ国の守護に返り咲いたのだ。

 返り咲いたのはよいものの、その実は家臣団があってこそ。赤松氏復活劇の本当の立役者は、家臣団の中核を為していた浦上氏・別所氏・小寺氏などである。特に浦上氏の活躍は出色の出来であった。

 家臣団最大派閥となった浦上氏は専横を極め、赤松氏当主を傀儡とし、傀儡とならぬ当主は押し込めて殺すなどもした以外に、ライバルである他の重臣たちとも私闘を繰り広げる。気づけば山陽道の東半分は、一体感のない相克の地と成り果ててしまった。

 そこへ乱入してきたのが、山陰の覇者だった尼子氏だ。

 祖父経久の威勢を相続した晴久率いる大軍の前に赤松家臣団は総崩れ。裏切り者が続出したことに耐え切れず赤松氏当主の晴政は堺へとトンズラをこき、赤松氏による山陽支配はまたもや空中分解と相成ったのだった。

 佐々木下野の一族は反浦上氏のグループに属し、主家の権威向上に尽力し続けていたのだが微力ゆえにままならず、主家崩壊に直面したことで自活の道を探らねばならなくなる。

 今の播磨国内で浦上氏以外に勢力を保持しているのは、東播磨の別所氏と西播磨の小寺氏の二つ。後は三木氏などの、その他大勢の国人領主ばかりなり。このままでは領地を得たとしても、有象無象の一員のまま。最底辺の暮らしで困窮するのは目に見えている。果たしてどうすべきか?

 思案の為所(しどころ)といったタイミングで、滝川たちと西宮神社で遭遇したのだそうな。

 しかし両者の遭遇は偶然ではなく、天王寺屋が仲介の労をとった結果である。九州に到達する前に兵隊を雇いたい滝川たち。雇用条件は、裏切らないこと、手練れであること、それだけだ。

 赤松氏が没落するまで忠誠心を捧げた佐々木下野は、裏切りとは無縁な一徹者である。手練なのも折紙付きだった。何故なら、トンチキ管領がライバルの細川高国と争った“大物の崩れの戦い”で、赤松氏の軍勢の中核として奮闘したのだから。

 日頃から商売に関わりそうなことどもを怠りなく情報収集していた天王寺屋は、佐々木下野の事情にも通じていたので、両者を引き合わせたのだそうな。

 大袈裟に言えば運命の出会い、下世話に言えば渡りに船。

 元の主君は将軍側で戦い続けた人物。その配下だった佐々木下野も将軍側の一員として幾多の戦場を駆けた剛の者。滝川たちが俺の命を受けての旅路であることを知るや、一も二もなく参陣する決意を固めたのだと。

 彼の決断は一族の命運を賭けた、乾坤一擲の大博打であったに違いない。そして賭けた結果は大大吉であったのだろう。何故なら次期将軍予定者の俺と、こうして膝を交えているのだから。

「我らが忠義、何卒お受け取り戴きたく」

 深々と頭を下げる佐々木下野へ俺が言えるのは、相判った、だけだ。益々励むべし、とも言いつつ頭の中で素早く算盤を弾く。彼らの給金は何とかなるだろう。相国寺や中島四郎左衛門らに運用を任せている俺の資産が多少目減りするだろうが、先物買いするには最良の物件だし。

 案じなければならないのは住居であるが、まぁ何とかなるだろう。


 さてお次は、円月を名乗る巨漢の少年僧との面談だ。本日一番の、どうしたものか案件である。なぜ上洛したのか、と事情を聞けばこれも色々と複雑で。

 彼の本籍たる龍造寺氏は、九州北部の雄であった少弐氏の家臣筆頭。当主である曽祖父の龍造寺家兼は九十歳間近でありながら、地元では“赤熊”と呼ばれ恐れられている猛将なのだとか。

 どんなハリキリ爺さんだよ。三国志の黄忠みたいな化物なのか?

 それはさておき、龍造寺氏を取り巻く環境だ。仕える主君が安泰ならば何の問題もなかったのだが、現在の九州北部は大内氏の侵攻が甚だしく、少弐氏は現在進行形で存亡の危機なのである。

 ハリキリ爺さんの孤軍奮闘(ロケンロール)でどうにかこうにか命脈を保つも、追い込まれた窮鼠は時に馬鹿をやらかすのが歴史の常であるようだ。だってさ、外患への対処方法に内憂打破を選ぶのだもの、全くもう驚くやら呆れるやら

 二時間ドラマによくある崖っぷちで疑心暗鬼を拗らせた少弐冬尚は、よりにもよって大事な大黒柱である龍造寺氏排除を画策したようで。浅知恵が過ぎるにも程があるだろうにとは思うが、それが人間心理の特異点なのだろう。

 身近な例を上げれば、トンチキ管領がそうだ。大事な主戦力であるはずの阿波三好党を何かと目の仇にしているし。どうやら頭の弱り心が捻じ曲がった親分には、強過ぎる部下が我慢出来ぬくらいに目障りとなるようだ。存在が眩し過ぎるのかもな。

 そして半年前の春半ば、冬尚は一門である馬場頼周とやらの入れ知恵に乗っかって龍造寺氏の主だった六名を、言いがかりで誅殺したのだと。殺されたのは家兼の子である家純と家門、孫の周家と純家と頼純と家泰。

 生き残ったのは家兼と円月の二人のみ。家臣に守られ肥前国を脱した二人は、縁故を頼って筑後国へと落ち延びたのだそうな。その逃避行の最中に、滝川たちと遭遇したのだと。

 窮鳥の如き龍造寺氏残党を匿い、無事に柳川まで送り届けた滝川たちはそこで二人と別れる予定であったが、身内を殺戮され悲嘆に暮れる老雄の頼みを無下には出来なかったらしい。

 曰く“曾孫の身が立つように手を貸してくれまいか”との嘆願に。

 己の一存では決めかねる依頼に、滝川たちは困り果てたようだ。“義を見てせざるは勇なきなり”とは言うけれど、大事なお遣いの帰り道。余計な厄介ごとに首を突っ込んで良いものかどうか悩みどころ。

 それで仕方なく、滝川たちは円月を連れて帰京したのだと。

 ……どうしたものかねぇ。

 一先ずは旅塵を落として休養せよ、良きように計らうゆえに沙汰を待つべし、しか言えねぇよなぁ。将軍家の数少ない与党である少弐氏絡みの案件だもの。俺個人としては、少弐氏なんかさっさと潰してしまえと思うのだけどさ。


 さぁ、最後は鶴姫さんだ!

 どのような理由で上洛したのかな、オジサンに……訂正、いたいけで無垢な少年に言ってごらん。悪いようにはしないから、ドゥフフフフ♪

 え、嫌な相手と結婚させられそうなので家出したって?

 それで鞆の浦までトンズラしたら、面白そうな一行がいたので混ざったと?

 見知らぬ海と土地へ行けて面白かった……ですか、そうですか、それは良うございました。何だろう、一番簡単な理由なのに聞いてて一番疲れたよ。

 ……恐らくは然様に簡単な理由ではないだろうが、言いたくないなら今は問い質すのを止めておこう。何れ向こうから口を開いてくれるまでは。さてそれまでは、どこへ住まわすべきだろう?

 慈照寺も含め寺院を宿舎として宛がうのは拙いしなぁ。尼寺以外は基本、女人禁制だし。俺の伝手は大概、女っ気のない所ばかりだもの……いや、困ったものだ。



 そんな悩み多き日から、早一ヶ月が過ぎた。

 別に悩んだり呻吟したり歌って踊ったりしていたのは、あの日だけではない。それより前もそうだったし、その後もそうだ。尤も悩んでいるのは俺だけってことでもないのが、救いである。上を見れば上がいるし下を見れば下がいるという事実が、救いかどうかは知らないけどね。

 さて前後左右を見渡せば最近、高貴な方々の動向が(せわ)しない。

 高貴な方々とはお公家さんの最上位グループである五摂家の方々のこと。サー・マザーの実家、近衛家とそのライバルたちだ。慌しくしている理由は典雅とは真逆の、実に世知辛いものであった。

 理由をぶっちゃければ、銭である。

 最初の動きは、鷹司家。先月の半ばに政所の奏上を“花の御所”が承認を与えたことで、魚棚(うおのたな)公事銭の徴収権が鷹司家にあることが保障されたのだ。

 魚棚とは魚屋さんのこと。魚屋さんとはいっても商店街にある鮮魚店とは趣が異なり、扱う商品の大半が干物である。海辺なら兎も角、内陸部で冷凍冷蔵設備がないのだから鮮魚を扱うなどほぼ不可能なのだから当然である。


 全国的に経済活動が活発となりし昨今、店舗のあるなしに関わらず商人たちは“座”なるものに所属していた。座とは組合、のようなものである。ようなもの、と断定形でないのは一体性のある組織だと断定し難いからだ。

 組織であれば組織の長がいる。会長だとか社長だとか理事長だとか組合長だとか。朝廷ならば天皇で、武家政権ならば将軍だ。組織が組織として最も機能するのは最終決定権を持つ代表者を戴いた時だと思う。

 時々、例外もあるけどね。今の朝廷だとか、今の武家政権だとか。

 組織を運営するにあたり、たった一人の代表者を戴かずに有力者による合議制で行う場合もある。この場合の有力者とは意思決定への投票権を有する議員と言い換えてもよいだろう。

 議決権の保有者たちによる投票で、組織の意志を決定する。多数決で以って全てを決する議会運営が、それである。

 この時代の座とは、どちらだろうか?

 答えは、どちらでもないように思える。二択で答えろと訊かれれば、座にリーダーなどいないのだから、後者となるに違いないけれど。かといって合議制で運営されている訳でもない。

 俺自身の理解だと、座とは協定であり契約である。契約する相手は“本所”と称される保証人的存在だった。本所の裏づけを得て商売する際に守らなければならないのが、協定である。本所との間で、商売仲間との間で結ばれた合意、それが座の本質であると俺は理解していた。

 歴史を単なる学問として一つの娯楽としていた頃には、それなりの確りとした組織なのだろうと思っていたが、津田助五郎たちと出会い友好を深めていくなかで聞いた範囲では、どうやら違うなぁと思ったのである。

 例えば堺などの自治都市では“会合衆”なるものが存在するが、それは自治都市の運営に携わっているからだ。運営という実態があるから、運営するための意思決定組織が必要となる。

 ところが座には、意思決定組織を必要としない。参加するも自由、抜けるも自由。参加する際には本所に届出をして仲間となる者たちに挨拶回りさえすれば良く、抜ける際にはその逆をすれば良いだけなのだ。

 しかし座が一致団結して行動する場合もある。本所との契約金、あるいは献納金の多寡を改定したりする時などだ。その場合は全員が交渉の場に臨むのではなく、仲間内の有力者数名が“老衆(おとなしゅう)”格として対応を一任される。

 老衆(おとなしゅう)は常任ではなく、その時々に何となくの合意により選出されるので人数も不定だった。数人の場合もあれば、十人を超える場合もある。座の定める規定に、そのような条文など存在しない。

 規定にあるのは二か条のみ。毎年必ず決められた献納の銭を本所に納めるべし、仲間内での争いを起こした者は座から放逐されるべし、だけである。

 そんな緩い紐帯である座だが、本所に納められる銭は馬鹿には出来ない。一部上場企業の大株主が受け取る配当金と同じくらい、と言ったら言い過ぎかもしれないが、かなりの大金だった。何だかんだと支出が多い生活をしている貴族たちにとってなくてはならない、重要な収入源なのである。


 しかし平安時代は、それ以上の収入源を所有していた。収入源の名は誰もがご存知の、荘園である。さて、荘園とは何だろう?

 それは天皇家の所有物であった国土を墾田永年私財法の乱用で毟り取り、荘園(=庭園)と名づけることで“これは農地ではありませんよ”“家庭菜園の延長線上ですから収益のある耕作地ではありませんよ”と言い訳したものだ。という説明で間違いないだろう。正解じゃないかもしれないけどね!

 平安時代とは、貴族たちが我が世の春を謳歌した時代であったが、その本質は国有地を私有地化することで成立した虚栄であるのかも?

 国の財政基盤である国有地が減少したことで、国家と天皇家の威勢は極端に低下する。反比例して威勢を拡大させた貴族たちであったが、収入源を守るために雇った者たちにその収入源を奪われたのが、鎌倉時代。

 武士たちの時代の始まりだぜ、ヒャッハー!

 地道に収奪してきた特権が、あっという間に略奪されてしまったことで貴族たちの威勢は大暴落。だが地に落ちる寸前で低空飛行することには、どうにか成功する。

 暴落が墜落とならなかったのは、芸を持っていたことと権威を失わなかったからだった。芸とは知識や技能であり、権威とは身分による裏づけである。古今伝授や故実などの作法指南は、身分ある貴族たちのお家芸だ。

 武士であれ商人であれ実力次第で成り上がることが常態化しているが、武力や財力だけで多くの支持を得るのは難しいし、瞬間的には得られても継続し続けるのはほぼ無理だ。

 何故ならば、武力も財力もそれだけでは付加価値を生み出さないからである。付加価値とは何か? 俺が思うにそれは、教養だろう。

 高校時代に習った川柳に、“売り家と 唐様で書く 三代目”“売り家と 下手な字で書く 三代目”というものがあった。唐様とは明代風の書法で、習い事をせねば身につかぬものである。

 前者の川柳は没落すれど教養を習得した三代目を賞賛し、後者の川柳は教養を習得しなかった三代目の末路を嘲笑うものなのだとか。習得した三代目は教養を用いれば今後も前途洋洋だろうが、教養なき三代目に生きていく手段は何もないのだから。

 武を揮い財を蓄えて成り上がった者は、教養という装飾で全身を飾らなければ人々の尊敬を継続的に獲得出来やしない。そして教養とは習おうと思わなければ身につかないし、学び続けなければ直ぐに喪失してしまうものだ。

 ゆえに成り上がり者たちは、己のステータスを永続させるために挙って教養を習得しようとした。連歌・能・茶道・書などを嗜み、礼儀作法を学ぶことに血道をあげたのだ。その師範となったのが貴族たちである。僧侶たちもまた同じく。

 しかし芸の師範をするだけでは食べていけないのも、現実である。

 僧侶たちは寺領を元手に金融業を営み、酒や味噌などの加工品を造り販売することで蓄財をしていた。信者からの寄付も大いなる収入源だ。収入源を守るために僧兵たちを養いもしている。一応は万全の体制だ。

 しかし武力を持たぬ貴族たちには形ある物を守る手段がない。所有権が確定している土地も、武力を持つ者たちに専横されるがままである。

 身分はあれど身を立てる土地に乏しい貴族たちに残された糧の元、それがお家芸と本所制だった。

 因みに、塩合物西座は西園寺家、(こうぞ)座と素麺座は中御門家、大原竹三座に大舎人座は万里小路家、粟津魚座と今宮魚座などは山科家、小袖座に座頭座は久我家、白布座は勧修寺家、柑類座は広橋家、米座は清原家が本所だったりする。

 金の成る木を手放すまいとあくせくするのに、身分は関係ないのだよ。上は上なりに、下は下なりに苦労するものなのだ。


 鷹司家が本所安堵に安堵の溜息を洩らしていた頃、九条家は気息奄々としながら都を留守にしていた。

 洛中での生活費を節約するため、摂津国や播磨国にある数少ない領地を絶賛巡回中なのである。御家の墓所がある東福寺塔頭の大機院修復の費用を捻出すべく、涙ぐましい努力をされていると聞いた時は、思わず無言になってしまったっけ。

 今の洛中では材木が高騰しているからなぁ。高騰している理由は災害復興と新築ラッシュが、がっぷり四つの状況であるからだ。

 十日くらい前に、堺へ移転していた本能寺が洛中に復帰した。勅命により洛中から排除されていた法華宗が赦免されたのだから、其処彼処で本能寺以外の法華宗寺院も再建が始まっている。

 また年内には清水寺の諸堂宇が竣工する。本能寺も他の法華宗寺院も清水寺も、何れもが新築だ。奈良からも他からも建材が続々と流入しているけれど、材木座に運びこまれた端から買いつけられて行く。

 瓦職人も鋳物師も、毎日毎日てんてこ舞い。堂内の荘厳は彫金師たちの職分だから、後藤小一郎率いる職人たちも休む暇なく仕事に追われている。そんな有様では、只でさえ困窮中の九条家は幾ら銭を掻き集めようともどうしようもないだろう。

 本当ならばもっと容易に入手出来る当てがあったのだよ。何故ならば九条家当主の稙通は、娘さんを讃岐国の十河家に嫁がせていたのだから。

 十河家とは言わずもがな、三好長慶の弟である十河一存(かずまさ)だ。

 阿波三好党の重要人物と縁故があるのだから四国の材木を安価で回してもらえるはずなのだけど、残念ながらそれらの大半は法華宗寺院が抑えてしまっている。理由はと言えば、三好長慶の家は代々ずっと法華信者なのだもの。

 父親の元長が非業の死を遂げたのは、堺の顕本寺(けんぽんじ)。洛中を追い出された本能寺の避難先だったりする。縁深き菩提寺に“材木を宜しく”と頼まれたら、檀家としては二つ返事で答えるしかないよな。

 他にも理由はあって、その理由とは何を隠そう俺だったりする。

 三好長縁や松永久秀を通じて阿波三好党は俺と親しくなりつつあるのだけれど、俺の血の半分は近衛家でしかも先代当主の猶子。つまり九条家からすれば俺も、最大のライバルの一員なのだ。

 どうやら阿波三好党は九条家べったりの方針を改め、少しずつ距離を置きだしているみたいだと、近衛稙家伯父さんから先日教えてもらった。このまま俺側に靡いてくれれば御の字だけどなぁ、俺の寿命のためにもさ!

 九条稙通と言えば確か、“飯綱の法”とやらに傾倒している風狂の人だったよな。前世で読んだ小説では、矢鱈とクセの強いマジカル爺さんキャラだったっけ。一度対面してみたいような、一生会いたくないような。風雅で酔狂ならば良いけど、ねぇ?


 一条家も二条家も九条家に負けず劣らず汲々としているのに対し、箔屋座の本所をしている近衛家には他の四家と異なり余裕があった。

 “星合の雫”と名づけた笹の葉茶を含めた安価な薬効品を扱う、滋養薬種商売座なる新たな本所を設立したのが余裕の源だ。この座は朝廷の機関とも連携している。

 解熱や強壮に効果のある薬種を扱う典薬寮の地黄(じおう)煎商売座と、施薬院の薬商売千駄櫃座と紐帯し、参与的ポジションに山科言継卿という磐石の体制だ。お互いの職分を侵さず利益を共有するギルドの誕生は、近衛家の財政強化へ大いに寄与した。

 柿の葉を工夫することで新たな商機を見出した助五郎も、天王寺屋の名で加盟しているのだから本所への上納金は結構な額となり、近衛家はウハウハである。分家の末である多羅尾家が誠心誠意の御奉公をしているのも安心材料の一つだ。

 俺の発案が元になっているというのが伊賀国守護の仁木氏にも届いているようで、甲賀や伊賀の国人たちも邪魔されることなく薬作りに精を出していると聞く。生活基盤が安泰であれば国人たちが無闇と暴れることもなくなる。

 六角氏の影響圏下にある近江国から大和国北部は経済活動も活性化して、比較的穏やかになっているのだと興福寺別当の覚譽伯父さんも文化サロンで言っていた。興福寺衆徒の筒井氏も、先だっての敗戦に懲りて大人しくしているのだとか。

 敗戦続きの細川氏綱も逼塞中なので、討伐する側のトンチキ管領も何をするでも仕出かすでもないので、当分は平穏を甘受出来そうなのは何よりだ!

 などと暢気な感想を述べられるのは俺くらいで、お偉い身分の方々は肩身の狭い思いをしていたみたいだった。


“公道行われず。聖賢有徳の人なく、下克上の心盛りにして暴悪の凶賊所をえたり”


 今上帝が伊勢神宮へ発した勅使に託した宣命(せんみょう)の一節なのだそうな。

 一昨日に続き訪れた近衛屋敷。ビビり捲くり近づくのを敬遠していた一昨年を思えば、何と隔世の感であることか! 今では第四の安全地帯である。第一は慈照寺、第二は相国寺、第三は政所なのは言うまでもないか。

 それはさておき、今上帝の御宸筆。

「今年も大嘗祭は取り止めであるとの御諚であった」

 屋敷の奥座敷にて晴嗣こと龍丸と肩を並べて座し茶を戴く。茶筅を置かれた稙家伯父さんは心なしか肩を落とされていた。外から聞こえる何だか賑やかな声から身を潜めているようにも見えるのは気のせいかな?

此方(こなた)らの力及ばずであるがゆえよの」

「いえ、公儀が不甲斐ない所為でありましょう」

 思わず言ってしまったが後悔はない。ここには内輪しかいないし、事実を糊塗する必要性もないしな。然様よな、と龍丸も茶碗の縁を指で拭いつつ同意してくれた。

「菊幢丸が将軍とならば、不甲斐なさがなくなるのか?」

 序でに痛い所も抉ってくれたけどな。

「さてそれは些か難しい。先ずは余の立場を磐石とせねば何事も為せぬゆえに」

「然様よの」

「そなたら若党に無理難題を課しとうはないが」

 苦笑いをする稙家伯父さんに、若造どころか未だ子供でしかない俺がかける言葉はない。中身は伯父さんより年上のオッサンだけどな、ガハハハ……はぁ。

「ところで、伯父上。薩摩国へ使者を遣いすると聞き及びましたが」

「うむ。島津から本姓を藤原と定め、我らが家門の端に連なる栄誉を賜りたし、との申し出を受けておる。此方(こなた)としても断る謂れはないゆえにのう」

 近衛家と縁故のある藤原北家日野流に連なる町家当主、資将(すけまさ)を派遣するのだと。従三位参議って中々の大物を顎で使うとは、流石は五摂家筆頭の家格だなぁ。行き先は豊後国などにも回るのだとか。ふうむ、なるほど。

「然れば伯父上、役に立つ仗身(じょうしん)(=五位以上につく護衛)共は必要ございませぬか?」

「ほう?」

「彼奴ら腕前が確かなのは余が御墨付を与えても宜しゅうほどにて」

「ふむ……(つい)えは如何ほどであるのかの?」

「高くはございませぬが、安売りをする気もございませぬ」

「ならば考え置こう」

「どうか安物買いの銭失いをなさいませぬように」

「菊幢丸は、面白き言い回しをするな」

 俺が首を傾げると、近衛の親子はそっくりの笑みを浮かべた。

「まるで商人のようではないか」

 高らかに笑う龍丸に、俺は肩を竦めて舌を出す。それを見て稙家伯父さんも笑い出した。茶を飲み出した頃の湿気た雰囲気などどこへやら、奥座敷は朗らかな空気に包まれる。

 ああ、暢気だねぇ……と思えたのはそこまでだった。

 前触れもなく、スパーンと開けられた襖。両手を広げて仁王立ちするサー・マザーの姿に、俺達の平穏は一瞬にして木っ端微塵となる。

「今日も良き日和にござりまする! 然様な日に(おのこ)がカビの生えそうな奥にて茶を嗜むなど以っての外! さぁさぁ御立ちませい!」


 そんな訳で。

 どんな訳だかさっぱり判らないからサー・マザーに聞きたいけれど絶対に教えてくれないだろうなぁ、俺と龍丸は中庭にて模造の薙刀を振り回す羽目となっていた。

 武蔵坊弁慶や鎌倉時代の徒武者ならばいざ知らず、今時の男性の得物は刀か槍だろう、せめて薙刀は薙刀でも大薙刀を、と異議を申し立てようとしたが……したのだけれど聞き入れてくれないのがサー・マザーのサー・マザーたる所以である。

 つべこべ言わずなされませ、と真顔で言われたらハイかイエッサーしか返事出来なくても仕方ないよね?

 きゃあきゃあと嬌声だか気合だかを上げながら模造の薙刀で素振りする篤子姫と初子姫の隣で、俺達は渋い顔で汗を流すことに。稙家伯父さんは所用があるとかないとか言いながら、さっさと逃げ出していた。流石は五摂家筆頭、逃げ足が素早い。

 大館常興の元で大切に扶育されていた妹の初子だったが、八歳となった今年の春から住まいを近衛屋敷に移していたのである。側室腹の生まれでもサー・マザーにすれば可愛い娘のようで、ここでも大事にされていた。篤子姫も妹が出来たとばかりに猫可愛がりする毎日なのだそうな。良かったなぁ、初子よ。

「世子様、姿勢が宜しゅうござりませぬ!」

 いきなりビシッと指導が来たよ。

「もっと背を伸ばしなされませ!」

 無理言わないでよ、俺ももっと身長が欲しいと思っているのだからさ!

 恨みがましくチラリと前を見れば、襷掛けも凛々しい鶴姫さんがそこにいた。どこに託すのが一番良いかと考えた結果、ここに預けたのだけれど。顔合わせ早々にサー・マザーやサー・グランマと意気投合、今では近衛家の武芸指南役となっていた。策士、策に溺死するとはこのことか?

 篤子姫からすればヤンチャなお姉さんが出来たみたいで、以前にもまして笑顔満面の毎日を過されている。

 ああ、そう言えば。

 恵時も日々を楽しく過ごしているようだ。当初は伊勢の邸宅に寄宿していたのだが、今は本能寺で寝起きしている。種子島は本能寺の布教先で支院もあった。何よりも種子島氏が法華信者なのだもの、さぞや快適で健やかな日々だろう。それはそれは、良かったな!

 佐々木下野一党は、覚譽伯父さんの伝手で興福寺の傘下にある清水寺に押し込んでいるが、早々に連絡せねばならないな。またもや九州まで行ってもらうぞ、とね。序でに播磨国で燻っている奴らにも誘いをかけろってな。好きなだけ槍や刀を振り回せるぞ、この幸せ者めが!

 連絡するのは東山にある天台宗系の門跡寺院、南叡山妙法院に下宿中の円月にもだ。

 待たせたけれど、漸くお前の願いに答える準備が出来そうだと。今度は近衛家の名前を無断レンタルして兵隊を集めてやるからな、充分な援軍になるだろうから期待しろとも言ってやるか。

 龍造寺の御曹司には洛中みたいな窮屈な場所よりも、九州のような雄大な場所の方が伸び伸びと活躍出来るだろうし、歯噛みしながら無念を抱えた高齢の爺さんのためにも御家の再興をさせてやらなきゃ、こっちが落ち着かないよ。

 爺さんが無茶な遺言置いて死ぬ前に、早く故郷へ返却してやらないと。でないと目の飛び出るような延滞料金を請求されそうだもの、おお怖い!

 心配事は他にもあって、曾孫が近衛家の勅使と共に戻って来た衝撃がハートアタックにならないか、ってことかな。案外、カンフル剤になったりして。それで頑張り過ぎて、恨み骨髄の馬場何とかだけじゃなく少弐氏までも滅ぼしちゃったらどうしよう、ってこともだ。

 そうなったら……その時か。雅な貴族の助太刀程度で滅ぶような武家に、戦国時代を生き残る資格などないのだろうし。

 本音を言えば一年ぐらいかけてじっくりと復仇の機会を探り、機会を得たら確実にものにして欲しいけどなぁ。佐々木下野が手柄を挙げて帰還するのが俺の将軍宣下後ならば、それなりに報いてやることも出来るだろうからさ。

 来年はきっと飛躍の年。頑張らないとなぁ!


「世子様、ボーっと空を仰いでおらずに確りとお励みなされませ!」


 ……はーい。

 今回の参考文献は『日本史で学ぶ経済学』(著/横山和輝、刊/東洋経済)と、『中世島津氏研究の最前線』(監修/日本史史料研究会、編集/新名一仁、刊/洋泉社・歴史新書y)です。

 何れも、読み物としても面白い良書でした。全ての研究者と出版社に感謝を!

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