『 至近の55日 』(天文十四年、夏)
サブタイトルは語呂優先です。実際に55日間の事ではございませんので悪しからず宜しからず(平身低頭)。
誤字・誤表記を訂正致しました(2018.10.19)。
武田信虎と北畠具教が旅立ってから二ヶ月半。
彼らを見送ったのは春の盛りだったが、もはや走り梅雨の頃。見上げる空は曇天模様の毎日だ。はてさて、河田たちは無事に駿河国へと到着しただろうか?
伊勢国の大神宮に行きました、熱田の大社にお参りしました、などと短い手紙が数通届いたけれど、まさか検分ならぬ物見遊山の見聞ばかりしているのじゃないだろうな?
旅の本番は今川義元に会ってからだぞ。北条氏康との交渉を成功に導くのが最も大事な目的だからな。経過を逐一聞きたいけれど、電話やメールなどの同時性連絡手段のない時代では土台無理な話。
もどかしいったらありゃしないよな、本当に。
もしあったとして、そちらは如何ですか、と反対に訊ねられたら、特に変わりなし、としか答えられないのが俺の日常ではあるけれど。
東求堂に引き篭もってダラダラしたり、相国寺の文化サロンでペチャクチャしたり、政所へ立ち寄ってグダグダしたり、近衛邸でサー・マザーにベタベタされたり、と。エブリデイがアズ・ユージュアルだよ、お立会い!
与一郎や三淵に叱咤されながらの乗馬練習や弓道習熟にも、時々は精を出したりもしているし、吉岡に睨まれながらの兵法鍛錬も……少々は。
平々凡々な日日是好日。
だが世間様はそうじゃなかった。下手をすれば俺はまたぞろ近江への逃避行に連れ出される羽目になりそうだったからである。好日ではない世間様が告げてくれた風雲急。それは河内国の高屋城からもたらされた訃報であった。
畠山稙長、死す。
一人の男がこの世から退場したことは小石が池に落ちたようなものであったが、生み出された波紋は至る所へと影響を及ぼした。
室町時代の実力者であった三管領の一角、畠山氏。河内・紀伊・越中・能登の四ヶ国を支配し、大和・陸奥にも威を示していた大家であった。応仁の大乱で威勢が大いに減衰するまでは。
本家は近畿と北陸に分裂し、陸奥国では支族が小規模な国人領主として細々と過すのみ。物理的に距離も近しい近畿と北陸は交流が続いているものの、大同団結するほどではないので、大家と呼べたのも今は昔の物語。
斯波氏も東海地方に逼塞し、細川氏の一人勝ちである昨今、没落途上の大家の当主が死んだくらいで何ほどのことがあるのか、と考えるのは浅薄の極み。腐っても鯛は鯛、管領権威は死に体でも影響力は大なのだ。
畠山・斯波の管領が内訌で弱体化してから数十年後、細川氏も内部分裂を起こす。家臣に暗殺された細川政元の後継者争いがそれであった。
修験道に没頭したり、天狗の扮装をするなどして御乱心めいた当主の振る舞いに危機感を覚えたのが、理由の半分かな。もう半分は、生涯独身を貫いたので血を分けた嫡子がおらず、代わりに三人の養子がいたことだろう。
誰が後継者に指名されるかで立場が激変するのだから、家臣たちは政元の一挙一動にやきもきしっ放しであったに違いない。もう我慢出来ないとばかりに痺れを切らした家臣が暴走し、“半将軍”なる異名まで持っていた親分さんを討ったのだろうな。政元、風呂場で死す。
部下として、奇人に仕えるのは大変だよなぁ。トンチキ親父を見ていて沁々とそう思うよ。上に立つものは、言動に信と芯がないとね。奇行甚だしきは家臣の不信の元でしかないものな!
細川氏本家こと通称“京兆家”の内紛は一門全てを巻き込んだ闘争へと発展するが、それはつまり洛中洛外を戦場と化すということに他ならない。
永正年間に始まった騒乱は享禄年間を突破して、天文年間である現在も終りそうになかった。四十年近くも続き、争いの当事者は二世代三世代に移行していたりするのだよ。親の仇だ、爺さんの宿願だ、を理由にして。
中東地域で続く世紀を跨いだ千年戦争に比べれば可愛いものかもしれないが、巻き込まれる方からすれば堪ったものじゃない。将軍家は被害者面出来る立場じゃないけどね?
さて話を戻そう、そうしましょう。
細川京兆家の相続争いは、現当主である晴元ことトンチキ管領に対し前当主の養子である氏綱が徹底抗戦をしているのが現況である。
氏綱は、トンチキ管領がのさばるのを良しとしない者達を糾合することに成功していたから、討伐されない限りは戦いを止めないだろう。振り上げた拳を収められないのが、鎌倉以来の武士の性根なのだから然もありなん。
そんな氏綱の最大与党が、畠山稙長だったのだ。
確かまだ、四十代の働き盛りのはず。戦上手じゃないけれど下手糞でもない戦国武将、零落れたりとはいえ未だ近畿南部を支配する実力は見下してよいものではない。
だのにそんな人物が頓死した。氏綱は大慌てだ。畠山氏の相続にトンチキ管領が差し出口をきき捲ったものだから、もうワヤクチャである。御家としては家臣筆頭の遊佐長教、去年の元日に“花の御所”へ罷り越したアイツだ、が手綱を引き締めているから問題ないとしても、当主が定まらぬ状態では何も出来やしない。
臆病者のくせにトンチキ管領が、“これぞ好機、今こそ禍根を断つべし”と柄にもなく熱りたって軍を催そうとした矢先。機先を制するかのように氏綱が軍勢を発する、まさかまさかの事案発生。
どこから? 答えは大和国からであった。
氏綱支持者の一人に、筒井順昭なる男がいる。興福寺に仕える自警団の一つ、筒井党の親分さんだ。
自警団の正式名称は“衆徒”。元は大寺院に居住する運営業務を担当する下級僧侶を意味する名称だったが、後に寺侍へ変質し、やがて仕える大寺院の領地を掠め取って自侭にしたことで国人領主と化したのである。
興福寺の塔頭、一乗院や大乗院が門跡寺院となると共に仕える衆徒たちの発言力も増し、いつしか武力で以って自己表現する輩となっていたのだよな。しかも性質が悪いことに、党派を組んで仲間争いばかりしていやがるのだ。
南北朝期にはそれが顕著で、気に食わないアイツが足利方なら俺は宮方だ、レベルで集散離合を繰り返しては、奈良盆地を舞台に斬った張ったを四六時中。結束したのは、元号が天文に変わる直前にあった、一向門徒の大攻勢の時の一回こっきりか。
一乗院傘下の衆徒の代表が、筒井氏と越智氏。大乗院傘下の衆徒の代表が、十市氏と古市氏。細かい名を上げれば、箸尾氏・布施氏・楢原氏・倶尸羅氏・小泉氏などなど。筒井氏以外は戦国ドラマでまともな配役がされないから、覚える必要はないかもね?
最近では、越智氏に競り勝った筒井氏と、古市氏凋落の恩恵を受けた十市氏が、二大巨頭となりつつあった。ところが三月に十市氏の当主、遠忠が不慮の死を遂げたのだ。当主の訃報は、鵺の鳴き声とイコールだよな、全く。
望外の突発事を奇貨として、ライバルである十市氏を組み敷くことに成功した筒井順昭が、氏綱のピンチに守護神となるべく軍勢を洛外へ派遣したのである。俄に現れた敵に対し、トンチキ管領は取るも取り敢えずで迎撃態勢を拵えた。
以上が、畠山稙長の訃報が生んだ波紋の経緯であり、十日前に勃発したプチ宇治川の戦いに至る経過である。
戦いは昼前に始まり、昼過ぎには終ったそうな。戦いの推移を離れた場所から検分していた政所奉行衆から聞いたけど、一方的な戦いであったのだと。
「宇治川を挟んで向かい合うこと四半刻余り、口合戦、矢合わせと、古式ゆかしき作法にて始まりましたが」と、冷めた口調だったのは飯尾左衛門尉。
「直ぐに、香西与四郎殿が宇治川へ進み渡られるや、一気呵成に攻めかかり、衆徒共を散々に討ち破られました」とは、やや興奮気味の松田対馬守の言である。
奈良で小さい争いしかしてこなかった武士モドキでは、長年ずっと戦い続けてきた本物の武士に勝てるはずなどないよな。当然と言えば当然の結果。
「されど、香西与四郎殿と轡を並べられた奈良太郎左衛門が矢傷を負われた由。細川次郎殿(=氏綱)をはじめ、主だった者共を討ち取るには至らず、管領殿の軍勢は勝ち鬨を上げられるや早々と軍を返されました」
薄っすらと冷笑を浮かべる飯尾の報告に、肩を僅かに下げた松田も、然様然様と小声で同意した。
「奈良氏と申さば四天王とも讃えられた武門のお家柄。大した手負いでなくば宜しいのですが」
道端で藻掻く虫けらを心配するような飯尾の言い草を思い出すと、今でも背中に冷たいものが走る。梅雨寒の所為じゃないよな。喉にも引っかかるものを感じたので、エヘンエヘンと咳払いを一つ二つ。
「どないしやはりましたん、若様。背中をもぞもぞしはってからに?」
「咳病ですやろうか?」
「そら、あきまへんで!」
「ちょいと誰か、湯茶を持ってきてんか!」
「気にするな、騒ぐな、落ち着け!」
去年は数度訪れた堺の大店である天王寺屋の、洛中支店。場所は上京、革堂の向かい側。土倉も併設しているのでそれなりに大きな敷地の家屋である。
そう言えば、今年になって訪れたのは今日が初めてだったなぁ。去年初めての訪問の際に三淵などは、将軍家世子が町屋に足を運ぶなど以ての外にござる、と苦言を呈していたっけ。
しかし然様なことで意志を曲げる俺ではない。それらしい言い訳を捲くし立てて、どうにかこうにか承諾をもぎ取ってやったので、その後はオールフリーになった。虚仮の一念、岩をも砕く! って、誰が虚仮だよコケコッコー!
それは兎も角。言い訳とは、二年前の夏に旅立った滝川彦右衛門一益たち四人に関することである。
彦右衛門は俺の配下となったばかりの新参者であるから、どこで何して野垂れ死のうと世間は全然気にしないだろうけど、他の三人は違う。荒川治部少輔、摂津中務大輔、米田源三郎は、公儀の官僚たちなのだ。彼らの動向は耳目を集めるに充分である。
公には体調不良で休暇中となっている彼ら三人。つまり彼らの種子島行きは派遣ではなく、建前では療養なのである。公休などない公務員の私的旅行、その最中の音信の遣り取りを政所が表立ってすることは少々拙い。
ならば、どうするか?
公的ルートが不都合ならば民間ルートを利用すれば良いだけだ。それに彼ら四人が種子島へ向かった際の手段が、天王寺屋の通商船なのだから。
瀬戸内を横断し、海岸沿いに九州を南下、薩摩半島の坊津を経ての渡海ルート。元々は近衛家の荘園だった坊津という港町、島津氏に横領されてからは倭寇や遣明船の寄港地となっている貿易港である。
明からの渡来品を手広く商う天王寺屋には、堺と坊津の間など我が庭と同じなのだった。実際には途方もない距離なのだが、銭を生み出すルートであれば千里万里も何ほどのこともなく思えるのが、商人の商人たる由縁であろう。
商業ルートを利用させてもらった御蔭で、苦労することなく彦右衛門を隊長とする西南探検隊は無事に種子島に到着したようだ。三、四ヶ月に一度の割合で届く書状によれば、色々と大変だったようである。
そりゃあそうだろう!
京都駅から山陽新幹線と九州新幹線を乗り継ぎ、フェリーで行くのとは違うのだから。俺だったら約一ヵ月も船に揺られて旅をするだなんて、御免蒙る。三十日間、毎日ゲーゲー吐き続ける船酔いの旅など。自慢じゃないが前世の俺は船に弱かったのさ、ふふん♪
書状を読めば、彦右衛門たちもゲーゲー吐き続けの旅であったようだ。瀬戸内は比較的穏やかな内海であるけれど、常に波が穏やかな訳ではない。難所も急所も多々あると聞いている。海賊も出るしね。
東への遣いは、公務に俺の私用を押し込めた形になっているで、護衛も備えも万端だ。基本ルートは陸路だし、全く以って問題なし。正々堂々と玄関先から出発し、誰憚ることなき順風満帆の旅であった。
しかし西への遣いは違う。
公務ではなく、100パーセント俺の私用案件であるから、準備不足も甚だしい問題ありの旅路は裏口からの夜逃げに、ほぼ等しい。公に出来ず秘さねばならない旅程である。秘密の旅な理由は勿論、トンチキ管領あたりには知られたくないからだ。
彦右衛門に託した旅の目的は、鉄砲の入手。
数年の内に量産化の目処を立て、敵へと鉛玉を何十発と叩き込むために必要なマストアイテムをゲットするためである。標的は当然、トンチキ管領。バレて良いはずがないよね?
とは言え完全に機密が保つのは無理な話。政所の公衆の面前で発表してしまったからなぁ。政所に属する面々は飯尾みたいに、トンチキ管領に対して冷ややかな態度でいる者ばかりではないだろう。
俺の一挙一動を次第洩らさず、トンチキ管領へ逐一御注進しているヤツも政所にはいるに違いない。ちょくちょくと、茨木長隆の野郎がいらぬ差し出口を挟んでくるのが、その証左。だからこそ小細工を弄してでも、隠蔽しなきゃならないのだ。
……室町人には未だ知られざるに近い武器なので、ここまで慎重にならずとも良いのかもしれない。もしかしたら気にし過ぎなのかもしれないけれど……用心の上にも用心するくらいが正解だと、俺の心が叫んでいた。
「注意一秒怪我一生、だよな」
「何ですのそれ?」
「ちゅういちびょう、って如何なる病でおますん?」
「嫌やわ、そないにけったいな名の病!」
「喧しいなお前ら、いい加減に落ち着けよ!」
「先ずは若さんが落ち着きなはれ」
わぁわぁと騒ぐ後藤小一郎、中島四郎左衛門、吉田与兵衛に注意をしたら、反対に津田助五郎に窘められた。
ペットボトルで胸ドンされる代わりに、透明度の高い茶色の液体が入った器を勧められる。香はほとんどない。一口含めば、さっぱりとした味わい。仄かな渋味が何故か美味しく感じられる、何だかとっても大人な感じ。
「美味いな」
俺が二口目で全て飲み干すのを見届けた助五郎は、実に嬉しそうな顔で何度も肯く。
「そうでっしゃろ、そうでっしゃろ、この風味に辿り着くまでホンマに苦心しましてん」
いつの間にか人数分出されていた器を手にした他の三人も、興味津々で茶のような飲み物を喫していた。一口含み、へぇ、ほぅ、と感心したように目を細める小一郎たち。
何の御茶か判らはりますか、と尋ねられたので暫く考えたが答えが浮かばない。他の三人も首を捻るだけで、無言のままだ。前世で飲んだような気もするが、昭和後半から平成にかけては無茶苦茶なくらいに品種が氾濫していたからなぁ。
巷のファミレスのドリンクバーでさえ、十種類は至極当然とばかりに準備されていたし。まぁ少なくとも、キノコの漬かった紅茶でないのだけは確かだろうな。
「実は、柿の葉の御茶ですねん」
掌で空になった器を弄びながら、微妙に複雑な顔をした助五郎。試行錯誤の連続だったのだろう。新規を思いつくのも大変、思いつきを形にするのも大変だからな。
「せやけど、若さんが発案してくれはったんで、何とか飲めるもんが作れましてんけど」
ホンマに忝く、と頭を下げる助五郎を見て俺は例によって例の如く、混乱した。
俺、何かしたっけ?
「今や上から下々までが毎日飲んではる“星合の雫”、あれを若さんが流行らしはった時に言うてはりましたやん」
…………そう言えば、ここだけの話だけど、ってこっそり自慢話をしていたような?
「身に良うて、些細な毒を消す効能があるんは笹の葉だけやない、と。竹の皮にも梅干にもその力はある。他にも山葵とか柿の葉とか、と」
然様なこと、言ったかなぁ? だが助五郎が言うのだから、そうなのだろう。うん、思い出してきたぞ。いつどこでどのような状況だったか覚えちゃいないが、確かに言った。きっと言ったに違いない!
「竹の皮やと“星合の雫”と同じやし、梅干で御茶は作れまへん。せやかて山葵は常に手に入りまへんし。それで柿の葉やったらいけるんやないか、っておもいましてな。ああ、そうそう、こんなんも作りましてんで」
助五郎が手を叩くと、店の手代らしき初老を筆頭に五人の男が御膳を運んで来た。御膳には何かを載せた皿が一枚載っており、漆塗りの箸が添えられている。
「これは一体?」
「わてらに葉っぱを食え言うのんか?」
「えらいけったいな趣向ですねぇ」
静かに微笑む助五郎を見て、俺の妖怪アンテ……もとい、第六感がピンときた。
「飯を、柿の葉で包んだのか?」
「然様でおます。若さん、仰ってはりましたやろ。生成(=なれ鮨)は食べ辛い。べちゃべちゃで臭いがきつうて敵わん、と。もっとお結びみたいに確りとした飯やったらエエのに、とも。ほんで、飯が傷まへんように酢をまぶして、魚を切り身にして乗せたら、それだけで充分に美味しいのに、と」
手で柿の葉を剥がすと、小振りの握り飯の上に川魚と思しき切り身が乗っている。川魚と見当をつけたのは鱗がないからで、鱗のない皮は所々が焦げていた。
「今時分に生魚は怖いさかいに、塩振って炙りましてん。ほんで腐らへんように柿の葉で包んでみましたんや。そしたら一日くらいは、そのままでも大丈夫でしたわ。
確かに若さんの仰らはったように、柿の葉は使い勝手の宜しい葉っぱですわ」
箸で摘み口に放り込み、咀嚼する。飯は少々歯ごたえがあって、シャリって感じじゃないけれど、食感は正しく俺のよく知るクルクル回るお店のものに近い。魚はどうやら鮎のようだ。値段をつけるとするなら、三百円くらいかな。
「馳走になった」
懐から出した懐紙で箸先を拭い、御膳に揃えて置いた俺は合掌してから、助五郎へと軽く頭を下げる。久々に現在ではなく、現代を味わったことに胸がほわっと温かくなった。胸の温もりは背筋を伝わり、脳と涙腺を甚く刺激する。
「助五郎の心尽くしと創意工夫、有難く頂戴させてもらった」
いかん、マジで泣きそうだ。
そんな俺の様子が伝わったのか、目元に光るものを浮かべた助五郎が両手を揃えて深々と平伏した。
「御粗末様でござります」
そして、頭を上げた助五郎と背を丸めた俺は視線を合わせ、一頻り笑う。満ち足りた腹を揺らしながら、実に気持ちよく心ゆくまで、笑った。
俺たちの振る舞いについていけず、何が何やら判らぬといった顔をしている小一郎と四郎左衛門と与兵衛。きょとんとした三つの顔を見て、俺と助五郎は涙が滲むほどに爆笑した。ああ、愉快愉快。
「助五郎よ」
「何ですやろ?」
「余が一工夫授けようと思うが、如何だ?」
「へぇ、一工夫ですか?」
「然様だ。細長い木枠を作り、上下の板を外れるようにする。次に下の板だけを嵌め、そこに酢をまぶした飯を敷き詰めるのだ。飯を敷き詰めたら皮目を炙った鮎の開きを載せ、上の板を嵌める」
「ほうほう」
「板を嵌めたら上からぎゅーっと力を込めて押さえ、飯と鮎を確りと合わせる。そして木枠から抜き、包丁で切れ目を入れて全体を柿の葉で覆い、竹の皮で更に包み込む。然すれば……」
「……然様にしたら、見た目も美しい鮎の鮨が出来ますわな」
目尻の涙など既に跡形もなく拭い去った助五郎が、腕組みをしながら眉根を寄せる。小一郎は天井を仰ぎながら、ほぅほぅと声を出した。四郎左衛門は想像を逞しくしたのか、口の端を手拭で押さえる。
立派な御膳とならはりますなぁ、と言いつつ与兵衛は両手で頬を押さえ、目を細める。
「やはり工夫やと、若さんには勝てまへんなぁ。今日の趣向でやっと一矢報いた、そう思うてましてんけどなぁ」
吐息のような溜息を洩らしつつ、僅かに肩を落とした助五郎。
いやいや、そんなことはないぞ。俺は奈良県名物や大阪グルメの箱寿司を知っていただけのこと。既にあったものを知っていただけの俺と、何も知らぬのにあれこれと思考を廻らして無から有を作り出した助五郎。どちらが偉いかは言うまでもない。
俺だ。知識を持っている、俺が偉いのだ……などとは口が裂けても言えないよ。
好奇心旺盛で、トライ・アンド・エラーにめげず歩き続ける者が、この世で一番偉いのは、今も昔も未来永劫に変わりやしない。負けではなく止めるのが終わりだと歌っていたのは、誰だっけか。勝利のカギはいつの世も、コンティニューなのさ。
彫金を生業とする小一郎は、きっと頭の中で様々なデザインと手技を思い浮かべているのだろう。如何にすれば見た目に美しい箱と御膳になるのかと。
土倉業を営む四郎左衛門は、きっと頭の中でどうすれば新規の料理で儲けられるかを考えているに違いない。如何にすれば実利となるかの算段を。
医者の道を歩んでいる与兵衛は、きっと頭の中でどのような物が医学的な効能を持つのかと思案しているのやも。如何にすれば容易い方法で人を救えるのかを。
俺も負けていられないな。
強みと言えば彼らが知らない事を知っている点だけ。知っているだけ、ということは知らないことには何も対応出来ないってこと。下手をすれば、知識馬鹿という無知を曝け出す間抜けに陥るかもしれない。
天王寺屋京都支店から慈照寺へと戻るなり、俺は東求堂へと引き篭もって寝っ転がった。うーとかあーとか呻吟しつつ、助五郎から秘かに渡された手紙を広げる。
瀕死のミミズと末期のゲジゲジが這い回ったような文字で認められたそれは、俺のお頭と尻を蹴飛ばすのに充分な内容であった。
“一ヵ月後に帰宅します。御土産に期待して下さい”
ざっくりと現代語訳すれば、そのようなことを書いてある。
そうか、遂に帰って来るのか! 土産を持って!
彦右衛門が無事に戻って来たら、直ぐにスパルタ式の書道教室を開かないとな。先生は惟高妙安禅師に頼むよりも、村井吉兵衛に任せるのが良いだろうな。三淵にも監督官として木刀を持たせなきゃ、彦右衛門の悪筆は矯正しようがないものな。
不意に笑いが込み上げて来たので、俺は遠慮などしなかった。
これが笑わずにいられようか?
念願の一つが叶うのだ。万歳三唱どころではない、踊り狂わなきゃ男じゃないよ、舞え舞え蝸牛だよ人生は!
如何なされました、と血相を変えた与一郎と弥四郎の三淵兄弟が踏み込んで来るまで、俺は笑いながら踊ったよ。何でもない、と弁明したら無茶苦茶に叱られたのが今日のハイライトでした、パンパカパーン。
御乱心は、計画的に致しましょう。
本日、京都国立博物館へ行き、『京のかたな展』を観覧してきました。
「綾小路定利」の刀の展示があり、吃驚!
開館前から長蛇の列で、その大半が刀剣女子のようで。
並んでいると昔ながらの刀剣コレクターと思しき年配の男性が「何でこんなに待たされなアカンねん」とボヤいてましたが、刀剣女子がワンサと居なければ斯様な展覧会は開催されてへんので、「有難うおおきに」と伏し拝むの筋じゃないかな、と思った午前中でしたよ。




