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『 スカラーシップ・トゥルーパーズ 』(天文十三年、冬)

 ちょいと長過ぎたので、第20話を分離した残りなのですが、お約束通りに1万字をややオーバーしちゃいました……。

 誤字・誤表記を訂正致しました(2020.02.17)。

 トボトボ、という擬音を頭上に掲げながら廊下を歩き会所へと赴く。ガックリと肩を落としていたので、俺の歩いた後には肩の一部が点々と落ちているに違いない。ヘンゼルとグレーテルのパン屑みたいに、さ。そんな訳ないか。

 会所に到着すれば、大きく二つのグループに分かれて座していた近習達が一斉に頭を下げる。力のない声で面を上げよと言いながら両グループから均等に離れた中央上座に腰を下ろすと、お待ち申し上げておりましたと進士が一礼をした。

 年齢は二十代半ばの近習頭。働き盛りなのだから、俺の子守りをしているよりも他に働き場所は色々あるとは思うのだけどねぇ、政所の要職とかさ。俺が無事に将軍就任となれば、人事刷新が行われる奉公衆の最高幹部の一人となるのは確定路線なのだが、まだ先の話だぜ。

 それに奉公衆など、ここ数十年は肩書きばかりの名誉職。俸給はある程度は保障されていても、決して実入りの良い職務じゃないがなぁ。奉公衆が花形で些かの権力を持ち合わせていたのは、九代将軍の義尚までの事。

 洛中洛外の武士が憧れた地位も、義尚が(まがり)の陣で若き身空を散らした事で御破算となった。しかも死因は、酒の飲み過ぎによる頓死という不名誉なもの。将軍権威を背景に肩を怒らせていた奉公衆は、あっという間に有名無実の立場へと成り下がってしまった。

 栄光ある室町将軍の親衛隊も今では、見かけ倒しの立派なブリキの兵隊だ。

 幼子と若い嫁さんを抱えているのを知り、流石に大丈夫か、と心配したら、世子様に御仕え致すは無上の喜び何卒幾久しくお傍にて、などと殊勝な事を申しやがる。

 何とも有難い事だ。

 少々融通が利かないところもあるが、根が真面目な進士にはこれからも宜しく御願いしたいものだ。反対に信虎とは宜しくしたくないのだけどな!

 そもそも何で信虎が未だに洛中に居るのか?

 話せば長くなる事情を短く話せば、今川家の都合だ。

 時を遡ること約十年前、今川家は北条家と三代に亘る盟約を結んでいた。しかし花倉の乱を制して当主となった今川義元が武田家から嫁を迎えた事で、駿河国と相模国との間に亀裂が走る。

 駿河国が甲斐国との関係を強化した事が問題視されたのは、北条家は武田家と対立を激化させていた所為であった。義元と武田晴信との結びつきは即ち、駿相同盟の破綻であると断じた北条氏綱は、不可侵の国境を越えて駿河国東部に軍勢を差し向けた。

 所謂、河東一乱だ。河東とは富士川よりも東側って意味なのだそうな。

 河東を占領した北条家と奪われた今川家の争いは数年に及ぶも、落着は意外な形で訪れた。武田家が当主の信虎を追放、北条家が当主の氏綱死亡により方針の転換。つまり対立していたリーダーがいなくなった事で両家は手打ちをしたのである。

 代替わりした両家は不可侵を約する事で後背を気にせずに侵略方向を転進、武田晴信は信濃へ、北条氏康は関東へ。今川義元だけが貧乏くじを引かされる結果で、河東一乱は終結したのだった。

 (はらわた)が煮えくり返る思いであったろうが、武田家の助勢がなければ北条家に伍する事も出来ず義元は不承不承の隠忍自重、国を二分する内乱であった花倉の乱の後始末に努めるしかない。

 そんな臥薪嘗胆の年月を重ねた事は無駄ではなく、義元は遂に国力の回復と国内掌握を果たす。辛抱の日々とおさらばした義元は漸くにして、重視する視点を内政から外政へと移す時宜を得た。失地回復への行動開始だ。

 それでは早速にも逆襲を、とはならないのが脳筋武将ではない頭脳派の義元である。急がば回れの例え通り、先ずは武田家との関係を再構築することで向後の憂いをなくすべく交渉を始めたのだった。

 北条家と交渉するには、どうしてもバックアップとして武田家の力が必須だからね。

 何でも直ぐに武力で解決しようとしない東国武将らしからぬ行いなのは、都の風雅を解する家だからだろう。それもそのはず、今川家のゴッドマザーは中級公家ながら書道や和歌の大家であった中御門宣胤の娘、寿桂尼。

 寿桂尼の夫、今川氏親の母親は政所執事を代々勤める伊勢家一族の出。

 伊勢家と言えば、北条家の開祖である早雲庵宗瑞の出身母体。義元の祖母は北条早雲の姉である。義元と氏康は祖母祖父の代には密な血縁者なのだ。交渉次第では問題解決出来るのかもしれない、義元はそう考えたのである。

 甲相同盟の当事者である晴信に氏康との仲介を頼むだけではなく、事態打開を図るには搦め手からも策を施すのは当たり前の事。出来る事は何でもしなきゃ、果報を寝て待つのは人事を尽くしてからである。

 そして搦め手担当となったのが中央政界に顔も名も知られている人物、義元の義父である信虎だったのだ。そんな訳で一年ぶりの上京を果たすや関係各所に日参しており、序でに慈照寺にもしょっちゅう顔を出しているのである。

 俺は、来て欲しいなどと望んでないけどな!

 北条家との仲立ちなら、本家である政所の伊勢家か氏康の義母の生家である近衛家に行けよ。両方に影響力があるとか何とかの理由つけて、二日に一度もやって来るなよ。迷惑この上ないぞ!


「えんしゅう、とは何でござりましょうや?」

 長逸が首を傾げながら俺の傍らに腰を下ろした。

「はてさて……この絵図は、もしや?」

「然様、“湊川”にござる」

 座り込んだ久秀の横に胡坐を掻いた信虎が、手にしていた扇子で床に広げられている地図をパシパシと叩き、涎を垂らさんばかりの勢いで説明する。

「演習とは、図面による(いくさ)である」

 根っからの(いくさ)狂いは“元”戦国武将の血が騒ぐのか、オーバーアクションで扇子を振り回すと、グループの代表者に任ぜられた者が立ち上がった。

 右手からは年齢で選ばれたのか最年長である十八歳の大館十郎。左手からはリーダーシップで選ばれたらしい三淵弥四郎、今年で十五歳なり。

 期せずして将軍家側近の師弟を総司令官と戴く形の戦いとなる。だが二手の内のどちらかが、将軍家の敵であった南朝側の軍勢となり合戦指導をせねばならぬのは何とも皮肉。されど本当はそれこそが、図上演習の醍醐味なのだ。

 用意していた籤を引かせれば、弥四郎が新田義貞役を担当する事と相成った。大いに落胆する右手の近習達。おやおや与一郎もそっち側か、まぁ頑張れ。朝敵だけどな。

 十郎も十郎で微妙な顔つきに。ああ、そう言えば十郎の先祖は新田家の一門だったっけか。朝敵、のな。

 さてそれじゃ、と俺は立ち上がって会所全体を見渡しながら腹式呼吸で声を出す。血圧急上昇中の隠居親父にばかり説明させるのは業腹だしな。

「いつものように、双方の動きは同時である。(かち)の動きは升目一つ、騎馬の動きは升目四つ、弓矢は升目五つ先まで届くものとし、向きを変えるのも一つの動きとする。

 『太平記』によらば、筑紫より舞い戻った等持院殿様(=足利尊氏)の軍勢は五十万を超え、迎え撃つ後醍醐帝側は五万以上だったという。

 然れど往時を思うに、然様な大軍を催す事が出来たとは思えぬ。今よりも人が少ない頃であるからな。故に有り得るだろうと思える人数にて仕合ってもらう。

 その算定は既にこちらで弾き出しておる。今から両軍の将を軍勢の多い順に読み上げる故に、各々誰がどなたの役回りを致すか決めよ」

 北朝方南朝方共に九名ずつ、その名を記した一覧表を信虎から受け取った主税助が、それぞれの代表者に手渡す。さぁ誰が誰を担当するのか、右手南朝側も左手北朝側も頭を悩ます時間だ。

 傍観者である長逸と久秀は目を丸くして視線を彷徨わせている。客をほったらかしにしてする事ではないのかも、と思ったりもするが。これが今の慈照寺テイストなのだ。今後も度々顔を出す腹積もりなら、慣れてもらわないとね。慣れないなら来なくていいからね。どうか慣れませんように!

 碁盤目に線が縦横に引かれた畳一枚分サイズの地図を前に、頭を悩ませる近習達の姿は何とも微笑ましい。生前、高校生の時に幾度か友人達とシミュレーションゲームを一昼夜、ワイワイとしたのを思い出すなぁ。

 あの時にしたのは、欧米を打倒し第二次大戦の勝者となった日独が、インドで激突するって設定のボードゲームであった。時間切れ引き分けという結果も懐かしいなぁ本当に。

「然らばこれより軍勢の駒を双方に配る。駒一つにつき五百人である。先ずは等持院殿様!」

 俺が口を閉ざしたのをいいことに、堂内に響き渡る信虎の声。僭越ながら、と進み出て俺に頭を下げる十郎には駒二十個が与えられる。次に呼ばれた足利直義役の一色七郎も同じく駒二十個が与えられた。

 斯波高経役は小笠原又六、少弐頼尚役は赤井五郎次郎、赤松則村役は山口甚助、高師直役は山中甚太郎、高師泰役は山岡次兵衛、細川頼春役は池田弥太郎、細川定禅役は三好神介。彼らにはそれぞれ十個の駒が与えられた。全部で五万五千の軍勢である。

「片や、左近衛中将(=新田義貞)!」

 ははぁ……と元気さに欠けた返事をする弥四郎に渡された駒は十個。北朝側を支持した足利の足利による幕府体制下な室町時代は、例え南北合一した後とは言っても南朝側は朝敵扱いだ。幾ら名のある武将だと言っても意気消沈となるのは尤もだよな。

 恨むのなら、己の籤運の悪さを恨め。プロ野球の監督には、ドラフト会議で外れ籤ばかり引いた者が何人もいるのだからさ。仮に籤運が良くとも、それが勝負運とイコールしないのもこの世の道理だぜ。

 脇屋義助役の彦部又四郎、大館氏明役の高五郎右衛門、菊池武重役の河田九郎太郎、菊池武澄役の河田九郎次郎、小山田高家役の多羅尾助四郎、楠木正成役の細川与一郎、楠木正季役の松井新左衛門、菊池武吉役の和田伝右衛門。

 彼らには一つから六つの駒が渡される。総勢三万の戦力だ。

 演習の裁定係は進士と速水兵右衛門。年少である和田新助、荒川勝兵衛、石谷三郎左衛門、眞木嶋孫六郎、木村半兵衛の五人には雑用係を申しつける。

 ……気づけば俺の配下も大所帯になったものだ。

 二年前の春には与一郎と弥四郎の兄弟に和田兄弟、後は進士と松井新左衛門の計六名しかいなかった。時期将軍の供回りにはあまりにも寂しいばかり。それが今では二十七名。

 足利一門の末席から譜代の名家、政所の能吏に田舎の地侍と出自はバラバラであっても、今は違う。本来の歴史では戦場で相対する事でしか知り合えなかった間柄であっても、現在は愛すべき仲間達だ。

 頼もしき……と言うにはまだまだ経験が足りないけれど、それは今後の成長次第だ。期待しているよ、頼んだよ。決して地位と家柄に胡坐を掻いたトンチキ野郎や、息子に領国から追い出されるような戦争バカにはなるなよ。

 何かを察知したのか俺を一瞥する信虎から目を逸らした俺は、“演習”を行うために払った労苦の数々を思い出す。本当に苦労したよな。

 未熟な近習達に経験値を積ませるための手段として、秋の終わり頃から導入したシミュレーションの時間。伝え聞くに、関東にある足利学校でも似たような事をしているそうな。囲碁や将棋も良いけれど、複数が同時に参加出来るゲームの方が面白いよね。麻雀とかトランプとか。

 しかし武将育成ならば、シミュレーションが一番だ。武将育成って言い方自体がシムなんちゃらや、なんちゃらメーカーっぽいが、それはそれ。教育とは、ある意味ではゲームみたいなもの。楽しくなければ何一つ身につかないし、楽しまなければ単なる時間の浪費である。

 ゲームとの違いは、リセット出来ない事だけで……その違いがとてつもなく大きいのだけれどね。


 さて、これから行われる演習には幾つかの決め事がある。騎馬駒も弓駒も全体の二十分の一に設定し、端数は切り上げだ。つまり北朝側には軍勢五万五千の内で騎馬と弓が二千七百五十ずつ、端数を切り上げれば六駒ずつとなる。南朝側は軍勢三万なので三つずつだった。

 軍勢の駒にどの役割を与えるかは、グループ内で決めてよく事前に相手へ通知する義務はない。裁定役へとメモ書きで知らせれば良いとしてある。軍勢の初期配置は事前に裁定側から指定するものの、大雑把にこの範囲内でとしか言わない。

 どの武将の隊を何処の升目に配置するかも、グループ内での打ち合わせ次第だ。

 因みに駒は鏃の形をしているので、どちらに向けて配置するかも一目瞭然である。また駒の色は紅白二種類あり、今回は南朝側が赤色の駒が割り当てられていた。駒には裏表があり、裏面には墨痕鮮やかに“半”と記されている。先頭の結果、ダメージが一定数に達した駒は戦力半減の判定を受けた時に判り易くするためだ。

 ああ勿論、全ての駒には表にも裏にも数字を書き込んでいる。グループ内で誰がどの駒を担当しているのか判らなければ意味ないからね。……書き込んだ全てが金釘流の文字なのは、恥ずかしながらの御愛嬌である。

 数字は赤色駒と白色駒に分けて、通し番号とした。例えば今回だと、十郎には白色の一番から二十番までが、七郎には白色の二十一番から四十番までが、といった感じで。

 しかしこのシミュレーションの雛形を作るのは、試行錯誤の連続だった。

 先ず絵地図を用意する事から始めたが、手書きで作製するのは骨が折れる作業だった。精密に升目を縦横に刻むのは、大工が使う墨壷を利用する事で解決したけれど。絵地図に描く現地の地形に関する情報を慈照寺や政所の文書の山から探し出すのは本当に大変で、投げ出さなかった自分を褒めてやりたいよ。

 縦横約三センチの升目には縦列に、いろは。横列に漢数字を割り振った。本当は、ローマ数字やアラビア数字を使用したかったのだけど仕方がない。室町時代人には知られていない文字を書く訳にはいかないからね。

 仕方がないと言えば、一つの戦いにつき要する絵地図が三枚となってしまった事もだ。一枚だけにしても良かったのだが、それだと多人数で行うには窮屈になると思ったのが運の尽きってやつか。ああ畜生、コピー機があったらな!

 各グループ用二枚と裁定役用の一枚の計三枚。頑張って作ったよ、顔も手も墨だらけになりながらさ!

 作っている最中に、骨折り損となったらどうしようと心配したが、それは杞憂で済んだ。軍事には秘匿事項が多いという事を示す良い手本となったからである。自軍の情報は細大漏らさず掌握出来ても、敵軍の情報を把握するのは難しいのは当たり前の事。

 その当たり前を理解する上で、実に最適な手段となったのだ。当に、棚から牡丹餅。瓢箪からこまどり姉妹、何が武士だよ人生は、ってな!

 敵がどの辺りにいるかは事前情報として与えられていても、正確にどこにどんな軍勢がいるのかは索敵しなければ判らないし、そこに敵の全軍がいるのかどうかも判らない。言い換えれば、伏兵の有無を常に意識する必要があるって事で。

 つまりプレイの最中に全ての情報を把握しているのは、裁定役のみ。

 ……それ故に必要となる駒数が、両グループの絵地図用と裁定役の絵地図用と、三倍作らねばならなかったのは痛恨事だった。チマチマと将棋サイズの駒に文字を書き込むのは実に肩の凝る作業で、もう二度と作るものか!

 ルールも、単純ではなく複雑過ぎずというレベルで調整するのに難儀し、暗中模索の繰り返し。戦闘はサイコロを振り、出目を戦力比チャート表に当て嵌めて結果を求める方式にしたので、バランスの良いのを作るのに難渋した。

 頭から湯気やら何やらを吹き上げながら、何日も夜も寝ないで昼寝して完成させたチャート表は心底、会心の出来だと自負している。ピンゾロはクリティカルで六ゾロはファンブル、という御約束も盛り込んだしな!

 クリティカル判定には敵将討ち取りチェックがあり、武将が討ち取られた駒は次の手順の間のみ行動不能となる。討ち取られたのが駒一つの侍大将ではなく隊全体の指揮官だった場合は、その隊全体が行動不能となるのだ。

 ファンブル判定も攻撃失敗だけではなく、行動不能のオマケつきにしてある。それ以上のペナルティをなしにしたのは、あまりゴチャゴチャとルールをつけたくなかったからだ。本音は、面倒臭かったからだけどな!

 そんなこんなで作り上げたシミュレーションゲームは、近習達に大好評であった。実戦さながらの合戦が板の間で出来る上に、軍記物で語られる英雄気分に浸れるのだから当然か。

 男はいつの世も、いつまで経っても戦争ごっこやバトルゲームが好きな生き物なのだから。しかしながら戦後昭和や平成の男の子と、室町少年を同列には語れないが。室町少年にとっては、戦争ごっこもバトルゲームも仮想ではなくリアル中のリアル、目の前の現実なのだ。

 近習達にとっての“演習”とは、敵を殺すために、敵に殺されないために、絶対に習得せねばならぬ必須の基礎学習なのである。俺も近習達の殺される場面など見たくもないし。

 当たり前のように平和を享受し、のほほんと鼓腹撃壌していれば良かった戦争を知らない子供達の一員であった俺なんか、この時代では温すぎるのは嫌ってくらいに理解しているけれど。

 だからこそ、仲良く一つ屋根の下で暮らす彼らが少しでも戦国乱世の世を生き残って欲しいのだ。遊びの延長線上でその術を身につけて欲しいのである。近習達が生き延びられるという事は、俺の寿命も長くなるって打算もあるけどね。

 然様な千々乱れる諸々の感情の赴くままに、戦場となる絵地図は五種類も作ってしまった。『太平記』からは“湊川の戦い”以外に“千早赤阪城攻防戦”と“鎌倉攻め”を、『平家物語』と『義経記』からは“富士川の戦い”と“一ノ谷の戦い”を。

 五日に一度の割合で開催し、開催する度にグループの面子もリーダー役も変わるために一度として同じ結果になった事はない。裁定役に誰が就任するかでも結果は違うし。

 尚、このシミュレーションにおいて裁定役の勤めは重要である。何故なら戦闘結果を判定するサイコロを振るのは、裁定役の役目だからだ。恨みっこなしの運を司る神様的な立場なのだ。

 また雑用係も大事な存在であった。

 最初の仕事はゲーム開始前に、両グループの決めた駒の配置や向きや名のある武将がどの駒なのかを、裁定役に通知する事。ゲーム開始後は逐次、どの駒がどの方向にどれだけ動いたのか、どんな行動をしたのか、それらを裁定役に伝えねばならぬ。

 さて、以上のようなシミュレーションゲームを傍から見れば?

 絵地図を囲みながらああでもないこうでもないと頭を捻る二つのグループと、絵地図に散らばる駒を忙しなく動かしてはサイコロを振る裁定役と、その間を書付持って行き来する少年達。

 ……何だかとってもカオスな光景である。

 俺は第三者的な立場でウロウロしてはニヤニヤしているから、すっかり一番の不審者ポジションを獲得してしまったが。……俺の事はさておき、毎回毎回見計らったように“演習”の時にやって来る信虎のポジションは、と言えば?

 答えはズバリ、指南役。

 ああすべきであった、これはすべきではなかった、そうしたのは良い考えだ、などと頼まれもしないのに懇切丁寧に指摘と指導をしてくれるのである。いやマジで、頼んでないけどな!

然りながら、である。

 戦場往来の古強者で、実際の合戦にて軍勢を差配した経験の豊富な武将の吐く言葉は何から何まで含蓄の塊であるのは確かだった。生死の境目に澱む空気を自発的に醸造させている人物の言動は、近習達には得難い教本であろう……とは理解しているけどね。

 あれ、ちょっと待てよ。

 信虎が慈照寺へ通い出したのは、近衛家への橋渡しを俺に依頼するためじゃなかったっけか?

 最初にシミュレーションゲームに触れた時は、興味津々であるものの控え目に見学するだけだったじゃないか。

 だのに二回目からは然も当たり前のように裁定役の一員となり、三回目からは嬉々としてサイコロを独占しては悦に入るってのは、どういう了見だ?

 何様だよ、と訊ねたら即座に、俺様だ文句あるか、と返答しそうだから何も言わずに黙っているけどさ!

 君子危うきに近寄らず、で一生送りたい派の俺なのに、危うきの方が土足でズカズカとやって来るなら逃げようがないだろうが、こん畜生め。幾ら逃げ回ろうが、俺の逃げる先々全てを四面楚歌にする勢いだものな、信虎という男は。

 もうやってらんねー!

 ある月夜の晩に一声咆えた俺が近衛家への紹介状を書いて渡したってのに、慈照寺通いを止めてくれなかったよ信虎は。執念深さは毒蛇並みだ。正直お手上げギブアップ。

 と、なれば有効活用するしかない。

 そんなに参加したいのならと、“演習”の指南役を命じたら有難き幸せの五文字を被せ気味で返答する始末。しくじったかな、と思ったが綸言汗の如しプラス覆水盆に返らずである。

 雉も鳴かずば蜂の巣にされまいに、とは蓋し金言だなぁ。ネギ背負った鴨が七面鳥撃ちの的になったようなものだ。何を言ってるのだ俺は?

 今日も今日とてウキウキタイムの信虎を横目に、俺は溜息を飲み込んで言うべき台詞を口にした。

「本日はスペ……もとい、格別な客人が目付としてその方らの(いくさ)振りを参観する。知力の限りを尽くして存分に戦うべし。尚……」

 信虎だけではなく長逸と久秀という名高き武将が、参観という名目で査閲する事に近習達は背筋をより一層ピンと伸ばす。緊張しきった幾つもの顔、顔、顔。

 おいおいおい、これはあくまでも模擬戦だぞ。先々の人生において必要不可欠の学びの場だが、遊びの一環だぜ。レッツ・プレイのエンジョイ・スタディ精神を忘れるなよ?

 ……無理だよな、緊張するよな、当然だよな。それじゃあ、思い出してもらおうか。

「本日はいつもと異なり、勝ちを得た者達には褒美を出す。三好家より届けられた味噌漬けである。負けた者達はいつも通りに一汁一菜であるが、相手を打ち負かした者達にはその誉れを讃え思う存分“薬食い”をすべし」

 俺が口を閉じた瞬間、近習達の目の色が変わった。

 ここ慈照寺は武士達が占拠しているが、寺院である事に変わりはない。薫酒山門に入る事を禁ず。況してや五戒に抵触する肉食などもっての他! という建前で運営されるべき施設なのだ。

 処が、“薬食い”と言い換えればOKとなる場合がある。例えば茶道の懐石って言い方もそうだ。温めた石を抱いて腹部を労わるように滋養に溢れた食事を摂取するのは、医療行為の一環なのである。

 物は言いよう、だよね?

 しかし、慈照寺での日常的な“薬”は川魚の干物程度。長逸と久秀が持ち込んできた猪や雉の味噌漬けは、豪勢過ぎる御馳走であった。おいこら七郎に五郎次郎、みっともないから顎まで垂れた涎を拭け。

 さてさてどうやら、育ち盛りの欠食児童達の意欲に火がついたようだな。今日の“演習”はさぞや熱のこもった激戦となるに違いない。結構結構、コケッコッコー!

 然らばそろそろ試合開始のホイッスルでも吹こうかな、と思ったら。何やら廊下の方が騒がしい。お待ち下され、と連呼しているのは村井吉兵衛だけじゃなく……脇坂外介もか?

「御無礼(つかまつ)る」

 障子戸がスッと開けられ、平伏する男が一人。許可もなく先触れもなしに誰が来たのだ? その左右で膝を就き、当惑顔をしている吉兵衛と外介に目だけで尋ねようとしたら、男が優雅な所作で面を上げた。

「重ね重ねの失礼の段、平に御容赦を。近頃(とみ)に阿波の者共がこちらを(おとな)うておると聞き及び、矢も楯もたまらず押しかけましたる次第。何卒御寛恕を賜りますように願い上げ奉りまする」

 一息で理由を口上した男は、額から薄っすらと湯気を立ち昇らせている。あまりに突然の事で、寒空の下を駆けて来たのだろうなぁ、と俺はぼんやり思ってしまったよ。虚を突かれたのか、進士も他の者達も呆気にとられたようで口をポカンとさせていた。

 苦虫を噛み潰したような表情の長逸と久秀と、愉快この上なしといった信虎と、一人の近習を除いては。

「兄上!」

 驚き混じりの声を上げたのは、小太りの少年だ。呼びかけられた来訪者は優しげな目で弟を見つめる。

「励んでおるか、神介」

「はい、兄上」

 全てをほったらかしにして兄弟愛を確かめ合う二人の姿に、俺のこめかみが再びピクピクとしだした。今日は厄日に違いない。片腹が痛んだ後は、頭痛の連発ときたもんだ。御前達はそんなに俺を気鬱と心痛で殺したいのか、畜生め!

「神太郎……いや、既に右衛門大夫であったな。差し許すが故に中に入って戸を締めよ。寒風まで招いてはおらぬぞ、余は」

「ははぁ。御寛恕を賜り誠に恐悦至極」

 一旦平伏した男は、素早く室内へにじり入る。吉兵衛と外介がその後に続き、戸を閉めた。かなり広い会所も、座す人数が三十人を超えればちょっと息苦しい気がする。酸欠するほどでもないけどね。

 だが、気持ちは溺れかけの金魚のようにアップアップだ。室内の四隅に置いた火鉢はガンガンに焚かれ、許容人数ギリギリの男達が発する熱気で、室内は充分過ぎるほどに暖かいはずなのに……何故か背筋が冷えてきた。

 何故だろう? と悩むまでもなく答えは目の前にある。答えとは即ち、大問題なのだが。

 阿波三好党と政治的に対立している、もう一方の三好家。一ヶ月前に父親より家督を譲られその三好家の当主となった男、三好右衛門太夫政勝の登場に俺は溜息を吐くこともできずにいた。

 どうして、こうなるかなぁ!

 ビートルズの『HELP!』でも一曲吟じればいいのか!?


「然れば、“演習”を始めると致しましょうか、世子様」

 楽しそうに一人でニヤニヤしてんじゃねーよ。信虎が言うと“生死様”にしか聞こえねぇよ、この野郎が。“甲斐の虎”とは名ばかりで今じゃ只の“大虎”じゃねぇか。毎度毎度ここでガバガバと酒ばかり呑みやがってからに!

 せめて、慈照寺の守護神たる三淵がいてくれれば良いのだが……生憎と“花の御所”から招集命令を受けて不在である。

 おのれ、トンチキ親父め!

 険悪な雰囲気を隠そうともせずに睨み合う、阿波三好党の幹部二人と三好家当主。どんどんと冷え込んでいく室内の空気に震えながら、俺は呪いの言葉を心密かに吐き続ける。

 ろくでなしの親父共に正義の鉄槌を!

 エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は超絶リアル冷戦が穏便に解決するのを求め訴えたり!

 って言うか、お前ら全員とっとと帰ってくれ!!

 拙著では、『京都時代MAP 安土桃山編』(作/新創社編、刊/光村推古書院)など複数の書籍を参照しながら洛中をイメージしていますが、室町時代の京都についての大家である河内将芳先生の『信長が見た戦国京都』を拝読すると、更にイメージが膨らみます。

 ホンマ、この世に知見は多いなぁ♪

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