『 黒子でいるダンディ 』(天文十三年、冬)
前回まで文字数が多過ぎて読み辛かったやも、と思いましたので、今回からは7千字以上1万字以内に収めるよう、はんなりと努力させて戴きます。
誤字を訂正致しました(2018.09.16)。
去年と違い今年は雪が少ないなぁ。天気予報も気象庁もないから単なる主観でしかないけれど。寒さだけは充分過ぎるくらいで、昼日中なら兎も角、夕方から早朝までは底冷えする毎日である。寒い寒いと朝から晩まで手足を擦り合わせていたら、与一郎がみっともない事はお止め下さいませなどと言いやがる。
まぁ確かに。
それで寒さが防げる訳でもないし、小林一茶にでも見られたら俺をモデルに一句詠まれてしまいそうだが、江戸中期の人間には会えそうにもないから杞憂で済むだろう。そもそも江戸時代が成立するかどうかも、現在進行形で未定だし。
閑話休題、それはそれとして。手足を擦っても着膨れしても我が身を襲う冷えから逃れられないのなら、腹の中から温めるのが最も冴えた遣り方に違いないだろう。
寒い季節にはホットミルクが一番だ。聞こえは良く言えば無調整牛乳、実態は乳牛ではない和牛のミルク。それも厳選された飼料じゃない雑草ばかりを食べている牛の乳。 温めれば何とも言えぬ野性味溢れる物となる。
コーヒーでもあれば臭いを誤魔化せるのだが、勿論そんな物はない。仕方ないから抹茶をぶち込んでみた。千利休に見られたら茶筅でしこたま殴られそうだが、生憎まだ会った事がないので大丈夫だよな、多分。
という訳で、今日も今日とて俺が飲むのは抹茶オレ。
武野一閑斎宗匠には何とも微妙な苦笑いをされたが、前世の友人から教えてもらった“自我作古(=われよりいにしえをなす)”を口にしたら目と口を丸くされた。そして、良き言葉にござります、と頭を下げられた事に狼狽したのも今となっては良い思い出である。
……昨日の事だけどね。
「意外と美味しい物でござりまするな」
薄氷の張った池の傍に建つ泉殿の縁側で、貴重な陽光を浴びながらのティータイムは一人きりではない。今日はお客さんと一緒であった。
「左様にござりまするな」
しかも一人ではなく二人だ。
「孫四郎の気に召したようで何よりである。……弾正も気に入ってくれたか?」
くどいようだが今は冬。ブルブルと震えて過すのが当たり前で、汗など掻くような時候ではない。だのに背中を伝う冷や汗が止まらないのは何故だ? 気をつけねば両手が道路工事の掘削機並みに震え出しそうに。
「珍奇に陥らぬ新しき趣向を生み出されまする世子様には、感服の二文字しかございませぬ」
孫四郎こと今の三好長縁こと未来の三好長逸の横で直答するのは、阿波三好党の当主たる三好範長こと後の三好長慶の側近中の側近であった。右筆として仕えるだけではなく行政部門の筆頭をも務めている男。
松永弾正忠久秀、その人だ。
裏切り者の生ける代名詞だとかコウモリ野郎とか、戦国三大悪人の一人などと江戸時代からズーッと散々悪しざまに言われたりしていたが、研究が進んだ平成の終わり頃には評価が百八十度変換、忠義の見本みたいにも言われたりする人物である。
まだ世評が覆るほどじゃないけれど。
同時代の人間でも評価する人の立場や主義や思想で、相反する結果が出たりするのは古今東西変わらない。最終的には、事実が真実に変化する過程で好悪の嗜好が加味されるだけの事なのだがなぁ。
少なくとも俺の傍に座す人物は細面だが腺病質ではなく、豪胆さを持ち合わせていようともそれを殊更にひけらかすような短慮の者ではないようだ。武に寄り過ぎた体育会系からすると、軟弱などと言われそうな文科系の香を纏い過ぎているのが玉に瑕かな。
久秀の歳の頃は恐らく、長逸とほぼ同じの三十半ばくらい。方や阿波三好党の武を代表する者、方や阿波三好党の文を司る者。立脚する権力が違うのだから、長慶配下の二大巨頭として剣突しているかと思いきや、この二人は意外と仲がよい。教養や文化レベルが等しいからだろうか?
しかししかし、長慶死後の対立を知っている未来人としては心配事ばかりなのだが、肩を並べてちょこちょこと慈照寺へやって来る姿を見るにつけ、どうやら杞憂だと思い至ったのは三度目の来訪時。四度目となる今日は、心配していたのがバカみたいだったと安堵頻りである。
いや、安堵ばかりもしていられない。
獰猛な武将の本性を内に秘めた二人が、雁首揃えて俺の間近にいるのである。……器を抱えながら、さ。
「震えておられまするが……冷えましたかな?」
「それはいけませぬ。大事な御身に些かなりとて異変が起こりましては……」
ああ、畜生め!
俺は手にしていた器を投げ出しそうになるのを、必死のパッチで我慢する。笑っちゃ駄目だ、笑っちゃ駄目だ、笑っちゃ駄目だ……。
「い、いや、何でもない」
怪訝そうな二人に手を振って場を取り繕おうとするが、ちょっと無理かも。
室町時代とは日本が日本らしい文化を次々と萌芽させた時代だ。その一つが茶道である。ここにいる長逸と久秀は、室町時代後期のみならず後世にも名を馳せた偉大なる茶人でもあった。
そんな二人が、縄文土器になみなみと入った抹茶オレを、ストローの代用品である藁でチビチビと啜っているのだ。
これが笑えずにおれようか、いや無理だよ!
何て間抜けな絵面だ、アンバランス極まりない、酷過ぎるにも程がある。誰だよ二人にそんな間抜けな事をさせたのは?
不肖、俺だよ、あっはっはっ!
自業自得で自爆しそうな片腹痛さを我慢するには、別の事に意識を集中させなければ。これ以上、横隔膜に負担を強いれば腹膜炎か盲腸炎でも発症させてしまいそうだ。
「ああ……それよりも新五郎……いや、五郎左衛門から文が届いておった」
与一郎、と声をかければ部屋の隅で控えていた俺の右筆候補筆頭、後の細川幽斎がスルスルと膝だけで近づき、一通の書状を差し出してくれる。受け取ったそれを横に回せば、宜しいのでと言いながらも早速開いて読み始める長逸、そして久秀。
多羅尾の隠居の手引により落ち延びることに成功した和田新五郎。流石にトンチキ管領も伊賀国で何があろうと知る術はなかろうと思うが万が一、事が露見しては元も子もないので脱出直後に池田五郎左衛門と名を変えさせた。
寄宿先は伊賀では名の知られた国人未満の地侍、伊賀崎道順の屋敷。国人クラスの藤林家には劣るものの、それなりの領地が富裕層の一員である。和田改め池田五郎左衛門の行政能力は大層重宝されているようだ。いらない子の居候とはならず良かった良かった。
伊賀崎道順は別名が楯岡ノ道順だと教えてくれたのは、清水坂の藤林坊。何でも今は六角氏と誼を通じているとの事。それを聞いて少し心配になったが、まぁ大丈夫だろう。多羅尾と藤林が目を光らせてくれているのだから。
そんな訳でこの世での和田新五郎とは、元の名など誰も知らぬ身代わりで処刑された死体のみとなったのである。その死体も刑場から速やかに清水坂へと運ばれ、鳥辺野の地で丁重に読経されてから葬られた。証拠は土饅頭で隠滅しました、めでたしめでたし。
葬送を執り行ったのは藤林坊達だが、依頼主は長逸である。正確には長慶の命を受けた洛中の阿波三好党の面々だった。刑場に徒党を組んで現れた長逸とその配下の軍勢は、遺骸を申し受けると述べるや制止する刑吏達を強引に押しのけ、暫くは晒される予定であったバラバラ死体を全て持ち去ったのだそうな。
憚る事なく堂々とした振る舞いだったと聞いたが、トンチキ管領の意向を無視しての行為に京雀達は再び洛中で武力衝突が発生するのではと戦々恐々に。だがそれ以上の無茶を阿波三好党はせず、トンチキ管領も一切の咎め立てをしなかったので洛中は今日も無事平穏。
いや実際は、不気味な静けさに支配される事と相成りましたとさ、めでたし、めでたし?
トンチキ管領の突飛な激発に端を発する今回の事態。立派な肩書きを持つ大の大人が起こした大人気ない横紙破りに対し、長慶側が放ったカウンターアタックは実に的確であった。ダダを捏ねた者は黙り込んでしまったのだから。
尤も、阿波三好党の振る舞いが整然としていたのは当然で、事前に俺が手紙で事情説明をしていたからであったりするのは一応、内緒の話である。
伝令役を務めた石成主税助の如才なさも、功を奏したみたいだけど。連絡将校以上の働きをしたって事は、無能な怠け者ではないという事か。給料を上げてやるべきかね?
「世子様には幾度頭を下げても足りませぬな」
「誠々忝き次第にて」
手紙を読み終えた二人が息を合わせて深々と頭を下げるが、俺からすれば自分自身の都合で勝手にやった事なので居心地悪いったらありゃしない。俺の手柄ではなく現場で働いてくれた者達の御蔭だ、と言えれば良いのだが。
この時代、目上の立場の者が目下の者に謙遜するのは、侮られる元となる。目下が目上にならば美徳とされる向きもあるけれど。律令で保障された身分になくとも、俺は将軍様の嫡子。侮られて良い事など一つもない。
まぁ二人とも、俺が命令しただけなのは重々承知してくれているはず。彼らが俺に頭を下げているのは、俺が救出の命を下した事にだ。それならば甘んじて受容するしかない。
和田新五郎本人が明らかな冤罪で処刑されていたら、流石の長慶も拳を振り上げねばならなかっただろう。振り上げた拳は鉄拳にせざるを得ず、振るわれる鉄拳は致命的ダメージを与えねば意味がない。
しかし処刑は執行されたものの、断罪されたのは和田新五郎の名前だけだった事を知っているので、長慶は拳を振り上げずに済んだのだ。
現状の長慶は、属する派閥の親分であるトンチキ管領と安易に決裂する事が出来ないでいる。反乱を起こすには大義名分がないし、準備も整っていない。どれだけ冷え切り気まずい関係になろうとも手切れとならぬように調整せねばならない、ないない尽くしの立場である。
水面下の確執を表層の争いに変換するのは、簡単であっても実は難しいのだ。ノリと勢いで暴発するなど阿呆でも出来るが、争い事は勝たなくては意味がない。参加する事に意義があり勝ち負けなど度外視しても良いのは、アマチュアの行動方針である。
戦闘のプロである武士は、負けて得する事などほとんどない。あるとすれば、名誉を守る為の敗北くらいだろう。損して得取れ的な、死して名を残せ、ってヤツ。
俺としてはヒヒ爺になるまで生き抜きたい、紅茶とウイスキーが大好きな宇宙提督が語る理想みたいな死に方をしたいものだ。決して、思いがけぬ形で死神に拉致されるが如き死に様など、逆立ちしたって真似したくない。無病息災、安眠安息。そもそも俺は逆立ちなどできないからな!
……何の話だったっけ。ああ、そうそう。長慶が激発しなかった理由だ。
俺が仔細を伝えた事で、長慶は拳を振り上げる事に拘らなくて済んだ。しかし何もしないでは、不名誉を甘受したと世間に受け取られかねぬ状況に変わりはない。そこで、示威行動をする事で阿波三好党の意地を洛中に見せつけたのである。
長逸が率いた葬列は、ゴリゴリの完全武装だったそうな。
嫌がらせ程度ならば出来ても本気のガチンコ勝負する度胸は持ち合わせちゃいないトンチキ管領と茨木の野郎には、それだけで充分だったのだ。阿波三好党は主人の理不尽を唯々諾々と承服するような飼い犬ではない、いざとなれば噛みつく事も厭わない狼であると示すだけで。
一触即発の雰囲気を演出するだけで、長慶は矛を収めて沈黙を保つ。次の行動は相手の出方次第。どうするトンチキ管領、と洛中の皆々が固唾を飲んで待っていたら、予想外……とも言い辛いリアクションをしやがった。
洛中から遁走しちまいやがったのである。
しかも行き先は、芥川山城。未来の大阪府高槻市にある要害だ。城主はトンチキ管領の側近の一人、薬師寺与一元房。数年以内に没落し、歴史から退場する事が予定されている奴の住まいだった。
同じ摂津国でも兵庫県西宮市にある越水城には帰還出来ないのだから、当然と言えば当然の選択か。何せ越水城は、長慶の居城なのだから。幾ら厚顔無恥でも戻れやしないよな。
そしてトンチキ管領のトンズラに最も割りを食ったのは、側近中の側近であるはずの茨木長隆の野郎だ。トンチキ管領による洛中支配の担当者で責任者なのだから、逃げられるはずがない。目下、茨木の野郎は門を堅く閉ざしての絶賛逼塞中。
自ら閉門蟄居をするとは何と殊勝な事だろう。出来ればそのまま屋敷内で賞味期限切れをして欲しいものだ。然すれば俺も安心して、茨木の野郎が篭るトンチキ管領屋敷に火を放てるのだがなぁ。
臭い物は蓋をするよりは焼却処分の方が後腐れのない、たった一つの冴えたやり方だと思っている俺である。
まぁそんな感じで。
洛中における政治的与党の主流派たるトンチキ管領側の威勢が減少した結果、非主流派である阿波三好党の者達が慈照寺までのうのうと罷り越しているのだった。いや、用がある時はこっちから使いを出すから別に来なくて良いのだけど……。
長逸の洛中における役割は、幕府との折衝担当。言い換えれば阿波三好党の洛中駐在大使である。では久秀の役割は?
最近になり洛中洛外で精力的に活動を始めた諸宗寺院、特に相国寺や興福寺との交渉担当。併せて、俺と長慶とのパイプ役である。……人選ミスじゃないか、長慶さん?
もしかしたらの嫌な未来で、俺こと足利義輝は久秀の息子の軍勢に殺されるのだぜ?
永禄八年の夏が終了するまでは、出来るだけ接触したくない人物の筆頭に取次ぎをさせるなんて、HPを喪失する前に精神力をゼロにする思惑か?
恐るべし戦国英雄、三好長慶!
などと勝手に恐れたり怯えたりしている事など知りもしない久秀は、そりゃまあそうだろうが、抹茶オレを飲み干し繁々と器を鑑賞していたりする。
「……面白き造作にござりまするな」
「然様よな」
同じく長逸も様々な角度から器を眺めていた。
「何方の作にござりましょうや?」
「何処の土地にて誂えた物やら皆目見当がつきませぬ」
「さて……誰の作かと問われても、余にもさっぱり判らぬな」
文字などなかったと学校で教わった縄文時代、誰が誰だと名前があったかどうかなど学者でもない俺が知るはずもない。二人が矯めつ眇めつしている器は、大きさは小ぶりの植木鉢サイズながら特異な形状をしていた。
縁から伸びる四つの突起には、蛇のようにも他の何かのようにも見える装飾が施されているのだ。その様相は異世界の王の冠のようでもあり、異形としか言いようのない器。所々欠けているのは御愛嬌ではなく時の流れに抗い続けた際の傷、名誉の証なのである。
「誰が何の為に造作したかは知らぬが、いつ頃に造られたかは存じておるぞ」
「ほう、御教え戴けませぬでしょうや?」
「ざっと四千年から五千年前だ」
「四……千……!?」
「五……千……!?」
戦国時代を象徴する二人の武将が、縄文土器の成立年代を聞いて点目になった。チラリと背後に目をやれば与一郎と、近々の昇給が決定した主税助も表情を失くしていた。あれ、言ってなかったっけか?
「神日本磐余彦天皇 (=神武天皇)が即位あそばされるよりも遥か前に作られた器である。言わば“神代”の頃の物だ。とは言え、『古事記』にて物語られているのが今よりもどのくらい前かは判らぬがな」
「「「「何と!」」」」
それっきり絶句する四人。
「余が思うに神代とは、神と人とが手を触れあい抱き合う事が出来た世なのだと。時を経て神と人との間に産まれた子の中から神日本磐余彦天皇、日ノ本を建国為された御初代様が現れた。今上の御上が百五代目であるとか。
我ら武士は出自を第一の誉れとするのは、神と人との間に産まれし血筋に家祖を戴くからであろう?
源氏は水尾帝(=清和天皇)の、平氏は柏原帝(=桓武天皇)の血を継承しているのを誇りと致しておるから、民より偉いと思うておるのであろう?
武士とは名を惜しむもの。何故に惜しむかと言えば、父祖より受け継ぎし証が名であるからであろうが。
平氏の家祖である柏原帝が京洛を都と定める前は、大和に都があった。さて、その方らに尋ねるが、大和に都が定められる前の都は何処にあったか?」
沈黙を保っていた四人の内、おずおずと口を開いたのは与一郎だった。
「近江にござりまする」
流石は将来、古今伝授を相承する男。既に素養はあるようだな。良きかな良きかな、益々励めよ。
「うむ、天命開別尊(=天智天皇)は近江の地にて政を為された。然らば近江の前の都は何処であるか?」
「難波にござりまする」
才気ある少年に負けてなるものかと威勢よく答えたのは、久秀だった。古典に造詣が深い男はやはり違うねぇ。少々大人げない気もするけれど。
「左様、難波の地である。だが今は其処に都はなく、あるのは一向門徒の牙城たる本願寺だ。今の有様しか知らぬ者は遥か古の昔、彼の地に都があったなど思いもすまい。しかしである」
俺が一呼吸入れる間も、四人は耳を傾けたままで静寂を保ってくれていた。
「一向門徒の者達が我が物顔で行き交うその下を一丈(=約3m)も掘らぬ内に、難波に都があった証が見つかるであろう。時の流れにより多くの土くれに埋もれてしまった古の栄華の痕がな。
人の住まう地には、その足下に連綿と続く過去の営みが眠っている。栄枯盛衰とは照顧脚下。百年も過ぎれば、余もその方らも皆が誰かの足下となるのだ。
因みに、孫四郎と弾正が手にしておる器も人の一生では測りきれぬ時の流れによって姿を隠しておったのだが、偶さか見つけられたのを譲り受けた物である」
古びた奇妙な器が、実は途方もない年月を経た物であると知らされた長逸と久秀の二人は、父祖伝来の宝を手にしているかのように神妙な顔つきとなり、所作も慎重なものとなった。
世が世なら重要文化財に指定されても可笑しくない縄文土器で、抹茶オレを飲む背徳感の余韻など吹っ飛んでしまったみたいだな。だけどさ、器は使って何ぼだろうし……探せばまだまだ出て来るのだからさ。文化財保護法など微塵もないから気にするなよ。
「この器、どなたから譲り受けられたのでしょうや?」
長逸が神妙な面持ちの影から数奇者の顔を覗かせれば、久秀も似たような感じで目をキラリとさせる。単なる生活雑器に途方もない価値をつける茶人という者達は、本当に度し難い輩だよなぁ。
もし仮に、茶人達の間で抹茶オレと縄文土器のブームが訪れた、などと誰かの日記に書かれでもしたらどうしよう? ……俺の責任じゃないよね?
とか何とかと益体もない事を考えていたら、廊下の向こうからドカドカと傍若無人な足音が。どうやら俺が答えるまでもなく答えの方からやって来たようだ。
御免、の一言と同時に無遠慮にスパーンと開け放たれた障子戸。
「世子様、“演習”の刻限にござりまするぞ!」
寒空をバックに頭だけが僧形の男が凶暴過ぎるスマイルで仁王立ちするのに、俺は頭を抱える振りをする。いや、振りじゃなくてマジで軽い頭痛がしてきた。
あまりに頭が痛いので、俺は首から上を僅かに動かすことしかできい。
「その器の出所が知りたいのなら、彼の者に尋ねるのだな」
彼の名は、武田信虎。
何れ歴史の表舞台に立つ二人と違い、歴史の表舞台から摘み出された者だ。
さぁ早う早う、と胴間声で急き立てる男を顎で指し示しながら洩らした溜息が、薄っすらと白くなる。ああ、冬だねぇ。道理で背筋で悪寒が全力疾走しているはずだよ、全くもう!
今月の1日、日帰りで東京国立博物館で開催中だった『縄文』展に行ってきました。
最高に素晴らしい展覧会でした。
縄文土器は西日本でも多く見つかっておりますが、やはり出土件数は東日本の方が多いようで。
山梨県や長野県からも多数発掘されています。因みに火焔土器の出土地は、主に新潟県を含む北日本だとか。ですので抹茶オレの器は火焔土器ではありません。