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『 チープ・インパクト 』(天文十三年、夏)

 大変長らくお待たせ致しました。


 誤りを発見しましたので、訂正致しました(2019.12.01)。

 「菊童丸」→「菊幢丸」に改訂致しました。(2018.11.05)

 災害は本当に恐ろしい。恐ろしくない災害などないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけど。


 人は誰しもが住居を構えるのは安全圏だと思っている場所なのは至極当然で、その安全圏だと思っている場所を突如脅かすのが、災害の災害たる恐ろしさだ。

 右往左往しつつ暗中模索し、一方を感謝しながら他方を罵倒する事で過した七月が、昨日で営業を終了した。

 今日からはいよいよ八月だ。新暦だったら九月だよな。夏だ夏だと思っていたらいつの間にやら秋でした。道理で蝉時雨が乏しいはずだ。(つわもの)どもが夢のあと、であるシャレコウベが日本全国至る所でゴロゴロしているのだろうけど、幸い洛中は平穏が続いている。

 そんな安定指数ストップ高状態の洛中は、泥濘に足を取られながらえっちらおっちら歩いていたのが嘘のようで、今はカンカラカンに乾いていた。

 風が吹いたら桶屋がボロ儲けしそうなほどに、砂埃が舞う毎日。平成時代ならば高温多湿の油照りの日々だろうが、幸か不幸か今は寒冷の小氷期だ。

 日中の暑さは時々うんざりとするけれど、日暮れになれば涼風が吹くし夜ともなれば首筋がひんやりする事もある。草叢にて奏でられる虫の音を楽しみながら温かい茶を飲むのが、今の楽しみだったりする。

 おっさん臭いのは至極当然。精神は既に老境なのだもの、おっさん臭くて当たり前田の何とやら。

 熱帯夜続きだった前世を思い返せば、今は本当に極楽極楽。クーラー無しで過せる夏の終わりの秋の初めの有難さよ……。

「若子様、御注進にて候」

 その時も、俺は私物化している東求堂でダラダラとしていた。関係各所への御礼の手紙を書くのに飽きたからだけどな。両足を投げ出し大の字でゴロゴロしていたら、開けっ放しの障子の向こうから山岡三郎太郎の声がした。

「如何した?」

「御懸念の事ども、出来(しゅったい)にて候」

「左様か」

 ついにイベント発生か……。発生しちゃったのか、発生しちゃったよ、こん畜生め!

 この時代で生活してから今日まで色々と史実にはない事をし捲くってきたので、もしかしたら史実とは違う事が起きるかな……ってのは甘過ぎる予測だったか。やっぱり当然仕方なし。先月の災害といい、史実通りに事件は起こるのか……。

 俺と三好長慶を繋ぐか細い連絡線である和田新五郎が、茨木の手の者により捕縛されたとの凶報を聞きながら、ぼんやりと天井を眺める。

 まぁ起こる事を予定して、事前に幾つか手をうっていたから何とかなるだろう……多分きっと。どうにもならなければ……ってのは考えたくもないけれど、最悪も想定しておかないとなぁ。

 表面上の史実は変わらずとも内容と方向性を多少捻じ曲げるくらいならば、誰も文句は言わないだろう? 例えクレームがあったとしても、御免なさいと謝れば良いだけだ。だれがクレームを言うのかは知らないけれど!

 さて、それでは。

 相手が史実通りの事をしでかしたのだ、こちらはこちらで史実にない事を予定通りにやらかすとしよう!

「三郎太郎よ、事前の手筈どおり各所へ至急通達せよ。明日の夕刻に超然亭(ちょうねんてい)に参集せよ、とな」



 そんな訳で、翌日。

 真っ赤に焼けた暮れ行く日差しを頭から浴びながら、俺は慈照寺の裏山をえっちらおっちらと登っていた。行く手を横切る赤トンボを目で追いながら、トボトボと。上り始めは軽快にテクテクだったのだけどねぇ。

 先導するのは石成主税助。近習で前を歩くのは山岡三郎太郎、背後は三淵弥四郎と高五郎右衛門。殿の供侍は中村孫作である。最少人数なのは一応安全圏にいるからっていうのと、隠密行動でもあるからだ。

 時期的に夕日は釣瓶落としだけど、沈み切るまでには幾ばくかの余裕がある時間帯。暑さからではない額の汗をこれでもかとばかりに拭いつつヒーコラ歩く事、四半刻。漸く辿り着いた山頂は、汗を乾かす涼しい風が吹き抜けていた。

 一息つきながら一望する洛中は、御上は御所にましまし世は全て事もなし、といった感じ。未だ水害の傷跡が彼方此方に顕在しているけれど、紀伊国や大和国の杣人、摂河泉三ヶ国の作事の人夫、何よりも被災者である町衆の手により、京洛復興は実に順調で何よりだ。

 河原者に庭掃に清目に清水坂の長吏といった地下人達の活躍にも、拍手を送らねば。彼らが休む事なく日々行っていた洛中の清掃作業がなければ、道端に放置されたままだったであろう死体や汚物が濁流を汚水へと悪化させ、疫病の温床となっていたに違いない。

 彼らが行っていた清掃事業は、災害が発生するしないに関わらず重要案件だ。もしかしたら今の京洛って、世界で一番清潔な都市なのではなかろうか?

 さてところで。

 撤去と再建に従事する肉体労働者の彼らが安心して働けるのは、大金持ちの有徳者達が潤沢な資産から給金のみならず褒賞や寝泊り場所を提供してくれたからだったりする。

 興福寺別当の覚譽伯父さん、熊野三山検校にして園城寺長吏の道増伯父さん、大覚寺門跡の義俊伯父殿、そして長兄である稙家伯父さんの御蔭だよな、本当に。例えそれが己個人の利益、属する近衛家の名利に直結するってのが理由であったとしても。


「日々蘇っていく都の姿を見るにつけ、まこと市井に御仏はおわしますなぁ」


 昨日御逢いした際の惟高妙安禅師は、湯冷ましで立てた温い茶を啜られながらニコニコとされていた。

 禅師は、この世界の片隅どころかド真ん中で生きる羽目になった俺をズーッと支え続けてくれている、大恩人様だ。禅師と早々に出会っていなければ、俺の菊幢丸としての人生はスタート時点で躓いていただろう。

 心の底から、天の配剤に感謝!

 そんな俺の救世主である禅師が救済の手を差し伸べられたのは、京洛全体へもだった。

 まるで他人事のように述懐されたけど、禅師が洛中洛外の臨済宗系の全寺院に大号令をかけて下さらなければ、大水害への事前の準備は整わなかったと断言出来る。洛中の多くの寺院が警鐘を派手に打ち鳴らしたからこそ、政所や町衆も真剣に対処法を講じたのだ。

 それに京洛が着実に復興の途に就いているのも、禅師の判断と決断に帰結すると俺は理解していた。

 この時代は、近現代よりも利害関係が非常に厳しいし、恐ろしく難しい。何故なら武士だけではなく、町衆も僧侶も公家でさえそれなりの武装をしているのだもの。全ての階級が武装を常としており、問題を解決するには武力闘争を手段の一つとしているのが当たり前。

 例えば面子や名誉に関する事ともなれば、直ぐに刀を抜いたり槍を振り翳したりしたとて、誰もが至極御尤もと受け止めるのがこのふざけた時代のチャーミングポイントだ。……ストロングポイントか、ウィークポイントかもね?

 老若男女を問わずタフ・ボーイでなければ生きていけない、濃縮率100パーセントの世紀末感バリバリの社会状況である。

 トリガー・ハッピーしかおらず、ハッピーエンドよりもバッドエンドの方が多いマカロニ・ウエスタン的な常識が世の慣わしとされている中で、話し合いにより問題解決をなされているのが禅師とその仲間達だ。

 洛中が一先ず平穏を保っているのは、禅師と門弟達がバランサーの役割を果たして下さっているからである。武士同士による問答無用沙汰ならば流石にお手上げだろうけど、階級間同士の諍いならば仲を取り持つのはお手の物。

 安国寺恵瓊に象徴される外交僧に、臨済宗の僧侶がよく起用されていたりするのは伊達じゃない。公家に武家に商家に庶民と、あらゆる階層を出身母体としている上に、開祖の栄西禅師以来ずっと蓄積された知識と技術。

 幾度も戦火に焼かれ疫病や災害に見舞われても、その度に復活出来た第一の要因は都の精神的支柱である天皇家があるからだ。その藩屏たる廷臣達がいたからだ。都の土台である町衆達がいるからだ。

 そして何よりも、人と人との間を取り持つ宗教者がいるからだ。日本における宗教者とは日本特有……かもしれない天道思想、所謂“お天道さんが見てるぞ”の体現者であり、伝道者でもある。

 本来は全く別物である神仏が融合合体しているのも、神も仏も天道と同じだと誰もが思っているからだろう。様々な要素のゴッタ煮である天道思想の一表現が、天照大御神や八幡神や阿弥陀如来や地蔵菩薩なのだろう。

 ブイヤベースを口にした時に、海老の味を感じた、イカの食感がするみたいな感じで、ある一部分を強く感じた時に稲荷信仰や天台宗などが生まれ出るに違いない。特に強烈な味加減が一向宗や法華宗やキリシタンとなるのかも?

 結局は人の思考と為しようなのだろうな。

 だからこそ、京洛における人の営みをぶち壊すのも天皇家であり、廷臣達であり、町衆達であり、宗教者であるのだけど。特に宗教の猛威は京洛の大半を焼亡させ無数の人々を殺し捲った事を忘れちゃいけない。

 是は非であり、善と悪は表裏一体、聖徳はいつでも邪悪となり得るのが人類社会の常なのだが、俺が知る限り今の臨済宗は少し違うようで。俗世との距離が近いのに、世の中とはどうも遠いようなのだ。

 浮世離れした現実主義者、という表現が正しいかどうかは判らないけれど。禅師を見ていると、現実には積極的にコミットしながら現世をオミットしている気がするのである。

 そんな禅師が率先して洛中の揉め事の種を積極的に潰しておられるので、相国寺の末寺も含めた臨済宗系寺院に所属する僧侶達が街頭の個人相談員として鋭意行動中だったりするのだ。

 改めて言おう。今の洛中の安定は禅師の御蔭だと!

 そーんな洛中にわざわざ無用な波風を立てようとしている馬鹿野郎が、ひとり。誰あろう、トンチキ管領だよ畜生め!

 洛中の復興に目処が立った先月末に、西宮から帰って来なくても帰って来やがったのだよ、六郎の野郎めが! 大人しく越水城で引き篭もり、あわよくば頓死してくれたなら最高だったのに!

 どうしておめおめと生きて帰京しやがったのだ畜生め、と罵りたいのは山々だから罵るが、帰京した理由については何となく察しがつく。嫌いで憎いヤツの居城に居続けるのが苦痛になったのだろう、きっと。

 もしも越水城が同じ三好でも政長の居城であれば、少なくとも年内は引き篭もり続けていたに違いない。こんな事なら、暗殺者の一人や二人や百人くらいは送り込んでおくべきだったな!

 そう思ってはみたけれど、もしも暗殺が成功してしまったら史実が大きく捻じ曲がってしまうし。未だ将軍世子という中途半端な役回りでは、歴史を転換させるような大事に手を染めて良いとは思えぬし。茨木の野郎共々纏めて退治するのは時期尚早だよなぁ、多分。

 それに、だ。

 剣豪将軍とも呼ばれる一方で暗殺将軍とも揶揄される足利義輝君は、企図した暗殺の成功率は低いのに、企図された暗殺は一発必中なのがお笑い種だよねぇ。成功率の低い手にベットするのは、破れかぶれのギャンブル依存症か窮鼠だけだよな。

 今はそこまで追い込まれていないのだから、同じ企みを図るにしてももう少し成功率の高い方法を選択しないと、ね。ドツボに嵌める心算で嵌ってしまったら、哄うに笑えず泣くに泣けない。

 ああ、しかし。

 トンチキーズの片割れ、トンチキ親父が最近大人しいのに安心している最中だったのに、相方のトンチキ管領が暴走を始めやがるとはなぁ。……史実通りなのだから文句を言い辛い面もあるのが、何ともはや。


「若子様。既に皆、参集致しておりまする」


 後ろから声をかけたのは、午後一で先発し会合の準備を整えてくれていた村井吉兵衛。促された俺は篝屋(かがりや)すら再建され出した町並みに背を向けた。後ろからは殷々とした鐘の声。どこか物悲しい響きに、ふと思い出した。

 そういえば、今月半ば過ぎには上御霊神社で還幸祭(かんこうさい)だったっけ。

 応仁の大乱のオープニングゲーム、御霊合戦の舞台となった上御霊神社は政治的抗争で敗亡し憤死した人々を祭る神社である。位置するのは相国寺の少し北方だ。場所が幸いし先月の水害では被災せずに済んでいる。

 因みに正式名称は、上出雲寺御霊堂。神仏習合なので神社であり寺院であったりするのだが、それは祇園社なども一緒だ。所謂“神仏習合”ってやつである。

 さてその上御霊神社は毎年、祇園祭の後に神幸祭(しんこうさい)を行っていた。神幸祭とは神霊を本殿から送り出し御輿へと移す祭だ。そして約一ヵ月後の八月中旬に再び御輿から本殿へと移す祭を行う、それが還幸祭だ。

 神幸祭から還幸祭の間、氏子達を中心とした町衆達は風流踊りに明け暮れる。つまり洛中は七月半ばの祇園祭から八月半ばの還幸祭までの期間、ズーッと祭囃子と共に過すのだ。まるでリオのカーニバル期間みたいだよな。

 尤も、先月の大水害後に公儀が発布した“風流停止令”により現在の洛中は大人しいもので。表面上はそうでも、内部は鬱屈したモヤモヤが堪りきっているに違いない。破裂寸前の風船みたいに、些細な切っ掛けで爆発する事請け合いだ。

 以前、日本人ほどお祭好きの民族はいないと聞いた事がある。一年三百六十五日、日本のどこかでお祭が開催されているのだとか。日本人とは日常である“ケ”と非日常の“ハレ”を使い分ける事に秀でている、かなり特異な民族だそうな。

 もしかしたらこの時代に頻発する一揆というのは、日本人のDNAに刻み込まれた狂騒の遺伝子が矢鱈とはっちゃけ易い状況があるからだろうか?

 はっちゃけ易い状況とは、もしかしたら“自検断”が許されているからかもしれない。自検断とは、村落単位で行われていた治安行政と刑事司法の事。問題が村落内に収まらず外部へと波及した途端、容易に武力抗争となる。

 トリガー・ハッピーが、トリガー・ハッピーとして生きていられるのも自検断様様なのだよなぁ、本当に。拳と拳でこの世は天国? いやいやそれは地獄道に限りなく近い修羅道だろう。幕府に権威がなくなり日本が四部五裂しているからこそ、常態化した現実的社会制度だった。

 やがて信長が天下人への道を歩みだすと自検断が徐々に否定されるようになり、公儀が制定した“法度”によるコンプライアンス社会となったのが豊臣政権から以降の、中央集権国家だ。

 江戸時代は地方分権と並立でもあったが、天下統一の妨げとなる行為は全て中央権力による武力で弾圧された。中央集権とは、武威を背景にした権威による自検断を許さない統治体制なのだ。

 その体制が崩されたのが、明治維新である。って……鬼が笑い死にしかねない数百年後の事は、どうでもいいや。

 今は一先ず、目先の大問題を片付けないと、な。そう考えつつ山頂に設えられた方形屋根の四間四方の小屋へと足を向ける。

 現代ならば京都市内を見下ろす展望台となっている場所に現在建っているのは、超然亭なる小屋。洛外東部に別荘を建てて引き篭もった八代将軍義政が、洛中を看視するために拵えたものだ。

 義政は趣味に没頭して政治を全く顧みなくなったとされているが、洛中で起こるアレコレからも目を逸らし続けていた訳ではない。配下をここに置き、常に洛中に異変がないかを注視していたようなのである。

 長禄期に始まり応仁の大乱の要因の一つにもなった大飢饉の際にも、密かに粥施行の支援を行ったのだとか。

 故にここ超然亭は、洛東の別荘“東山殿”が慈照寺に変更された後も重要施設として維持され続けているのである。因みに去年、俺の発案でちょこっと改築したのだけれどね。

 何の設備もない1ルームであったのを、キッチン・トイレ付きにしたのだ。キッチンと言っても水瓶と小さな竈をだけで、トイレとは名ばかりの“ぼっとん式”だけどな。

 湯の一つも沸かせぬ場所で長居は出来ぬし、排泄の度にその辺で垂れ流しされては不潔極まりないからな。先ずは水周りに気がいってしまうのは、やはり現代日本人の感覚なのかもしれない。

 そんな事をつらつらと思いながら超然亭へ上がり込めば、下座の辺りに男が七人平伏していた。前に二人、少し間を空けて後ろに五人と二列で座っている。

「既に申し渡している通り“四姓平等”の道場たる当山境内において、過度の礼節は無用なり。面を上げて顔を見せよ」

 数え切れぬほどに言い聞かせても身分差が厳然と存在しているこの時代では、俺の主張が変で彼らの処し方が普通なのだ。しかし、身分差のない現代人の感覚からすれば何かと平伏されるのは結構苦痛なもので。

 一朝一夕に改まるはずないのは判ってはいるが、何とか意識を変えたいものだよなぁ。まぁ日常的な行動様式を拙速に変更すれば、幾らそれがまともな改善案であっても道理の外れた改悪案となるのだから……悩ましい事だ。

 先ず頭を上げたのは士分である多羅尾の隠居こと和泉守光吉と、山岡の当主である美作守景之。どちらも官位は自称で正式なものではない。少し遅れて地下人の四人とプラスアルファが平伏を止める。

「皆の者大儀。さて本日、参集してもらったは懸念していた事が出来した故である、……三郎太郎」

「は!」

 俺の左脇で侍る三郎太郎は、和田新五郎が横領の疑いありと捕縛された旨を簡潔に述べた。史実では確か、俺に仕える侍女と密通したからって理由だったのだけど……どうやら歴史がホンの少し改変されてしまったらしい。

 その時、歴史がちょこっと動いた!? そりゃあ大変だぁ~。親分、親分、てぇへんだぁ~ッ!! って叫び狼狽えるべきなのだろうが、生憎ながら親分がどこにいるのか判らないから、慌てふためくのは止めておこう。

 さて、もしもだ。

 俺が “花の御所”に常在していれば、歴史は些かも変わらなかったに違いない。しかし入り浸り中の慈照寺は基本的に、女人禁制の場所。藤堂虎高達の妻が下女として食事の支度などしてくれているが、妙齢の侍女など一人もいないからなぁ。

 そのような訳で、和田新五郎の罪過が密通から横領に改変されたのだろう。トンチキ管領が手配した洛中復興用の木材をちょろまかした、と。

 ……おいおいおいおい、ちょっと待て!

 ちょろまかしをしたのは茨木の野郎自身だって事は、裏通りで洟を垂らしている孤児でさえ知っているぞ! 盗人猛々しいとは当にこの事だよ!

 つまり、冤罪って事だ。真の意図は、俺と阿波三好党が仲良さそうなのがムカついたからチャチャ入れした、って事で。トンチキ管領の野郎は余程、阿波三好党が嫌いらしい。

 切っ掛けは多分、五年前の諍いだろう。

 天文八年、利長を名乗っていた長慶は河内十七箇所の代官職を、トンチキ管領に要求したのである。河内十七箇所は河内国において最も実入りの良い豊かな荘園だった。長慶は、代官職は父の元長が任ぜられた職分であったので子である自分が継承すべきだ、と主張したのだ。

 しかし元長が謀殺された後、代官職は三好政長が任ぜられている。トンチキ管領お気に入りの方の三好に。

 トンチキ管領と新進気鋭の貴公子との係争に、幕府の大館常興は長慶の主張を正当と認め、将軍のトンチキ親父は近江守護の六角定頼を巻き込んで調停を図るが敢え無く失敗。するとトンチキ管領は細川一族を招集。

 事態の悪化を懸念したトンチキ親父は、能登守護の畠山義総や若狭守護の武田元光なども巻き込んで再度調停を企図するも不首尾となる。そして丹波国で謹慎していた政長が軍勢を率いて洛中に現れ、長慶との間で小競り合いを始めてしまった。

 その後、情勢不利と感じた長慶は摂津国西宮に退散する。今までならば本国の阿波に逃げ帰っていたのに、これ以降は阿波を弟に任せて畿内に滞在し続けるのだ。結果として長慶は畿内に橋頭堡を手に入れ、摂津守護代の肩書きを得て、更に主君であるトンチキ管領に対抗出来る実力者であるとの名声を得たのだ。

 河内十七箇所の代官職は得られなかったが、それ以上の成果を長慶は手にしたと言えるだろう。翌年には丹波国の実力者である波多野稙通の娘を娶り、着々と畿内に勢力を拡大し、下剋上的英雄の一人である木沢長政を討伐するまでに成長するのだし。

 俺からすれば長慶ってチョーカッコイイだが、狭量と偏執を煮詰めたような性格のトンチキ管領からすれば憎くて憎くて仕方がない存在なのかもね?

 そんな嫌いで嫌いで……だが軍事力としては手放すのが惜しい存在が、管領職よりも上位にある将軍家と懇意にしている、っていうのはどうにも許せぬ事態なのだろう。

つまり、何だ。

 和田新五郎が冤罪で捕縛されたのは、過分に俺の責任とも言える訳で……。今回の事は、阿波三好党には青天の霹靂であるが、俺にとっては他人事に出来ぬ事件なのだった。

 出来るならば俺が能動的に動く事で事態を収拾したいのである。もしこれが契機となり阿波三好党がトンチキ管領との関係が更に拗れたら……史実にない戦いが始まるのかもしれない。

 二年後に勃発する予定の、舎利寺の戦いの前倒しだ。

 色恋沙汰での罪科ならば羞恥が勝る不名誉であるけれど、銭金に関わる罪科とあれば不名誉だけではなく面目失墜の危機。しかも、あからさまな冤罪である事など阿波三好党の面々には誰かに説明されるまでもなく、自明の理なのだろうし。

 幾ら難癖、いちゃもんであろうと感情よりも理性が勝るタイプの長慶は、直ぐに武力に訴えたりはしないだろう。先ずは交渉を始めるはずだ。だが、トンチキ管領が嫌いな相手と交渉のテーブルにつくだろうか?

 きっと“聞く耳持たぬ!”などと口角泡飛ばして、即座に拒否表明するに違いない。それでも、長慶は交渉にて解決しようと努力するだろう。その努力は、いつまで為されるだろうか?

 交渉決裂ともなれば、少なくとも長慶がそう断じれば、どうなるか?

 三好長慶という武将は信長と異なり、決断を下すまでが遅い性格の持ち主だ。ギリギリまで沈思黙考するタイプである。ところが一度決断してからの行動は信長と同じくらいに素早い。素早い行動が出来たからこそ三好政権は室町将軍を押し退けて、戦国期最初の天下人になれたのだ、と俺は思っている。

 また、決断までに時間をかけ過ぎたから三好政権は短命であったのだろうとも。それは兎も角。長慶の堪忍袋の緒は後どれくらい残存しているだろうか?

 ブチ切れた長慶が行動を開始する前に解決しなければ、漸く落ち着きを取り戻しだした京洛が動乱の現場となるは避けようのない未来絵巻だ。大水の代わりに大火に包まれ、再び全てが瓦礫に戻ってしまうだろう。

 ならば、どうする?

 長慶よりも一歩も二歩も先に、スターターピストルが鳴り響く前にフライングしてでも俺が介入すべきだ。未来日記もどきの知識を抱えた俺がトラブルシューターとならねば、前世で爺さんに洗脳された俺の知識がゴミとなってしまう。そんな未来は御免蒙る!

 かといって、しゃしゃり出た俺が表立って仲介すれば、それはそれで別の揉め事の引鉄となるやもしれぬ。何せ、史実の流れからは大分逸脱した行動だものな。

 左様な訳で。

 俺は、表面上は大人しくしていなければいけないのだ。でも水面下では無様なくらいにジタバタしなければ……。幸いにして、表よりも裏で動くのが得意な人材が身近にいるのだし、ね?

 詳しい説明をせず、わざとらしいくらいに眉根を寄せて顔を顰めた俺は只一言だけを口にした。大変憂慮している、と。

「我らに出来る事がござりますれば、何なりと御申しつけ下さりませ。一命にかえましても、世子様の御心の翳りを取り払うてみせまする」

 多羅尾の隠居が再び額を床に擦りつければ、下座にいる他の者達も同じ台詞を口にしながら平伏した。

 ……サンキュー♪ その台詞が聞きたかったのだ♪

 有難い言質を得た俺は口元や目元が緩まぬように細心の注意を払いつつ、伏し目がちに五郎右衛門に合図を送る。

「一昨日、細川京兆家様より政所へ、洛中巷所を全て御公儀の所領とされては如何か、と御進言がござりました」

 大水害の影響で空き地となった場所を幕府の所有地にすればいいじゃないか、とトンチキな六郎の野郎言い出しやがったのだ。何を考えての事かは知らないが、恐らくは京洛被災の時に何一つ活躍出来なかった事の挽回策、と考えられるが……。

「政所では突然の申し出ゆえに目下審議中の由。然れど得難き進言であると奉行衆や奉公衆に申す者が多いと聞き及んでおりまする」

トンチキ親父への阿諛追従? それとも幕府内での点数稼ぎか?

「この話、その方らは如何に思う?」

 元服も済ませていないくせに矢鱈と生意気な童……俺だけど、の問いかけに大人達は如何に答えるべきか目を白黒させていた。それはまぁ、答え辛いよな。特に多羅尾の隠居や山岡はトンチキ管領の人となりを、多少でも知っている。

 六郎の野郎の発言を額面通りに受け取って良いのは、六郎の野郎だけだ。

「余が思うに、だが」

 室内の全ての耳目が集中するのを感じながら、ゆっくりと腕組みを解く。

「細川京兆は今や公儀において唯一の管領職である。言い換えれば管領職にある細川京兆もまた、公儀の一部である。もし進言が容れられ巷所が公儀の所領となったとて、果たして全てが公儀の所領と成り得るだろうか?」

「そうは成らぬと?」

「いやいや、余の邪推やもしれぬ」

 多羅尾の隠居の問いへ即答する俺。

「だが思うのだ。余の如き童でも考えてしまう邪推を他の者達も抱きはしないだろうか、と。私利私欲を目的とした邪念に発する進言ではなかろうか、と」

「……抱く者がおるやもしれませぬなぁ」

「善阿弥よ、抱かばどうなると考える?」

 下座後方に居並ぶ五人の内、真ん中に座る河原者の代表者が目を細くした。

「多くの者が邪推に囚われれば騒ぎとなりまするかと」

「それは誠に……困った事態であるな」

 俺が大袈裟に眉をしかめれば、善阿弥とその左右に座す庭掃の頭の狭大夫、清目の長の鹿次郎、清水坂の長吏の差配役である藤林坊達も肩を竦めて首を振る。

「ところで。新五郎が閉じ込められておるのは京兆屋敷の、どの辺りであるか知る手立てはないものか?」

「それならば存じておりまする」

 藤林坊の隣の少しだけ身形の良い格好の男が、軽く頭を下げた。

「桔梗屋、どの辺りなのだ?」

「厩にございまする。本日、商いの用にて赴きました際に確かめて参りました」

「……伊賀の出の者も中々やるではないか」

「恐れ入り奉ります」


 俺の配下のスパイ組織に最近、新規加入メンバーが増えたのである。仲介したのは藤林坊だ。困窮している従弟に御慈悲を、と。どいつもこいつも、もしかして俺の事を便利な財布か転職雑誌の広告主だと勘違いしてるのじゃなかろうか?

 雇うかどうかは人を見てから決めると言ったら、藤林坊は翌日の昼過ぎに従弟を伴い再び顔を見せた。名を問えば、藤林長門と……。え!? 藤林長門!?

 驚いた俺が藤林坊をガン見すると、“(それがし)は以前、無門と名乗っておりました”だってさ……。

 判った、雇おう。気がついたら即答していたよ。まさか伊賀忍者の超有名人が雇ってくれと言い出すなんて。こんなチャンスは二度とない!

 だが、雇うには問題がある。既に多羅尾一党と山岡一族がいるのだ。将軍になった後ならば諜報要員は幾らいても足りないが、今の身分では過剰過ぎるのだ。さて、どうしよう……。

「後二年待つ事は出来ようか?」

 俺の申し出に藤林の二人は同じように首を傾げる。

「二年後ならば余は将軍となっておる。さすれば、大手を振ってその方らを余の直属とする事が出来るのだが」

「……それは真でございましょうや?」

「ああ、真である」

「然れば……身を小さくしてお待ち致しましょう」

「いや、大手を振って堂々と待ってくれて構わぬぞ」

 キョトンとした表情となる藤林の二人。どうやら虚を突くのに成功したらしい。少しくらいはやり返さないと、一方的に驚かされてばかりではね♪

「支度金と土地を用意する故に、洛中にて商いをしてみぬか?」

「商い……でございましょうや?」

「何を商うのでございましょうや?」

「それは勿論……人だ」

 そうして俺は、藤林長門とその一党のスカウティングに成功した。江戸時代以降ならば当たり前に存在するが今はまだ存在していない職業、人材派遣業を始めさせたのである。所謂、“手配師”もしくは“口入屋”だ。

 今年の初めから洛中はずっとインフラ特需に沸いている。新築、改築、取り壊し、地均し、水路の開削と浚渫。人手が幾らあっても足りないくらいに、あっちでもこっちでも建てて掘り返してが繰り広げられていた。

 だが、誰を雇ってもよいものではない。熟練度、社交性、個人の特性、そして信用出来る人物かどうかが判らなければ、雇用者は安心出来ない。様々な人が口利きをし、様々な人物が口利きを頼りとして働いているのが京洛の現状である。

 実に効率の悪い人材活用法だった。一方的な繋がりによってのみ成り立っているのだから。結果として洛外から流入して来た働き手は、過剰に働かされる者と働き口が中々見つけられぬ者とに二分されつつあった。

 手配師は、それらを円滑ならしめる必要不可欠な存在なのである。

 登録料で儲けるといった仕組みだけではなく、斡旋先の紹介なども請け負うや、藤林の二人は“誠に忝く存じます”と平身低頭。俺は安堵の溜息を長々と吐き出したのだった。


 藤林坊の隣で恐縮しているのは、藤林長門の名を暫定的に封印した男。今の名は、桔梗屋長兵衛という。インフラ特需から復興特需と、今や洛中では知らぬ者のない御大尽の一人となった男だ。

 営業開始当初は“人買い業だ”とあらぬ噂も立てられたが、バックが相国寺であると知られるや一気に沈静化。禅師の御蔭だよ有難や。親身に対応し、派遣先でトラブルがあれば仲立ちをして理非を顕わにし、給金の払いも良いとなれば当然か。

 今や桔梗屋といえば、洛中における肉体労働者の味方にして代弁者であると誰もが認める存在なのだった。何れその内に、ポーランドの故ワレサ委員長的立場にまで登りつめるのやも?

 それにしても……桔梗屋……桔梗屋ねぇ。

 名付けたのは俺だから天に向かってクレームを咆える事は出来ないけれど、やはり違う名前にすれば良かったかなぁ。是非とも新しき名を頂戴致したく、というから室町時代の商人らしく尚且つ他とブッキングしない名で思いついたのを授けたのだけど、ね?

 越後屋の方が良かったかもと、ちょびっと後悔していたりもするが。まぁ利兵衛じゃないだけマシだろう、多分、きっと!

「桔梗屋よ、新五郎を如何にすれば助け出せるであろうか?」

「身代わりが必要となりましょう」

「身代わりか……、だが身代わりとなる者が危ぶまれる事とならば如何する?」

「身代わりは別に生きておらずとも宜しいかと」

「死骸をか?」

 桔梗屋が頷くと、藤林坊が恐れながらと口を開く。

(それがし)が宜しき死骸を用立てましょうほどに」

「ふむ。では如何にして入れ替えるべきか?」

「門前のみならず、もそっと大きな騒ぎを起こさば確実に成し遂げられましょう」

 そこでふと、先程見下ろした洛中の風景が脳裏を過ぎった。

「……篝屋を、倒すか」

 俺が洩らした呟きに、多羅尾の隠居と山岡の当主の頬が僅かに緩んだ。

「それは大騒ぎになりましょうな」

「京兆家の者達はさぞや大慌てとなりましょうほどに」

「町衆に仇為す事だけは避けねばならぬぞ」

「新しく築き、騒乱の最中に京兆屋敷へと倒さば宜しかろうと存じまする」

「火付けもならぬぞ」

「十全に気を配りまする」

「後は、連れ出した新五郎を如何に匿うべきかだが」

(それがし)にお任せあれ」

「然らば和泉に頼む。美作には畿内にこの度の京兆家の悪しき様を、風聞として速やかに広めてもらいたい」

「京兆家の宜しくなき事は既に世評で広まっておりますゆえに、世の人々は然もありなんと受け取りましょうな」

 多羅尾の隠居と山岡の当主が深々と頭を下げるのに、最大の懸案事項が解消されたと安堵の息を零す俺。

「此度の事は全て余の不覚により出来致したもの。されど事態を解決するに己では如何ともし難く、ひとえにその方らに頼みいるものなり。どうか余の我侭への助力を頼み候」

 俺が両手を就いて頭を下げると、下座からは悲鳴のような制止の声が上げられた。

「どうか面をお上げ下され」

「我らこそ世子様には一方(ひとかた)ならぬ御恩を受けており申す」

「これは世子様への御恩返しの初めにござりまする」

「せよ、とだけ御下命下さりませ」

「何卒何卒」

 将軍の後継者が軽々しく頭を下げるものではないと三淵達から耳にタコが出来るほど小言を喰らってはいるが、今回ばかりはそうはいかない。どう考えても権力者による権力乱用的無茶振りだもの。

 左右に侍る弥四郎と三郎太郎の手で強引に上半身を引き起こされるまで、俺は頭を下げ続けたのであった。


 数日後。

 トンチキ管領の進言が裁可され、洛中巷所の全てが公儀並びに奉公衆への給地とする事が政所ではなく、京兆家の命令として発せられる。京兆家に仕える家人達が地上げ屋宜しく各所に高札を立てたのだった。

 その翌日。

 俄に洛中各所で風流踊りが起こり、その一部が京兆家屋敷を取り囲み邸内へ乱入。京兆家家人達と揉み合いとなるも流血沙汰寸前で町衆はとっとと退散する。しかし屋外での喧騒は止まず。

 そんな最中、京兆家が管理する篝屋が倒壊。大門が押し潰され、京兆家屋敷の内外は大混乱となる。慌てふためく京兆家屋敷を尻目に風流踊りに興ずる者達は逃散し、後には篝屋と同じく残骸となった大門並びに厩と呆然とする京兆家家人が取り残されたのだった。

 更に二十四時間後。

 トンチキ管領の金切り声の命令により、公金横領容疑で捕縛されていた“和田新五郎”なる阿波三好家の下級用人が、一条戻橋にて牛裂きの刑に処せられた。当初は鋸引きの刑の予定であったが、前日の騒乱にて頭部が潰れていた為に刑が変更されたという。


 刑執行を見届けた山科言継卿が“前代未聞の事なり”と、“花の御所”にてトンチキ親父に言上する姿をぼんやりと眺めながら、ああやれやれと俺は心中密かに呟く。

 どうにかこうにか、歴史の大勢に影響はなかったようだ。些細な齟齬など膨大な時の流れの中では見過ごされるに違いない、多分、きっと、恐らくは、だったらいいなぁ。

 多羅尾の隠居が直々に統率する一団に守られた和田新五郎は今頃、桔梗屋の手代の道案内により伊賀国のいずこかで安息の地を得られただろう。

 適当な時期に再び世間へ呼び戻すまでは、そのまま数年は潜伏していてもらおう。さて、その時。新たな名前を与えねばなるまいなぁ。取り敢えず今は暫定的なコードネームを“城戸弥左衛門”としているが。

 彼の適正を考えれば忍者にするよりは、武士の身分に戻すべきだろう。かといって、和田新五郎の名前は既に鬼籍に記されてしまっているし。

 ……池田五郎左衛門などはどうだろうか?

 近畿では池田って苗字はありふれているし、一人くらい増えたところで誰も気づきやしないだろう。無事に帰還出来た暁には、逼塞御見舞いとして適当な官位を正式にくれてやるのも、ありかもね。近畿周辺なら、播磨守か丹後守あたりが無難かなぁ?

 池田丹後守教正公は、前半生が不明の武将です。多羅尾と共に若江三人衆の一人として、三好~織田政権期にそれなりに活躍する武将なのですけどね。五郎左衛門は適当につけましたので、悪しからず。


 さて、来月は御盆の月。私は法務繁多でほぼ休みの無い月になりますので、再び更新が滞りがちになるやと存じますが、どうか見捨てずに戴きますれば幸甚です。


 皆様も、御先祖さん方々に手合わせをなさって下さいませ。御先祖さんあっての今の私達です。

 歴史とは、御先祖さん方々が積み重ねてこられた全ての人生の総称ですから♪

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