『 シェイク・オフ・ウォーター 』(天文十三年、夏)
改めまして、被災された皆様方に御見舞い申し上げます。
不幸にも命儚くなられた方々の御霊の安らかなるを祈念致します。
物心両面で損害に遭われた方々の傷が、一刻も早く癒されます事を切に願っております。
災害の無き世を過すのは難しいです。安穏と暮らせる時間の有難さを実感します。
どうか皆様が無事でありますように。
誤字脱字誤表記を訂正致しました(2018.12.01)。
「菊童丸」→「菊幢丸」に改訂致しました。(2018.11.05)
“大洪水、京中人馬数多流失、在家町々 釘抜門戸悉流失、四条五条、祇園大鳥 井流失、禁中西方築地損、於四足等御 門者、従武家奉公衆馳参、無別儀云々、東寺南大門西歟、至四塚、着舟云々、日吉大宮橋流落、其外、叡山諸坊数字、又僧俗児若衆数十人流死、至淀・鳥羽 辺流留”
<『厳助大僧正記』(著/醍醐寺僧・理性院厳助)>
参照hp http://r-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/6go/6_2_8_1500.pdf
未明に洛中洛外を襲った集中豪雨から早五日が過ぎた。丸一日降り続いた滝のような雨がもたらした被害は、甚大の一言である。
被災状況をざっくりと語るならば、下京は過半数の家屋が床上と床下浸水に見舞われた。今は既に水は引いているけれど一時は、小椋池が増水し過ぎた所為で川舟が東寺近辺にまで直接乗りつけられるほどに水が溢れたのだとか。
下京の被害が甚大とすれば、激甚であったのは上京だ。
東山から洛中に入る道筋の途上に架かる賀茂橋は、北山方面を源とする流れと比叡山方面より来る流れが合流する所にある。それが流されてしまった。原因は比叡山で起こった山塊崩落による土石流の所為だ。
災害発生から二日後に行われた政所の調査によって判明したのだが、延暦寺を構成する幾つかの堂宇ごと比叡山の斜面が崩壊し、堂宇内にいた僧侶や稚児達約三十名共々に土石流となって下流へと押し寄せたのである。
土石流は本当に恐ろしい。ただでさえ膨大な濁流だけでも恐ろしいのに、その圧倒的な水圧で人力ではびくともせぬ巨石をゴロゴロと動かし、大量の土砂を一緒に押し流して来るからだ。
しかも濁流は無数の木々も一緒に運んで来る。況してや材木の塊である堂宇の残骸も巻き込んで来るのだから堪ったものではない。山津波とは決して過言ではないのだ。
水は常に低きへと流れる。勢いが弱ければ緩やかに蛇行したりするが、大量となれば途轍もない力となって真っ直ぐに押し寄せるのだ。恐怖を伴い、暴力的に。
だが、京洛は伊達に長年“京都”をやってはいない。天災だろうが戦災だろうが跳ね返すだけの知恵と体力が経験として蓄積されているのだ。その一つが、今年の春に始まった建築ラッシュである。
相国寺をはじめとする大寺院などの洛中の富裕層の有り余る銭の一部を原資として、今年の前半は京洛中に白木の香りが其処彼処に充満していたのだ。去年今年と束の間の平穏を享受していた京洛は、投資するに値する土地となっていたのだった。
以前よりも格段に補強された上京の町屋の造り。木戸も土塀もより確りとした物となっていた。押し流されてきた樹木や石塊の直撃を受けた箇所は耐え切れずに破壊されてしまったが、押し寄せたのが水だけならば何とか耐久性を発揮したのである。
洛中を縦横に走る水路の清掃を定期的に行っていた事も、多少は効果があったようだ。京洛に溢れた濁流が最悪レベルの汚水とならずに済んだのだから、何が幸いするかは判らないものである。
そして何よりも人的被害が抑えられたのが良かった。
死傷者が皆無とはならなかったのが誠に痛恨事であるが、安全度合いが室町時代とは段違いの現代でさえゼロには出来ないのだから、最小限で抑えられた事で良しとすべきなのだろう……。
人的被害が少なかった理由は幾つかあるが、俺からの通告を受けた相国寺や政所が、逡巡する事なく迅速に動いてくれたのが最大の要因である。
洛中の寺院の過半が主に臨済宗系寺院であったので、臨済宗の親玉である相国寺の号令一家一下で警報のように釣鐘を乱打してくれた事は大きかった。何事かと最寄りの寺院に詰めかけた町衆が、僧侶達から安全対策を施すように注意を与えられた事で避難準備をする余裕があったからだ。
下京では六角堂が、獅子奮迅の活躍であったそうだ。流石は地域に根付いた防災センターだ。常日頃から周辺の町衆の尊崇を集めていた事が、今回も功を奏したらしい。
危急の報を拡散させたのは政所に勤める奉行衆や奉公衆達も一緒だ。
政所執事の伊勢の命を受けた奉行衆達が洛中に散るや、要所要所へ危険に備えるよう通告をしたとの事。トンチキ親父に侍る奉公衆達は“花の御所”と天皇の御所の警備に就き、手の空いた者は賀茂川に面した建物の屋根に登って警戒任務に就いたそうな。
因みに篝屋の幾つかは万が一の際に被害を拡大させる恐れありとして、奉行衆達の手により速やかに解体されたとか。
一方で、俺はと言えば。
駆け込んだ近衛屋敷で変事出来の予兆ありと注意喚起するも当初、皆に胡乱な目で見られたのだった。特に晴嗣の瞳は疑い色で彩られていたし。常日頃から行いの良い俺を疑うとは全く以って憤懣やるかたない!
しかし屋敷の外から聞こえて来た常ならぬ喧騒に、近衛家の皆さんの態度は一変する。当主の稙家伯父さんが御所へと向かわれると、屋敷に勤仕する者達の三分の一が縁の深い公家達へ忠告しに行き、残りの者達は屋敷の警備を厳にした。
処で何故、俺の注意喚起が斯くも各所で受け入れられたのか?
その理由は三年前に起因するのだそうな。何でもその年の梅雨時分に土砂降りが続いたため、近在の町屋のみならず宮中の建物が幾つも倒壊して、前代未聞の珍事だと言われたらしい。
俺が前世から来る前の事だから知らなかったが、四年前にも洪水はあったのだとか。
そう言えば賀茂川は白河天皇が愚痴ったほどの暴れ川だったっけ。読み耽った文書には公式文書や誰かの日記の写しだとか、古文書に分類しても良さそうなのが何点も混じっており、昔々の貴重な情報が山と記録されていた。
鳴くよウグイスで平安京となってから七百と五十年、京洛には重層した歴史がある。天気予報に竜巻警報が追加された頃に知ったのだが、日本で竜巻に関する記録で確認出来る最古は平安時代に京都で発生したものだったそうだ。
それはそれとして今回の大災害。
そもそも災害とは何だろう? 安易に答えれば人間社会に仇為すのが災害だ。災害から人為的な要因を抜き出したものが天災だ。災害には人災が含まれるものね。
言い換えれば、人間社会に無縁の場所で起こるのは単なる自然現象である。津(=港、人家のある海辺)を襲うのが津波であって、無人の地を洗い流すのは大波だ。決して津波ではない。
飛鳥時代と奈良時代は奈良が、平安時代から以降は京都が、日本の首都である。日本における首都とは日本における一番巨大な都市と同意だ。人口が多ければ当然の事ながら日々の記録が増えるのも当たり前の事。
小学生時の夏の宿題の定番であった観察日記と同じく、日々の記録にはその日の天候や洛中の様子も記されていたりする。記録媒体は飛鳥時代では木簡や竹簡が主流であったが、平安時代以降は貴族社会に普及した和紙だ。
コンパクトな板である簡では記録容量は大したものではないが、和紙となれば容量が飛躍的に増大する。その結果が日記の登場となるのだ。日記とは個人的なものではなく一家に伝来する大切な私的公文書である。
日記を残したのは貴族だけではなく多くの僧侶達も残していた。興福寺塔頭の僧が記した『多聞院日記』は戦国時代の事象を知る上で欠かせぬ第一級の史料だ。
だが、何れも門外不出の文書なので幾ら将軍家の跡取りであろうと、ちょっと見せてと御願いする訳にはいかない。結局、俺が閲覧出来るのはどうにかこうにか集めた走り書き程度の紙片ばかり。
因みに俺が閲覧している文書には公的文書が多数あるのだが、それは元々“官務文庫”に保存されていた物だったりする。“官務文庫”もしくは“官文庫”とは、朝廷の公事に関する諸々の記録を扱っていた公文書保管庫の事だ。
平安中期以降、専任で管理していたのは大夫史職の小槻氏。だが南北朝時代に壬生家と大宮家に分裂した後、応仁の大乱で大宮家は保持する文書庫を焼失した事で只今没落寸前、青息吐息で虫の息。
当主の大宮伊治は朝廷に出仕もせずに逼塞中だと聞いている。娘が西国の大大名の大内義隆の側室になっているので、その内に周防国にでも下向するのじゃなかろうか?
さて、大宮家が管理していた文書庫は消えたが文書の全てが失われた訳ではない。小槻氏から分かれた壬生家も全部とは言わないが大部分は所蔵しているし、燃え残った文書も幾らかは存在している。
東求堂で読み漁っている文書の一部もそれだったりするが。収集したのは恐らくオタク気質全開の八代将軍義政だろう。でなければ政所の資料室にあって然るべしの文書が慈照寺にある訳がない。
日記の類は含まれてはいないが、中央官庁が発令する文書の“官符”を多く含んでいるので文書作成のお手本になるのだな、これって。義政が収集した理由がそうかどうかは知らないけれど。
ああ、そうそう日記といえば。
大館常興は武家にしては珍しく日記を記していると、孫の十郎が以前に自慢していたっけ。いつかは見せてもらいたいものだ。老巧の武士が記録したアレコレはきっと興味深いものであるに違いない。
俺は未来に起こる事について多少は知っているけれど、過去の詳細は知らないからなぁ。何があったのかを知らなければ、これから起こる事の対策など練りようもないし。
対策といったら、疫病対策を早急に講じないと!
災害発生後、影響を収束させられるかどうかは疫病を如何に押さえ込めるかにかかっているってのは、前世の災害発生時に学んだ。緊急事態に遭遇するとストレスで人は免疫能力が低下する事があるそうな。
タダでさえ矢鱈と疫病が流行する時代なのだ。
疫病に対し最も効果的な予防法は、衛生的である事と栄養を欠乏させない事の二点。栄養……食料に関しては朝廷が早々に布告を出し“花の御所”も命令を下したので、政所の管轄する義倉と寺社などの所有する土倉が開かれ御救い米が洛中に分配された。また各所で粥施行なども行われている。
十万人を超える人口を抱える大都市・京洛では、一日で消費される食糧は膨大な量となる。米俵が幾つあっても足りやしないが、御安心召され。摂津・大和の二ヶ国から、余剰の米や麦が次々に運ばれて来ているからである。
摂津からの荷は堺の会合衆が、大和からの荷は興福寺が荷主だった。経済活動が活発化していた京洛は、苦境に陥っていたとはいえ銭が余り気味になっていたので運ばれて来た食糧は余す事なく購入されていく。
栄養面に関しての心配はなくなったが、衛生面に関してはまだまだ要注意だ。
一部の井戸は水に浸かったようなので浚渫が済むまでは使用禁止だと、政所の名前で封印させた。井戸周辺の住民も先の水害の際に傷んだ水で酷い目にあったそうで、唯々諾々と従ってくれたとか。
取り敢えず水に関しては出来るだけ一度沸かした物を飲むべし、と周知徹底するように伊勢に提言しておいたが。果たしてどれだけ守られる事やら。
後は消毒薬を含む医薬品の確保だな。
消毒薬として思い浮かんだのはアルコールと生石灰だ。しかし消毒用に使えるほどの度数の高い純粋なアルコールなど何処にもないので、生石灰の一択だな。さてどうすれば生石灰を入手出来るのか? 困った時はドラ……ではなく惟高妙安禅師に聞いてみよう!
サー・マザーの抱き枕と化して過した一昼夜が明け、更に様子見の二十四時間が経過した日の朝。俺は供と連れ立って相国寺へと出立した。過保護なサー・マザーを安心させる為に牛車でだ。大人の足なら徒歩一分とかからぬのに、泥濘に車輪を取られながらだったので優に十五分はかかってしまった。
母親孝行も楽じゃないね。はっきり言って牛車は乗り心地が大変宜しくないし。まぁそれは兎も角、禅師に質問だ。石灰 石灰と連呼しながら訊ねたのだが、何故か全然通じない。
もしかしてこの時代にはないのか? そんな筈はないだろう?
言って駄目なら、書いてみよう。すると禅師は呵呵大笑なされて、石灰の事かと言われた。あ、音読みじゃなくて訓読みなのね……いやはや何とも間抜けな事だ。頭を掻き掻き苦笑する俺に、禅師は石灰ならば漆喰の事であろうとお答え下さった。
そうか、漆喰か!
であれば入手経路は確立されているよな。寺院や倉の建材として漆喰は欠かせぬ物なのだから。早速俺は禅師に、大量の石灰を仕入れてくれるように依頼をする。
理由が判らずキョトンとされた禅師だったが、俺が理由を伝えると二つ返事で了承してくれた。疫病封じとして被災地域の路上に撒くとの理由を、疑いもされずに。
儂には訳が判らぬが若子様が申されるのであらば必要な事であろうからの、と言われたのにはホトホト頭が下がった。信頼されるってのは、本当に重い事なのだなぁ。前世でもこれほどの重みを感じた事はない。報恩をせねば。
頭が下がる、と言えば。
感謝してもしきれぬ相手が他に二人もいた。どちらも本人が表立って助けてくれた訳ではないし、俺から助けてくれと頼んだ訳でもない。だが二人の大立者の働きかけがなければ、災害復興はスタートダッシュで躓いていたに違いない。
相国寺から戻り昼食を軽く済ませた午後、俺は近衛屋敷の玄関にて複数の男達と体面していた。相手は近江から遥々やって来た三郎太郎を含む山岡家の者達と、山中甚太郎と多羅尾助四郎の実家の者達。
山中家と多羅尾家はどちらも甲賀五十三家に名を連ねる選ばれた家である。
因みに甲賀五十三家とは、九代将軍義尚が二回も行った六角征伐、所謂“長享・延徳の乱”で幕府の敵となった六角家に味方した五十三家の地侍達の事だ。
甚太郎の実家は其の中でも更に六角家の信頼厚い二十一家の一員として、地侍の一つ上の国人領主格と見なされていた。
つまり彼ら甲賀の者達は、六角家当主と一味同心なのである。ある程度は独自の行動が認められているようではあるが、甲賀の地は伊賀のように独立した国ではなく近江の一部であるのだから当然といえば当然の事。
そんな彼らが近江を離れ俺の前に現れたって事は、六角定頼の意を汲んでの事であるのは明白って訳で。俺は近江守護から向けられた好意を、有難く頂戴する事とした。頂戴したからには即座にこき……働いてもらうとしよう!
働いてもらう内容は緊急を要するものであり、彼らの得意分野であるものだ。当世の医薬品である漢方薬の調達と搬入である。忍者と同義語である甲賀の地侍達。忍者といえば薬学の知識と技術に長けた技術者集団だもの。
堺の助五郎経由で掻き集めても良いのだが、それではどうしても高くついてしまう。高い薬など、町衆以下の者達が購入出来るはずがない。然れど薬を必要とするのは、京洛の総人口の大半を占める当に彼らである。
何とも好都合な事に、漢方薬の元となる生薬を手ずから生産し製薬もこなせる者達が眼前にいるのだ。こんなチャンスを無為にするなど俺には出来ない。それに甲賀の者達から入手する方が安くつくのは当たり前。仲介を通さぬ直接取引なのだもの。
代価はキチンと払うと確約した上で生薬の手配を依頼すると三郎太郎以外の者達の眼がスッと細くなり、やや剣呑な光を帯びた。童でも判るくらいに態度を豹変させた事に、俺は心中の警戒レベルを一段引き上げる。
恐れながら、と口を開いたのは一同を代表する立場にあるらしい多羅尾家の隠居、和泉守を自称する光吉。横に侍る細川与一郎が腰を浮かしかけたのを片手で制し直答を許すと言えば、甲賀だけでは数が足りぬやもしれませぬが、などと抜かしやがった。
ならばと俺は、伊賀からも集めれば足りるであろうと瞬時に返す。足りぬはずがないとは思うのだけど、直接に確かめた訳じゃないのだからここは相手の言葉に乗るしかない。
すると口角の皺を深くした光吉は、取次ぎは某に任せて貰えるのでしょうかと言い出しやがった。どうやら相手の望む土俵に片足をかけてしまったようだ。
それじゃあ土俵に塩を掏り込んでやろうと思い、仁木左馬頭と談合せよと言い返してやった。安易にオーケーだと即答しても良いのだが、光吉の土俵で不利な戦いを強いられては俺の鼎の軽重が問われるし。生憎、腰も尻も体重すらも軽い俺だが、他人の掌で踊らされるほど阿呆じゃないぞ。
そもそも俺は、あくまでも現状維持を肯定する体制側の人間であり、新進気鋭を推奨する立場でもなければ権限もない。甲賀は六角定頼に委任しているし、伊賀国を統括するのは仁木左馬頭だ。
仄聞する処、最近は支配力が低下の一方らしいけど。それでも幕府の職掌では未だに仁木が守護職のままである。伊賀に関する事で仁木を通さずして良い事など何一つない。
隙あらば自立を図ろうとする国人領主や地侍達は俺の一言を、釘を刺されたと即座に理解してくれたようで、少し残念そうに揃って首を竦めた。伊賀者にマウントする事で甲賀の地位を少しでも上昇させようとでも思ったか?
悪いな、多羅尾。俺が将軍に就任したら、もう一度申し出てくれ。六角や仁木と要相談の上で答えを用意してやるからさ。しかし満額回答などと高望みはするなよ?
さてそして。
六角定頼と並び世話になったもう一人の人物は、我らがヒーローの三好長慶であった。
トンチキ管領に扱き使われながら着々と地歩を固め始めている次世代の戦国大名は、ここ数年で勢力下に置いたばかりの者達を積極的に動かしてくれたのである。
先ず動いたのは淀川沿いに領地を持つ国人領主未満の土豪、鳥養次郎右衛門と鳥養兵部丞の二人で、次に動いたのは西岡十六人衆の内から小泉三郎兵衛、藤岡石見守、鶏冠井八郎次郎の三人だ。
大阪府寝屋川市一帯にある鳥飼村を領する鳥養一族の二人は、京洛南方に広がる湖のような小椋池に勢力を張る眞木嶋家と共同で、賀茂川下流から淀川上流の改修に努めてくれた。眞木嶋家とは勿論、近習の孫六郎の家の事。
ここが荒廃したままだと京洛への物流の大動脈が途絶してしまうからな。航路の障害となる瓦礫や残骸の完全撤去は災害復興の要とも言える。河舟を総動員してもかなりの時間が必要となるだろうが、着実に進めて欲しいものだ。
京洛近郊の穀倉地帯、西岡の地を分割統治している西岡十六人衆は本来が幕府の被官である。だが茨木長隆の野郎が大きな顔をしている洛中には、どちらかと言えば非協力的。幕府に対しても唯々諾々の態度ではなかった。処が三好長慶の命には従順なようで、復興の為の人足を多数派遣してくれたのである。
何れ折りを見計らって、六角定頼と三好長慶には何がしかの御礼をせねばならないよなぁ。トンチキ親父に進言せねば。もしも感状一枚の発給で事を済ませようとしたら、どうしようか?
その時はこっそりと、俺の名でも何かをしないと。然すれば六角も三好もトンチキ親父は頼み難しと評価を下落させたとて、俺の評価も一緒に下げられる事はないに違いない。早くストップ高まで持ち込みたいものだ。
水に浸かり荒れ放題の洛中は現在、急ピッチで復興を目指している。被災前の安寧を取り戻そうと、老いも若きも男も女もそれこそ武家も町民も関係なく泥塗れとなりながら必死のパッチで奮闘中だ。
背中に大きな荷を担いだ甲賀の者達が再び現れたのは、被災から六日目となる今日の事。暦で言えば七月十五日の昼過ぎ、死者を弔う精霊会の真っ盛りで洛中が大賑わいの頃……なのだけど。
処がどっこい昨日の事。
トンチキ親父は伊勢に命じて、“風流停止”と“灯篭見物禁止”を京洛全域に布告させたのだった。精霊会と、盆踊りもどきである風流踊りの中止命令である。……まぁ仕方ないか。本音を言えばこんな時こそパッと派手にするのが良いのだが、洛中の復興は未だその前段階だもの。
浮かれ騒ぐには舞台が整っちゃいないし、準備も揃っちゃいない。付け加えれば祇園社のシンボルである大鳥居もない。土石流が押し流してしまったからね。幸いにして祇園祭は先月無事に挙行されたから、影響はなかったが。
しかし、ないない尽くしのダブルパンチにノックアウトされるような町衆など、洛中には人っ子一人いやしない。小坊主時代の一休禅師を主人公にしたアニメで歌われていた童歌の歌詞のように、兵火で焼け出されようが疫病が蔓延しようが“平気な顔して” 南無三ダーッ!!
恐らくは被災にも負けず、幕府の命令など無視して強行する心算じゃなかろうか、都人の誇りにかけて。京都の住人は祭礼行事が何せ大好きだもの。無理からにでも辻毎に灯篭を立てて風流踊りをするに違いない。だって祭りと踊りは、京都の夏の風物詩だもの!
夏の風物詩といったら、大文字焼きはどうだろう?
昨日ふと思い出して与一郎達に問うてみたら、何でしょうかそれはと反対に聞き返されてしまった。どうやら弘法大師が始めたってのは嘘らしい。そうか、大文字焼きは行われていないのか……。
そんな事を思いながら、稙家伯父さんと甲賀の者達が運んで来た生薬を改める。漢方の説明を受けてもさっぱり判らないが、聞いた名称と効能を書き留める事くらいは出来るし、後学の為にも記録しておかねば。
何故に彼らがここに荷を運んで来たのかは至極尤もな事で。俺がいるからってのと、多羅尾家の本家が近衛家であるからだ。近衛家第九代当主、経平の次男の師俊が多羅尾家の始祖なのだそうな。
甲賀二十一家の中でもトップクラスである多羅尾家の長子が、庶子とはいえ一族の中核となる息子がどうして俺の近習になったのかも、俺こと菊幢丸が近衛家の血を引く者だからだと考えれば合点がいく。
先日の遣り取りも多羅尾の隠居からしたら、遠縁の爺さんが孫のような童に仕掛けた悪戯のようなものなのだろう。不意討ちをかけられた方からすれば、笑えぬ冗談だけどな!
今日も今日とて多羅尾の隠居は地べたに膝を就きながら、楽しそうな口振りで生薬の説明をしている。俺には何かの呪文のようにしか聞こえぬ内容を、稙家伯父さんよりも一段低い場所でフンフンと聞いているのは、良く知る人物と見知らぬ人物だった。
知っている人物は、吉田与兵衛の叔父である将軍家御典医の宗桂師。知らない人物は、何れは何処かで会うだろうとは思っていた戦国時代の有名人であった。
その名は、山科言継卿! 戦国時代における酔狂人のチャンピオン様。
藤原北家四条流に属する羽林家、大納言までは昇進する事が出来る家格の当主だ。数十年に亘り書き記された、戦国時代を知る上で『多聞院日記』と並ぶ第一級史料である『言継卿記』という日記の作者さんでもある。
後世に残る業績を書き記された壮年の公家は、白塗り顔の描き眉を上下させながら何度も何度も頷かれていた。
山科家は中級貴族でありながら宮中の服飾から儀式の料理の調達、音曲に有職故実と何でも所管するマルチなスーパーバイザーの家ながら、それだけでは飽き足らないのか医療行為にも熱心なのである。
国家試験などない当世の医療業務は、多少の知識があれば誰でも医者であると自称する事が出来るのだ。腕が良ければ名医だと評判になるし、腕が悪くとも悪評にはならない。病気も怪我も、助かる時は藪医者の治療でも助かるし、助からない時は名医が施療しても助からないのだから。
言継卿は一応、臨床医師としてはそれなりの腕の持ち主だとは噂に聞いていた。役職は多くとも手当ては少なく領地も僅かで困窮寸前の生活をしていながら、遣り繰りで薬品代を捻出してせっせと町のお医者さんとして頑張っておられるとも。
貧窮者には無料もしくは格安の代金で施療なされていると聞き、精悍さの欠片もないおっとりとした顔が段々と格好良く見えてくるのだから、評価ってのは何とも曖昧なものだよなぁ。
人間とは一生、客観視など出来ない生き物なのだろう。自我のない人間がいないのと同様に、主観抜きで物事を観察出来る者もこの世にはいないのだから。
そんな訳で、ガッツリと主観と僅かな偏見でもって大人四名の会話を観察していると、見えないはずの色々なものが透けて見えてくる。
多羅尾の隠居は効能を語る振りをして、己が如何に有用で有能な人間であるかをアピールしていた。宗桂師は説明に耳を傾けつつ、己の中にある知識と間違いがないか逐一照合しているようだ。言継卿は多種多様な生薬にただただ驚いておられる。
そして稙家伯父さんは一歩引いた立場から、三者三様を静かに見守っておられた。
……何を考えておられるのだろう?
近衛家の当主ってのは、悪鬼羅刹が鎬を削る殺伐とした武家社会とは違う、魑魅魍魎が跳梁跋扈する公家社会の頂点に君臨する存在なのだ。俺如きが心中を看破出来るなど土台無理である。
「菊幢丸よ」
はい、何でしょう?
「此度の次第は、当家が施主になろうと思う」
え!? そりゃまた突然どうして!?
吃驚した俺の視線を正面から受け止めた稙家伯父さんは、涼しげな笑みを浮かべられた。
「此方に任せるが万事遺漏なしではないかな?」
虚を突かれた申し出だったが……悪くない提案かもしれない。気づけば周りの三人が、俺が如何に答えるかを窺っている。
「太閤殿下の仰せ、誠に忝く存じ奉ります」
メモの束を横に滑らし空けたスペースに両手を就いて、俺は深々と頭を垂れた。近衛家の後見で宗桂師と山科卿に医療活動をしてもらう方が、俺の名前でするより良いのは当然だ。何といっても信用度が違う。無位無官の小童ではなく近衛の名には問答無用の価値がある。
「不服ではないのか?」
「不服などございませぬ」
胸を張りながらきっぱりと言い切れば、大人四人は妙に楽しそうな感じで俺を見つめた。その四対の目の内の一つを、見詰め返す。
「多羅尾も、その方が有難いであろうが?」
「……」
「未だ評価定まらぬ童の命に服すよりも、帝を輔弼する唯一無二の家に奉仕する方が良いであろう。それは庶流とは申せ近衛の家門に連なる者の務めでもあろうし。折角の、多羅尾の家名を天下に刻む良い機会、確りと励むが最善であると余も思うところだ」
俺が言い切ると、面を伏せた多羅尾の隠居は対面所の縁下で這い蹲った。おいおいタダでさえ埃塗れなのに、その上泥だらけになってどうするのだ。嗚咽らしき声が聞こえるけれど、今はスルーしてお医者さん二人を交互に見る。
「多羅尾が働くならば、洛中へ運ばれる生薬は十分な量が確保出来るでありましょう。上質な物は宗桂師が殿上の方々用に調合なされば宜しく、その他の余りは山科内蔵頭殿が町衆へと処方なされるが良いかと。
しかも有難き事に近衛家が施主となられるとの仰せ。内蔵頭殿におかれては銭の事など気にせず安心して、貧しき者達にも薬を与える事が出来ましょうほどに」
そこまで言ってから稙家伯父さんの様子を窺へば、相変わらずの笑みを浮かべたままであった。
「そこで太閤殿下に御願いの儀が一つございまする……」
今日の午前中に相国寺で禅師に依頼した内容を告げる。
「相違ないのか、石灰に左様な効能がある事に?」
「相違ございませぬ。汚れた水に侵された土地は速やかに清めねば、疫病の要因となりかねません。どうか御配慮を賜りたく存じまする」
「……それも夢窓国師殿から授けられた御智慧であるのか?」
「はい、ええ、まぁ、はい」
危ねぇ危ねぇ、すっかり設定を忘れていたよ。俺のアイディアの提供元は、夢窓国師だった。
「国師殿のお授け下さる智慧とは何と重宝なものよのう。御典医も左様は思わぬか?」
「全く以って仰せの通りにて」
「はて? 太閤殿下、夢窓国師殿の御智慧とは如何なるものでございまするか?」
「内蔵頭は存じない事であったな。ここにおる菊幢丸は世にも稀有な素養の持ち主であってな、何とも驚くべき事に夢で夢窓国師殿の御言葉を聞く事が出来るのだ」
「何と!」
おっとりとしていた表情を一変させ、眉尻を跳ね上げた山科卿が俺の方へ身をズズズイと寄せて来る。圧力半端ねぇー!
「世子様。太閤殿下の仰せられたる事、誠でございまするか!?」
ぽちゃっとした頬を震わせながらにじり寄る姿が、視界の中で段々と大きくなって来た。もしかしてこれが、歴史的偉人の誰もが有している威厳補正ってヤツか? そんな反則技を出されたら小市民の俺に、何が出来るというのだ?
「はい、ええ、まぁ、はい」
堂々と背中を丸め、落ち着き払った蚊の鳴くような声を出し、理路整然と曖昧に答える以外に出来る事があろうか。いやない。しかしここで突っ込まれてはボロが出そうだ。もう出ているかもしれないけれど、済んだ事は忘れよう!
「内蔵頭殿にお尋ね申す! ……笹の葉茶なる物をご存知でありましょうか?」
更なるボロを出さないように、別の思いつきで山科卿の気を逸らさねば!
「はて? 寡聞にして存じませぬが」
「百聞は一見に如かずと申します」
手を大きめに叩き、対面所の隣の間で控えている近習達に合図を送ると間もなく、与一郎達が手に手に茶碗を載せた高坏を掲げ持って現れる。
「皆様どうぞ御賞味下さいませ、熊笹の葉を用いました笹の葉茶でございます」
そして始まる試飲会。何度も口にしている俺や昨日に試し飲みをしていた稙家伯父さんが何の躊躇いもなく飲み干してから、他の三人も恐る恐る器に口をつけた。
「風味がちと物足りなく存じまするが……悪くはございませぬな」
「微かな甘味が何とも」
「美味しゅうござりまする」
三者三様の評価を聞き終えた俺は、飲み干した小さな茶碗を両手で弄びながら山科卿を窺い見た。
「この時期は生水を口にするは体に宜しくなきは、医家である内蔵頭殿もご存知でございましょう。かと申して、茶葉を湯水の如く喫すれば費えがかかり過ぎます。
然れど笹の葉はいつでもどこでも手に入りますし、洗って刻んで煮出すだけで喫する事が出来まする。風味を良くしたければ刻んだ後に煎れば宜しいだけにて。
茶と申しましたが薬湯と申すべきものにて……如何でございましょうか、内蔵頭殿?」
「如何とは……」
「政所に寄せられた宇治大路家からの知らせによると、この大水により宇治の茶園も大きく害を受けたとの由。茶壷の蔵も幾つか被害がございましたようです。
然れば今年だけではなく明年も洛中における茶葉は高騰致すは必定、下々はさぞや難儀致すでしょう」
注釈すると宇治大路家とは、眞木嶋家と並ぶ京都南部の小領主だ。室町時代初期から足利将軍家に仕える奉公衆でもある。宇治茶の栽培から精製して出荷まで生業とする実に京都らしい一族なのだよな、これが。
「なれば此方ではなく世子様の御名にて、広められるが宜しいのでは?」
「余の名など高が知れております。医家として町衆にも名高き内蔵頭殿に御願い出来ればと思った次第にて」
「御教え戴くは有難き事なれど……恥ずかしながら此方は手元不如意にて購うべき物が」
「無償にて結構」
「何ですと!?」
ビックリ眼になったのは山科卿だけではなく、宗桂師や多羅尾の隠居もである。俺が何を言い出すのかを先んじて知っている稙家伯父さんは、一人楽しそうに笑っていた。
「これは内蔵頭殿御一人に教授する心算は毛頭ございません。宗桂師におかれては竹田法印師にも御示唆戴ければ。熊笹を煮出した物は喫するのみならず、擦り傷などの毒消しにも使えます故に」
再び注釈すれば、竹田法印とは宗桂師と同じく代々御典医を勤める、好々爺然とした人物なのだ。地味に影が薄い存在だったりするが、当代の名医の一人だとされているので関係を疎かにせぬようにしないと。
「甲賀者が喫する茶は宇治産か、それとも伊賀産であるか?」
俺の問いかけが不意討ちだったのか、多羅尾の隠居の背筋が微かにブレる。
「茶葉の値が安うなるまでは笹の葉で凌ぐも悪い考えではないと、余は思うがな」
「菊幢丸よ、何故にそなたの得にならぬ事をするのか?」
それは昨日も訊かれた問いかけであった。俺の回答は既に伝え納得されていたのに、稙家伯父さんが敢えて再度の問いかけをするのは、ここにいる三人に俺の真意を伝える為であろう。ならばもう一度答えるまでだ。
「損得は決して目先にのみあるものではございませぬ」
宗桂師、山科卿、多羅尾の隠居を均等に視界に収めた俺は、茶碗を高坏に戻して両手を膝上に置く。
「余の求める利益とはもっと先にあるものにて。洛中に疫病が流行らぬように心配りするは、余の命を守る為にございます。病になどなりたくはございませぬから。
また、余の近しき者達にも病に臥せって欲しくはございませぬし、病などで命を失って欲しくもありません。
余のみならず、余の周りの者達の心身の安寧を求めるのが余の求める大いなる利にございます。皆様方には安んじて余の言を御利用下さいますように」
医療体制が万全な世の中なら、こんな事はしないよ。
だが災害などの緊急事態に直面した時は個人の利よりも公共の利を優先する方が大事ってのは、昔も今も同じである。非常時に個人の利を最優先にしたら個々の利害が多重衝突を起こし、窮状が一足飛びに大惨事へと肥大化する事例は昭和と平成で嫌になるほど見て来たしな。
俺は出来る限り楽して生き残りたい。その為ならば幾らでも積極的に情報公開するぞ、俺は。大した情報は持っちゃいねぇけどな! 笹の葉茶だって、現代猟師が自分の日常を描いた漫画で学んだ知識だし。
だから……そんな感激頻りの表情で俺を見ないでくれよ、山科卿! 両手を合わせて俺を拝むな、多羅尾の隠居! 稙家伯父さんと宗桂師は含み笑いを隠すくらいの配慮をしてくれませんか?
そして近衛家での会合から粛々と十日が過ぎた頃、“星合 の雫”なる薬湯が洛中でプチ・ブームを起こしていた。名付けたのは我らが稙家伯父さんである。
水害発生時が七夕の頃だったので、そう名付けられたのですと。まぁ確かにそのものズバリで捻りのない“笹の葉茶”では、上は天皇から下は庶民以下の被差別民に至るまで、揃って風流風情風雅と口喧しい京都民ピープルには受けいれられなかっただろう。
キャッチーでも名付けって大事なのだな、昔も今も未来も。
笹の葉茶を飲んでいるのは町衆だけではなく洛外、いや山城国以外から来た者達もである。大和、摂津、河内、和泉、紀伊の五ヵ国からも多くの人間が洛中へとやって来ていたのだ。
大和国からの者達は興福寺別当職の覚譽伯父殿が、紀伊からの者達は熊野三山検校職の道増伯父さんがそれぞれ手配してくれた人足達である。彼らは皆、林野業の専門家である杣人であった。洛中に山積する土砂や瓦礫を片付け、賀茂川の上流から流されて来た樹木や廃材と化した元建材の除去作業に従事している。
空き地となってしまった場所に運ばれたそれら一切は、洛中の大工達をリーダーとした町衆の手により、使える物と使えぬ物とに峻別されていく。この時代の被災物は、洗って乾かせば再使用が可能な物と不可の物しかないので進捗はまぁまぁ順調。
使用不可と判定された物は、焚き付けの燃料となるものと捨てるしかないない物とに更に別けられ、捨てるしかないものは賀茂川沿いの土手を強化する資材に転用されている。土手の修復や河川敷の清掃作業には善阿弥達も従事していた。
濁流と共に洛中へ押し寄せた砂利は、泥だらけの悪路と化した大路や小路を舗装するための資材になっている。舗装の際には大和と紀伊から持ち込まれた石灰が撒かれていた。
石灰を、と安易に伝えたが取り扱い注意の物質でもあるからね。寺院建築を主とする職人達は石灰を材料とする漆喰の専門家でもある。専門家が携わっているのだから安心して丸投げしておこう。どうか破傷風菌などの罹患者が出ませんように。
洛中を縦横に走る水路の浚渫担当は以前同様、庭掃と清目の地下者達。彼らが路上と水路の清掃を真面目に行っていたのが、今回の被害の少なさに繋がったのだろうと俺は思っている。
汚泥や瓦礫の除去も汚水の排水は実に大変な事。シャベルカーやブルドーザーやダンプがあればねぇ。人力と粗末な用具だけで皆、本当に良く頑張っているよな。
未来の大阪府に相当する地域から来た者達も、負けず劣らずの働き者であると町衆からの賞賛を浴びていた。讃えられた者達は皆が一様に、慣れているから、と面映そうに答えていると聞く。
摂河泉の三ヵ国は地名の通り、水郷地帯だ。俺の記憶にある淀川も大和川も江戸時代の中期以降に整備された一級河川である。つまり彼らにとっては川の氾濫などしょっちゅうなのだとか。
爺さんの蔵書で大阪の古地図を見た事があるが、酷いものだった。信長が本願寺攻めに苦労した理由が良く判るもの。河川に囲まれた大阪の都心部はどこもかしこも湿地帯だらけ。大軍を展開出来るような場所がないのだから大変だよ。
そんな環境で日々を送る大阪の者達が洛中に散らばり、各所で復興の指南役と主戦力となっていた。彼らの半分は高野山が派遣した者達に誘われて上京したらしい。残りの半分は堺の会合衆の計らいだった。
更に言えば。前者は大坂本願寺とその末寺の寺内町からあぶれた者達で、後者は堺近辺に住する法華門徒達であった。金の臭いに誘われた前者と、洛中にて再び法華宗の足場を作ろうと目論む後者。
洛中で身を低くしている法華門徒達も影に日向にと、献身的に援助をしてくれている。町衆も洛外の輩も近隣五ヵ国の者共も、それぞれ思惑は違えど京を元の平安な都に戻すために泥だらけになりながら尽力してくれているのだ、
有り難や有り難やと、ひたすらに感謝する俺である。有形無形の支援がなければ、俺一人では早々にパンクしていただろう。まぁ、復興に携わる人々からすれば当たり前の事をしているだけで、俺の感謝など迷惑なだけかもしれないけれど。
因みに。
彼らの寝泊りする場所は被災しなかった大覚寺の境内と北山一帯。提供者である大覚寺とは義俊伯父殿で、北山は惟高禅師だよ、ハレルヤ!
さて、賞賛される者達がいる一方で、名声と権威を下げた者達もいた。
その筆頭は、比叡山だ。
洛中の被害が大きくなったのは、延暦寺の宗徒や荒法師達の日々の行いが悪い所為だと吹聴されたからで。そんな噂が立ったのは、被害が軽微であった園城寺がいち早く洛中救済の声を上げ、一千貫文もの寄進を約束したからだったりして。
一般的に寺門と称される園城寺は、山門と称される延暦寺とは数百年に亘って犬猿の間柄。僧兵同士で合戦に及んだ事もあったらしい。坊主と坊主が喧嘩してどちらもケガなく良かったね、とはドンパン節の中だけで。実情は凄惨な刃傷沙汰だったとか。
“水に落ちた犬は棒で叩け”とは昔からの言い回しだが、園城寺は今回の事を延暦寺叩きの好機と思ったみたいで。己の名声と敵対者の悪評を同時に買えるなら、一千貫文くらいは安いものだと判断したのやも。
露骨なほどに延暦寺への敵意を露わにした園城寺のリーダーは、高野山の頭領を兼任する道増伯父さんだ。名利を獲得する機会を逃さないのは、流石に近衛家の血筋と言うべきか。
処で、朝廷内における近衛家の政治的ライバルは言わずと知れた、九条家。
その九条家は今回の事態に後手後手となっていた。現当主である前関白の稙通が的確な対応が出来なかったのは、近親に人材がいなかったからだ。
家系が同門である一条家当主の房通は去年から土佐国に下向中で、同じく同門の二条家当主の尹房も今年の春から備後国へ下向中。頼りになる筈の二つの大家がどちらも当てに出来ぬ状況には、切歯扼腕するしかなかろうなぁ。
しかも九条稙通の兄弟で存命者は、公家の花山院家輔と東大寺の法務別当職にある尋円くらいで。摂関家に次ぐ清華家の地位にあるとはいえ、花山院家には大した力はない。東大寺も日本屈指の大寺だが、今では大和国内では興福寺の顔色を窺わねばならぬ立場にまで存在感は絶賛低下中……。
近衛家の血筋で良かった! と沁々思う今日この頃。
現関白は近衛家の同門、鷹司家当主の忠冬さんだしね。最高の権威と豊富な人脈とまぁまぁの銭とそこそこの権勢に恵まれた、近衛家に乾杯♪
ああ、そうそう。
比叡山の次に面目を失ったのは、トンチキ管領と茨木の野郎だったのだよ、ざまぁ見ろ!
朝廷よりも将軍よりも銭も権勢もしこたま溜め込んでいるのに、義捐の心は空っけつ。トンチキ管領は西宮から一歩も動こうとせず、茨木の野郎は細川屋敷に閉じ篭っているのだそうな。
この緊急事態に一体全体何してやがんだ、馬鹿野郎共が! 少しは三好一族を見習えよ!
阿波の三好党は銭を提供してくれたぞ。政長の方も息子の政勝達が奉公衆と共に泥だらけになりながら、復興事業に協力してくれているぞ。畿内に現存する唯一の管領職と京都守護職もどきの二人が、この期に及んで何もしないとはどういう了見だ!?
だがしかし。
下手に蠢動されるのも困るし……大人しくしている間に俺も考えを巡らさないと。Aから始まる特殊部隊や、殺人許可証を所有する大物スパイがいればド派手な大作戦になるだろうけど、生憎ながら俺の手蔓は地味専メインだ。
元服名を義藤ではなく“チャーリー”にでもすれば、ナイスバディのお姉さんが三人も来てくれるだろうか? いや、キザったらしい眼鏡のオジサンになる未来しか見えないな。やはり地味でも堅実な近未来を着実に描くとしよう。
さてさて、未来が見え過ぎているというのも困ったものじゃ、あ~りませんか?
投稿するには未だ時期尚早かもしれませんが、どうか御寛恕を賜りたく存じます。
御盆の始まる頃に投稿を、と思っておりましたので。
因みに私の檀家さん宅への御盆参りは、1日から始まっておりますので、只今絶賛困憊中です。
皆様に於かれましては、どうか御自愛を。熱中症・脱水症状に尚一層の御留意を下さいませ。