『 ホワッツ・エンタテインメント? 』(天文十三年、夏)<改訂>
改訂致しました。読み易くなっていれば良いのですが(2021.07.13)。
誤字誤表記の御指摘に感謝を!(2021.07.17)
今は昔の春の盛り。
泥縄式で発案し場当たり的に施行された新規事業の仮称・京洛再生計画だったけれど、四ヶ月も経てば骨子が明確となり運営も頗る順調であった。
賀茂川河川敷のみならず洛中でも見受けられた行き倒れなどの死体は、今じゃ何処にもありゃしない。
庭掃や清目達が全て回収して身包みを剥いだ後は、長吏者達が鳥辺野へと運んで焼いたり埋めたりして適正に処理されている。
汚物が我が物顔で堂々と流れていた大路や小路沿いの水路も、定期的に溝浚いが行われている為に悪臭漂う汚水の澱みではなくなっていた。
日が暮れれば、釘貫(=閂完備の門扉)と土塀で区切られた町と町の間を、篝火を手にした警邏組が上京を夜通し巡回する。
警邏組は十二組あり、四組が出勤して八組が休みの一勤二休のスケジュールだ。尤も、藤堂達の本職は俺の警護役だから実質無休なのは、秘密だけどな!
一組の編成は組長が下っ端の奉公衆、もしくは俺の配下の供侍。組下の構成員は奉公衆ならば郎党、供侍ならば小者の男達。そして庭掃と清目から三人ずつの若衆とで編成している。
概ね十人くらいの人数で徒党を組ませているので、洛中で起こる程度の荒事なら何とか対応出来るだろう。不審者を発見したら取り敢えず問答無用で切り殺して、詮議はその後にすればいいのだから。
所謂、マシンガンで峰打ち……峰撃ちって奴か? って違うか。
彼らの振るう刃は正義の鉄槌なのだから相対すれば、水銀灯も常夜灯もない夜間にフラフラ出歩く奴が悪いと断定するしかない。
因みに、洛中に全く街灯がない訳ではない。大きな交差点には、篝屋という櫓が設置されていた。
四本の柱の上に簡素な小屋が載っているだけの櫓だが、一晩中篝火を焚いている人力手動型の夜間照明設備である。
三百年前くらいの鎌倉時代、第四代将軍が上洛の際に設けたのが始まりだそうだが、足利幕府はそれを正しく引き継ぎはしなかった。
理由は勿論“お金がない!”ってのが片腹痛過ぎて泣けてくるけど、ない袖は振れないから仕方ない。
幕府は袖が擦り切れてしまったが、世の中にはまだまだたっぷりとした袖を持つ者がいるじゃないか……例えば茨木伊賀守とか。
何故に茨木の名を上げたかと言えば、四月の上旬にまたぞろ私腹を肥やしやがったからだ。
洛中西部にある土地の税収を横取りしやがったのである。地子銭を押妨しやがるとは本当に不逞な野郎だ!
この時代に武力と権力を多少なりとも手にしている奴なら、誰でもやっている事だけどな! 然も当然のように! ゴロツキ共の天下だよ、室町時代ってさ!
京洛の中心から西へと延びる勘解由小路に面したその土地は、六日に一度開かれる六歳市の場としてそれなりに賑わう場所であった。
土地の所有者は西岡の地、向日山に鎮座する古社の向神社だ。
向神社で祭られているのは稲作を奨励した御歳神様だとか。地域の崇敬を集める古式ゆかしき神社である。
西岡の地と言えば、ここもまぁ御多分に漏れず色々とある土地だ。
応仁の大乱時には激戦地だった桂川と山崎を含む西山に挟まれた平地部は、丹波国と摂津国を水陸両面で繋ぐ商業路の枢要地にして田園地帯。京洛近郊で最大の人口密集地帯だった。
その為ここは小なりといえども国人領主が割拠しており、俗に西岡十六人衆と呼ばれる者達が土地と銭を廻って時に争い時に団結をし、緩やかな連合体を為している。
……そういえば、斎藤道三の出身地とも推定されていたっけ。
鶏冠井氏、物集女氏、中小路氏、神足氏、能勢氏といった苗字だけでも曰くありげな奴らは皆、室町以前からの西岡の在地勢力。
何かありそうなワイルド16達だが、向神社をハブとして連帯している。
その神社の大切な収入源を強奪したのだから、茨木の野郎の名声は目下ダダ下がりの真っ最中。下手すれば無用な一揆を招きかねない状況だ。
一応彼らは幕府被官でもあり、ポンコツ管領の武威が睨みを効かせているのでどうにか激発は抑えられているのだが。
実に宜しくない現況は茨木の野郎のみならず、俺も憂慮すべきもの。
もしも洛中で国人中心の一揆でも起これば、仮称・京洛再生計画など簡単に吹っ飛んでしまうのは想像に難くない。
されど虎の威を借る業突く張り野郎が、一度手にした利益を易々と手放すとは思えない。
それじゃあ、嫌でも出したくなるようにしてやろうじゃないか、ああん?
俺は配下となった者達に指示し、洛中へ一つの噂を流したのである。
茨木伊賀守様が篝屋を再建なされるそうな、流石は当世第一の出頭人、誠に天晴れな有徳の御仁である、と。
効果が現れたのは凡そ半月後。茨木の野郎を讃える噂話に不協和音が混ざり出して間もなくの頃であった。
“心知らぬ 人は何とも いはばいへ 名よりも銭を 惜しむがもののふ”
ある日、水落辻子と呼ばれている横道の道端に建つ地蔵堂に落首が貼られていたのである。地蔵堂の向かい側にあるのは細川京兆家屋敷。ポンコツ管領の邸宅にして、茨木の野郎の現住所でもあった。
伝聞によると茨木の野郎は御立腹どころではない、大激怒であったようだ。
自宅の目の前に自分を揶揄する落書きがなされたのだから、そりゃあ激おこプンプン丸だろう。いつもの嫌味な面を阿修羅の形相としたに違いない。
犯人探しに躍起となったようだが見つけられず、腹いせに地蔵堂を破却しやがった。更に、祀られていた地蔵を三条河原で打ち首にしようとも考えたらしいが、それは部下に止め立てされたとか。
してくれれば恥の上塗りだったのに、残念!
面目丸潰れな茨木の野郎は、青筋立てて顔を真っ赤にして“花の御所”へ参上し、三日の内に篝屋を都の辻々に建てて御覧にみせまする、と啖呵を切ったそうな。木下秀吉ならば一晩で建ててみせるだろうけどよ!
天下人になるような器量はないのだから、三日でも十分なのかもしれないねぇ。
と、まぁそんな訳で、今の上京の夜は以前よりも比較的安全となっている。しかし、草臥れた。慣れぬ落首など作るものじゃないよなぁ、本当に。
それはさておき今日は久々の、文化サロンの開催日だ!
春以来バタバタと諸事繁多の日々だったが、何せ先月は一回しか開催出来なかったし、やっと一段落したので今日はゆっくりと楽しむのだ。
因みに、俺が主催する文化サロンは慈照寺から鹿苑院へ開催場所が変更されていた。参加者の足労を考えてである。
文に親しまぬ体育会系の巣窟、武家のパラダイスと化した慈照寺では落ち着いて文芸趣味に没頭出来ないのだから仕方ないよね。
文化サロンの移転先に関しては最初、やや駄々っ子気質の伯父である義俊師がいつもの我儘で“当山(=大覚寺)にてやろう!”と言い出したのだが、遠過ぎるって理由で拒否させてもらった。
だって大覚寺の住所は洛中の西の郊外、嵯峨野だもの。
何故に師匠である俺が毎回毎回、わざわざ京洛を横断しないといけないのだ?
という内容をオブラートに包んで申したら、他の参加者も異議なしとされたので無事に落着。義俊師は暫くブー垂れていたが元来カラッとした性格のようなので、直ぐに機嫌は直されたが。
そんな訳で文化サロンは満月の翌日、十六夜の日に鹿苑院に参集する事になっている。
参加者は禅師を筆頭に、大林宗套師と笑嶺宗訢師の大徳寺師弟、大覚寺の義俊伯父さん、天竜寺の策彦周良師、池坊専存師と池坊専栄と池坊専好の六角堂師弟、禅師の直弟子である仁如集尭師と孫弟子の梅丸。
僧侶以外では武野一閑斎紹鴎師と吉田与兵衛。以上計十三名……だったのだが、先々月から更に参加者が増えたのだ。
義俊伯父さん以外の伯父さん達、覚譽師と道増師と久我晴通さんが顔を出されるようになったのだ。
久我の叔父さんは洛中の住人だから良いとして、覚譽伯父さんは奈良から、道増伯父さんは滋賀から来られるのである。
酔狂にも程があるよ、あんた達。そんなに暇な身分じゃないだろうに、全くもう。然れど文句を言う筋合いじゃないので、快く受け入れているけどね。
新規参加者はまだいる。
先ずは観世七世の宗節師。創始者の観阿弥と世阿弥親子以来、幕府との結びつきが強かった観世流は幕府の威信低下と共に衰退の一途を辿っていた。
また一昨年に邸宅が焼亡した際に能装束を全て焼失し、伝来の文書類の大半をも失うといった致命的なダメージをも受けてしまう。
然様な状況下にある観世流の建て直しを模索中の宗節師には、正月三が日に“花の御所”で披露した俺の歌と踊りが天啓のように思えたのだそうな。
それはそれは嬉しい話だが……宗節師が精神的にかなり追い込まれている証左では?
何だか心配になってきたよ、大丈夫ですか宗節師。正気を失っておいでなら、南蛮渡来の薬が堺で売られていると助五郎に聞きましたよ。“罌粟”って名前だそうですが。
溺れる者は藁をも掴む、と言うけれど。どうせ掴むなら大金を掴まないと。何かの切っ掛けをと期待されたのならば、俺はその期待に応えねば。長者へのスタートとなる藁しべにならないと、ね。
などと二つ返事でオッケーしたのを後悔するのに、時間はそんなにかからなかったのも今は良い思い出だよなぁ。
後悔先に立たず、って本当に名言だよ、何だかなー。
ああ、他には武家からも参加者がいたのだったっけ。よりにもよって細川の苗字を名乗る者が……。
さて今更ながらだが、潜在的ではなく顕在化した天下の敵たる細川氏について考察を深めてみよう。己を知っていても、敵を知らなきゃ百戦百敗だからね!
そもそも、細川氏とは足利氏の傍流である。
足利氏の家祖である義康の長庶子、矢田義清が遠祖だ。鎌倉時代初期、足利氏三代目の義氏が三河守護に任官すると、義清の孫の義季が三河国額田郡細川郷を本拠として細川次郎を名乗るようになる。
これが細川氏の誕生秘話だ。秘密でも何でもないけれど。
足利尊氏が登場し後醍醐天皇の元で鎌倉幕府打倒の狼煙を上げると、細川氏も挙って尊氏配下の武将となる。室町時代になると上杉氏と共に幕府内で重きを成し、中国管領や四国管領などを歴任する、管領中の管領となった細川氏。
勢力が拡大するってのは即ち、一家が本家を頂点とする一族へと変容するって事だ。足利氏に吉良氏など有象無象の余禄がいるように、細川氏にも支族がワラワラと。
先ずは本家。言わずもがなの京兆家だ。
名称の由来は代々、右京大夫の官職を得ていたので唐名である“京兆尹”からである。
現当主も言わずもがなのポンコツ管領、当世のキーマンとして常に害悪を振りまき倒している六郎晴元の野郎だ。こいつさえいなければ、と何度思った事か。
本家がアレなら分家もアレってのが、細川氏の細川氏たる所以だったり。
その筆頭が通称、典厩家。
歴代当主が右馬頭か右馬助に任じられたので、唐名である“典厩”で称せられていた。歴代当主の名に“賢”がつく奴が多いが、決して賢い訳じゃない。
実際、六郎の野郎のライバルを自負している現当主は“賢”の字がついていない氏綱で、賢くもない証に戦を仕掛けては連戦連敗中。だが中々しぶとく、負けてもめげず、敗れても挫けないのが、如何にも細川氏の一員って感じだけどな。
さっさと死んでくりゃ、ちょっとだけ天下静謐になるのになぁ?
分家は典厩家だけじゃない。忘れちゃいけない重要な家がまだある。
和泉国半国の守護である和泉上守護家がそれだ。
刑部少輔や刑部大輔に任じられる当主がいた事から刑部家とも呼ばれているのだが、隠居した先代当主の元常はトンチキ親父の側近の一人であり、三淵伊賀守晴員の実兄であるのだ。
三淵伊賀守が細川を名乗っていない理由は母方の親族、三淵加賀守晴恒の養子となったからである。
上があれば下もあるが、和泉下守護家はとっくの昔に没落しちゃっていた。没落したのは他にもあり、備中守護家と土佐守護を務めていた遠州家がそうだ。
没落しちゃいないが存亡の危機に瀕しつつあるのが、下野守を輩出した野州家と、初代が陸奥守だった奥州家。
野州家の方は間もなく命脈が尽きそうだが、奥州家は当代の晴経が延命策を図っているのでまだ暫くは何とかなりそうな塩梅で。
阿波国と讃岐国を所管する阿波讃岐家は、三好長慶が率いる阿波三好党の庇護下にあるので、今は大丈夫っぽい。
尤も現将軍家からすれば、仇敵である堺公方の成れの果てである平島公方を当主の持隆が保護し続けており、中央政界へ含む事あり捲りなので要注意対象だけどね。
以上が、特定外来種よりも不穏で危険な本家から、レッドデータブックから既に抹消されたような分家まで、何でもござれの細川氏のざっくりとした解説となるのだが、まだ説明していない細川氏分家がひとつある。
細川和泉上守護家出身の三淵伊賀守の次男、与一郎が養子となり継承権を授与された分家がそれだ。
その名は、淡路守家。
一旦没落したにも関わらず奇跡的な復活を遂げた、リメイク・ファミリーである。何故復活なのに再製なのかといえば、理由は応仁の大乱の頃にまで遡る。
八代義政のお気に入りに大原右兵衛尉持綱なる人物がいた。随分と寵愛されたようで、絶えかけていた淡路守家を与えられたのだ。
因みに大原氏は、六角氏の親族であるので系譜としては宇多源氏。つまり清和源氏流に、将軍様の横車で異物混入しちゃったのである。
しかも継承者とその子孫は治部少輔や刑部少輔の官職を与えられ、最近の肩書に至っては伊豆守。史実では与一郎は兵部大輔となるし、息子の忠興に至っては越中守だ。
淡路守家と称する“淡路守”要素は完全喪失、もしかしたらリメイクじゃなくて魔改造だったのかもしれない。
さてそんな、すったもんだで出来ている細川氏から誰が来たかと思いきや、奥州家の中務少輔晴経であった。さてはポンコツ管領の差し金か!?
そう思ったのは最初だけで、膝を交えて語らう内にどうやらそうではないらしい事が判った。
宗節師と同じように、俺の歌に感銘を受けたからだそうな。
実に青年らしい反応だな。いつの時代にも新規な珍奇に感化されるのは、夢見がちな若者の特権らしい。
まぁ、油断はしないけどね。迂闊な事を言えば夢から覚めて、いらぬ所へ御注進されかねないからな!
武家はもう一人いて、名は彦部雅楽助晴直。
彦部氏は高氏の庶流で足利氏勃興期から被官をしている重代の家臣だ。
しかも晴直の母親は近衛政家の娘、つまり尚通グランパの妹さんであり、俺にとっては大叔父さんってポジションになる。
年の頃はサー・マザーの兄である近衛稙家伯父さんよりも年下だけどね。
恐らくはその伯父さんからの依頼を受けての推参だろう。
文化サロンに身内は四人もいるけれど、三人が僧侶で一人が公家。いざ何かあれば心許ない事この上ない。そう考えたのではなかろうか?
一緒に参上した息子の名は又四郎。
……ううむ通称は似たものが多くて混乱するなぁ、又四郎を又四郎と呼んだら河原者の又四郎と混同してしまいそうだ、
よしそれじゃあ、これから河原者の又四郎を彼の祖父の名を踏襲させて善阿弥と呼ぼう、これで又四郎は又四郎一人だけとなったぜ一件落着!
その唯一無二の又四郎の顔を見た時、確かに血縁者だ、と俺は即座に実感した。目鼻立ちが、トンチキ親父に何となく似ているのだ。
って事は俺にも似ているという事で。
歳は又四郎の方が二つ上で、身長は人差し指一本分程高かった。……数え九つなのに背が低くて悪かったな、ドチクショー!
近衛家の御曹司はそれほど似ていなかったがなぁ。源氏の遺伝子よりも藤原氏の遺伝子の方が優性なのだろうか?
それはそれとして。
千客万来なのは実に有難い事だ、主に金銭面の方向で。出費ばかりで資産が目減りするのを、指を咥えて見ているしかないのかと悩んでいたのだから、本当に本当に助かった!
常に全員が揃う訳ではないし、誰が出席しているかは鹿苑院に行ってみないと判らないのが玉に瑕だが、立派な肩書きの大人達が童と共に歌って騒いで和気藹々とする様は、実に牧歌的な光景で頗る愉快なり。
覚譽伯父さんと宗節師が対面した時は……牧歌的どころか一触即発状態だったので愉快どころの話じゃなかったけど、な。
何でも有力後援者で興行主である興福寺の意向を無視する振る舞いを、宗節師はここ最近し続けていたそうなのだ。
大和猿楽の観世・金春・金剛・宝生の四座は、興福寺が主宰する神事への出勤が義務付けられているのに、宗節師は何だかんだと理由をつけてサボタージュし捲くっていたのである。
そりゃあ、興福寺の代表者である覚譽伯父さんが激怒するのは当然だ。弁解のしようもない所業だ。
しかし宗節師には宗節師なりの理由があったのだ。
前回の集まりの時、俺は仲立ちを試みた。どうにかして和解が出来ないかと、理由を開陳するよう満座の中で宗節師に問いかけたのである。
最初は口が重かった宗節師であったが、重ねて問う内に静かな口調で訥々と胸の内を語り出してくれた。
そもそも猿楽とは、飛鳥時代に伝来した伎楽と奈良時代に伝来した散楽が日本古来の神楽と融合して生まれた芸能で、発展の過程で物真似などの滑稽芸や寸劇も内包し、軽業や曲芸も含めた歌舞音曲芸能となったのである。
神々への奉納芸である田楽や、寺院での大法要で行う延年といった祭礼の芸能とも刺激をし合い室町時代に隆盛期を迎えた。
寺社と結びつき、公家や武家の後援を受けた芸能従事者達は幾つもの座を結成する。代表格が大和の四座と近江の六座だ。
座に属する芸能従事者達は白拍子や鉢叩などと同じく“七道往来者”、下層賎民の一部であり声聞師の下とされていたそうな。
身分階級が厳密でありながら厳格ではなかった室町時代。
天皇家や公家、清和源氏に嵯峨源氏、桓武平氏などなどの氏素性が確かな諸家は兎も角、大多数は氏素性が確かでない者達ばかり。
士農工商みたいな決まりなどないので敢えて言えば、上中下くらいのもの。
穢多だ河原者だ七道往来者だと称せられていても、差別の対象として虐げられてはいなかったりする。
しかし虐げられてはいなくとも、蔑視される身分ではあるようだ。
物理的ではなく心理的な差別という点では、室町時代の差別とは現代社会での差別に近いのかもしれない。
実態としては一般のちょい下くらいのポジションだった芸能者であるが、寺社の境内や公家武家の屋敷で興行する事で別格扱いを与えられる事で、名利を確保する。
権力階層の枠外にいたからこその別格扱いなのかもしれないが。
宗節師は、火事によって観世流が蓄積してきた文物を喪失した事で、別格扱いを受ける事に疑念を抱いてしまわれたのだそうな。
神仏に芸能を捧げる事が猿楽の大元であるが果たしてそのままで良いのか、とか何とか。
苦悩し始めて間もない頃に幸若舞を御覧になられ、苦悩は深まり懊悩するようになったと述懐する宗節師。
さてところで幸若舞とは、八代将軍義政が見出した桃井幸若丸を創始とする新進の芸能である。演目をざっと羅列すれば伝説を翻案した『百合若大臣』、源氏武者の活躍を謳った『満仲』や『馬揃』などなど。
後世の現代人に最も馴染み深いのは、平家の悲哀を物語った『敦盛』だろう。織田信長がド嵌りしていた、“人間五十年~”ってアレだ。
今のトコはまだ越前国発信の田舎演芸に過ぎないけれど、少しずつ人気が広まり出しているのだとか。演目が武に偏った内容なので、地方の武家にバカ受けなのだそうな。
幸若丸の祖父は、室町初期に名を馳せた猛将の桃井直常だそうな。武家の孫ならば演目が武ばったものばかりであるのも、然もありなん。そりゃあ武家には受けるのも当然だよ。内容も難しくないし、ね。
幸若舞を、猿楽の発展系と見るか異端児と見るかは人それぞれだろうけど、宗節師の目には猿楽のあるべき進化の姿に見えたようだ。
そして心に芽生え集約した疑問が、芸能とは因循の中にあるべきものだろうか? である。
心に取り憑き思いに絡みついた疑念を振り払う事が出来ぬ宗節師は歌い踊る事を躊躇するようになり、それが興福寺の出演依頼を断り続けている理由であるとの事。
正月の“花の御所”での公演は、将軍家からの命令であったが為に断り切れずの次第であったらしく、不出来過ぎた舞台に恥じ入る事頻りであったそうな。
訥々とした宗節師の告白に、満座の皆は、覚譽伯父さんすらも寂として声をなくした。
芸術家にしか判らぬ懊悩など凡人たる俺には理解出来よう筈もないが、それでも宗節師が抱かれている苦しさは、それなりに実感出来る。
暫く続いた沈黙は、覚譽伯父さんの一言で破られた。
いつになったら答えは出るのだ、その問いかけに問われた方は首を横に振りつつ、判りませぬと言った後に、然れど、と言い添えられる。
世子様の御助勢あらば、と宗節師が述べられた途端、皆の視線が俺に集中した。もしこれが目からビームだったりしたら、俺は立派な蜂の巣となっていただろう。
それはそれとして、……何ですと!?
深々と頭を下げる宗節師の後頭部を見ながら、フリーズモードになる俺。
文化サロンに参加表明された時の文言では、もう少し軽い言い方だったじゃないか宗節師!
だから俺は切っ掛けくらいなら提供出来るかもって、安請け合いしたのにさ! そんなヘビーな身の上話は初耳だよ!
メガトン級の暴露をされても、俺が出せる助け舟は精々がコンティキ号くらいだよ。沈没必至じゃねぇか!
だのに義俊伯父さんが、菊幢丸よ何とかせい、って逃げ道を塞ぎ出すし、他の伯父さん達も何ともブラックホール並みに腹黒い笑顔で俺を取り囲もうとする。
いやいやいやいや、それはちょっと無理難題でしょう!?
こちとら僕は毛も生えちゃいない九歳児なのでちゅよ、などと言を左右にした処で耳を貸すような大人達じゃねぇよな。
どうするべぇか、全くもー。
猿楽から能と狂言が生まれたことは理解しているが、能と狂言の違いが何となくでしか判っていないような俺に、一体何が出来ると言うのだ?
与兵衛も専好も梅丸も期待に満ちたようなキラキラした目でこっちを見るなよ。
ねぇ禅師と宗套禅師もフワフワと笑ってないで、いたいけな少年に無理難題を押しつける腹の中がブラックな大人達に意見してやって下さいよ。
余所向いて茶を立てている一閑斎師、何か良いアイディアはありませんか、一つ百文で買いますよ?
縋る宗節師を無下には出来ず。
ニヤニヤとしっ放しの伯父さん達に、出来ませんと言うのも業腹至極。俄に憂悶する羽目となった俺の脳内を様々な単語がグルグルと渦巻いた。
これぞ四面楚歌、当に八方塞。何てこったい、オーマイガー!
神様に助けを請おうにも、然して信心者でもない俺には頼れるのは結局、自分のみ。
搾り出せ、考え出せ、今までもそうやって窮地を脱してドツボに嵌って来たじゃないか!
ええっと、能、能、能、能、能、…………あ!
能楽といったら世阿弥、世阿弥といったら『風姿花伝』、『風姿花伝』といったら……マジカルバナ……じゃなくて漫画のタイトルに使われた“花の如く”といったフレーズが……。
ってな事を考えていたらどうやら思考が口からダダ洩れしていたらしく、不意に宗節師が和歌を一首口遊まれた。
“色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける”
すると細川晴経が小野小町ですなと学のある処を見せつける。
武家でも名家の出であれば知っていて当然なのかもしれないが、知っている事を即座に言える者は少ないのだから、やはり大したものなのだろう。
ドヤ顔さえしなきゃ、素晴らしかったのだけどね。
宗節師が、観世流開祖の秘伝書に記されている歌にて候、と言われてから俺を見上げられた。
世子様は何ゆえに御存知なので、と問われたら、慈照寺に蓄積された歴代将軍の書き散らしの文書で知ったのだと、適当に誤魔化すのが大人の嗜みだ。もう失言はしないぞ、多分きっと。
一閑斎師が勧めてくれた茶を一口で飲み干し喉を潤した俺は座の雰囲気に流される侭、破れかぶれの気分で思いついた端から弁舌を振るう事にした。詐欺師よりも立て板に水の如く。
そも小野小町の詠みしは男女の仲を詠うたものでありましたが、世阿弥御祖師がこの歌に仮託致したは人の心に芽生える機微や移ろいであったのでありましょう。
眼に見えしものなりせば解するも容易き事なれど、心で感得するものを了解するは難しき事にて。
歌う事、舞う事。見る者聞く者には見えている事聞いている事のみが宿るものではなく、歌う者舞う者も見せ聞かせる為に何かを心に宿さねばなりませぬ。
然らば何を宿すのかと問わば、それは森羅万象が持つ美しさであり人智を超えた幽玄でありましょう。
この世に生を受けし命全てに仏性がございまするが、仏性を持つと了解するのは唯一、人のみでございましょう。
同じように、この世のありとあらゆるものを美しいと感じるのもまた、人のみでございましょう。
美しさとは恐ろしさと儚さを内包しておりまする。美しいものをタダ美しいと感じる者もいれば、得難いものとして有難がる者もおり、敬して遠ざける者もおりましょう。
美しさを持つは地上にばかりあるものではございませぬ。天空にある日月星辰もまた美しきものにて。眩く輝く日輪に美しさを見出した者が、そこに大日如来様や天照大神を見出したのでしょう。
月影を有難く思った者が、そこに月光菩薩様や月詠命を思い描いたのでありましょう。
然るに天空の美しさは日輪と月影のみに非ず、夜に満天と輝く星々がございまする。無数に群れて小さく瞬く夜空の星。雲が湧けばあっという間もなく隠されてしまう、儚き星々。そは、余らの如き矮小な者共と良く似てござる。
宗節師は自ずから輝きを放つ日月が、眩し過ぎると思われるようになったのではございませぬか?
ならば星辰に心を砕き、そこに宿る美しさを良しとなされば宜しいのではございませぬか?
足下ばかりを見詰めず、頭を上げて、降り注ぐ満天の星々の美しさを有難しとなされたら如何でございましょうか……。
多分その時の俺は、酔っていたのだと思う。
長広舌の最中に一閑斎師が立ててくれた抹茶を二杯もガブ呑みしたのだもの。きっとカフェイン成分が俺をハイにさせたのだろうな。
何故そう思えるかと言えば。我にかえった時、俺は“見上げてごらん夜の星を”と熱唱していたからだ。
何で歌っているのだろうとは思ったけれど一曲丸々を歌い切れば、そんな疑問などどうでもよくなるのだから不思議なものだ。序でとばかりに『星に願いを』と『きらきら光る夜空の星よ』と『たなばたさま』を、ぶっ続けで歌い上げてやったぜ、どうだ参ったか!
そこから先の事は余り覚えていない。
理由は単純明快。一気呵成に歌った所為で軽い酸欠を起こして、ぶっ倒れてしまったからである。無理しちゃ駄目だね。ハイになるのは計画的にだよ、全く。
与一郎に介抱されて意識を取り戻すと、何故だか宗節師は滂沱と涙を流しながら忝く存じますると口走っており、禅師達は晴れる哉を唱和なされていた。
……前も見たような渾沌とした光景だなぁ?
そんな訳で。
どんな訳だか俺にはさっぱり判らないが、宗節師と覚譽伯父さんの仲は冷戦状態から和解一歩手前の休戦状態に落ち着いていたのである。
やれば出来るね俺って奴は。何をやらかしたのかは、考えたくもないけれど!
尚、休戦の約定は一年以内に覚譽伯父さんが納得出来る新規の舞踊を会得し、興福寺にて披露する事であった。
披露出来ねば縁を切ると覚譽伯父さんが苦笑いをすれば、必ずや会得致しますると嗚咽混じりで確約する宗節師。
……おっさんばかりの愁嘆場って、誰得案件だよ?
約定締結の次第、我らが確かに見届けたと禅師らが宣言されて、一先ずはめでたしめでたし。
その後、正月の舞台を再現させられた俺だけが、めでたくなかったけどな!
馬に跨り賀茂川を越えて……何だかいつもより水量が多く、濁りが酷いような気がするなぁ。色合いも何となく茶色っぽいし、何だか嫌な感じだ。
夏の盛りを迎えた今は暑いと言うだけ暑さが増すような日々のはずなのに、今日はいつになくヌルっとした生温い風が吹いているのも気になる。見上げた空は薄暗いし。
「野分でも来そうな按配にござりまするな」
馬の口取りをしている石成主税助が、烏帽子の隙間から滴る汗を仕切りと拭う。
「まさかまさか、祇園社の祭礼前に野分などと」
阿波三好党との連絡役として現れて以来、四日に一度は慈照寺に顔をす和田新五郎が大仰に目を回した。
一ヵ月後の事を考えると余り来て欲しくはないのだけど、確定済みの未確認情報で来るなとも言い辛いし。
うーむ、困ったも……の……あれ、何か忘れてないか、俺?
新五郎が“祇園社の祭礼前”と言ったように今は七月の初旬だ……が……何があった?
爺さんの残してくれた三好長慶に関する資料に、室町時代に関する資料に、天文年間の年表に何が書いてあった?
主税助が口にした“野分”って単語が頭の中でどんどんどんどん膨らみ、とぐろを巻いて脈打ち始める。胸に渦巻く嫌な感じが物質となり、食道を逆流して口から零れてしまいそうな気分。
焦燥感に尻を叩かれながら、俺は呪文のように呟く。思い出せ、思い出せ、思い出せ、と。
そして。
主税助と軽口を叩き合う新五郎を見てから背後を振り返り、もう一度空を見上げた俺は……漸く思い出した。
「止まれ!!」
俺が発した命令に、一行は洛中へ差しかかった所で急停止する。
「如何なされましたか、若子様?」
三淵の怪訝な声を無視しつつ、俺は何をすべきかと瞬時に最善の策を纏め上げた。
「美作! 伝右衛門! 神介! 九郎太郎! 九郎次郎! 久太郎! 外介!」
進士美作守、和田伝右衛門、三好神介、河田兄弟の近習達五名と護衛役の田中久太郎と脇坂外介の二名が俺の傍で膝を就く。
「その方らは東山へと急ぎ駆け戻り、河原者達全員を慈照寺の境内に悉く集めよ!
会所、常御所、書院を開放する故、集めた者共を余す事なく屋根下へと収容すべし!
吉兵衛に、河原者達の世話役は任せると伝えよ!
美作は境内護持筆頭を命ずる故、吉兵衛と共に遺漏なく務めるべし!」
突然の下命に狼狽し返事の揃わぬ進士達を無視して、俺は背後を振り返った。
「十郎! 新右衛門! 五郎右衛門!」
大館十郎、蜷川新右衛門、高五郎右衛門の三人が小走りで近寄る。
「その方らは政所へ馳せ、伊勢へ申し伝えよ!
洛中に変事出来の予兆あり……大水来たれりと!
弥四郎! 五郎次郎!
その方らは相国寺へ馳せ、惟高妙安禅師皆様方に同じ事を御伝えせよ!」
三淵弥四郎と赤井五郎次郎の二人が競うように大声で返事をした。
「和田新五郎! 三郎太郎!」
序で首を前へと戻し、自分の部下でない者と、つい先月に部下となったばかりの者を身近へ呼び寄せる。
「新五郎はその方の主、筑前守に。三郎太郎は旧主の弾正の元へ。休む事なく駆けに駆け、同じく余の言葉を一言一句違える事なく申し告げよ!
三淵は“花の御所”へ言上せよ!
残りの者は余と共に近衛屋敷へ参るべし!」
一通り言うべき事を言った俺が一息つくタイミングで、新参者の部下が訝しそうな声色を出した。
「恐れながら世子様」
「何だ、三郎太郎」
「大水来たれりとの事でござりまするが、誠でござりましょうや?」
「誠だ」
俺が自信を持って断言したのに、俺以外は全員が首を捻ったり胡乱な目つきをしたりしている。
「何事もなければそれで良し。余が戯け者の阿呆であるとの評判を得るだけだ。何の問題があろうか。だが余の言葉が真であればどうする?」
俺はかなり切羽詰った顔をしているのだろう。気づけば周りの皆が引き締まった表情になった。三淵でさえ目の色が真摯なものとなる。五郎次郎もいつになく真剣な感じだ。
「三郎太郎よ。余が虚けであれば安心して旧主の下に戻れような?」
「左様な事は露とも思うておりませぬ!
某の身命は既に世子様に捧げておりまする!」
「然らば疾く駆けよ。暗くなる前に瀬田の唐橋を渡らねば、命取りになる故な」
「畏まって候!」
六角弾正定頼からの心遣いとして、近江守護の被官から一族郎党が俺の隷下となった山岡氏。その当主の嫡子である三郎太郎が頭を垂れた。
最初は何の冗談かと思ったよ、一家で俺に仕えるだなんてさ。どうやって給料を支払おうかとね。
有難い事に定頼は山岡氏の領地を取り上げる事なく、在地勝手次第としてくれた御蔭で俺の財布はノーダメージだったが。
だもんで領地には父親の美作守景之とその一党がそのまま残り、慈照寺へは三郎太郎だけが侍っているのである。
山岡氏と言えば戦国時代後期に名を挙げ、最終的には大名にまで成り上がったスパイマスターの一族だ。将来的には徳川幕府に仕える甲賀衆の筆頭格となる凄腕の家系である。今は違うけどね。
現在進行形で六角氏配下の甲賀衆の代表者は三雲氏なのだもの。
他にも有力な一党に望月、伴、黒川、大原、滝、夏見、杉谷、岩根などがいる。所謂“甲賀五十三家”がそれだ。
因みに伝右衛門の和田、甚太郎の山中、助四郎の多羅尾もその構成メンバーだったりする。孫作の本家は、滝だしね。
見果てぬ将来の事はさておいて。現時点での山岡氏は六角氏配下の有力ではない一国人領主でしかない。
六角弾正からすれば痛くはなく痒い程度の損でしかないと言える。しかし俺にとって実に得難い贈り物であった。サンキュー、グッジョブ、定頼!
本能寺の変直後、安土城侵攻を狙った明智軍に対し瀬田の唐橋を落とすなどして徹底抗戦した、忠義に厚い一族なのだから。
仕えた家の為には身を粉にして働く者の存在ほど有難いものはない。期待しているぞ、三郎太郎!
「他の者共も余に忠義を示すは今がその時ぞ。
政所、相国寺に参る者は町衆の者共にも告げて回るべし。
そして夕暮れまでに政所へ参集し夜を明かすべし。
慈照寺へ戻る事能わず、近衛屋敷へ参る事も許さず。
ただ只管に、己が持ち場を堅持すべし」
一斉に頷く供回り全員に、俺は改めて声高に命じた。
「刻は有限なり! 者共、いざ駆けよ!」
芸能や細川氏についての説明をスパッと外せばもっと身軽な話になるのでしょうが、書かずにはいられない性分なので、冗長から抜けられずで御免なさい。後悔はしていませんので御勘弁を(平身低頭)。




