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『 百万長者が剣呑する方法 』(天文十三年、春)<改訂>

  本話も、差別用語が頻出致しておりまするが、決して差別を助長するものではございませんので悪しからず御了承下さいませ。ありとあらゆる差別に対し、私は絶対反対の立場ですので(平身低頭)。

 改訂致しました。脱字等を訂正致しました。御指摘に感謝を!(2021.07.06)。

「久々に寄せてもらいましたけど、えろう賑やかにならはりましたなぁ」

「ほんまにほんまに」


 トンテンカンと木槌が鳴り響き、ギコギコと鋸が挽かれる度におが屑が宙を舞う。

 白木の木材が放つ独特の芳香に身も心も委ねたい気分に浸る俺の横にいるのは久々に顔を合わせた、天王寺屋の助五郎と後藤小一郎だ。


「何だかんだと色々あって、人が増えてしまってな」


 二人と会うのは去年の夏以来である。本当に色々あったよなぁ、去年中はズーっとてんやわんやだったし、年明けしてからのたかだか三ヶ月の間でも……実に色々と。



 色々の一つ目は、惟高妙安禅師が慈照寺から相国寺の塔頭寺院である鹿苑院へと遂にお引っ越しをなされた事だ。

 既に四年前、相国寺の第九十世就任と同時に鹿苑院の住持にもなられていた禅師は、臨済宗全僧侶の頂点である僧録職でもある。

 然様な身分でいつまでも洛外にある慈照寺で寝起きし続けるのは外聞上宜しくないと、相国寺の者達が盛んに陳情したのが理由であった。

 東山から退出なされたとは言え住職兼務は今後も続けられるし、月に一度は観音殿にて八代将軍義政の回向もなされるとの事に、俺は正直安堵している。

 何せ、俺にとっては人生の師匠であり文化サロンの弟子であり、精神的な支えである御方なのだもの。

 禅師のお引っ越しに伴い、雑事を担当していた僧侶や小僧達も全員が一緒に移動したので、ほぼ俺達武士と従者達で占有している

 いっその事、義政時代の東山殿に改めても良いくらいに腰に刀を差した者達で溢れかえっているのが、現在の慈照寺であった。

 色々の二つ目は、今から一ヶ月ほど前の二月下旬、漸く水路が完成した事に端を発する。

 掻い摘んで言えば、作事の予算が余ってしまったのだ。そりゃあ何より良かったね、とはならず大問題の発生である。

 どこからかそれを聞きつけた横やり野郎の茨木長隆が、細川家へ返納されたしと言いやがった。相変わらずのド厚顔無恥加減にはほとほと呆れる。

 銭を出したのは三好長慶で、細川六郎の野郎じゃねぇ!

 一昨日来やがれ、二度と来るな、この業突く張りめが!!

 茨木のゲスい無心を蹴飛ばしたら、今度は作事奉行を勤めた蜷川大和守親世は政所に収納あるべしと言上して来た。確かに、それは一理ある。

 幾ばくかの銭であっても欲しいのが貧乏所帯の幕府財政だ。そんな事は俺も重々承知している。年末年始の行事、特に春は宮中行事への出席も多く出費が激しかったのだから。

 トンチキ親父が近江にちょくちょく遁走する理由はもしかしたら、将軍が在京する事で嵩む支出を嫌っての事かもと邪推したくなるくらいだもの。

 それほどに銭が掛かるのが公務であり公的行事なのである。

 だが、敢えて言おう。維持管理費はどうするのだ、と。

 バブルの時、日本全国にアホほど出来た公共施設はバブルが弾けて以降にどうなったのか、と。メンテナンスも出来ず廃墟となり、維持費が自治体の財政を圧迫するからと安売り叩き売りされたではないか!

 朝廷の命を受けて作事した水路は、水を運ぶ先が神泉苑である。出水源は塵芥や偶に人や獣の死体がプカプカしている賀茂川だ。

 行く川の流れは絶えずであれど決して清くなく、大雨が降れば簡単に増水する暴れ川の顔も持っている。

 万が一にも氾濫の要因とならぬように、信玄堤よろしく土手には増水時用の排出口も設けたし、竹で作った柵などで出来るだけゴミが流入せぬ工夫も施した水路だ。

 言い換えれば、定期的点検と補修をしなければどうしようもない水路なのである。

 ってな事を告げたらば、蜷川大和守は手入れが必要な時はまたその時に資金を用立てれば、と返答した。

 いや、だからね。

 何事に関しても毎度毎度そうやって宵越しの銭は持たねぇ式に予算執行しているから、幕府は年がら年中素寒貧なのだよ。転ばぬ先の杖は必要だってそろそろ学習しようよ、本当に。

 蜷川大和守の請求をやんわりと押し戻した俺は、予算の残余を全て作事の現場監督役である又四郎に今後の管理費として渡……さなかった。だって渡したら全部使い込んでしまいそうだったからで。

 商人や僧侶などの金銭に聡い者ならば兎も角、それ以外の人間に貯蓄や資産運用などという概念はない。床下の甕貯金くらいはするかもしれないけれど。

 そんな訳で、俺はその余剰金で家を建てる事にした。何軒も何軒も。誰が住む為の家かと言ったら勿論、俺の住む為ではなく又四郎達の為。

 河川敷などという非衛生的で不安要素満載の危険地帯に住む河原者達の為である。

 幸いにして、土地は余裕ぶっこきで幾らでも余っていた。

 慈照寺のある東山一帯は碌に人家のない地域なのだ。平家打倒の陰謀が企てられた鹿ケ谷よりも南であれば、紅葉で有名な永観堂や石川五右衛門の“絶景かな”発言で御馴染みの南禅寺があったりするが。

 何故そうなのかを理解するのは本当に難儀な事で、美味しい味噌汁の作り方を説明するのに大豆畑の作り方から始めるように、何とも迂遠な物語となってしまうのだよ、ああこりゃこりゃ。

 幕末を説明したいが為に関ヶ原の戦いから物語をスタートさせた大河漫画とか、梁山泊の英傑達の活躍を語る為に数十年前の事象から文字を連ねるみたいな感じでね。

 俺自身の理解度を再確認する為にも言葉を尽くしてみよう。


 さてさて、土地余りの発端は、応仁の大乱にある。

 洛中洛外の全域が戦場と化した大乱が一応終結して今年で六十年以上経つが、その間が平穏だった訳ではない。十年ほど前などは応仁期よりも争いが激化し、洛中も洛外もジャンジャン燃やされていたのだ。

 南極条約、とまではいかなくとも戦いには一定のルールが必要となる。

 問答無用、やったもん勝ちのように思える武士の世の中であっても、やはりルールが存在していた。

 武家とは戦いのプロであるのだから、当然と言えば当然の事。

 切り結ぶ同士の認識が一致しているからこそ、武士は安心して死に臨む事が出来たのだ。

 処が、である。

 武士同士の争いであった応仁の大乱と異なり、享禄四年以降に始まった一揆や天文年間の動乱の主体は寺院が扇動する信者を中心とした民衆だ。

 つまりここ最近の戦いは、ド素人同士がぶつかり合ったルール無用の戦闘なのである。

 因みに。

 享禄から天文に改元された直後より猛威を振るっている一揆勢は、一向宗の門徒達が群れ集ったもので、信仰以外の理由、主に借金帳消しを目論んだ土一揆とは一線を画す武装暴徒だった。

 万人単位で襲来する一向一揆。多くても数百人程度の土一揆とは、桁違いなのだもの。

 性質も規模も何もかもが規格外の武装暴徒である一向一揆の誕生は、一向宗の本願寺による本願寺の為だけの理由によるものではない。必要不可欠な外部要因がちゃんと存在していたのだ。

 その名は、細川六郎晴元。我らがポンコツ管領様だよ。

 大乱後に始まった細川氏宗家たる京兆家の主導権争い。説明するのもややこしいので割愛するが、義輝が生まれる五年前の時点でポンコツ管領のライバルは細川右京大夫高国であった。

 桂川原の戦いを皮切りに摂津国を主な舞台とした一連の合戦は、尼崎の大物(だいもつ)を戦場とした合戦でけりがつく。

 無事に高国を自害させたポンコツ管領の下で畿内は治まったかのように思えたのだけど、間を置かずに細川氏の政治的ライバルである管領の畠山氏で内紛が起こったのだ。畠山右衛門督義堯(よしたか)の配下であった木沢左京亮長政が独立を企てたのである。

 一昨年前、天文十一年に太平寺の戦いで滅んだ、あの木沢左京亮だ。

 武威をブイブイ振り翳す暴れん坊が、没落傾向にある主家から威勢右肩上がりの主家の政敵に移籍しようとしたのだから、そりゃあ親分の畠山右衛門督は大激怒。早速、討伐を開始したのだった。

 木沢左京亮が加入すれば己の権限が奪われかねぬと危機感を抱いた細川京兆家の重鎮、三好筑前守元長もおっとり刀でそれに加担する。

 劣勢となった木沢は堪らずに救援要請を発するが、畠山&三好も同じく援軍要請を発した。双方から要請を受けたのはポンコツ管領。

 最初はどちらにも加担せず消極的中立の立場を取る。理由は判らないが多分、どっちについても損だと思ったからだろう。ち、無駄に目敏い奴め。

 武家同士の損得勘定で始まったこの戦い、しかし本願寺という存在が積極的介入をしてから一気に奇怪な変容を遂げる。

 畠山氏を捨て細川氏へ鞍替えしようとした時点で、木沢は本願寺に仲介を求めていたのであるが、本願寺は当初それほど意欲的に動こうとはしていなかった。労多くして実り少なしと考えたのかもしれない。

 しかし三好筑前守が畠山左衛門督に加担した事で、潮目が変わる。

 本願寺が本気になったからだ。その理由はと言えば、本願寺にとり三好は怨敵で畠山は障害であったからだ。

 熱心な日蓮宗徒である三好筑前守は本願寺の為す事に何かと掣肘を加えようとしており、畠山左衛門督は河内守護として河内国内に勢力を伸ばしていた本願寺の行く手を遮る障壁となっていたのである。

 ふとそれに気づいてしまったポンコツ管領の心に、邪な思惑がニョッキリと芽生えちまったようだ。

 手駒であったが扱い辛く邪魔になった配下の三好と、政敵である畠山氏を纏めて葬り去る絶好の機会じゃないか、と。

 そしてポンコツ管領は本願寺を唆す。唆された本願寺も、敵を一挙に倒すチャンスだといきり立った。そして十万とも二十万とも言われる一向一揆が畿内に出現する。

 通常であれば、それだけの軍勢が勢揃いするには事前の準備が必要だ。

 陣触れをし、足軽達の集合を待ち、装備や糧食を整えてからでないと軍勢は進発出来ない。だが一揆勢は瞬間的に誕生する。その辺にいる民衆がいきなり民兵になるのだから当然だろう。

 大挙襲来して来た一揆勢に対応策を練る暇もなく、畠山左衛門督は飯盛城の戦いで、三好筑前守は堺の顕本寺で、それぞれ自刃する。

 勢力拡大の障害物を無事に排除し終えた本願寺だったが、事態はそれで収まりはしなかった。何せ、一向一揆とはルール無用の武装暴徒なのだから。

 大戦果に気が大きくなったのか、一向一揆は調子に乗って法華宗以外の宗派へ矛先を向ける。

 大和国へと雪崩れ込んだ一向一揆は奈良一円の棟梁である興福寺の塔頭を悉く焼き払い、腹が減ったからと猿沢池の鯉と春日大社の神鹿を悉く食い尽くしたのだとか。

 当に、血に酔った血迷い集団による前代未聞の凶行。興福寺宗徒の国人から戦国大名へと変貌を遂げつつある筒井氏らの反撃により敢え無く追い払われてしまったが、その暴威は皆が恐れる処となったのだ。

 一向一揆の恐ろしい点は、一度武器を手にして暴れ出したら指導者である本願寺の言う事さえ聞かない事だ。一向一揆とは統制の取れた猟犬の群れではなく、無秩序に暴れ捲る狂犬集団なのである。

 ゾンビ軍団と言い換えても良いのかも?

 幕府だけではなく朝廷の権威にも傷をつけた一向一揆の凶行に、面目丸潰れの本願寺は奈良への永代禁制処分を受け入れたが、その程度の罰則で済ませようとは思わぬ者がいた。

 またもや登場、畿内随一の実力者となったポンコツ管領様のお通りだい!

 六郎の野郎は、庇護者であった三好筑前守を失い危機感を覚えていた法華宗徒を焚きつけたのだ。本願寺ヤバイよ、って。

 縁戚である六角定頼の軍勢も呼応させたポンコツ管領は、洛中の本願寺系寺院を次々と滅却し、大津の顕証寺を攻め落とさせた後、一向宗の総本山たる山科本願寺を焼き滅ぼしたのだ。

 一向宗の名目上の最高指導者である証如は大坂御坊へ、実質的最高指導者の蓮淳は伊勢長島の願証寺へ、それぞれ逃亡。

 こうして洛中洛外における一向一揆の脅威は、排除されたのだった。取り敢えずは、という但し書き付きではあるけれど。

 大坂御坊を大坂本願寺と名称を変えて教団の新たな本拠地とした証如は、部下の軍事指揮官である下間達に命じて抗戦を続け、六郎の野郎に敵対する勢力と結ぶ事で逆に圧力を加えたりもした。

 二年以上に亘る争いは一進一退、渾沌とした状況は更に続くかと思われた時に差した一筋の光明、それが三好筑前守の遺児、千熊丸なる少年。

 誰あろう、後の三好長慶である。

 長慶を仲介者として、一向一揆を台風の目とした争いは終戦を迎えたのだけど、平穏は束の間でしかなかった。締結された和睦を下間達が不服としたからだ。

 もっと暴れさせろとばかりの下間達の突き上げに、証如はあっさりと和睦を破棄してしまう。再開された戦いは戦争のプロが集結した細川氏の大軍の前に、一向一揆の軍勢は大敗を喫する。

 本願寺存亡の危機に至り、証如と蓮淳の二人は白旗を上げて降参。敗戦の全責任を下間達に押しつけ改めて和睦を結ぶ事に。妥結された和睦にも不服を言い立てた下間達は粛清の対象となって万事、めでたしめでたし。

 ……とはならぬのが、宗教絡みの争い事の度し難いところ。

 一向一揆の退散した洛中は、戦勝で浮かれる法華の宗徒が我が世の春を謳歌し過ぎ、比叡山と対立してしまったのだよ。

 比叡山延暦寺の天台宗は、正式名称を天台法華宗と言う。一方で法華宗徒の者達は現代の日蓮宗の信者であった。同じ法華の教えでも、天台宗と日蓮宗は全くの別物なのだ。

 南無阿弥陀仏さえ唱えれば大善人でも極悪人でも救われると説く一向宗と、妙法蓮華の教えこそ唯一の救いと捉える法華宗の違いは信仰対象の違いだけ。

 自分達の信じるモノ以外は認めないって原理主義的思考を見たら、然程の差異はなかったりする。

 語弊を承知で例えれば、一向宗は中世キリスト教的性質の教団で、天台宗と法華宗の対立はイスラム教スンナ派とシーア派の対立に似ていた。自分達の信じるモノだけが正しく、それ以外は絶対に共存出来ぬ、許し難い存在であるのだ。

 六角氏の支援を受けた比叡山の宗徒達は、日蓮系の法華宗徒達と洛中で激突し、これを駆逐する事に成功する。その結果が、本能寺の堺移転であった。

 一向宗と法華宗が暴れ捲り、略奪し捲り、放火し捲った結果、応仁の大乱の傷を癒し終えたばかりの洛中洛外は再び大半の建物が灰燼に帰し、廃墟と化す。

 幸いにしてこの数年は合戦の場が、畿内であれども京洛から離れた場所での小競り合いばかり。御蔭で洛中は安心して復興へ舵を切る事が出来たのだけど、喜んでばかりはいられない惨状も浮き彫りとなったのだ。

 それは主権者不在の土地があちらこちらに点在している状況で、主権者がいなければ復興も何もあったものではなかった。

 土地の主権者、あるいは所有者がいなくなった理由は争いばかりが原因ではない。飢饉未満の飢餓に見舞われた、って理由もある。食糧生産能力が乏しく、外部からの輸送事情も侭ならないこの時代、貧窮者の餓死は割りと日常茶飯事であったのだから。

 二毛作自体は鎌倉時代から行われていたようだが、農学的な裏づけがなく技術的にも拙い農法では収穫量など高が知れている。しかも働き手が足軽となり一揆の一員となって農具を武器に田畑からいなくなったのだから、何をか況やだ。

 僅かな秋の実りを食いつないで冬を越しても、春を越せずに死する者達の何と多い事か。

 夏の収穫物である麦を手にする前に困窮し、バタバタと死に逝くのである。生産物は欲しいと思って即入手出来るものではないのだから、当たり前と言えば当たり前。

 沁々と思う。

 戦って殺し合うよりも、田畑を耕して皆で幸せになろうよ、と。然れどこの時代は、貧すれば鈍すの時代。いや、貧すれば(どん)すが正解かも?

 又四郎達に依頼して水路を通した辺りは、元々別の者達が耕していた田畑であった。声聞師(しょうもじ)と呼ばれる者達が住んでいた土地であったのだ。声聞師とは神仏の前で読経、曲舞、卜占、猿楽等を生業とする芸能者の事である。

 散楽とも称される猿楽とは、観阿弥や世阿弥を創始とする能楽の母体だ。尤も能楽とは後世の名称であり、今は猿楽が一般名称なのだけど。

 あ、そう言えば。石山本願寺って名称も今は存在していない。石山って地名は豊臣秀吉が大坂城を建てて以降に言われ出したものらしく、現在の名称は大坂本願寺である。

 それはさておき、声聞師達。彼らがどうしてこの土地からいなくなったのか、と言えば一向一揆の所為であった。

 天文元年に沸き起こった一向一揆の一員となった声聞師達は武器を持ち、田を捨てて各地で大暴れし、各地で命を散らしちゃったのである。

 尤も、全員がいなくなってしまった訳ではない。戦える者だけがいなくなったのだ。

 戦える者とは、即ち田畑での働き手の事で、武器とは詰まり農具の事。後に残されたのは足弱の女性に幼子に年寄りばかり。

 働き手と農具を失った田畑は生産力を失い、残された者達の中で動けぬ者は飢え死にし動ける者は食を求めて何処へかと逃散してしまった。

 そんな所有者のいなくなった荒れ田をこれ幸いと接収したのが又四郎達河原者。ここでも地味に“戦国あるある”が行われていたのである。

 タダで手に入れた土地を耕し直して漸く生産緑地にして収穫を終えた途端に、一部を水路として供出しろと言われた又四郎達の心中は如何許りであったろうか?

 多分、“棚から牡丹餅”からの“瓢箪から駒”だろう。簡略に言えば“濡れ手で粟”かな?

 何も生み出さなくなっていた拾い物の田が、米を産み銭の元手となったのだから。はっきり言って、ウハウハなのだろう。

 それはまぁ、俺自身もそうだから他人の事をとやかくは言えないけどね。三好長慶から恵んで貰った銭と“花の御所”からちょろまかした酒で、賀茂川の河川敷に住まう河原者から篤い信頼を得る事が出来たのだから。

 “他人の褌で相撲を取る”ってのは、当にこの事だろうなぁ。他人の褌なんて普通ならそんな不潔な物、絶対に身に着けたくはないけれど。

 使える物なら鶏肋であろうともしゃぶらなきゃならないのが貧乏人の悲しい性。悲しむだけで何もしなけりゃ、そいつはタダの阿呆である。

 だから俺は遠慮なく、水路事業予算の余剰金を使わせて貰う事にしたのだった。


 質より量を重視した材木を購入した俺は、それを又四郎に渡して家を作れと命じると、河原者達は皆キョトンとした顔をしたっけな。

 御前達は既に河原者に非ず、俺が庇護する者達である。そう言ったら漸く事態が飲み込めたようで、大の大人達がオイオイと泣き出してしまった。


「これよりは若子様の為、我ら身命を賭して一層の事、誠心誠意励む所存にござりまする」


 そんな事を言われたのだけど、俺は俺で打算の仕儀で又四郎達に先行投資をした程度の考えだったので、穴があったら入りたくなるくらいに恥ずかしくなったのは内緒の話だったりする。

 先行投資した訳は幾つもあるが、慈照寺の近くに住む者達を一向一揆の仲間になどしたくなかったのが最大の理由。

 声聞師達のように、一向一揆には実に多くの下層階級の貧民達が加入していた。困窮しているから襲って奪い、不満が溜まり捲くっているから憂さ晴らしに大暴れするのである。

 同じ念仏を称える宗派には浄土宗があるけれど、浄土宗の信者はある程度身分が保証されている階層に多い。それに比べて浄土真宗……この時代の一向宗はそれよりも下の階層に信者が多いのだ。

 もしも又四郎達の河原者が一向一揆に加担しちゃったら?

 貪狼の如き(あぎと)が俺の方に噛みついて来ちゃったら?

 俺の思い過ごし、取り越し苦労であって欲しいが、文書を読み体験談を聞くにつれ、俺の中のビビり心が騒ぎ出したのだから仕方がない。

 一向一揆、マジ怖い。鵺の啼く夜よりも恐ろしい。

 銭で安全が賄えるのならば、糸目をつけずに出してやるぞ。幸いにして懐が痛まぬ泡銭が手元にあるじゃないか。じゃあ使おう、直ぐに使おう、ドンドンばら撒こう、徹底的に懐柔しちまえ!

 河原者達に家を建てさせる予定地は、東山から洛中に向かう道筋よりは幾分かは南側、慈照寺の境内地のギリギリ外側の辺りだ。

 念の為、禅師にも御伺いをしたら、それは功徳か利益(りやく)か、と訊ねられたので俺は胸を張って即答した。“利益(りえき)”の為です、と。

 それは重畳、と笑われた禅師は御随意にと了承してくれた。

 早速、又四郎達は地均しをして家を建て始めたのだが与えた材木は程なく尽きてしまう。どうやら二十軒分しかなかったようだ。こいつは少し計算違い。再建ラッシュの真っ只中の洛中、出来るだけ安い材木をと思ったのだけど予想以上に値上がりしていたみたいだ。

 やれ困ったぞ、と思い悩む俺に又四郎は顔の皺を深くしてニッカリと笑う。


「今までの住まいを移しますので」


 半月とかからずに河原者達の移住計画は無事に終了、凡そ百五十世帯が不衛生で危険な河川敷から東山の裾野に移り住んだ。

 防備の為に高さ1メートルほどの高さの土塀を巡らし、入り口には木戸まで設けたそこは立派な村と言える。変則的な寺内町かもしれないな。

 又四郎に頼まれ“南田村”と名付けた村は、慈照寺の荘園であるとして政所に申請。

 申請書を受け取った政所執事の伊勢は最初、苦虫を噛み潰し損ねたような実に複雑な顔をしたが、年貢は慈照寺と足利家で折半するからと言い添えた途端に平常運転で決済してくれた。

 金食い虫の将軍家は、政所にとって一番の頭痛の種。少しでも収入先を持ってくれるのならば諸手を上げて歓迎、って事なのだろうな。

 そんなこんなで村のオーナーもどきとなった俺だけど。運営に関しては当然の如く又四郎に丸投げだ。細々とした事務仕事は村井吉兵衛と石成主税助に押しつけてやった。仕事って、するより任せる方が大変だよね、本当にね♪

 などと嘯けたのは数日間の事。

 ある日いつものように東求堂でダラダラしていた俺の元へ吉兵衛が、いつになく神妙な様子で現れたのだ。


「御伺いを立てたき仕儀が出来致しましてござりまする」


 え、何じゃらほい? と首を傾げつつ吉兵衛の後について会所へ足を運べば、庭先に肩膝ついた主税助達と平伏した又四郎がいた。

 御心を騒がせ奉りとか何とかと決まり文句の前口上を言い出した主税助の横で平伏する数人の見かけぬ者達を注視しながら、俺は庭へと降りる階段に腰かける。


「何者であるか?」

「洛中洛外の地下者にございまする」


 俺の直ぐ近くで控えていた近習の多羅尾助四郎に山中甚太郎も、男達の背後に立つ警護役の藤堂虎高、中村孫作、田中久太郎、脇坂外介ら四人も油断なく腰の刀に手を添えているのを目にした俺は、疑問を解消するべく安心して背後へ首を傾けた。


「地下者?」

「然様にございまする」


 いつもの通り背後に侍る細川与一郎の言葉に、俺は傾げた首を縦にして顎を摩りつつ庭先へと視線を戻す。与一郎達が醸し出す雰囲気からして嫌な感じはしないけど。はてさて、もしかしたら……。


「この者らは何用にて参ったのか?」


 俺の疑問に答えたのは吉兵衛であった。その内容は、何となく脳裏に浮かべた解答と一致した。又四郎を仲介しての“窮状からお救い戴けませぬでしょうか”って直訴だ。


「直答を許す故、面を上げよ。……余は顔を見せぬ者の話など聞きとうないのでな」


 この時代の風習や仕草には結構アジャスト出来てきたが、未だに慣れないのは誰も彼もが畏まった姿勢で話そうとする事である。

 俯いたままだとどんな表情をしているのやら、それこそ見えないからと舌を出しているのかもしれないしなぁ。


「名は何という?」

「………………」

「この世に名もなき人などおらぬ。名乗る名の無きは人に非ず。人で非ざるものの話を聞くほど、余は暇ではないぞ」


 へえこらと土下座するのを見て喜ぶ嗜虐趣味はないからさっさと頭を上げてくれないかな、と待つ事暫し、恐る恐る顔を上げたのは男達の中で年嵩らしき三名である。


「清水坂に住しまする長吏の藤林坊にござりまする」

「二条に住しまする庭掃(にわはき)狭大夫(さだゆう)にござりまする」

「元は一条河原に住しておりました清目(きよめ)の鹿次郎にござりまする」


 みすぼらしい格好はしているものの、人品卑しからぬ整った顔つきをした老人達だった。居住まいを正せば目線が丁度、俺と同じ高さになる。やっとこれで落ち着いて話が出来そうだ。

 清水坂と言えば、日本中の誰もが知っているあの清水寺がある場所だけどその一帯は別名が、鳥辺野(とりべの)。洛北の蓮台野(れんだいの)、洛西の化野(あだしの)と並ぶ平安期からの葬送の場。

 所謂、不浄の域である。

 そこに住む者という事は当然、長吏とは穢多と呼ばれる者なのだろう。庭掃と清目も、名前から類推すれば清掃に携わる者達だろうな。清掃業に従事しているのであれば、これもまた穢多の者達だ。

 何せ道端に転がっているゴミは小さいのは塵芥だが、大きいのは概ね人や獣の死体なのだから。


「窮状を救って欲しいと申すが、余にどうして欲しいのだ?」

「庇護を御願い致したく」

「庇護、であると? ……長吏者は清水寺に奉仕しておるのではないのか?

 狭大夫も鹿次郎も、それぞれ奉仕する者がおるであろうに」


 この時代の奉仕とは、ボランティアではない。

 寺社なり有力者なりと雇用契約を結んでいる事を意味する。例えば北野社や比叡山に奉仕している犬神人は、永続的な終身雇用契約を結んでいる為、何か事あるごとにかり出されているのだ。


「奉仕のみでは餓えてしまいますので……」


 ああ、そうか。

 現代人が知っている清水寺の壮麗な堂宇は、今は影も形もない。応仁の大乱で大半が焼けてしまったからで。ぼちぼちと再建されてはいるものの往時の姿を取り戻すほどではない状態。

 奉仕という仕事は減っちゃあいないけど、給金自体は下がっているのか。清水寺も幕府並みに懐具合が大変宜しくないのは、想像に難くない。


「庭掃と清目は誰の支配なのだ?」

「庭掃は公儀の庭奉行が、清目は侍所の支配でございました」


 ……吉兵衛の言い方が過去形であるのが悲しい色だねぇ、全く。

 どちらも機能不全となって久しいじゃねぇか、って事はだ、死体を出した公家などから葬送の代金を貰い、死体の衣服を売り払って糊口を凌いできたのか。

 動物の死体から皮を剥ぎ、なめせば武具の材料として引く手数多だろうし、女性の死体から取る頭髪も鬘の材料としてこれも売れ筋商品であろうが、どちらも加工品の原材料でしかないから高値とはなりにくいし、なぁ。

 洛中洛外で争いが続く間は何かと仕事があったのだろうが、ここ数年は平穏続き。蓄えのないその日暮しを続ける彼らはジワジワと真綿で締められていた状態。それが遂に窒息寸前に至ったのか。


「即答は出来ぬ……考えおく故に暫し待て」


 取り敢えず彼らを一旦帰らせた俺は、一晩考える事とした。

 本当は、任せておけと薄い胸を叩きたいのだが、それは安請け合いに過ぎるというもの。蓄えがないとは言わないが、無尽蔵にある訳じゃない。さてどうしたものか?

 下手の考え休むに似たりで、一晩休息した俺は日の出と共に使者を三箇所へ走らせる事とした。百万長者レベルの俺には出来ない事も、億万長者にならば解決してくれるのではないかと思いついたからだ。

 更に三日後。

 俺は寒の戻りの冷風が吹き抜ける中、相国寺へと足を運ぶ。


「御多忙中にもかかわりませず、誠に申し訳ございません」


 鹿苑院の堂内で板の間に手をつけば、禅師は相変わらずの飄々とした笑顔で迎えてくれた。


「また何か面白き企みにございまするか、若子殿?」

「……面白き事かどうかは判りませぬが」


 俺が背中を丸くすれば、本日の会合に参加してくれた他の二人がカラカラと笑う。


「またぞろ悪巧みであろう、のう、甥御殿よ」

(それがし)は何とも申せませぬな」


 奈良のラスボスと呼んでも差支えのない興福寺別当の覚譽伯父さんが笑顔を引っ込める代わりに腕組みをして俺を睨めば、洛中に滞在していた三好長縁(ながより)は顎を掻き掻き静かに目を細める。


「御用の向き、若子殿の書状にて大方は解しました。然れど事の次第を仔細にお話し戴きたく存ずる」


 口元だけは優しげな禅師が俺を射抜くように見つめると、覚譽伯父さんと長縁の二人も似たような感じとなった。


「洛中を今一度洗濯致したく存じまする」


 近江屋で暗殺された幕末志士の台詞をパクりながら、俺は話し出す。洛中にて以前よりもあぶれ者となってしまった穢多非人達に安全な住処を提供し、安心して仕事が出来る環境を整える為に力を貸して欲しい、と。


「ふうむ……洛中が綺麗になるは願ってもない事ではあるが、それが儂らに何の利を産むのだ?」


 利、それはもう沢山あるよ。

 先ずは衛生面。洛中が清潔になればそれだけで疫病が防げる。清掃活動は健康的生活を送る上で必要不可欠。糞尿垂れ流しの(どぶ)浚いもしなきゃならないし、賀茂川も出来れば綺麗にしたい。

 庭掃と清目に洛中での清掃活動を今まで以上に徹底させ、清水の長吏者にゴミは全て焼却させる。焼却灰は良い肥料となるだろう。然すれば田畑の生産力も多少は向上するに違いない。

 更に彼らには揃いの衣装を着せてやり、序でに樫の杖などの簡易武具を持たせ、洛中の巡回を昼夜の別なくさせるのだ。

 検非違使庁が絶えて久しく六波羅題も消滅し、侍所さえ看板だけとなった昨今、洛中の治安は絶賛低下中だ。

 武装警察たる武家達が職務怠慢、いや職務放棄をしているのなら、せめて民間警備隊でも組織しなきゃ、日中でもおちおち歩いちゃいられない。

 犯罪抑止力としては軒先につけたセンサーライト程度かもしれないが、ないよりはマシだろう?

 以上が、公共への利点。次が個々の利点だが。


「禅宗の諸寺院は町衆の味方であると表明する事に、何の損がありましょうや?

 町衆と近しくなれば勝手に門前に市が出来るでありましょう。

 厳めしき大門は潜り難しと思っていた町衆が集えば、それは銭の元となりましょう。

 再び大過が起これば、町衆の拠り所となる事で災いを避ける源を得る事に相違なしかと。民衆と隔絶した立場を維持し続ける事が悪いとは申しませぬが、当世では最善ではないと存じまする。

 現に六角堂は、町衆と近しいからこそ下京の中心であるのでしょう。

 町衆の支えなくば、六角堂はとうの昔に消えておったのでは?

 興福寺もまた同じく。支配に置く清水寺を往時の威勢を取り戻すのが容易となり、南都のみならず京洛にも名利を広げる元手と成り得ませぬか。

 京洛が平安の場となりもうさば、復興の勢いは益々盛んとなりましょう。

 然らば阿波が産出する材木を求める者も増えるに相違なし。

 溜め込んだ銭を……百ある内の二か三程度でも世に流すだけで良いのです。

 溜めた銭は何も産み出しませぬが、流した銭は世をグルリと巡り、更なる利を引き連れて再び手元へと戻って参るのです」


 思案顔の三人に、俺はもう一押しと言葉を続ける。


「洛中の清浄と安穏が保たれ、穢多共が困窮を脱し、町衆が潤わば、一向一揆の災厄の芽を未然に摘む事が出来るのではありませぬか?」


 一向一揆と口にした途端、三人の表情が大きく変化した。覚譽伯父さんは目を閉じて呻吟し、長縁は愉快そうに口元を綻ばせ、禅師は珍しく無表情になる。


「一向一揆が何故に起こるかと申さば、己を救い導くものが南無阿弥陀仏の六文字にしかないと思い込んでいるからでありましょう。

 無学な者にも手厚く、判り易い形で示す者が本願寺だけだと思うているからでございましょう。

 然れど、一向宗の門徒共にそれ以外の救いの手はあるのだと教え諭し、銭という童でも判る形で助け船を出してやれば如何でしょうか?

 先鞭となるや否やは未だ定かではございませぬが、賀茂川に住しておりました河原者達は既に慈照寺に信服し余の命を喜んで受け入れる者共となりましてございまする。

 利で信を得るは慮外、浅慮の仕儀やもしれませぬ。

 然れど人と申す者は信のみでは食うていけぬものにて。

 食うていけねば、人は容易く畜生道や餓鬼道に堕ちるものであるかと。

 我ら武家は修羅道の輩、天道に登る事など無理なのは承知、何れは地獄道に堕ちる身であるのもまた承知の事なれど、貯えし財貨を蔵から出して施しとすれば、些かでも御仏の御心に叶うやと。

 利を己一人で貪る事なく、明日をも知れぬ暮らしを為す者共を救う手立てと為せば、それは一人の利に非ず、多数の利と成り得ましょう。

 他者を救う利が、己の利益となると余は理解致しておりまするが、己一人で救える利など高が知れておりまする」


 俺は板の間に手を就いて禅師に正対し、深々と頭を下げた。


「何卒御助力を賜りたく存じまする」


 しんと静まり返った堂内。さてどの位の間、頭を下げていたのだろうか。


「よう回る舌よの」


 不意に静寂を破ったのは覚譽伯父さんであった。


「良かろう。可愛い甥御の為じゃ、菊幢丸の浅知恵に乗ってやろうではないか」


 ハッと頭を上げたら、覚譽伯父さんだけではなく長縁も微笑んでいる。


「世子様の仰せとあらば。(それがし)は断る事など出来ませぬ身分でありますからな。

 我が党の主に諮らねば諸手を上げての賛意を申す事は出来ませぬが、恐らくは言下に拒否される事はありますまい」


 すっくと背を伸ばした二人に挟まれて座す禅師の返答や如何に、と様子を窺えば。禅師はゆっくりと顎を引かれて肯かれる。


「……師匠の申される事に逆らう者は弟子に非ず。例え申されようが無体であるとても、天道に(もと)る事でもなくば、粛々と同意するが弟子の弟子たるありようにて候」


 真っ直ぐに俺を見定めながら禅師が手を就けば、左右の二人も頭を下げた。


「我ら、将軍家御世子様の言に従い、ここに同心致しまする」



 肯んぜぬ童とは誠々手に負えぬもの、と覚譽伯父さんの言葉を締めにしてその日の会合は終了した。

 足利将軍家嫡子としては“御小遣い頂戴!”って駄々を捏ねる方がよっぽど楽だったのかもしれないなぁ、と思っていたのも束の間。

 それから五日としない間に事態は進展をし始めたのである。

 動くと即断したら、即決で事を為すのが当世の人々。グズグズすればする程に利が減ると了解すれば、スタコラサッサと行動を開始するのだった。

 先ずは南都から多量の銭が運び込まれた清水寺が、以前より破格の給与で長吏と再雇用契約を結ぶ。

 時同じくして相国寺をはじめとする洛中洛外の禅宗寺院が、行き場を失くしていた穢多者達を積極的に抱え込み、所有していた遊休地を住居にせよと提供したのだ。

 突然の環境変化に穢多達が戸惑っていたのは最初だけで、銭と住まいを保障する対価として奉仕を求められれば大喜びで働き出す。彼らが能動的になる事は、京洛が底辺から活性化するという事。

 表面的な差異は、余程注意力に長けた者でないと判らないだろう。

 だが一年二年と時間をかければ見えない変化が、誰もが可視出来て体感出来る大いなる変化となるに違いない、と断言出来る。

 端緒である今の変化は、浮浪者が僅かに減ったくらいかな?

 そして先日、堺の商人達の手により大量の材木が洛中に持ち込まれたのだ。すると直ぐさま、それに纏わりついたのは業突く張りの茨木だ。何やかんやと因縁つけて三割ほどを略奪していきやがった。

 尤もそれは事前に織り込み済みの事ではあったのだけど、納得尽くかと言えばそうではない。

 何れ時が来たりなば三条河原に生首晒してやるからな、と怒りを心の奥へ仕舞い込んだよ、覚えてやがれドチクショーッ!

 未熟者の俺とは違い、理不尽に慣れっこの商人達は更なる無用の横槍を避けるべく幕府と朝廷に一割ずつを献納し、洛中における商い勝手次第の御墨付きをちゃっかりと手にしたのである。

 流石は転んでもタダでは起きぬ、海千山千の商人達だ。

 室町時代の二大権威の添え書きがペタリと貼られた残り五割の材木は、概ね相国寺へと無事に搬入された。尚、堺の商人達は材木を売りに来た訳ではなく、運送して来ただけである。

 自分の商う商品でないのだから、そりゃあ其処彼処へ大盤振る舞いする筈だ。

 堺の商人達が今回売り買いしたものは京洛への自由通行権と御上の認可状、それに畿内の隠れた実力者たる阿波三好党と洛中洛外の大寺院と次期将軍予定たる俺への信義だった。

 しかも一部を手間賃として、堀川の材木座へ売り飛ばしもしている。

 中々入手出来ぬ阿波産の良質な材木だ、さぞや高値で売れただろう。只でさえ再建ラッシュの洛中だもの、笑いが止まらぬだろうよ。

 材木の搬入は淀川経由のルートだけではなく、興福寺を本所とする木津の材木座も小椋池へ次々と運び入れていたりする。

 買主は興福寺で搬入先は清水寺、そして堺商人と同じく一部は余禄として洛中で売り捌かれていた。

 斯く言う俺もホンの少しだけ、材木を横流……もとい献上して貰っちゃったりしている。

 そうやって問題が一つ片付いたのに、次の問題が津波となって押し寄せて来やがった。儲けた儲けたとホクホクする間もありゃしない。少しは手加減してくれよ!

 苦肉の策を思いつきだけで実行した因果が廻ったと言われたら、それまでだけどね。

 俺を押し潰すかのように押し寄せて来た問題とは、人手不足である。

 仮称・京洛再生計画なる新規事業を立ち上げたは良いけれど、それを運営する人材が足りなさ過ぎたのだ。

 電話もメールも電車も車もないない尽くしのこの時代、連絡を取り合うには人が届ける手紙しかない。京都の隣県である奈良だとて、音信を通じるには一日がかりの大仕事となる。

 ってな訳で連絡係が足りない。

 遣り取りする手紙を含めた多くの事務作業が発生したが、それを正しく処理出来る人間が吉兵衛と主税助の事務方二人だけでは、完璧には回り切らない。

 洛中の巡回をする者は庭掃や清目だけに命じるつもりであったが、槍刀を振るえる者がいなければ兇徒や武装した狼藉者が出た時などはやはり心許ない。

 新規事業は本来ならば幕府の務めだと言い張りゴネ倒し、事務作業は伊勢に頼み込んで政所から人を出して貰った。巡回役には、日常的に暇を託っている奉公衆から臨時のバイトを募り、どうにか急場を凌ぐ事が出来たのだけれども。

 連絡係までは、首を縦に振ってはくれなかった。

 仕方なく俺は求人をする事に。

 信用出来る者を採用するには、信用出来る仲介者を通さねばどうにもならぬ。信用出来ると言えば、俺にとっては慈照寺で寝起きする者達と禅師と伊勢と近衛家の皆さんだけ。

 当たり構わず募集の声をかけたら、予想の範囲内と想定外の人間がわらわらと集って来たのだよ、お立会い!

 面接をして篩いにかけたが、それでも大して減らなかった。えい畜生、毒を喰らわば皿までだ、毒を食ったらおサラバだ。

 予定よりも多目に新規採用するにしたは良いけれど、今度は住まわせる場所がない。幾ら何でも会所と常御所に雑魚寝させる訳にはいかず、まさか後の国宝たる観音殿を解放するのもねぇ。

 そんな訳で、混乱に困惑を加算した場当たり的な現状が。これもある意味、俺の平常運転なのだろうか? 認めたくないものだな、馬鹿さ故の過ちなんてさ!



 慈照寺周辺の樹木を伐採して土地を開き、横流……献上品の材木を費やして新たな庫裏を数棟、目下鋭意建築中なのである。材木運搬について来た助五郎や、建築中の庫裏に必要な銅版などの金物を依頼した後藤家の小一郎が、賑やかになったと言うのは当然の事。

 もしも一年前の俺がここにいたら、何だこりゃって驚くに違いないさ。今の俺でさえ、どうしてこうなったのだと仰天している最中だもの。


「世子様、少し宜しいでしょうか」


 背後からの声に振り向けば、二十歳そこそこの若者が膝を就いていた。施工主任を任せてはいるが、俺の配下となった新規採用組ではない。

 材木を提供してくれた側が派遣してくれた連絡要員でもある男であった。


「このままでは材木が足りませぬ故、新たに用意致さねばと存じまする」

「……然様か」


 まだまだ銭がかかりそうだな。おいこら助五郎、またぞろ商機の臭いを嗅ぎつけたようにニヤニヤしてるんじゃねぇよ!


「御安心召されませ、世子様」


 華厳の滝みたいな溜息を吐いた俺の憂慮を敏感に……よっぽど鈍感でもなきゃ気づくよな、空かさず察知した若者は実に爽やかに笑う。


「我が主に申さば、二つ返事で用意してくれましょうぞ」

「然様か、ならば任せる」

「はは、畏まって候」


 一礼するや身を翻し立ち去って行く若者、三好長慶の部下である和田新五郎を見送りつつ俺は改めて溜息をついた。


「何や若様、えらい御疲れのようですな」


 儲け損なったとでも思ったのか、口を尖らせた助五郎が詰まらなさそうに言いやがる。


「そりゃそうや。若様は今、てんてこ舞いの最中やねんもん」


 ああ、その通りだよ、小一郎。

 次から次に問題が山積みでな、片付ければ片付けるほどに頭痛の種が増えて行くのをどうすりゃ良いのさ、全くもう!


「何だかんだと……色々あるのだ、本当に、な」

 今後も改訂作業に鋭意務めさせて頂きまする。

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[気になる点] 誤字羅「ぎゃおーす!」 >「また何か面白き企みを公案なされたようですな、若子殿は」 "考"案? >更に彼らには揃いの衣装着せてやり、序でに樫の杖などの簡易武具を持たせ、洛中の巡回を…
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