『 ワイルド・ワイルド・ゲスト 』(天文十二年、冬)
サブタイトルを変更し、改訂致しました(2021.06.01)
清和源氏とそれに連なる足利氏及び御一家の自作系図を添付しました。
もう幾つ寝ると、坊さんが二人通って、おしょうがつー。
隣の囲いに塀が出来たってね……って空き地はどこへどうしたのだろうと謎が謎呼ぶ、そんな年の瀬の午前中。
公儀における実務執行の総責任者である伊勢伊勢守の元を訪れていた俺は、水路工事についての打ち合わせをしていた。
年内の作業は本日で一旦終了させ、年明けは月半ばから再開する事に。
水路は掘れば出来上がりではなく永続性を持たせる為には補強をせねばならない。掘った場所の底辺には石を敷き詰め、側面には杭や板材を打ち込んで補強をせねば、あっという間に崩れてしまう。
川縁の軟弱な土質の土地だからキチンと手当てをせねば、手抜き工事となるのだもの。天皇陛下からの命令による工事なのだ、キッチリと仕上げねば。
故に進捗状況は、計画ギリギリ。年が明けたら、ピッチを上げなきゃな。
無理なスケジュールを組んで突貫をするよりも、人手を増やすのが吉だよなぁ。まぁ予算は潤沢にあるから問題ないだろうけど。
年が明けたら祝い酒やら餅やらを又四郎達へと届け、そのついでに作業員を増員するように指示しなきゃな。
打ち合わせが済んだら、今度は楽しい楽しい勉強の時間だ。
新年を迎えるに当たり知っておくべき事、身につけておくべき作法をあれこれと指南してもらうのである。
去年は近江国で過した年末年始。
さして広くもない朽木の里では、新年の行事もささやかなものであった。ささやか……とは言っても現代人の俺からすれば盛大だったけどな。
年越し蕎麦啜って、炬燵でミカンを食いながら年末特番を観て、そのまま転寝して、起きたら親と新年の挨拶をして、御節を突いて、近所の神社に初詣に行ってを繰り返す事、約四十年。そんなベッタベタしかした事ないよ俺。
それなのに、嗚呼それなのに。
武家の行事ごととは、一族郎党をはじめ家臣も含めれば数十人が一同に介しての一大イベントだ。
俺はその主役の一人となり、去年の暮れから今年の三が日までの約十日間、目を白黒させながら呆然としつつ操り人形のように過したのだった。だから朧げな記憶しかない。
伊勢の説明によれば、位階のない俺はトンチキ親父の添え物でしかないので特に何かをする必要はないそうな。なるほど、だから記憶が曖昧なのか。
だが、する事はなくても最初から最後まで“花の御所”で行われる行事には出座せねばならぬのだと。
する事がないのに出ずっぱりって、それは新手の拷問かと思ったがそうではなく、将来の為に全ての手順を覚える為なのだとか。
五位以上の官位があればトンチキ親父と共に宮中で行われる式典や祝賀の宴にも参加せねばならぬが、俺は無位無官なのでその必要はないというので少し安堵したのだけどねェ。
その代わりに、将軍名代としてトンチキ親父の留守居役を務めねばならないと言われた。
宮中行事に参加出来る身分にない者達が訪れた場合の応接を、“花の御所”でしなければならぬのだと。
つまり、トイレで中座する時以外は早朝から夜更けまでズーッと応接間に相当する場所、主殿にいなければならないとの事。
しかも“大儀である”“大儀であった”と二種類のセリフだけを述べよ、それ以外の余計な事は一切言うな、だってさ。
……拷問じゃなくて罰ゲームだったか。酷い拘束プレイもあったものだよ!
更に扇子の置き方、用意された膳の食べ方にも細かい作法があってと、指南されればされるほどに新年を迎える喜びが失せて行く。
もう萎え萎え。まだ年末だけど、さっさと正月が終らないかな?
神妙な顔でフムフムとヘッドバンギング気味に頷いていたら、伊勢の瞳がスッと細まった。
「世子様。今更申すまでもなき事ではござりまするが、武家に取りまして作法は何よりも大切なものでござりまする。
もしも我らに作法なかりせば野盗匪賊となりもうす。作法とは即ちこれ、矜持でござりまする」
矜持か、なるほど。
「……昨今、それを取り違えたる風潮が甚だしくなっておりまするようにて。
当世の武家は己の身の丈に合わぬ位階を殊更に求め、作法を蔑ろに致しおりまするのが目に余りまするが……」
位階、つまり肩書きかぁ。確かにそれは大きな問題だ。
この時代にこの立場で生きるに当たり、肩書き付きの人に取り囲まれて生活するのは本当に難儀なものだ。
日常の中で部長とか課長とかと呼び合うような感じで、伊賀とか式部などと位階で呼ばねばならぬからだ。
俺は立場上、諱を呼び捨てにしてもOKなのだが、無位無官でもあるのであまり偉そうな物言いをするのもどうかと思うので、出来るだけ呼び捨てにせぬよう気をつけている。
叙任前の近習達や、ポンコツ管領は別だけどな。アイツは六郎で十分だ!
ロクデナシ野郎、の略でもあるし。
最近は御互いに忙しくて中々会えていないが、天王寺屋の助五郎や後藤家の小一郎や中島家の四郎左衛門と駄弁るのが楽しいのは、気軽に呼び捨て出来るからだ。身分差の賜物ではあるが、気の置けぬ相手と過す時間は一服の清涼剤である。
……またダラダラとした時間を過したいよなぁ。
その反対に気軽に呼べず難儀するのは、奉行衆の治部達だ。
治部直前、治部貞兼、治部光栄と揃った治部一族。“治部”とだけ呼べば、苗字の治部だか官位の治部だか判らなくなる。治部一族は地味な文官で顔も似ているから、もう誰が誰だか。
その点、伊勢は素晴らしい。何せ、身近にいる伊勢守は伊勢だけだから、“伊勢”イコール伊勢伊勢守。
もしも伊勢が甲斐守だったら……“いせかいのかみ”。呼びかける度に腹筋が痛くなりそうな肩書じゃなくて良かったな、伊勢!
っていう冗談はさておいて。
肩書きとは何とかの守や何とか大夫だけではなく、幕府の職制にはそれよりも大事な肩書きがあったりする。この場合の肩書きとは、順序と言い換えても良いのかもしれない。
江戸城内における大廊下とか溜詰とか帝鑑間とか、って感じの。
江戸幕府は大名達に順序を設定し順序によって控え室を分けていたそうだが、その原形が室町幕府の定めた順序である。
尚、室町幕府の職制は鎌倉時代の職制をほぼ踏襲しているのだが、完全一致ではない。順序、つまり“家格”による秩序を付随させていたのだ。
御連枝・御一家・相伴衆・御供衆・奉公衆・奉行衆・御家人や国人といった家格が、室町幕府の定める大切な秩序である。
“御連枝”とは、現将軍の兄弟の事。尤も、過去に色々と大問題が発生したので今は存在していない。関東や四国にいやがるのも、御連枝にカウントされるようだけど。鬱陶しいし面倒な奴らだからカウントしたくないなぁ。
“御一家”とは、足利氏を名乗った源義康の曾孫の代に誕生した吉良氏を筆頭とする分家の事。
狭義では吉良・渋川・石橋の三氏で、広義だと全部で三十三もの氏族となる。主な名を挙げれば、細川氏・畠山氏・斯波氏・一色氏・上野氏など。
義康の異母兄である新田氏の系譜も、直系以外はほぼ全てが網羅されており、代表的なのが山名氏と里見氏。
そう教えてくれたのは大舘常興である。因みに常興の大舘氏も広義の御一家の一つで、新田氏系の末裔であるのだそうな。
今川氏には“室町殿の御子孫たへなは吉良につかせ、吉良もたへは今川につかせよ”って戯言が伝わっているとか。
……いやいや、吉良氏の他にも分家は一杯いるから十分間に合っているし。抑々吉良氏を絶やそうとしているのは、今川氏だろうに。
“相伴衆”以下その他大勢は全て、足利の血筋に拠る者拠らぬ者が混合しているグループとなる。
頼朝に始まる鎌倉将軍家は身内がとても少なかった。
理由は豊臣家と同じく、直系以外の血筋を徹底的に排除したからだ。それが原因となり三代で血筋が絶えたのだから、後世から見れば馬鹿な事をしたなぁと思うのだけど。
しかし頼朝達は周囲が全てライバルに見えたので、弟だろうが従兄弟だろうが邪魔と思えば処断するのに躊躇なし、将軍権力を確立する為に形振り構わずで排除したのである。
そして権力を確立した将軍は、直系以外を全て御家人とした。更にその御家人達をグループ分けする。
それが“番衆”とかいう制度だ。
源頼朝が武に優れた御家人を側近に取り立てた事に端を発したとかで、鎌倉の三代目が鶴岡八幡宮で暗殺された後に組織として強化されたらしい。
殺された実朝からすれば、遅いだろうと文句の一つもあの世で言いたくなるだろうが、将軍不在でも機能する体制となった幕府としては全然問題なかったみたいだ。
番衆は六チーム編成で、毎日交代で御役を務めていた。御役とは、身の回りの世話係である近習番、身辺警護係である廂番、秘書係である申次番などなど。
最初の武家による武家の為の政権として、番衆制度はとても便利であったようで。そう言えば江戸時代も、書院番とか奏者番とかいたものな。
便利であったが故に様々な職能が求められたのが室町時代の事。
五チーム編成の“奉公衆”に制度改正され導入。
それに伴い、将軍の身辺だけではなく政治と軍事の中核に職責が改変されたのだけど、改変は一度では終わらない。その後も、“内談衆”やら“申次衆”やらが設定されたのだった。
さて、なんたら衆ばかりの室町時代の武家社会において、将軍の次に最も格式が高いとされたのは広範な領地を支配する“管領”職だ。
三代義満が細川氏・斯波氏・畠山氏に任じた役職。後の大老職のようなものだろうか?
だとすれば、今のポンコツ管領は豊臣政権での徳川家康的ポジションなのかもな。人物的には月とスッポンだけどねー。
ややこしいのは、上杉氏が代々務めている“関東管領”ってヤツだ。
上杉氏はあくまでも関東にある幕府の出先機関に過ぎない鎌倉公方府……今は北条氏に鎌倉を追い出されたので古河公方だっけか、の執事である。
関東管領って役職は、東日本ではスッゴイ権力者だと見なされているようだが中央から見ればそれほどでもない。
三管領を財務省に例えれば、関東管領は地方の財務局みたいなものだろう。立場が全然違うのだよな。
管領に次ぐのが七頭とも称せられるグループ。
一色氏・山名氏・赤松氏・京極氏・土岐氏・伊勢氏・上杉氏がそれで、最初の四家が侍所の長を務められる別格扱いなのだけど。
その別格扱いに土岐氏や今川氏が混ぜられ、御一家の吉良氏や渋川氏が加えられたりするので、もう何が何だか。
取り敢えず、三管領の当主以外で格式がある氏族の当主や、時の将軍に気に入られた氏族の庶流や傍流が実務を担当する何とか衆に選ばれていたみたいである。
実力で伸し上がり新規採用される者あれば、権力闘争の最中で没落し消えていく者あり。
コップの中の戦争から武力衝突による激しい争いまで、実に多くの家が登場し、退場して行った。
そもそも侍所が今では名ばかりで実態がないのだから、何をか況や。
そう考えると、細川氏ってスゴイよな。この場合のスゴイは、凄惨って意味合いの凄いだ。
まぁ俺としては、大した武力も領地も無いのに実務一本で生き残り続け、未だに幕府の屋台骨を支えてくれている伊勢氏の地味だが堅実さの方が素晴らしいと思うのだよ、本当に。
俺にもう少し優しければAプラスに花丸付きの評価をするのだけどなぁ。
然様な訳で、管領職三家と七頭プラス二家が室町時代をリードするアッパークラス武家である。正確に言えば過去形の“だった”だけどね。
斯波氏と畠山氏は分裂して地方の中堅未満の領主に成り下がり、七頭プラス二家も分裂したり没落したりして存在感は風前の灯状態。存続しているのが不思議なくらいに零落れた家もある。
独り勝ちである筈の細川氏も内紛中だし……。
アッパークラスが軒並みリビングデッド状態でも公儀が何とかなっているのは、実務を統率する伊勢氏と司法と行政を担当する何とか衆の面々がいるからである。
何とかで一纏めにしたが、その中で一番上に位置するのが“相伴衆”。
元々は名称の通り、将軍が何処かで何かをする際に随従し相伴するってだけの役目だけど、選ばれた者達の身分がかなり高かったので偉い人々の肩書きみたいになっていた。
今では立派な名誉職なのだが、その“名誉”ってヤツが侮れない。
足利氏が将軍家として武家社会の頂点にいられるのは、武家社会において最も大事な概念たる“名誉”を所有し、分け与える事が出来る唯一の存在であるからだ。
そして、中央の武家よりも地方の武家の方が“名誉”に価値を見出していたりする。故に、地方の有力守護大名が任命されていた。
例を挙げれば、大内氏や朝倉氏など。史実では十数年後に、三好長慶が大抜擢で選ばれたりもしている。任命したのは勿論、未来の俺だけどな!
相伴衆の次に偉いのが、“御供衆”だ。
本当は相伴衆と御供衆の間に、国持衆・準国主・外様衆、といった存在があるのだけれど、今ではどれもがすっかり有名無実。
ざっくりとひと括りにすれば、“大名”と言い換えられる者達だろう。江戸時代の親藩・譜代・外様みたいなものかな?
それは兎も角、御供衆。将軍様の側近中の側近の総称で、トンチキ親父の周囲にも多くが侍っていた。
例えば、常興の跡を継いだ大舘氏の現当主、左衛門佐晴光。
他に、一色氏族の内で代々右馬頭を世襲していた式部一色家の当主、晴具。細川氏の庶流、細川奥州家の当主である三郎四郎晴経など。
因みに。
大館晴光の妹は数年前までトンチキ親父の側室だった。高齢につき御役御免として、娘を連れて実家に帰っている。連れて行かれた娘は俺の母違いの妹で名は、初子。大舘家で大切に扶育されているらしい。
今の愛妾は、一色晴具の長女である照子さん。
恐らくだけど俺の弟となる周嵩のお母さんになる人だろう。
史実では俺の兄弟は弟が二人で、妹が四人。母を同じくするのは奈良の興福寺塔頭、一乗院門跡の覚慶(=義昭)のみ。
妹四人は異母妹で、周嵩は異母弟なのだ。
史実では長女は若狭の武田義統に、次女は三好長慶の養子の義継に、三女は最終的に公家ランキングのトップクラスに上り詰める烏丸光宣にそれぞれ嫁ぎ、四女は花屋理春叔母さんの弟子となる。
……どう考えても長女と次女は、幸せな結婚じゃないよなぁ。
武田義統と言ったら負け犬大名の一人だし、義継の最後は妻子を殺してから切腹だし。
周嵩にしても、俺が殺されて間もなく三好三人衆に処刑されるのだよ。何てこったい、オーマイガー。
まぁ妹三人と周嵩は未だこの世に誕生していないのだから、今からあれこれと悩んだとて仕方ないか。
しかしである。初子の結婚だけは何としても阻止しなければ!
可愛い妹を……逢った事はないけれど多分可愛いに違いない我が妹を、むざむざと不幸にしてなるものか!
どうせ嫁がすならば、関東の北条が一番マシだよな。
と、なれば。トンチキ親父の側近達にも根回しを図らねば。サー・マザーや近衛家の皆さん方にもね。北条の長男は早死にするから氏政か。木下藤吉郎が豊臣秀吉にならない限りは大丈夫だろう、きっと!
前途洋々で幕末以降も家を保ち総理大臣も輩出する大名家の中興の祖となる……かもしれない与一郎でもOKだぞ。アイツならお兄ちゃんも安心だ!
ってな、取らぬ狸の皮算用は棚上げして、と。
“申次衆”とは、朝廷との交渉や取次ぎをする者で、以前は幾人もいたらしいが今は伊勢の職務にほぼ一元化されている。
北条早雲が伊勢盛時を名乗っていた頃、申次衆の一人だったらしいと何かの本で読んだっけ。
昔は伊勢氏一族でも身分が低いと言われていたが、氏素性や肩書きがモノを言う時代に東海で勇名を馳せ、関東で一旗挙げるにはそのような設定では無理ゲーだろう。
やっぱそれなりの身分だったからこそ、身分に弱い関東武士が従ったのだと思うなぁ。
“引付衆”という別称もある“内談衆”。
内談とは、諸部門内で行われていた会議の事を意味する単語だ。室町幕府成立直後に足利直義が所領問題を専門に扱う機関として、引付衆を設立する。
その後、義教までの将軍親政の中で衰退し、奉公衆が事務作業全般を職能とした事で自然消滅した。それを復活させたのは何を隠そう、トンチキ親父だ。
将軍親政を行う上での諮問機関、御意見頂戴だけではなく幕府内で将軍の権能を確立させる為に登場させたのだが主催する将軍様がグダグダなので、現在は機能不全の一歩手前。
大舘常興が長老格として御意見番を務めていたりするが、いつまで組織が保つのやら。
そんな訳で。
実行能力を有するのは、“奉行衆”と“奉公衆”のみ。正確には奉行衆だけじゃなかろうか、と思う今日この頃。
“奉行衆”とは政所執事伊勢の下で徴税やら決済やら調停やら人事などの事務作業一切を取り仕切っている者達の事。幕府唯一の行政機関の官僚達なのだ。
中世ヨーロッパ風に言えば“法服貴族”とかに相当する役職なのやも?
“奉公衆”とは将軍が有する直属の武力である。武装親衛隊と言い換えても良いだろう。だが今となっては、奉行衆も含めた将軍家に仕える者達の総称となりつつある。
何故かといえば、ポンコツ管領の祖父である細川政元が起こした明応年間のクーデターで、将軍権威と一緒に形骸化してしまったからだ。
組織が体をなさなくなるのと同じくして歴史の一ページに埋もれてしまった家もある。名を挙げれば二階堂氏に町野氏、それに太田氏と波多野氏。
二階堂氏とは伊勢氏が独占する前の政所執事を務めた氏族であったが、今では見る影もなく奉行衆の隅でひっそりとしている。分家は東北や九州南部で国人領主をしているようだけど。
太田氏は地方に分散して古河公方や安芸の毛利氏の家臣となり、波多野氏は越前で気息奄々。町野氏にいたっては、今は何処にいるのやら。
因みに越前の波多野氏は丹波の国人代表である波多野氏とは別氏族だとか。古河公方に仕えた太田氏は、道灌の庶流傍系らしいが。
世の中は本当に栄枯盛衰。
没落する諸氏を尻目に生き残っているのは政所執事を代々務める伊勢氏と、鎌倉時代以来の名門官僚たる摂津氏だ。
伊勢氏の初代は室町時代初頭からだが、摂津氏の父祖は飛鳥時代以前まで遡る事が出来る。尤もその頃は中原氏を名乗っていたが。
摂津……と言えば、滝川と一緒に種子島へと遣いに出てくれた晴門は元気にしているだろうか。荒川治部少輔も米田源三郎も、な。
滝川は……殺しても死にそうにないタフガイだから欠片も心配しちゃいないけど。
本能寺の変後、大敵大軍に囲まれた関東から長駆逃げ延びた実績を持っているのだから大丈夫だろう……ってそれは未来予想図か。
まぁ頑張りを期待しているぞ。心配もちょっとくらいはしてやるからさ。
滝川に比べれば運も身体能力も少し心許ないのが、他の三名。摂津も荒川も米田も、大事な大事な公儀の官僚。概ね、奉公衆を吸収合併しつつある奉行衆の屋台骨を支える人材なのだから、絶対無事に戻って来いよ!
帰って来たら、それなりの褒美を用意しなきゃならないだろうなぁ……やはり昇進だろうか。だがそれは俺が決められぬ領分、人事案件は公儀の所管だもの。
あるいは、昇給か。
余り銭は減らしたくないけど仕方ない。銭を惜しんで人心を手放すのは愚の骨頂。早く大盤振る舞い出来る御大尽身分になってみたいものだよな、ああ世知辛ぇ。
世知辛ぇついでに愚痴るなら、何処かに金脈か金蔓がゴロゴロと転がっていないかなぁ!
此処が但馬国ならば去年から採掘が始まった生野銀山があるのだけどなぁ。アレを山名氏の所有から公儀の直轄に出来れば万々歳なのだが。
銭のないのは首がないのと一緒、って真理を今日も噛み締めるとするか、ああ世知辛ぇ。
伊勢の授業が一区切りついた処でトイレ休憩を求めた俺は、個室で小用と共に三か月分くらいの溜息を洩らす。
何を考えても直ぐに懐具合の寒さに直結させてしまう状況をどうすれば改善出来るのか?
考えれば考える程に陰鬱な気分になってしまう。
このまま今日は帰っちまおうかなと気持ちをグズグズとさせていたら、聞き慣れぬ大声が奉行衆達の執務する部屋から響いて来やがった。
「ははぁ、なるほど……小さき国であるとは思うておりましたが、甲斐とは斯様な程に小ささでござりましたか!
信濃は大国であると信じ、疑うてなぞおりませなんだが、奥州に比すれば然程でもござりませぬなぁ!」
誰の声だ?
背後を振り返り眼差しだけで問いかければ、先月から近習の一員に加わったばかりの少年、一色右馬頭晴具の嫡子である七郎が、確かめて参りますると申しながら素早く去って行った。
「与一郎、聞き覚えはあるか? 弥四郎、十郎はどうだ?」
「存じませぬ」
「判りませぬ」
「どなたでございましょう?」
三淵氏に生まれながら縁あって細川氏の一員となった与一郎も、三淵伊賀守の嫡男である弥四郎も、大舘家の御曹司である十郎も、全員が疑問形の表情をしている。
やがて、七郎が廊下の向こうから駆け戻って来た。僅かな距離を走っただけなのに息を切らせている。
三つ上なのに、俺並みに体力が乏しいようだ。頼りがいも乏しいけれど、親近感が湧いてくるクリクリした目を瞬かせながら、一生懸命に報告をする七郎。
「と、虎がおりました!」
うん、何だそれ?
いくら一生懸命に伝えてくれても、内容が伝わらなければ意味がないぞ。
一体何事だろうかと深く考えもせずに執務部屋へ戻ろうとしたのが、一生の不覚。全身全霊全力で以って現実逃避を現実的に為すべきであった。
理由は何でしょう?
それは勿論、目の前に威圧感バリバリの男がいたからである。
近江国で遭遇した六角定頼がサーバルキャットだとしたら、ここにいるのはサーベルタイガー。俺の心臓はドッタンバッタンと大騒ぎだ。
おーい誰か、一休さんを呼んで来ておくれ。縄でふん縛って屏風に塗り込め、土倉の奥へ収納してしまおうぜ。そんな訳で後は頼んだ。俺は急用が出来たから休養するので。然らばドロンと……。
「世子様」
執務部屋の入り口で華麗にUターンを決めた俺の動きが、万力のように力強い何かで阻まれる。
「近頃、巷間にて歌われておる今様は全て、世子様が御詠みになられておられますると聞き及びましたが、そは誠でござりましょうや?」
右手の袖を握り締めているのは日に焼けたゴツゴツした大きな手。それを起点に先を辿れば墨染めの衣に包まれた立派な体躯、太い首の上には不釣合いなほどに大きな頭。所謂、鉢割れという形状。迫力満点の胴間声。
「もしかして……恵瓊?」
「某は然様な名ではござりませぬ」
……じゃあ御前誰だよ、ふー・あー・ゆー?
「御初に御意を得まする。某は無人斎道有と申す者にて候。
世子様におかれましては御機嫌麗しゅう」
むじんさい? はて……聞いた事があるような……ないような。
俺がポカンとしていると、いつの間に参じたのか伊勢が傍らでポツリと呟く。
「先の甲斐国主殿にござりまする」
さきのかいこくしゅ……かい、って甲斐? って事は?
「もしや、甲斐の虎?」
「……然様に呼ばれた事もござりましたが今は只の隠居、寄る辺なき一介の雲水にござりまする」
関東では武名高く、悪名は更に高く、国人から一般庶民に至るまで皆に恐れられていた男がニヤリと笑う。
一方、袖を握り締められ逃げようのない俺はビビりながら半笑いを浮かべる。
さっきトイレに行ってて良かったよ……でなきゃ小便をちびっていたに違いない!
七郎が言った事は正しかった。確かに人の皮を被った“虎”がおりましたよ。
無人斎道有こと、武田信虎。
甲斐源氏の宗家である武田氏の十八代目。
彼方此方に跋扈する中小零細有象無象の国人衆を全て屈服させ、見事甲斐一国を手中に収めた人物。
後世の評価では粗暴にして傲慢だったとされる。例え地元の名族であろうとも、逆らえば自ら手討ちにしたらしい。
ところが、知略がなければ纏まらぬ外交交渉も得意だったようで。
信濃国の村上氏、上野国の上杉氏、駿河国の今川氏など周辺の有力大名達と盟を結び、他国に自国を侵させなかったのは信虎の功績であると思う。
でなきゃ、武威と恐怖で統一したばかりの甲斐は再び四分五裂したかもね?
しかし少々やり過ぎた。過ぎたるは及ばざるが如しを地で行く結果がその身に降りかかる。
一昨年前に、嫡子の晴信によるクーデターで駿河国へと放逐されてしまったのだ。
他国との安全協定の為に実のない対外戦争に明け暮れ、国内には恐怖政治を敷く信虎を、家臣となった国人達が疎んだ結果らしい。
らしい、というのは洛中への伝聞が憶測だらけだったからで。
晴信の弟に家督を継がそうとしたからじゃないか、とか。今川氏との共謀じゃないかとか……。結局、正確な理由は判らない。
ただ何となくだけど、東北の伊達氏と同じような状況なのではなかろうか?
老いても威勢盛んな当代ってのは、次世代には相当な重荷である。例え隠居しても何かと政治に口出しする所謂“治天の君”状態になるのを恐れたから、みたいな?
元国人衆の現家臣達もこれ以上は付き合いきれない、早く次世代になって欲しいと思ったとか。そんな感じでは?
実際、目の前にいる男は初老なのに実に油ギッシュ。雰囲気を例えりゃ、雪に閉ざされた山中のホテルで斧を振り回す男の如し。
そんな男がのんびりと楽隠居を決め込む訳がない。
娘が嫁いだ今川氏の下で大人しくしていたのは最初の一年だけ。今年の夏には駿河国を飛び出し、上方一円をブラリ周遊。以前より仲良しだった本願寺から歓迎の挨拶を受け、交流のあった高野山を参詣したりしていたそうな。
てっきり連続殺人ヒッチハイクでもしていたのかと思ったが、流石にそこまで見境なしの剣呑野郎ではないようだ。
さんざっぱら漫遊を満喫したのだ、さっさと東海地方へ帰れば良かったのに。秋口に奈良で足を挫き、長らく養生していたのだそうな。
……年寄りの冷や水か? と思った瞬間、睨まれた。
この時代の人物って皆、エスパーかサトリの妖怪ばかりか?
言葉にしていないのに何で心の呟きが読めるのだよ!?
「世子様は、御顔の御気色が豊かであらせられまするな。些か豊か過ぎるきらいもござりまするが」
あ、そういう事なのね。……伊勢を見習い、早くポーカーフェイスを身につけねば。
「それにしましても、この日ノ本全図は素晴らしいものでありまするな。蒙が啓かれる思いがいたしましたぞ」
信虎が頻りと顎を摩りながら感心しているのは、走り梅雨の頃に犯した若さゆえの過ちであった。
この時代には絶対に存在しちゃいけないレベルの日本地図。
もしも二十世紀まで伝わったら、オーパーツだと騒がれる事請け合いだ。
何とか早く始末せねばと思ったのだが、伊勢達の手により既に何枚かの複製画が作られてしまったので後の祭り。今更どうにもなりゃしない。
取り敢えずは政所から持ち出し厳禁の秘匿物扱いなのだけど、いつまでそれが保てるのやら。現に外部の要警戒人物に見られているし。
そんな要警戒に無理矢理室内へと引きずり込まれた俺の気分は、巨大なホオジロザメにガブリとされたビキニ美女だ。トイレに隠れたのにティラノサウルスに頭からガブリとされた男に例えても間違いではない。
自転車を宙に浮かせた宇宙人みたいな頭を呆然と眺めていたら、コンボイトラックの排気音みたいな咳払いが鼓膜を震わせる。
「この絵図について仔細をお尋ね致しても宜しゅうござろうか?」
懇切丁寧にナチュラルボーンな恫喝をする信虎に対し、俺は男らしくキッパリと拒絶した。
「の……ノーコメント?」
「のうこめん、と……何でござりましょうや?」
「能の古面に来し方を訊ねても黙して語らず、詮なき事を訊ねるは宜しからず。
然様な意にてござりまして、世子様の口癖でござりまする。
問う前に考えよ、との御言葉にて候」
素晴らしい解説だぞ伊勢。きっと多分そんな感じのニュアンスを前面に出した高度な言い回しに違いないと俺も思うぞ、恐らくは。
「なるほど」
よっしゃ、おめおめと引き下がってくれたか。処でおめおめってどういう意味だろう。まさかオーメンの略語とか?
「なれば今宵は夜を徹して御話を伺わねばなりませぬな!」
引き下がらねぇのかよ!
そっちがその心算ならこっちにも腹積もりがあるぞ。例え相手が言葉の通じぬインベーダーであろうとも容赦しねぇからな!
「……今日は日が悪い」
どうだ、言ってやったぞ、ざまぁ見ろ!
積極的で理知的な転進策に、恐れ入ったか参ったか、本当にもう御免なさい。勘弁するから許してくれてもいいぞ?
許しては、くれなかったよ、コンチキショー!
……などと五七調で心境を吐露したとて事実が改善されないのが、悔しいけれど今更時間は戻りやしない。何故俺は便所を済ませた後、スタコラサッサとエスケープしなかったのだろうか?
余は当に大後悔事態!
ありったけの悔いを搔き集めながら迎えた翌日の昼、俺は信虎と昼食を共にする事と相成った。
恫喝100%の迫力で是非ともと言われて断れるような胆力があれば、俺はとっくの昔にポンコツ管領の野郎を屈服させているさ!
パワーにハラスメントを添えた戦国武将の権化に唯々諾々と膝を屈した俺の性根を、チキンと呼びたいならば呼ぶが良い。
俺は堂々と受けて立つぞとばかりに、胸を張りつつ及び腰で臨んだ本日のランチ。
場所はホームグラウンドの慈照寺。境内庭園の目玉である池を見晴らす御堂、泉殿。
参加者は俺と信虎。プラスして傅役の三淵伊賀守に藤堂源助の計四名。
放逐後も信虎に付き従い近畿漫遊にも同行している土屋昌遠と柳沢貞興は、別室で近習筆頭の進士美作守と伊勢伊勢守の息子の兵庫頭貞良が応接している。
三淵がいるのは当然として、別室に兵庫頭貞良が参加しているのは伊勢の配慮である。俺が粗相をせぬ為の見張り番でもあるのだけどね。
大丈夫だよ……多分?
格式、肩書きで言えば、藤堂が座に連なるのは可笑しいのだが、俺の特命で座の一席を与える事にした。
何故なら藤堂は俺が採用する前、信虎に仕えていたからだ。
見ず知らずの人間ばかりよりも多少は気が解れるだろうと思っての事なり。
兵庫頭貞良は少し眉を顰めたが、ここは四姓平等の道場であると俺が申したら、良き御計らいにござる、と了解してくれた。
話が判る奴で助かった。これが茨木伊賀のクソ野郎ならギャンギャンと吠え捲り、俺は鬱々としていただろうけど。
幸い今日は鬱々とはしていなかったが、気分は寒々としたものだった。
尤も、寒々としているのは気分だけじゃなく、泉殿から見る光景もそうだけどね。池など真冬に楽しむものじゃないよな。葉を全て落とした庭木は枯れ木のようで、風情も何もあったものじゃない。
おまけに雪がチラホラと舞い出し、冷たい北風がビョウビョウと吹き始めやがった。御庭の鑑賞タイムはこれにて終了。
速攻で障子戸を閉めて火鉢をガンガンに焚き、暖を取りながらの御食事会は始まる前から躓き気味。これで和気藹々となったら奇跡だろう。
これって粗相か……いや、セーフだろう。
アウトなのは、俺ではなく客人の方なのだから。
出来る限りの贅を尽くそうと用意した膳のメインメニューは、茶碗に盛られた白米。それを睨みつけながら弱々しい呟きを洩らす信虎。
「甲斐は貧しき土地でござった。米作りに向かぬ土地が多うござってな、民だけではなく国人達も食うや食わずの暮らしを送ってござる。喰わねば死ぬるばかりにて……」
手にした酒盃を舐めながら紡がれる弱音は、言う方も然る事ながら聞かされる方もブルーになる。
はや悪酔いか? もしかして、泣き上戸か? はたまた新手の嫌がらせか?
だとしたらマナー違反も甚だしいぞ、御客人!
昨日の迫力はどこへやら、虎が酒飲んで大トラに成らず借りて来た猫になるとは、どういった塩梅だ?
「故に某は他国へ侵略し、人狩りを致してござった。他国の戦に加勢していたのも幾ばくかの銭を貰い受ける為にて……」
信虎から偏諱として虎の一字を拝領し公的には虎高を名乗っている藤堂が、以前の主に無言で酒を注ぐ姿も妙にしみったれて見える。
……お通夜の振る舞い膳の方が、よっぽど派手で賑やかじゃなかろうか?
さて、これは困ったな。
迷惑千万な招かれざる客が撒き散らす陰気な空気をどうにかしないと、このままじゃ胸がつかえて窒息死してしまうぞ。でなきゃ、冷え切った重圧感で凍死するかだ。
項垂れ加減の頭をヨロヨロと持ち上げれば、三淵が頻りにどうにかしろと目配せをして来る。
出来る訳なかろうが、俺はこう見えても見たまんまの八歳児だぞ!?
無茶振りするなよ。無理なものは無理。
俺が能面のような無表情さでアイコンタクトを弾き返せば、三淵も諦めたらしく仕方なさそうに首を竦める。しかしこのままでは信虎の陰鬱な独演会で終わってしまうし。
やはり、座の雰囲気を主催者である俺が変えねばなるまいか。何か明るい話題を提供しないと……。
「余は、甲斐とは眩く黄金が輝き溢れる国であると聞き及んでおるのだが?」
どうだ、明るくなったか?
「某が産まれた頃に大地が鳴動致し、黒川の山は崩れましてな。
以前のように金が採れるようになるは……いつになりますやら。
山に金無く、田に稲穂無し。甲斐が黄金に輝くなどとは、とてもとても……」
何てこったい、地雷源にダイビングしてしまったじゃねーか!
大爆発で吹っ飛んだ今の泉殿は、成層圏を突き破った感じだぜ。真空の真っただ中に放り込まれたみたいに、座の雰囲気は超絶に息苦しい。
素知らぬ顔で手酌してんじゃねーよ、三淵。御願いだ藤堂、天を仰いでないで助けてくれ!
絶望的に静まり返った室内。壮絶に気まずい思いで顔を強張らせていたら突如、クックックと不釣り合いな笑い声が響き渡った。
「……某の座興、如何でございましたかな、世子様?」
何だと?
先ほどまでの沈痛な表情をかなぐり捨てた信虎が、酒杯をくいっと一息で空ける。
「菅丞相の再来やもしれぬ、などと噂の世子様が如何なる童かと思いましたが……やはり所詮、童は童でござりまするな」
藤堂の手から急須に似た形状の銚子を奪い取り、手酌で注いだ酒を続けざまに三杯も飲み干す信虎を、俺は呆然と眺めた。
三淵達も唖然としているのだろう、しわぶき一つ聞こえやしない。
「才はあれども策は無し。語る口はあれども観る目は無し。
然様な者を巷では何と申すか御存知でござりましょうや?」
酒臭い息を撒き散らしながら酔眼を細めた信虎。俺を睨む眼差しは、濁ってはいないがドロリとしていた。
「小賢しい、と申すのでござる」
史実での武田信虎は、この年の6月には上洛し遊覧。京都・高野山・奈良をブラブラした後、8月15日には駿河へ帰国しているそうで。
本当なら夏に遭遇させていればベストだったのですが、すっかり忘れていたので、大事な事なので繰り返しますが、すっかり忘れていたので、史実を曲げてブッコミました。
皆様、史実の御利用は計画的に致しましょう♪