『 高慢と偏見とトンビ 』(天文十二年、冬)<改訂>
サブタイトルの原題は、日本ではあまりメジャーなタイトルではありませんが、二百年くらい前のイギリスの長編恋愛小説の傑作を元にした、迷作パロディ映画です。
改訂致しました。誤字誤表記を訂正致しました。御報告に感謝を!(2021.05.23)
今日も今日とて御付の者達を従え、賀茂川の河川敷を目指して進む。
慈照寺で働く小者達が押す荷車のギコギコという音をBGMに、馬に跨りポックリポックリと。
勿論だが手綱を持つのは三淵伊賀守。近習や供侍達を従え、のっしのっしと力強く歩く姿は実に頼もしい。気が滅入る事があったから、尚更その頼もしさが有難く思える。
池坊専応法師が御逝去されたのだ。享年は六十二歳。
この時代では長生きの部類なのだろうけど、還暦過ぎて間なしでは長命と言うには足りない年齢。前世の親の年齢よりも若いのだから。
死因は卒中だそうな。
弟子達に活花の稽古をつけていた最中、急に倒れられてそのままポックリと。AEDは勿論の事、救急もない時代だから救命は無理だよなぁ。
俺も参列したが、六角堂で行われた葬儀は盛大なものであった。
朝廷からの使者や幾人もの公家達、何よりも朗らかな御人柄で地元に愛された僧侶であったので下京の多くの庶民が哀悼の意を捧げに参集したのである。
ふと、爺さんが死んだ時の事を思い出してしまった。
家族のみでの葬儀だったので、何とも物寂しい感じがしたっけ。近所の人くらいには案内すべきだったよなぁ、と今更ながらに思う。
やはり人生最後の儀式は賑やかでないと。
偉大なる先駆者にして指導者を失った六角堂ではあるが、専応法師は数年前から口伝を残されていたので大丈夫なようだ。
「向後も幾久しくお付き合いを賜りたく」
法統を継がれる専存法師は穏やかな表情でそう言われたが、先立つ人を送った寂しさがヒシヒシと伝わって来た。俺よりも年上の専栄なら兎も角、俺と同い年の専好が唇噛み締めながら頭を下げるので、俺も胸が苦しくなる。
……泣く事だけは必死で堪えたが。
でないと、みっともないくらいに号泣してしまいそうだったからだ。親しくさせて貰った期間は短かったけれど、募る寂しさは時間の長短ではなく濃密さだ。
親しくしていた人との死別ほど、人生で辛い事はない。どうか天国……じゃなくて浄土で安らかに。
そんな訳で、あれから十日以上も過ぎたのに未だに俺の心は鬱々としていたのであった。ポックリ逝くには早過ぎるよ、専応法師。
「若子様、本日も検分に御越し戴き、誠に恐悦至極に存じます」
涙が零れないように上を向いていた俺は、足下から発せられた声に慌てて思い出から現実へと意識を移す。
いつの間にやら、現場に到着していたようだ。
ネガティブモードの気分を紛らわせようと首をグルリと回せば、遠方に粗末な掘っ建て小屋が立ち並んでいる。近くを見れば枯れ草ばかり、と思いきや、ポツポツと切り開かれた空間があった。水が抜かれ稲刈りの済んだ田圃である。
現代人が思い浮かべる田圃とは、平地に規則正しい形が整然と並んだものだけど、この時代の田圃は平地であっても歪である。開墾者が造作出来た範囲が田圃の形であるのだから、当然か。
足下を見てもやはり、冬の田圃があった。あった、と言うのは過去形である。ここは既に田ではなくなった跡地なのだから。
秋が深まった頃には黄金色の稲穂が揺れていただろうこの一帯は無残な姿となり、耕作地としての機能を喪失している。
水気の大半を失った泥の下に広がる黒土が露出するまで掘り返された元田圃の傍に俺達はいた。
三淵の手を借り馬から降りた俺は、荒涼とした冷たい大地に額づく初老の男の肩に手を添える。
「前も言ったであろうが、余に土下座など無用であると」
ははぁッ、と返事をしつつ尚一層に白髪交じりの頭を下げる現場監督役の又四郎を無理からに立たせながら視線を上げれば、両肌脱ぎの男達も作業の手を止め同じく平伏していた。
「其方らも畏まるでない、作事の場にて礼節は無用。働く者が最も偉いのだからな」
寒風こそ吹いてはいないものの吐く息が白くなる冬空の下、全身から薄く蒸気を立ち昇らせた多くの男達は又四郎のしわがれた号令で、作業を再開する。
川沿いの土地は水分豊富ゆえに柔らかかろうが、冬ともなれば然程でもない。やはり固くなっているのだろう。鋤や鍬に掘り起こされた黒土が実に重たそうだ。
「中々に苦労をしているようだな」
「梃子摺りまして誠に申し訳なき事にて」
「良い良い。其方らの忠節と尽力に頭を下げねばならぬのは、余らの方だ。誠に忝く思う。
本日は、其方らへ労いの品を持って参った。皆でこれを飲み干し、新たな活力の源として貰いたい」
俺が右手を上げて合図をすると、小者達が前へと進み出て荷車から一斗樽を三つばかし地面に並べた。
「者共、喜べ! 若子様からの有難き御下賜ぞ!」
歓声を上げ深々と一礼する男達を見て、三淵伊賀守を含めた供回り達の幾人かが微妙な表情となる。多分、勿体ないとか羨ましいとか思っているのだろうな。
いつの時代であろうと酒好きは多少なりとも意地汚いものだ、と言ってしまえばそれだけの事だけど。タダ酒ほど美味い物はないだろうってくらいは、前世では下戸だった俺でも判る。ましてや差し入れた酒は安い混ぜ物ではなく、高級ブランド品なのだから尚更だろう。
本来、酒は祭祀の必需品であって、嗜好品ではなかった。
故に酒造りとは国家の事業として行われるものだったのだが、社会状況が改善され出した鎌倉時代以降になると官による占有ではなくなり、社会情勢が激変した室町時代になり嗜好品として民間レベルでも完全定着する。
慈照寺で読み漁った文書のどれかに書いてあったが、京都での酒造りは鎌倉時代に成長したそうな。
中心となったのは北野天満宮こと北野社である。
その頃、酒造りは麹造りと酒の仕込みとに分かれていて、北野社は麹造りを独占しようとやっきになっていたのだそうな。
時に三代義満の治世であった明徳四年、公儀は『洛中辺土散在土倉并酒屋役条々』という法令を発布する。
座に加盟しているしていないに関わらず、京都市中の土倉と酒屋はそれまでかけられていなかった税を課せられた、と別の文書は記していた。
数多の土倉や酒屋などの座を支配していた本所は、延暦寺などの寺社勢力。
僧兵という武力と神仏という権威に護られた彼らに対し、鎌倉幕府も朝廷も及び腰であり手を出しかねていたのだが、南北朝を合一し権力の絶頂にあった三代義満は豪腕で寺社勢力を屈服させたのである。
……羨ましさを通り越して、憎らしいくらいに強い将軍さんだよな三代義満ってさ。俺の抱くイメージとしては、一休さんの遊び相手なのだけどねェ。
財源を確保した幕府は意気軒昂。そこに擦り寄ったのが北野社。そして北野社は麹造りを独占し、酒屋が独自で麹造りをするのを幕府の武力で弾圧したのである。
困った酒屋は座の本所に泣きつき、頼られた本所は延暦寺を代表者として北野社の非を公儀に訴えた。因みに北野社は延暦寺の傘下である。
言い換えれば、グループ企業が本社の営利事業を簒奪したって事で。そりゃあ、本社はカンカンだ。
北野社と延暦寺の対立は五十年も続いたらしい。
やがて延暦寺は伝家の宝刀である強訴に及ぶ。その頃の将軍家は六代義教が暗殺された後で、弱体化の坂道を転げ出した処。
六代義教が存命であれば延暦寺の強訴など跳ね除け、二回目の比叡山焼き討ちを行っていたかもしれないが、七代以降の弱体将軍達では抗いようもない。
そんな経緯で北野社の我が世の春は終焉し、独占権は剥奪処分と相成りましたとさ。これで一件落着……とはならないのは自明の理。
折角手にした利権を取り上げられた北野社が逆ギレし、社殿へ立て篭もっての武装抵抗へ。事態打開を迫られた公儀は仕方なく兵を派遣し、北野社一帯は焼け野原となったとか。
文安年間に起こった酒を廻る争乱で、圧勝したのは延暦寺。奪われ焼かれた北野社は大惨敗。そして公儀も財源と権威の両方を手離すという痛過ぎる敗北。
その陰で、思わぬ余禄を手にした者達がいる。
延暦寺以外の大寺院達、それも京都ではない近畿の大寺院達だった。それが所謂“僧坊酒”である。
以前まで、京都で消費される酒は全て京都で造られた物だけであった。京都の酒屋達は外部からの参入を一切認めなかったのである。
ところが北野社と延暦寺が仁義なき戦いを始めた事により、京都市内の酒屋が軒並み大打撃を受けてしまった。
それを好機としたのが京都府外にある近畿各地の酒屋達。
弱った獲物を見つけたハゲタカのように、巨大市場である京都市へと酒樽抱えて乗り込んだのだ、とこれまた複数の文書に記載あり。
『菩提泉』『山樽』『大和多武峯酒』といった大和国が誇る南都諸白。
河内国南部の『観心寺酒』や『天野酒』。
越前国の『豊原酒』。
近江国の『百済寺樽』などが主だった銘柄である。
諸白とは精米のみで造った酒で、精米と玄米混合の片白や、玄米オンリーの並酒よりも上級である。
広大な荘園で収穫される米が使え、修行僧などを作業員として徴用出来、大陸の最新技術を惜しみなく導入出来る環境が整っているのが、大寺院の強み。
国家の酒造部門であった造酒司が平安末期に衰退した後、流出した技術と人員が辿り着いたのが近畿各地の大寺院であるのは当然の帰結だよなぁ。
僧坊酒なる各地の銘酒が隆盛となるのは、貨幣が世の中に普及し始めた鎌倉時代からだそうな。
大寺院が治外法権を乱用して好き勝手に造りたい放題しても、売れなきゃどうしようもない。経済発展と歩を合わせているのもは当然だろう。
日ノ本最大の消費地である洛中での販売チャンスが到来した今日、巷には高級品からお手軽品まで、値段ピンきりの日本酒が出回っている。
売り込み合戦も激しいもので、少しでも優遇して貰おうと考える様々な酒造元が“花の御所”に持ち込んで来るのだ。
御蔭でトンチキ親父は酒浸りの日々。蒸留酒ではないので度数は低いけれど、吞み過ぎの果てに辿り着くのはアル中の世界。ピンクの象さんに踏み潰されなきゃいいがなぁ。
まぁそんな訳で。
身近な所に酒樽がゴロゴロしてあるのだから少々ちょろまかしても大丈夫だろうと、勝手方に話を通して持ち出して来たのだけれど。
因みに持ち出して来た銘柄は、金剛寺謹製の『天野酒』。黄金色の甘いお酒らしいが、前世は下戸で今は未成年の俺には関係ない話だ。
グダグダな将軍様がグズグズになるまで飲ませても良いのだけど、それでは折角の高級銘柄をドブに捨てるようなもの。活き金、のように酒も活かさねば。
「ちと、惜しい気も致しますなぁ」
「ああ全くだ」
こらこら。石成主税助も三淵伊賀守もそんな浅ましい顔でさもしい事を言うのはみっともないぞ。大体、“花の御所”から慈照寺へと横流ししたのは七樽で、ここには三樽だけだ。差し引き四樽もあれば充分だろうに。
読み漁った多数の文書に矢鱈と酒に関する法令や事象が事細かに詳しく記されていたのも、お前らみたいな酒に目がない役人がいたからだろうと思うぞ。
もしくは単なる酒好きではなく酒に関わる利権も込みで大好物にしている、みみっちぃ守銭奴野郎かな。
「勝手な事をなされては困りますな、世子様」
酒樽を囲み大喜びする又四郎達、賀茂川の河原者の大喜びする姿に目を細めていたら、背後から嫌味な声が投げかけられた。
「大樹様に献上遊ばされた品を御許可なく無断で持ち出されるのは、如何な立場であらせられようとて無体な仕儀とは御思いになられませぬか?」
浮かれ騒いでいた又四郎達も含め、ほとんど全員が跪くのを横目に俺は鼻に皺を寄せて振り返れば、そこには仲良くなりたくない男ナンバーツーが十名ばかしの郎党をバックに馬上で踏ん反り返っていやがった。
前触れもなく湧いて出るなり嫌味を口にするとは見上げた根性、見下げ果てた過剰演出だな、守銭奴の手先のみみっちぃ小悪党め!
「何用であるか?」
一緒に空気を吸うのも嫌な野郎ではあるが、口をきかなきゃ追い払う事も出来ないので嫌々ながらも問いかければ、相手は鼻息を荒げやがる。
「何用とは……」
「伊賀守殿、下馬せずの直答とは無礼千万ぞ!」
そうだそうだ、何様だテメェは!
高がポンコツ管領の使いっ走りじゃないか、お前はよ!
陪臣の身分で……じゃねぇか、一応幕臣か。つまりトンチキ親父の家来の端くれだ。端くれの分際で偉そうだぞ、頭が高いわ!
「おお、これは御無礼仕った。平に御容赦を」
少しもそうは思っちゃいないだろうって感じの慇懃無礼さを顔面に貼り付けながら、馬から下りて形ばかりに膝を就く男、彼の名は茨木伊賀守長隆。
“おフランス”を口癖にしそうなスケベ髯を鼻の下に生やした、吐く息も生臭い出っ歯野郎だ。
これで語尾が“ざんす”だったりしたら片腹痛いでは済まないくらいに噴飯物なのだが。残念な事に、面白みに欠ける普通の口調。それがまた鼻につき、ムカつきもするウザ男なのだ。
鋸引き刑に処するには最適な生っ白い首元を睨みつけつつ、俺は足下に唾を一つ吐く素振りをした。
「斯様に足の汚れる所へ参るほどの何用があるのだ、茨木伊賀?」
「そこな酒樽にござる。昨日、河内の南より献上されたと聞き及び改めに参りますれば、世子様が御持ち出しになられたと勝手方が申しましてな。
然らばその御意志は奈辺にありやと思いまして、斯様な穢れ地へと罷り越した次第にて」
膝を就いた郎党達を顧みる事無く、袴を汚す乾いた土を払いながら一人立ち上がった茨木のヤツは薄ら笑いを浮かべつつ、俺を見下ろしやがる。
「まさか世子様御自らが御召し上がりになられる為ではございますまいな?」
ああ、本当にイラッではなくイライラとする男だ。粘着質な物言いの一つ一つが神経を逆撫でしやがる。
前世で三好長慶関連書籍を読んで以来、俺はコイツの事が大っ嫌いなのだ。
理由は“表裏比興”ではなく、小ずるさが際立ち過ぎる卑怯者だからである。
応仁の乱後に没落し、逼塞しかけていた摂津の小領主であった茨木氏。
そのまま歴史の流れに消え失せてくれたら良かったのに、戦国時代の荒波の中でヒョッコリと顔を出しやがった。
高国と晴元の間で激化した管領細川家の内訌の最中に名を売り、三好長慶の父である元長の引き立てによって一躍中央の表舞台に登場するのである。
向背常ならぬが当たり前の戦国時代において、風見鶏でなければ生き残れぬし、勝ち馬に乗らなければ命も何もかもが奪いつくされるのだから、この時点での奴の生き方は至極当然だ。それを非難するのは不見識だろう。
だが茨木のヤツは、己が身を引き立ててくれた三好元長を踏み台にしただけではなく、惨い死に様を晒す仕儀へと追い込んだのだ。
そして同僚であった柳本賢治や木沢長政らが陣没、敗死するのを尻目にスルスルと危機を回避し生き残りやがる。
乱世での負け犬とは、先ずは早死に、次に陣没。最悪なのは族滅か。
言い換えれば、生き残った、負けなかったは、輝かしい勲章と言えよう。当に武人の誉れである。
隙を見せた方が愚かなのであり、殺された方が悪いのだ。
気づけばポンコツ管領の筆頭奉公人となり、洛中においては並ぶ者なき権力者となっていやがった。
何せ親分は行政能力が欠落したアレだから、部下も無能かと思えば然に非ず。
上司が無能の代表格であればこそ、部下は有能でなければ務まらないし生き残れないのだ。
尚、コイツの職権を現代に例えれば、京都府知事と京都市長と京都府警本部長と京都地裁判事を兼任する行政と司法の最高執行者か。
つまり何が言いたいかと言うと、だ。心の底から虫が好かないのである。
前世で爺さんの薫陶宜しく長慶愛好家となっていた俺は、長慶の怨敵であるロクデナシ野郎とその手下共が大っ嫌いなのだ。
付け加えれば。
茨木のヤツは高校2年生時の担任に顔がそっくりだった。
担当である英文法の授業をネチネチとした喋り方で行い、生徒のやる気を徹底的に削ぐ事を無上の喜びとしていたような、本当にいけ好かない奴だった。
そんな奴に良く似た人物を好きになれようか?
いや、絶対無理に決まっている!
だから俺は、この茨木長隆という野郎が超絶に大嫌いなのだ。以上、完璧な証明終わり。
「御世継ぎ様であらせられるのであらば、物事の道理を分別して戴かねばなりませぬぞ」
うるせぇ、バーカ!
舌をベロベロさせながら中指を立てたくなるのを我慢した俺は、どうにかこうにか反論を搾り出す。
「道理も分別も惟高妙安禅師の元で十分学んでおるぞ……其方らとは違う学び方をしておるかもしれぬがな」
……喋りだしたら少し落ち着いた。いつ何時でも冷静さを失っちゃダメだよな。
頭に血が上ったままじゃ、嫌味に嫌味で返す事すら出来やしないし。
「酒をこの者らに振舞うたのは将軍家に連なる余の行いとしては、当然の事と思わぬか?
この寒空の下、斯様に働いてくれておるのだからな。
恐れ多くも畏き辺りより発せられた御諚を承ったは将軍家。この者らはその御諚による作事に従事してくれておるのだ。
しかもである。
己の開墾した田圃を掘り返し、水路にしているのだぞ。慰労と感謝の意を表するのに酒を用いて何が悪いのだ?」
賀茂川河川敷を住処とする又四郎達は、住居のみならず田圃や畑も造っていたりした。
収穫物の半分は慈照寺に税として納められ、納められた米や野菜の大半が洛中の市場で売り払われている。
社会資本が未整備で物流も発展途上なこの時代、地産地消が当たり前。洛中で消費される食材の幾ばくかは、河原者達の作る米などで賄われているのだ。
炭作りも一段落し手持ち無沙汰であったと、思いもよらぬ望外な稼ぎを宛がって戴き誠に有難い事でと、又四郎達は言ってくれたが。
此の地は又四郎の親の代に碌な道具もない状態から、苦労に苦労を幾重にも重ねて開墾した田圃である。
開墾なった田圃は大事な財産だ。そんな大切な財産を、ほんの一部とは言えこちらの勝手な上意とやらで潰し水路にさせるのである。
……謝罪を形で表す事の何が悪いのだ、ああん?
てめぇが日々無駄に食い散らかしている食材の生産緑地を、穢れ地だと?
野壷に埋めて程好く腐らしてから田畑の肥やしにするぞ、この馬鹿たれが!!
「彼奴らには銭を払うておりまする。大樹様より命を賜った京兆家が」
冷笑を貼りつけた顔で俺を睥睨する茨木のヤツは、いけしゃあしゃあと言い放ちやがった。
嘘つくなやボケェッ!! しばき上げんぞゴルァッ!!
「……ほぉ? 十分に報いておると申すか?」
「然様、これ以上はないくらいに」
火炎瓶でド頭カチ割ってキャンプファイヤーの火種にすんぞ、アホンダラが!!
「……六郎が作事の掛りを全て供出してくれているとは知らなんだ。てっきり三好筑前が用立ててくれていたのだと思っていたのだが?」
……落ち着け落ち着け、冷静に冷静に。
「然様にて。三好の奴ばらは京兆家の被官にござる。被官の賄う銭は御本所様の用立てたる銭と同じにてございまする」
確かに、茨木のヤツの申しように偽りはない。
今からざっと半月近く前の事。
慈照寺へとやって来た伊勢伊勢守ら政所の者達に囁いた金策案。ポンコツ管領に工事費用の一切を出させよう作戦は、成功であり失敗であった。
目下、泥沼的内ゲバ抗争の真っ最中の細川氏は、戦闘行為自体はなく睨み合いをしているだけの、休戦でも終戦でもない暫定的な停戦状態。
主な舞台は山城国と摂津・河内・和泉の三ヵ国。舞台の観客席は丹波・阿波・讃岐の四ヶ国だが、実態としては近畿地方全域だろう。細川氏の版図が近畿地方の過半なのだから仕方ないが。
喧嘩をするなら南鳥島辺りでひっそりとやってくれよ、三宅島の火口の中でも良いけどさ。
さて、そんな細川氏の内訌だが。優勢なのは六郎の野郎をトップとするグループで、主戦力は筑前守長慶率いる阿波三好軍団。
尤も今はまだ長慶を名乗っておらず、範長だけど。まぁ面倒だから俺の頭の中では、長慶で通すけどね。
六郎の野郎の手下として獅子奮迅の活躍をしている長慶だが、軍勢を運用する戦費はと言えば、ほぼ全て手弁当であった。
グループリーダーが出すのが当たり前なのに、雀の涙ほどの恩賞しか出していやがらないのだ。
何て酷い親分だろう。てめぇの戦いなのだから、正当な報酬を出してやれよ!
長慶もバイト代にもならぬ御駄賃程度の褒美に甘んじてるんじゃないよ!
月のない晩に後ろから釘バットでガツンと意見しちまえよ!!
ポンコツ管領は酷過ぎる渋ちん故に、さぞや銭が腐る程に余っているだろうから土木工事費用くらい全額払ってくれるに違いない、と思ったのに。
六郎の野郎は幕府が出した請求書を全部、長慶に回しやがったのだ。
此方の想定を上回るクソ野郎の渋ちんだな、ポンコツ管領は!
何とかして懐事情にダメージを与えてやろうと思っていたのによ、計算が狂ってしまったじゃないかよ、バカヤロー!
……しかし、全く予想していなかった訳じゃない。
もしかしたらの万が一、程度には予想をしていた。だが本当に、そんな無茶振りを躊躇いなく即座に仕出かすとは思いもよらない事だったのだ。
全く呆れ果てた野郎だよ、細川京兆家の当主様はよ。
いつ終わるかもしれぬ戦いの……六年後には紆余曲折の末に一応の決着はするのだが、戦費だけでも莫大なのに、その上更に余計な出費をする余裕があるのか、長慶は!?
実は、あったりする。
長慶は結構な資産家なのだ。流石は後に天下の副王と讃えられ、信長よりも先に天下人となっただけの男である。
何故なら領国の阿波は良質材木の名産地。堺を経由した阿波の材木は高値で売買されていたりするのだ。
なので、政所が要請した工事費用を即座にポンと出してくれたのである。
その額何と、二千貫文。
いやはや吃驚したよ驚いたよ。実際の費用は七掛け以下なのだけど。
俺が吹っ掛けてやれと政所にアドバイスした額を無造作に提供してくれたのだ、長慶は。
今も昔も、金払いの良い人物は格好良いものだ。素敵だよ長慶。そして金があるというのは、武力にも困らないって事でもある。
俺は絶対に逆らわないからな、長慶!
とまぁそんな訳で、又四郎達にやらせている水路工事も、水路を造るに当たり徴用した河原者達の田圃の地代も、全て長慶の提供してくれた資金で賄っている。
決して、摂津国の城でのうのうと過ごしている六郎の野郎や、目の前で嫌らしくニヤニヤしている茨木長隆の御蔭じゃねぇ!
「ほう、然様か。
其方の論法に従えば細川の用立てたる銭は、これ即ち将軍家が用立てたものとなる。
将軍家の一員たる余は、将軍家の命に従う者らに多少なりとも報いてやりたいと思い、将軍家の有する酒を振る舞うたのだ。
何か可笑しいか、茨木伊賀よ……異論あらば疾く申せ」
俺の正論に御付きの者達が満足げに頷く。
「可笑しゅうござりますとも。世子様が持ち出されたは天下に名立たる『天野酒』。彼奴らになど並酒ですら勿体ないと思いますがな」
おいこら、三淵伊賀守に主税助。他の成人男子達も、御説御尤もと頷いてるんじゃねぇ!
酒が絡むと本当に度し難いな、全く。
「酒の良し悪しなど余には判らぬ。然れどどうせ振る舞うのであらば、上物であるのに越したるはなかろうが?
それとも其方は、余に混ぜ物ばかりで酔えもせぬ如何わしいどぶろくを求めよと申したいのか?」
“粗悪な密造焼酎”でも飲ませろってか?
冗談じゃねぇぞ、そんな素寒貧な事が出来る筈ないだろうがよ!
てめぇの曇った目ん玉をメチルアルコールでクリア洗浄してやろうか!?
要は、お前がちょろまかすつもりだった高級日本酒を取り返したい、って事なのだろうが?
誰がお前なんぞに渡してやるものか!
一昨日来やがれ、明後日の方向にかっ飛ばしてやろうか!?
口を噤み、こめかみと頬を引き攣らせて俺を睨みつける茨木のヤツを、負けじと俺も睨み返してやる。
向こうの手下は十名ばかし。荒事には慣れているようだが、戦場往来者はいないと見た。
一方こちらには戦場の空気を知る三淵伊賀守や、供侍の藤堂などの戦塵に塗れた者らが五名もいる。
与一郎達、本日の近習五名も伊達に剣術を学んではいないし。その上、荷車を担当していた小者達は全員が、城攻めに参加した事もある忍者上がりだ。
俺が一言“下郎推参、僭上の極み許し難し”とでも言えば、あっという間に鏖殺出来るだろう。
死体は、又四郎達に頼めば確実に処理してくれるに違いない。
チラリと横目で御付きの者達を見やれば、彼らも心得たかのように顎を引き軽く腰を落としている。抜刀態勢完了ってか。
いい加減相手をするのも鬱陶しいし、もう殺っちまうか? と、現代日本人ならば絶対に考えてはいけない事を脳裏で呟いていた時の事。
不意に発せられた何とも呑気な声が、殺伐とし出した河川敷の空気を緩やかに搔き乱したのだった。
「これはこれは、皆様お揃いで」
カッポカッポと馬を走らせて来たのは、妙に愛嬌のある中年を先頭にした一団である。
「今日は又、冬には珍しき麗らかな日差しにて、遠駆けするには絶好の日和にござりまするなぁ」
ヒラリと馬から降りた男達は全員が全員、何とも場違いな笑顔を浮かべている。
「世子様におかれましては御機嫌麗しゅうござりまする」
乾いた大地に膝を就いた先頭の男は俺に一礼すると、茨木のヤツにも深々と頭を下げ、直ぐに上げた。
「御探し致しましたぞ、伊賀守様。此度の作事の掛り一切、我らに託し戴きました事への御礼を言上致そうと御屋敷へと参りましたのですが御不在とお聞きし、方々駆けずり廻りました。
御探し致すに折角洛中へと運び入れた進物を汚してはならぬと、先んじて運び入れましたる段、平に御容赦を。
伊丹にて贖いましたる他所酒ではございまするが、奈良流を取り入れまして造られた新規の諸白にござりまして、未だ世に知られぬのは何とも惜しいばかりの上々の出来にござりまする。
某も馥郁たる薫りに陶然と致しましたが、これは我らの如き者が飲んで良い酒ではなく風雅の極みを解する伊賀守様にこそ相応しき物であると、我が主が申しましてな。
一刻も早く御届けせねば、召し上がって戴かねば、そう思い急ぎ駆けて参りました次第にて」
「さ、然様か」
ゴクリと大きく喉を鳴らした茨木のヤツは、己の浅ましい行いを取り繕おうとエヘンエヘンとわざとらしい咳払いを放つ。
「せ、世子様。某、急用を思い出しましたのでこれにて御免仕りまする。向後はよくよく御振る舞いを推考あれかしと願わしく」
然らば、と言い残して去って行く茨木の後姿を、俺はポカンと見送った。
何とまぁ変わり身、逃げ足の速い事。
「流石は……機を見るに敏な御方でござりまするな」
媚び諂いを流暢に捲し立てた舌の根も乾かぬ内に、平然と微量の毒を吐く中年男の何とも胡散臭い事
それでいて、器用にも片眉だけを上げ下げしつつ浮かべた笑みには、真実味が感じられる。何とも奇妙な男だな……誰だか知らねェけど。
「おおこれはしたり。名乗りもせず、許しも得ずの直答、平に御容赦下さりませ」
改めて額づこうとするのに、俺は待ったをかけた。
「顔を見ねば話も出来ぬ。直答を許すが故に名を申せ」
「ははっ、忝き御言葉恐悦至極に存じまする」
面を上げた男は、作り物ではない晴れやかな笑みを浮かべている。
「某は三好筑前が家臣、孫四郎長縁と申す者にてござ候」
三好筑前、つまり長慶の家臣か。それで名前は孫四郎。
ほう、孫四郎ね………………って孫四郎?
「もしや……筑前守の連枝か?」
「某の事を御存知でございましたとは、何たる誉れ。当主、三好筑前とは祖父を同じく致しておりまする」
……何てこったい、オーマイガー!
長慶の血縁者で孫四郎と言ったら、長逸じゃねぇか。
義輝弑逆の張本人、三好三人衆が筆頭の!!
オーノー・マンマミーヤ!!
「孫四郎長縁様と申さば、阿波三好党では並ぶ者なき豪の御方ではございませぬか」
何でそんなに嬉しそうな声を上げてるのだ、石成主税助。お前も将来は三好三人衆の一角だろうがよ!
「然様に大した者ではござりませぬ」
こいつは一体どういう状況だ?
殺人事件の被害者を挿んで加害者二人が朗らかな雰囲気でまったりしているってのは?
……最悪の未来予想図が実現しない限りは、被害者も加害者も現時点では仮定だけどさ。
「しかしそれにしましても、無用な波風が立たずようござりました」
え、どーゆー事?
「この者が、賀茂川に大いなる殺気が立ち上っておると申しましてな。
取るも取り敢えず駆けつけて参ったのでござりまする」
長逸が手招きをすると、後ろで控えていた一団の内から一人の小柄な男が小走りで進み出て、平伏する。
「何者であるか?」
「某が軍配を預ける者にて候。某の名が世間に通っておるならば、その一端はこの者の力によりますものにて」
「直答を許す、名を申せ」
「……」
「世子様の御許しである、疾く申し上げよ」
平伏というよりは、車に引き潰されたトノサマガエルみたいな姿勢の人物は、それでも中々口を開こうとはしなかった。ああ、もう面倒臭いな。
埒があかないので俺の方から近づき、良いから申せ、と男の襟首を掴んで持ち上げると、漸く観念したのか名乗り出した。
「ま、孫四郎様が家臣、じ、浄三にござりまする。ば、陪臣の身にて、誠に畏れ多き事に、ご、ござりまする」
ああ、そうか。
将軍家家臣の細川家の家臣の、長慶の家臣の、長逸の家臣だったか。
つまり陪臣の三乗って立場か。
いや、そんな事はどうでもいい……浄三って言ったよな、お前?
「ちと尋ねるが、其方は千葉白井家に連なる者であるか?」
「せ、拙者のこ、事を、御存知で?」
知ってるよ、知ってるともさ。お前が主人公の小説を読んだ事があるもの。
北条家に仕えて、上杉謙信の率いる大軍を小勢で撃ち破った名軍師じゃねぇか、白井浄三入道は!
そう言えば、北条家に仕官する前は三好長逸の家来だったって説があったっけ。
これは何とも驚きだ、まさかこんな場所で小説の主人公に出会えるなんて!
「そうか、其方が白井浄三であったか。軍神すらも討ち払う必勝の軍配者(=軍師)の名、余は聞き及んでおる」
「ぐ、軍神などと、め、滅相もござりませぬ!」
あわあわと噛み捲る浄三から目を離し、周りを見れば三淵達がきょとんとした顔をしていた。
え、まさか、この風采の上がらぬ小男が? といった風情で。
「然様に高名な御方なのでございまするか?」
「そうだ、与一郎」
俺の言葉が信じられないか?
……うん、そりゃそうだ。俺も小説で描かれていた頼もしさや傲慢さがこれっぽっちも感じられぬ浄三の姿に、もしかしたら勘違いかなと思い始めている処だもの。
「細川与一郎、小笠原又六、眞木嶋孫六郎、赤井五郎次郎、池田弥太郎」
「「「「「は!」」」」」
「其方らは余と同じく、今は名もなき小童に過ぎぬ。だが日々大過なく精進を重ねれば、余は御父上より将軍家の継承を命ぜられるであろう。
さてその時、其方らは如何なる姿で余の傍にある?
三淵の如く直言を恐れぬ雄雄しき男か?
藤堂らの如く一騎当千の兵か?
三好筑前守や孫四郎の如く戦上手の将か?
浄三の如く帷幄にて必勝をもたらす軍配者か?」
浄三の襟から手を離した俺は衆目を集めながら、ゆっくりと立ち上がる。
あ、急に手を離したので浄三が再び、ペシャンコに。
スマンスマン、まぁそれはさておき。
「忠か、武か、驍か、智か……其方らの目指す先は、此処に控えし大人達であると心得よ」
「「「「「は!」」」」」
元気な声を張り上げた近習達の瞳に輝きが宿る。
いきなりキラキラした眼で見詰められ面映く感じている大人達。
そこはかとなくコントじみた空気に包まれた俺達を余所に、エイホーエイホーと工事を再開する又四郎達。
ああ……平和だなぁ。
「世子様が将軍家の御世継ぎさまで、ホンに良うござりました」
何となく気が抜けた思いでいた俺は、出し抜けに投げかけられた長逸の言葉に虚を突かれる。
え? どういう事?
「近しく御言葉を賜る栄誉を受け、世子様に近侍する者達は誠に幸せ者であると某、感じ入りました。然れど……」
満面の笑みを一瞬で引っ込めた長逸は、初めて武人らしい真摯な表情を見せた。
「軽々しく殺気を放つのは御止めなされませ。
世子様が全ての責務を負われる御立場であらせられるのならば、とやかく申す事はござりませぬ。
然れど御身は未だ御世継ぎであらせられ、御当代様ではござりませぬ。
もし無用な波風で血が流れる事あらば、例いそれが必要な沙汰であろうとも、御身が発せられた殺気に端を発するものならば、責務を追うは供廻りの大人共でござりまする。
世子様の御立ち振る舞いは、御身に侍る皆々の生死を司るものであると何卒御心得下さりませ。……差し出口を申しました、平に御容赦を」
垂れた長逸の頭に向かい、俺は今更ながらに軽率な行為に走りかけた事に恐懼した。
そうだよな。
もし俺がうっかりと無礼討ちを命じていたら、将軍家とポンコツ管領の冷戦状態は直接的な武力衝突へとシフトするのは必至だ。
今はまだポンコツ管領の忠実な配下の立場でいる阿波三好党も、敵となるって事だよな。
全面戦争ともなれば武力の乏しい将軍家は必敗確実。
負けるよりも前に手打ちをするならば命を発した俺ではなく、手を下した三淵伊賀守以下全員が揃って腹を切らされる事となるだろう。
安易な不満解消は束の間の無憂でしかなく、後に残るは永遠の悔恨と自己嫌悪だけ。
俺を後生大事に支えてくれる者達を自分自身の手で無為に捨て去ろうとしたのか、俺は……。
「“鳶も居ずまいから鷹に見える”……と、言う事か」
「そは如何なる意味にて?」
「立ち居振舞いが上品であればどんな者でも立派に見える、と言う意味だ。
……余も茨木伊賀も鷹であると思い、思わされておるが。
孫四郎のように真の眼を持つ者が見れば、己が鳶である事にすら気づけぬ戯け者であるのだな」
「いや、然様な事は……」
「否定せずとも良い。然様である……いや、然様也と常に思い、己を律せねば。
然もなくば、余は鳶にすらなれぬままに生涯を終える羽目になるやも知れぬ、な」
軽挙を指摘し、不明を恥じる事を教えてくれた男に、俺は素直な気持ちで頭を下げた。
いつもなら、軽々しく頭下げてはなりませぬ、と諫言をする三淵伊賀守が何も言わないのはつまり、そういう事なのだろう。
下げねばならぬ時に、正しく下げられない頭など無用の長物だ。
そんな不必要な頭では三好三人衆に殺されるまでもなく、他の誰かに討たれてしまうに違いない。
今は潔く頭を下げ、言わずとも良い事を指弾してくれた相手に感謝の誠を捧げねば、俺は死ぬまで阿呆のまんまだ。
「孫四郎よ。今日は其方らに出会えて誠に嬉しく思う。向後も良しなに頼みいる」
俺は腰に手をやり、脇差を鞘ごと抜いて差し出した。
「無銘なれど粟田口吉光の鍛えし物である。良き言葉を捧げてくれた事への褒美だ」
「有難き幸せ。誠に忝き事と厚く御礼申し上げ奉りまする」
“花の御所”の武器庫で見つけて以来ずっと腰に佩いていた脇差。
それを両手で押し頂く長逸は、再び満面の笑みとなる。
「……僭越ながら某が銘をつけさせて戴いても宜しゅうござりましょうや?」
「構わぬぞ。既にそなたの脇差であるからな」
「然らば“金鵄”と」
金鵄って確か……ゴールデンバットの事だよな。
安い葉っぱで作った安い煙草の銘柄と同じってのはあんまりじゃないか、長逸?
「故事を紐解けば遥か古の御世、日ノ本開闢の神武帝が賊徒との戦いの最中に天空より現れ出でてその身を眩く輝かせ、帝を勝利に導いた金色の鵄。
必勝、吉兆の象徴にござりまする。実に良き銘であるかと」
先ほどまで潰れていた浄三が、予備動作なしでガバリと上体を起こすやいなや先程までの噛み癖は何処へやら、立て板に水の解説をしてくれた。
あ、そういう意味なのね。それなら良いか。
「余の軽薄を最初に見咎めたは浄三であったな」
何か御礼になるものをと思ったが刃物は脇差しか佩いてないし……じゃあコレで良いだろう。
「狩野正信が山水を描いた物である」
慈照寺の倉で埃を被っていた八代義政が重用せし御用絵師の手による扇子を、浄三は恐る恐る両手で受け取ってくれた。
「もし其方が孫四郎の下を退転し、余に仕えてくれるのならば軍配を渡すのだがな」
すると浄三は、ひぃっと悲鳴を上げて再び地に這い蹲る。
扇子を持った両手を頭上に掲げたままなので、顔面からのダイブだ。おいおい、大丈夫か?
「世子様、その儀は平に御容赦を」
長逸が浮かべる満面の笑みが凄みを帯びたものに変わるのを見て、俺は即座に空を仰いだ。
「戯言だ、戯言」
ちっ! どさくさ紛れにスカウトしようと思ったが、やはり駄目か。
浄三をゲット出来たら永禄の変対策が出来るかと思ったのに。
ゴリ押しで、とも思ったが……長逸に渡した脇差が抜き身で俺の腹に戻って来そうな気がするので、止めておこう。
多分そんな事態にはならないだろうけど……ならないよね?
その刃は、六年後に怨敵の三好政長に向けて頂戴ね?
敵方武将の香西元成でも良いからさ?
頼むから俺には向けないでね? 本当に本当に御願いね?
とある冬の日。
どこからかピーヒョロロと場を和ます甲高い鳴き声は聞こえないものかと、俺は壊れた首振り人形のようにキョロキョロとし続けたのであった。
因みに。白井浄三が主人公の小説は、『最低の軍師』(著/簑輪諒、刊/祥伝社文庫)です。




