『 公事(くじ)から余事(よじ)まで 』(天文十二年、冬)<改訂>
ふと気になり、wikiで検索して吃驚。
武家政権を<幕府>と言うのは、江戸中期以降らしいとの事。何てこったい。
(※)今回は文中に所謂“差別用語”が含まれて下りますが、差別を助長するものではありませぬ。委細御了解下さいませ(平身低頭)。差別はダメ、あきません。
改訂致しました。誤字誤表記を訂正致しました。御報告に感謝を!(2021.05.23)
坂本滞在僅か一ヶ月で勧修寺さんと共に洛中へ戻った俺達。
一旦はトンチキ親父に引っ付いて “花の御所”へと入ったが、翌日には早々に近習達と東山へ帰る。
留守を任せていた者達の出迎えを受けながら慈照寺の門を潜れば、ホームグラウンドへ帰還した安堵感が腹の底からドッと溢れ出して来る。
狭いながらも楽しい我が家。我が家が一番だよね、やっぱさ。
実際には狭くもなければ、我が家でもない間借りだけれど、そんな野暮は言いっこなしって事で。それにしてもホント、草臥れたわ。
“月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也”とか何とか芭蕉さんが言っていたけれど、洛中と坂本を行ったり来たりの繰り返しがこれからも続くかと思ったら“旅に病んで”しまいそうだよ、全くもう!
例え洛中と坂本の道程が一日とかからぬ距離でも、電車や車ではなく徒歩で移動せねばならぬのだ。正直、勘弁して欲しい。
まぁ俺は子供ゆえに駕籠に乗せてもらったり、武家ゆえに手綱を取られた馬に騎乗したりと楽をさせてもらってはいるけどねー。
出迎えの者達を引き連れて常御所に入れば、他の者達が一斉に頭を下げて“お帰りなされませ”と言ってくれた。
大儀である、と言いかけたが止めて“只今戻った”と言えば、“無事の御戻り誠に恐悦至極”と唱和してくれる。
何とも面映い気分で室内の真ん中に据えられた火鉢の前に腰を下ろせば、留守中にあった事の報告会がスタート。書付を見ながら報告するのは、留守番組リーダーの村井吉兵衛だ。
史実では織田信長に譜代でもないのに側近に取り立てられ、京都所司代を勤めた男。優れた吏僚の萌芽は既に芽生え花開かせている。過不足なく的確な報告を聞くのは何とも心地好いものなり。
暦の上では秋が終わり冬の始まりである時節。
地球温暖化とは真逆の小氷河期である戦国時代は夏の暑さが厳しくない分、冬の寒さは殊更に厳しい。これからの日々、板戸や襖を閉めて外気を遮断しなければ風邪を引くし、下手すれば低体温症で凍死一直線だ。
常御所は天井も高くかなり大きな建物だが、代謝の高い青少年を中心とした三十人からの男が集い、火鉢を五つも置けば十分に暖かくなる。むさ苦しさと男臭さも十分過ぎるけどな!
さてここで、日本の建築様式と住環境を雑に考察してみよう。
日本の屋敷や寺院の建築は、奈良時代から平安時代に移行した途端に大きく変化する。壁に囲まれたものから、壁を取っ払ったものへと。
平安の貴族文化は四季折々の庭を愛でる事を主眼とした為に、屋根の下は柱だけみたいなものだった。様式は神殿……じゃなくて寝殿造りだったか。
天変地異は頻発すれど戦乱が中央から地方へと遠ざかった時代、建物は雅や風雅を積極的に取り入れたのだ。
風景を一幅の絵とすれば景趣を阻害する無粋な遮りなど無用、御簾で十分。春夏秋冬全て壁なし生活、万歳!
夏の暑さが我慢出来ず、風通しの良さを優先させた、という理由もあるらしいのだけど、寒い冬の事は念頭になかったのかねぇ?
底冷え上等の京都盆地で限られた暖房と重ね着のみで吹き曝しの生活をするなど愚の骨頂だろうに。それでも、庶民の家や貧民のあばら家に比べればマシなのだろうけど。
平安時代は何度も疫病が大流行した時代だったと習ったが、恐らく只の風邪でもバタバタと人が死んだのだろうなぁ。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
その後、平安時代末期から戦乱の時代に突入すると、寝殿造りでは身も財産も守る事など出来やしないと漸く人々は気づく。気づくのおっそー。
板戸や襖が御簾の代わりに嵌め込まれるようになり、壁なし吹きさらしの建物は屋敷の一部にまで減少したのだった。
……したのだったけれど、素足にペラペラの衣装で底冷えする京の冬を過せるほどに俺は頑強な肉体じゃない。
自慢じゃないが、文明の利器に守られヌクヌクと育った現代人である俺の精神はヤワっちぃままだぜ、オーイェー!
ダウンジャケットも羽毛布団もガスファンヒーターもセントラルヒーティングもない生活など、いつまでも続けていたくはないと此処に断言する!
ないものはないのだから、どうしようもないと割り切れるほど俺は大人じゃない! って大威張りするのは大人げないか?
この時代の暖房器具は、屋外だと焚き火で室内では火鉢だ。移動時には焼いた石を布で包んだ温石だ。後は重ね着、重ね着、重ね着。それ以上はないし、それ以下だと只々寒さを我慢するだけ。
そう考えれば、転生したのが平安時代じゃなくて助かった……のだろうなぁ多分。
去年は幸い軽い風邪を引いた程度で済んだが、今年も大丈夫だとは言い切れない。
屋外は兎も角として、室内が寒いのは嫌だ。プリーズ・ギブミー綿入れ、綿布団!
三河をはじめとして各地で綿の生産がなされているようではあるが、あくまでも木綿の材料であり、尚且つ軍需物資でもある。丈夫な木綿は帷幄の幕などに使用される重要な素材なのだ。
綿を綿として使える程の生産体制は未整備のまま。平和で安定した社会が到来するまでは、指を咥えて待つしかない。
“作れ!”と命令してハイ出来ました……なーんて権威も力もないからなぁ。
綿の量産体制も何れは整えねばならないけれど、そんな先の見果てぬ将来設計よりもっと現実的なのは必要最大限目一杯の、炭の確保だろう。
洛中で使用される炭の主な生産地は、大原である。ブランド品ならば紀伊半島からもたらされる熊野炭もあるが、日常的に使える物品はと言えば大原女が頭に載せて売りに来る炭となる。
大原女が売りに来る商品には焚きつけに使う柴もあった。
柴など昔話のお爺さんのようにその辺の山へ入れば幾らでもタダで入手出来そうなものだけど、そうは問屋が卸さないのがこの時代。
柴も含め、山で獲得出来る物は全てその地の支配者の物。許可なく採取すれば、問答無用で警備員に殺されてしまう。
タダほど高い物はなく、横着や横紙破りの代償として命を請求されるのが、この時代の日常茶飯事である。ベニスの商人の要求など可愛いものだと思ってしまうよなぁ、本当に。
応仁の乱以降、洛中には戦火で焼かれた建物が廃材となって彼方此方に転がっている。そんな廃材なら勝手に流用させてもらっても良いような気もするが、そうは問屋が卸さない。
廃材だろうが塵芥だろうが、全て土地の有力者の動産になっている。座と称される組合や在地領主、寺院などが見逃す筈がないのだ。
必要とされる物、即ちそれは金目の物なのだから。
現代社会でも契約して光熱費を払わねば電気もガスも使えぬように、電気もガスもない時代の燃料である柴も廃材も、買わなければ些少であろうと持ち出し厳禁となっている。
当たり前と言えば当たり前か。
タダでくれ、だなんてド厚かましい事を言う気はないけれど、毎日使う炭にばかり金を払うのもなぁ。
俺達が常駐している事で禅師に今以上、余計な出費をさせる訳にはいかないし。
幕府から賄い料が出ているとは言っても、炭の余剰使用は俺の我儘勝手だから無駄遣いをしているようで気が引ける。
外見は生まれながらの将軍の息子でも、中身はズーッと小市民であるのが俺様なのだから。
……じゃあ、炭を自作するか?
幸いにして俺が居座る慈照寺は、東山を全部でないにしても領有していた。
銀閣寺の主である惟高妙安禅師が住職を務める金閣寺は、北山一体を境内地としている。
木材とするには不向きだが柴の供給源であり、炭の原材料にしても良さそうな木々が十分過ぎるほどに生えていた。
然らばお次の課題はと言ったら、大量の炭を作る生産従事者の確保と生産技術の取得、つまりマンパワーとノウハウをどうするかだ。
人手の件はあっさりと解決した。周辺に幾らでもいたからである。
東山は、洛中ではなく洛外にある。東山と洛中との境目になっているのは賀茂川(=鴨川)の流れ。その辺り一帯は所謂、河原者の居住地域なのだった。
河原者とは、学生時代に習った“穢多”や“非人”という名称を付けられた人々のカテゴリーに属している。
日本の身分階級は士農工商だと習ったが、実際には違う。
ざっくりと分類すれば、①天皇と上皇を含む皇族、②官位を持つ殿上人とその家族、③無官の士分達、④農民や職人を含む庶民、⑤穢多非人、か。
因みに、武家は②と③に跨っているし、宗教者は基本的に身分階級の枠外に位置しているが①の門跡もいれば⑤の乞食坊主もいる。
非人にしろ穢多にしろ、被差別階級は人の嫌がる賤しい仕事に従事し、人が住みたがらない酷い土地で寝起きする者達の事。正確には、荒地に住まざるを得なかった者達の総称である。
被差別の人達が何故そのような立場におかれ差別されなきゃならないのかという理由は、統治システム・社会制度・宗教上の理由などだろう。
統治者が差別の規定を作り、宗教者が差別する裏付けを与え、庶民達が差別を実行するのだ。
そもそも差別とは、される側ではなくする側に理由がある。差別を必要とする何らかの理由が、差別する側にあるのだと。俺はそう理解している。
ところが不思議な事に世の中の仕組みとして、差別する側が差別される側を保護したり支配下においていたりするのだ。
例えば、清掃作業に従事していた犬神人を支配しているのは八坂社などの有力神社や比叡山である。
清掃作業の内には死穢、つまり行き倒れも含めた洛中の死者の葬送も含まれていた。弓弦を作り商ってもいたので、“弦召”の別称もある。
奈良の興福寺や近江の日吉大社などの支配下にあった、声聞師達。読経、曲舞、卜占などの芸能を生業とし、その一つである大和猿楽からは観阿弥や世阿弥が生まれ出る。
比叡山に仕え雑役や駕輿丁を務めていた八瀬童子は、後醍醐天皇の逃亡を助けてからは朝廷に出仕するようになった。
平安時代の芸能集団である飯母呂一族は蜂起した平将門に従い、将門敗死後は全国に散らばり尼子に仕えた鉢屋衆や、北条家配下の風魔一族となったとか。
忍者と呼ばれる者達も多くは、士分を与えられない地下者として被差別階級の一部とみなされている。
尚、慈照寺の元となる別荘の庭園を整備した庭師の善阿弥もまた卑賎の身であった。土木事業に特化した山水河原者と称されるグループの一員であったのだから。
但し善阿弥はその卓越した技術を八代義政に愛され、相国寺、“花の御所”、高倉御所、興福寺大乗院などの造作にも重用されたのだそうな。
差別問題を考え出すと現代でも解消は出来ていないし、階級制度で成り立っている現在ではどうしようもないが。
ただ判るのは、差別を助長するのは無知と無理解である事だな。
幸い……なのかどうかは判らないけれど、現代の学校で何度も何度も教えられた人権教育の御蔭で、俺には彼ら非人に対する差別意識はない。
全くないと言い切れる自信がないけれど、少なくとも積極的に差別に加担するほど馬鹿ではないし、そもそもここは“四姓平等”の道場だ。
武士も庶民も非人達も、立場の違いによる区別あったとて、差別があってはならぬ場所。
東山に別荘を建てた八代義政も、どうやら差別に無頓着な人であったようだ。でなければ善阿弥を贔屓にしたり、親しく膝を交えたりはしなかっただろう。
八代義政は恐らく、人を身分ではなく中身で判断していたのだろう……だから洛中を離れて洛外の東山に隠遁したのかもしれないなぁ。
「炭の備蓄に関しましては、主税助殿より」
「上申致します」
吉兵衛の隣に控えていた石成主税助が、両の拳を床につきながら徐に語り出す。
「又四郎の申しようでは、東山で使う分としては十分過ぎる程に用意出来たとの事。
世子様の御取り計らいにて頂戴致しましたる入山御免の御蔭をもちまして、東山のみならず北山などでも間伐材……でしたか、間引き致しましたとの事。
来年の春まで何卒御懸念なきようにと申しておりました」
「切り過ぎはいかんぞ、程々にせよ。切り株も余す事なく使っておるな?」
「はい、怠りなく。切り株も細切れにして薪と致しておりますし、切った後には苗木も植えておりますので」
又四郎とは善阿弥の孫で、賀茂川添いの河川敷及び東山一円に住する河原者の頭であった。
慈照寺創建に関わった庭師の家系に生まれた又四郎は、東山全体の管理人みたいな存在でもある。彼に任せておけば、東山が禿山になる事はないだろう。
序でとばかりに北山一帯も又四郎に全て丸投げしているので、問題など起こりようもない。木で足りない分は竹で補えば良いだろうし。
問題は、炭を作る作業であった。
炭とは木材を燃やせば勝手に出来上がる物ではない。炭は作らなきゃ出来ないのだ。適切な工程を経ねば木材は炭にならず、灰と化してしまう。
さて去年の事。
又四郎を呼び出して、炭を作れと命を下した。同じ木を扱うのだからと安易に考えた俺の命を受けた山水河原者達だったが、彼らが扱いに慣れているのは生木。炭など作った事がないのだから、失敗の連続であった。
では専門家を呼んで指導してもらえば、と思ったけれど大原にいる専門家は炭を作るのを生業としているのだ。培い蓄積された炭作りの技術を簡単に教えてくれる筈がないだろうと断念。
辞を低くして教えを乞う事も考えたが、大原の者達を支配するのは三千院で、三千院は比叡山に属する大寺院である。
洛中で政治に携わる者が最も敬遠すべき対象が、比叡山とその周辺だ。敬遠する所以は、ぼったくりを常套手段とする業突く張りだからである。折角蓄えた銭金を、みすみす比叡山になど流したくはない。
然れど室内にて火鉢で薪を焚けば、煙に巻かれて大変な事になる。落ち葉を燃やしても同じ事。煙が出ない燃料は、炭しかない。
さぁ困ったぞ、如何にすべきかと悩んでいたのだが、今年の初夏になり、思わぬ形で仲良くなった人物が難問を解決してくれたのだった。
サー・マザーの兄上の一人、道増伯父さん。
比叡山延暦寺の通称“山門”と対立する通称“寺門”の園城寺の長吏で、熊野炭を生産する熊野三山を支配する検校様だ。
俺が相談を持ちかけたら、今後も一定数の熊野炭を購入する事を条件に炭焼き職人と、切るべき木を見極める達人である杣人を、教師役として派遣すると請け負ってくれたのである。
こうして、材料・人手・技術が揃った結果、今年の夏から慈照寺では炭を生産する事と相成った。万歳三唱!
しかし何処で聞きつけたのか早速、三千院がクレームをつけに来やがったぜ。
犬神人五十人程が薙刀や六尺棒などのアイテムを担いでの賑々しいものだったが、雑木を使った粗雑な炭である事と売り物にしない事を告げれば、直ぐに納得し回れ右してくれた。
近習に供侍に幕府奉公衆の武士達に河原者ら、併せて百数十名での仰々しい応接が良かったのだろう。
やはり話し合いは即時行使可能な武力を背景にして、平和的にシャンシャンとしなきゃね♪
生産体制が整った御蔭で、順調に量産出来るようになった炭。
慈照寺だけでは消費し切れないので、余剰分は全て又四郎達に下げ渡す事にする。
貧困層である河原者達は日々の出費を減らせる上に、余所へ融通する事も出来るので、両手を上げて俺の支持者となってくれていた。
前世では当たり前にあった紙屑や新聞紙があれば、水で濡らして固く絞って乾かして、代用炭でも作るのだが。
生憎この時代は紙自体が貴重品だし、価値のあるリサイクル品だからどうしようもない。焚きつけに出来る程には流通してないしね。勿体ない、勿体ない。
過去に生きるというのは、物の有難さを嫌でも思い知らされるって事なのだなぁ。
閑話休題。
彼ら河原者達には炭の供給と、柴刈り勝手の発布以外にも手を尽くす事を考えている。
それは医療に関してだ。
現代に比べれば衛生的でない生活をしているこの時代、中でも河原者達の生活は御世辞でも良いとは言えぬ劣悪した環境。
このままでは、過去から幾度となく繰り返されて来たように、いつ疫病の発生源となっても不思議ではないし。
だが敢えて言おう、生活圏内での感染爆発など真っ平御免。少しずつでも環境改善を図らねば!
そこで俺は将軍家の主治医である与兵衛や宗桂の吉田家に掛け合い、河原者達にも薬などの医療が施せる体制を構築すべく審議中であった。
吉田家にとっての余禄は、医療行為の実習頻度を上げる事で研鑽という経験値が得られ弟子達の技量の向上が望める事と、山に自生する薬用植物を優先的に入手出来る事。
ヨモギや生姜、山椒、楠、イチョウなど、近代の杉や檜ばかりの植樹林とは異なる当世の雑木林は、宝の山なのだ。
俺も河原者も吉田家の全てが得をする三方良しは未だ端緒に就いたばかりだが、定着すれば誠に喜ばしい限り。
衛生面に視点を戻せば次にすべきは、砂利などを用いた簡易浄水器の設置かな。
この時代の川は上流でもない限り、はっきり言って汚い。
しょっちゅう、人やらケダモノやらの死体がちょくちょく流れて来るのだもの。大雨でも降れば増水して全てを押し流してくれるだろうが、普段は膝下くらいの水量しかないのが賀茂川だ。
清流でない川の水が綺麗である筈がない。
ガンジス川や道頓堀川よりはマシだとしても、清潔とは言い難い鴨川の水を生活用水にしていて健康が保てる訳がない。早く何とかしないとな。
幸いにして、慈照寺は井戸水を使っているので安心だけど、環境改善はまだまだ問題山積みだよなぁ……。
「此方は以上となります」
おおっと、いけねェ。報告を聞き流すところであった。
慈照寺の留守番組は特に問題がなかったようで何より。
顕在的問題児は赤井五郎次郎だけだが、潜在的問題児は何人もいるので少し心配だったけど。全員大人しくしていてくれたみたいでホッとした。
禅師達も厳しく指導をして下さったようだし。何とも有難い事である。
「続きまして、公事についてでございまするが。
大樹様の御使者として鎮西へと赴かれておられました大館左衛門佐様が、四日前に政所へと復帰なされました」
ああ、そうだったな。
大館左衛門佐晴光がトンチキ親父の名代として、遥々九州まで行ってたんだっけ。
豊後国守護である大友義鑑に、肥後国守護職補任の旨を伝達する為に。
将軍側近の最右翼の一人である大館左衛門佐が何故に豊後くんだりまで行ったのかと言えば、五年前に中国地方の王者・大内氏との間での起こった争いに起因する。
サイバー……じゃなくてセイバー何とかという場所を舞台とした大規模戦闘は、九州の代表決定戦みたいな戦いだったのだそうな。
もし大内氏が勝てば、中国地方から九州北部を領域とする化け物じみた大大名へと進化を遂げる事となり、先代をも超える存在になっていたのかも。
関門海峡を制するのだ、瀬戸内海を己の内海にするも等しい。海賊衆も大内氏の手下だし、我が世の春の到来だぜベイベー。
そうなっていれば、尼子経久は失意の内に寿命を迎えていたかもしれず、毛利元就は独り立ち出来ずに国人領主のままで一生を終える可能性があった。
筑前・肥前の少弐氏を弱体化させた大内氏に本拠地の豊後を攻められた大友氏は大ピンチ。
さぁどうするどうなるといったタイミングで介入したのが、誰あろうトンチキ親父さ。
地方では未だ権威の有効期限が切れていない天下の将軍様による仲介に、大内氏は渋々ながら矛を納めねばならなくなり、大友氏は失地をせずに済んだ。
しかも大友氏に取っては有難い事に、九州探題であった渋川氏を大内氏が攻め滅ぼしてくれていた御蔭で、大宰府を含む筑前国への侵食に成功というオマケ付きで。
勢力減衰の危機が一転して、タナボタで枢要地を手にするという焼け太りが出来た大友氏は、それ以後は将軍家と緊密な関係を維持する事に腐心する。
一方、大内氏も負けじと将軍家との誼を繋ぎ直そうと策を講じようとしていたが、尼子氏との戦いが激化した所為で常に後手後手となっていた。
将軍家からすれば、“あ”と言っても直ぐに“うん”と言ってくれない大内氏よりも、“はい何でしょう”と即答してくれる大友氏の方が可愛く見える訳で。
大館左衛門佐の九州下向は、頼りにならぬ大内氏への当て付け含みでもあったのだ。
滝川達は大館左衛門佐よりも先に出発したが、未だに戻っては来ていない。
まぁ行き先が公儀正使の行程よりも長い、九州を越えた向こうの種子島なのだから仕方ないが。
どうか無事に戻って来いよ。頼むぞ、ホント。
「その他でございまするが。西では、大内が尼子攻めにしくじってよりは小競り合い程度になっているとの由。他方、東では北条の威勢が益々盛んとなっておるようにて。
奥州では伊達を中心に相変わらず騒乱が続きおり、いっかな治まる気配は見えぬようです」
吉兵衛が苦笑いを浮かべれば、室内に座する他の者達も似たような面持ちをしている。多分、俺も同じ表情をしているのだろうな。
大内氏や北条氏の事は政所がきっちりと情報収集してくれているので良いが、遥か遠くの奥羽の事は情報がとぎれとぎれでしか伝わって来ない。
だが報じられた内容を繋ぎ合わせてみれば、“ダメだこりゃ”以外の言葉がでてこないぜ、もうどうしようもない。
どのくらい“ダメだこりゃ”であるのかを、少し整理してみるとしよう。地方のアレコレに通じておくのも、将軍家の務めだからね。
伊達氏十四代当主の稙宗は、大崎氏が世襲していた奥州探題職を奪取し、大崎氏のみならず葛西氏や最上氏などの有力国人領主を膝下に組み込み、我が世の春を謳歌していた。
していたのだが、ちょっとやり過ぎてしまったのだ。
越後守護の上杉氏や関東の相馬氏にまで影響力を広げようとした結果、軋轢を生じさせていた嫡子の晴宗や家臣団のクーデターを起こされてしまったのである。
当主解任、幽閉の身となったのが去年の夏の事だが、奥州の巨魁はそんな事で簡単に逼塞するようなタマじゃなかった。
手下の手引で幽閉先から脱出するや他の国人領主を糾合し、嫡子達を敵に回して諍いを始める。
一昨年の夏、信玄こと武田晴信は父親の信虎に反旗を翻すや、武田家当主であった信虎を他国に追放して甲斐を掌握したが、同じ事を企てた伊達晴宗は上手く収める事に失敗したのだ。
信虎よりも稙宗の方が戦国武将として強靭過ぎたのだろうか?
いや、決してそうではないと思う。
関東よりも遥かに広い奥州ではあるが、地域の規模に反比例して世間が狭すぎたからだろう。
武田氏のクーデターに比べれば、伊達氏のクーデターは横溝正史的世界で描かれるような親族関係グッチャグチャのドロドロとした御家騒動であるからだ。
奥州のみならず北関東の武士達、相馬氏やら佐竹氏やらも巻き込んだ騒乱は、終着地点が見えない泥沼の様相。周回遅れのプチ応仁の乱となりそうな塩梅。
……確か、天文の乱だったっけ?
詳細な分国法である『塵芥集』を作成したりもした優秀な為政者でもあったのだけどなぁ、稙宗は。十代義植から偏諱されたのが悪かったのかもね。
しかし、本当に戦国時代だよなぁ。比較的落ち着いていた東北がグチャグチャになった事で、平穏な地域がなくなってしまったよ。
どうするどうなる日ノ本?
政所に寄せられる守護や国人領主達からの文と、禅師を頂点とする全国に張り巡らされた臨済宗のネットワークで集ってくる情報。
その両方にタッチ出来る俺は、今の日本の現状を最も良く知る立場だ。
“どうなる?”をいち早く知る事が出来るのは素晴らしい事だけど、実力がないだけに“どうする?”が出来ない身でもあるので頭痛の種だけが増えて行くばかり。
ああ本当に頭が痛いわ、全く何とも世知辛ェ。
吉兵衛による報告を聞き終えた俺は、ささくれそうな気を静めようと立ち上がり板戸をカラリと開けて庭を眺める。
季節は移ろい、間もなく冬が始まる……いやもう始まっていた。
木々を揺らす風は木枯らしから北風へと入れ替わりつつある。吐き出す溜息も、間もなく白いものになるだろう。
何れ雪が降り出せば戦は小康状態となり、降り積もれば自然休戦となる。防寒具が未発達のこの時代、雪中で合戦するのは英雄的ではない自滅行為だ。
言い換えれば、稲刈りが終わり蓄えられた収穫物を狙っての強盗的な争いが最も激化するのが、冬の入り口である今。全く難儀な事だ。
庭から忍び寄る冷気を浴びて頭が冷えた俺は、身を竦めながら板戸を閉める。火鉢の温もりのもたらす誘惑に、今は身を預けるとしよう。
振り返れば、俺が生まれた頃から忠節を尽くしてくれている古参の者達と、各地から集った新参の者達が同じ屋根の下で、同じ顔をして俺を見つめていた。
この空気、何か言わないと締まらないよなぁ。
「……千々に乱れる今の日ノ本は、古の唐土にあったという戦国の世か漢王朝の末期の如く、割拠する群雄の欲深さは尽きる事なし。
余も、うかとすれば貪狼の如き者に頭から喰われてしまうやもしれぬ。
何せこの通り、ひと呑みにされても可笑しゅうない、小身であるからな」
冗談めかして言えば、座がドッと沸く。大阪人の定番である、己の身体的特徴をネタにした身を切るギャグは、時代を超えて通じるのだな。俺は全然面白くないけどな。
……笑っていないのは、近習では与一郎と弥四郎の兄弟に多羅尾助四郎、小笠原又六と三好神介だけか。
口を真一文字に結んでいるのは与一郎と弥四郎。生真面目が信条の兄弟だけに、笑うに笑えぬのだろうな。
後の三人が眉を顰めているのは、現状認識が出来ているからだろうか。だとすれば流石は名の知れた忍者の家の子と、将来の細川家の家老と、当世の大家の子息だな。
大人達は全員が笑っている振りをしていた。
三淵や藤堂や田中らの肩の揺らし方のわざとらしさには本心から肩を竦めてしまうが、不器用さが彼らの美徳であるから良しとするか。
「故に余が頼みとするは、その方らである。向後も宜しく頼む」
氏素性も年齢も違う者達が、一斉に首を垂れる。俺も又、祈るような気持ちで頭を下げたのだった。
それから十数日後の事。
朝廷からの使者が、例によって勧修寺さんだけど、トンチキ親父の元を訪れて天皇の勅命を申し渡されたそうだ。
「賀茂川の水を禁苑(=今の神泉苑)へと引き入れよ、との御諚にございまする」
「ほう」
慈照寺の会所で平伏する伊勢伊勢守の告げる内容に、俺は首を傾げながら間抜けな相槌を打つ。
「政所も掛かりが大変な事だな」
賀茂川の水を禁苑に引くとなれば、結構な土木事業だぞ。しかもそれが天皇からの勅命となれば、絶対に成し遂げねばならない。
“将軍家、頼み難し”と断じられては後々が大変だ。出来ませんでした、失敗しましたじゃ通らないぞ。
今の朝廷に金があれば良いのだろうが、残念ながら公儀と同じく素寒貧、鼻血も出ない懐具合も一緒である。いや、大内裏は“花の御所”よりも規模がデカイ分、朝廷の方が大変だよな。
もし貯えが十分にあったなら、織田信秀の献金がなくとも塀の修理くらいは出来ただろう。それすら出来ぬ、沈む夕陽よりも真っ赤っかな赤字財政。
つまりだ。新たな水路を造成する工事費用は全額、公儀持ちって事だ。
逼迫の二文字が刻印された公儀の財政の何処にそんな金がある?
あったら、こんなに弱体化してないってばよ!
みんなビンボーが悪いんや!……などと叫んでみたところで勅命に近しい御下命が撤回される訳でもなし……これは恐らく、職務怠慢が目に余る将軍家へのペナルティーって奴か。
自業自得だ、仕方ないな。伊勢も大変だね、政所執事として頼りない将軍の尻拭いをしなきゃならないのだから。
「そこで世子様の御助力を賜りたく、罷り越した次第にござりまする」
え!? 何で俺に!?……と、思ったのは一瞬の事。直ぐ様、伊勢がここへ来た理由に思い至ったからだ。
「河原者達への口利きか?」
「左様にて」
賀茂川に関わる事とは即ち、河原者達の生活圏に関わる事。彼らの居住する地帯で穴掘って水路を作るなら、了解を取り付けるのは当然の事。
でなきゃ、一揆の切っ掛けとなる。
それに炭を作るのはまだまだズブの素人でも、土木工事はお茶の子さいさいお手の物だしな。
今の公儀で、最も河原者と親密な関係を結んでいるのは……俺だよなぁ。
やれ仕方ない、又四郎に協力要請するか。
「承知した。委細任せろ」
「忝く存じまする」
俺が二つ返事で請け負うと、伊勢だけじゃなく彼に付き従って来た和田弾正忠惟助や蜷川大和守親世の二人も、辞を低くした。
「それで褒賞は如何程なのだ?」
「……その件でござりまするが」
「まさか、タダ働きをさせよと申す心算か?」
「…………誠に面目次第もなき事にて」
「謝るな……内々の懐具合など疾うに知悉しておる」
冷えてきた室内で滴るほどに汗を掻く政所の三人から目を逸らし、顎に手を当て考える事暫し。幾ら知恵を絞っても、無い袖は触れないよなぁ。
金融業者……この時代で言えば比叡山とかだが、あんな業突く張りから金を借りたら碌な事にならないし……。
「銭は有る者が出すべきであろうな」
「……世子様が用立てて下さいますので?」
「何故に余が出さねばならぬ。余は将軍家世子とは申せ、政の一員ではないぞ」
「然らば何方が?」
「伊勢よ、政の一翼を担っている者がおるではないか」
「……まさか」
「然様、そのまさかである。六郎に出して貰えば良いではないか。
彼奴は京洛を鎮護する細川京兆家の当主であり、政の重職たる管領職の身分ではないか。
下された御諚を大樹と共に有難く拝受すべき立場であろうが?」
「……お聞き届け下されましょうや?」
「伊勢よ」
俺は満面の笑みを作ってみせた。
「聞かねば、不届き者として処罰すれば良いだけではないか。とは申せ、処罰など出来はせぬが。
然れど、である。
少なくとも朝廷に、細川は不忠者なりと喧伝する事は出来よう。世間も、京兆家の体たらくを知れば、さぞや面白がって吹聴するであろう。
然れば、六郎と相争う者には追い風となるやもしれぬ。
泉州にて逼塞しておる者も、六郎めの悪評を聞けば手を打って大喜びするであろう。
何、彼奴の事だ。今申した事くらいは即座に解するに違いない。
誰ぞ弁舌の優れたる者を使者として遣わせば、端金でございますが、と喜んで銭を積み上げよう。
誰よりも面目を保つ事に腐心しておる男が、六郎だからな」
俺の申し分が納得出来たのか、伊勢達はホッとした表情になる。
「公事はその方らの職分。弾正忠も大和守も伊勢に合力し、遺漏なきを旨とせよ。余は裏方に徹する故に……余事は任せよ」
失敗したら、その時の事さ……と言いたくないので、ガチで頑張るとしよう!
さて、何から頑張れば良いのだろう?
同時代の一次資料である『御湯殿上日記』にある、朝廷が足利義晴に賀茂川の水を禁苑に引く事を命令した、といった記述に準拠しました。
ネットって便利ですね。知りたい事から知らなくても良い事まで、調べられるのですから。
尤も、肝心な事は判らないってのも多いですが。