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『 湖南・ザ・グレート 』(天文十二年、秋)<改訂>

 一部を訂正致しました。(2021.04.18)

 誤字誤表記の御指摘に感謝を!(2021.04.30)

 近衛家から帰宅して一ヶ月が過ぎたが、俺の生活状況は大して変わらなかった。

 それはまぁ当然といえば当然の事。

 21世紀と16世紀が同じスピードで物事が動く筈ないし。

 それでも一ヶ月が二ヶ月になり三ヶ月となると、チラッとだけど変化の兆しが見え出した。

 変化の一つ目は、滝川達が種子島へと向かった事。

 堺の天王寺屋が仕立ててくれた船を港で見送る事が出来なかったのが、少しだけ心残りなのだけど。

 行ってみたかったなぁ、堺。

 出迎えの時は是非とも、とは思うけれど堺周辺がもう少し安全にならないと無理だろうな、きっと。

 本能寺にも行ってみたいし。

 そうそう、本能寺といえば驚きの事実に仰天したっけ。

 室町時代に転生して驚いた事は数限りがなくあるが、その内の一つが本能寺は現在京都になくて堺にある事だ。

 理由は俺こと菊幢丸が生まれた天文五年に起きた所謂“天文法華の乱”で比叡山の僧兵や宗徒と六角氏の軍勢に焼かれ、堺の顕本寺に避難しちゃっているのである。

 その上更に朝廷が京都における日蓮宗の活動禁止を布告、禁教令が出されたのだ。それが解かれたのは去年の事。未だ引っ越し仕度が整わぬ本能寺は、洛中に帰還していないのである。

 種子島を布教の地にしている本能寺に行けば鉄砲の事は何とかなるんじゃないかと思っていた俺は二年前の夏、そんな事を知らずに本能寺の跡地を訪れ“なんじゃこりゃ!”と叫んだのも今では良い思い出である。そんな訳ないが!

 それにしても、だ。

 俺の思いつきで始まった今回の派遣計画、路銀を含めた費用は過分に用意出来たのだけは安堵の二文字だ。

 十分過ぎる程に準備出来たのには理由がある。二つ目の変化がその理由だった。

 惟高妙安禅師をはじめとする慈照寺での文化サロンへの参加者が、更に増えたのである。

 先ずは覚譽伯父さんに道増伯父さん。大林宗套師の弟子である笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)師。相国寺の次期住持に内定している仁如集尭(にんじょしゅうぎょう)師など。

 覚譽伯父さんと道増伯父さんが参加してくれた理由は、義俊伯父殿だけ面白い事をしているのはずるい、である。……子供か!

 笑嶺師の理由も似たような感じで、師匠が楽しんでいる事を自分もやってみたいからであった。この時代の知識人は、本当に貪欲だよなぁ。

 仁如師は子連れでの参加であった。子連れと言っても血を分けた子ではなく、梅丸って名の小僧っ子だ。

 俺や池坊専好や近衛晴嗣と同い年の天文五年生まれで、性格は少々引っ込み思案のようだ。その内、懐柔……仲良く出来るといいなぁ。

 参加者が増えれば謝礼も増える! 左団扇生活万歳!!

 とはいえ、常に新しい何かを提供し続けなければいけないのだから、大変ではあるが。

 教養人を飽きさせない為には俺が一方的に教えるのではなく、全員参加型の遊びも必要となる。

 その遊び、『いろは教訓』がつい先頃に完成したのだ。

 禅師や伯父殿達、何人もの上級の僧侶が知恵だか智慧だかを出し合っただけあり、中々に素晴らしい出来であった。

 僧侶の皆様方は出来上がった『いろは教訓』をそれぞれが住職を務める寺院にて修行僧の教育に使うと言われたが、他にも使用許可を求める人がいたのである。

 伯父殿達が自慢げに吹聴したのを聞きつけた久我晴通叔父さんが、その人だった。

久我家が本所として支配する当道座で使わせて欲しいと、慈照寺まで申し出に来られたのである。

 当道座とは、眼病などで中途失明した視覚障害者である“盲人”の人達が属する互助組織だ。

 足利尊氏の従兄弟である明石検校が、雑多であった『平家物語』の定本を作成し琵琶法師の頂点となった事を契機として開かれた座である。

 村上源氏を祖とする貴族達の庇護下にあった琵琶法師達は以降、全員が当道座に属する事となり、公儀の裁可を受けた源氏長者である久我家が元締めとなったのだ。

 琵琶法師達の新たな演目として『いろは教訓』と幾つかの童謡の使用を所望された久我の叔父さんに対し、俺は快諾を即答……はしなかった。

 だって、俺の独力じゃなく皆の力で出来た物なのだもの。

 禅師に如何すべきかと相談したら、許諾の権限は俺にあると言う。

 師匠と弟子による共同作業であっても使用権……この場合は著作権と言うべきか、は師匠に帰するのだとか。

 それではと、俺は一年契約で使用を許可する事に。

 契約延長は要相談でと伝えれば、身内に甘くないのは良き事よと久我の叔父さんは苦笑いされた。

 多少安めにしたから勘弁してね。

 さて『いろは教訓』が世に流布すればどんな変化が世に現れるだろうか?

 ……うーむ、さっぱり判らん。

 作為にしては微妙の極りだから正直見当がつかない。だが期待している事はある。

 それは一般大衆の持つ信仰心の変化だ。


 室町時代に一向宗が大流行した一番の理由は、その教えが平易であったからだと俺は理解している。

 毎日が不安で仕方がない者達にとって、南無阿弥陀仏の六文字さえ唱えれば死んだら極楽に行けるから心配するな、というのは実に魅力的な提案だったのだと思うからだ。

 仏教が日本に伝来した当時、新しい神様がやって来た程度の認識だったと高校時代の授業で聞いた事がある。

 だがその新規参入の神様は在来の神様には出来ない事が出来ると思われたのだ、とも。

 新しい神である仏に日本が、正確には朝廷が求めたのは鎮護と鎮魂であった。悪霊を封じ、国家の安寧を願ったのだ。

 飛鳥・奈良時代には国家と朝廷の仏教だったが、平安時代になった途端に公家達が私物化する。

 平安時代といえば末法の世だと思われた時だ。公家達の行いも仕方ないのかもしれない。

 そして約四百年の時が過ぎ、武士が台頭した鎌倉時代は所謂“新仏教”が産声を上げた時代でもある。

 新仏教の諸派は、公家達が独占していた仏の教えを武家や庶民の求めに応じて救済を提供するのだけれど、理解まではなされなかった。

 日本に伝来してからこの方、仏教は理解出来る者だけが救われる教えとして知識層である上層階級にのみ流布したものだったからだ。

 学び考えなければ、救われないのである。

 新仏教の諸派は、学ぶ前に行動せよ、考える前に感じよ、と教え諭すも下層階級への浸透は実にゆっくりとしたものだった。

 ところが一向宗は全ての前置きをすっ飛ばして、ただ信じよ、とだけを広く世間に喧伝したのだ。

 信じる者は救われる、必ず極楽へ往生出来る。何と判り易い教えだろうか。

 イエズス会が広めた教えが馬鹿受けした理由も、似たような感じであると思う。

 最新の技術をもたらす南蛮文化との接触も勿論だが、決してそれだけではない筈だ。

 既存の仏教では救われないと思った人々が、新しい救済を求めた結果が一向宗の隆盛とキリシタンの誕生に繋がったのだろう、と俺は考えている。

 では既存の仏教が一般大衆へ、大きく歩み寄る方針を採ればどうなるだろうか?

 しかもお高くとまった比叡山ではなく、権威がありながら下級武士にも身近な存在である禅宗の寺院が間口を広げ、ハードルを下げれば。

 もしかしたら一向宗とキリシタンの増加に掣肘をくわえる事は出来ないだろうか?

 ……百年河清みたいな夢物語以下の話になるかもしれないけれどね。

 マルチン・ルターの宗教改革がヨーロッパで一大ブームになったのは、活版印刷の技術があったからだと授業で教わった。

 ラテン語の読み書きが出来なければ理解出来なかった聖書が、ドイツ語などの自分達の言語で読めるようになったからだ、と。

 一向宗の中でも本願寺の一派が最も勢力を誇った理由の一つに、親鸞上人が残された直筆の文を本願寺第八世の蓮如上人が手書きコピーして、配下の寺院や有力な信者に配り捲ったからだと、ある小説に記されていたっけ。

 判り易い言葉で記された書物や文は、信者獲得の最良の手段であるのは今も昔も変わりやしない。現代ならばキャッチコピーがそうなのだろう。

 直ぐに理解され、心に残らなければ、どれだけ素晴らしい教えであろうと時間の波に流され歴史の地層の中に一瞬で埋もれてしまうのだ。

 宣伝活動は的確に適正にやらねば。

 久我の叔父さんの申し出は、俺からすれば渡りに船であったのは内緒の話。

 当道座の琵琶法師達が仏教を平易に説く『いろは教訓』を彼方此方で歌ってくれれば、少しでも歴史は変わるのかもしれない。

 出来たら、十年以内に何がしかの手応えがあればいいなぁ、二十年以内でもいいけど。

 天にまします我らが神よ、俺の人生が絶体絶命となる前に変化が現れますように!

 ……ホトケになりたくないから仏教の行く末を神様に頼むのはどうかと思うけど、縋れるなら何にでも、それこそ藁やイワシの頭にでも縋りたいのだから仕方ないよな、ホント。

 だって信仰心とは、実利の土壌に恐懼を肥料として何となく育ち、切実さで花を咲かせるものだもの。



 そんなこんなで今日も今日とて琵琶湖を望む館の縁台に正座しながら、俺は遠く輝く夜空の星に願いだか呪いだかをかけていた訳で。

 富良野の大地にピッタリなスキャットが脳裏を木霊するのは、仕方ないよなアーアーアー……秋風が目に沁みるなぁ。

 何故に坂本の町で、憂鬱な気分で星を眺めているのかと言えば、例によって例の如くトンチキ親父の所為である。

 どうやらポンコツ管領に対して何か不服があるらしい。

 不服ねェ……そりゃあ不服しかないだろうさ。何せ不服が烏帽子被って直衣姿で踏ん反り返り、金切り声を始終上げているような輩だもの。

 初めてあのキーキーした声を聞いたのも、二年前の此処でだったっけ。耳が痛いを物理的に体験した時は、疎ましいではなく本気で殺意を覚えたなぁ。

 殺せるものなら殺しとけば良かった。殺せなかったから今も元気に畿内でキーキー言うてるのだけれど。

 不安定な足利将軍家を支える振りして足を引っ張り続けているロクデナシ野郎の細川六郎なのだから、幾ら親父殿がトンチキでも不服に思わない方が不思議だよな。

 然れど、夜郎自大のポンコツ管領が支持してくれなくなれば、将軍位は阿波にいる平島公方に自動的に委譲されてしまう。

 そうなれば流れ公方と称された義稙と同じ暗中模索の日々となるし。

 人生五里霧中のトンチキ親父も実は結構苦労人なのだなぁ、と上から目線で生暖かく見守ってやらねばなるまいか……あー面倒くせェー。

 そんな風に先ほどまでは思ったりもして、トンチキ親父を励ます会の宴席に連なっていたのだけれど、あまりの酒癖の悪さに辟易して逃げ出して来た俺である。

 宴席は、勅使饗応が正式名称だったのだが。

 ある種の恒例行事と化しつつあるトンチキ親父の近江国への逃避行。

 付き合わされる俺も配下の者共も半ば諦観の域に達しているのだけれど、大権を委任している朝廷からすればそう度々留守にされては困る訳で。

 本音はきっと、将軍がトンズラこいてんじゃねェーよ、だろうが。

 今日の昼頃に、武家伝奏役の御公卿さんが態々洛中から坂本くんだり迄お越しになられたのだ。

 名は、勧修寺尹豊(かじゅうじ・ただとよ)。猫背で陰気な面した将軍様とは対照的に、矢鱈と爽やかオーラを振り撒く人物だった。

 漫画的表現ならば微笑まれる度に口元から覗く白い歯が、ミラーボールのようにキラキラと輝く系のナイスミドル。本当にトンチキ親父とは正反対。

 そんな見かけも恐らく性格も正反対な二人なのだが、妙に馬が合うらしい。

 今夜の将軍様は普段の機嫌の悪い仏頂面ではなく、不機嫌ではない仏頂面をしている。声に険がなかったのがその証拠。

 快活に話す勧修寺さんに、ボソボソと返事を返すトンチキ親父。

 急須に似た形状の黒漆塗りの銚子が二人の間を行き交い、満たされた二つの杯が次々に干されて行く。

 食わずに飲むのは体に悪いですよ。ウコンは飲まれましたか? 肝機能が不良気味の人が摂取すると、逆に宜しくないそうです。お酒を暴飲するよりウコンを過剰摂取した方が、極楽に早く逝けますよ?

 顔で笑って心で悪態つきながら夕餉の膳をチマチマと突いていたら、いつの間にやらトンチキ親父が末成(うらな)り顔を真っ赤に茹で上がらせていた。

 そして始まる愚痴、愚痴、愚痴のオンパレード。

 最初の愚痴は細川の、次の愚痴は父親への、最後の愚痴は世の中を。

 曰く、六郎めが余を蔑ろにしおって!

 曰く、父上が阿呆だから余は斯様に苦労ばかりしておるのだ!

 曰く、世の者共が将軍家をいっかな大事にせぬは不忠なり!

 四方八方を口汚くディスり捲るトンチキ親父。その情けない有様を宥めたり煽ったり酒の肴にしたりしつつ、笑顔を絶やさぬ勧修寺さん。

 付き合いきれねー。

 配下にした甲賀出身の小者に教わっていた“忍法雲隠れの術”、要は息を殺して気配を隠す術だけど、を駆使して俺は宴席をスルッと抜け出し今に至る。

 ああ、全く。

 子供の立場からしてもオッサンの目から見ても、問題だらけの身内を持つと精神力がゴリゴリと削られて敵わない。何とかならないものか!?



「御到来の砌、大樹様の御心は如何許りかと大層案じましたが。

 今宵の御姿を拝し奉り、大樹様の御気色も何とか穏やかになられ誠に宜しゅうございましたな」


 人払いをし、頬杖ついてやるせなく星を見上げていた俺は、出し抜けに背後から発せられた渋い声の方へと視線をずらした。

 そこにいたのは、宴席では俺の直ぐ近くに座していた人物である。

 外見は渋い色柄の大紋をピシッと着込んだ中肉中背の中年男なのだけど、身に纏わせた空気は迫力満点だ。

 この時代の平均身長は現代人の感覚からすればかなり小柄なのだが、何十年も常在戦場生活をしてきた人物が醸し出す雰囲気は半端ねェ。

 微笑まれただけなのに、尾てい骨の辺りから震えが背筋を昇って来るよ。

 人を殺す事に躊躇いを持たぬ人間って、何気ない佇まいからしても常人とは違うのだなぁ。

 考えてみれば。

 室町末期の戦国時代に来てから大夫経つのに、戦国大名と間近で接するのは今回が初めてなのかもしれない。

 ポンコツ管領?

 ああ、そうか、認めたくないがアイツも戦国大名だったなぁ。世の戦国大名達に謝りやがれ、と罵倒したくなる事実だよね。

 それはそれとして。

 もしかしたらこれは、又とない貴重な機会かもしれないぞ?

 いざ、正真正銘本物の戦国大名と第一種接近遭遇だ!

 俺は無遠慮にまじまじと渋い風情の中年男を見詰めた。そりゃもうじっくりと、とっくりと。


(それがし)を計っておられまするのか、世子様」

「まぁ、然様だ」

「……如何でございましたかな?」

「其方が余の父であれば幸いであったのにと、そう思うた」


 扇子を僅かに広げてそっと声を乗せれば、六角弾正少弼定頼は真ん丸に両目を見開いた。


「……戯言だ、聞き流せ」


 扇子を閉じて腰に戻した俺は、再び渋面で頬杖をつく。ああ本当に、多少横暴でも良いから頼り甲斐のある保護者が欲しいよ。


「……戯れが過ぎまするぞ」

「然れば本心で、同じ事を申そうか?」

「いや、それは」

「余がもし其方の子であれば、六角の家をこの先百年は保たせる事が出来るのであるが……返す返すも残念な事よな」

「ほう……それは又、聞き捨てならぬ御言葉にございまするな」


 先ほどまでとは比べ物にならぬ威圧オーラを撒き散らしだした六角弾正に、ちょいとビビるが……小便を洩らす程じゃあない。

 恐怖感で言えば、サー・マザーと近衛家の皆さん方の方がよっぽど恐ろしいからな!


「気に障ったか?」

「大いに」


 虚勢を全開にして姿勢を正し向き直れば、六角も同じく居住まいを調えて俺に正対する。

 スッと細められた目に殺意は感じられないが、侮りは許さぬといった色に染められていた。


「然れば訊ねよう」


 前から抱いていた疑問をぶつける良い機会だしな。エロイムエッサイムエロイムエッサイム、我は求め問い質したり!


「其方は、近江守護である。相違ないな?」

「相違ござらぬ」

「なれば何故に近江の全てを掌握しておらぬ?

 どうして江南のみで満足しておるのだ?」

「…………それは」

「江北には昨年まで浅井備前がおった。だが戦上手であった彼の者は死に、今は戦下手の新九郎に代替わりをしておる。しかも田屋新三郎とか申す義兄と争っておるそうな。

 今の江北など其方には、目の前にぶら下がった熟柿のようなものではないのか?」

「生憎、京極氏がおりまする」

「今の京極一党にどんな力がある?

 そもそも近江源氏佐々木氏の嫡流は其方、六角氏ではないのか?

 嫡流なれば傍流の果てである京極一党如きに遠慮する必要があろうか?」

「…………」

「ああ、そうか……もっと北、越前守護の朝倉が気がかりであるのか?」


 ありゃ、核心を突いてしまったか。六角弾正の閉ざされた口の端が微かに引き攣るのが見えた。


「余は朝倉の当主の力量は知らぬが、太郎左衛門尉教景と申す老将の事は伝え聞いておる。

 戦上手の猛将であるとか。

 近江国旗頭である其方が江北を牛耳らぬのは、朝倉と境を接したくないからか?」


 すると六角弾正の口元が緩み、吐息がフッと洩れる。


「老将は其方よりも年長であるから何れ死ぬであろうと思うておるのかも知れぬが、彼の者は中々にしぶといぞ。

 少なくとも……あと十年は死なぬであろうな。

 彼の老将が死ぬのを、グズグズと十年も待ち続ける程に其方が気長者であるならば、余はこれ以上何も申さぬが」


 断言しよう。

 教景こと宗滴は朝倉氏現当主の弾正左衛門尉孝景が死んだ後は義景、朝倉最後の当主に仕えるのだ。

 そして尾張一国の統一に邁進する織田信長の才能をいち早く見抜き、死ぬ間際に信長の行く末が見たかったと遺言したという逸話を残すのである。

 喜寿を超えても戦場に立ち続け、出陣中に病に倒れて死ぬのが朝倉宗滴という男なのだから。

 戦国時代に親しみ、ゲームをしたり本を読んだりする者にとっては常識中の常識を開陳する俺を、六角は薄目で見下ろしている。

 視線だけで人を殺せそうな鋭い眼差しで。


「いやに、はっきりと申されますな」

「ああ、御教示を賜っておるからな」

「ほほぅ、何方にございましょうや?」

「余の夢に現れ下さった、夢窓疎石国師にだ」


 嘘だよ、ゲームや解説本で得た知識だよ。


「余は様々な夢を見る。等持院殿(=初代尊氏)をはじめとする足利家父祖の方々も、夢の中で余に様々な事を御教え下さった。

 生前、等持院殿を教導なされた国師も度々、余の夢に御出でなされ、未熟な余を叱咤下される。

 有難い事よ。……有難いが、毎晩のように御出で下さるのは難儀な事でな。

 確か国師は其方、佐々木氏の父祖に連なる者であったな。

 ならば、其方から国師に手控えてくれるよう意見して貰えぬか?」

「それは些か……」

「戯け者の阿呆な童子が口走った放言と思うか?

 思うたならば聞き流してくれても良いぞ」

「聞き流しは……出来ませぬな」

「トンチ……いや、余が父である大樹も其方を頼みにしておる。

 尤もな事だ、其方がおらねば大樹も余も“花の御所”ではなく何処ともしれぬ山野のあばら家住まいをしておったのかも知れぬ身である故、な。

 なればこそ、武家伝奏の饗応役を大樹は其方に任せた……頼んだのであろう。

 朝廷と将軍家を繋ぐ大事な御方の接待を、な。

 余も同じく、真の近江守護である六角氏を頼みにしておる」


 何せ、歴史通りならば三年後の天文十五年に元服する俺の烏帽子親が、目の前にいる六角弾正なのだから。

 彼がいなければ、俺は将軍になれないかもしれないのだ。


「其方が浅井を潰し、朝倉と対峙する気になってくれれば背中が安心なのだがなぁ」

「京極めは、如何致しまするや?」

「余が引き受けよう。

 直臣に取り立てそれなりの官位を授け、山城に相応の土地を与えれば収まるのではないか」

「世子様に、それが御出来になりましょうや?」

「即座に出来るか、と問われれば無理であるとしか答えられぬ。

 少なくとも余が将軍とならねば、何も出来ぬな」

「……御身が室町を統べる身になられたとて、然様な事が誠に出来ましょうや?」

「出来る。いや、してみせよう……余と其方の家の為にも」


 俺は虚勢と空元気を総動員して、胸を張った。


「……さて、失念致しておりました。世子様には仁木家の事で強か御世話になりました事の御礼を申しておりませなんだ。

 先頃は仁木家に連なる者共を御拾い下さいました事、遅ればせながら厚く御礼申し上げまする」


 六角弾正が大袈裟な仕草で床に両手を就いて、深々と頭を下げる。


「重ねて、良き吉祥の卦、吉夢を御教え下さいました事、何よりも頼みいるという誠に忝き御言葉を下賜下さいました事、この上なき喜びに存じまする。

 これよりは六角弾正、世子様より受けし御恩を終生忘れる事なく誠心誠意励む所存にございまする」

「嬉しき言葉を貰うた事、余も有難き事である。

 其方の誠意と忠義を裏切らぬよう、余も尚一層努める所存なり。

 六角氏の益々の弥栄の障礙とならぬように精進致すが故に、今後も宜しく鞭撻を頼みいる」


 こちらも頭を下げ、二十程数えてから顔を上げれば渋い中年の朗らかな表情がそこにあった。

 全面的に信用して良いかどうかは人に尋ねれば意見が分かれるかもしれないけれど、近衛家と同様、敵対しないでくれるだけでも俺には御の字だ。

 何せ相手は歴戦の強豪、喜んで敵には回したくないのだもの。

 もし仮に、ポンコツ管領の与党である六角弾正が現状の立場から多少なりとも消極的になってくれれば万々歳。

 三歩譲って俺の味方になってくれなくても良い。俺の敵に回らなければ良いのだ。

 三好長慶が独立した戦国大名となる切っ掛けは、江口の戦い。

 史実では、その合戦において六角弾正は長慶の敵であるポンコツ管領に与力するのだ。

 今夜の事が起因となって、史実が変われば嬉しいけれど。

 出来れば六角弾正のみならず、一族から家臣団までをもを味方にしたいよなぁ。

 味方にするには信用が一番大事。

 相手の信用を得たいなら、こちらが先に信用しなければってのが人の世の倣いだとか。

 海千山千の戦国大名相手に舌先三寸の詐術が通じる程、世の中そんなに甘くない。

 現在の俺の武器は、将軍家の跡継ぎって立場だけ。それがなければ只の子供。

 子供に出来る事など、たかが知れているのだからなぁ。

 信用の代価が裏切りだったとしても、恨む何ておこがましいに違いない。

 人を見る目が俺になかったのだと、諦めるしかないのだろう。……恨みたいし、諦めたくはないけれど。

 だが今は未だ雌伏の時だ。

 その場その場で出来る事に挑戦し、しくじったら反省して成功したら天に感謝を捧げるだけ。

死なない限り、殺されない限り、頑張るのみだよ、頑張りましょう、エイエイオー!


「一つ、御尋ねして宜しゅうございましょうや?」

「余に答えられる事ならば」

「然れば御尋ね申す。世子様は何故に、浅井を気にかけられまするのか?

 何故に(それがし)を頼みとされ、朝倉を頼もうとなされませぬのか?

 太郎左衛門尉が健在なれば、朝倉は十分に頼りとなる家でありましょう程に」

「越前国主に任じられた頃の朝倉であれば頼むに足る家であったかもしれぬ。

 だが、これからの朝倉は然程時を置かずに滅びる家となろう。

 妙な色気など出さずに、北国で大人しくしておれば命脈を保てるやも知れぬが」

「……その根拠は如何に?」

「朝倉は隆盛の時を過ごしてしもうたからだ。

 満つれば欠けるの例え通り、これからの朝倉は緩やかに衰退して行くであろう。

 当主が余程に肝の座った者でなければ……その流れを留めるなど無理であろうな」

「然らば浅井は如何に?」

「先代は偉大であったが、当代は凡庸に過ぎる。

 いっそ愚かであれば良いのだが、愚かにも成り切れぬ者のようだ。

 だがその次は、と言えば……麒麟児が現れる」

「麒麟児……でござりまするか」

「余が国師に見せて貰うた夢では、何れ必ず浅井に麒麟児が生まれ出る。

 さてその時、六角当主は其方の子や孫の代であるが、浅井の麒麟児を易々と従わせるだけの力量を持っていようか?

 持っておれば些かの障礙もなかろうが、力量が勝らなければ……」

「勝らねば何となりまする?」

「六角の家は近江半国、江南を保つだけで精一杯の家となろうな。

 近江守護など名ばかりの家と成り下がり、近国に強者が現れた途端に命脈は風前の灯となるであろう」

「何と……」

「余が其方の継嗣であれば、麒麟児が世に生まれる前に浅井を潰して江北を平定する。

 浅井の先代と(よしみ)を通じておった朝倉が要らぬ邪魔立てを致すであろうが、美濃と紐帯を結ぶ事が出来れば何とかなるであろう」

「…………」

「其方の娘御が、美濃国主に嫁いでおったであろう?」

「土岐美濃守が頼りになりましょうや?」

「ならぬであろう。美濃守は(ぶん)にこそ生き甲斐を見出す者で、武ばった事など出来ぬ者であると聞いておる」

「であれば、美濃は頼みとならぬでは……」

「守護の土岐ではなく、守護代の斎藤と結べば良い。

 美濃守を六角家が引き取る事で斎藤山城守(=道三)に貸を作り、不可侵のみを約定するのだ。

 (あた)うれば相互を攻守する盟を結びたいものだが、それは欲張りと誹られような。

 斎藤からすれば厄介者の土岐を追い出せる上に、朝倉の横槍を気にせず尾張とのみ向き合えば良くなる。

 其方が朝倉と土岐を引き受けてくれるならば、喜んで約定を結んでくれよう。

 何となれば、土岐は余が引き受けても良い」

「世子様が土岐を?」

「余も武より文の方が得意であるが故な。

 美濃守は『土岐の鷹』を誉れとする絵の達者であるのだ、余も弟子の一人にして貰うとしよう。

 然れば弟子として師匠の世話をするは当然であろうが。

 ……洛中から一歩も外へ出たくなくなる程に世話してやろうに」

「……面白き御考えにございまするな」

「其方の気が向いたならば、余からも一筆啓上してやろう。

 是非とも余に『土岐の鷹』を伝授して欲しい、とな」

「ははははは。『室町の鷹』が描けましたならば、誰よりも最初に(それがし)が頂戴致したく」

「さてさて、いつになるであろうか?

 余の絵心は些か心許ない故に、軽々に約定は結べぬな」

「それはそれは、御指導なされる御方も大変でありまするな」

「然様然様、出来の悪い弟子を導く師匠は苦労が多かろう。

 余を指導するならば、美濃守は少なくとも十年は洛中から出られまいに。……お役目大変よの」

「全く以って」


 そうして俺が六角弾正と打ち解けた時を過していたら、廊下の向こうが何やら五月蝿いくらいに賑やかになっている。

 はて何事かと二人して首を傾げていたら与一郎が素早い足捌きで向こうからやって来た。

 何事か、と問う前に、失礼仕ります、と断りを入れて告げたのは、トンチキ親父が飲み過ぎて倒れてしまったのだと……。

 何やってんだよ、全くもう!

 思いっきり顔をしかめて立ち上がれば、孝行も大変ですな、と六角弾正が嘯きつつ腰を上げる。


「やはり其方の子であれば……と思うぞ」

(それがし)は汗馬の労を厭わぬ気性にあれど、世子様の如き奔馬の親を務められる程ではござりませぬ。

 我が息や何れ生まれ来る我が孫を、駑馬(どば)にせぬよう心がけるが精々にて。でなければ……」


 六角は俺を見下ろしながら、渋さをかなぐり捨てたふてぶてしい面構えでニヤリと笑った。


「何れ現れるやも知れぬ麒麟児とやらに、我が領を踏み荒らされてしまうやも知れませぬ故に。

 然様な次第は、御免蒙りたく存じますので」

「然様か……ならば仕方ないの」


 肩を竦めて歩き出せば、与一郎が申し訳なさそうに俺を宴席の部屋へと先導する。

 気にするな与一郎、いつもの事だ。お前の所為じゃないさ。


「恐れながら、百年先まで六角は近江国に根を張る所存にて候。

 ……世子様に於かれましては、何卒後背の事など気になさらずに前だけを向いて御駆け下さいますように」


 背後に付き従う六角弾正の凛とした口調に、溜息をついていた俺の頬が緩みそうになる。


「さてさて、余は奔馬ではなく鳶やも知れぬぞ。

 其方がのんびりと歩む内に、何処へと飛び去ってしまうやも、の」

「然らば(それがし)も、力の限り駆けましょう。どうか高みにて、ゆるりと見物をなされませ」



 この日、夜が深まる坂本の町で、俺は又一つ新たな変化を手にしたのだった。

 手にした変化が例え貧者の一灯の如き儚さであっても、お先真っ暗な俺にとっては必要不可欠な安心材料なのだから。

 『いろは教訓』に曰く、「仏心は 闇夜を照らす 灯りかな」とか何とか言っちゃって?

 因みに梅丸君は、後の「大村由己」だったりします。

 「大村由己」……戦国時代後期の学者・著述家。播磨国三木出身。号は藻虫斎梅庵。

 元僧侶。還俗して豊臣秀吉の御伽衆に。秀吉の伝記である『天正記』の著者。

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[気になる点] 誤字羅「ぎゃお?」 以前あえて報告しなかったものを追加 その方 其方 世子様のセリフに両方書かれています。 読み方が違うなら無視して頂いていいのですが。 同じなら統一・・・狙いが有る…
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