『 イージー・ライアー 』(天文十二年、夏)<改訂>
読み易くなりましたでしょうか?
「皆々様方、どうか菊幢丸殿が見し夢の次第を御聞き下されませ」
壁と襖で四方を閉ざし外界から隔離された奥座敷。
灯された十本の蝋燭が煌々と照らす中、サー・マザーに促された俺は額に薄っすらと汗を掻きながら大法螺をうわ言の様に繰り返した。
まるで自動再生機のように。
前世と今との違いを数え上げれば限がないが、その内の際立った一つが記憶力の向上だろうと思う。
現代であれば記録する手段は幾らでもあるけど、この時代は紙一枚でもこと欠くのだ。書き損じたからポイッ、とはならない。
従って使い捨てのメモ用紙もなければ記録機能を装備した携帯端末などないのだから、日常生活の中でのアレコレは個々が記憶するしかないのだ。
そう言えば、携帯電話が普及する前は、住所も電話番号も結構な数を覚えていたものだったなぁ。
便利な物があればそれに頼るのが人の性。その結果、人は本来備えていた能力を失っていくのかもしれない。
現代に比べれば不便極まりないこの時代に来た俺は、現代人が忘れてしまった能力が再起動しているのかも?
そんな訳で。
でっち上げた夢の内容がスラスラと口から洩れ出て行く。
はっきりと聞き取って貰う為に再生速度を緩めたので昨日よりは時間がかかったけれど、どうにかこうにか語り終える。
たったそれだけの事ながら一仕事を終えた気分になってしまった俺は、円座の上にドサッと腰を落とした。
するとサー・マザーがすかさず両手で抱き寄せ、その懐に黙って招き入れてくれる。
ああ、人の温もりってこんなに嬉しいものなのか。
緊張感でダチョウの卵並みにカチカチだった身も心も、少しずつ解きほぐれていく。多少の冷静さを取り戻せた俺は、孵化したばかりの余裕で周囲をそれとなく観察する事にした。
十人以上もの人がいるのに誰も口をきかず、室内に響くのは其処彼処から唸り声だけ。
静かだけど静かじゃない変な雰囲気から推察すれば、滑った訳じゃないだろう。受けた手応えもないけれど。
やはり……振付きで一曲歌って場を和ませるべきか、と思い出した時、不意に下座の方から女性の声が発せられた。
「何とまぁ、恐ろしい夢でありまする事」
はて、どちらさんだろう?
「世子様には御目にかかるは初めてでありましたね。御台所様の妹、花屋理春と申す者です」
サー・マザーが、大徳寺塔頭の大慈院を兼管する景愛寺の住持なのですよ、と耳打ちしてくれた。
後で知ったが、景愛寺とは五山制度に倣って定められた尼五山の筆頭寺院なのだそうな。……女版、惟高妙安禅師?
ついでに同席する他の人達の事も教えて貰った。
サー・マザー 俺 近衛尚通
● ● ●
義俊 ● ● 近衛稙家
覚譽 ● ● 近衛晴嗣
道増 ● ● 久我晴通
花屋理春 ● ● 徳大寺維子
秀山尊性 ● ● 久我慶子
● 近衛篤子
近衛家の主な構成員については、事前調査していたからどのような人物がいるのか大体は知っていた。とは言え、伯父に当たる近衛稙家公と義俊師にしか会った事がなかったからなぁ。
それでも、俺の爺さんに当たる近衛尚通公と従兄弟の晴嗣は直ぐに判ったし、顔と座る順番を見て概ね誰が誰なのかは類推出来た。
義俊師の弟である覚譽師は一乗院門跡にして興福寺の別当職。別当を現代語訳すれば“長官”もしくは“総裁”になるだろうか。
覚譽師の弟である道増師は、園城寺長吏で熊野三山検校。長吏も検校も別当とほぼ同意語だ。
久我晴通公は、爺さんの末子ながら久我家の養子となり清華家の後を継がれた人物。清華家とは太政大臣に就任出来る家格だそうな。
今は従三位権中納言だが間もなく権大納言に昇進される、源氏長者さんとの事。
源氏長者とは源氏一族全体の頂点って事。
後で知ったのだが、武家で源氏長者になったのは三代義満が最初で、足利家からは他にも何人かいたらしいが最近はいないようだ。
権威も立場もグラグラしている今の足利将軍家じゃ、朝廷も任命する気も起きないのは当然か。
久我家は先代である養父の通言さんが春先になくなったばかりで、只今喪中だそうな。本来ならば“物忌み”とかで外出も憚られる状況なのだが、サー・マザーの召集に強制……快く応じてくれたのだとか。
有難うございます、御免なさい。
徳大寺維子様はサー・マザーの母上、俺の婆さんになる御方。従三位の位を持たれる近衛家の大政所様である。サー・グランマ!
秀山尊性さんは、ざっと二百年前に後伏見天皇の皇女が出家した事で創建された尼寺、光照院の門跡さん。
花屋理春さんの十歳下、俺の十歳上の叔母……御姉さん。
久我慶子さんは、稙家公の奥さん。つまり俺のオバ……伯母上様です。
そして近衛篤子は、稙家公の長女で晴嗣の御姉さん……史実では確か俺の嫁さんになる女性だったよな?
前世では独身のままだったから“将来の嫁候補”がいる……かもしれないってのは嬉しいけれど、こっちはまだまだ毛も生えちゃいない小児だからなぁ。
あっちもあっちで、童女だし。
現時点では許婚でもないのだから意識する必要はないか?
そう思いながら下座を窺えば、強烈な眼差しが返って来た。
実母よりも叔母であるサー・マザーに良く似た面差しの少女なので、見つめられているのか睨まれているのかが判断に苦しむ処。
無視されるよりはマシだけど、瞬きもせずにジッとガン見されるのも何だかなー。前世では女性から見つめられるより空気のような扱いをされる事の方が多かったから……どう反応すれば良いのだろう?
ああ、この何とも慣れぬ雰囲気に首や背中の筋が引き攣りそうだ。ただでさえ大層な肩書きの人物ばかりだってのに!
俺はここにいても良いのだろうかと、つい考えてしまうのは小市民出身の悲しい性か?
意識し出したらまた緊張ががががが……。
「菊幢丸よ、和主は何を考えおる?」
だが突発的に投げかけられた義俊伯父殿の一言が、逸っていた動悸を正常へと導いてくれた。サンキュー伯父殿!
目配せで感謝の意を伝えたら、何を勘違いされたのか座を立ち前に進み出て来られ、ドカリと音高く座られる。
遠慮なくしげしげと顔を覗き込まれ、俺の居心地は再び最悪となった。
もしかして俺の座っている円座は、針の筵だったのか?
「昨年より見続けておると申したな、その夢を」
ハイ、ソーデスヨー。
「にも関わらず、何故に穏やかな顔で面白き事を幾つも考案出来るのかのう? ……もしや和主は狐でも憑いておるのか?」
やっぱ兄妹ですねー、目つきがサー・マザーにそっくりですよ伯父殿。
「兄上! 菊幢丸殿を誹謗なされまするのかッ!?」
サー・マザーが険しさを通り越して般若の形相になられた。見ていないから実際にはどうか判らないけれど、声を聞く限りは多分そうだろう。俺を抱き締める力が鬼のように強くなったのだからほぼ間違いない。
「おお、怖や怖や。……どうした菊幢丸、顔色が大層悪いようだが?」
それは口から実が出……そうなく……らいに締めつけら……れているからです……って……やばい……抜け出さねば、死ぬ!
「それは!」
朦朧とし始めた意識を揮い立たせ、ついでに気力を振り絞った俺はサー・マザーの懐から飛び出し屹立する。
「父祖様方の真意を確りと受け止めたがゆえです!」
「真意、とな?」
「然様です」
気を落ち着かせつつ僅か上から義俊伯父殿を見下ろせば、何故だか腹に力が漲り出した。腹がすわる、とはこういう事か。
「将軍家は既に日ノ本を統べる力を失っておりまする。力無き者が津々浦々にまで威令を轟かせるなど出来よう筈がありませぬ」
「然れば何とする?」
「それを申すには……これより語る事が全て、物知らずの童が口走る戯言の類であると、お笑い戴きたく存じ上げます」
重ねての問いに一息で切り返した俺は、空っぽになった肺に新たな空気を送り込んでは吐き出すを三回繰り返して呼吸を整え、僅かに冷えた頭で自問自答する。
さて、正念場だ。
言うべきか言わざるべきかは既に問題ではなく、どこまで言うかが問題である。
俺が四人もの足利将軍を登場させてまで創作した……でっち上げの大法螺を、まるで本当に見た夢のように託け、つらつらと語ったのは単なる前振りに過ぎない。
本当に公言したい事はその先にある。
昨日はサー・マザーからの追及を躱す為に開陳した。与太話とイコールの大法螺とはいえ半年近くかけて真実味が増すように練りに練ったものだから、無事にサー・マザーを騙せたのだと思う。かなり冷や冷やだったけど。
しかし、サー・マザーの家族は流石に手強い。
昨日は破れかぶれが功を奏したが、今日は当たって砕けろだな。泥舟に乗った気分とは当にこの事だろうなぁ。
「足利は、将軍家である事を辞すべきと存じまする」
言いたい事をぶっちゃけた気分はどうだい、と誰かに問われたら、実に淡々としたモノですと答えられるくらいに何とも平坦な気分だ。
ビクビクしていたのが馬鹿らしく思えるほどに。
こんな事なら坂本で逃げ回らずにもっと早くに稙家伯父さんへ……ってそんな訳にはいかないよなぁ。今だから言えた事なのだもの。
静まり返った室内で聞こえるのは、ジジジと燃える灯心の音のみ。しわぶき一つ聞こえやしない。まさか無呼吸症候群かと心配になるくらい皆さん静かだ。
サー・マザーに結論を伝えた時は悲鳴を上げられてしまったから、今日は阿鼻叫喚の坩堝になるのかもと思ったのだが。
反応ゼロになるとは予想外……言い方が拙かったのかなぁ、だとしたら失敗だったかな。
「辞して何とする?」
いやはや参った参った隣の神社と声に出さずぼやいていたら、意外な場所から沈黙が破られた。
「菊幢丸、早う答えよ。足利は政から身を引いて如何するつもりじゃ?」
「問いに対し問いで返すは無礼だとは存じますが、中将様は如何なると思われましょうや?」
「世が混迷するだけではないか」
「然様、混迷するでありましょう。然れど……」
俺はサー・マザーの元を離れ、呆然としたままで硬直している伯父殿の横を擦り抜け、質問者である晴嗣の前で胡坐を掻く。
「今の世と何か違いがございましょうや?」
これ見よがしに真顔を突きつけてやったら、晴嗣はウッと口を噤み軽く仰け反りやがった。
生意気な口を利いても未だ子供だな、俺と同い年だから当然だけどな!
「上皇様が“治天の君”として日ノ本を統べておられましたる頃、我ら武家には身分も立場も寄る辺もございませなんだ。然れど力を蓄えつつありました。
初めて、その蓄えられた力を存分に揮われましたのは平相国入道(=平清盛)でありました。したが、入道は上皇様の為されようを真似たに過ぎませなんだ。
父祖たる武皇嘯厚大禅門(=源頼朝)様は、入道とは異なる道を考え抜かれた後に、政所を設けられ式目を定められました。
鎌倉に開かれた府における将軍の血脈は三代で絶えてしまいましたが、北条なる執権が政所を取り仕切りましたので武家の世は続く事と相成りました。
将軍が誰であろうと武家の世は続いたのです……北条が清盛入道と同じ道を歩むまでは。
後醍醐帝が立たれたました時、世は再び“治天の君”が統べる御世へと時を逆巻きになるかと思われましたが、力を蓄えるだけでは飽き足らなくなった武家共がそれを良しとは致しませなんだ。
等持院殿(=足利尊氏)様が再び武家の世を取り戻すべく、立ち上がられたからです。
気がつけば鎌倉が武家の府と相成りましてから三百年を超え、室町第が武家の王城と相成りましてから百数十年が経ちました。
武家の世、とは何でございましょう?
それは定められたる式目を基とし、政所が治めたる武家の手による治世の事であろうかと存じます」
「さ……然れど、政所を統べる者として将軍家は必要であろうが?」
「申せられる通りに世の仕組みとして、将軍家は必要であろうかと存じまする。
形ばかりの、重しとしての、将軍家は必要かと」
晴嗣の目を射抜くようにして笑いかけた。
「如何でございましょうか、近衛家の御曹司様。
宮様方が下向為されました事で命脈を繋いだ鎌倉府。その四代様の例に倣い、余に変わって次期将軍となられませぬか?」
鎌倉四代将軍は、近衛家の最大の政敵である九条家の出身だけどな!
「そこまでじゃ」
俺のベラベラ動く長広舌は、この屋敷の長の一言で終了となる。
「世子殿よ、それ以上当家の世継ぎを嬲るのは御止め戴けませぬか」
「誠に申し訳なく、面目次第もございませぬ」
体を左へ九十度クルリと回転させた俺は困り顔で顎鬚を扱く爺さん、尚通へ深々と頭を下げる。……少し調子に乗り過ぎてしまったかな。失敗失敗。
「然らば儂からも問うが宜しいかの?」
ハイ、ナンデショー。
「そなたは政を御上に返上すると申したが、それが時宜に適うた方策であるとの意で間違いないのかの?」
「然様でございます」
開き直れば例え相手が人臣位を極めた相手であろうとも怖くは……怖くは……もういいや、どうとでもなれ!
「大権を、奉還すべきと存じまする」
言ってしまったぜ……慶喜より三百年ほどもフライングの“大政奉還”宣言!
「ほほう」
「ただし、御上は許より朝堂に列席なされる殿上の皆々様方に、その御覚悟がございますればの話でございまする」
「覚悟、とな?」
「然様でございます。
昨今の武家共は、建武の御世よりも力を蓄え、応仁の御世よりも荒ぶっておりまする。
御腰に飾り刀を差しておられる皆々様に政を取り仕切られる御覚悟がございますれば、の話にて」
「菊幢丸よ、そなたは何が言いたいのだ!?」
「容易きお話にござる」
立ち上がった晴嗣をチラリと見上げ、まぁまぁ落ち着いて落ち着いてと両手の平で風を送る。
「大権は返上申し上げまする。殿上の御方々が荒ぶる武家共を無事に組み敷く事が出来ますならば、それで仕舞い。無事落着にてございまする。
然るに、それが出来ぬ侭ならぬと申されるのであらば、然るべき受け取り手が現れましたる時に改めて大権を頂戴致したく」
「然るべき受け取り手……のぅ?」
「昨今、政所執事の伊勢の親族が家名を変え、関東の秩序を一新しようとしているとの由」
「それが如何した」
先日知ったばかりだけど、尚通爺さんの長女が十年くらい前に北条家二代の氏綱に嫁いでいるのだ。政略的な臭いプンプンの後妻さんとして。
その氏綱は一昨年に死んだのだが、伯母上は近衛殿と称される身分を維持したまま都へは戻られる事なく、今も相模国にいるのだよ。
更にトンチキ親父も、北条家には過分な応対をしていたりする。
新当主となった氏康に北条家家督継承を許す書状を送っているのだよ、吃驚だよね。だって今の北条家って、足利将軍家が任命した鎌倉公方の後裔や関東管領の宿敵なのだぜ?
「もし彼の家、北条家が近国にありましたならば、無事に将軍と相成りました余は喜んで大権を仮託致しているでしょう。
その方が、足利が将軍家として武家の頂点に居座るよりも余程世の為になるであろうと存じまする」
「したが北条は遠国ぞ」
「誠に惜しい事にて。せめて美濃や越前辺りにあらば頼りになるものを」
「なるほどのぅ……」
尚通爺さんが顎鬚をしごきながら口を閉ざされると、稙家伯父さんが末広で口元を隠しながら含み笑いを洩らされた。
「如何したのかの?」
「ははは……御父上も御人が悪い。世子殿の真意を見抜いておきながら知らぬ振りをなされるとは」
「はてさて」
何だろう? 尚通爺さんと稙家伯父さんがすっごく悪い顔になっているぞ。
「ああなるほど、私も得心いきました」
え? 義俊伯父殿も?
「拙僧も判りもうした」
「身共も同じく」
「此方も然り」
今の今まで沈黙を保っていた覚譽、道増、久我晴通の伯父さんズも一斉に訳知り顔で肯き出す。
室内の空気が大きく変わった事に女性陣は揃って、キョトンとした表情をされているのと好対照だ。
「どういう事でありまする!?」
あ、晴嗣も判ってなかったか。まぁ子供には難しい話だから仕方ないか。
「ほほほほほ」
突然の笑い声に意表を突かれた俺が下座を見遣ると、維子婆さんが楽しくて堪らないといった顔をしておられた。
「世子殿」
はい何でございましょうか、サー・グランマ!
「政の趣は女子には判らぬ。此方にも判るよう話してくれませぬか?」
イエッサー・グランマ! 喜んで説明させて戴きます!
「大政を……じゃない、天下の大権を返上致すは、方便にございまする」
「方便とな?」
「はい。足利が将軍位を返上致さば、他の武家もその役目を返上するが必定となりまする。
然れど守護や地頭達は一度手にした物を手放す筈もなく、無理強いをすれば世は今以上に乱れ渾沌と致すでありましょう。
故に彼の者共は従来通りとし、咎め立てなどは致しませぬ。勿論、政所も廃する事など致しませぬし、伊勢や評定に関わる奉公衆共も従来通りに務めを果たさせまする。
役目を返上するは、足利と……管領共の“令外”だけにてございます」
「……然様でありまするか」
「もし余が鎌倉の公方でありましたならば、全ての事を北条に任せ進んで傀儡となりましょうほどに。
関東が荒れておるのも抑々は鎌倉が荒れた所為でありましょう?
足利だけで収まらなくなったのは、上杉も荒れた所為でありましょう?
彼の地の荒れた者共が一掃されれば、彼の地の民草はさぞや暮らし易かろうと存じまする」
脱力気味に晴嗣が腰を落とした。
「菊幢丸よ、増上慢が過ぎる者達のみを排しようとする企みなのじゃな?」
「然様でございまする、中将様。然れどこれは現将軍ではなされぬであろう事でございまする。
余が将軍位を継承し、更に関東の北条家に値する力と志を持つ武家が近在で興らねば……論ずる価値もなき画餅でしかありえませぬ。
尚且つ、ですが。
御上と我ら武家とを繋ぐ殿上の御方々、その筆頭であらせまする近衛家の皆様方の御助力がなければ、到底なし得ぬ企みにてございまする」
「……龍丸じゃ」
「はい?」
「我がそちを菊幢丸と呼び、そちが我を中将様などと呼ぶは釣り合いが取れぬであろう。これからは我の事を龍丸と呼べ」
「承りました、龍丸様」
「様、などいらぬ」
ツンデレか! 全然嬉しくないわ!
だが、仲良くしてくれるなら将来的にはこれほど有難い味方はいない。感謝してやるぞ晴嗣、いや、龍丸君。
「龍丸、何卒よしなに」
「此方の事は篤と呼んでくりゃれ!」
龍丸に向かい軽く会釈をしていたら突如、両手をガッチリと握られた。篤子さん、いつの間に上座まで出てきたの?
「菊幢丸殿、ささ、遠慮せず呼びやれ」
「え? え?」
「篤子や、はしたなき振る舞いは御止めなされ」
「御母様、此方は菊幢丸殿に娶わせられるのでございましょう?
然れば今から親しく致します事に如何なる障りがございましょうや?」
え、もう決定事項だったの、俺と彼女の婚約は?
母親である慶子伯母さんへふくれっ面をするお嬢さんを見ながら、俺は捻じ切れそうなくらいに首を傾げた。
すると、サー・マザーがすっくと座を立たれる。
「篤子殿、未だ定まらぬ事を早とちりするは些か短慮でございまするよ」
軽々と俺を小脇に抱え上げたサー・マザーは、やや険のある声で篤子さんを窘められた。
「菊幢丸殿もそなたも年端もいかぬ童でありましょうに」
「此方はもう童ではございませぬ、立派な乙女にございまする!」
「ほほほ、乙女ならば然様にはしたない事は申しませぬ。恥じらいを知らぬはそなたが女童である証左でありましょうに」
君臨する女帝のようなサー・マザーへ反意を剥き出しにして食ってかかるプチプリンセス。
腹の辺りで抱えられ宙吊り状態の俺はどうすれば良いのか判らず、どうしようもない状況を目で訴えたのだが……爺さんも伯父さん達もさり気なく目を逸らしやがった。
心の友よ龍丸君、君なら助けてくれるだろう?
あ、テメェまで素知らぬ顔をするのかこの裏切り者めが!
「そこまでになされよ」
パシンと下座の方からヒリついた音が立てられ、絶対零度を下回る厳しい声が室内を凍りつかせた。
瞬間的に、サー・マザーもプチプリも氷像のように身動きを止める。
「はしたなきはどちらもじゃ。政子殿、そなたはそれでも御台所か?
篤子もそのような振る舞いが当家の姫に相応しきと御思いか?」
声の調子は氷点下の南極大陸を撫でる微風のように、激さず実に静かなもの。
床を叩いた雪洞も既に胸元へと戻されているし。恐いくらいに清楚でありますね、サー・グランマ。俺は小便をちびりそうです。
暫くして、コホンと軽く咳払いをしたサー・マザーが俺を力強い右手から解放され、襟元と裳裾を整えられてから深々と頭を下げられた。
「誠に申し訳ございませぬ」
「申し訳ございませぬ」
その横に並び、生まれたての子犬のように身を震わせながら土下座をする篤子さん。恐れ戦きながら平伏す二人を見て、不動明王よりも厳しい眼差しをしながら微笑まれているサー・グランマを見てから、俺は天を仰いだ。オー・マイ・ゴッド!
「処で、世子殿」
冷え冷えとした雰囲気の中、不甲斐ない男性陣の中で最初に口をきいたのは久我の叔父さんであった。
何が楽しいのか一人春の陽気に包まれているかのようにニコニコとされている。
「北条以外で当てはございますのかな? 慈照院(=足利義政)様が御見せなされた先々の現世に、その当てはございませなんだか?」
「……しかとは」
泳ぎそうになる目を隠す為に俯いた俺は、声の震えを悟られぬようたった四文字をゆっくりと搾り出す。
当てがあるかって? 有るよ、大有りだよ。
イエズス会が本国へ報告した通りの武家が一つあるよ。織田や豊臣や徳川よりも先に大権を握り締める武家が。
三好家だ。三好長慶が足利将軍家や管領細川氏に成り代わって、次の天下人になるのだよ。
だが、今じゃない。
三好長慶が天下へ躍り出るのは摂津国で行われる江口合戦を制した後だ。つまり六年後、天文十八年の夏以降の事である。
父の仇の政長を討って三好家を一つに纏め、トンチキ親父もポンコツ管領も洛中から追い出すのだ。
その後、芥川山城から本拠地を移し、移転先である飯盛山城の名はイエズス会の宣教師によってヨーロッパにまで轟くのである。
しかし、今すぐではない。
もし仮に俺が三好長慶の名を口にし、それがポンコツ管領の耳にでも入ったらどうなるだろうか?
最悪のシナリオを想定すれば、江口合戦を迎える前に三好長慶は潰されるかもしれない。だから今の俺は口を噤み、沈黙を保つ事に徹する。
「それは如何にも残念至極。越前国か近江国かと思うたのであるが」
ああ、そうか。その可能性もあるのか。未来を知っている俺はその可能性がない事を知っているのだけど。
未来を知らないが現状を知悉し先々を見通そうとする人には、朝倉氏や六角氏の方に可能性が感じられるのか。なるほど、一つ勉強になった。
「お役に立てず」
「よいよい。然れど世子殿よ、そなたの申す戯言が叶わなんだら如何にする御心算かのう?」
「然様でございますね。もし夢破れたりと相成りますれば……髷を落とし、頭を丸めましょうか」
「何と!」
驚かれたのは久我の叔父さんだけじゃなく、サー・マザーや爺さん達もであった。
「向後はどこぞの山門で夜露を凌ぐ身となりましょう。そして覚慶を還俗させて将軍家世継ぎとなって貰いましょうほどに」
しくじれば道は隠遁か死の、二つしかないだろう。
俺はヨボヨボのヒヒ爺になるまで生きたいから仏門に入り大人しく過ごすしかしようがない。断ち切られるより、枯れて生きるも人生さ。
「それは良い!」
だろう? って誰だよ、俺が失敗するのを期待する不逞な奴は!?
「早速にも大覚寺へ参れ。私が手ずから得度してやろう!」
誰かと思えば儀俊伯父殿かよ!
「それは酷い!」
だよね、酷いよね!
「洛中の寺など危うい! 寺門(=園城寺)が匿うてやるほどに!」
酷いのはあんたもだよ道増伯父さん!
「いやいや、覚慶が還俗するなら後継を失う興福寺が世子殿を貰わねば筋が通らぬであろう! 世子殿、明日にでも私と南都へ参ろうぞ!」
行かねーよ! 何言いだすのだ覚譽伯父さんも!
「我は菊幢丸の弟子ぞ! 弟子が師匠の身を案じて何が悪いと申すのか!」
「新しき今様を独り占めなさろうとする浅ましき魂胆、見え透いておりまするぞ!」
「然様! 面白き事を法悦と致したいがは兄上だけではござらぬぞ!」
気がついたら俺は、三人の坊さんの真ん中でもみくちゃになっていた。モテモテだね? って全然嬉しくないわ!
「ならぬならぬ!」
いきなり襟元を掴まれた俺は、抹香臭いオッサン共の中から無理矢理に引っ張り出された。
「菊幢丸は、我と共に新しき世で新しき政をするのじゃ! 叔父上様方に大切な友垣は渡さぬぞ!」
おいこら龍丸! 俺は誰の物でもねーぞ!
「ははははははは!!」
間近で起こった笑い声に、俺も龍丸もキョトンとした顔になる。坊さんズの伯父さん達も虚を突かれたのか、各々拳を振り上げた姿のままで静止していた。
「世子殿、いや……菊幢丸殿よ」
満面の笑みを浮かべた尚通爺さんが、目尻の涙を指で拭っている。
「そなたは誠に面白き童よの。されど……たかが童よのぅ」
涙が拭われた目が一瞬、光ったように俺には見えた。キラリではなくギラリと。
「そなたの戯言、確かに笑わせて貰うた。笑わせて貰うたからには何ぞ御礼をせねばならぬのぅ」
居住まいを正した尚通爺さんは表情も厳としたものに改められる。
「当家一門は、世子殿が無事に将軍位を継承なされてから五年間はそなたの敵とならぬ事を御誓い致そう。……異論はあるか?」
「ございませぬ」
威儀を正された稙家伯父さんが即答すれば、他の皆さん方も背筋を伸ばされ異議なしと唱和された。
「期限が果つるまでの間、世子殿に合力するやせぬは各々の考えに任せるが故に」
威厳に満ちた尚通爺さん……サー・グランパの佇まいに中てられた俺は、知らず知らずの間に直立不動の体勢となる。
「“夜聡うござれ”、世子殿」
……よざとう?
「用心なされ、ゆめゆめ油断めさるな、との意ですよ世子殿」
御教え下さり忝うございます、サー・グランマ!
「宜しいな?」
「イエッサー!」
「いえっさ?」
……しくじった! またやっちまった!
「世子殿よ、“いえっさ”とは何じゃ?」
「世子殿、何ゆえ右手を額に当てておられるのです?」
……つい敬礼までしてしまった!?
「「世子殿?」」
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……。如何に言い逃れるかを考えつつ視線を廻らせていたら、何故か瞳をキラキラとさせている義俊伯父殿と目が合った。
ええ~~~っと……いえっさ……いえっさ……いえっさ……。ブツブツと呟きながら手を叩く。 義俊伯父殿と目を合わせながら手を叩けば、ニヤニヤしながら同じく手を叩き出してくれた。グッジョブ、伯父殿!
段々と叩く拍子のテンポを速めながら、誤魔化す方法を考える俺。……いえっさ……いえっさ……いえっさ……。
「エ~ッサ! エ~ッサ! エッサホイサッサ! お猿のかごやだ ホイサッサ!」
この時代には存在しないアップテンポの手拍子をBGMに歌い出した俺に、近衛家の皆さんは虚を突かれたように固まっておられた。
しかしフルコーラスを歌い切った途端、室内が爆笑の渦となる。
適当な振付けで必死に踊った甲斐があるというものだ。
囃し立てられ煽てられアンコールを求められ、俺は再び歌い踊る。いや今度は俺だけではない。
龍丸が我も共にと言い出せば、篤子さんも此方もと袖を翻された。
俺達、Born to be child のワイルドでひょうげた舞に、大人達は笑いさざめき手拍子を止めようとしない。
「……小田原にも文を出さずばなるまいのぅ」
「誠に」
そんな会話が聞こえた気がしたが、起死回生の宴会芸で急場を凌げた俺にはどうでも良い事であったのだよ、ホイサッサ!
坊さんとオッサンばかりの拙著ですが、今回は女性成分が多目であります。吃驚だ!
近衛前久公の幼名と足利義輝夫人の名前も、サー・マザーと同じく当方の捏造でありまする。