新世紀ビジネスドッグ学園 ~もしも飼い犬がドラッカーを読んだら~
文学フリマ短編小説賞投稿作品。
Twitterの診断ツールで、『孤独な犬が主人公の学園ドラマ(エロエロ雰囲気も入れて)ならヒット間違いなし!』と診断されました。信じていいのでしょうか?
もしも飼い犬がマネジメントを学んだら。そんな新世紀にワクワクする近未来青春コメディ。
結構サクッと読めちゃいます。
もしも飼い犬がドラッカーを読んだら、なんて物語をボクが書けるようになったのは、某リンゴ社がiPadという大きなタッチパネル端末を作ってくれたからだ。ちなみに、ボクは犬です。人間にすると十八歳くらい、犬種はウェルッシュ・コーギー。性別はメスです。一人称はボクだけど、花も恥らう乙女です。それはともかく。
実は――犬は人間の言葉を理解し、人間の言葉を正確に書けるのだ。そのことは、昔はこれまで誰も知らなかったが、今ではもう一般常識となっている。某リンゴ社がそこまで予見していたかはわからないが、iPadによって犬と人間の関係性は歴史的転機を迎えた。
先に出たスマートフォンのほうは画面が小さくて無理だったが、この大きくてフラットなタッチパネルであれば、少し慣れれば犬でもサクサクと文章が書けるし、さらに書いた文章を人工発声アプリで会話にすることができる。この技術の存在も大きい。アプリの声も様々なバリエーションが開発され、普通の人も気軽に手を出せるようになり、子供からお年寄りまで、犬を飼う人たちに一気に普及していった。
それから、犬は犬同士で、インターネットに接続することで、遠く離れた犬を相手に、人間の言語を借りてコミュニケーションする、という文化が形成された。正直、近所の犬とはお気に入りのマーキングポイントを奪い合う間柄であり、飼い主に連れられてすれ違う程度なので、同じ家にいない限り、まともな会話は存在しない。だが、人間がそうであるように、身内には話せない趣味や悩みを広域に話し合えるインターネットは、犬だっておおいに需要があった。
まあ、そんな堅苦しい背景や大仰な賛美はともかく、犬だってアクションパズルゲームをやってみたい。犬だって動画サイトを見たい。腹筋崩壊や涙腺崩壊や謎の感動にハマるのは何も人間だけの特権ではない。そんな流れで、犬が日常生活をつぶやけるDogTweetや実名登録型のDogFaceBookといったソーシャルメディアも次々に登場し、急速に利用する犬が増えていった。
そんな中、少子化に見切りをつけ、多ペット化社会の潮流から、犬たちに高度なコミュニケーションスキルを教育する新しい専門学校までもが誕生した。それがボクの在学している『六本木アニマル衛星アカデミー』(通称、六アニ)である。
衛星とは大げさだが、授業は基本的に動画だ。その授業内容は、かなり専門的なビジネスの知識や手法である。従来、犬が人間から求められたものは、ペットとしての癒しや、介助犬や警察犬や麻薬探知犬などの特殊技能だったが、iPadを通じて、犬はそれよりはるかに多種多様な役割を果たすようになっている。
例えば、犬は元来「鼻が利く」という特性を生かし、株式売買や為替取引のパートナーとなっている。あるいは「群れを統率する」という特性を生かし、マネジメントの手法を飼い主に教える役目なども担っている。そして、飼い主のためにそれを学びたい犬のために設立された通信制学園が六アニであった。
ボクの話に戻ろう。飼い主は、魅伊沙という高校生二年生の女の子。一目瞭然で、平成生まれの典型的なキラキラゆとりっ子である。
高校二年の夏休みと言えば、ゆるみきった人生の華だろう。ただ、この時期に勉強をしないと来年の受験で苦労することが科学的にも分析されている。ボクは前に魅伊沙にそう口酸っぱく説明したのだが、いま、魅伊沙はベッドに仰向けになり、丈の少し短いシャツからおへそを見せながら、携帯でずっと動画を見てニヤニヤ笑っている。
教育係であるボクは、ベッドの下にちょこんと座りながら、魅伊沙が見ている画面を覗き込む。どれだけすごい動画なのかと思ったら、音楽に合わせてウー、アー、ボェーと歌っている猫の動画だ。犬が人間の言語を使える時代に、ただの猫が歌ったところで何の驚きがあるのか。せめてスプーン曲げくらいできる猫ならこちらも納得できるのだが、まあそれはそれとして。
夏休み初日の昼下がり、魅伊沙はポッキーをポリポリ食べながら、猫動画に夢中になっている。何だこれは。早く何とかしなくてはならない。iPadでメールを書き、魅伊沙の携帯に送る。新着メールが画面に表示されたはず。
「ん?」
魅伊沙はメールにすぐ気づいたが、開かずにサクッと画面を切り替えた。そして平然と動画の続きを見る。おいっ、ちょっと待て! 同じ部屋にいる飼い犬からのメールだぞ。ちょっとは読めよ、このやろう!
だが、この程度は想定の範囲内。諦めたらそこで試合終了だ。昔から受け継がれる名言を胸に思い出し、もう一回メールを送る。今度は少しフランクな文面にしてみる。
「ん?」
魅伊沙は――同じリアクションをリピートする。だが再び、華麗な親指裁きによって、ボクの教育者としての真摯なメッセージは未読スルーされた。
「ごめーん、乙女ちゃん。あたし、夏休み中に活字はムリ~」
さてさて、どうやらボクの役目は完全に行き詰ったようだ。今日は夏休み初日だよ? ボクはもうお払い箱ですか? つか、お前、活字って言うほど文字量ないだろ?!
噛みつくという実力行使に出たい気持ちを必死で抑えつつ、心を静めて、三度目のアプローチを試みる。こう言ったら申し訳ないが、魅伊沙の性格や行動パターンはだいたい分析できている。こちらもマネジメントの手法を習っているプロの候補生なのだ。
ボクは文章をサクサク書き直し、今度はiPadからプリンタ出力を選んだ。テーブルに置いてある小型プリンタで印刷を実行する。持ち主は低速なのに、プリンタの処理速度は反比例するように速く、レシートサイズの紙にボクのメッセージがすぐ印字されて出てきた。紙はオートカットなので、犬のボクでも楽々と扱える。
少々手間がかかったが、メッセージシート(ボクは『犬紙』と呼んでいる)をくわえ、ベッドに駆け上がった。魅伊沙は、ボクがすり寄ると嬉しそうな笑顔でヨシヨシと撫でてくれる。魅伊沙は大の犬好きなのだ。ただ、大の家庭教師嫌いの塾嫌いで、だからボクが近寄れば機嫌よくヨシヨシと、ほんと楽しそうにヨシヨシと、そう、これが確実にこちらの意思を伝える最終手段なにょふみゅほにゃ――おいっ! お前いつまでヨシヨシやってるんだ! 犬紙を危うく床に落としそうになったじゃないか!
魅伊沙はベッドに寝転び、頬杖をついている。
「……乙女ちゃん、退屈なの?」
退屈ではない! ボクはお前の勉強を何とかしたいのだ。お前はのび太か。
「もー、話したいなら最初から言えばいいのに。はい、聞いてあげるよ?」
――計画通り。そう、これでいいのだ。マネジメントの基本のひとつは、何かをやらせたい相手の口からそれをやりたいと言わせること。とりあえず、ボクは人工発声アプリを起動した。
《ねぇ、あたしのメール、ちょっとくらい読んでよぉ》
声はもちろん出るのだが、残念ながら『美人家庭教師お姉さんモード』に設定されている。設定は管理者権限を持つ魅伊沙が何となく行った。設定変更はボクでは無理なのだ。
「どーせ、勉強しろって言うんでしょ?」
《おねえさん、一応そのためにいるのよぉ。もう、おねえさんばっかり見てて、教科書を見てくれなくて、困っちゃうんだからぁ》
頼む、賢明な人よ、地の文は間引いて推察してくれ。
「わかってるってば。あたし、夏休みが終わったら、勉強をするんだ!」
なに戦争が終わったらみたいな言い方してるんだ。高校生が一ヶ月半何して過ごすんだ。
《それだと、おねえさん、さびしくなっちゃうわぁ。んふっ、それともごほうびがないとがんばってくれないの?》
頼む、地の文は(以下略)チクショー、チクショー、チクショオオオオ!!
「――迷ってるのよ」
《あら、どうしておねえさんに話してくれなかったの?》
「あたしさ、来年進学クラスに行けるか、ギリギリじゃない? もしかしたらって思うと、この夏、勉強して意味があるか悩んでるの」
そうなのだ、二年の冬の進級テストで、生徒は受験勉強組か就職活動組かに振り分けられる。魅伊沙は受験希望を出してはいるが、当落線上のマリアなのだ。
《悩んでいるうちにひとつでもやったらどうかしら? あまえちゃダメッ》
これも昔の名言のひとつだ。――が、これもやはり美人家庭教師風になるのだが。
「受験て、大変よね」
やってもいないのに知ったふうな口を聞く。
「その前にひとつ、ちょっと片づけなくちゃいけないことがあるんだけど」
《なぁに?》
「……ダメ、口じゃ言えない」
《じれったいわね。じゃあ、こうしましょ。メールでこっそりおしえて♪》
少しの間、沈黙があった。
「うん、そうするわ」
魅伊沙の指先から送られてくるメッセージ。それを開く。
「恋しちゃったんだ。たぶん、気づいてないでしょ?」
な、なんだって――チェリイイイイイイイ!!
まさかの超展開だった。
そう、魅伊沙が他でもない一番そばにいるマネジメント犬であるボクに頼ってきたのは、恋の悩みだった。恋愛とかやってるやつは最終的に志望校をワンランク落とすんだ! と熱血予備校講師みたいな言葉を、乙女心のわかるボクが言えるわけもなく、むしろ恋が片づいたらちゃんと勉強する、という誓いにズキューンと来てしまったわけで、しかも口では言えないってとこにボクは相当グラリと来たわけで……。
《あらあら~、どんな素敵な男の子に恋しちゃったのかしらぁ~》
アプリは勝手に冷やかしに変換してしまった。さすがに魅伊沙も胸に引っかかったのか、それとも本心を言ってしまい後悔したのか、複雑な表情でじっと黙っている。
《ごめんなさいね、おねえさん悪いこと言っちゃったぁ?》
「……別に」
なぜかなつかしさを感じる反応だ。
《ねぇ、男の子は同じ高校の子?》
「うん」
《お友達にはもう話したのぉ?》
「まだ。……そんなの言えないよ。あたし、こういうの今ごろ初めてなんだもん。ねぇ、あのさ――乙女ちゃんにこういう相談するの、イヤ?」
魅伊沙はだんだん顔が赤くなってきた。目が少しうるんでいる。かわいいよ魅伊沙かわいいよ。違う! 相手が心を開いたとき、ちゃんと相談に乗らなくちゃ。
《大丈夫よぉ、おねえさんにドーンとお任せっ♪》
そう返すと、魅伊沙は体の力を抜き、ベッドに仰向けになった。
「実はね、友達の彼氏……かもしれないんだ。学校で言えるわけないよ」
部屋が静かになる。
ボクは愚かな発声アプリを切った。普通のメールに変えて、「ボクが責任もって応援する」という内容のメッセージを、魅伊沙の手元に転がっている携帯に送った。もちろん、面倒臭がりな魅伊沙でも読めるよう、タイトル欄に本文を全部入れてだ。
魅伊沙は着信にすぐ気づいた。ふっと笑顔が戻る。
「先生、よろしく」
さて、問題はドラッカーが恋愛の達人だったかということ――いや、そうではない。ボクはいつ何をしたらいいのか、ということだ。マネジメント犬としては、相手に助言するとき、5W1Hを明確にすることから始める。
魅伊沙がキッチンへ飲み物を取りに行った間に、ボクは基本にならって状況を整理した。魅伊沙が(WHO)、夏休みに(WHEN)、学校で(WHERE)、勉強に身を入れるために(WHY)、恋の悩みを片づける(WHAT)。
――本当か? WHYの部分が何となくむずがゆいが、一応筋は通っているし、とりあえずわかったことがある。魅伊沙の置かれた状況を把握するには、どうやって(HOW)が抜けているのだ。実際の方法や手順(HOW)が欠けていると、事は進まない。
今回のボクの役割は、ああしろこうしろとメニューを与えるトレーナーではない。むしろカウンセラーに近い。当人に聞いて解決策を導き出すことが大切だ。恋愛カウンセラーとは、またも背中がむずがゆい響きだが、魅伊沙の性格をよく踏まえないといけない。
魅伊沙がオレンジジュースを持って部屋に戻ってくる。ボクの水も新しくボウルに入れてきてくれた。ちょっと一休みした後、魅伊沙から事情を聞いた。
好きになった男の子は、同じ高校で別のクラスの十島海渡という名前だ。字を教えてもらったら、海賊かそれともバスコ=ダ=ガマかこいつは……と一瞬思った。魅伊沙の話では、海渡とは今まで全然接点がなかったが、きっかけは、休み時間に魅伊沙が体育倉庫でバーの片づけをしていたとき、たまたま海渡も別のバーの片づけをしていて、誰かが外から鍵をかけてしまい、閉じ込められて、他の人が体育倉庫を開けに来るまで少し話したのだと言う。名前がかわいいねと言われて、それで惚れたらしい。
なんじゃそりゃあああああああ!!
……と地声で叫びそうになったが(ワオオオオ!!となるだけだが)、そこはぐっと我慢した。体育倉庫に二人で閉じ込められるとか、どんなギャルゲーイベントだ。だいたい、バーはそんなに種類があるのか? というのも気になったが、「少し、頭冷やそうか……」という天の声が聞こえた気がした。
で、次に海渡と会ったのが、この前の日曜日、古着屋街へ買い物に出かけたときらしい。イベントの予感がまたもするが、同じクラスの友達の恵麻――この国は終わったようです――と海渡が一緒に歩いているのを目撃してしまったらしい。向こうは魅伊沙に気づかなかったようだが、二人は絶対に人違いでなくて、仲良さそうに並んで歩いていたという。気になってあれこれ考えていたら、学校が夏休みに入ってしまったわけだ。
超展開を期待したのに案外普通だったとは指が裂けても書けないが、魅伊沙が何もやる気が起こらないのは、そういうことがあったせいだった。
【で、どうしようと思ってるの? 恵麻には確かめたくないんだよね?】
地の文はこういう口調です。これをiPadで魅伊沙に送る。
「聞いてどうするの……? 彼氏だよって言われたら、そこであたしのマジな初恋は終了でしょ」
仮にそうだとしたら、いずれ誰かの話で知ってしまうくらいなら、勇気を出して自分で聞けばいいと思うのだが、魅伊沙は意外に奥手だとわかった。もう、ういやつめ。
【恵麻に彼氏がいるって雰囲気はあったの?】
「わかんない。……恵麻の話はもういいよ」
お前が言い出したんじゃないか。そこで切るのかよ。
【ここまでの話を聞いてるとね――どうやって本当のことを確かめるか、それと魅伊沙は自分の気持ちを海渡にどうやって伝えたいのか、その辺がぼんやりしてるのが良くないというか、すごく大事だと思うんだよね】
すると、魅伊沙はきょとんとした顔になった。
「――あんた、ほんとに犬?」
犬だよ。四つ足で、耳立てて、舌出してここにいるだろ。iPad使ってるけど。
【魅伊沙はどうなの?】
「どうって……」
【好きって伝えたいの? 伝えたくないの?】
あえてここで選択を迫る。魅伊沙は少し考えて、泣きそうな顔になった。
「――それは、伝えたいよ」
かっわいいなぁ、と顔がにやけそうになるが、犬顔がにやけてもほとんどわからないのが好都合でもあり残念でもある。さて、もうひと押し。送信。
【どうして? 本当にそう思うの?】
受信。
「だって……初めてなんだもん、自分のことなら、やっぱり待ってられないよ」
魅伊沙はまっすぐ言い切った。
ボクは少し本気で胸を打たれながらも、マネジメント犬として落ち着いて今後の方向性を考えた。とりあえず選択肢を捨てさせたことで、魅伊沙の目標が決まった。自らが事実を確かめ、告白をする。ここがゴールだ。
さて、あとは方法だ。実はこれが一番難しいのだが、ボクの手元にはすでにいくつかのアイディアが集まっていた。なぜなら、ボクが登録しているソーシャルメディアに投じたボクの書き込みに対し、すでに何件ものレスやコメントが寄せられているからだ。マネジメント犬の集まるコミュニティでは、実に驚くべきスピードで、飼い主の悩みを解決するためのタイムリーな情報交換が行われている。
犬はそれだけ人間に近い存在であり、まあ、他にすることがないということだ。
次の日、魅伊沙には、ひとつのアプローチ方法を説明した。もちろん、魅伊沙があれしろこれしろで動く人間でないことは熟知しているので、ヨシヨシさせてやったりハフハフさせてやったりして落ち着いた雰囲気を作った後で、いくつか案を話してみた。その上で、一番納得する方法を選び取ってもらったのである。
勝負スポットに、ボクはおしゃれなドッグカフェを選んだ。もちろんお店を選んだのはボクだ。ただし、誤解してならない。決してボクが久しぶりに飼い主の小遣いで美味しいクッキーを食べたいからではない。あるいは美形の兄弟二匹の看板犬がいるからという理由でもない。頼む、恥じらう乙女なんだ、これ以上言わせるな。
魅伊沙は薄いシャツとキャミソール、デニムのミニスカートに銀色のサンダルという夏らしい格好で玄関に立った。魅伊沙は背丈の割に足が長くてきれいだな、といつも思う。一方、ボクも新しいピンクのスカーフをくわえて持って来て、首に巻いてもらい、散歩という感じで魅伊沙と一緒に出かけた。なお、外出時はiPadはお出かけ用のトートバッグに入れて、飼い主に持ち歩いてもらうのだ。
幸い天気は最高だった。夏は、午前中でもうだるように暑いが、温度調整のために舌を精一杯突き出した。
魅伊沙はトートバッグをさげて歩いていく。魅伊沙はさすがに緊張しているが、それでもちゃんとお化粧をしているし、髪型も後ろをかわいくアップにしていて、なかなか明るい表情になっているように見える。
今日、事実を確かめ、告白する。それがボクの考えるストーリー。
問題はどうやって海渡に会うかだ。魅伊沙はまだ海渡の携帯を知らないので、どこかに呼び出すのは無理だ。ただ、海渡はバスケ部だと知っているので、同じクラスの女子バスケ部の友達に練習予定を聞いたら、今日は男女とも午前中に学校の体育館で練習があるとわかった。そこで、まず魅伊沙とボクがめざしたのは学校である。
行く途中はiPadが使えないので、魅伊沙の声を聞くことはできるけれど、会話をすることはできない。けれども、今この瞬間、ボクは会話より、魅伊沙の足が一歩一歩しっかり学校に向かっていることが何よりも確かなことに思えた。
学校に着く。グラウンドではサッカー部や陸上部が練習をしているが、その横を通り、体育館に向かいまっすぐ進む。体育館の入口からは、ボールを床にダムダムと打つ音が漏れ出していて、さすがにそれを聞くと、魅伊沙の足もピタリと止まってしまった。
まだこれは第一ステップなのに、ぐっと思い詰めた魅伊沙の表情を見て、ああ、これは軽い気持ちでなく、本当に好きになったんだな、としみじみ思った。恥ずかしいとか、照れ隠しとかでなく、相手のいる場所や時間に入っていこうとするのが恐いのだ。ただ、もう少しこっちに来てほしい、だけで伝わるものではない。そう魅伊沙自身も言った。
<舞台に上げることです。なければ作ってあげて。>
マネジメント犬のコミュニティで、ボクは誰かが授けてくれたそのコメントをまず拾った。これはドラッカーの教科書にある類いの言葉ではない。ただ、深く重くボクの胸をとらえて離さなかった。ボクの今の状況や立場において、これ以上見事なアドバイスは見つからなかった。その後、自由に交わされたどんな恋愛テクニック論よりも、魅伊沙の本質を洞察し、的確に射抜いている気がした。
魅伊沙は体育館の前で足がすくんだままだったが、それも想定の範囲内だった。スカーフに貼りつけてきた犬紙を見るよう合図する。犬紙は何枚かクリップでまとめてある。
【ひるんだら、これを読め】
表紙がこれだ。魅伊沙は驚いた後、苦笑いをした。ひるむことがわかってたのね、と言いたいのだろう。その通り。ボクはあなたの飼い犬だ。なめてもらったら困る。
魅伊沙は表紙を一枚めくる。
【ここで帰ったら、罰として部屋におしっこをします 乙女】
案の定、吹き出した。
笑いをこらえながら、次をめくる。
【恥ずかしいけれど、本気です 乙女】
魅伊沙は声を立てずに腹から笑っている。手の震えが消えていくのがリードから伝わる。
もう一枚めくる。
【怒られるのはボクですが、後悔するのはあなたです 乙女】
そして、魅伊沙は真顔になった。
舞台に上げろ、とボクに告げてくれたコメントにはもう少し続きがあった。それは「舞台とは何か」をその犬なりに補足した内容だった。舞台とは空間や場所ではありません。一度夢で描いた姿を、なかったことにしたくない、という強い思いです。その実現に近づけるところです。舞台に上がってしまえば、そこから下りることの決意が必要になります。上がることも下りることもつらいのですが、舞台に上がらない限り、見てほしい人にずっと見てもらえないのだと思います――
もちろん、これはマネジメント犬であるボクが責任を持って受け止め、しっかり意図を飲み込んだ。魅伊沙には読ませていない。だいたい魅伊沙は、ちょっとでも長い活字は読めないだろう。そんなわけで、ボクが一筆書いた。今回、舞台を設定することはそれほど難しくなかった。だが、手近な舞台ということは、すぐ下りられるものだ。舞台から下りさせない、そこをボクはいろいろ考えた。回りくどいが、これで響かなければマネジメント犬としての技量はそれまでだ。一応、ボク自身もささやかながら舞台に上がったのだ。
犬紙は表紙を入れて五枚書いた。魅伊沙は最後の一枚を慎重にめくる。
【さあ行こう! 乙女】
直前に来て、最後に言えるのはこれだけだ。どんな歴代のマネジメントの名著も、絶対に共通しているのは、最後は「さあやろう!」と書いてあるのだ。
「うん!」
魅伊沙は晴れがましい顔で強くうなずいた。そして再び歩き出す。そう、キックオフはしっかり出来た。理論上、ボクの今日の役割は、これで七割方は終わったようなものである。そんなふうに若干のん気に構えていた。
バスケ部の練習が終わる時間を見計らって、少女一人と犬一匹は体育館のそばで様子を見ていた。十二時が近くなり、かなり暑くなってきたので、体育館と校舎をつなぐ渡り廊下の日陰にいた。待ち合わせ――いや待ち伏せをする場所としては、あまりかわいげのあるところではない。けれど、海渡が体育館を出た後どこへ行くかわからなかったので、確実に声をかけられる場所を選んだ。
練習が終わったようで、バスケ部員が次々に出てくる。みんなTシャツと短パン姿で、真っ赤に上気した顔に汗が流れ、タオルでそれをふいている。ボクは魅伊沙の身長を見慣れているので、やっぱりバスケ部は背が高い人が多いな、と思う。海渡の顔は知らないが、魅伊沙がゴクッとのどを鳴らす気配がしたので、姿を見つけたのだ、とわかった。
男子四五人のグループが渡り廊下をこちらに歩いてくる。犬を連れた女の子がいるのに気づいたようで、みんなチラチラ視線を送ってくる。さて、そろそろ作戦開始だな。ボクはリードを口にくわえてクッと引っ張り、いつでも行けるよ、という合図を魅伊沙に送った。魅伊沙はだいぶ緊張しているが、うんうんとせわしくうなずいて、一人の男の子を呼び止めた。
「海渡!」
――お前もう呼び捨てかよ!
ズコーッ! という効果音が鳴るかと思った。
「ん? あれ、魅伊沙?」
――そっちも、もう呼び捨てかよ!
今の高校生は、体育倉庫の十五分間でどんだけ親しくなるんだ、と腹立たしくもなったが、まあ他の哺乳類は十分にも満たない求婚タイムで一気に子作りまでやってしまう動物が多いわけだから、それと比べると神様はずいぶん慎重で悠長な生き物を創ったものだ。まあ、犬が言えた義理じゃないな。
とりあえず、海渡と呼ばれて答えた男の子をボクが認識できれば、ここはそれでいい。魅伊沙の男の趣味はくわしく知らなかったが、なかなか悪くない。髪は少し長めで、後ろに軽く流している。目は切れ長で、清潔感があって肩幅がしっかりしていた。こちら乙女、目標確認しました。
魅伊沙が黙り込んでしまう前に、作戦通り、ボクは海渡に向かって突進し、その手に持ったタオルを噛んで奪い取った。
「あっ! ちょっと!」
古典的だ。ああ、古典的さ。何とでも言えばいい。ボクはとにかく任務を遂行した。タオルから男の子の汗の匂いがする。エンジンに火が入る。
走るボクの背を、リードを持った魅伊沙がいそいそと追いかけてくる。
「海渡!」
魅伊沙が振り返ってそう呼びかけるのも、つまりは作戦のうち。
「待って!」
海渡が走ってついてくる。とりあえず不意打ち攻撃で海渡をバスケ部の仲間たちから引き離すことが、ボクのキャッチ・アンド・ラン作戦の狙いだ。汗の匂いはあくまでおまけに過ぎない。わかるだろ? そして、ボクは体育館裏の薄暗い木陰まで走ったところで、魅伊沙がリードをグイッと力強く引いた。たぶん、ここでいいという意味だろう。ボクは地面にタオルを落として、土だらけの足でわざと踏んだ。
「乙女ちゃん、何やってんの! 怒るよ!」
と魅伊沙がボクを叱る。グッド、なかなか自然な感じだ。そして、海渡がすぐ追いついた。練習直後だから少し息を切らしている。
「魅伊沙……久しぶりだね。何かいきなりでビックリした……」
「ごめんね……海渡、タオル取っちゃって」
「別に魅伊沙が謝らなくていいよ。俺の不注意だよ」
あれ、海渡なかなかいいやつだな。魅伊沙と並ぶと、海渡はやはり背が高いのが目立つ。ちくしょう、魅伊沙てめえ、さっきから完璧に恋する少女の目になってやがる。同じ身長差でも、きっとボクが道で大型犬を見上げる感覚とは全然違うんだろうな。当たり前か。
「タオル、ほんとごめんね」
「いや、大丈夫、気にしてないよ」
「……ううん、汚しちゃってほんとごめん!」
魅伊沙がこっちを見る。ったく。今日は献身的に徹しようと思い、タオルをさらに踏む。踏む。踏む。見ろこれ!
「乙女ちゃん、ダメだよ!」
魅伊沙にタオルを取り返されて、ボクは甘えるような仕草をして、魅伊沙の足下にすり寄った。我ながら見事な助演女優賞ものの動きだ。
「乙女ちゃんて名前なの?」
そうです。恥じらう乙女です。
「うん。女の子なの」
「散歩?」
「一応、散歩の途中だったの。ちょっと、学校に寄ってみたくなって」
台本からして苦しいのだが、ある程度の強引さは仕方ない。
「散歩で……こんな場所まで?」
海渡、散歩に食いついてくるな。そこは自由だろ。どうする魅伊沙。
「わっ、わかんないけど、バスケの音が聞こえたから、いるかなーと思って来ちゃった」
いや、それは――。案の定、二人の間に微妙な空気が走る。魅伊沙はずっとタオルを戻さず、そのまま握りしめている。頭がもうショート寸前なのかもしれない。体育倉庫で初めて話したときはたぶん意識してなかったから、普通(より若干馴れ馴れしいくらい)の感じだったのだろうが、逆に今は目標地点までどう話をつなげたらいいかを考えてしまい、息苦しいはずだ。だが、それがいい。ボク的にはね。
「――そうなんだ」
海渡は少し落ち着いた顔つきになる。
「う、うん。学校、好きなんだぁ」
「俺もだよ」
「うん」
海渡は魅伊沙のことを少し見る。
「――私服かわいいね」
「えっ?! な、何で?」
魅伊沙の顔は真っ赤になった。
「夏っぽくていい感じだね」
「うん……ありがと」
「前と同じで、今日も何か偶然なんだけど、魅伊沙とまた話せてうれしいよ」
海渡あんた……ボクは幻想系創作物語の中で、ニブい男主人公を飽きるほど見ているが、お前は違う。タオルを返してとすぐ言わなかったのも、海渡の何らかの気持ちなんだろうとボクは思いたい。体育倉庫のときと違い、今は海渡がタオルという言葉を口にしたら、この偶然の時間は終わってしまうはずだ。ところが海渡は、飼い犬や私服のことを話したり、前のことを思い出したりと、自分が追ってきた理由は横に置いている。それは、海渡も自覚してやってるんじゃないかと思える。
海渡がもし恋愛経験がそこそこあるなら、それは魅伊沙の性格を上手に包み込んでくれるかもしれない。けれど、もし別の誰か(恵麻か、それとも他の女の子か)と現在進行中なら、魅伊沙にとってつらい結果になるかもしれない。まあ、ここまで来たら、それは悩んでも仕方ないことだ。
さて、ボクはこのあたりが頃合いだと思って、リードをグイッと引っ張った。そして前足で土を蹴る仕草をした。これが第二の合図である。魅伊沙の頭のヒューズが飛んでいなければ、ちゃんと反応してくれるはずだ。飛んでたらもう一回タオルに突撃だ。いや、決して汗の匂いが「……海渡」
魅伊沙が言った。
「――なに?」
「この後、何か予定ある? あたしね、この子がタオル汚しちゃったし、何かお詫びがしたいの。絶対」
良かった。魅伊沙はちゃんと作戦を覚えていてくれた。
「まあ、タオルくらい平気だけど――この後は部室で着替えて、家に帰るだけだよ」
「……それってヒマってこと?」
「うん、そうだよ」
すると、魅伊沙の表情がパッと明るくなった。
「じゃあさ、東門で待ってていい? もうちょっと話したいことがあるの」
海渡はゆっくりうなずいた後、思い出したように、ちょっと首をかしげた。
「門のところはバスケ部の連中と一緒に通るからな……。門を出たところのコンビニじゃダメ? あそこなら涼しいし」
「わかった! そうする!」
魅伊沙は跳ねるようにうれしそうな返事をした。土で汚れたタオルは魅伊沙が洗って返すことになり、トートバッグに畳んで入れた。ボクのiPadは問題ない。土で汚れた前足で使っても壊れないほどなのだ。
そして、一旦ここで二人は分かれた。海渡は部室へ、魅伊沙は校庭を越えて東門へ向かう。ところが、魅伊沙は少し歩いたところで、いきなり悲鳴みたいな声を上げた。
「あっ、携帯!」
慌てて海渡のそばに舞い戻る。要するに、連絡用に携帯を教え合おうとしたのだ。ただ、海渡は練習中なので携帯を持っていなかった。魅伊沙はバッグから小さなメモ帳を取り出し、ペンで自分の番号を書いた。
「これ……あたしの携帯っ!」
「わかった。じゃあ、後ですぐワンコールするよ」
魅伊沙はほっとして胸を撫で下ろし、手を振って、夏の日差しの下へ戻った。
コンビニの暑い店先で、リードの先を電柱につながれながら、ボクはここまでのプロセスを振り返った。一応、順調ではあると評価できると思う。
魅伊沙はコンビニの店内で立ち読みしながら、海渡からの連絡を待っている。そわそわしていて、どうせ雑誌の内容なんて頭に入ってくるわけもない。今回初めてラヴ・マネジメントを実践してみて、哺乳類の中でも、ヒトは恋愛に異常なくらい多くの時間と手間を割くのだなと思うが、きっとそれが平均八十年くらい生きる人間の尺度なのだろう。パンダなんて一日のうち十時間も食事に費やしているらしいが。まあ、それはそれとして。
ふと、ボク自身のこのマネジメントのゴールは何だろうか、と考えてみた。WHO=ボクと置いた場合の目標だ。ボクが(WHO)、今日(WHEN)、学校やドッグカフェで(WHERE)、デートプランに協力し(HOW)、魅伊沙の告白を応援する(WHAT)、となる。
――さて、何のために?(WHY) 整理すると、どうもそれが欠けている気がした。理由の部分は、魅伊沙の恋を成就させるためとか、夏休みにきちんと勉強させるため、というのが頭に浮かんだが、なぜかどっちもしっくり来ないのだ。それは、ボクがボクなりの覚悟で舞台へ上がるほど、どうしても達成したいことなのだろうか。
学校で習っておきながら、全部きれいに説明できるわけではない、とボクも思う。だとしても、ここで目的を見失うと、ボクはその場の感情や考えに流されてしまう不安を抱いた。しかしまあ、真夏の暑い店先で、気もそぞろな飼い主に水を与えるのも忘れられて、ちょっとボクの頭もオーバーヒートしそうになっているのかもしれないが。
魅伊沙が携帯を開いた。無事に着信があったようで、ニコニコした顔でこっちに手を振る。画面も見せてくれたが、小さいし、店のガラスに反射してるし、全然見えませーん。でも、動き出した純情列車を見ているのは楽しいので、愛想良くしっぽを振って応えた。
海渡はちゃんと来てくれた。練習で汗びっしょりだったタンクトップは着替えて、サラッとした明るいグリーンのTシャツを着ていた。バスケットシューズから白いスニーカーに履き替えている。顔もさっぱりしていて、汗の臭いも消えている。
海渡は、携帯をポケットにしまうと、電柱につながれたボクの顔を見て屈託なく笑った。魅伊沙がコンビニから小走りに出てくる。ポカリスエットを買っていて、海渡にパスした。
「ありがとう」
海渡は一気に半分くらい飲んだ。何だかいい雰囲気だな。ボク暑いんで帰ってもいいですか? ボクの水はやっぱりないしね。てめえ魅伊沙帰ったら説教だからな。
「待たせてごめんな」
「ううん、大丈夫!」
「お腹空いたなぁ」
「そうだね」
「魅伊沙はお昼ごはん、まだ?」
「うん、まだ。今日は外で食べようかなって思ってて……。あのさ、お昼、あたしにおごらせて! お願いっ! ダメっ?!」
がっつくな。落ち着け魅伊沙。もう少しキャッチボールが必要だろ。
「わかった。今日はゴチになるよ」
海渡は爽やかな笑顔で即答した。海渡いいやつだな。親心でもないが、魅伊沙が好きになった相手がこいつで良かったかもしれない。普通に考えて、海渡の気持ちは魅伊沙に向き合っていると思っていいのかな。今日は、と言うあたりが魅伊沙の心を余計にはずませるような気がした。
ゴクゴクッとのどを鳴らし、海渡はポカリスエットの残りを飲み干した。
「もう行く?」
「うん!」
「お店、どこにしよっか。てか、散歩中だけどいいの?」
「あっ、大丈夫。あたし、犬も連れて入れるお店知ってるんだ」
「ほんと? 助かるよ。俺、そういうの知らなくて」
「海渡は犬、平気……?」
「俺、大好きだよ」
目が合った。――ズキューン!
って何でボクがそうなるんだ。今の古い効果音、要らんだろ。ブルッと来たのは条件反射だ、気にするな。とりあえず、海渡が犬派で良かった。猫派だったらハフハフハフハフして何とか犬派にしてやろうかと企んでいたのだが、そこまで体を張る必要はなかったようだ。ボクも無闇に手を汚したくない(海渡の手という意味で)。
「魅伊沙は犬好きなんだね」
ドッグカフェに向かう途中、並んで歩きながら海渡が聞く。見ればわかるんじゃね?
「乙女ちゃん、かわいいでしょ? 中学生のときに買ってもらったんだ」
「よくなついてるね」
「うん。あたしにべったりなんだよ」
いや、教育係ですから。別にあんたのためにそばにいてやってるんじゃない――いや、あんたのためにそばにいてやってるんだからねっ! どっちだ。
「俺のうちはペットいないから、すごくうらやましいよ」
「友達みたいなんだよ。たまに悩みを聞いてくれるしね」
まあ、いつも説教で返すが。そしてこいつは長文を読まないが。それくらいで友達と言うなら、長文まで読んでもらうには大親友くらいに昇格しないと無理だろうな。遠いなぁ。
「ねー、乙女ちゃん!」
どうでもいいが、魅伊沙は頭がお花畑状態のようで、まだ大事なことを何ひとつ聞いていない。もちろん、それはドッグカフェに着いてからでいいのだが、まさか平和で楽しいひと時を過ごしてそのまま帰るつもりじゃないよな。犬紙には書いてないが、もしそれで終わっても部屋で半分くらいはおしっこするぞ。覚悟しておけ魅伊沙。恥ずかしいけど本気だからな。と睨みをきかすが、見ちゃいない。
ドッグカフェ『ウェザーリポート』はコンビニから十分くらい歩いたところにあった。散歩コースと違うのであまり来ないが、ボクの誕生日には、このゆとり少女の母にここの特製クッキーをたくさん買ってもらう。店の前に来ると、ボクの目線の高さに宣伝ポップがあり、『当店のクッキーは、犬のネット投票で決まったレシピです』と書いてあるが、そんな投票は見たことがない。だが、確かに味も香りも口触りも絶品である。
海渡は無邪気な感じで、魅伊沙に笑顔を向ける。
「うわぁ、ドッグカフェって初めて入るよ。なんか楽しそうなお店だね」
「海渡はこういうかわいい感じのお店は平気?」
「心配ないよ。魅伊沙はよくここに来るの?」
「うん……と、まあ、乙女ちゃんがぐずった時にはね」
おい、そんなこと一度もないだろ。どの口が言うんだ。魅伊沙、帰ったらほんと説教だ。
とりあえず、やっとエアコンの効いた店内に入り、二人向かい合わせのカップル的な席に通されて、ボクも一息つく。レジの前には、この店の看板犬である、手入れがきれいに行き届いたオス犬が二匹アンニュイなアフタヌーンボートを漕いでいる。はい、起きてー。
念が通じたのか鼻が反応したのか、二匹とも目を覚ました。この店の兄弟看板犬はボクより若いゴールデンレトリバーで、フウジン(兄)、ライジン(弟)という名前だ。なんという悪天候な名前を付けるのか。飼い主の店長もなかなか冗談が好きなようである。フウジンはストレートヘアで、ライジンは癖ッ毛だ。
実はかなりの人気者で、犬のファッション系のSNSにファンコミュニティがあるほどだ。二匹ともプロフィールに『趣味は三味線、夢は全米を吠えさせる!』と書いてあったのは、冗談好きな店長の落書きに間違いないだろう。いっぺん肉球で弾いてみろ。津軽に謝れ。そして全米に謝れ。
ちなみに二匹ともしゃべらないし、ブログすら何も書かない。しゃべったり書いたりしたら終了、という人間のアイドルと同じだ。自爆しないようによく訓練されている。
さて、ボクにストーカー疑惑が出そうなくらい話が脇道に逸れてしまったが、本日のヒロイン魅伊沙もだいぶ舞台慣れしてきたようで、海渡と一緒に人間用メニューを見ていた。ここはサンドイッチやパスタの種類が多くて、肉の臭いの強い料理はほとんど置いてない。まあ、マネジメント犬であるボクが役目を放り出して狂乱する様子はさすがにお見せできないからな。テーブルの上で人間二人が迷っている間に、女性店員が気を利かせて、ボクの鼻先にも犬用メニューを出してくれた。
そう言えば、いつも店頭でクッキーを買うだけだから、ちゃんと店内メニューを見たことなかった。いろいろ写真が並んでいるが……つなぎ五割カットのハイブリッド肉団子、早起きして捕まえた鶏団子、伝説の海女直伝のエビ団子、シェフの気晴らしエコ団子、シンデレラが置いて帰ったカボチャ団子。何かもう団子ばっかりだし! 最後のは何だ。悲しい響きがあるのは気のせいか。いや待て、最後から二番目は素直にありあわせと書け。お茶目店長、やめて、疲れるから。
結局、上の二人は両方ともサンドイッチを選んだようで、ボクは一番無難そうなエビ団子に決めた。一応、注文は犬用の料理も含めて人間がするので、魅伊沙にエビ団子の写真を指差し、確認する。一瞬、あんた食うのかよ、という曇り顔を魅伊沙はしたが、もし裏切られたらここでもうおしっこを、いや違った、恥らう乙女は少しすねて足を甘噛みするつもりだったが、戦争が始まらずに済んだことをここに報告しておく。
さて、ラヴ・マネジメントの話に戻ろう。ボクは心の準備ができていた。食べ物を待つ間に、魅伊沙にiPadをバッグから出すようねだった。バッグにすがりついたら第二ステップの合図なのだ。魅伊沙はいくら頭の中が渚のウミドリ状態でもさすがに基本作戦は覚えているようだ。すっと真顔に戻る。
一方、海渡は、ほんとに犬を飼うのに憧れてるような感じで、二本足で魅伊沙にすがるボクの姿を見て、楽しそうに目を細める。なんだお前も、ういやつか。しっかりしたマネジメント犬のまわりには、ういやつが集まるな。おい、ういやつの意味が曖昧とか言うな。言いたいだけだ、許せ。
ボクはiPadを床に置いて電源を入れた。海渡も犬は飼っていないそうだが、犬がiPadを使えることは当然知っていて、特に驚きはない。逆に驚くほうがちょっと常識を疑うが。たぶん、ファミレスに入った親子連れの子供が携帯ゲームを始めるようなくらいに見ていると思う。当然だが、こんな場面で例の人工発声アプリをそのままオープンにしゃべらせるつもりはない。実は昨日、ゆとり父の部屋から、とある機材をこっそり借りてきたのだ。超小型のワイヤレス骨伝道イヤホンだ。それを魅伊沙の両耳のピアスに取りつけてある。もちろん、魅伊沙はすべて承知している。
落ち着いた前足裁きで、iPadで書く文章の人工音声の飛ばし先をそのイヤホンに設定する。残念だが、人工音声の話し方は例の美人家庭教師モードになってしまうのだが、仕方ない。魅伊沙のノイズを間引く守備力を信頼することにした。仕組みとしては、ボクがiPadで書いた文章が、人工発声アプリで(エロエロな)声になり、イヤホンに飛んで、骨伝道技術によって魅伊沙の聴覚だけに聞こえる、というものだ。
いくら近くに海渡がいても、ボクの送ったメール内容は聞こえない。で、魅伊沙が携帯をわざわざ見なくても自動的にボクのメッセージが耳に届くのだ。これぞ新世紀の「君に届け」方式だ。もちろん、昨晩のうちにテストもしっかり済んでいる。5W1HのHOW(手段、方法)とは、ここまで妥協なく徹底的にやるから、実を結ぶのだ。ボクはそう信じる。ただ、この方法はDog知恵袋の多角系恋愛問題解決(CLM=クロス・ラヴ・マネジメント)のカテゴリマスター犬から情報をもらったことは魅伊沙には当然秘密だ。
ただ、ボクはテーブルの下にいて、最初の一文を書き出すことを少し悩む。正直、犬紙による激励と、タオルキャッチ・アンド・ランのきっかけ作りをすれば、そこまでの助力をして、あとは魅伊沙の本気度を見極め、成り行きに任せたいと考えていた。情報としていろんな方法を集めたのだが、本当に魅伊沙がやり切れるのか、本当に魅伊沙の想いが実現するのか、本当に――これから魅伊沙はボクのマネジメントをきちんと受け入れてくれるのか、迷った。
昨夜のやりとりを思い出す。風呂から上がってきた魅伊沙。
【真実を聞き出す台本を考えた】
魅伊沙の携帯にタイトルだけのメールを飛ばす。
「――ははっ。あんた、やっぱり犬ね」
【何が言いたいの?】
「だって、あたしが自分で聞くって言ったじゃん。何であんたが台本考えるのよ」
ボクの前足が止まる。
「……うちのパパってさ、管理職だけど、五時半に会社を出るんだって。パパが帰った後も、部下の人とかはみんな仕事してるんだけどね。パパは気楽な性格だよね」
魅伊沙の意図がつかみづらくて悩んだが、饒舌なボクにはずっと黙って何かを待つことは無理だった。動き出していたのは、実はボクのほうだったのかもしれない。
【それとこれとは、同じなのかな? ボクもうまく言えないんだけど】
相変わらず、長くてつまらない言い方だ。魅伊沙はベッドの上でひざを抱え、窓の外に落ちた夜をぼんやり見つめている。
「……まあ、そうだよねぇ」
ポリッ、とポッキーのしっぽを口に入れた。
「乙女ちゃんが正しいのかもね」
【ごめんなさい】
「ううん。まだ謝んないで」
【まだ?】
「――じゃあ、明日だけ、あんたの台本使わせてね。そうじゃないと、この震えが止まんないの」
明日だけ。そのひとつの言葉が何となく重かった。
【わかった】
「でも」
【でも?】
魅伊沙は深くため息を吐く。
「ごめん、今日は――台本聞かずに寝るわ。あたし、今日は無理だわっ」
口元は笑いながらしみじみと言い、ころんと横になった。
【ボクがそばにいる】
携帯をゆっくり顔から離した魅伊沙と、まっすぐ目が合った。
「ふふっ、ほんと頼むぜ。本番がんばるよ」
ボウルに入った香ばしいエビ団子三個が鼻先に届いた。女性店員が愛想よく手を振る。上の二人の料理より来るのが少し早かった。仕事が終わってから食べるか、さっさと食べてしまうか一瞬迷ったが、どうにもたまらない至福の匂いに負けた。夢中でかぶりつく。うまいな。うまいなこれ。店長はどうしようもない冗談好きだけど、やっぱうまいなここ。センスは最悪だけど、腕がいい。
またこの店、来れるかな。んー、どうかな。どうだろうな。ボク次第なのかな。
いや、また来るんだけどさ。ボクの誕生日に。ねだれるかな。ボク的に。
ボク的に。
魅伊沙、好きだからな。ボク。これでもさ。むかつくけどさ。
友達だから。親友。遠いなぁ。
はあ。
食った。
もうない。皿なめるか。味しねえや。
――さて。
【サンドイッチおいしい?】
iPadを叩く。とりあえず、これくらいで送るか。送るぞ。よし、送った。テーブルの下、魅伊沙のすらっとした足が少し震える。メンタル弱いなぁ、どっちも。お互い様なんだけど。
「サンドイッチって、やわらかいパンにぎゅぅっと挟まってて美味しいね」
魅伊沙……意味わかんない上に、エロいよ。やっぱりエロアプリのせいで、余計な付け足しが入ったか。そして、魅伊沙のエロアプリフィルターもさすがに緊張してて機能は半分程度だな。まあ、でもギリギリ不自然じゃないか。海渡もそうだねって機嫌よくうなずいてるし。じゃあ、ごめん、もう一回だけ、通信テストね。
【今日の天気は?】
「晴れ?」
違う、魅伊沙、答えんな。話題です、話題だよ。今のはアプリのせいじゃなく、こっちの振り方が悪かったな。ごめん。次は大丈夫だから。
「どうしたの?」
海渡が不思議そうに聞く。
「ううん、何か晴れてて良かったよね」
魅伊沙が自分でカバーする。
「そうだね。まあ、体育館だけど」
口に物を入れながら笑った。男はそういうのが何でちょっとかっこいいんだろう。
「うん」
【違うよ、晴れてたから散歩で寄り道したくなったの】
送る。そういうことじゃないと思うが、いいんだ。もう送った。センスは最悪だ。だけど、腕は。ボクだって。
「……」
言えよ!
はいはい、そういう意思表示ね。まあ、たぶん寄り道したくなったの後にエロい付け足しがあったことも否定できないが、それは間引けるはずだろう?
了解。魅伊沙の力だけで、いい雰囲気は十分できてるもんね。悪かった。余計なことはもうしないよ。だけど、そばにいるからな。今日は最後までそばにいるからな。想いは一緒だからな。
【ごめん。台本通りに行く】
本当は、台本なんてたった三行しかないんだけど。これでも目一杯絞り込んだんだけどね。教科書なら十行、友達なら三行、親友なら一行なんだろうな。これがボクの限界です。
魅伊沙はお互いのサンドイッチの話を適当にしながら、間をつないでいる。この感じなら自分で聞けるはずなのに、そう、いつもみたいにボクの存在とか無視して勝手にそうしたっていいのに、どうしてボクの台本を律儀に待ってるんだ。ばかだろう魅伊沙。耳が熱くなる。一旦、画面を変えて昨夜考えた台本メモを開く。一番聞きたいことに、うまい流れなんかあるか。クソッ! ああクソッ! ほんとクソッタレめ!
ミサイル一発目だ。
【話変わるけど、海渡くん、古着とかって好き?】
いやこれ、話題変わりすぎだろ。いま、サンドイッチトークタイムですよ? ごめん、送っちゃった。よろしく。
だが、ボクは魅伊沙を見くびっていた。バレーと同じだ。サーブを打ったから点が入るわけではない。相手が打ってきたボールを一度レシーブし、そこからトスして相手コートにドンピシャでアタックする。実に、この国の国民性によく合ったスポーツだと思う。緊迫していたのでひどい実況解説になったが、つまり、魅伊沙はいきなり古着の話をせず、先にいくつか服や靴のことを話して、その流れで古着のことを聞いたのだ。その間、ボクはしっぽを毛先までピンと立て、固唾を飲んで状況を見守っていた。
海渡はごく自然に話す。
「古着はたまに買いに行くよ」
ミサイルではない。ドアの鍵みたいなもの。渡された人が、ちゃんと鍵穴を探し、手に持ってぐっと差し込む。とにかく、それはきっちり命中した。
<恥ずかしい乙女さん。代行すんなよ。それはアウトソーシング、下流ね。マネジメントは常に上流に立つ。桃を拾って太郎を育てるんじゃなくて、桃を流して鬼を滅ぼす役ね>
昨日、ボクがだいたい作戦のアウトラインを考え終えた頃合い、最後のほうでたまたま、ひとつ上流からゴロッと流れてきた傲岸不遜なツイート。桃を流して鬼を滅ぼすとか、どんなぶっ飛んだ喩えだよ。しかも、わざと『恥ずかしい乙女さん』て書いてるし。絶対に読ませたい、という強烈な意思がみなぎっている言葉。しかもこの続きはなかった。ボクが問い直しのレスをしても返事はなかった。桃を流して終わりなのかお前は。
そのときはただ、いけ好かない言い方だなとしか感じなかったが、風呂上がり、魅伊沙から『何であんたが台本考えるのよ』と言われたとき、これが突然脳裏に戻ってきて、ボクの思考を激しく揺さぶった。これは予言といえば予言だ。『恥ずかしい乙女さん』と呼ばれたことまで含めて、何もかもが見透かされていた気がした。
ある意味、『舞台に上げなさい』と言った犬が魅伊沙の本質を見抜いていたとしたら、『代行すんなよ』と言った犬はボク自身の本質を見抜いていたということか。くだらない。くだらない。人に伴走するのが犬の本能だ。ボクは川に桃なんか流せない。体が小さくとも、視界が狭くとも、見える範囲で、聞こえる範囲で、話せる範囲で――ボクは! ボクは!
桃を拾って太郎を育てることを誰がやるんだ!
そうして台本は三行で止まり、今朝を迎えてしまった。寝起きはのどが渇いたが、ベッド脇のボウルに溜まった夏の水はぬるかった。
――ボウルに入った冷たい水が鼻先に置かれる。女性店員がまた愛想よく手を振った。それから、上の二人のコップにも水を注いでくれたようだった。
店員が離れた後、海渡はどんな古着をよく買うかを楽しそうに話している。それを聞く魅伊沙の胸は苦しいだろうか。それとも案外、悪くない雰囲気だから平気になっちゃったんじゃないだろうか。……やばい魅伊沙が見えなくなってきた。
『代行すんなよ』という、ボクの責任感を打ち砕くような痛烈なメッセージをこの場面で再び思い出し、ボクはどのタイミングで次の玉を送っていいのか、よくわからなくなってしまった。ははは。この程度でパニックになって、どの口がマネジメント犬だって? 舞台を下りるのも決意が要るってのに、それがないのがボクじゃないか。
ガタッとイスが鳴り、海渡が席を立った。トイレに行くと言っている。店員に教わりトイレに入った次の瞬間、突然、iPadにメール受信のアラートが来て驚いた。
【助けて! 次が聞けない】
タイトルだけ。本文はなかった。飼い主からの切実なメッセージ。
水を飲み、鼻を少し濡らして気持ちが静まる。二行目を準備したところで、海渡が戻ってきた。送る前に確かめる。
【この前の日曜日、もしかして古着街を歩いてなかった?】
質問はシンプルだ。送ると、魅伊沙はいきなりそれをストレートに聞いた。やっぱり切羽詰まってたのか、それとも古着の話が終わったら台本に従いづらくなるからか。
海渡はどう答えるんだろう、とテーブルの上と下とで耳を澄ます。
「あれ? もしかして見たの?」
判定は微妙だな……。嘘やごまかしを言う男ではなさそうだが、いまいち詰め寄り方がわからない。悩んでも仕方ない。もうここは迷わず畳みかけるべきだろう。台本の三行目をコピペし、送る間際に一言足した。
【知ってる女の子と一緒だったから話しかけられなくて。ごめん、タイミングは任せる】
そして、送った。ボクに後悔はない。
さらに、それを受け取って、すぐそのまま言葉に出していった魅伊沙にもたぶん迷いや後悔はなかったのだろう。
「えっ? 魅伊沙は、恵麻と友達なの?」
海渡の口から恵麻の名前がすぐに出た。恵麻とも呼び捨ての距離感なのか。海渡の質問に魅伊沙はすぐ「うん」と答えたが、本当は逆に聞き返したいはずだ。
「海渡、恵麻ちゃんと付き合ってるの?」
そう、それが聞きたいんだよ、このやろう。――っておい! 魅伊沙もうそれ聞くのかよ。でも、もう聞いちゃったしな。うわわわわ。
違うと言え! 違うと言え! 言ええええええっ!
「……答えない、わけにはいかないよね」
海渡が初めて煮え切らない言い方をした。スパッと一刀両断されるほうが良かったはずなのに、なぜか不穏の影が差す。魅伊沙だってもう引き下がれない。ボクはもう手助けができない。ここからは神のみぞ知る領域だ。
「――知りたいの」
「恵麻から聞いてって言われたの?」
海渡の声が少し上ずって震えている気がした。
「え、どういう意味?」
「はあ。そっか、こういう展開かぁ……」
深いため息をつく。それは海渡のほうだった。
「わ、わかんない。何なの?」
テーブルの上も下もかなり混乱している。這い上がって落ち着けー、落ち着けーと魅伊沙の手などを犬らしくなめたかったが、ボクを頼る情けない顔をまだ見たくない気持ちがわずかに勝っていた。ボクは床にはりつき、海渡の言葉をひとつずつ受け止める。
「恵麻はバイト仲間だよ。古着屋街は、店から駅までの通り道なんだ」
「う、うん」
「ここからは魅伊沙だけに話すよ。俺さ、恵麻にいきなり変なこと言われたんだ」
「……変なこと?」
「俺のことをすごく好きな友達がいるって。今度、俺に会わせたいって」
「えっ?」
「最後まで聞いて。でもな、そのすぐ後、恵麻も俺に半分告白みたいなことを言ってきたんだ」
海渡は、胸に何かが詰まったような沈んだ声になる。
「俺のことを、なんか好きってわけじゃないんだけど、一緒に二人で遊べなくなるのはつらいって。……そう言われたら、俺はどんなふうに恵麻と接していいかわかんなくなって」
魅伊沙は黙って聞いている。
「だから、俺も恵麻に言ったんだ」
「……何を?」
「もし俺がその友達に会って、その子を好きになったら、恵麻とは前みたいに会えないって」
「どうして?」
「どうしてって――俺は、それが恋人だと思うんだ。間違ってるか?」
恋人。突き刺さる言葉。
「そ、それで? 恵麻は?」
「笑って逃げた」
海渡は乾いた笑いを漏らした。魅伊沙は何も返さなかった。
ボクはテーブルの下でじっと聞いていた。ボクは恵麻のことは昨日初めて聞いたくらいなので全然知らない。ただ、自分に好意を持っているかもしれない相手を、そんなふうに試しておいて逃げるのか、と思う。正面から向き合えないなんて、バカだ。舞台から逃げるなんて。もちろん、恋の問題を犬に頼る魅伊沙のほうがよっぽどバカだけど、やりたいことは、竹を割ったように(割れずに折りそうだが)はっきりしていた。
海渡はふう、と重いため息をつく。
「そしたら、昨日の夜いきなりメールが来たんだ。友達が、明日たぶん学校に行くからよろしく、って」
なんだと? どうして恵麻に情報が漏れたんだ? これはどうなってるんだ?!
「ごめん。俺は、魅伊沙をコンビニに待たせてる間、恵麻にメールした。確かに女の子が来たよ、このまま会っていいのか? って送ったんだ。それで……もし会わないで、と言われたら」
「――それ以上は言わないで」
魅伊沙は海渡の言葉をさえぎる。胸がチクチクと痛む。それはボクだけではない。ここにいる三人がそれぞれの痛みに耐えている。時間が進まなくなった。
無機質に前へ進むのは、iPadの隅にあるデジタル時計だけ。
「海渡、困らせてごめんね」
魅伊沙が小さな声でそう切り出す。
「え?」
「昨日の夜のメールなんだけど、あたしが恵麻にメールしたからだと思う」
――えっ? えっ?! どういうこと? 魅伊沙は恵麻にメールしてたのか? 海渡に会いに行くって?
「……そうなんだ」
「そしたら、あたしが本気なら止めないよー、って返ってきた」
「――それだけ?」
「うん、それだけ。ほんと、困っちゃった」
二人の間にまた沈黙ができる。
まさか、自分から恵麻にそんなメールを送るなんて。それをボクにも黙ってるなんて。わかってて、ボクの台本を使うと言うなんて。そうか、ボクが動き出す前に、魅伊沙の心が動き出していたということか。もうどっちが動いたとか、どっちのリードとか、関係ないんだな。
会いたい聞きたい伝えたい、という大きな想いを与えたのは、きっと神様なんだ。
ボクはiPadから前足を完全に離した。
「あたしからちょっと聞いていい?」
「うん」
「恵麻のことは好き?」
真夏のラストイニング、死ぬ気で投げた直球。
ボクは女子マネージャーのように、何かを信じ、目をつぶった。
「――嘘なんかついても仕方ないから、正直に言うよ。少し前まで好きだった」
「……少し前まで?」
「わからない。でも、まだ好きな気持ちが残っていることは確かなんだ」
海渡はひとつずつ言葉を絞り出すように答えた。
「あたしもね、今日はそれが一番聞きたかったの」
「……わかった」
「次の質問。あたしとまた話せて良かったって言ってくれたけど、あれは本当?」
「本当だよ」
海渡はまっすぐ答える。悲しいくらい、気持ちのいいやつだった。
「最後の質問。一人じゃ恐かったから、犬の乙女ちゃんまで協力させたの。怒ってない?」
魅伊沙もまた、悲しいくらい、気持ちのいいバカだった。
「怒ってないよ。たぶんそうだと思ってた。乙女ちゃん、かわいい犬だね」
ズキューン!! ボクもまた、悲しいくらい(以下略)
「今日は帰るね。ほんとありがとう。すっごい楽しかったし、ドキドキした」
魅伊沙は明るく笑う。
「うん」
「ねぇ、海渡。また一緒に遊びに行こっ! もしあたしを好きになったら告白して」
海渡の驚く顔が目に浮かぶ。
「――そうだね。俺からもメールするよ」
海渡は男らしい返事だった。時計を見れば、たった一時間ちょっと話しただけだが、決して器用でも不器用でもなく、相手の気持ちの奥を察してくれて、けれど雰囲気に流されなくて、相棒の犬の企みにも気づく洞察力があって、そして犬好きだった。
魅伊沙が体育倉庫で閉じ込められて惚れたと聞いたとき、いわゆる「吊り橋効果」みたいなもんだったんじゃないか、と疑って悪かった。閉じ込められたのがボクだったら、たぶんボクが惚れていた。まあ、エロ家庭教師の声でしゃべったら確実に引くだろうけど。
それから、今日初めて、魅伊沙を少し憎いと思った。海渡の気持ちを動かし、本心をぶつけあった魅伊沙を、ボクは憎いと思った。やればできる子じゃないか。そう、ボクも魅伊沙もやることは果たした。今日は一緒に風呂に入ろうね。
帰り道、魅伊沙と並んで家に向かう。ボクたちにとっては思いも寄らない展開ばかりだったけど、足取りは案外しっかりしていた。海渡とは店先で分かれたが、魅伊沙の表情もそこまで沈んではいなかった。
魅伊沙のトートバッグには、iPadと犬クッキーの袋が入っている。アンニュイな顔のフウジン・ライジン兄弟に見送られて店を出るとき、海渡が何も言わず、おみやげにボクのクッキーを買ってくれたのだ。あいつ神だ。いや、冗談でなく。あんなに大変なランチの後に、ボクの顔を見てそういう気持ちになることがちょっと驚きだった。海渡には心から犬好きの称号をあげたい。
店から少し離れたところ、静かな住宅街の真ん中の、公園の大きな木の日陰に差しかかり、魅伊沙は立ち止まり、自販機で飲み物を買おうとする。蝉の鳴き声が降り注ぎ、鳩は止まって動かない。百円玉が落ちる。拾おうと思ってしゃがむ。だが、魅伊沙はそのまま立ち上がれなかった。どうしたと思って下から覗くと、顔を真っ赤にして、瞳にいっぱい涙を溜めていた。右の一粒がほほをつたって流れる。左も。一度流れ出すと、もうまったく止まらなかった。
今日、三人の恋が同時に終わった。自分が本気でないと自覚した少女、それを知ってしまった少年、そして少年がそれを悲しむ姿を見てしまった少女。神様はおそろしき存在だ。全滅だ。まさに上流から流れてきた何かが、すっかり全滅させてしまった。
ボクは泣きじゃくる魅伊沙の背中をただ見ているしかなかった。後ろを人が通ろうと、車が通ろうと、ボクはこのまま流れる時間の意味についてずっと考えた。魅伊沙にとって高校二年の夏休みは昨日はじまったばかりだ。けれど、いま、道端にうずくまり、声を出して泣いている。そして、こんなときに、海渡にタオルを洗って返す約束をしたのを思い出したボクは、どうしようもないくらい残酷な性格をした一番近くにいる友人だった。
今日、ボクのラヴ・マネジメントも同時に終わった。ご覧の通り、失格である。魅伊沙を行動に駆り立てるのは早計だった。それに、一度に深くまで踏み込みすぎた。初めての一目惚れを、もっともっと大事にすべきだった。これは、マネジメント側の失策だ。それなのに、何でボクだけクッキーなんかもらって、海渡にしっぽを振ったんだ。ああもう、いっそのこと、あの店の植木から土でも持ち帰れば良かった。ボクは、黒いアスファルトが増幅する暑さに頭をやられて、そんな愚かしいことをぼんやり考えていた。
やがて、魅伊沙は息を整え、グスッと鼻をすすりながら、一人で立ち上がった。申し訳ない気持ちでいっぱいで、恐る恐る足下にすり寄ると、赤くはれた目と少し落ち着いた表情で振り向き、ボクの首筋をヨシヨシとしてくれた。反射的にその手をハフハフして返す。いやこれ、反射的なんだ。傷をなめるみたいで……ほんと、ごめん。
「あー、すっきりした」
もちろん、そんな顔には見えなかった。けれど、魅伊沙はそう言いたかったのだと思う。ボクにもわかる。
「乙女ちゃん。汗かいたし、帰ったら一緒にお風呂入ろうねっ!」
ボクたちは、気持ちいいくらい同じことを考えていた。
そして、帰宅後の風呂では、それはもう二人して真っ裸で慰め合うように騒ぎまくったが(特にボクが)、恥ずかしいので詳細は控えておく。残念とか言うな。わかった、乳成分はラストシーンで少し書くから、我慢してくれ。大人になれ。
さて、あれから二日経ったが、昨日も今日も暑い日が続いている。ボクは立ち直るのにどうしても一晩だけ時間を費やし、結果としてクッションをひとつダメにしたが、もうそれ以上は悔やまず、本来のマネジメント犬に戻ることにした。きちんとやるからには、もう一度心を決めるべきだ。
ボクは、あれからずっとベッドでふて寝したまま起きる気力のない少女に、新しい目標を見つけさせてあげたい。沈んだままの時間に意味はない。また頑張れるように、彼女に自信を持たせてあげたい。そう考えている。あやふやだった、ボク自身がなぜここにいるのかの理由(WHY)は、いまになってようやく少し見えた気がした。
iPadを起動する。SNSで助言に協力してくれた犬たちに向け、ごく簡単に御礼を書いた。この本番に弱くて勘違いの多い半熟マネジメントを何匹ものお節介な犬がフォローしていたみたいで、すぐにたくさんの反応があり、多角系恋愛問題解決カテゴリマスター犬までもが食いついてきたが、詳細は書けなかった。ボクの中でまだ整理できていなかったし、恥じらう乙女はベラベラ吐露するものではないのだ。
レスが終わったところでボクは、あるファイルを開いた。これは、夏休みに入る直前に六アニからボクたち生徒に出された課題レポートのフォーマットだ。目標設定、学習計画、生活指導、云々うんぬん――そんな言葉は、いまのボクにはまったく空虚だ。こんなものが出ていたから、ボクは魅伊沙の友人としての役目を見失ったのだ。結局、これも上流から流れてきた桃みたいなものだったわけだ。ボクは潔くファイルを閉じる。どうせ夏休みの課題なんて、いつの世も、犬も人も、お盆を過ぎたらまた掘り出すものだ。
それから、ボクも本業に力を入れるからには、エロ家庭教師の声のままでは職務に身が入らない。そこで魅伊沙に設定を変更してもらった。魅伊沙には『熱血女性自衛官モード』あたりがいいと伝えたのだが、魅伊沙もぼうっとしていたのか、少し勘違いがあり最終的に『巨乳ベテラン女性上司モード』になった。この人工発声アプリは巨乳しかいないのか。ベテランという部分がちょっと引っかかるが、まあ、それはそれとして。
昼下がり、ベッドの上で、ノーブラでタンクトップとパンツ一枚という、前よりさらに緊張感ゼロの格好で寝転がる魅伊沙は、さっきから携帯を握りしめて、じっと画面を凝視している。まさか、また時間の無駄にしかならない猫動画とか見てるんじゃないだろうな。でも、音はしないな。違うのか。
「はあ……」
魅伊沙は深いため息をつく。
「乙女ちゃん。あたし死んじゃうかも――」
いきなりどうした、落ち着け。大丈夫だ、ボクがそばにいてやる。生きろ!
すると、魅伊沙はくるんとこっちに寝返りをうち、ボクの目を見た。
「今から図書館行ける? ってメール来た」
――な、なんだと……?
「ねぇ、行っていい? 行っていいよね?」
はいはい、わかったから、ちゃんとバッグに勉強道具と洗ったタオルを入れ忘れんなよ?
……心配だな。一応、声で言っとくか。
送る。
《四十秒で支度しなっ!》
おい、何だこれは。新世紀ビジネスどころか、前世紀ファンタジーじゃないか。確かに巨乳だった気もするが、ベテランすぎるだろ。恥じらう乙女の影が微塵もないじゃないか。頼む、もう一度設定いじって、声を変えてくれえええっ!
その悲痛な願いを、高速着替え中の魅伊沙に送る。
《四十秒で支度しなっ!》
なぜ……これしか出ない……。
「うるさいよっ! あんたもスカーフ持ってきなっ!」
口調がうつってるじゃないか。順応早えよ! まあ、それはそれとして、図書館は涼しいし、年上のかっこいい司書犬がいるから大歓迎だ。さすがボクが見込んだだけあって、あの男はなかなか筋がいい。完食したクッキーの御礼にあいつにもたっぷりハフハフしてやろうかしら。
ボクは跳ねるように魅伊沙の背中を追って、退屈な部屋を飛び出した。
(おわり)
文学フリマ短編小説賞投稿作品「新世紀ビジネスドッグ学園 ~もしも飼い犬がドラッカーを読んだら~」をお読みくださいまして、誠にありがとうございました。もともと自サイトで掲載していたものですが、今回の応募を機に、大幅に改稿いたしました。
文学フリマでは(これとはコンセプトが違いますが)青春物の短編集の同人誌を作って出しています。ぜひ文学フリマがお近くで開催されましたら、ご縁があれば幸いです。