君に一本、アイスを贈ろう
「ねえ、どーしたのぉ?」
だがしやさんの前で、ゆきちゃんがぼくの顔をのぞきこむ。ぼくはポケットの中をいじくりながら、うつむいて言った。
「お金、どこかに落っことしちゃった」
何回も何回もポケットの中をさがしてみたけど、お母さんからもらったお金は見つからなかった。今日はゆきちゃんと一緒にアイスを食べるつもりだったけど、お金がないとアイスが食べれないから、ぼくは少しだけ泣きそうになった。
「ねえ、ほんとに落としちゃったの?」
「だって、ポケットの中にないんだもん」
ぼくが言ったら、ゆきちゃんはぼくのポケットに手をつっこんできた。ゆきちゃんもぼくもすごくあせをかいてたから、ちっちゃいポケットの中で手と手がさわっちゃうと、ちょっとだけ気持ちがわるいんだけど、でも夏はすっごく暑いから、しかたなかった。
「ほんとだ。ない」
背の高い木たちがざわざわってゆれて、ちょっぴり強い風が吹いてきた。ゆきちゃんといっしょに走りまくったからあせが気持ちわるかったけど、風であせが飛ばされるとなんだかすごく気持ちよかった。
ゆきちゃんの長いかみの毛が風でぐちゃぐちゃになる。目に入ったかみの毛をどかしながら、ゆきちゃんが言った。
「じゃあ、わたしのアイス、ともきにちょっとだけあげる」
「ほんと?」
「うん。だから、今度ともきのアイスも食べさせてね?」
「いいよ、わかった」
ぼくとゆきちゃんは手をつなぎながら、だがしやさんの中に入る。
「おばちゃーん、あんずのアイスひとつくださーい」
だがしやさんのおばちゃんは、いっつも静かにぼくたちを見ててこわかった。ぼくが入口のところでおばさんのことを見てるうちに、ゆきちゃんはアイスを買う。いつもみたいにゆきちゃんがおばちゃんにアイサツして、ぼくはにげるみたいに店の外に出る。
「はい、ひとくち食べていいよ」
店の外で、長いイスにゆきちゃんと一緒に座る。ふくろをやぶったゆきちゃんが、まだ食べてないアイスをぼくにさしだす。
「あんずアイスなの?」
「おいしいよ?」
「ぼく、なんかすっぱくてあんず味きらい」
「ともきはこどもだね」
「なんで?」
「だって、お父さんもお母さんも、ゆきんちはみんなあんずのアイス好きだもん」
「えー?」
あんず味が好きかきらいかでこどもかどーなのかが決まるとは思わなかったけど、だけど好ききらいが少ないほおが大人だから、よくわかんなかった。
アイスがとけちゃったらいけないから、ぼくはあんず味のアイスをひとくち食べた。何だかあまくてすっぱくて、やっぱり苦手だなーって思ったけど、暑い日に食べるアイスは目がちかちかするくらいつめたかった。
ゆきちゃんがひとくち食べて、ぼくがひとくち食べて。二人でそれをくりかえして、アイスを食べる。さいごには木のぼおだけがのこって、ゆきちゃんがにこにこ笑うから、ぼくも楽しくて一緒に笑った。
◆
午後の授業終了を告げる鐘の音が、木造校舎全体に響き渡った。シャーペンを手に教師の退屈な授業を受けていたクラスメイト達が、一斉に教材を机の上に放って伸びをし始める。額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら教鞭を振るっていた国語の教師が、放課後ムード突入を完了している生徒に向け、次回の授業範囲を予習してくるように告げる。その業務的な上辺だけの言葉に返事をする生徒も、無論この蒸し暑い教室の中には存在せず。かく言う俺もまた、教室を去ってゆく教師を尻目に下敷きをパタパタ。どこを予習すればいいのかなんて、もう既に頭の中には残っていない。まあ、残っていたところで予習なんてしないのだが。基本だね。
開け放たれた窓。ふいに吹き抜けた清涼な風が心地よく、遠くに聞こえる葉擦れの音に引かれるように、視線は窓の外へと流れる。
朝は真っ青だった空は、けれど今では真っ白な雲に覆われていた。やたらと高い気温による不快感を助長する湿度。汗に濡れたワイシャツが背中にへばり付き、はっきりしない空模様も相まってなんとなく気持ちが萎える。止めていた手を再び動かし、早々に荷物をカバンに放り込んだ。今日は久しぶりに駄菓子屋にでも行ってみるかと、ぼーっとした頭で考える。
帰りのホームルームが終了し、蒸し暑い二年一組の教室には、すでにやたら血気盛んなクラスメイトの姿をほとんど見ることができなかった。今年の四月から高校二年になった俺たち。最下級生でもなく、受験だ何だと忙しい高三でもない、言ってしまえば一番曖昧な今この時が、部活だとか友達付き合いだとか、そう言ったことに一番自由な時間なのだろうか。意味も無く教室の机に腰掛けて、半分溶けかけてる御脳味噌を更にぐでんぐでんにさせながら見下ろす校庭では、早くも野球部の一年達がそう質も良くない土の整備を始めていた。もう少し待っていれば、吹奏楽部の演奏も聞こえ始めるんだろうか。なんて、そんなことを考えつつカバンを手にする。
教室を出る前に、俺と同じくいつまでも席に座り続けている人間のもとに足を運んだ。
「よお」
「よお、友樹。お疲れだな」
声をかけると、そいつは開いた小説から顔を上げた。
小森賢次。中学の時から互いを互いに友人だと勘違いしあっている相手だ。これと言って特徴はないが、とりあえず明朗闊達な奴だと思う。辞書で馬鹿と引いたらこいつの名前が出てきそうな程度には快活である。嘘だということにしておこう。
「まだ帰らないのか?」
心中で今の今まで意味も根拠も無くぼろくそに言っていた相手へ、よくもまあこんな口が利けたものだと我ながら感心する。たぶん俺は盲腸が大きいのだろうと、脊椎あたりが狂ったことを考えた。
小説に栞を挟んだ賢次は、軽く頭を掻いて小さく笑う。
「いや、すまんな。今日は先に帰ってくれ。少しばかり、職員室によらなけりゃいけないんだ」
「ほう」
「今は順番待ちってところかな。先客がいるらしい」
「なんだ、ようやく退学処分にでもなるのか?」
「あいにく、どこかのお前とは違って俺はいろいろと忙しくてな。お前も、夏は家で無駄にダラダラしていないほうがいいぞ?」
こいつは時々、やたらと説教臭くなることがある。まさに賢次といった感じだ。意味不明だが。
「考えてもみろ。せっかくの休みだからいろいろ動こうという考えって、なんだか休日の定義と矛盾してないか?」
「お前、そんなことじゃ本当に時間を無駄にするぞ」
「動きたい奴だけが動け」
「まあ、それが極論だがな」
互いに持て余すほど脳味噌を持ってはいないので、無駄な会話に雑草が生い茂る。どうせ一緒に帰れないのだったら、やぶ蚊が大量発生し始める前にさっさと退散したいところだ。
「まあ、そんなわけだから、今日は先に帰ってくれ」
俺の心を読んだのか、はたまた賢次も賢次で俺の顔を見ているのが嫌になったのか、そう言って適当に手を振った。
「りょーかい」
二人の今後の関係を崩さないためにも、あまり深く言及はしないまま親しい友人との楽しい会話を切り上げる。カバンを肩に掛けなおし、今度こそ教室をあとにした。
泥にまみれた先に掴む栄光とか、仲間と時にぶつかり合い時に慰め合いながら何か凄いことを成し遂げる大きな達成感とか、そういう絵に描いたような青春ストーリーにいまいち着いていけない俺は無論帰宅部。部活動無所属という身分に別段引け目を感じているわけではないが、廊下を歩く足は自然と速くなった。日頃何をやっているのか全く謎な文芸部の部室前を通過した時に聞こえた笑い声が、ブラジルあたりで起きた窃盗事件と同等に他人事すぎて自分でも呆れた。
校舎裏にある駐輪場。所々穴が開いたトタン屋根が物悲しい、自転車通学者総数から考えると明らかに狭い敷地の場所。部活動やらなんやらで学校に居残る連中と、早々に学校から去って行った連中。双方の兼ね合いでさながら虫食い状態となった自転車群の合間を縫うように進み、家族兼用のママチャリへ。錆びた籠にカバンを放る。
「やっほ、友樹。まだいたんだ」
ポケットの内側で生地に引っ掛かった鍵を取り出すという作業の難解さに猿っぽくなっていたところで、ふとそんな言葉を背中に掛けられた。しかも聞き覚えのありすぎる女子の声。
不意過ぎるにも程があるほどの不意打ちに、取り出せかけていた鍵が再びポケット深くに沈む。妙に情けない気持ちになる一方で、やたらと慌ただしくなる心拍。全くはっきりしない自分の思考および臓器の動きを咳払いで制し、声がした方に振り返る。
「ちーっす、優希の姉御さんじゃないっすか」
「どうしたの、いきなり?」
「いやぁ。特に意味は無いけど」
「だろうね」
くすっと小さく笑った彼女は、自転車群の作り出す外堀、そのすぐ近くにあった彼女の自転車を引っ張り出しながら言う。
「何やってたの?」
「まあ。意味も無く教室で腐ってた」
「暑さにやられてますなー。夏場は生ものの管理に注意しないと」
「いやー、もう俺の頭は手遅れかもしれないよ」
「それはそれは、ご愁傷様です」
「ひどいな」
「自分から言ったんじゃない」
俺が笑うと、彼女も同時に笑った。その笑顔を見ていたら、なんだか妙に良い気分になってしまって。解錠したママチャリを、狭い自転車と自転車の間をお行儀よく抜けていくのももどかしく、腰に力を入れて一気に両腕で持ち上げる。優希が「おー。さすがは男の子」と言って、結構頑張って掲げた自転車を見上げて感心した顔になっていた。
すでにスタンバイ完了の優希の隣で自転車を下ろし、肩を回す。帰宅部のくせに調子に乗って、手の平からじんじんと熱い痛みが消える気配は無い。
「て言うか、そっちこそまだいたんだな」
「うん? んー、まあ、いろいろあってね」
「ふーん」
「もうすぐ夏休みだしさ、それまでに終わらせておきたい事とかあるんだ」
「なるほどねぇ」
あまり思考を働かせること無く首肯し、サドルに跨る。軽くサドルの上を払った優希が、続くように自身の自転車に跨った。たいして手入れもしていない銀のママチャリ二台が並ぶ。
「そうだ」
ペダルを踏み込みかけ、緩やかに足を止める。きょとんとする優希。何故か妙に照れくさい気分に襲われ、けれど何を今更と割り切り、その割にはいつもとたいして変わらない軽さで口を開く。
「久々に駄菓子屋に行こうと思うんだけどさ。一緒に行くか?」
「駄菓子屋さん? うわ、本当に久々」
その視線を、ぼんやりと斜め上に上向け言う優希。遠くを見つめるその瞳に映った、郷愁にも似た光。随分と昔のことを思い出して、俺の頬も自然と緩んだ。
「だろ? さっきふと思ったんだけどさ」
「ふぅん。じゃあ、行こうかな、せっかくだし」
「よし、そう来なくっちゃな」
「あ、言っておくけど、別に奢ったりしないからね」
「ばっ、んなことわかってるっての」
「と言うかむしろ、私の方が友樹に貸しがあるしー」
「……知らないなぁ」
「アイス一本でオッケーだから」
「お前って、昔からそういうところはしっかりしてるよな」
「悪いかしら?」
「…………そんなことないでーす」
誘ったことを少しだけ後悔したが、まあ良いだろうと振り切り、今度こそペダルを強く踏み込む。二つのタイヤが駆ける音に、すぐ後ろからもう一つ音が重なった。
風の柔らかさ、匂い、音。全てを全身で受け止め、独りでに転がる車輪に身を預けた。隣に並んだ優希の横顔。長く艶のある黒髪が向かい風に翻り、けれどそんなことを気にする様子も見せない楽しげな笑顔が輝く。
「ちくしょー、眩しいぜー」
曇り空を見上げ、小さく呟く。言葉は流され、風鳴りに消えた。
自転車が下り坂に差し掛かる。ブレーキをかけることなく、俺は更なる加速を果たした。火照る頬へ風をぶつけるように、ぐんぐんと。背後から聞こえる笑い交じりの声に、気分は高揚した。
美濃優希。小さな田舎町で、小さな時からずっと一緒にいる幼馴染。もっと言えば、俺が密かに思いを寄せている、素敵な同い年の女の子。
まったく、夏の熱い友情物語より、よっぽどベタなのだから笑えない。
◆
ペダルを漕ぎ続け太腿にいい具合の疲労を感じ始めたころ、俺たちは一軒の駄菓子屋に到着した。木造二階建て、その一階部分を小さな子供の憩いの場として長年提供し続ける本田商店。どこか煤けた外壁に、店先へ並んだ質素で雑多なこと極まりないプランター。時間の流れが相対性理論あたりに反して周囲から遅れるこの町の中で、もはや時間という概念を忘れ去ったオンボロ商店だ。
建て付けの悪くなったガラス戸をスライドさせて入店。堆積した汚れゆえに天然の曇り加工がなされつつあるガラスの揺れる音に、店先で新聞を覗き込んでいたおばちゃんが顔を上げる。
「まあ、これはまた珍しいお客さんだね」
「こんにちは、おばちゃん。お久しぶりです」
優希の挨拶に合わせて、俺も軽く会釈する。深い皺を顔いっぱいに作り上げたおばちゃんが、にこにこと元気な笑みを浮かべる。おばちゃんの髪にまだ黒い物が見られたのは、どれだけ昔のことだったか。建物の佇まいや駄菓子の陳列方法、店内に染みついた匂いは全て昔と変わらないのに、いつまでも俺らの〝おばちゃん〟であり続けるこの店の主だけは、今も唯一、正確に時を刻み続けている。
「ほら、友樹。私これ、あんず味ね」
おばちゃんの顔の皺に諸行無常の儚さを噛み締めていたが、優希の諸行無情な催促に現実へと引き戻される。
「優希ちゃんは、昔からあんず味が好きだねぇ」
「わぁ、よく覚えてましたね」
「馬鹿にしてもらったらかなわないね。まだまだボケるつもりは全くないさ」
けらけらけらとおばちゃんは笑って、優希の手にあんず味の棒アイスを渡す。カバンをまさぐり財布を探す俺の顔を見て、おばちゃんは更にもう一本、カウンター横の保冷庫から同じアイスを取り出した。
「友樹くんも同じのにするかい?」
「いやいや、俺は別のにするよ。あんず味はすっぱくて嫌いなんだ」
「友樹、まだそんなこと言ってるの? お子ちゃまなんだから」
「はぁ?」
「あんずの甘酸っぱさは、恋の甘酸っぱさつってなぁー。子供には早い早い」
妄言を発するおばちゃんに、優希も一緒になって笑う。こいつら揃ってボケが始まったんじゃないかとは当然言えず、ここは大人にスルーを決め込んでアイス二本分の代金をお支払い。保冷庫を覗き込む耳元で、おばちゃんが小さく呟いた。
「二人は、昔っからずぅっと一緒だからねぇ」
古びた保冷庫に頭から突っ込みそうになるのを、背筋が今年最大の頑張りを見せてどうにか堪える。顔面が保冷庫から漏れる冷気に冷却されるのとは裏腹に、背筋は嫌な汗を流して勝手に夏を楽しみ始めた。
咳き込みそうになるのを我慢し、ソーダ味のアイス棒を選んで姿勢を起こす。
「夏は短いぞ、少年よ」
嫌に楽しそうなおばちゃんの笑み。こちらもなんとか笑い返すが、頬の筋肉は無駄な痙攣を繰り返す。ボケてくれないかなと一瞬だけ本気で考えた。
半ばおばちゃんの笑みから逃げるように本田商店の外へ。店先に設けられた長椅子に二人揃って腰かけて、アイスの封を破る。
「あー、うまい」
白く色濃い雲の立ち込める空。隠れた青空より届く陽の光は緩く、背の低い草の描き出す影の縁取りは淡い。全身を覆い包むような蝉の鳴き声も、風が草木を揺する音に身を潜めた。
「夏は短いってよ」
「急にどうしたの?」
「いや、おばちゃんに言われたんだけどさ。その通りなのかなって」
アイスを齧る。芯に沁みるような冷たさと一緒に、ソーダの人懐こい甘さが口に広がった。
「だから、なんか思い出作りとかしたいよな」
「思い出づくり、か……」
あんず味の棒アイスを咥え、優希はゆらゆらと揺らした自分の足先を見下ろした。無表情で、透明な瞳。彼女が何かものを考える時に見せる表情だった。
ふと視線の隅に忙しなく揺れる影を見つける。振り返ると、そこには四つ角の一端が壁から剥がれた張り紙があった。風に揺られて折れ曲がったそれに歩み寄り、固定用のセロハンテープがいまだ生きているかを確認しつつ中身を覗き見る。
張り紙の内容は、町内でもう間もなく行われる祭についてだった。
「何それ?」
「ん? ああ」
長椅子から身を乗り出すように張り紙を覗き込む優希。口に咥えたアイスをもごもごさせて両目を細める。
「お祭?」
「正解。日程は……、来週木曜日。終業式の前日だな」
「ふーん」
気の抜けた相槌を打った優希は、空へと視線を送った。自然と、俺も彼女の視線を追いかけていた。
綿あめを連想させる雲に覆われた空。透明に輝く彼女の瞳は、その先に何を見るのか。長年そばにいても、彼女の考えていることはまるで想像がつかなくて。そのことが変に歯痒いのと同時に、けれどどこか安心している自分もいる。
「ねえ、友樹」
声に、視線を空から優希へと移す。
風に揺られた優希の長い髪が、悪戯気に俺の首筋を撫でた。鼻先をかすめた甘く、とても良い香り。彼女は髪を押さえ、どこまでも柔らかく温かな笑みを浮かべる。たったそれだけで、俺は何が何だかわからなくなってしまって。チカチカと視界の中で星が飛び回り、口から火を吐き出しそうなほど、心臓がばくばくと騒ぎたてた。
優希は瞳をきらきら輝かせ、言うのだった。
「このお祭さ、一緒に行こうよ」
◆
その日は朝から雨だった。低く垂れこめた雲は、延々と地面を濡らし続けている。太陽の熱を吸収した地面が変に冷やされた香りは、息の詰まるような土と草の匂いで満たされていた。
放課後、湿度のうんと増した昇降口。俺が下履きに履き替えるのを待っていた優希は、手にした傘をだらりと垂らして、淡々と外の景色を見つめ続けていた。履き終えた靴の調子を確かめつつ、彼女の隣に並ぶ。彼女の悲しげな横顔に、湿気た空気を吸い込んだ喉は嫌にべたついた。
「あー……。これじゃあ、さすがに中止かなぁ」
言ってはみるが、互いに、祭の開催など確実にあり得ないなんてことは、百も承知だった。祭の開催は暦が大きく関係しているらしく、この日に開催できなければ、次の機会は来年であるということも、だ。
「まあ、来年があるし、別にいいか」
話を振るも、優希は黙ったまま地面を見つめ続けていた。視線の先にある水たまりでは、映り込んだ色素の薄い空が不細工に歪んでいる。
そこまで祭に行きたかったのか、と思ってしまう。高校生にもなって、祭が中止になることくらいで、そこまでかと。そんなことを考える自分が嫌になるが、悲しげな彼女の顔を見ているとなんだか遣る瀬無くなるのだから仕方ない。確かに俺も祭を楽しみにしてはいたが、天候ばかりはどうしようもない。
「なあ、元気出そうぜ?」
声をかけると、優希はおもむろに昇降口の外へ出た。灰色の世界にぽつんと咲くように、綺麗な赤の傘が開かれる。
降りしきる雨。不規則なリズムで雨粒を受け止めてゆく傘から零れる滴は、涙のようだった。
不覚にも、俺はその光景を綺麗だと、美しいと思ってしまう。背筋を撫で上げるような震え。今の彼女が身にまとう感情は、あまりに脆く、けれどそれゆえに輝いていた。
「駄目。駄目なんだよ、来年じゃ」
彼女は、俺に背を向けたまま囁くように言った。
「いや、そりゃあ祭が中止になったら他に何もイベントは無いけどさ。来年は受験だし……」
「違う、違うの。そうじゃ、ないんだ」
くるりと。彼女は振り返る。揺られた傘が虚空に鮮やかな線を描いた。振りまかれた滴の数々が、宙でほどけて雨音に消える。
「明日、皆の前で言うつもりだったんだけど、私ね――――」
◆
嫌に暑かった。額に浮かび上がった玉のような汗が、重力に引きずられて右目に沁みる。一晩中雨を降らせ続けた空も、今では憎たらしいほどの快晴。教室の席が窓辺である俺は、身体の左側面だけをやたらと炙られていた。町の神社に祭られる神様は、アマテラスあたりに嫌われてるんじゃないだろうか。夏の熱にやられた頭が、昨日降った雨の原因究明に走り始めるも、教卓の前に立った優希の姿が絡まった思考さえちりぢりに霧散させてゆく。
優希の語ることに、教室の全体がざわめく。俺らが住むのは小さな田舎町だ。クラスの連中はそのたいがいが友人。そんな環境でこんなことを言われたら、誰だって騒ぐだろう。
八月の末に、この町を離れる。
昨日、優希が周りの連中に先だって俺に伝えたのは、たったそれだけのことだった。たったそれだけのことなのに、彼女の言葉は深く俺の胸を抉った。
まさか、優希がこの町から去ってしまうなんて。その知らせはあまりに唐突過ぎて、俺はなんと反応すればいいのかもわからないまま、ただ固まっていることしかできなかった。
小さい頃からずっとずっと一緒にいたあいつが、美濃優希が、どこか遠い所へ行ってしまう。その事実を飲み込む勇気が、今の俺にはなかった。例えもっと早くにこの話を聞かされていたとしても、そのことは変わらなかったかもしれないとも思った。
思い出されるのは、硬直した俺の顔を見た優希の寂しげな笑み。どうして彼女はそんな顔をしたのか。しなくてはならなかったのか。誰がそうさせたのか。
どうして俺は、苦い顔しか浮かべる事が出来なかったのか。
「――――やだっち。おい、矢田友樹。聞けっ!」
背中で爆ぜた鋭い痛みに、心中で揺れていた思考が仮借ない熱さを振りまく太陽へ向け、内外を隔てる意識の水面をトビウオ気分で突き抜けた。
吉澤香織。振り向くまでもなく、その声および人を呼ぶ際にシャーペンで相手の背中を刺すという迷惑極まりない習性によって、俺のセンチメンタリズムを吹き飛ばした犯人を断定。あまり無視し続けると背中に前衛的な点字絵画が誕生しかねないので、ここは潔く振り返ることにした。
「お前は俺の背中に墨でも入れるつもりか」
「あんたはそれくらいの箔が付いてようやっと人並みの覇気を感じられるようになるんじゃないかな」
「要件を言え」
「ユキが引っ越すって、知ってた?」
真剣な彼女の眼差しに、思考の温度がいくらか下がる。
優希は、女子の中で特に吉澤と仲良くしていた。そんな吉澤にとっても、優希の発表は衝撃的だったのだろうということは、想像するまでもなかった。
「お前は……、聞いてなかったのか?」
「ぜんぜん。今はじめて知って驚いてるんだから。というか、その口ぶりだと前から知ってたみたいなんだけど?」
「いや、まあ……。言っても、俺だって昨日聞いたんだけどな」
「えーっ、ユキったら冷たいなぁ。私より幼馴染の男の方が大切なのかね。若いわー」
「いや、お前も相当若いと思うぞ。主に精神年齢がな」
それに俺が彼女から話を聞いたのは、完全に話の流れの上でというか。仮に吉澤の言うとおり、俺が幼馴染であるという点にその理由があったのだとして、それを俺はどう受け止めれば良いのだろう。
それが普通のことなのか、特別なことなのか。それをはっきり独断と偏見で判断することができていれば、俺はあの時、優希に気の利いた言葉の一つや二つ、掛けてやれたんじゃないだろうか。
――――告白。
その理由を突き止める上で、もっとも手っ取り早く、わかりやすい方法。漢字で書くことくらいなら小学生でもできそうな、けれど勇気のない俺にはいつまで経ったって実行できそうもないその二文字。
一昨日までの俺だったら、その不甲斐なさを有耶無耶に自己消化できただろう。けれどそれでも、昨日という時間を着実に過ごしてしまった今の俺には、もはや選択肢が残されていなくて。
残されていないはずなのに、俺はこうして思考を空回りさせることしかできない。
「そうなると、何かやらないと。送別会的なのをさ。でしょ、やだっち?」
「うん、まあ。そうだよな」
「あーあ、もっと早く言ってくれればよかったのに。夏は短いぞぉ」
「………………………………」
そう。夏は短いのだ。
◆
町を去る優希のために、何かやってやれることはないか。吉澤の言葉を受けて勝手にその何かを考えてみるも、果たしてどんなことが優希にとっては素敵な記憶として残るのかわからなくて、だらだらと毎日を無駄に消化してゆく。
こうして無駄な時間を費やしている瞬間にも、夏はその暑さを増してゆく。時間なんかあってもあっても足りない状況なのに、俺は何をしているんだろうか。皆でやる何かを考えるよりも前に、自分の気持ちの整理をするべきだということは理解しているはずなのに、いざ自己の中に揺蕩うパトス的なものに目を向けようとするも、気付くと心の視線は明後日の方向へと向いている。逃げてる暇なんか、ないだろうに。アリストテレスあたりが俺の心性を事細かに分析してレポート提出してくれないだろうか。プラトンでもいい。とか、哲学的に脳味噌を腐らせてみるが、それもまた時間の浪費だった。
「友樹、小森君から電話よー!」
椅子に腰かけて無意に窓の外を眺めていると、一階から母親の声。気だるく返事をし、重い腰を持ち上げる。軽い立ち眩みに足をもつれさせながら、部屋を出た。
階段の下で待っていた母親の手には電話の子機。子機で出たんだったら二階まで持って来てくれればいいのにと思ったが、口に出せば夕食のおかずが一品減りかねないので自粛する。
子機を受け取り、そのまま階段に腰かける。居間へと戻ってゆく母親の後姿を尻目に、子機を耳に押し当てた。
「もしもし?」
『もしもし、友樹。すまんな、今、電話は大丈夫か?』
「お前相手だったらいつ切っても罰は当たらないと思ってるから大丈夫だろ」
『今から神社に行って願い事をしてこよう。内容は聞かないほうがいい』
小森家次男からの電話だった。
「で、なんでこんなクソ暑い日にお前の声を聞かなくちゃいけないんだ」
『お前の声を聞いた瞬間から室温が二度ほど上昇したことを言わないでいてやったのに、本当に失礼な奴だな。ちなみにセ氏温度ではなくカ氏温度だ』
「どっちも変わらんぞ、文系。要件は?」
『いや、なんだ。ちょっと込み入った話なんだがな』
相手の神妙な表情が電話越しに伝わって来たような気がするので、こちらも気持ち居住まいを正す。一応、互いに友人という肩書を名乗り合っている仲なんだから、これくらいの真摯さは発揮させておく。
「込み入った話って、なんだよ」
『いや。こんな話を、お前にするのもどうかとは思うんだけどな』
まごつく声。頭をぼりぼりと掻く賢次の様子が、ありありと脳裏に浮かぶ。そんなに脳味噌を刺激したら馬鹿が悪化するぞとは、友人のよしみで言わないでおいた。
数秒の沈黙。互いに、男のむさ苦しい鼻息を耳元に浴びせ合った。本当に電話を切ろうかと終話ボタンに親指を乗せたところで、滑り込むように賢次が口を開く。
『落ち着いて聞いてくれ。あんまり、笑ったりとか、なんだとか』
「わかったよ」
『じつは俺、美濃のことが好きなんだ』
一瞬で冷静さを欠いた。
握り締めた右手に、子機が小さく軋む。酸素を求めて金魚よろしくぱくぱくと開いた口は、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返す。
「ど、どうして俺にそんなことを」
緩慢に回転を始める視界。体感温度は着実に上昇を続けていて、痺れた舌の根を制して言葉を発するという作業はやたらと難しかった。
『お前、よく美濃と一緒にいるだろ。なんていうか、助言をもらえたらと思ってな』
「じょ、助言ってなんだよ」
『何でもいいんだ。好きな物とか、そういったものをさ』
「お前だってあいつとは仲良いだろ。自分で聞けよ」
『馬鹿か、お前は。これから告白しようって相手にそんなことできるわけないだろ』
確かに俺は馬鹿だった。そんなことはわかっていた。こいつの気持ちを聞いた瞬間に思い浮かんだのは、先を越されてしまったという後悔の一念だけだった。
「本当に、告白するのか?」
『この間の話を聞いてな。腹を決めたよ』
「いや、待ってくれ。思考が追い付かない」
『別に、お前がそんなに騒ぐことじゃないだろう』
「い、いつから好きだったんだよ」
『んー。はっきりとは言えないが、初めて会ったのは中学の時で、気になり始めたのは高校に入る手前くらいか』
ふざけるな。純粋にそう思った。
俺は賢次なんかよりずっと前から優希のことを知っていた。ずっとずっと前から好きであった自信があった。なのにこいつは俺の先を行こうとしている。いいや、度胸のあるこいつは、俺のずっとずっと先を行っている。
優希の好きな物なんて、俺の方が知りたかった。これだけ長いあいだ彼女と一緒にいるのにもかかわらず、優希のことを俺はほとんど知らない。知りようがなかった。知りようがないから、どうにか決定的な何かを手に入れようとずっと必死だった。そんな姑息なことを考えているから、いつまでも前に進めないでいた。
『どうした、友樹』
「………………………………」
ちくしょう。
『応援、してくれないのか?』
その声はどこか寂しげで、そして小さな子供を諭すような響きがあった。
沈黙が続いた。今口を開いたら、俺は賢次をぼろくそに言いそうだった。そんなことはしたくなかった。相手から電話を切ってくれることを切に願ったが、あいつがそんなことをする奴ではないなんてことは、俺がよく知っていた。あいつは良い奴だ。根の真っ直ぐな奴なのだ。
『なあ、友樹』
妙に落ち着き払った賢次の声音。その平静さに、背筋が震えた。
賢次が続けた。その言葉に俺は息を詰まらせた。
『お前も、美濃のこと、好きなんだろ?』
一瞬だけ、確実に視界が暗転した。子機を右手に持ったままでいたことが奇跡のように思えた。前後左右が不明瞭だった。吹き出す汗の不快ささえ今は俺の心に届かなかった。
「な、おま、どうして」
『うすうす勘付いてはいたよ。見てればわかる』
「だ、だったらどうして電話なんか」
『理由はいくつかあるんだけどな。主な理由は二つだ』
「理由……?」
『一つは、確認したかったんだ。本当に、お前が美濃のことを好いているのかどうかをな』
「二つ目ってのは、なんだよ」
『それは』
そこで賢次は言葉を区切った。次に相手が発する言葉を、俺は身を乗り出して待っていた。吐き気に等しい緊張が食道をせり上がる。必死に生唾を飲み込むと、水分の足りない口内が酷く粘ついた。
賢次の息を吸う音。俺は自然と息を止めていた。
『正々堂々と、美濃に告白したかった。お前の知らない内に奪い取るようなことを、したくなかったんだ』
「――――――――――――」
ちくしょう。ふざけるな。
どうしてお前は、そんなに良い奴なんだ。どうしてそんなに真っ直ぐなんだ。どうして知らない内に奪い取らなかった。どうして俺を苦しめた。どうして。どうしてお前なんだ。
どうしてお前が恋敵なんだ。
苦しかった。自分がどこまでも小さくなってゆくような気がした。その圧力は俺の卑小さをありありと物語っていた。
こいつは正々堂々としている。自身の心に真っ直ぐ向き合おうとしていた。ひたすらに目を背け続けていた俺と違って、こいつは前に進もうとし続けていた。
こいつは馬鹿だ。馬鹿で馬鹿でどうしようもない馬鹿だ。俺だったら黙って優希に告白していた。わざわざ恋敵に心中を暴露するようなこと、しなかった。できなかった。しようともしなかった。なのにこいつはやってのけた。俺に自分自身の心中を曝け出して、本来無用なはずの恨みを買う可能性を自ら作り出した。俺にとって最悪の事態が起こった時、俺が一人で鬱々としていることを嫌ったんだ。その時に現れるであろう俺の怒りとか憎しみの捌け口を自分自身にわざわざ向けさせたのだ。
こいつは、どこまでも真っ直ぐに俺の友人であろうとし続けた。あまりに大きかった。こいつは俺の何倍も何百倍も大きかった。
優希を好きでいる男が、俺みたいに小さい人間で良いのだろうか。そんなことまで考えさせられた。親友の決意を飲み込み、応援することさえできないだろう俺に、賢次を悪く言うような資格があるのだろうか。
けれど。だけれど。だけれども。
それでもそれが、俺の気持ちで俺の心だったんだから仕方がないじゃないか。それは悪いことなのか。自分を殺して親友を応援できないことは、果たして悪いことなのか。
くそ、くそ、くそ。
『悪いな。こんなこと、言わなけりゃよかったな』
「いいや、そんなことない」
『すまんな』
「お前が謝る必要なんてない」
お前が真っ直ぐであれば真っ直ぐであるだけ、俺は自分の醜さを噛み締めなくちゃいけなくなるのだから。
俺は、本当にどうしようもない奴だ。
『そういうことだから、勘弁してくれな』
「気にするな。ただ」
『ただ?』
「俺はお前のこと、応援出来そうにない」
『…………わかってるよ』
ぶつっ、と。会話は呆気なく途絶えた。俺はただただ、膝を抱えて身を震わせているしかなかった。
◆
『一緒に計画を練ろう。ユキに最高の思い出を残すべくさ』
「だから、お前らはなんで何でもかんでも俺ん家に電話してくるんだ」
『は?』
「いや、こっちの話」
翌日。安眠中の俺を叩き起こしたのは、吉澤からの電話だった。
蝉の鳴き声に昼間は重労働を強いられる鼓膜を、朝っぱらからこいつの声に揺すぶられなくてはならないとは。老後の聴力を慮って二度寝を強行しようかとも思ったが、そうすると背中にゲルニカが誕生するのでやめておいた。
「計画を練るって言っても、どうするんだよ。見当がつかないぞ」
『だからやだっちに相談してんの。あんた、いっつも一緒にいるんだからユキの好きなこととかよく知ってるんじゃない?』
「いや、あいつの好きなことなんかこっちが知りたいよ」
『は?』
「……こっちの話」
努めて忘れようとしていた昨日の記憶を、はっきりと思い出してしまった。当然だった。そう簡単に、昨日起きた出来事を忘れられるわけがないのだし、そう簡単に忘れられるほど、俺の優希に対する気持ちも浅くはない。
『まあとりあえず、私とやだっちで考えればどうにかなるでしょ』
「雑だなぁ」
『そうならないように綿密な計画を組むんじゃないかね、少年』
「…………わかったよ」
しぶしぶこちら側が折れてやる。どっちみち、優希のために何かを催すことには賛成だった。
ただ、皆で行う催し物なんかを考えている暇は無いんじゃないか、なんてことを考えてしまう嫌な自分もいた。とはいえ実際に何か行動を起こすつもりでいるのかと問われれば、答えに窮す自分もいて。
『本当に何かないの? 何でもいいからさ、見当つかない?』
「何かって言われてもな。……あー」
『ん?』
「無くはないけど、いやあれはな」
一つだけ、優希が喜んでくれそうな物が思い浮かぶ。しかしそれを、ここで言っても意味があるのか否かは極めて怪しいところだった。
『何でもいいって。ほれ、言ってみ』
「……この間、雨で祭が中止になったろ? 優希のやつ、あの祭に行きたがってたんだよ。でもこれはさすがに――――」
『よし、それにしよう』
「は?」
実際に吉澤と面と向かって会話していたら、おそらく指をさして馬鹿にされただろう間抜けな顔を部屋の壁に向かって披露した。
「ちょっと待て。それにするって、お前――――」
『とりあえず、お昼に神社集合ってことで。んじゃねー』
ぶつっ、と。限りなく一方向に掛かってきた一方通行な電話が一方的に切断された。ここまで首尾一貫していると清々しさすら覚える。夏の暑さの中で、一瞬感じた清涼さに感極まり子機を壁に投げそうになった。
動物の本能的破壊衝動を抑える程度に理性を働かし、寝間着に手を掛ける。着替えないことには、何も始まらないだろう。
正午を少しまわった頃、俺は神社にやってきていた。
先日行われるはずだった祭に合わせた清掃のおかげで、境内は比較的綺麗だった。とはいえ普段から町民が頻繁に訪れていたりするわけではなく、蝉の鳴き声に包まれた本殿には寂寞とした影が落ちていた。
境内へと続く低い石段に腰を掛けたまま、ぼんやりと吉澤の到着を待つ。
生い茂った木々の生み出す陰はささやかな涼しさに揺れる。射し込んだ日差しは柔らかく大地に溶け、視線の先、田畑の目立つ町並みの色は実りに映えた。
何もない。本当に何もない町だ。けれど、そんな町が俺は好きだった。素敵な場所だと思う。そしてその町から、優希はもうじき去ってゆく。
見上げた空。果ても無く青い空の向こうへ、一羽の鳥が飛んでゆく。高く響く鳴き声。雲は静かに、けれど確かに流れていた。
「お待たせー」
声のした方向へ振り返る。俺を神社呼び出しの刑に処した吉澤ご本人が、体内時計で十五分ほど遅れてやってきた。
「私より先に来てるとは感心だな」
「こう見えて常識人のつもりだからな」
「そういう言い方をしてる時点で常識があるかどうか、極めて怪しいよね」
首筋に汗を光らせ爽やかに笑う吉澤。こいつなんぞに悪口を言われてもあまり傷つかない自分がいるのでこちらも笑っておいた。
「で、だ」
「うん」
「どうするつもりなんだよ。祭って、どこか他の祭にでも繰り出すつもりなのか?」
「まさか。自分たちで祭を開催するって案も、当然却下ね」
「却下前提でもそんなこと考えてるお前はすごいと思う」
交通の便もまともに整っていない田舎だから、隣町に繰り出すにしたって一苦労。へたをすれば、山を一つ二つと越えなくちゃならないなんてこともあり得るのだから恐ろしい。そんな町の中で、果てして何ができるというのか。
「そりゃあ、年に一度の祭を逃したら次の機会は来年だってことくらい、私だったわかってるさ」
「まあな」
「だけどさ、なんていうかな」
小さく首を傾げ、吉澤は境内へと視線を向ける。
「私たちがユキのために考えたことが、祭の楽しさに勝てないなんてことは、無いと思うんだよね」
本殿の方向から吹き抜けた風が、彼女の前髪を大きく揺らす。細めた瞳の輝きに、今まで心の中に沈んでいたわだかまりが、氷解してゆくような気がした。
「結局、どれだけあいつのために頑張れるか、ってわけか」
思い返してみれば、俺はこれまで、ずっと自分のことを考えていたのかもしれない。あいつのために、優希のためにと言ってはいたが、根底では自分のことを考えていたのかもしれない。
焦りを感じていた。唐突な引っ越しの知らせ。そして賢次もまた優希に対して好意を抱いていたという事実。その中で、どう行動すれば真っ直ぐ優希へ、想いを伝えられるのか。そんなことばかりを考えていたのかもしれない。
「そのとおり。そこにお祭っぽさが加われば完璧でしょ」
「極めて精神論的だな」
「友情って物に対する誠実さだと、私は思うけどね」
誠実さ。
そのとおりだった。愛だ恋だなんてことの以前に、優希は俺にとって大切な存在だった。小さい時から常に一緒にいるあいつは、好意を差し引いても掛け替えのない存在だった。
打算的なことばかりを考えていたって、仕方ない。誠実に、あいつの為だけを考えられないようじゃ、今の俺にはきっと想いを伝えることすらままならないで終わるだろう。
「じゃあ、どうするよ。祭って言ったら何がある」
「まあ、お祭と言ったら縁日だよね」
「そりゃそうだけど。でも無理だろ」
いきなり難易度が高すぎる。
「吉澤だって、優希とはよく一緒にいるだろ。何かあいつの好みとかわからないのかよ」
「ユキの好みねぇ」
うーんと唸り、吉澤は腕を組んで考え込む。俺たちは揃いも揃って優希の好みがわからないのかと思わず呆れた。
やや間を置き、やがて吉澤は一つの答えを導き出す。
「そうそう。ユキったら、結構ロマンチストよ? あの子、本当に乙女だから」
「お前はあいつの親戚か」
しかし、それは良い情報かもしれなかった。
祭っぽくて、なんとなくロマンチックで、おそらく思い出に残りやすく、しかも夏の風物詩。
「じゃあさ」
「うん?」
想像力および発想力が貧困な俺の灰色脳細胞では、これくらいのことしか思い浮かばない。これで却下と言われたら、もう知らん。
「花火とか、どうよ」
◆
数日後。天気予報を入念に確認して計画を立てたこの日、俺たちは目一杯花火に興じるため神社の裏手にある森の中へとやってきていた。
うだるような暑さも、夜となったこの時間帯ではその姿を潜ませる。懐中電灯を片手に進む森の中、足元で沈殿した涼やかな空気に草の踏みしめる音が澄み渡った。
「もうちょっとってところか?」
「そうだね。もうこの先だよ」
バケツ持ちの刑に処された賢次に、執行者の吉澤が答える。
星明りに明るい暗がり。伸びた懐中電灯の四条の光を頼って歩き、どれくらい経った頃か。あたりに繁った木々が、ふと開ける場所に出る。この裏山にこんな場所があるだなんて俺でも全く知らなかった。
「よくこんな場所見つけたな」
「皆の姉貴ことこの吉澤さんを甘く見てもらっちゃあ困るね」
「かおりは昔から、こういう隠れ家的場所を探すの、得意だもんね」
「そんなもん見つけてどうするんだよ」
吉澤の前世は野良猫かなんかだろうと適当に結論付け、俺と賢次は蚊取り線香の設置に勤しんだ。
辺りに蚊取り線香独特の、夏の空気によく似合う、しかし本当に人体に影響がないのかと考え始めたら少し怖くなる独特なにおいが漂い出す。本田商店から買い求めたロウソクの火を中心として、俺ら四人は円を描くように顔を突き合わせた。
不意に訪れる無音の時間。互いがその沈黙を破る術を探るように、互いの顔を覗きあう。
決して、この夜が明けてしまえばもう優希には会えないだなんてことはないのだ。短いとは言っても、夏はまだすぐには終わらない。ここでしんみりする必要なんか、これっぽっちもなかった。
それでもやっぱり、今回の催し物の意味を知っている俺たちは、その寂しさを胸の内に伏せておくことができない。そんな器用な芸当をこなせるほど、俺たちは大人ではなくて。そしてその痛みを飲むことすらできない俺たちは、やはりまだまだただの高校生だった。
「今日はなんだか……、ありがとね」
手頃な高さの岩に腰掛けた優希が、苦笑いにも似た照れ隠しの笑みを浮かべる。
「なぁに、ユキったら」
吉澤の弾むような声音。朧に揺れる火の照らし出す彼女の表情は、とても明るかった。
「今日の主人公が一番沈んでるんじゃない?」
「ああ、まったくだな。揃いも揃ってこんなに静かにしてたんじゃ始まらん。なあ、友樹」
賢次の言葉に、自然とその場の視線が俺に集まる。思わぬ注目にしどろもどろになりかけるその動揺を、夏夜の空気とともに飲み下した。
振り向くと、優希と目があう。どちらからともなく、柔らかに笑った。
「今はとりあえず楽しもうぜ。余計なことに脳味噌を使うのは禁止ってことで」
「ほんと、友樹は昔から頭を使わないのが上手だよね」
「優希さん、わかってるじゃないっすか」
「つまりは馬鹿ってことだな」
「あらためて宣言されるほどのことでもなかったけどね」
なんだかわからないが、とりあえずぼろくそに言われた。けれどまあ、それで場が温まるなら良しにしようと俺も揃って笑う。
笑いの輪から真っ先に抜けた吉澤が、花火セットを手に取る。
「よし、じゃあ始めようか。ケンゾー、セットばらすの手伝え」
「俺は三男じゃない。次男だ」
吉澤と賢次の手によってばらされる花火セット。それぞれ好みの物を手に取り、ロウソクの火へと近づけた。
色とりどりの花火がその眩い花弁を広げる。咲き誇るといった表現が似合うその輝きに、皆の笑顔は華やかだった。
優希がこの町から去ってしまうまで、そう多くの時間が残されているわけではない。それだからこそ、見送る俺たちの表情は明るくなくちゃいけなくて。
どれだけ相手に、笑顔を残すことができるのか。
ここにいる四人、全員が同じことを考えている。考えているからこそ、皆そろって馬鹿みたいに騒いでいる。こんな最高なことが他にありえるだろうか。
小さな時から、永遠に続くと錯覚していた幸せ。多少は大きくなれた今、現実を見据えるための視線はようやく焦点を結んで。いまだ小さすぎる俺たちに戸惑いを隠せはしないけれど、それでも今この瞬間くらいは鮮やかに時間を彩ろうと。
そんな熱量を秘めた煙が、高く空へ伸びてゆく。小さい時から今まで、そしてこれからも変わらない星空は眩しく。精一杯な瞬間の連続は、永遠の群青に染まってゆく。
線香花火のささやかなな明かりが地面に落ちる。火花の弾ける音が止み、耳を打つような静寂が辺りを包んだ。
暗がりに充満していた火薬の焼けるにおいが、風に払われて消えてゆく。
「さぁて。締めは打ち上げ花火かな」
言って、吉澤は線香花火の残り屑をバケツに放る。今回は雑務全般を押し付けられている賢次が、打ち上げ花火の入った袋を手にした。
「友樹。花火の設置、手伝ってくれないか?」
「お、おう」
「任せたぞ、男子諸君。ちなみに、向こうの方に枝が邪魔じゃない場所があるから、そっちに行くと良いんじゃないかな」
吉澤に言われるがままに、賢次と俺は茂みの中へと踏み込んでゆく。元いた場所からそう離れない位置に、同じく開けていて、かつ打ち上げに枝葉の邪魔が入らない場所へと出た。
賢次と手分けして、打ち上げ花火の設置に取り掛かる。とはいえそんな大掛かりな物では決してなかったから、時間はそうかからない。そしてその間、俺ら二人は無言だった。四人集まっている時には何となくで互いに、相手のことを強く意識しないでいられた。けれどこうして二人きりになってしまうと、どうしたって頭の中は先日電話で交わされた会話のことで一杯になってしまう。
花火の設置が完了して少しの間、嫌な沈黙が続いた。俺は決して、賢次を相手に強い敵意のような感情を抱いてはいなかった。同じ人を好きになってしまった者同士、恋敵ではあったが、それ以前に俺たちは親友だった。そしてそれは、きっと賢次にとってだって変わらないことなのだと思う。思うのだが、どうしてか俺たちはただ苦しいだけのこの沈黙を、拭い去ることができないでいた。
「なあ、友樹よ」
手持無沙汰に意味もなく導火線を弄っていると、背後の賢次が俺の名前を呼んだ。俺は振り返らなかった。不思議と、振り返らなくても問題は無いという、強い信頼感を感じられる声だった。
「この間の話、覚えてるだろ?」
「まあ、そりゃな」
懐中電灯の明かりを消す。地べたに座り込んで、眼前の暗闇を見つめた。風の転がる音が、つまびらかに耳へと届いた。
「俺、美濃に告白したよ」
そう語る賢次の声は明るかった。そんな親友の声を背に、俺の心もしんと落ち着いていた。そこに、あの時のような動揺の色は微塵もなかった。
「どうだった?」
少しの間をおいて、ふられたよ、と賢次は言った。声音には、ほんのちょっとの悔しさと、ほんのちょっとの清々しさが感じられた。
目を閉じて、静かに息を吸った。夜の冷たい空気が肺を満たす。そこには、息苦しさにも似た鈍い痛みがあって。そっと吐き出した生温い吐息に、心の波間が小さく揺れた。
「賢次。お前は、本当に強い奴だな」
「どうしてそう思う?」
「ふられた相手の前で、よくあんなに笑ってられるな。俺には、ぜったいに無理だよ」
小さな溜め息に、自嘲気味な笑い声が続いた。
「なぁに、難しいことじゃない。好きな相手のためなんだからな。友人として、最後まで目一杯の笑顔で接することは苦じゃないさ。美濃も、それを望んでくれている」
「友人として、か」
「ああ。それに美濃のやつ、他に思い人がいるらしくてな。悔しくないと言ったら嘘になるが、俺は美濃のこと、応援するよ」
背中越しの声は、とても温かだった。それは、胸の内の痛みを飲み込んで、そっと見つめ続けることができるからこその優しさだった。
「おい、友樹。それよりだ」
「どうした?」
「いや、すまん。ライターを置いてきた。ちょっと、取ってきてくれないか?」
思わず呆れて、今度こそは振り返った。同じように俺に背を向けて、顔だけこちらに向けた賢次が頭を掻いて苦笑いをしていた。
「仕方ないな。待ってろよ」
こちらも笑いながら尻を払って立ち上がり、懐中電灯を点す。賢次の脇を通り過ぎ、優希たちが待つ場所まで戻った。
「お、やだっち。準備はできたの?」
俺の足音に振り返った吉澤が、優希の隣から立ち上がる。
「いや、設置は終わったんだけど賢次のやつがライター忘れたっていうから。取りに来たんだよ」
「なるほど。ケンゾーのやつ、一番大事なもの忘れるなんてドジな奴だなぁ」
「で、ライターはどこだ?」
周りを見渡し、ライターを探す。それは残骸と化した花火セットのすぐ隣に転がっていた。
俺が拾い上げようとすると、まるで割り込むように吉澤の手が伸び、ひょいとライターを引っ手繰る。
「ん?」
「やだっちはここで見てていいよ。私が行くわ」
「え、いや、でも」
「いいからいいから、皆の姉貴に任せなさいって。あんたはユキと花火を楽しみな」
言うが早いか、懐中電灯を手にした吉澤はすたすたと茂みの中へと消えてゆく。ライターを引っ手繰るその手際の良さに、彼女の前世はひょっとしたら猿だったんじゃないだろうかとか考えつつ、ぽつんとその後ろ姿を見送った。
「……なんなんだ、あいつ」
ぽつりと呟く。そして、今し方まで吉澤が座っていた場所、つまりは優希の方へと振り返る。俺が頬を掻くと、彼女は手招きをした。
「ねえ、一緒に座ろ。ここが一番、花火がよく見えるんだって」
「お、おう」
言われ、俺はおずおずとそれまで吉澤の座っていた位置に腰を下ろす。そして優希がそうしているように、晴れ渡った星空を見上げた。
綺麗だった。陳腐だが、それ以外の言葉は浮かんでこなかった。
生まれた時からずっとこの小さな町で暮らしてきた。夜、澄んだ空気に星を見る機会も幾度となくあった。それでも、ここまで綺麗な星空は初めて見たかもしれない。それほどの素晴らしさが、美しさが今日の空にはあった。星の海。海なんてもの、数える程度にしかこの目では見たことがない。見たことがなかったが、そんな表現が、今夜の星空にはしっくりくるのだと迷いなく思えた。
こんな星空を優希と見られることが、これで最後になってしまうんだろうか。そんなことを考えたら、胸が酷く苦しくなった。嫌だった。離れたくなかった。この夏が終わったら、優希は今日のこの空に輝く星よりも、遥か遠くに行ってしまう。そんな気さえして、どうしようもなく辛かった。
「星、本当に綺麗だね」
「ああ、そうだな」
本当にそうだ。小さく呟いて、ただ頷くことしかできなかった。頷いて、それきり、空を見上げるのが怖くて目を伏せた。
けれど、こんなことじゃいけなかった。こんな、萎れてる場合じゃなかった。
「……今日は、どうだった?」
その言葉を発するだけで、酷く勇気が必要だった。そうやって彼女の気持ちの一つ一つを確かめるたびに、彼女が一歩一歩、遠く離れてゆくような気がして。最後の最後、別れの瞬間のための準備をしているだけのような気がしてしまって、声の震えを押さえるので精一杯だった。けれどこの言葉以外、思い浮かばなかった。彼女の感じている幸せを、しっかりと噛み締めたいと強く願う自分がいた。
「楽しかった。本当に、ありがとね」
「そりゃよかった。頑張ったかいがあったな」
胸が沈むように重かった。体は強張り、全身が鈍く痛んだ。
探していた。彼女に告白するための勇気を、必死に探していた。想いを伝えれば、この痛みや苦しみから解放されると思っていた。
「さっき、かおりと一緒に話してたんだけどね」
静かで落ち着いた優希の声。俺は無言で、ただただ彼女の言葉だけに耳を傾けた。
「空って、本当に広いなぁって。いつも、見上げたらそこには一面の青があって。だけど私たちには見れない場所にも、もっともっと空は続いてて。そんな空と同じだけ、地球も広いんでしょう? そんな地球にはたくさんの人がいてさ。月並みな言い方かもしれないけど、そんなたくさんの人たちの中で、こうやって皆に会えたのって、本当にすごいことなんだなって。そんな当然なことをさ――――」
もうすぐ皆と会えなくなる今になって、はじめて思い知ったんだ。
「実は私ね、好きな人がいるの」
少しの間があって、それから不意に、手の平を温もりが包み込んだ。息の詰まるような胸の痛みに襲われて、咄嗟に顔を上げた。
優希と目があった。優希は、俺は、ただひたすらに相手の瞳を見つめた。
「それって、奇跡だと思わない?」
「あっ……、あぁ……っ」
ここだ。頭はそれを望んだ。想いを伝えるなら、今しかない。この機会を逃したら、彼女は遠い星の向こうまで行ってしまう。
「でもね」
けれど、だけれど、心はそれを許さなかった。絶対にできなかった。
「でも、今私の想いを伝えたら、きっとお別れするのがもっともっともっと辛くなるんじゃないかって。そんなの耐えられないんじゃないかって。私わからないの。どうして――――、どうして奇跡はずっと続かないのかな?」
そんな悲しげな表情をされて、告白なんてできるわけがなかった。
彼女も囚われていた。痛みに、苦しみに、ずっと囚われていた。想いを伝えたら苦痛が和らぐんじゃないかなんて、そんなのはただの幻想だった。苦痛を胸に抱えているのは、決して俺一人じゃなかった。
痛みの先には、痛みしかないのだろうか。
苦しみの先には、苦しみしかないのだろうか。
好きです。その言葉を伝えることは、ただ彼女を苦しめるだけなのだろうか。そんなのって、ないだろう。心が悲鳴を上げた。
だけど、できなかった。今の俺には、できなかった。ただ、苦痛を飲むことしかできなかった。彼女に辛い思いをさせるなんてことだけは、絶対にしたくはなかった。
高く響く花火の打ち上がる音。俺たち二人を照らし出した花火は、星降るように咲き乱れた。
星は、ただただ悲しいほど綺麗に降り続けた。
◆
よく晴れていた。
水彩絵の具で描き出したような空の青には、薄くやわらかな雲が浮いている。八月も終わろうとするこの時期の日差しは、その鋭さに僅かばかりの丸みを帯びて。見上げた太陽は、それでもまだまだ眩しく。
今日は、優希が町を出てゆく日だった。午前中から自転車に乗って、一人で意味もなく町中を回って。本当は優希に会って最後の別れを惜しむべきなのに、どうしてか自転車はあいつの元へ向いてくれない。
神社、その境内に続く石段に腰を下ろしてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。脱力感にも似た空虚さを感じる頭に、正確な時間感覚は残っていなかった。
「おーい、やだっち」
声。
気付けば足元をぼーっと見つめていた視線を起こすと、いつの間にか、吉澤が見下ろすようにして俺の前に立っていた。
「吉澤……」
「ちょっと、ぼーっとし過ぎじゃない? いったいどうしたのさ」
「どうしたのって。いや、別に」
「どうもしてない人間が、そんな顔をしやしないね」
言って吉澤は俺の隣に腰掛けた。
特別、何か話しかけてくるというわけでもなく、鼻歌でも歌い始めそうな陽気さで彼女は何もない町の風景を見つめる。寝起きなみに頭が働いていない俺も、脳味噌がやる気を出すまで、黙々と景色を眺めつづけた。
「どうしてここに?」
しばらくして、思考することを再開させた頭はそんな疑問を呈した。少しの間をおいて、吉澤が口を開く。
「ケンゾーと一緒に、ユキの所に行ってきて、その帰りだよ」
「……そっか」
ずしりと、腹の底に重みを感じた。着々と別れの時は近付いてきていて、皆はその瞬間に向かって前に進んでいた。後ろばかり見ているのは、俺だけだった。
「まだ、ユキの所に行ってないんでしょ?」
「…………まあな」
「行ってあげなよ。それとも、行けない理由があるのかい?」
なんと返したら良いかわからなくなって、口を閉ざした。
「何かあるんだったらさ。この吉澤さんに言ってみない?」
そう言って、彼女は小さく笑う。全部見透かされているような気がして、どこか恥ずかしかった。
蝉の鳴き声と、木々の揺れる音が延々と広がっていた。何もない小さな町に、風が静かに吹いていた。
「……あいつが町からいなくなることが、嫌なんだ」
静かに呟いた。
「最後の挨拶くらいしなきゃいけないのはわかってるのに、どうしても怖いんだよ。最後の挨拶をしたら、本当の本当にお別れを覚悟しなくちゃいけなくなるというか」
「うん」
「なんというか、とにかく怖いんだ……」
気付くと視線は、再び足元に向いていた。話す間、吉澤は静かに俺の言葉に耳を傾けていてくれて。そのことはとてもありがたかったが、同時に、酷い焦りを感じさせられた。全てを許容するその態度に、俺自身の心の制御ができなくなってしまいそうで。口に出すたび改めて確認させられる自己の想いに、心が耐えられなくなってしまいそうで、恐ろしかった。
「……それはさ」
彼女も静かに、言葉を紡ぐ。
「悔いが残ってるから、そうなるんじゃないのかな?」
「……………………」
確かに、その通りなのかもしれなかった。自分の想いを優希にしっかりぶつけていれば、その結果がどうであったとしても、ここまで苦しむことはなかったのかもしれなかった。
けれど。
「――――そうは言ってもよ……。あいつが望んでもいないこと、俺には、できないよ」
「望んでない?」
「ああ、そうだよ。優希のやつ、言ってたんだ。好きな人がいるって。けど、その想いを伝えたらこの町を去るのがもっと辛くなるかもしれないって」
「それで?」
「そ、それで? それで、いや、だから――――――」
手の平に温もりを感じた。それは、あの夜からずっと消えてくれない、優希の柔らかな手の感触だった。
どうして俺は、ここまで辛い思いをしているんだろう。
仮に俺の想いが、決して叶いはしない高望みなのだとしたら、ここまで苦しむことも無いんじゃないだろうか。そんなことを、考える。
ひょっとしたら、それは俺の自惚れなのかもしれない。その可能性も、決して無いとは言い切れない。けれど、もしもあのとき触れた優希の手に、特別な意味があるのだとしたら――――。
「二人とも、本当に初心だねぇ。もう、あそこまでやってあげたのに、むずむずするわ」
「や、やっぱりあのときお前がライターを持ってったのは――――」
「だって、やだっちは滅茶苦茶わかりやすいし、ユキからは前から誰が好きなのか聞いてたし」
「そんなに俺って、わかりやすいのか?」
「そりゃぁ、それなりに長い付き合いだからね。相手の気持ちくらい、なんとなくはわかってくるさ。特に、付き合いが長ければ長いほど、ね」
――――付き合いが長ければ、長いほど。
「……まあ、ユキの悩む気持ち、私もわかるけどね」
「…………」
「不便だよね。一度離れ離れになったら、交信の手段は手紙か電話。そりゃぁ、怖いよ。距離と時間の問題は、大きすぎる」
だけどさ、と。
「それでも、ユキは望んでるんじゃないかな」
「望んでるって、何をだよ」
「うーん。何て言えばいいのかわからないけどさ。約束って言うか、繋がりって言うか……」
「物事を人に説明するときはもっと具体性をだな」
「んなことはわかってるって。ちょっと黙ってろ」
皆の姉貴とやらに怒られたので、とりあえず沈黙する。
まあしかし、こんなものは、心の問題だ。心の問題なのだから、具体的な答を出そうとする方が、求める方が、愚かなのだろう。そしてそんな愚かな俺たちだから、答を導き出すのに無駄な苦労をする。
はぁ、と小さな溜め息。首を傾げた彼女は、頬を小さく掻きながら唸る。
「わからないよ? これはちょっと、私だったら、って感じになっちゃうけどさ」
「うん」
「私だったら、また必ず逢いたい。簡単なことさ。何でもいいんだよ。何でもいいから、そのための確かな望みが欲しい、かな」
「望み……」
「ユキと、あんたが必ず再開できると思えるための、強い支えとも言えるかもしれないね」
想いを伝えれば、きっと別れが辛くなる。
距離と時間。
今の俺たちにはあまりに大きすぎる壁が、俺たちの心を軋ませて。
時の流れによる風化。
今この瞬間の想いさえ、摩耗してしまうのか。
そんなことだけは、絶対に嫌で。
約束、繋がり、望み、そして支え。
そんなもの。
「そんなもの、どうすれば――――」
――――結局、どれだけあいつのために頑張れるか。
不意に思い出された言葉。
どれだけ、あいつを想って行動できるか。
その想いの質量が、確かな約束になり、繋がりになり、望みとなり、支えとなりえるんじゃないだろうか。
酷く精神論的な考え。
けれどそれが、今の俺の全てならば。
「ほれほれ。行ってきたまえ、矢田友樹よ」
穏やかに手を振る吉澤。その姿に背を向け、俺は再び自転車を漕ぎ出していた。
ようやく、前に向かって進むことができている。素直にそう感じた。ペダルを踏み込むたび回転を速める車輪。風の速度さえ、今は遅く感じられる。
胸に痛みを感じないと言えば、嘘になった。そんなことはなかった。決してなかった。けれど、痛みの伴わない前進なんて、あり得ないとも思えた。痛みこそが前進の証だった。
想いを伝えるのはあまりにも怖すぎる。これから町を去ろうとする相手に伝えるのだったら、なおさらだ。そんな度胸はなかった。そんな度胸があれば、俺たちはここまで苦しんだりしなかった。
けれど約束することならできるはずだ。それが近い将来なのか、遠い未来なのかはわからない。それでも、いつか必ず再会することを約束し合うことならできるはずだ。想いを伝えたのちの離別は苦痛だとしても、想いを募らせた先の再会は決して悲痛ではないはずだ。
その約束が、想いの繋がりが、きっと今の俺たちにとってはなによりも大切な望みの支えとなる。そう信じて、ただひたすらにペダルを漕いで漕いで漕ぎまくった。
夏の日差しに頭が歪み、酸素を求めた肺が裂けるような痛みを発する。ほとんど意識することなく両足の踏み込み運動に全力を注いでいると、やがて視線の先に美濃家が見えてきた。
まつ毛の上に溜まった汗が、じわりじわりと眼球を刺激する。呼吸さえままならない疲労の中で最後の踏み込み。
そして急ブレーキ。タイヤの溶ける異臭に目と目の中心を痺れさせながら、迷わずインターホンを押していた。
数瞬の沈黙。その空白に、喉の奥からせり上がった緊張と焦燥が口腔内を干上がらせた。吹き出した汗が首筋を伝う。足元の揺らめき落ちる影はいたずらに穏やかさを乱す。
がちゃっ、とドアノブを捻る音。開かれた玄関。そして声。
「――――友樹」
一瞬だけ、大きく見開かれた瞳。そして、彼女はそっと微笑した。
「来てくれないのかと思った」
「いろいろと、あってな」
激しい息切れとともに、軽い吐き気に襲われる。それらを鎮めるのに精一杯で、ろくに言葉を発することもできないでいた。ぜえぜえと肩を上下させ続ける俺に優希は苦笑する。
喉を詰まらせながら、それでも懸命に口を開く。
「支度は? もう、出てくのか?」
「うん。家具とかは引越し屋さんが運んでったよ。あとはもう、私たちが出ていくだけ」
「……そうか」
変に気まずく感じて、曖昧な笑みを浮かべあった。
目の前にいるのは、思い人としての美濃優希ではなく、大切な幼馴染としての美濃優希だった。ここで変に気負う必要はなかった。いつものように、ただくだらないことで笑い合って、そして笑顔でお別れをできれば、それで十分だった。
ハンドルを握り込む。手の平に感じた熱量で、ぐっと息を吸った。
「今、時間は大丈夫か?」
「ん?」
「駄菓子屋だ。駄菓子屋に行こうぜ」
きょとんとした彼女は、けれどすぐに首を縦に振った。
タイヤの転がる音が陽炎に揺れる路上を軽快に滑った。人生初の二人乗りを決め込んだ銀のママチャリは、少し頼りなく揺れながら、ただ真っ直ぐに進み続ける。
「かっ飛ばすからな、掴まってろよ!」
「――――うん!」
坂道に差し掛かる。俺は更なる加速を求めて、ペダルを強く蹴り付けた。
誰も、何も。俺たちの行く手に障害物は無くて。ただただひたすらに、ぐんぐんと突き進む光の溢れるような風景の激流の中で、想い起こされるのは小さい頃から一緒にいた優希との思い出だった。
頭を使うってことを覚え始めた頃から、俺らはいつも互いの隣にいた。
色の萌える春に。
空の凍える夏に。
音の冴える秋に。
陽の湛える冬に。
四季の移ろいを幾度となく繰り返して。俺たちはどれだけの物を得てきたのか。あの日見た景色、その全ての瞬間が鮮明に世界を彩った。
感情の発露。込み上げる兆しに肩が震えた。
背に感じる温もり。吐息とともに想いを雲へ流し、火照った頬に風をぶつける。
体に回された両腕。今この時にあるものを感じて、前へ、前へと。
辿り着いた本田商店。店先に自転車を停め、二人揃って扉をくぐる。
「こんにちは、おばちゃん」
優希の明るい言葉。その声に彼女の顔を静かに見据えたおばちゃんは、深い皺を緩ませ、穏やかに笑った。
「いらっしゃい」
いつでも変わらない町の匂いに、優希は深く息を吸い込む。そうして彼女は、店の中をゆっくりと、まるでその光景を記憶へ刻み付けるように見回した。それが町を発つための最後の支度であるかのように、丹念に、丹念に。
俺は、おばちゃんの座るカウンター横の保冷庫にまで歩み寄って、小さく言った。
「夏は短かったよ」
「ああ、そうだろうね」
にっ、と笑うおばちゃん。俺も小さく笑ってから、あんず味の棒アイスを二本、取り出した。
「おばちゃん、今日は優希がお代を出してくれるから」
「ほう」
「えっ? ちょっと、私そんなこと聞いてないんだけど」
「そう固いことを言うなって」
適当にあしらい、二本のアイスを持って小走りに店の外へ出る。店外にぽつんと置かれた長椅子に腰掛け、待つこと少々。建て付けの悪い引き戸のがたがたと開かれる音がし、どこか膨れっ面な優希が俺の隣に座った。
「いきなりあんなこと言われたら、さすがに困るんですけど」
「わるいわるい。財布持ってなかったから」
「……お財布を持ってこないで、よくここに誘ったね」
口を尖らせてぶつぶつ言う彼女に、アイスの一本を突きだす。深く濃い溜め息をついた彼女は、呆れたような笑みを浮かべつつそれを受け取った。
「友樹、今日はあんず味なんだ」
そう言って彼女は俺が手に持つもう一本のアイスを見つめる。
「まあな。そんな気分の時もある」
「ふぅん」
二人揃って封を破り、アイスを齧る。奥歯に沁みるような冷たさとともに、いつ食べてもなかなか好きになれない、あんずの甘酸っぱさが口の中に広がった。
「昔もさ」
空を見上げる。あの日の空も、今日と同じでよく晴れていた。
「昔も、お前のおごりであんず味のアイス、食ったことあったよな」
「あー。そんなこと、あったかも。懐かしいなぁ」
「ほんと、小さい頃はここでさ。よく駄菓子を食べてたよ」
「確かに。毎日毎日、通いつめたよね」
「ああ、そうだった」
「友樹はさ、よく、持ってきたお小遣い以上の買い物をして。しょっちゅう私が立て替えてた」
「それで俺もしょっちゅう、親に怒られたな。もう少しよく考えて買い物をしろって」
「昔っから、友樹は頭を使わないのが得意だったんだよ」
「お前もお前で、いちいちケチ臭かったよ。取り立てが凄いのなんのって」
「あのね。子供にとって、十円二十円は大金なんですぅ」
言って、彼女は耐えられないというように吹き出す。
「私たち、あの頃からぜんぜん変わってないかも」
噛み締めるように彼女は言った。
「かもな」
風が吹いた。
汗に濡れたシャツがはためく。雲の動きは早く。木々の揺らめきに影は踊り。深い草と土の匂い。陽の光は強かった。
翻った優希の長い黒髪が、微細に宙をくすぐった。はっきりと露わになったその横顔を、しっかりと網膜に焼き付ける。
「あのさ、優希」
「なぁに、友樹」
あんず味のアイスを、彼女に向けてかざして見せる。
「今日はおごってもらっちゃったからな。今度、絶対にお返しするよ」
「え?」
「だから。また今度、一緒にアイスを食べようって言ってんだ」
きょとんとして。だけどすぐに満面の笑みを浮かべて。俺の真似をするみたいにアイスを突き出し、
「絶対だよ」
と。
きっと互いに、この夏一番の笑顔で笑い合って。そうしてアイスを一口齧った。
甘く、少しすっぱい、始まりで約束の味がした。
おしまい
このたびは拙作をここまでお読みいただき、ありがとうございます。
何というかまあ、作者なりに限られた文字数内で青春させたつもりですので、そのあたり楽しんでいただけたら何よりです。
ではでは。