弱者の負い目 1
「――痛っ!、ってうお、鼻血出た!」
車の急ブレーキの音とともに息の詰まるような感覚が衝撃を伴って押し寄せ、前方の座席が顔面にぶつかってきた。いや正確には俺が顔面からぶつかりにいったというほうが正しいか。
黒乃が去ったあと、伝え忘れたことを言うために部屋を訪れた成宮が倒れていた俺を発見したらしく、どうやら気絶させられていたとのことだった。原因は間違いようもなく黒乃だろう。
それから成宮、志水の両名に強引に事情を訊かれ、仕方なくこうなった経緯を話したところすぐさま車に詰め込まれた。
正直、二人には知られずに俺一人で黒乃を止めに行きたかったのだが、バレては仕方ないし、何よりこんな時間である。もうバスなどの公共交通機関はとっくに営業をやめている。しかし、だからといってヴァーリーを使って体を強化したところで短時間で向かうには少し距離がありすぎる。
不本意ではあったが志水達の車を使うのが、なによりも現実的な手だった。
こうしてどうしようもない諦観とともに俺を含めた成宮、志水の三人は黒乃が間違いなく向かったであろう美術館に向かった。
しかし美術館に向かう途中にある橋を走行中、前方に人影が見えたと思った瞬間、僅かな光が瞬いたと同時に乗っていた車が、蛇行運転しだし、今し方急ブレーキをかけ、ガードレールにぶち当たったのだった。
―――と、今までの流れを思い出し、こんな現状に至った理由を考えてみたが、まったくといっていいほど役に立たない。
一体、何が起きたんだ? おそらくこれはただの自損事故ではないとは思うが、それ以外がまったくわからない。
というか、黒乃と出会ってからここ数ヶ月、何かしらのトラブルに巻き込まれ続けているような気がしなくもないのは気のせいか。
今までは入界管理局が陣取っている字源市の中だったので、まあ仕方ないか、と思ってはいたが、どうやらそれは字源市外でも適用されるらしく、ことここに至っては黒乃に某名探偵と同じくトラブルでも呼び込む体質があると思わざるを得ない。
鼻から垂れる血を腕で拭きながら、隣に座って頭を押さえている成宮に声をかける。
「えと、なに? パンクした?」
「撃たれたんですわ!」
「撃たれたのよ!」
俺の問いに成宮、志水が短く叫んで、まるで何かに急かされるように車外に飛び出し、志水が前に手をかざした。
「免罪符よ、罪深き我に迫り来る罰を停廃したまえ。《断罪忘却す、免罪の盾》」
「!」
突如浮かんだ青白い光とともに幾重もの幾何学模様が突如車を全体を覆おうように前面に展開し、飛来した何かを受け止め、地面へと落としていく。志水と成宮の言を信じるなら地面に転がっているのは銃弾だろう。
「……魔法か。相変わらず便利だな」
「こんな時に何を悠長なことを言ってますの! 早く前方の人物を抑えてください!」
「はあ! 無茶言うな! 死ぬわ!」
「心配しないで、私が行く!」
言うか早いか、成宮がいつの間に持っていた拳銃片手に防御魔法が展開された場所から飛び出していく。
向かう先は一瞬の光を放つその場所。よく目を凝らすとうっすらだが、外灯の光でその瞬く光点が見える。人であるのは確かだが、その全身は黒いように思える。全身がそう見えるということはおそらく顔に黒いマスクでも被っているのだろう。その全身黒という出で立ちが、面倒事の発端になったグールを思わせ、この状況に加味され、やや気分が悪くなる。
迫り来る弾丸を防ぐ遮蔽物も何もない橋の上を素早く駆けていく成宮。その動きはヴァーリーを使用し、身体能力をただ上げただけの俺より切れがあり、当然のことながら場慣れしたものを感じた。
僅かな光が点滅するたびに銃弾がガードレールや路面に当たる音が響く。驚くべきことだが、放たれる弾丸を成宮はすべて躱しているのだろう。人間では到底無理なことをやられたせいか、今更ではあるが彼女と常人である俺との違いを改めて認識させられた。
きっと俺には暗く見えているこの橋の上も成宮にはそれなりに目で見ることができるのだろう。夜目が利くなどではなく、そもそも種が異なるエルフなのだから当然とはいえば当然のなのかもしれない。
「朝野さん、わたくしたちも行きますわよ!」
「え? はい?」
「ザルゴ。あとは自分で自分の身は守れますわね?」
「問題ありません、お嬢様。どうかご無事で」
突然会話を振られた車の運転手――大柄な初老の男性が微塵の戸惑いもなく、場違いにも綺麗な角度で恭しく首を垂れた。
「あの、え、え?」
もしかしなくてもこの運転手は志水家の使用人なのだろうが、はたしてこの場に残していいものなのか、と不安に駆られ運転手の方を見る。
先ほどから暗闇のせいでよく顔が見えなかったが、よくよく見直すとその顔は日本人には見られない、彫りの深い精悍かんな顔付きをしていた。ああ、もしかして、
「……あの、志水さん、もしかしてその運転手さんは……ウィザードだったり?」
なんとはなしに浮かんだことを口にすると、さも当然とばかりに志水が呆れた声を漏らした。
「当たり前でしょう。わたくし付きの運転手なんですから。といいますか、たたくしの家に仕える者がただの人間であるはずがありませんわ」
「あ、やっぱりか」
使用人がいることも一般人の俺からすれば驚きなのだが、そのすべてがウィザードとなれば最早驚きを通り越して呆れることしかできない。どうにも正しく住む世界が違う、ということなんだろう。
「ほら、朝野さん行きますわよ」
「え、あの、え、俺も?」
「当然ですわ。この状況から見て、黒野さんが何らかの事件に巻き込まれ――いえ、引き起こしたのかもしれませんが、まあそこはいいですわ。とにかくこのことに関わっているのは明確。ですからここはいち早く彼女に接触し、事の解決に乗り出すのが一番だと思うのですけど?」
「いや、ですけどとか言われても。俺が目の前の危険地帯に飛び込む理由になってないんだが」
俺の問いかけに一瞬、言葉を止めた志水だったが、問いには答えず再び話し始める。
「そこで朝野さんには、黒乃さんと接触して事態の収拾に当たってもらいます」
「なんでだよ!」
意味がわからなかった。
「仕方ありませんわよ。今、成宮さんが戦っている相手はどうやら彼女一人では抑えきれないようですから」
言って志水が成宮と黒ずくめの人物がいる方を見る。
相変わらず、銃弾の音や光が点々と場所を変えて瞬いている。どうやらまだ戦闘は続行されているらしい。
「それなりの手練れなんでしょう。殺害するのも困難でしょうに、さらに生かして捕縛というのはだいぶ無理がありますわ。いえ、おそらく抑えるので精一杯という可能性も……」
成宮の方を見る目には、いつも以上に真剣な色が浮かび上がっていた。俺にはよく力量というのはよく分からないが、志水の目にはきちんと相手が格下か格上かがはっきりとわかるのだろう。
「ですから、突破されないように二人で黒ずくめの人物を抑えていますから、その間に黒野さんを呼んできてください。いくら相手が強いと言っても黒野さんには勝てないでしょうから」
「あ、いやでも、それじゃあ二人とも……」
「心配いりませんわ。二人ならなんとかなりますわよ。伊達に非常勤職員ではありませんし、自分で言うのも気が引けますけど、わたくしたち二人の歳で非常勤職員は希なんですわよ」
どこか得意げに志水が言った。つまりはそれだけ実力が認められている、ということなんだろう。
「だけど……」
しかしだからといってここを離れるのは気が引けた。
「朝野さんそこまでわたくしたちのことを――」
「流れ弾当たったりしたら怖いし」
ああも目の前でマズルフラッシュがはっきりと分かるほど発砲されては、当たらずに橋の向こう側に行くというのは至難ではないか。というか高確率で当たる。
「……」
なぜか志水の顔がやや引きつっていた。
「ええ、ええ! わかっていましたわ! わかっていましたとも! あなたはこういう人でしたわね!」
「ちょ、おい、何怒ってんだよ」
「別に怒ってなどいませんわよ。とにかく早く行ってください」
「いやでも、ほらね?」
「大丈夫ですわ。これをお貸ししますし、流れ弾が当たりませんようにきちんと私も、ええ、きちんと朝野さんに配慮しますから!」
語気を強めて志水が腕にはめられた武装転送用端末を操作し、一本の長槍と白いコートを取り出した。全体的にまったく塗装されていないというか、素材そのまま使用とでも言うべき銀色の無骨な槍と、白いロングコート。
槍は確かグール事件の時に見た覚えがある。白いコートのほうは、言うまでもないだろう。
「あ、それ入界管理局のコートか」
そう、白いコートのほうは入界管理局の局員に配給されるというコートだった。たしか俺も武装転送端末とともにもらった記憶がある。もっとも武装転送用端末をまともに使用したことがないので、未使用なのではあるが。
「おい、それいいのか? 俺に渡したら志水が……」
「予備のうちのひとつですから心配いりませんわ」
俺は一枚しかもらった記憶しかないが、どうやら志水は複数枚持っているようだった。以前、黒乃からもらった黒いコートに比べれば安物らしいが、それでも魔法具だ。一体どれだけの値段か想像もできない。それを複数枚持てるというのは志水の財力のおかげか、はたまた入界管理局では別段珍しくないのか。よくわからなかった。
「あ、ああ。それならいいけど」
手渡されたコートを受け取り、すぐさま着込む。どこか少しと志水の匂いがしたが、それは口に出すと気持ち悪がられそうなので黙っておいた。
「さ、行きますわよ――ゴルザ、あとは頼みました」
「かしこまりました」
「え、いやその」
「焼きますわよ、朝野さん」
銀色の槍が肉眼ではっきりと分かるほどほんのりと赤く色づき、俺の方へと僅かに向けた。
「では行きましょう! すぐに行きましょう! 志水さん!」
すぐさま黒乃がベットの上に置き忘れていったヴァーリーをポケットから取り出し顕現させて背中に背負う。
「ええ、分かりましたわ。では行きますわよ!」
次の瞬間、車を覆っていた幾何学模様が消えたと同時に志水が走り出し、それに急いで俺も続く。
常人を超える速度で一気に橋を駆け抜け、一心不乱に橋の向こう側を目指す。
徐々に迫り来る黒ずくめの人物と成宮。例えるならそれは銃弾飛び交う戦場にも等しい。成宮の使用している弾はおそらく殺傷能力のない捕縛用の物だろうから心配はないが、黒ずくめの人物は間違いなく実弾を使用している。
コートを羽織っているとはいえ、一発でも体に当たれば大怪我。さらに当たり所が悪ければ、即死。
まさに死と隣り合わせ。
たとえ一瞬とはそこを通るのかと思うとどうしようもない不安が押し寄せてきたが、目の前を走る志水を見て、その思考を振り払う。
そうだ。先ほど志水は俺を守ってくれると言ってくれたではないか。それになによりすでに成宮を相手にしている黒ずくめの人物に俺を狙う余裕がそうそうあるわけもないだろうし、防御魔法の付与されたコートだってある。
たとえ僅かにあったとしても、それくらいなら志水が守ってくれる。なら俺がやることはただ走って黒乃を呼んでくるだけでいいのだ。
ヴァーリーの使用により強化された俺の目が、成宮と黒ずくめの人物が戦闘している場所から十メートルぐらい離れた所に差し掛かった時、黒ずくめの人物が俺たちに視線を向けたのがわかった。
ゾクリ、と背筋を冷たい感覚が通り過ぎたと同時に成宮たちの横に差し掛かる。
瞬間、タイミングを合わせたかのように発砲音が聞こえた。
「え?」
刹那自分でも意識せず向けた視線が、俺の顔に向けられている銃口を捉えた
「……マジか」
だが、銃弾が当たる直前、目の前を一陣の熱風が通り過ぎた。
「朝野さん、行きなさい!」
いつの間にか俺の真横に移動していた志水が、槍を構えながら言った。そうか。防いでくれたのか。
「助かった」
短い感謝の言葉を告げ、後ろ手に響く戦闘音を耳に俺は一気にアスファルトの上を駆け抜けた。
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