略奪されし強奪者 4
目の前の男が固まる様を見て、どうやらこれ以上の抵抗はないだろう、とクロノスは半ば安堵の息を吐いた。
ここまでクロノスの異常性を目の当たりにしたのだ。男が戦意を失うのは当然であるとも言えた。
もっともそれを狙って、ナイフによる一撃を躱さずに受けたのである。戦意を失ってもらわなくては困る。まあそのせいで仮面は使い物にならなくなってしまったが、このまま無為に時間が過ぎるのを考えれば安い物である。
とりあえずオーブを取り戻すか、と男に声をかけようとした時、不意に男の手が懐に入れられた。
「!」
先ほどと同じくスタングレネートでも出すのかと一瞬身構えたが、取り出された物を見て、呆れたようにクロノスは体の力を抜いた。
一瞬とはいえ、身構えたことが馬鹿馬鹿しくなる程に取り出された物はありきたりな物だった。
男が手にしたのは先ほど使用していたナイフよりやや小柄な、白銀の刀身をしたナイフだった。刃渡り十センチ弱といったところで、一見すると登山用ナイフのようにも見える。まだ先ほどの軍用のナイフの方がこの場には相応しい物だったためだろうか、取り出されたナイフは陳腐にすら思えた。
はたしてなんのためにこのナイフを取り出したのか。自分にはそういった通常の、ましてやそんなちんけなナイフで傷をつけられないことくらい、つい先ほど体験した男なら直に分かっているはずである。なのにこの後に及んでそのような物で抵抗するとはどういった精神か。
もしや自暴自棄になっておかしくなったか?
そんなことも一瞬脳裏を過ぎったが、それは違うだろう。
目の前の男と出会ってからそれほど時間は経ってはいないが、僅かに交わした言葉、それに仕草からこの男がこんなことで冷静さを欠くような人物であるとは、クロノスには到底思えなかったのである。
だとすれば、何か打開策もとい頼みの綱があるのか。それも手にしたあのナイフで。
「そんなナイフ取り出して、まだ抵抗する気? なに、病室に頻繁にくる見舞い人よろしく果物でも剥いてくれるの?」
訝しみつつも軽口で、しかし若干の注意を含んで男に話しかける。
「……」
沈黙。相変わらずの返答。
こちらか問いかけには一切口を開かぬくせに、自分から問う分には答えろという。魚心あれば水心。好意をもって接さねば相手が好意を持って接してくることはないのだ。だからまずは愛想を持て。
と、最近現国の授業で習ったことわざを思い出しつつ、来もしないであろう返答を待っていると、唐突に言語を介さぬ返答がきた。
「――おっ」
ナイフを逆手に持ち替えると同時に男が、踏み込みクロノス目がけて先ほど同じように突貫してきた。
懲りないなぁ、と内心呆れつつ、これ以上なんの抵抗もなく受け止めては、服がさらに傷付いてしまう。
特にこれといった警戒は持たず、クロノスはナイフがやや皮膚を掠るぐらいの間隔で男が振るったナイフを避ける。
思いの外、男の動きが早かったためだろうか。ナイフの刃先がやや皮膚を掠る具合にクロノスの左腕へと振るわれる。
まあ腕の部分には少ししか服はかかってないし、いいか、と男の振るうナイフが腕に当たって弾かれる様を想像していたクロノスの表情が、刹那微かに苦悶の表情を浮かべる。
次の一撃が放たれる前に後方へ飛び退き、、男と距離をとってナイフが接触した箇所へと目を向けると、確かに肉を切り裂いた跡が見て取れた。
「……まさか、ね」
漏れた呟きは自分でも分かるほどに、驚きに満ちている。
切り裂かれた腕には致死量には決して届かないほどの出血。
ナイフで斬られたのだから血が出るのは当然ではあるが、それは常人に通用する共通ルールであり、その中に彼女は含まれない。
災厄の使徒と呼ばれるクロノスの身体強度は常人を、いや魔獣と呼ばれる異世界マギアクルスの生物の悉く凌駕している。その人体構造がどうなっているのかはともかくとして通常の金属、合金等でできた刃などでは傷はつかないのだ。
だが、その前提を目の前の男は覆した。いや正確にはその手に持つナイフが。
クロードの持つ刀に使われている『オリハルコン』の存在が頭を過ぎるが、それはあり得ないとクロノスは頭を振る。
あれは現存するといっても、失われたといって等しい金属だ。その製造方法も彼女が知る限り一人しか心当たりはない。それどころかその彼女が知ってる人物しか知り得ないとすら思っている。だが、その人物が製造方法を他者に流すこともなければ、それを譲渡するとも思えない。
なら、あのナイフはそれ以外の金属で造られたモノということになる。それも特殊な仕様が施してあるわけでもなく、ただの金属の刃のみでこの強度。
それなりに世界を巡ってきたクロノスにとっても、まったく心当たりがない。
「――ッ」
予想だにしなかった手傷負ったことにどこか焦りを感じながらも乱れた思考を冷ましていく。
傷は浅く、黒マスクの男相手に遅れをとることはないだろう。しかし、自分手傷を負わせたあの金属は通常の金属ではない。
その金属を有する目の前の男は一体、何者なのだ。
新たに疑問が生まれたことで、さらに男の素性についてより一層考えを巡らせる。
と、そんなクロノスの目を被うように突然強烈な光りと音がクロノスを襲った。
同時に空を切る勢いで男がクロノスの迂回する形で通り過ぎていく。心なしか、先ほど対峙した時よりも脚力が上がっているように感じられた。
その速度たるや先ほどまでの比ではない。どうやら男はことここに至り、逃げの一手に全力を注ぐことにしたらしい。
「させるか!」
まだ完全に視力が回復していない状態で、クロノスが右腕を振り払うように一閃させる。
自らの体に存在する、血管などとは違う、常識外の経路に流した力を右腕の手の平を通して放出する。
黄金の塊が辺りを照らしながら高速で男の元――よりやや逸れた地面に直撃する。
直撃と同時に、黄金の光が辺りを染め上げ、コンマ数秒遅れて激しい爆音が鳴り響いた。
走っていた男が何事かと、後ろを振り返り、また走り始める。
回復したクロノスの目が、男の足がやや鈍るのを確認する。
――しまった、とクロノスは内心自らに毒づいた。
今ので多少なりとも男の足は鈍ったが、それでもごく短時間だけのものである。今のでクロノスに対する警戒心を強くしたのは言うまでもなく、さらに捕縛するのが面倒になった。
「ふぅ……」
吐き出された息は自分に対する呆れか、それとも自らの乱れた思考を落ち着かせるためものか。
息を吐き出すと同時に顔を上げ、視界の端に消えかかっている男を見据える。
ちょこまかと逃げるのであれば、逃げられないような前提を作ってしまえば捕まえたも同然である。
ゆっくりと右手を頭上に移動し、指を鳴らす。
途端、クロノスの瑠璃色の瞳が夜を照らす黄金へと変貌をする。
まるで池に投げられた石のように。
指の音を基点にし、波紋のようなものが空気を伝い闇夜を駆け巡る。
風景は何も変わらないはずなのに、何かが乖離した感覚。
それを肌身で感じながら、クロノスは男の逃げたほうへと一気に跳躍する。地面は大きく抉り、弾きだされたクロノス体は前方に現れる樹木など最初からなかったかのように、破壊し、突き進んでいく。
黄金に切り替わり、尾を引くその双眸は、まるで流星にでもなったかのよう。
美術館近くのエリアとは違い、手の施しをあまり受けていないであろう雑木林に入った所で、徐々に男の背が見えてきた。
目の前を行っていた男はまるで壁にでも遮られているかのように、何もない目の前の空間を蹴りつけ止まっている。
端から見たら何かのコントの練習としか見られない滑稽な光景であるが、それも当事者であるクロノスから見たら当然のことである。
「もう追いかけっこはおしまい?」
少し前まで抱いていた焦りはどこ吹く風か。林の中を問答用無用とばかりに駆けていた足を緩慢な歩調へと変え、男へと向かって歩いていく。
「……まさかな。その黄金の瞳、そして先ほどの黄金の光――いや第三の魔法。災厄の使徒か」
苦虫でも噛みつぶしたような声で男がクロノスの方へ振り返る。
その呟きにクロノスが思わず息を呑む。
「こっちこそまさかだよ。驚いた。あなた、災厄の使徒のこと知ってたんだ。いや、それを盗んだことを考えれば知っていてもおかしくないか」
そもそも知っていなければ、これを盗む理由がなかった。宝石品の類いとしてもそこまで上等な美しさを持っているわけでもなし、それこそ発掘品として飾られなければそこそこの値打ちで終わるような代物だ。金銭的価値は金のインゴットなどの方が確実に上だろう。
「この目の前の壁が、貴様の能力か」
言って、男が何もない虚空を手の甲で小突くと、何もないはずの空間が水面のように波紋を広げ、まるで弾力でも持っているかのように男の手を弾いた。
「壁を作ることが能力みたいな言いぐさは気に入らないけど、大方あたりかな」
肯定ともとれるようなことを言ったところで、言わないほうが良かったかもしれない、と思ったが、まあいいかと改める。
本当のことを言うと、ここまで自分の能力に対する正誤をはっきりさせる必要はなかったが、実際知られたからといって対策をとられることもない。なら、言おうが言うまいが、同じことには違いない。
と、突然男が思い出したかのように、そうか、と呟く。
「貴様が字源に現れたという使徒か……チッ、まさかこんな所で、こんな形で遭遇するとは……」
男の呟きには確かな後悔の念と自責の念がありありと窺えた。
「へぇ。そんなことまで知ってるんだ。これはちょっとゆっくり訊かなきゃね――お茶の場でも設けて」
語尾に険をつけて、そういうと男がナイフを構え、はっきりとわかる戦闘態勢に入った。
「やめたほうがいいよ。あなたじゃ私に勝てないだろうし」
「……」
再び無言になる黒マスクの男。
当たり前といえば当たり前の行動だった。
ここで大人しく投降したところでオーブはクロノスに回収され、下手をしたら自らが持っている情報の提供まで許してしまうことになる。しかし逆に、たとえクロノスに挑んで殺されるようなことになろうとも、失うのは男の命とオーブだけ。死んでしまったところでそれ以上のもの――情報を与えるようなことにはわらない。
だからここは戦うべきと男は判断したのだろう。
その考えをくだらない、と一蹴し、男の構えに合わせて、クロノスも応じるように構える。
その手に握るものはないも関わらず、剣を構えるかのような不思議な体勢。
だが、これは徒手空拳で応じるというわけではなく。ただ彼女にはいつでもどこでも出せる武器があったというだけの話。
刹那とも呼べるごく僅かな間。
記憶という情報渦巻く大河の中で、通常の流れとは異なる場所にあるイメージを織りなして形と為す。
「ッ!」
確かな形としてそれが顕現すると同時に、男の息を呑む声が聞こえた。
現れたのは、刀身、柄、すべてを黄金で作ったかのような巨大な両刃の大剣だった。
「……第三を物質化させたもの――顕現武装か」
災厄の使徒がのみが使うことのできるエネルギーを凝縮、物質化させたもの、それが今クロノスの手にしている大剣だった。
それを片手で、まるで重さがないかのような手つきで振り回し、
「じゃあ、第二ラウンド始めようか」
ニタリ、とクロノスが男に向けて笑みを向けた。それがきっかけとばかりに黒マスクの男が地を蹴った。
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