三次元鬼ごっこ 5
目の前の木目が人の顔に見えた。
上を見れば天井にある模様が苦悶に身を捩る人にも見える。
密閉された空間はシュールレアリズムもかくや、というもの囲まれてるせいか静寂に包まれている。
いや、より正確に言うならシュールレアリズムもかくやというものに見えたものと表現すべきだろう。今は見えるすべてがネガティブなものに見えてしまう。
と、その時今日最大の絶頂が訪れた。
「う、うおおおおおぉぉぉぉぉ!………お、おぅ…………」
腸をごっそり持っていかれるような虚脱感。
なのに今は持っていかれたあとの虚無感こそ好ましい。
絶頂はゆっくりとその熱を冷ましていき、思考が通常通り回り始める。
「……ふぅ。死ぬかと思った」
額に浮かんだ汗を拭いながら溜息をつく。
思考が極限状態だったせいもあるのか、色々なものに見えた天井や目の前のドアの木目も改めてみるとやはり普通の天井とドアだ。なんら変わった点は見られない。
変わったといえば再び悪臭が漂いだしたことくらいか。
「……はあ。調子に乗るんじゃなかった」
はて。なぜ俺がこうも疲弊しているかというと、それは遡ること二時間前。
志水、成宮の部屋を後にした俺と黒乃は腹も減ったということもあり、部屋で合流し、食事に向かった。
食事は取り放題のバイキング形式。
黒乃の弁によると、なんでもこのホテルの最たるところはおいしいバイキングらしく、それなりに有名とのことで並べられた料理はどれも俺では再現できない味で美味だった。 そのせいか自分でも意外なほど食事は進み、一通り食い終えて、さあ部屋に戻ろうか、と黒乃に声をかけたのがいけなかった。
ばくばく、という効果音が聞こえてきそうなほど料理を頬張っていた黒乃が俺に向かってこう言ってきたのだ。
『もうお腹いっぱいなの? 勿体ないね、ちゃんと値段分食べなきゃ損なのに』
その一言に今まで忘れていたホテル代による負債を思い出した俺は「ホテル代の一割でも取り戻さないと」という今考えるとアホみたいな結論に至り、そこそこに膨れた腹を再稼働し、再び食事に戻ったのだ。
まあそれでも腹八分目ぐらいまではいっていたので、デザート別腹という格言に倣い食べたのは主にひんやりと冷たいデザート類だったのだが。
かくして食べられるだけ食べようと、デザートを胃袋に放り込む作業を始めること三十分。
異変は突然起きた。
腹部を襲う強烈な痛み。例えるならそれは腹の中を何かが這い回ってるような内部からの来るものだった。
……要は腹を壊したのだ。
それから急いで手近なトイレに向かおうとトイレを捜すがいまいち場所が分からず、一階下のフロアにある自室のトイレに駆け込み今に至る、と簡単に説明するとこんな感じだ。
「しかしまあ……」
どっと深い溜息が出る。
我ながら所帯じみてるというか、貧乏臭いというか。実に馬鹿な行いをしたものである。 至極真っ当な常識人である俺がまさかこんな失態をしてしまうとは。今考えるとなぜあんなことをしてしまったのか疑問だ。
というか、黒乃のヤツが変なことを言うから悪い。あの一言がなかったら普通に部屋に戻ってベットに横になりゆっくりしていただろうに。ほんと、余計なことを言ってくれたものである。
あれか? あいつは自分の近くにいる人間から常識を忘却させる特殊能力でも持っているのだろうか。その、自分の一定の距離から世界ごと常識を剥離して、まるで黒乃本人のように染め上げるみたいな。
改めて考えるとそれなんか固有結界みたいでかっこいいな、と思い始めたところで考えていることが阿呆臭いなと気付いた。
「ていうか、よくよく考えると女子と二人きりで泊まんだよな」
話題を変えてみようと何となく呟いた一言ではたと自分が今置かれている現状に思い至る。
「――――そうだった。今日はこの部屋にあいつと二人で寝泊まりするんだった……」
別に、同じ家に二人だけで住んでいるのだから今さらそれが個室に変わったというだけで多少恥じらいはあるものの、まあ今さら気にする必要はない。
個室でネックなところであるシャワーは交代で浴びて、黒乃が使ってる間は変なものを見ないように俺は外でプラプラしてればいいし、トイレだって鍵さえかければかければ問題ない。
そう。問題のあるところなどないのだから特別気にするようなことはないのだ。
はあ、と深い溜息が漏れる。
しかし、だ。せっかくの女の子との初めてのお泊まりが黒乃とではどこか残念だ。例えるなら幼い頃思い描いていた純白の夢に現実という黒い絵の具をぶっかけられるような。端的にいうと汚されたいうべき感覚。
女の子とお泊まりというイベントは俺からしても奇跡的なものだと思うが、一緒に泊まる相方が問題なのだ。
天下一武道会の時点で「私の戦闘力五十三万です」とで言いそうな、俺の知る中で人類最強、というか人類に分類していいものか思案するほどの少女。おまけに常識をガン無視するという悪癖に加え、他人を巻き込むことを良しとするような性格。
根は悪いやつじゃないことを差し引いても圧倒的にマイナスに傾くこのプロフィール、実に残念極まりない。
もっとこうとお互い恥じらいつつも気になって、時折顔を見合わせて顔を赤くして、布団に入りつつもドキドキして眠れないような。そんなどこか初々しい感じの体験をしたかったのだ。もっとも黒乃といてドキドキするにはするんだが、それはベクトルの違うドキドキなわけで断じてそんなものはいらない。
とにかく一緒に泊まる相手が普通の子だった良かったのだ。
「あいつと大金払ってまで寝泊まりするくらいなら家で十分だっての」
ほんとに常識が欠けている。あいつも曲がりなりに女なんだからこう恥じらいを持てっての。俺がもし、エッチなトラブルばかり招く某主人公だったらシャワーないし、トイレ覗かれたりしたかもしれないんだぞ。
と、不意にドアの開く音がした。どうやら黒乃が帰ってきたようだ。あいつが入ってきたということは部屋の鍵をどうやら閉め忘れてたらしい。急いでいたから仕方ないが、防犯的にマズいことをしたな。
「あれ、クロードいないし。部屋の鍵閉め忘れたのかな? 危ないなぁ」
スリッパに履き替えたのだろう。乾いた音が独り言とともに聞こえてくる。心なしか音が大きくなっているような気がするがまあ気のせいだろう。
なお一層黒乃の声が良く聞こえてくる。
「ああ、食べ過ぎちゃった、食べ過ぎちゃった」
瞬間、ガチャリと捻られるドアノブ。残念。俺が入っているので鍵掛かってまーす。
しかし、俺の心の声に反してゆっくりとドアが開かれていく。
……え、まさか。
あれ、なんで? と思った刹那に思い起こされる記憶。
……そういえば鍵を閉めた記憶ないな。
完全に開かれ、外界との繋がりを取り戻した先にはえらく満足気味に顔を浮かべている少女が一人。
「中々においしか――――」
「よ、よう……バイキングはお気に召したか?」
中にズボンを下ろし、下半身丸出し無防備な少年が一人。
「ん? うん、おしかったけ……くさっ! ていうか――――ぎゃあああああああ!」
「い、いやんエッチ!」
せめてもの抵抗と発した恥じらいの言葉はしかし、少女の悲鳴と、蹴り上げた少女の足から放たれたスリッパの一撃によってかき消された。
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