日常の中の非日常 2
「起立、気をつけ、礼」
『ありがとうございました』
学級委員の号令によりクラス一同が全員教卓に向かって頭を下げる。
「はい。ではみなさん気をつけて帰ってくださいね。あ、部活動する人は怪我のないようにね」
担任であるカナちゃんが笑顔でそう言い去り、
「帰りどっか行く?」
「今日、メニューキツくなきゃいいけどな~」
なんて会話しながら帰るやつは帰るやつ、部活するやつは部活するやつ、とさすがに一週間経てばそれなりにクラスに慣れるのか、おのおの会話を弾ませながら教室を出て行く。
時間はいつの間にか放課後。
この頃時間が流れるのが早いような気がするが、それは単に中学の時と違い高校の自由度が増したからか。はたまた気苦労が増え、精神的余裕がないからか。
去りゆくクラスメイトに視線を向けつつ、何とはなしにそんなことを思ってみる。
「………さて、と」
机に横に置いていたバックに手を伸ばす。
未だにクラスで特に仲の良いやつが一人くらいしかいない俺にとって他のやつが仲良くしている様を見るのはあまり良いものではない。だからさっさと教室を出ることにする。ちなみに竹中は今日図書委員の仕事だそうで今は図書室に行っている。
ゆえに俺は今こうやって一人で特別教室棟三階へ向かって廊下を歩いているわけだ。
教室のある一般教室棟四階から三階まで下り、三階にある特別教室棟と一般教室棟を繋ぐ渡り廊下を歩く。
歩きながら渡り廊下の窓に視線を向けると野球部の喧騒とともに練習風景などが覗える。下に視線を移せばバドミントン部だろうか。かけ声を校舎に響かせながら走り込みをしている。過度な代謝活動は老化する原因って説もあるのに運動部のみなさまは今日もなんともご苦労なもんだ。
まあ他人の価値観に口を出すつもりもないし、口を出さないからといって俺に直接的、間接的に影響があるわけでもない。
こんなことを思うだけ無駄か、と思考を切り替えつつ、渡り廊下を渡りきり、そのまままっすぐ三階端へと向かう。
行き止まりとなった廊下の近くにある部屋の前のプレートには写真部。
ここはつい一週間前に入部した写真部の部室。
とは言っても今は顧問も不在で何をしていいのかも分からないので一週間前からただの部屋と化しているわけなんだが。
ドアノブに手を掛けると鍵は開いていた。良かったあ、開いてて。もし開いてなかったら一階まで行って鍵を借りてこなくてはいけないハメになっていた。
少しばかり安堵しながらドアを開けると、やはりヤツがいた。
「あ、来た来た。遅いって、もう。なんで一緒のクラスなのにこうも来る時間が違うの?」
椅子に背もたれかかせつつ、クロノスが顔だけ逆さにして俺を見る。
「こっちだって色々ストレス溜まって大変なんだよ。少しくらい教室でゆっくりしててもいいだろ」
部室の中央には折りたたみ机を二つ連結させたテーブルがあり、そこに座ってクロノスは何かしている。
まあ何かしていると言ってもしていることは大体分かってはいるのだが。
「どうだ? 少しは覚えたか」
「うーん……機械と機会の使い分けがいまいちわからないだけど」
「はあ? んなのもわかんねえのかよ」
呆れつつ、俺もクロノスの正面の席に座る。
「クロードはさぁ、生まれた時からこの国に住んでるから使い分けが分かるんだろうけど、これ中々難しいよ。ていうかもう全部ひらがなだけでいいんじゃない?」
「バカ野郎、そんなことしたら世の中の本とかものすごく分厚くなるだろ。それにテレビの字幕だって永遠と続いて読んでるこっちの目が痛くなる」
「はあ。なんともめんどくさいね、この日本って国は」
「お前にだけはめんどくさいって言われたくない」
俺にとってはお前が一番メンドくさいよ。
「で、今日はどこまで覚えた?」
「今日はこのページまで」
「へぇ。以外と覚えるの早いな」
このようにここ連日クロノスは放課後になると俺を置いてすぐに部室に行って漢字の練習をしている。本人いわく「家で勉強しているだけでは足りない」とのこと。言語が分からないことにそれなりに危機感を抱いているんだろう。
で、俺もそれに付き合わされて放課後はここ写真部の部室で過ごしているわけだ。
もちろん問うまでもなく写真部としての活動をしないのならば早々に家に帰りたいのだが、早く日本語をマスターしてもらわないと、俺としても困るので仕方なく学校に残って教えているのだ。
「で、何だっけ? 機会と機械の使い分けだっけ?」
「うん、それそれ。同じ読みなのに意味が違ってどういう場面で使えばいいのか分からないんだよね」
「ったく仕方ねえな」
座っていたパイプ椅子から立ち上がり、クロノスに近づく。
「いいか。こっちの『機会』は人と会ったりする………時期的な意味で。もうひとつの『機械』はマシーンという意味だ」
「……何で英語にしたのか知らないけどなるほどね。微妙にだけどわかった」
「微妙ってなんだよ、微妙って。実に分かりやすい説明だっただろ」
「まあ説明の分かりやすさ云々は別として、こういうのは覚え方なんだよね、結局」
「説明に関してはノーコメントですか………ま、別にいいけど。で、覚え方ってどういう意味だ?」
「前にも説明したでしょ。私はこの世界の言語、つまりは日本語が魔法薬のおかげで分かる。でもそれは音声言語は翻訳されてるけど文字言語―――書いてある文字は読めて、文字自体の知識は得られない。つまり自分では書けないってこと。だから文字を書くためにはまず、クロードたちが文字を覚えたのと同じ手順を踏まないと覚えられないってわけ」
「えーと、つまり俺たちが保育園や小学生低学年の頃から覚えてきたひらがなや漢字やらをお前は一から覚えないといけないわけか?」
「まあそうなるね」
うわー、超メンドーだな――――ってちょっと待てよ。
「でも、お前ここ一週間でひらがなとカタカナマスターしただろ。それに漢字だって覚えてきてるし……覚えるの早くないか?」
「そりゃあ私はクロードたちと同じでただ書くってやり方で一から覚えてるけど、私は魔法薬のおかげで文字が読めるからね。普通のやり方って言っても読める分、覚える速度が違うんだよ。それに私、元々の頭が良いしね」
「なぜ最後に自慢を混ぜたのかは無視するとして。なるほど。そりゃ覚える速度が違うわけだ」
俺が小さい頃から必死こいて覚えてきたひらがなやら漢字をここまで簡単に覚えてのけるとは。魔法というやつはあまりに反則じみてる。これでも日本語は世界の言語の中で一番難しいって評判なんだぞ。
「というかそれなら別に俺に訊く必要なかっただろ」
「まあそうなんだけど、こう手ばっか動かしてても苦痛でしかないし、息抜きも必要でしょ。だから休憩がてらクロードがどこまでわかりやすい説明ができるか試してみただけ」
「休憩に使うな! そんなことなら俺もう帰るぞ!」
「あ、待った待った。別にクロードに何も訊かないってわけじゃないってば。ほら、漢字の書き順とかわからない時とかあるし」
「書き順って………なんとも教え甲斐のない」
まあ教え甲斐があっても別にうれしいわけじゃないからいいんだけど。
どうせやることも早々ありそうでもないので元の席に戻り、バックからラノベを出して読書に入る。
そうして読書に入ること十数分。物語の主人公が何気なく言った一言でヒロインの一人とフラグを建設してしまった頃、
「いやあ、遅くなって悪いね。図書委員の仕事が長引いちゃって」
ニコニコ顔で部室のドアを開けて竹中が入って来た。
「別に気にしねえよ。あのじいさんがいなくなって活動らしき活動なんて何にもしてないんだし。それに俺たち活動以前にカメラについての知識すら教えてもらってないだろ」
「確かに何も教えてもらってないから何もしようがないね」
言って未だにノートに漢字をとにかく書きまくっているクロノスに視線を向けつつ、俺の隣に座る。
「家庭教師ご苦労さん。クロード先生」
「そんな大層なもんじゃねえよ。別にこれと言って特に教えているわけでもないしな」
「へえ。じゃあ、黒乃さんは自力で漢字とか覚えてるの?」
「そのとおり! 私、結構記憶力いいんだから」
得意気にクロノスが胸を張る。おい、一応記憶喪失ってことになってるんだから下手な事言うな。
「黒乃さんってすごいんだね」
「まあね」
竹中に見ていてウザいほどのドヤ顔を向けるクロノス。
何を得意そうな顔をしてんだか。俺だって魔法薬を使えば英語ぐらい簡単に覚えられるっての。
「あ、それこの前僕が勧めたやつじゃないか」
と、クロノスから視線を外し、竹中が俺の方を見ると同時に興味ありげな
顔を向けてきた。
「ああ、お前があおもしろいとか言ってたんでこの前、駅前のスーパーに行った時についでに買ってきたんだ」
「いま何巻?」
見れば―――――と言いかけて止める。そうだカバーしてたから分からないのか。俺は誰かさんみたいにノーカバーでラノベを平然と人前で読めないからな。
「まだ一巻目だ」
「なんだ、ぜんぜん読んでないじゃないね」
「仕方ないだろ。まだ読んでいたやつもあったし、何よりこの頃忙しかった」
それと同時にストレスが溜まっていたのか、この頃妙に眠くて家に帰ってもすぐに飯食って寝ていたからな。もっとも誰かさんに叩き起こされて無理矢理ゲームなんかをやらされていたんだが。
「どうだい、なかなかおもしろいだろ?」
「まだ最後まで読んじゃいないが、確かに悪くはないな]
「どこまで読んだ?」
「結構最後の方まで」
「ってことはもう琴音ちゃんが―――」
「おい、それ以上言うな。今ちょうどそのあたりだから」
「いいじゃないか。多少のネタバレくらい」
「俺はたとえ多少でもネタバレしたら楽しめなくなる人間なんだよ」
「そう言われると逆にネタバレしたくなる人間なんだよ、僕は」
「じゃあ、別にネタバレしてもかまわないって言えばいいのか?」
「そう言うなら喜んでネタバレしようか」
「対処法がねえな! てかどのみちネタバレするのかよ!」
「嘘だよ。別に言ったりしないよ。僕もネタバレされるの好きじゃないからね」
「なら言うなよ」
こいつは時々人をからかう癖があるんだよな。まあ、あると言っても稀だが、からかわれるのは好きじゃない。逆にからかおうなんて思ったりするが、どうにも俺にはこいつをからかうことができない。付き合いはそれなりに長いつもりだが、どうにも弱みというか隙というか、そういったものを見つけられないのは俺の目が節穴、もしくは風穴だからか。
「クロード。どうかしたかい?」
なんとはなし竹中に視線を向け、つまらないことを考えていたら竹中の微笑み顔と目が合った。
「あ、いや、別に」
「そうかい? ならいいいんだけど」
それから竹中は「あ、そうだ」と何か思いだしたような顔をして、
「ところでクロード。今期のアニメには一通り目は通したかい?」
「ああ、一応録画してたからな。一通りは全部見たぞ。ま、とは言っても一、二個は切り捨てたけどな」
「駄目だなあ、クロード。そこは全部見ないと」
「我慢してまでおもしろくないもの見なくてもいいだろ」
「そうだとしてもまだ今期に入って早いので一、二話くらいしか放送されてないんだよ。もしかしたらこれから面白くなるのもあるかもしれないじゃないか。切り捨てるのは早すぎるよ」
確かに序盤は全然面白くなく、これもう見ない、と切り捨てたやつが実はおもしろくなって以外に人気を得たりすることもあるが、だからといって序盤が面白くないやつがこれから面白くなるという確証もない。もしかしたら
「いずれ面白くなる」と思い見ていたやつが実際は面白くないまま終わることだってあるのだ。
「そうかもしれないけど、あれだ。早期解決みたいな。あ、いや、違うな……えーと、そうだ! 早期取捨選択みたいな」
「なんとも取ってつけたようなこと言うね」
「意味合いとしては早い時期に取捨選択しようみたいな意味だ」
「まんまだね」
「と、とにかくだ。俺は自分の直感を信じてるんだよ」
……まあ、掲示板とかの評価も参考にはするけど。
それから二人、今期のアニメについて語っているといつの間に数十分が過ぎた。
「いや、それはないな。大体あのキャラは―――――――」
ドンッ。
「うおっ!」
いきなり机を叩かれ、竹中共々音のした方を見るとクロノスがプルプルと方を振るわせながら恨めしそうこちらを睨んでいた。
「おい、いきなり何すんだよ。びっくりするじゃねえか」
「びっくりするじゃねえかじゃない! うるさい、さっきから。必死に漢字を覚えようとしている人の前で二人でイチャイチャイチャイチャ仲良く楽しそうにお話してさ。カップルか、二人は!」
「ちげーよ! 気持ち悪いこと言うな! あとイチャイチャしてないから!」
「どうだか。まさか、こっちで流行ってるBLってやつじゃ………」
「だから気持ち悪い妄想すんな! 俺はそっちに毛ほどの興味も持っちゃいねえよ」
どうやったら俺たちがそんな風に見えるんだよ。お前の眼球は腐ってるんじゃないですか? 眼科行け、眼科。
「ごめんね、黒乃さん。少し気遣いが足りなかったよ」
と、謝らなくてもいいのに竹中が申し訳なさそう言う。
「うん。素直でよろしい。まったくクロードもこれぐらい素直だったらいいのに」
「悪かったな、素直じゃなくて。あと竹中、こいつに頭下げることなんてないぞ」
「いやいや、僕たちが黒乃さんの邪魔をしたのは確かだし、ここはちゃんと謝罪しないと駄目だよ、クロード」
「いーんだよ、謝らなくて。大体こいつが漢字覚えなきゃいけないハメになったのは自分のせいなんだし」
別に学校に来なきゃ覚える必要もなかっただろうに。自分から面倒を増やすなんてアホなやつだ。もっとも面倒が増えたのは俺も同じなんだが。
と、そこで竹中が、
「クロード、その言い方は酷くないかい。黒乃さんだって好きで記憶喪失になったわけじゃないんだ。もう少し黒乃さんの気持ちを考えようよ」
「あ、ああ」
……そうだった。クロノスは記憶喪失という設定だった。
とすると、だ。今の俺の発言は竹中からすると『記憶喪失の人間に対し、忘れるから悪い』と非常に理不尽なことを俺が言っている、ということになる。さすがにそれは道徳的に不味いな。俺はそこまで人間を捨ててない。仕方ない、かなり癇に触るが表面上だけはクロノスに謝っておくか。
「わ、悪かった、黒乃。お前のこと考えずに酷いこと言って」
俺が素直に謝ると最初は驚いた顔を見せていたクロノスだったが、徐々に状況が読めてきたのか、その顔が少しニヤけてきた。
「はあ、酷い。とても酷い一言だったなー。私だって好きで記憶喪失になったわけじゃないのに。しくしく……」
するとクロノスは両手で目を隠しつつ、下手な泣き真似を始めてきた。
イラッ。
「ああ、私ってなんなんだろう……名前しか思い出せないよ……」
どこの悲劇のヒロインを気取ってるんですか、お前は。
「おい、いい加減にしろ! さすがにイラッとくるぞ。その三文芝居」
「やめなよ、クロード。黒乃さんは記憶喪失になったことを悲しんでいるんだよ。それなのにその言い方は酷いよ」
なにこの俺が悪いみたいな空気。というか竹中、こいつのは記憶喪失というより常識喪失だからそのへん間違えるな。
「もしかしたら明日にはまた記憶がなくなってるかも……はあ、私ってどうなるんだろう………」
「…………」
あ、めんどくせ。
さすがに相手をするのが面倒になってきたので近くに置いていたラノベに手を伸ばし、読書に入ることにする。
「大丈夫だよ。人はそう続けて記憶喪失になったりはしないよ。だから心配はいらないよ」
「もしかしたらベートベンみたいな髪の人に記憶を消されたのかなあ………」
ねえよ! 絶対ねえよ! 誰がお前にギアスかけるんだよ! てかなんでお前そんなにこっちの世界のこと知ってるんだよ!
と、ツッコミたい気持ちを堪えつつも口を出すと面倒そうなのでクロノスに完全に騙されている竹中が少し不憫ではあったが俺はラノベに視線を落とし、この茶番が終わるのは待つことにしたのだった。
アドバイスや感想、評価などいただけたら助かりますのでよろしくお願いします。