第6話「欠損」
母の残響データの分析には、二時間かかった。
柊はその間、サーバールームの隅で待っていた。玲が端末を操作する音だけが響いている。
考えていた。母のことを。
母——水無瀬雪乃は、優しい人だった。小学校の教師をしていて、子どもたちに慕われていた。柊にとっては、世界で一番大切な人だった。
父が亡くなった後、母子二人で生きてきた。柊が三歳の時のことだ。記憶はほとんどない。
母は、父のことをあまり話さなかった。「優しい人だった」「あなたによく似ていた」——それくらいだ。
柊は、それ以上を聞かなかった。聞くと、母が悲しむと思ったから。
「柊」
玲の声で、柊は我に返った。
「終わった?」
「ええ。見て」
柊は端末の前に立った。母の残響データが表示されている。
そして——
「欠損がある」
玲が言った。
画面には、赤い警告が点滅していた。
『深層記憶——欠損検出』
「さっきの三体と同じ位置?」
「違う」
玲は画面を操作し、データを並べて表示した。
「松田さんたちの欠損は、ここ。『共有体験』に関わる領域」
「共有体験?」
「残響庭園での共同生活とか、他の残響との交流とか。残響になってから形成された記憶」
「なるほど」
「でも、お母さんの欠損は——」
玲は別の領域を指差した。
「ここ。『個人的記憶』の深層部分。生前の、非常にプライベートな記憶」
柊の胸が締め付けられた。
「それは——」
「意図的に消去された可能性が高い」
玲は真剣な目で柊を見た。
「残響を作成する時、本人が特定の記憶を削除できる。お母さんは——何かを隠したかったのかもしれない」
沈黙が流れた。
母が——何かを隠していた。
柊は、その事実を受け入れられなかった。
「何の記憶だ」
「それは、わからない。消去された部分は、復元できない——はずだけど」
玲は言葉を切った。
「はず?」
「完全な復元は無理。でも、断片なら——残ってることがある」
玲は画面を操作した。
「欠損の周辺部分を分析すると、関連する記憶の『影』が見えることがある。試してみる?」
柊は迷った。
母が隠した記憶を、暴くことになる。それは——許されることなのか。
だが——
母の残響は「私はここにいない」と言った。
その言葉の意味を、知りたかった。
「やってくれ」
◇
分析プログラムが走り始めた。
欠損の周辺データから、関連する記憶の断片を抽出する。時間のかかる作業だった。
「少し時間がかかる。休憩する?」
「いや、ここで待つ」
柊はサーバールームの床に座り込んだ。
玲も隣に座った。
「柊、大丈夫?」
「わからない」
柊は天井を見上げた。
「母さんが何を隠してたか——怖いんだ」
「怖い?」
「もし、俺が知らない方がいいことだったら。母さんが、俺に知られたくなかったことだったら」
玲は黙っていた。
「でも——知らないままでいることも、怖い」
柊は目を閉じた。
「母さんの残響は、『私はここにいない』と言った。それが——ずっと引っかかってる」
「いつ、その言葉を聞いたの?」
「二ヶ月前。ログに残ってた。でも、母さんの残響は覚えてなかった」
玲は頷いた。
「他の残響と同じパターンね。発言の記憶がない」
「それが、欠損と関係してる?」
「多分。残響は、自分の中に『欠けてる部分』があることを感じ取ってる。でも、何が欠けてるかはわからない」
玲は考え込んだ。
「『私はここにいない』という言葉は——自己認識の揺らぎを表してるんだと思う」
「揺らぎ?」
「残響は『私は〇〇である』という自己定義を持ってる。でも、欠損があると、その定義が不完全になる」
玲は柊を見た。
「『私はここにいない』は、『私は完全な私ではない』という意味かもしれない」
柊は黙った。
母の残響は——自分が「完全ではない」ことを感じ取っている。
それは——どれほど辛いことだろう。
◇
一時間後、分析プログラムが完了した。
玲が端末を操作し、結果を表示した。
「いくつか、断片が見つかった」
画面に、文字列が表示された。記憶の断片——キーワードと、関連する感情のデータ。
『颯太』
『事故』
『遺書』
『秘密』
『柊には言えない』
柊の心臓が止まりそうになった。
「颯太——父さんの名前だ」
「お父さん?」
「ああ。水無瀬颯太。俺が三歳の時に、事故で亡くなった」
玲は画面を見つめた。
「でも、ここには『遺書』とある。事故なら、遺書は——」
柊の頭が真っ白になった。
遺書。
事故で亡くなった人が、なぜ遺書を残すのか。
それは——
「柊」
玲の声が、遠くから聞こえた。
「大丈夫?」
柊は——答えられなかった。
父は——事故死ではなかったのか。
母は——何を隠していたのか。
「もっと詳しく調べられる?」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
「試してみる。でも——」
玲は柊の顔を見た。
「本当に、知りたい?」
柊は——しばらく黙っていた。
知りたくない。知るのが怖い。
だが——
母の残響は「私はここにいない」と言った。
その言葉の意味を、柊は知らなければならなかった。
「調べてくれ」




