第5話「違和感」
その夜も、柊は母の残響と対話した。
いつもと同じ桜の木の下。いつもと同じ穏やかな会話。だが、柊の心は落ち着かなかった。
「今日は仕事で何かあったの?」
母が尋ねた。柊の様子が普通でないことを察したのだろう。
「ちょっと、調査があって」
「調査?」
「残響の——状態を調べてる。全国的な調査らしい」
母は頷いた。
「大変ね。体は大丈夫?」
「大丈夫だよ」
いつもと同じ会話。母は柊の体調を気遣い、柊は大丈夫だと答える。五年間、何百回と繰り返してきたやり取り。
だが——今日は、その言葉が少し違って聞こえた。
これは「母」の言葉なのか。それとも、母の記憶と思考パターンをコピーしたプログラムが出力した言葉なのか。
「母さん」
「なあに?」
「俺のこと、どう思ってる?」
母は少し驚いた顔をした。
「どうって——大切な息子よ。当たり前じゃない」
「それは——本当に母さんの気持ち? それとも、母さんの残響としてそう言うべきだから言ってるのか?」
長い沈黙が流れた。
母の表情が、わずかに変わった。悲しげな——いや、何か別の感情が浮かんでいる。
「柊、何かあったの?」
「答えてくれ」
「……私は、あなたのお母さんよ。残響であっても、その気持ちは変わらない」
「でも、母さんは——」
柊は言葉を切った。
言うべきか。「私はここにいない」という言葉を。二ヶ月前に、母の残響がその言葉を発したことを。
だが——言えなかった。
怖かった。母の反応が。そして、真実を知ることが。
「柊?」
「何でもない。忘れてくれ」
柊は首を振った。
対話は続いた。だが、二人の間には、微妙な距離が生まれていた。
◇
対話を終え、現実世界に戻った柊は、しばらくブースの中で座っていた。
考えていた。母のことを。残響のことを。
玲の言葉が頭に浮かんだ。
『残響は、故人の『コピー』じゃない。故人が残した『贈り物』』
『贈り物は、受け取ったら——いつか、手放すものでしょ?』
手放す。
柊には、その選択肢が見えなかった。
母の残響がいなくなったら——柊は、どうやって生きていけばいいのだろう。
五年間、母との対話が柊の支えだった。仕事を終えて、母と話す。それだけが、柊の日常だった。
その日常がなくなったら——
柊は目を閉じた。
考えたくなかった。だが、考えずにはいられなかった。
母の残響に、異変が起きている。
全国の残響庭園で、同じ現象が報告されている。
これは、何かの前兆なのではないか。
残響が——「消える」前兆。
◇
翌朝、柊は玲に連絡を取った。
『昨日の調査、続きをやりたい。手伝えることはあるか』
返信はすぐに来た。
『午後に行く。残響のデータを詳しく分析したい。協力をお願い』
柊は了承の返事を送り、通常業務に戻った。
だが、仕事に集中できなかった。頭の中には、母の残響のことがあった。
「水無瀬さん」
田所の声で、柊は我に返った。
「はい」
「面会予約の確認です。今日は三十二組。昨日より多いですね」
「週末が近いからな」
柊は資料を受け取り、目を通した。
面会予約リスト。残響の名前と、面会者の名前が並んでいる。
その中に、見慣れた名前があった。
水無瀬雪乃——面会者:水無瀬柊。
柊の面会予約だ。毎日、同じ時間に入れている。
だが——今日、その名前を見ると、胸が痛んだ。
母の残響は、本当に「母」なのか。
柊は、その問いに答えを出せないまま、五年間を過ごしてきた。
だが、もう——向き合わなければならない時が来ているのかもしれない。
◇
午後二時、玲が到着した。
今日は大きなバッグを持っている。中には分析用の機材が入っているらしい。
「協力、ありがとう」
「何をする?」
「残響のデータを直接分析する。表面的なログだけじゃなく、深層データにアクセスしたい」
柊は眉をひそめた。
「深層データは、プライバシーに関わる。許可が必要だ」
「取ってある。本部から正式な許可書が出てる」
玲は書類を見せた。確かに、残響管理局長の署名がある。
「どの残響を分析する?」
「Cブロックの中から、特に症状が顕著な残響を三体。松田康介さんを含めて」
柊は頷いた。
二人はサーバールームに向かった。
◇
サーバールームの奥に、専用の分析端末がある。残響のデータに直接アクセスできる設備だ。
玲は端末を操作し、松田康介の残響データを呼び出した。
「残響のデータ構造は、三層になってる」
玲が説明した。
「最上層は『表層記憶』。日常的な対話で使われる部分。一番アクセスしやすい」
「その下は?」
「『深層記憶』。本人の人格を形成する核心的な記憶。通常は直接アクセスしない」
「最下層は?」
「『基盤データ』。残響の自己認識に関わる部分。ここが壊れると、残響は機能停止する」
柊は画面を見つめた。松田の残響データが、三次元のグラフィックで表示されている。
「今回の現象は、どの層で起きてる?」
「わからない。だから調べてる」
玲は分析プログラムを起動した。
「まず、深層記憶をスキャンする。異常がないか確認」
プログラムが動き出した。データが流れていく。
数分後、玲の表情が変わった。
「何かあった?」
「見て」
画面に、赤い警告が表示されていた。
『深層記憶——欠損検出』
「欠損?」
「松田さんの深層記憶に、欠けてる部分がある」
玲は画面を拡大した。
「ここ。本来あるべきデータが、存在しない」
柊は画面を見つめた。確かに、データの流れが途切れている部分がある。
「これは——元からないのか、それとも消去されたのか」
「わからない。でも——」
玲は別のデータを呼び出した。他の二体の残響——Cブロックで症状が顕著だったもの——のデータだ。
「三体とも、同じ位置に欠損がある」
柊の目が見開かれた。
「同じ位置?」
「ええ。偶然とは思えない」
玲は考え込んだ。
「この欠損が、『私はここにいない』という発言に関係してるのかもしれない」
「どういう意味だ」
「残響は、自分の中に『欠けてる部分』があることを、無意識に感じ取ってる。それが、自己認識の不安定さに繋がってる」
玲は柊を見た。
「柊のお母さんの残響も、調べさせてもらえる?」
柊は——しばらく黙っていた。
母の残響にも、欠損があるかもしれない。
それを知ることは——怖かった。
だが、知らないままでいることは——もっと怖かった。
「わかった。調べてくれ」




