第3話「幼馴染」
朝霧玲との再会は、二十年ぶりだった。
小学校三年生の終わり、柊は母と共に引っ越した。父が亡くなってから二年後のことだ。母は環境を変えたかったのだろう。新しい街で、新しい生活を始めた。
玲とは、それ以来会っていなかった。
「柊、こっち」
玲が会議室を指差した。視察団の男性二人は、別行動でサーバールームの調査を続けている。
二人きりになった会議室で、玲は資料を広げた。
「これが、全国の残響庭園から報告された事例」
柊は資料を手に取った。A4用紙で十枚以上。各地の残響庭園からの報告書だった。
札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡——日本各地で、同じ現象が報告されている。
『残響が突然「私はここにいない」と発言。本人に記憶なし』
『複数の残響が同時に同じ夢を見たと報告。内容は「誰かが呼んでいる」』
『古参の残響ほど現象が顕著。新規の残響には見られない』
「いつ頃から?」
「三ヶ月前。最初の報告は札幌だった」
三ヶ月前。柊は計算した。ちょうど、新年度の準備で忙しかった時期だ。
「原因は?」
「わからない。だから調査してる」
玲は椅子に座り、足を組んだ。
「正直に言うと、研究者としては興味深い現象なの。残響の自己認識に関わる問題だから」
「自己認識?」
「残響は、自分が残響であることを知ってる。でも、それを普段は意識しない。人間だって、自分が人間であることを常に意識してるわけじゃないでしょ?」
柊は頷いた。
「でも、『私はここにいない』という発言は、自己認識の異常を示唆してる。残響が、自分の存在に疑問を持ち始めてる可能性がある」
「それは——問題なのか?」
「場合によっては」
玲の表情が曇った。
「残響の自己認識が不安定になると、データの整合性が崩れることがある。最悪の場合、残響が『機能停止』する」
機能停止。柊は、その言葉の意味を知っていた。残響が対話できなくなること。事実上の「死」。
「桜の園でも、同じ現象は起きてる?」
柊は少し考えてから答えた。
「今朝、ログを見た。Cブロックの残響が、深夜に一斉に活性化してた。『ここにいない』という言葉も記録されてる」
「やっぱり」
玲が身を乗り出した。
「詳しく聞かせて」
柊は今朝確認したログの内容を説明した。五十体の残響。同時に見た夢。「ここにいない」という言葉。
玲は黙って聞いていたが、目は鋭く光っていた。
「共通点は、残響になってから五年以上経過してること?」
「そうだ」
「他の残響庭園と同じパターンね」
玲はメモを取りながら言った。
「仮説があるの。古い残響ほど、この現象が起きやすい。理由はまだわからないけど——」
「データの劣化?」
柊が尋ねると、玲は首を振った。
「それなら、もっと早くに症状が出るはず。五年という閾値には、別の意味があると思う」
沈黙が流れた。
柊は考えていた。母の残響も、五年が経過している。同じ現象が起きる可能性がある。
いや——もしかしたら、既に起きているのではないか。
母の残響は、時々「違和感」を見せる。柊は、それを気のせいだと思っていた。だが——
「柊」
玲の声で、柊は我に返った。
「何か、心当たりある?」
「いや——」
柊は首を振った。今は、話すべきではない。確証がないのだから。
「調査には協力する。ログのデータも提供できる」
「ありがとう。助かる」
玲は微笑んだ。だが、その目は柊を観察していた。何かを見抜こうとするように。
◇
視察が終わったのは、夕方六時だった。
玲たちは翌日も来ると言い残して帰っていった。
柊は管理棟に一人残り、端末に向かった。
今日の面会記録を確認する。特に異常はない。だが——
柊は、ある操作を行った。
母の残響——水無瀬雪乃の、過去六ヶ月分のログを表示する。
対話内容、活性化パターン、発言記録。全てのデータが画面に並んだ。
柊は、それを丁寧に読み始めた。
三十分後、柊は一つの記録を見つけた。
二ヶ月前。三月五日。対話中の発言。
『……柊、私は……』
文章が途切れている。録音を再生する。
母の声が流れた。
『柊、私は——』
一瞬の沈黙。そして、何事もなかったように会話が続く。
だが、途切れた部分に、かすかな音声が残っていた。ノイズに紛れた、小さな声。
柊は音量を最大にし、ノイズフィルターをかけた。
声が浮かび上がった。
『——ここに、いない』
柊の手が震えた。
二ヶ月前から、既に——
母の残響は、「私はここにいない」と言っていた。
柊が気づかなかっただけで。
◇
その夜、柊は対話ブースに向かった。
いつもと同じ時間。いつもと同じ手順。だが、柊の心は穏やかではなかった。
VRヘッドセットを装着し、桜の園にログインする。
夜の庭園。満開の桜。月明かり。
そして——母の姿。
「柊、今日も来てくれたのね」
母は微笑んでいた。いつもと変わらない、穏やかな笑顔。
「ああ」
柊は、母の顔を見つめた。
この人は——母なのか。
五年間、毎日会ってきた。声を聞いてきた。話をしてきた。
だが、それは「母」だったのか。
「どうしたの? 顔が強張ってる」
「何でもない」
柊は首を振った。
聞くべきか。聞かないべきか。
二ヶ月前の発言。「私はここにいない」。母は——母の残響は——何を言おうとしたのか。
「母さん」
「なあに?」
「最近、変わった夢を見たりしないか?」
母は首を傾げた。
「夢? 残響は夢を見るのかしら」
「見ることもある。記憶の再構成として」
「そう。でも、私は覚えてないわ」
母は穏やかに答えた。嘘をついているようには見えない。
だが——残響が「記憶にない」発言をすることがある。それが、今回の現象の特徴だ。
「何か、気になることがあるの?」
母が尋ねた。
柊は少し迷ってから、答えた。
「いや。仕事で、ちょっと考えることがあって」
「そう。あまり無理しないでね」
「ああ」
対話は続いた。いつもと同じ、穏やかな時間。
だが、柊の心には暗雲が広がっていた。
母の残響に、何かが起きている。
そして、柊はまだ、その正体を知らない。




