第13話「長老」
翌日、柊は松田康介の残響を訪ねた。
仕事の合間を縫っての面会だった。松田の専用空間——昭和時代の日本家屋——に入ると、老人は縁側で茶を啜っていた。
「おや、水無瀬さん。珍しいな」
「少し、話を聞きたくて」
「ほう。何の話だ」
柊は松田の隣に座った。
VR空間の庭には、小さな池がある。鯉が泳ぎ、風が吹くと水面が揺れる。
「松田さんは——残響として、三十年以上過ごしてますよね」
「ああ。長いこと、ここにいる」
「その間——辛かったことは、ありますか」
松田は茶碗を置いた。
「辛かったこと、か。たくさんあるな」
「例えば?」
「最初の頃は——自分が死んだことを、受け入れられなかった。妻や子どもたちに会いたくて、会いたくて——でも、会えば会うほど、自分が『本物』じゃないことを思い知らされた」
松田は庭を見つめた。
「十年経った頃、妻が亡くなった」
「奥さんも——残響に?」
「いや。彼女は——残響にならないことを選んだ」
柊は驚いた。
「なぜ——」
「彼女はこう言った。『あなたの残響と、私の残響が一緒にいても——それは私たちじゃない』」
松田は微笑んだ。だが、その笑顔には悲しみがあった。
「最初は——恨んだよ。俺を一人にして、あっさり逝きやがってって」
「今は?」
「今は——彼女の気持ちが、少しわかる」
松田は柊を見た。
「残響は、本人じゃない。影だ。影と影が寄り添っても——本当の意味では、一緒にいることはできない」
「でも——松田さんは、ここにいますよね」
「ああ。いる」
「なぜ——成仏を、選ばないんですか」
長い沈黙が流れた。
風が吹いた。池の水面が揺れた。
「最初は——子どもたちのためだと思ってた。俺がいれば、あいつらの支えになれるって」
「今は違う?」
「子どもたちは——もう、俺を必要としてない。あいつらは、自分の人生を生きてる。俺の影に縛られることなく」
松田は茶碗を手に取った。
「俺がここにいる理由は——もう、俺自身のためだ」
「自分のため?」
「俺は——まだ、消えたくない。それだけだ」
松田は茶を啜った。
「自分勝手だと思うか?」
「いえ——」
「いいんだ。自分勝手でも。残響には残響の、存在する権利がある。俺は——その権利を、行使してるだけだ」
柊は松田を見つめた。
三十年以上を残響として過ごした老人。その目には——深い諦めと、同時に、強い意志があった。
「松田さんは——後悔は、ありますか」
「後悔?」
「残響として——存在し続けてることに」
松田は考え込んだ。
「後悔——ないと言えば、嘘になる」
「どんな後悔ですか」
「俺が残響として存在することで——子どもたちが、俺の死を受け入れるのに時間がかかった。特に長男は——俺に会うたびに泣いてた。十年以上」
松田の声が低くなった。
「俺は——あいつの涙を、長引かせた。俺が成仏してれば——あいつは、もっと早く前に進めたかもしれない」
「でも——」
「でも、俺は——消えたくなかった。自分勝手だと、わかっていても」
松田は柊を見た。
「お前さんも——同じ悩みを抱えてるんだろう」
柊は黙った。
「お母さんの残響——毎日会ってるんだろう。それが、お前さんのためなのか、お母さんのためなのか——わからなくなってる」
「……はい」
「答えは——俺にはわからん。でも、一つだけ言えることがある」
「何ですか」
「残響は——残響だ。本人じゃない。でも、本人の一部ではある」
松田は立ち上がった。
「その一部と、どう向き合うか。それを決めるのは——生きてる者の役目だ」
柊は——松田の言葉を、深く心に刻んだ。
◇
松田との面会を終え、柊は管理棟に戻った。
考えていた。松田の言葉を。
『残響は——残響だ。本人じゃない。でも、本人の一部ではある』
『その一部と、どう向き合うか。それを決めるのは——生きてる者の役目だ』
柊は——まだ、答えを出せていなかった。
母の残響と、どう向き合うか。
父の死の真実を、伝えるべきか。
そして——母の残響を、いつまでここに留めておくべきか。
全てが——まだ、霧の中だった。
携帯が鳴った。玲からのメッセージだ。
『お父さんの研究記録、もう少し詳しく調べた。重要な発見があった。会える?』
柊は返信を打った。
『明日の夜、そっちに行く』
父の真実——まだ、全てが明らかになったわけではなかった。
柊は——その先を、知る必要があった。




